緑川とうせいの日記より

その他、つれづれ編


ネット上での日記「最近のこと」から抜粋したものをジャンルごとに分けてみました

*時事ネタをシリアスに思う 編
*マンガ、アニメ、映画 編
*音楽、ライブレポート 編



私的たわごと2014年
2014.12/31


己の文章でこの一年を振り返るのが、文章書きの務め…ということで、
今年も恒例の晦日の長文日記。

いやー、早かった。
毎年同じことを言っている気もするけど、だってホントに早かったよ。
自分の中ではそろそろ11月に差し掛かるかな…くらいの感覚でいたら、
アレ…もう大晦日ですよ。2015年ですよ。うは!

思えば、1989年にエックスの「Blue Blood」でメタルに目覚めてから、25年もたっちゃったなんて。
あの日から、いったいいままでに何千枚のCDを(もしかして万超えてる?)聴いてきたかと思うと、にわかに気が遠くなる思い。

たくさんのバンドもやったし、たくさんの出会いやすれ違いや消滅を通り抜けてきて、いまここに立っている。
それらをゆっくり振り返る暇もない、受け取る情報に溢れ、どうでもいい情報にも溢れ、時間の中を溺れるように流されて生きている我々。
1年ごとにこうして、なにが起きていたのかを振り返らないことには、気づいたら恐ろしく遠くまで流されてしまっていて、
いまさら振り返ると色を失った時間の遠さに唖然とするしかない…という現代ですから。

スマホや携帯端末の急速な普及もあって、我々は常に他者との関わりを意識し、
画面上の記号的やりたりに慰めを見出すことを、たいして疑問を抱かずに享受している。
どこへ行っても、つぶやきやイイネやレスが気になったり、メッセやレスの受信音に怯え、
あるいは心待ちにし、かといってなにも来ないと寂しがる、
いわば自己愛的な他者関係の敷衍を、無意識のうちにどこまでも求めている。

独りでいること、独りで考えること、独りで悩むことを知らぬ間に放棄し、他人の言葉を当てにし、
心にもない賞賛に満足し、ときにそれを疑いながらも、なんとなく喜んで受け止めてしまう。
道具は我々を賢くし、そして弱くし、クリックひとつで可能な気楽なつながりは、より多くの人々を巻き込んで、
新たな流行や新たな発見を増幅し、有無を言わさず世界中に広めてゆく。
瞬間的なネットワーク、その良い面、悪い面ともに受け入れながら、
これからも我々はそれを手放すことなく、なんとか付き合ってゆくのだろう。
新たな刺激、新鮮な情報、新たなつながりに、一瞬心躍らせながら、
数分後にはそれに飽き、また次の言葉を欲して、次のイイネを求めて、ときおりムカついたり、面倒だと思いながらも、
それでも明日も同じようにまた楽しみ、利用し、拡散し、自己発信しつづけてゆくのだろう。
情報化された個人個人の存在(アイコン)を画面上に感じることで、ひとときのつながりの安堵を覚えながら。


というワケで、さて、
2014年も色々なことがありましたな。

STAP細胞やゴーストライター騒動、野々村氏の号泣会見、脱法ハーブによる事故の多発など、世間を騒がせたニュースたち。
4月には消費税8%にアップ…来年はいよいよ10%時代がやってくるのか。

世界を恐怖に陥れたエボラ出血熱、イスラム国の台頭などは、今年だけでなく来年以降の世界情勢にも影響を与えるでしょう。
韓国ではセウォル号が沈没、多数の犠牲者が出て、船会社や当局の対応のまずさが露呈、
いまだ見つからぬ墜落したマレーシア航空の旅客機…7月にウクライナで撃墜されたのもこの会社の旅客機…悲惨すぎる!

