今日も昨日も、一昨日も、そして今日も

女が現れた。
よりかかる柱はない。
もう。

階段の上の
男は

石畳の、長い、曲がりくねった。
いちばん上に立ち。
のぼってくる女、その俯瞰をながめる。

「ザース、なぜ泣くの」

女はそう聞いたように。
首をかしげ、かすかな含み笑い。

あと十二段。

コツリ
と可愛らしい足音。

女はまだ若く美しく

空はまだ青く、されども小さく。

コツリ

なすすべのない未来にふるえる。大勢の子供たちに。

白い、四角く胸の開いた、胴着はサテン。
綺麗に輝く
陽光のもと。
晩鐘は
まだ?

コツリ

あと八段なのに。
動かないのは男。

ここからは、
町の下層部を眺望できる。
しかも、遠く、城壁の物見の塔に登る、今日の担当見張り騎士の二人は
夕食は?

黄昏が見えた。

コツリ

ひからびた大地の果てに。
周辺農村部の人々は、そろそろ収穫の時期なのだから。
明日か、明後日には。

壊れかけた
東第三門を修繕する、
職人。石工。建築技師。
すべての都市民が城壁修復税を払っているのに。
守るのは?

コツリ

そうさ。
だいたいこの都市は、
関税が高すぎるんだ、と
果物売りが愚痴をこぼすのを。

あと五段

それにつけても
王様!
領主様!
都市参事会会長様!
衛兵騎士隊長様!
都市民代表者様!
お願いです
悪人税を取ってください。
そうすれば

コツリ

そうすれば
永久にこの都市は裕福に続いてゆきます。
だって。

コツリ

どうしても
やらねばならぬ

変わっていくもの
消えていくもの
城壁の胸間は
壊さずに

顔を出す
見回りにしても
いずれは

朝の光と詠唱

たゆまぬ努力で

スラリ

抜かれた細身の剣は

あと三段

黄昏の
青と紫と紅に
光る

「どうして泣くのザース」

城塞の
向こうの東
サンダーランドからふく風は。

男は一段。降りた。
ではあと?

コツリ

あとは?
白いスカートふわりと

男は
女をその腕に。
涙は。愛に?
だから二人は激しくいだきあい。その階段の上から一段下と二段下で。
女の左手が、男の右手に重なり、指輪のない指と、指が交差する。

恋人たちは
それぞれの時間のなかで

コツリ……

女の足が
一段下へ降りても。

幸せな二人
誓いの囁き
本当の……とは?

くちづけはおごそかに交わされる。
サンゴ色の、男が愛した唇。
やわらかく、余韻なく、
けれども。

コツリ

女は
目を開かなかった。
男は唇をはなし、愛しそうに。そのまぶたへくちづけ。
女の足がもう一段降り。

にこりと微笑んだ。
迷いない顔で。

女の恋はかなった。



探していたんです。
本当のことを。

でもなぜ?

あなたの夢を見ました。
そしてあなたが現れました。

結婚に
不満があったわけでもありません。
あの人は素敵な人とは違いましたが、それでも靴底の修繕には抜群な才能を発揮しました。
出会ったときですら、私の靴を直してくれたんです。
革が破れていたのに。

姑とうまくいかなかったのは本当です。
でも、それが理由じゃありません。

私はただ。
そうなんです。
あなたの夢を。みたから。
だから、私は。

どんな夢?

銀色です。
少し青みがかった、きらきらと光る
銀色の。

本当に?

ええ。
この銀色でした。
だって、黒の中だったから。
分かるんです。
この銀色でした。黒のなかだし。

それが、理由?

しかたありません。
王様とは
王様の金糸の靴なんかは、
違うんです。
いいえ、たしかに主人の作でしたが。
それにあれは
あれは傑作で。三日の間寝ないで作り上げた最高の靴だそうです。
騎士たちにはまかせず、自分で届けに行ったとか。
そう主人が。

つけで?

つけです。
でも、そのせいじゃありません。
王様は、もともと……
いいえ。
そのせいじゃありません。
夢の方が。
私は……
あの銀色が。

私の、馬の?

葦毛、っていうんでしたか。
白くもなく、灰色のような、でも日が当たると銀色に輝くような、そんな馬に。
乗っていました。
あなたです。


ひらひらと、
おちてゆく。
手を広げて


だって、私
だって私、
知っているんです。
この町は
この城塞の町は
もうすぐなくなると。
夫のせいでも、王様の靴のせいでも
ないんです。
あの銀色の夢
あなたの銀色が、そう私に
だから
私は


ひらひらと
おちてゆく。


そうでしょう?
この町は
本当の。
私の
愛…って。
恋…って。

男は知っていた。
男の答えは明快で論理的

女も知っていた。
そして
知った

階段を
白い胴着の、赤い胸元を
ひらひらと、
ひらひらと

おちてゆく。

女は
微笑んで

あと
何段?

あと、

何段?

小さくなり、
ひらひらと

女は
ひらひらと

男は
細身の剣をぱちりと鞘に戻し
すぐに自分も身を乗り出しかけ
ゆく。すんでに何とか堪えた、
とでもいうように。
唇を噛みしめ
すぐさま
ひらひらと、
ひらひらと
白い
女と
紅を
ふりきり、
黄昏に背を向けた。



「……」

「ときがながれてゆくよ」

ピクトルの言葉は。
人形はかたかたと揺れる
葦毛の馬の背で



城塞都市エデッサが、六万八千の軍団に包囲されたのはそれから四日の後だった。

強力な騎兵隊
恐るべき攻城兵器、投石器トレビシット、ラムと呼ばれる破城槌。
貴重なる火薬がつぎ込まれ大砲は三日三晩の間轟きわたった。
逃げまどう人々
炎はたちのぼり、
仕立屋も鍛冶屋も
宝石商も宿屋のおかみも
なすすべはなく。

物売りは死ぬまで薬草を売り込んだ。
酒売りはもっとも繁盛した。
城壁は崩れ落ちた。
領主、国王、市参事会員、貴族たち、みな最後の饗宴に酔いしれた。
戦ったものは
最後までエデッサの城壁をおりなかった。
壁の中で生まれた
壁のなかの死
なだれ込んだ強力軍隊は、町を破壊し、家を燃やしつくした。

そうしてエデッサは消え失せる。
数々の無念と、多くの果たせぬ希望、行われた裏切りと謀略を薪にして。


*

男は
馬の手綱を握る
葦毛の愛馬、人形の相棒ともに連れ。

夕日は
かわいた大地をのみこみ
燃える
闇と夜と、再生のときの前で

銀色の髪を束ね
ザースは

馬上の騎士は、

泣いたか。


かたかた、と人形が揺れる

「ときがながれてゆくよ」
「ときがながれてゆくよ」

少年はまばたきもせずに……




                              黄昏騎士 1 完


小説トップページへ     黄昏騎士 02 へ