黄昏騎士 1
城塞都市エデッサ
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「ときがながれてゆくよ」
「ときがながれてゆくよ」

少年はガラス玉の目を、まばたきもせずにそういった。
彼は人形だった。
薄い金色がかった髪を風に揺らせながら。

「ときがながれてゆくよ」
「ときがながれてゆくよ」
「うるさいピクトル」

少し苛立ちをふくんだような、男のこえが
さえぎった。
人形は黙り、風が吹いた。
銀色のひとすじ。ふわりとなびき。

この城塞都市エデッサで。



ザースの唯一の悩み。
それは、友人である靴屋のせがれのその嫁が、どうしても姑と折り合わぬことだった。

靴屋はこのエデッサの町の大通り、活気に満ちた人々の行き交う町の中心にある。
素朴で少し腹の出たせがれは、去年店を任されたばかり。
ごうつくだった親父に比べ人当たりが良く、仕事も丁寧とあって、
町の人々もすぐにこの新しい靴屋の主人を受け入れた。
儲けも上々、そしてつい先月には待望の「美しく若い嫁」もやってきた。
幸福よ永遠なれと、家族友人たちに祈られて。

弓張り月はどこへ向けて?

襲撃はその晩行われた。
国王軍の騎士隊七百五十が、鎧兜に完全武装し大通りをゆく。
つるりとしたヘルムのてっぺんの、真っ赤な房飾りを揺らせながら。

ざっざっざっざっ

人々は固く門戸を閉め、恐ろしげな行進をやりすごす。

ざっざっざっざ

号令一下、任務は迅速。

わああ。
助けてくれ
わああ、あ・・・

ピタリ、と風が止む。
街路はようやく静まりかえり、お月さまもにっこりと顔を出す。
人々は寝静まる。
夢は朝まで?

さあ!

靴屋はあとかたもなく破壊された。
一家は親戚縁者に至るまですべて捕らえられ、処刑。
なんたる憂き目!

今日の成果靴屋の台帳一冊。

*

翌日、一人生き残った靴屋の嫁。
国王に謁見。しずしずと。
赤い絨毯をふみしめて。
若く美しい未亡人。
ちこうよれ、と王様上機嫌。

涙に頬を濡らし、彼女は頭を下げる。
国王は彼女に報奨を。
せいいっぱいの悲しみに胸おどらせて。
それを受け取る未亡人。

かちり。

二人は杯を交わす。

こうして
国王のつけは消えた。
金糸の編み込み。真珠をちらした見事な靴を家来の大臣に磨かせて。


幾晩かの後
靴屋の嫁は舞踏会に現れた。
豪奢なドレスに身を包み、ひっつめだった茶色の髪を、美しく美しく結われて。

城塞部市エデッサの都市貴族、富裕市民たちがいっせいに振り返るなかを。

楽団の調べはゆったりと三拍子。
テーブルには色とりどりの果物。湯気をたてるは丸焼きの肉。
子ウシの?

貧民街で餓死するのは一日二百五十人ほどだ。

はき慣れぬかかとの高い靴で、彼女はそれでも優雅に肩を滑らししゃなりと歩く。
絹のドレスをひきずって。
にこやかに会釈する。
楽曲が再び始まると
靴屋の嫁は貴婦人となる。

「ときがながれてゆくよ」
「ときがながれてゆくよ」

人形の目が一度目にくるめくときに。
ぴゅうと風
ザースは一人だ。



さて。
二人が出会ったのは、何度目の舞踏会だったか。
軽く触れた肩が、初めての。

あ……失礼いたしました

と恥じらいのこもった声の響きに男はおもわず振り向いて。
頭を下げた女の、その伏せられた睫毛を見つめながら。
女は若く美しかったが、男がおやと思ったのは、
彼女の控えめな化粧とそのぎこちない会釈のためだった。
どこかに翳がある。女には。それが?
この華やかな、けたたましい舞踏会の空気には似合わぬように。

失礼ですが、と男はひざまずき貴婦人への礼をした。そして手をのばす。
彼女をダンスに誘ったのだ。
女は
女は頬を染めた。

手を差し出した、目の前の貴公子がゆっくりと顔を上げる。
銀色の髪
滝のようにきらきらと、背中に流れおち。
はっとする女の前で、男は立ち上がり、かすかに微笑んだそして。