世界で起こったニュースで、自分に関係のないものなどひとつもない。


身近なところではデング熱も騒がれましたな。新宿御苑も一時閉園されたし、庭園好きとしては、来年は発生しないで欲しいですわ。
広島の土砂災害や御嶽山の噴火では多数の犠牲者が出ました。犠牲者のご冥福を祈るとともに、
自然災害の脅威の前に、我々は大地の上に生かされた小さな存在なのだとあらためて感じさせられました。

スポーツでは、ソチ五輪での、真央ちゃんの感動の演技や羽生くんの活躍から、
田中マーくんのヤンキース移籍…大活躍からの肘の故障(来年に期待!)
6月のブラジルワールドカップに熱狂したのも半年前のことなのに、もうずいぶん昔のように感じるな。
そしてテニスの錦織くんの覚醒ぶりは凄かった、松岡修造の熱い人気も上がる上がる!
Jリーグではガンバが三冠達成。浦和は優勝を逃すし大宮は降格と…さいたま市民的には涙でした。


自分自身のイベントとしては、やはりメタルとプログレに囲まれた1年でした。
1月…ライオット・マノウォー・ジューダス セッションを開催。
はからずも、マーク・リアリの命日の翌日ということで、思いを込めてライオットのドラムを叩きました。

3月…川崎クラブチッタへ「ジャパニーズ・プログレッシヴ・ロックフェス」を見に行ってきました。
JAP'sプログレのレジェンドたち…ノヴェラや新月、ムーンダンサーが観られて最高でしたわ。

5月…イタリアン・プログレを代表するバンド、PFM…プレミアータ・フォルネリア・マルコーニの来日公演へ。やはりプログレは素晴らしい。

7月…闇の皇帝…エンペラーの来日!
1st「In the Nightside Eclipse」20周年記念ということで、アルバム全曲を演奏。念願がかないました!
そして、我が地元にDisk Unionが開店。毎日のように行ってます!

8月末には79-99 メタルセッション (1979年〜1999年までのメタル作品セッション)開催! エンペラーのブラストでヘロヘロ。

9月…ZIGGYコピーバンド、KOOL LIPSのファーストライブ!国立リバプールが熱きジギー愛に包まれたよ!来年もやるぜ!

10月…MANOWAR来日!ラウドパークの振り替え公演的な来日でしたが、むしろ単独で観られてサイコーでした。マノウォーはやっぱすげえ!
11月、12月はバンドで8回もスタジオ入ったよ。いやー、今年はバンドリア充でした。
しかし、来年から3つめのオリジナルバンドがスタートしそうなので、2つのコピバンと合わせて、5つ掛け持ち。
毎週練習は必至…というさらなるバンリア充がオレを待つ!が、頑張るべ。

来年はまた新たな風が吹きそうな気がする。その風の吹く方へ勇敢に進みましょう。
タンパク質たっぷり、炭水化物はほどほどに、適度に身体を鍛えつつ、ときにのんびりリラックスして、
なにより健康的に過ごしてゆきたいと思います。
むろんメタルとプログレとともに。小説も書く!
今年もありがとうございました。

ではよいお年を〜!




私的たわごと2013年
2013.12/31



大挙して押し寄せてくる歩きスマホの連中をよけながら、突っ込んでくる自転車スマホを間一髪で避けたと思ったら、
運悪く自動車スマホに轢かれて死亡…なんていう笑えない未来が、来年にもやってきそうです。

去年から思っていたことながら、
つながり症候群の猛威はさらに増加し続け、「つながれないと寂しい帝国」がその版図を確実に広げてきています。
仲間外れの恐怖、はみ出しものの恐怖、ぼっちの恐怖…
安易なフレンドリクエストや招待により、見知らぬ人間や、とくに仲よくしたくもない相手とも、つながることで、
かすかなストレスを隠しながらでも、より多くとつながれたことでの安堵を得る。
レスやイイネや既読の証に、ちょびっと喜んだり、じれたり、相手のちょっとした一言を曲解したり、
誤解して、やきもきし、ときに、怒りさえして勝手に一人で疲れている。

わいわいとして楽しく、あわただしくも、じつはより孤独感をいや増す、つながりの時代。
一人でものを考えない時代、いや考えようとしているのに、その合間にもレスやメッセやイイネがきてしまう。
まだ考えなくていいやと、永遠の先送り、それで一年が経過、次の10年はどう過ぎるんでしょうね。

