緑川とうせいの日記より

マンガ、アニメ、映画 編


ネット上での日記「最近のこと」から抜粋したものをジャンルごとに分けてみました

*時事ネタをシリアスに思う 編
*音楽、ライブレポート 編
*その他、つれづれ 編



「赤毛のアンについて 2」
2003/3/8

やっと「小説モード」が戻ってきた。
というか、ワープロに向かいさえすれば、その実すぐに書けるのだが、
面倒がってそれをしなかっただけの話か。
こんなのはただの怠慢。
やらねば。

ところで今週でNHKBSのアニメ「赤毛のアン」の再放送が終了した。
ああ・・つくづく・・・なんという素晴らしい作品だったことか。
これから何を楽しみに過ごしてゆけばいいのだ(笑)

これを子供の頃リアルタイムで見ていたら、もっと豊かな人生が遅れた気さえする。
とはいえ、この作品の真の素晴らしさを知るには、
もしかしたらこの程度の年齢になっていた方がよいのかも。

なんだか「これぞ演出」というものを見たような気がする。
脚本や画面のカット割りを含めて、すべてに意味があり、
じつに登場人物の感情を丹念に描写していた。
とても勉強になったぞ。
これは小説を書く上でも大いに役立つ事柄だ。

こんなに感心したのは「学園戦記ムリョウ」以来のこと(その前は「こどものおもちゃ」)。
といっても、アンの方が遥かに昔の作品なんだが。
こういうアニメを見ていると、いかに今やっているアニメが
表面上の派手さばかりを売りにした
じつのところ内容の薄いビジュアル系アニメであるかが分かってしまう。

手抜きをして、派手にして、カラフルにしてキャラをたくさん出せばいいというものではない。
アニメも小説も漫画にもそれは同じようにいえる。

「赤毛のアン」は50話の話だがメインになるキャラは、毎話いつも3〜4人くらい。
(序盤では2人だけの会話で1話が過ぎるという回もあったな)
それぞれの人物がそれぞれの価値観を持ち、相手と関わりながらも
それ以外の感情を心の内に秘めているのを、セリフ間の表情などでさりげなく見せる。
すべての人物が「生きて」いる。
ポイントはそこだ。

派手に登場して決めゼリフを言い、必殺技とアクションを駆使して壮大に活躍するのもいいが、
なにも言わず、かすかな表情の変化と体の動きだけで
あふれる思いを描くことを忘れてはいけない。

「赤毛のアン」が素晴らしかったのは、主人公アンの豊かな感情描写と
その口から沸き出る聴くものをうきうきとさせる想像力あふれるセリフ、
そして無用の場面では言葉を語らず、無言のまなざしで感情を表現できていたことだ。
また、背景の自然描写も美しく、豊かに世界の「空気」を感じさせてくれていた。

こうした世界観にひたっていると、いかに現在のこの時代がやかましく、
そしてせわしないかということを嫌でも思い知らされてしまう。
むろん、いくら感心してもこれはアニメの世界であるには違いないのだが、
しかし少なくとも原作本の書かれた一世紀ほどの昔においては
人々はこうしてもっと誇り高く、寡黙で、素朴であったのだなあ、と感じる。
そして、ひょっとして今のこの世界は相当「間違ってしまった」んではないかという気持ちが
ふつふつと沸き起こってきて、今「ここ」に生きる自分をやるせなくさせる。
つまりはそれほどにこの作品がよく出来ていた、ということなのだ。

いわゆる「名作シリーズ」のアニメがテレビから姿を消した昨今だが、
実は今だからこそこれらの「なにか忘れてしまったもの」を思い起こさせるような作品が
必要なのではないかな、と思ってしまった。