彫刻のように完壁な美貌。
黒い胴着にほっそりとした黒タイツ。
腰に差した細身の剣の柄には真紅の宝石が光り。
見とれたように凍りつく女に。向かい、

私はただの騎士ですが、と言った。

優雅な仕種で手のひらをかざして。

あなたのような貴婦人につりあわぬこの身分。今宵一夜限りならと、お手をとっていただけましょうか

女は

ゆらり、と銀のひとすじ。肩にかかる。

ためらいながら
男の手に手をかさねる。
まだ少し、あかぎれの残るその手を。

男はやさしくうなずきかけた。
手に手を取り合って旅立とう。

さっと
くるくると
回り、回る。貴族たち。
曲はワルツの三拍子だが。

手を伸ばし、離し、また合わせる。二人が。一曲踊りおえる。そうして

たがいの瞳を見交わしたときから、

二人は恋におちた。



何度目かの逢瀬の後、二人ははじめて唇をかさねることになる。

くるめく星星。人けのない屋敷の裏手。
城塞の壁と壁、塔と塔に囲まれた、
わずかな夜空の下で。

女はひどくためらいがちだった。
ほとんどおびえていたように。
かぼそいそのおとがいを、ゆっくりと上げるまで、男はじっと我慢した。

やわらかな感触。
じっと動かぬ時間。

唇を。
合わせるときより離すときにも時間は進む。

下唇
かるくつきだす
なごり惜しげに。

先に目を開けたのは?

私は今まで千人の女性を見てきましたが、
あなたのサンゴ色の唇は、そのどなたよりも美しい

男はこころの中でそう言った。ふりをした。
女は男の背に手を回した。
銀色の髪が指にからまって。

なんて綺麗な銀。青みがかって、月のように白く、光っていまして。

と女は

二人は見つめ合い、その吐息をそばに感じあう。

風は?
雲はゆっくりと。城壁は黒く高く。

何度目かの抱擁。口づけ、愛のささやき。
月が満ちてゆく。

人形の歌。少年は空を見上げ

「ときがながれてゆくよ」
「ときがながれてゆくよ」

「……」

「本気なのかいザース」
「本気なのかいザース」

「……」



それは出会ってから幾晩を過ごした日の黄昏なのだろう。

いつものように、タの六点鐘、カイ・アーシスの柱の前に、女が現れた。

現れた。ザースは

ザースはじっと女を。見た。

ゆっくりと歩いてくる。女。
その顔にはなんともいえぬような、悲しい色があった。

いまにも溢れそうに。そばでも。
ザースは尋ねなかった。

しばらくじっと寄り添い、薄暗くなったころしずかに抱き合ったからだ。
いつものように
カイ・アーシスの円柱に。

カイ・アーシスの円柱は全部で八本。
そのどれもによりかかった。

今日が八本目。

遠く、晩鐘、閉門の合図が風のなか。
街灯のらんぷを消灯職員が消しにくるまで。
二人はなにもいわず
互いの肉体のぬくもりを与え合い、自然と顔をちかづけ。しかも
くちづけは、
行われなかった。

城壁は高く、黄昏は見えない。
闇は隠すもの
隠すもの。女は

そう
突然顔を覆って泣いた。
ザースは黙ってそれを見守った。
激しい鳴咽は
しだいにかすかなすすり泣きへと

月は、雲に隠れた。
ザースはなにもいわない。

夕闇がおりたころ
女はようやく顔を上げた。
涙に濡れた瞳は、可隣で、
闇のなかではまだ少女のようですらあった。

「夫を殺したのです」

「……」

「夫を殺したのです」

女は繰り返した。

二度目は半音だけ高い。

あなたが?と少し間を置いて男が尋ねた。
笑っていた。信じられる?

首を振る。女は。

「いいえ。でも私が殺したのです」

そういってまたすすり泣いた。
男は、銀色の髪を軽くかきあげると、
やさしく…怖いほどに、やさしく……女の肩を抱いた。

女は泣き崩れた。



唇をはなすと、女はまだうっとりとした表情で彼に、しがみついた。
頬に涙のあと。
恥ずかしげに伏せられたまぶた。
濡れたまつげはそれでも美しく。

彼は女の髪を撫でつける。
女の白いうなじは細くはかなげで、かすかに震えてもいた。
女の左手に光る。小さな指輪を。
彼は見下ろす。

あたたかい女の体。
吐息が彼の
黒い胴着の
仕立てられた、繊細な細工の
銀のボタンの
その上から二つ目にかかるのを。

女は幼女のように、男の胸で眠っていた。

明るい日のもとで会うことはない。
陽光への
いらだち。
銀は黒の上にこそ。

城塞都市エデッサの貧民の暮らしは、
乞食と浮浪人と強盗団
朝と同時に見えぬ虫たち。
石の裏をのぞくべからず。

目の前にないもの
存在しないもの
存在するもの
目の前にあるもの。

王様は屈託に

家来は贅沢に

貴族は優雅に

商人は裕福に

職人は地道に

見習いは活発に

ときは
きざまれる。

この城塞都市のエデッサで


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