SNSでは誰でもが表現者、程度の高いのも低いのも、注目を集めれば勝ちなのだ。リツイートよろ!
バカッターさんたちの迷惑行為の記録は、画像ファイルとして、いまも世界中のPCに残りつづけています。
スマホから、タブレットから、PCから、あらゆる画像や動画が、次々に発信され、
人々の時間の中で通りすぎてゆき、多くは忘れ去られ、いくつかは犯罪者と糾弾され、ときにセンスがよいと称賛される。

犯罪のあり方、仕事のあり方、表現としての芸術のあり方は、いまやずいぶんと変化し、
よくも悪くも、誰でもが気軽に参加でき、その分、当然ながら表現者としての責任も問われることになった。
自分はここにいる、
それが究極の叫びであり、自己の存在を示すこと、注目を集めること、フォロワーがリツイートが増えること、
それらが価値のひとつとされるようになったことで、それを求めるあまり、道徳的な冷静さを失ってしまうことが問題なんですね。
あるいは、つながりの中で、真に大切なものが分からずに、己の寂しさをまぎらわし、
暇をもてあますときのちょっとした心のなさで、知らず他人を傷つけ、
ときに怒らせ、悲しませることも、言葉ひとつでできてしまうようになった。

言葉は力なのです。
それを発信する側と、受け取る側の意図がずれれば、別の方向の負の力ともなるのです。
ラインでケンカをしているうちに、相手を殺すことにまでなってしまった、あの痛ましい事件もそうですが、
言葉力をしっかり学ばないこと、相手の身になって想像できないこと、
それらが簡単に現実での罪を起こしてしまえる時代なんですね。

道具の進化の速さに、我々の内面的な人間力は、まだ追いつけていないという気すらします。
便利な道具の奴隷、つながりの奴隷である前に、一人の人間であるという、
その意識の方向づけ、己の存在の在り様…美学といってもいいかな、
一人一人がそうした自分の在るべき姿を固めておかないと、
結局はただ歩きスマホの群れに飲み込まれ、とりつくろったいいかげんな言葉と
顔文字とスタンプで表現するだけのスタイルに、自分を窮屈に押し込めることになるのです。

とはいえ、つながる楽しさとクイックなレスポンスが生み出すワクワク感は分かるし、
SNSでの好き勝手な自己表現は、自己顕示欲を心地よく刺激してくれますから、
いまさら孤独になれといったところで無理な話ですわ。
ということで、自分スタイルを少し頑固に追求、確立しつつ、
適度に冷静かついいかげんに、ただし自分の信じる言葉を使って、
レスやイイネなど期待せず、ときには、アホなニュースでも話題にしながら、
のらくらと楽しむのがネットであり、SNSなのだと思っています。ラインはよく分からないけど、
結局のところ、つぶやきもひとつの表現物であり、極端な話、作品であるとも思っているので、
その言葉の力が、周囲に与える影響を考えながら、自分の目指す正しい方向へ、
ポジティブな発信をしたいものですね。

言葉は世界を変えると思っているし。実際に変えていると思います。
自分の言葉で少しでも世界をよい感じにできることを、
少しでも誰かを幸せにできるのだということを、想像してゆきましょう。


さて、前置きおわり…今年をざっくりとプレイパック!

1月…新年早々にThe Flower Kingsが来日!長年の念願がかなったよ。
当然ながら2日ともクラプチッタへ。ロイネ・ストルトのギターにたっぷりと酔いしれました♪

2月…WITHIN TEMPTATIONのコピバンでラストライブ。これをもってバンドは消滅、
あらためてバンドでの人間同士のやりとりの難しさを実感しました。
バンドはひとつなくなりましたが、その代わり、NightwisバンドやZIGGYバンドもスタートしました。