読んだことなかったが、アニメ最終話の後のつづきが知りたいので
「赤毛のアン」を本で読んでみようかな。


                          緑川とうせい

「『あずみ』の魅力」
2002/5/11


時々「俺はアホなのではないか?」
と思うときがある。

昨日、今日と朝の5時すぎまで、ご来光が近くなる時刻まで
あずみ」(小山ゆう)を読み返していた。

じっくり読むと面白いのだ。
とてもよくできているのだ。
で、ついドラマツルギーの妙を考えながら
一人唸り、感心しながら
「あずみ」を読んでいた。

感情表現が素晴らしい。
死に直面する状態でのキャラの表情や心の動きが丹念に、
しかも非常に高度な「記号」でもって分かりやすく示されている。
エンターテイメント性と本物のドラマ性、それも生死込みの極限のドラマを
見事に融合させ、両立させているのだ。
普通ならこの残酷描写により目も当てられない作品になるはずなのだが、
それを主人公の「菩薩」的な無垢さと「女性」としての繊細な感情描写により
読者を引き込ませることに成功している。

死に行くキャラにまでその人物の生活背景と感情をもたせ、
けっしてただの死に役Aに終わらせないやりかた、
つまりすべての人物に「人生」を持たせる物語構築。
これは書き手として非常な苦痛をともなうものなのだが、
それを見事なまでの冷徹さで遂行している作者、小山ゆうは凄い。
「おーい竜馬」を描いてから何かをつかんだのか、ここまでの場所に到達するとは。
何しろ作品を描いていて自分でキャラに感情を込め、その人物になりきり
自分の人生としてそれをを思い、のめりこみつつも
物語としてまことにあっさりと、ある意味潔くそのキャラを殺す。
この苦しさは同じ物語を描く人間としてよく分かる。
それをここまでバサバサとやってゆくのは、ある種のマゾ的爽快感とも言えるかもしれない。
それが見ている側には非常に複雑な気持ちを起こさせる。
「まさかこのキャラがここで死なないだろう」というのを「あずみ」ではあっさりと裏切る。
しかもその死は唐突であるが、ぐっと見るものの心を鷲づかむように深く、
死に行くキャラの想いと人生をともなって読者へと届くのだ。

物語としてのダイナミックさは、それと同時に事象としての「死」を考えさせ、
死に行くキャラの断末魔の思いと無念を見るものに感じさせる。
それでも尚けがれない主人公あずみの純粋さに我々は美とはかなさを見る、と。
まさにこれは「血と菩薩」のまんがである。
この物語のラストがいったいどういう結末となるのか
まったくもって分からない。
おそらく・・・
いや、やめておこう。
「その時」はいずれ来るのだから。


                          緑川とうせい


「赤毛のアンについて1」
2002/3/29


「赤毛のアン」(NHK BS2で水曜の18:30〜)は実に素晴らしいアニメだ。
本放送当時は見ていなかったが、年齢を経た今見ても尚、実に良くできた作品である。

主人公アンの目を通して物語は進むが、作品中ではアンのみならず
大人のキャラクターの成長も描かれており脚本と演出において、
ごく自然に少女アンの視点と大人のキャラの視点との両方で物語楽しめるようにできている。
アニメーション的にも細やかで、動作や表情などにより人物の内面の感情を映し出す手法が素晴らしい。

また、7話にしていまだ登場人物は3人というのもある意味で凄い。
二人だけの会話がえんえんと一話にわたって続く回もあり、
この饒舌な脚本がそれだけで世界を描き出している。
今のアニメ作品のように数多くのキャラをを出さずとも、物語は成立するのだ。
ダイナミックさやスリルがなくとも「人間」をちゃんと描くことは、そのままドラマたりえるのだ。
あらためてそう思い知らされている。

宮崎駿、高畑勲コンビが冴えを見せた好作。
こういうアニメを見て育つ子供たちが増えて欲しい。


                                緑川とうせい


「映画『プライベートライアン』」
2002/2/14


「プライベートライアン」という映画をご存知だろうか。
私は映画はTVでチェックする方なので、先週だったかにこの映画を録画した。
先日録画したものを見たのだが、30分ほどで見るのをやめた。
恐るべき完成度の素晴らしい映画であることが、分かった。
これは今見るべきではない、そう思った。
と、いうのは私は現在とても繊細な小説を書いている最中である。
このようなものすごい刺激的な映像を見てしまっては、それに影響が出てしまう、
そう決断した私の判断はまことに正しかったと思う。
それだけの、これは映画であることが30分見ただけで分かった。
映画の内容は第二次大戦の戦争をテーマにしたもの。
圧倒的な現実性。臨場感、残酷に繰り広げられる「死」の描写。
思わず息を呑み、目をそむけたくなるほどの、それは克明な「戦争」という「地獄」の記録であった。
そうだ。これが「死」なのだ。
これが「戦争」なのだ、と思わせる現実感がそこにはあった。
まだ全編を通して見ていないのでこう断定するのはどうかと思うが、
これこそが「本物の戦争」を体験するのに「限りなく近い」、
戦争の残酷と死を人に伝えることが出来る作品である、
そう思えた。

じっさい、映画に出演した俳優には本物の軍事訓練をさせたというほどのこだわりよう。
「シンドラーのリスト」以降のスピルバーグの写実主義には感嘆すべき徹底したものがある。
無論それは本物の「現実」ではない。映画としてのドラマとストーリーがあるのだが、
それをこうした「虚構としての現実」と両立させる手腕には賛嘆を禁じえない。
これは「最低の現実」にさえなり得る(最大の誉め言葉)作品だ。
たいがいの作品はどんなに素晴らしくてもそれは「最高の虚構」どまりだ。
写実とドラマとを見事に融合させたスピルバーグの作品は、「限りなく現実に近い虚構」である。

冒頭のノルマンディー上陸の場面の凄まじさ。
血が噴出し、内臓がはみで、手足が吹き飛び、泣き叫ぶ兵士たち。血に染まった海岸。
こうしたショッキングな死の描写は、最近のパソコン世代の少年たちにこそ見て欲しいものだ。
現在、テレビやアニメ、ゲームにおける描写はディフォルメと洗練の一途をたどっている。
スタイリッシュで無駄がなく、上辺だけは綺麗なもの。美しいCGや効果的なアニメーション、
そうした「作られた世界観」ばかりが表面化している昨今。
メディアには「本物の死の描写」が薄れ、かえって人々は「残酷なもの」を見ないようにと
努めているようにさえ思える。
死や残酷性を直視することなしに、ゲーム感覚、アニメ的なディフォルメされた「死の記号」を
それが実際の死であると勘違いすることは大変に恐ろしいことなのだ。
スピルバーグの提示したこの映画における戦争の地獄は、そうした「記号化された死」への
アンチテーゼであるかのようだ。
「プライベートライアン」における、この画面から伝わる強烈な死。
目をそらすことなく作品を見れば、我々は「戦争」と「死と生」というものを
もう一度感じ、考える機会を得ることになる。
これはそういう作品だ。
小説が書き終わったら、じっくりと鑑賞しようと思う。
「メメント・モリ」という言葉を心に思い浮かべながら。


                                   緑川とうせい


「H2」
2001/7/4


なんとなく久しぶりに「H2」(あだち充)を読み返した。
これが、じつに面白く、つい一気に20冊近くも読んでしまった。
細かく、ゆっくりとコマやセリフを見ているといくつも新しい発見があった。
とくに、会話における言葉の「遊び」と背景のコマの意味付けにはとても深いものがある。
微妙で絶妙、それらは演出の芸術ともいうべき地平にまでいっている。
マンガとしての完成度、ってやつだ。
すべてのコマや絵に意味があり、すべてを効果的に使いこなしている。
コマのつながり、連動、セリフ中の伏線。そしてさりげなくクールな「答え合わせ」。
それに気づくと、思わず読んでいてにやりとする。
話だけを追えば、じつはセリフ量が少ない分さらっと読めるのだが、
じっくりとキャラの心理や、そのときに言うセリフや表情を感じながら読むと、
これがみごとに「入り込める」深さをもっているわけだ。
とりわけ「おさえのきいた感情表現による、感動の描写」はぴかいち。
くどくないし、大盛り上がりの記号が薄い分、逆に「静かな劇的さ」に唸り、ぐっとくる。
いや、すばらしいね。ここまでの表現手段がマンガにおいて可能というのは。