3月…ANGLAGARD来日、クリムゾン・プロジェクトとの公演を見に行きました。
今年は桜の開花が早くて、3月末には満開の桜が見られました。

5月には、小説「水晶剣伝説」の第一部がついに完成。個人的には今年はこれに尽きます。
なにせ高校時代から構想し、書き始めてから12年かけて、ついに、ついに完成したのですから。
来年からは第二部にとりかかりたい。我がライフワーク…世界最高の物語のひとつだと思っています。

VIPERのコピーバンド、その名もVIPER JAPANで2nd「Theatre Of Fate」完全再現ライブを決行。
ただの妄想も、実行力と希望するパワーとで実現できるのです。

6月…スティーブ・ハケットの来日公演。今回はなんと全曲GENESISだよ!
フラキンにアングラガルドにハケット(ジォネシス)と、今年のクラブチッタは最高すぎ。
ついでに、富士山が世界文化遺産に登録される。

7月には、北浦和でVIPER JAPAN二回目のライブ。バイパーやり切ったね。
この頃、何故か思い立って部屋の大掃除もしました。汗だくになりながら、
ひと月かけていらないものを徹底的に片づけまくり、巨大CDラックも購入したぜ!

8月は僕主催のメタルセッション。マノウォーやクリムゾン・グローリー、
メイデンにジューダスも演奏。熱いセッションでした。
その後、Crimson Gloryコピバンも始めることになるととは。

9月…小麦を食べるのをやめました。「小麦は食べるな!」という本を読んで、
その内容があまりに衝撃的で、これはひとつやめてみるかと思い立って、
やめてみたら、米粉やソバ粉で料理を作りだしたりして、なんとかやってゆけるもんです。
2017年東京オリンピックの開催決定。

10月はアニソンバンドのライブが実現、ヴォーカルのFuyuさんが11月に結婚してしまうので、
それまでにライブをしようと、なんとかして間に合わせました。よかったよかった。
11月の結婚式も行かせてもらいました。

イーサーン先生のライブを見ました。心優しい方にチケットをいただき、友人たちも誘って。
EMPERORの曲もやってくれて嬉しかった。ありがとう!

11月は、エディ・ジョブソンの公演を見に行きました。まあ今年はクラブチッタにたくさん行ったよ。
DARK MOORの来日ライブには、知り合いのいるバンドが2つも一緒に出ていて、
大変な混雑の中でヘロヘロになりながら拝見しました。
それから昔のオリジナルバンド仲間と「イカレ堕天使」を結成。来年もバンドまくりだぜ。

スポーツでは、マーくんの連勝記録もあって、楽天が日本一。
バレンティンのホームラン記録や、メジャーでは上原の大活躍もすごかったねえ。

12月には本田のミラン移籍が正式に決定。ミランの10番ですよ!
来年のワールドカップも楽しみだ。まずはコートジホワールをなんとか。

安倍総理の靖国参拝もあったし、さらに冷え込む日韓関係に、
中国の大気汚染(PM.2.5)など、来年も引き続き大きな問題となってゆくでしょう。

メタルとプログレCDレビューは666枚を達成。本当は671枚ね…ちょっと多かった。
来年は少しレビューを減らして、己の創作にどっぷりと浸る時間を増やしたいと思っています。

ということで、
来年もこの世界とともに、メタルとプログレを、どうぞよろしく。
よいお年を〜!



                スサノオのおわす我がO宮にて とうせい



私的たわごと2011年
2012.12/31



年々、ときの過ぎるのが早くなり、気付けばすべてがすごい勢いで流れていっているような気がします。
あっと言う間にいろいろな物事が…大切なこともそうでないことも、一緒くたになって去ってゆき
そしてすぐに忘れていってしまう。大切なこともそうでないことも。

ネットだアイフォンだ、タブレットだと、我々はその進化する利便性を日々享受し続けていて、
年々、そして日に日に、受け取る情報量ばかりが増えてゆき、それらは頭の中で溢れかえり、
煩雑な情報どもの理解と整理だけでてんやわんやしていて、
それらをちゃんと整頓してひとつひとつを飲み込んだり、記憶の中に植えつけたりする以前に、
また次の情報がかぶさってゆき、いつのまにかどうしょうもないほど積み重なってしまう。