                                       緑川とうせい


「ノワールというアニメ」
 2001/7/19


テレ東の深夜アニメ「NOIR/ノワール」を見ているといつも不安になる。
「これでいいのだろうか?」と。
私が思うに、この作品は少なくとも「万人の目に映る可能性のある」地上波TVには向かない。

まずいっておくが、作品の質それ自体は高い。
センスのある脚本や、音楽、背景のヨーロピアンな情緒。
感情表現をなるたけ抑えたクールなキャラ描写。
いずれもが独自の世界観を描き、殺伐とした「殺し屋」ものであるが、不思議な情感を感じ取れる。

私がこの作品に危惧するのは、その「殺し」における痛みのなさである。
主人公たちは女性でありながら殺し屋「ノワール」として裏社会に精通し、
大組織などとの抗争に巻き込まれながら、銃を片手に生き抜いている。
基本的に毎回ターゲットとなる「殺されキャラ」がいるのだが、彼らはまだいい。
そうしたメインキャラは「死」そのものがシナリオ上のクライマックスとなり、
その人物の思いや、過去、現在の立場などを浮き彫りにした後に「劇的に」殺されるわけだ。
しかし「その他」大勢の「ざこキャラ(主に黒い服を着た組織の三下連中)」にいたっては、
毎話、数人から多いときは10数人が、あっさりと撃ち殺される。
場合によっては数秒で10人くらい死ぬときもある彼らには、「人間」としての扱いはない。
ザコなのだから当然、ともいえる。またこれはテレ東や放送コード上の問題だろうが、
撃たれたキャラが血を吹き出すことは決してない。

血を流さず、見ていて心の痛みも感じない。
ザコだから。「人間」でもないただの背景、シナリオ上の「死に役」だから。
こうした手軽な「殺人の記号」が見るものに与える影響を、私は考える。
それは記号としての「死」であり、痛みも悲しみも、人間としての「生」の認識もない死である。
つまり、ザコキャラには過去も未来もなく、そのキャラが普段はどんな生活をしているのか、
妻はいるのか、子供は何人か、何が趣味で、好きな食べ物は何か、などは「必要でない」わけだ。
ただ死ぬためだけに適当に描かれ、撃たれ、血も流さず、「死ぬ必要」をまっとうして消える。
それは「記号」であり、本当の死ではない。
まあ、確かにテレビアニメで、血を吹き出したり、肉を裂かれたり、内臓がとびちったり、
骨が砕ける音がしたり、苦痛にゆがんだ顔が断末魔に変わっていったり、
という絵は使えまい。それらは残酷で、見るに耐えなく、直接的だからだ。
しかしそれが「本物の死」であって、
お手軽に銃でパンと撃ち、転がって倒れて二度と画面には映らない、
そんな死は「死」ではない。

重要なのは、作品を見る側がそれを本当に「分かって」いるかどうかだ。
スイッチを入れれば、たとえ見たくもない人でも見てしまうテレビアニメにおいて、
こうした「アニメとしての記号的表現」の多用が、
はたしてすべての視聴者にとって心地よいものかどうか。
少なくとも私は不快であった。
悲しみも痛みもないただの記号としての死など。
だったら内臓がはみで、血が飛び散り、「死」の残酷さをまざまざと見せてくれるほうがずっといい。
そして、これは私のものかきとしての癖であるが、たとえどんなザコキャラであっても、
そのキャラがどんな人間で、どんな性格をしていて、どんな生を送っているのか、と常に考えてしまう。
しかし、この作品においてはそれを考える材料は皆無である。
ザコはザコ。死ぬための背景であり、その他大勢、名のない「死に役、A、B」にすぎないのだ。

すべての死に痛みを。
たとえアニメだから、ゲームだからといって、主役以外を人とみなさぬやり方を私は好まない。
それだったら、苦しく、つらい、えげつなく残酷な死の描写をもっと。
少なくとも、1話30分で数10人が撃ち殺されても何も感じないよりは、
痛み、苦しむ方がずっと健全である。