結局、消化が追いつかなくて、水洗トイレのごとくすべてを流し続けなくては、
押し寄せる次の情報たちを受け取るのに間に合わない。
大切なものも、そうでないものも、自動的に流し続けてゆかなくてはならない。

立ち止まったときにふと思い出そうとしても、その瞬間にまた携帯のメール受信が音を立て、
コメントやイイネがついたとささやかに喜び、ツイッターのレスをしなくてはならず、
そうしたらまた次のつぶやきを送信しなくてはならない。

立ち止まったときでさえ、我々は頭を空にして考えることを許されない。
あるいは、空にすることを恐れている。
どうでもよいことだとは思いながら…どこかで待ちわび、そして恐れている。
自分がここにいること、己の存在を示す為に、なにかをつぶやき、レスをせずにはいられない。
そうしなくてはすぐに忘れ去られ、消えてしまうのではという、思い込みの驚怖が次の言葉を急かさせる。

それはなんとせわしなく、疲れることでしょうね。
ときにはどうでもいいやと、PCや携帯の電源を消し、寝てしまいましょう。
己の存在を描けるのは己自身の思いだけ。
己の存在する時間を自分自身で作ること。
こんなせわしない時代だからこそ、それを大切にしてゆきたいものです。


さてと、いってみますか。プレイバック!

1月は靖国神社に初詣にゆきました。
知人のバンド、ライトニングのライブにも行ったっけ。IRON格好いいね。
それから、大好きなRIOTのマーク・リアリが亡くなって、かなりショックを受けました。

4月は新宿御苑へお花見。今年も綺麗な桜が見られました。

5月には東京スカイツリーが開業、いつかいってみたい。

6月はオリジナルバンドRadiant Soulのライブやりました。
観に来てくれた昔のバンド仲間と16年ぶりくらいに再会しましたよ。

7月はRIOT&クサメタルセッションで盛り上がりました。ワタクシは念願の“紅”を演奏。
このセッションで、これまた昔一緒にバンドやっていたJoeくんとRIOTやVIPERの曲で久々に演奏しました。
これをきっかけに、VIPERのコピーバンドも始めることになったのですよ。
クレッシェンドでRSのライブもやりました。若きギタリストAblahamはこれを最後に北欧へと旅立ってゆきました。

ロンドンオリンピックは、体操の内村君が個人総合で金をとり、レスリングの吉田さんは見事三連覇、
サッカーなでしこジャパンが銀メダルに輝き、男子サッカーも初の4位という見事な結果。
個人的には、応援していた柔道女子の松本薫さんの気迫の金メダルに感動しました。

夏の暑さを乗り切って9月になると、
WITHIN TEMPTATIONコピーバンド、Ocean Queenの初ライブが実現!
構想から1年と5ヶ月あまり、初期ウィズインの世界を再現したいという思いから結成したバンドでしたが、
想像以上のバンドとなって、ついにお披露目できたことは感無量でした。
中世ヨーロッパの展示会にも行きました。鎧や剣を手にして、騎士たちの戦いに大興奮。

10月には友人と福島へ旅行しました。
自然豊かな景色の中、のんびりと温泉につかり、まったり&ほっこり。
少しでも復興の足しになればとみやげを買いまくりました。

11月、北欧メタル祭りのライブイベントにOcean Queenで出演させていただき楽しかった。
知り合いが多いイベントでしたが、どのバンドもクオリティ高かったです。
またこんな濃い〜いメタルイベントやりたい。
巨人が優勝、日本一になりアンパンマン阿部がMVP、
海の向こうではオバマ大統領が再選しましたな。

12月、トンネルで天井落下の大事故が起こり、
解散総選挙で自民が圧勝、松井が引退して、
あっと言う間に年の瀬を迎えたわけですね。

771枚のCDレビューもしたし、バンド活動も充実してました。
来年はさらに増えて4バンド掛け持ちですよ!
すでに1月、2月の土日のスケジュールがびっしり。オレはミュージシャンか!笑
日々足腰を鍛えて準備しております。