こう考えると「学園戦記ムリョウ」(NHKBS11 火曜18:30〜)はすごいなぁ。
どんなザコキャラでさえも、その背景にある生活が思い描ける。
それが世界観の深みであり、想像世界としての密度なのだろう。

死を描かなくても、生と死、それに時間を表現し、感じさせることはできる。
そして「本物の死」を描くのは、作り手もつらく、勇気と強さのいることだ。
しかしそれをやるのが「ものかき」であり、「創作者」の義務であるようにも思える。
小説を書く人間として、ぜひとも気をつけたい事項だ。


                                   緑川とうせい


「アルジェントソーマのセンス」
 2001/03/29


「アルジェントソーマ」
(テレ東木曜の深夜アニメ)は実に良く出来ていた。
感動的でドラマチックな部分が少々あざとくもあったが、裏を返せばそれだけ
エンターテイメントとしての作りこみが意識された作品だったともいえる。

難を言えばシナリオ上の演出過多の部分や、
上官のセリフなどに過分な知性的な言葉を練りこみすぎて
「知性を武器に」しすぎるきらいもあったが、おおむねそれらは許されるべき範囲である。

細かな時間の倒置、キャラの二面性など、ドラマとしては「エヴァ」の方法論を踏襲しつつも、
あえてそれを反面教師とした部分も見える。
それは、ドラマとしての分かりやすさ、最終話までの作りこみ、
そして希望をもたせた世界観、というところに反映している。

また下手をするとシリアスになりすぎるテーマを上手く料理、
テレビとしての過剰すぎる描写を避けていたことにも作り手の配慮がうかがえる。
そこには芸術はないが、多くの人々に好感を抱かせる細かな作りこみ、
つまり娯楽の精神が確かにあるのだろう。

刺激的な描写の深夜アニメが増える中、こうしてあえて一線をもうけて、
その範囲で最大限にドラマを生かすという姿勢は評価に値する。
王道的なハッピーエンドを、軽すぎず、クサすぎずに、センスよくまとめた作品といえるだろう。


                                  緑川とうせい


「うる星やつら DVDボックス」
2001/02/21


うる星やつらDVDBOX1」を買ってから、毎日寝る前に一話ずつくらい見ている。
日本が誇るアヴァンギャルド、プログレッシヴアニメの金字塔。
後にパトレイバーを手がける押井守、伊藤和典、
キャラ面では高田明美、もりやまゆうじなど、層々たるメンツ。
破天荒で実験的な演出の数々。無論今見るとつまらぬ愚作も話数によってはあるものの、
つぼにはまった作品に関しては抱腹絶倒確実、笑った後に「恐るべし・・」となる。

とくに豪華絢爛な声優陣、その中でもひときわ異彩をはなつ千葉繁の存在感は絶大だ。
原作にはなかったアニメのみのオリキャラ「メガネ」
独特の啓蒙思想を持ったこの場末のザコキャラにここまでの命を吹き込んで見せた。
話数を重ねるごとに、そのどう考えてもアドリブとしか思えぬエセ理論を説く意気込みも調子づき、
ますます切れ味鋭くなってゆく。
ここまでの台詞をはくキャラが、じっさいまったくなんのとりえもないただのザコキャラである、
という事実に驚愕する。
ヤマトの「佐渡酒造」ですら医師としては有能だった。
おそらくこの作品を演ったからこそ、千葉繁は己の内なる才能を開花させたのではないか?
マニアックな話題になったが、なんにつけても「うる星」はすごい。ということだ。
原作とは別のカオス、ブラックホールを感じる。
まんがを離れて一人歩きし始め、その上スタッフのセンスと意気込みで、
これほどの不可解かつプログレな作品が誕生したという例は、日本アニメ史上かつてあるまい。
21世紀の今、これを前世紀の遺産として語り継いでゆこうではないか。

・・・はあ、後期BOXでまた金が・・


                           緑川とうせい


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