流れゆくときの中で、あらためて1年を振り返ることで、
忘れてしまいそうな物事やそのときの気持ちを思い出し、心にとどめる。
これからさらにときは加速してゆくかもしれませんが、
そのときどきの大切なことを、そのときの一瞬の喜びや悲しみや切なさを、
自分の一部として、また進んでゆきたいですね。

来年もよろしく。




私的たわごと2011年

2011.12/31


姪っこや知人の合格祈願もかねて地元の神社へ初詣にゆき、
まあまあ平穏に始まったかと思ったこの2011年…
しかし、それがまさかこれほどのの激動の一年になろうとは。

まず1月は、サッカー日本代表のアジアカップ優勝!
李忠成のあの劇的なボレーシュートはすごかった。
大活躍の長友は名門インテルへ移籍と、嬉しいニュースが続きました。

2月なるとニュージーランドで大きな地震が起こり、日本人28人も犠牲になりました。
被害を受けたクライストチャーチの映像を見ながら、大変な災害に日本にいる我々も心を痛めましたが、
それは決して他人事ではなかったのですね。

3月6日には、自分のやっているメタルバンドのライブをやりました。
いま思うとすごいタイミングですよね。もし次の週だったらと思うと…

そしてあの日、3月11日、
地震が起こったときは自分は外にいて、もちろん大きな地震だとは思いましたが、
まさか東北ではあれほどの惨事になっていようとは、そのときは思ってもいませんでした。
結局、終日電車は動かず、朝になるまで店店を移動しながら、歩いたりまた休んだりという感じで、
人々であふれかえる駅の光景や、朝になっても動かない山手線に、唐突に訪れた非日常を感じたのでした。
ともかく、こういうときに思うのは、大切な人間を守りたいという、ただそれだけなんですね。

かろうじて入れたカラオケボックスのテレビで、東北地方の津波の被害の様子を…
水に飲み込まれた町や、大規模火災などのショッキングな映像を目にし、
画面に次々に流れるテロップ情報の、その信じがたいまでの被害の大きさに半ば呆然となっていました。
しかし、翌日になり、さらに数日がたつにつれ、
続く余震の恐ろしさ以上に、福島では深刻な状況が起こりつつあることが判明。
それが、未曽有の原発事故になろうとは、当初は想像もできませんでした。

その後の電力不足による計画停電なるものを、初めて体験しました。
いままで当たり前に思えていたこと、それらは多くの人々やシステムに支えられていたのだということ、
我々はきらびやかに浪費してきた電力をこれほど原発というものに頼っていたのだということを、
信号機の消えた交差点や、灯のつかない夜の闇の中で、まざまざと知らされました。

それでも、4月になれば桜はちゃんと咲くのでした。
O宮公園や、新宿御苑、千鳥ヶ淵の桜を見に行き、満開の桜を眺めて
生きていることの喜びと、少しでも希望的であって欲しい未来へ思いを馳せました。

一時は電力不足で心配された4月のライブもなんとかできました。
ウチのバンドのリーダーは実際に被災地にボランティアにもゆき、その魂の歌声を会場に響かせました。
祖母が亡くなったのは5月でした。脳梗塞で倒れてからもうずっと長いこと意識がなく、
地震のときも病院のベッドでしたから、たぶん怖い思いはしなかったかな。

6月19日には秋葉原で盛大なメタルセッションを行いましたし、
翌週はSwallowTail、EARLY CROSSといった知り合いバンドと一緒にライブもできました。
7月は、なでしこジャパンのワールドカップ決勝を徹夜で応援しました。
そして奇跡の同点〜PK戦での勝利。あれは興奮した。
なでしこ世界一のニュースは、今年最高の嬉しいニュースとなりましたね。

8月は連日の猛暑にぐったり。
毎日の電力供給率をニュースやネットでチェックしながら、
なるべく節電に務めつつ、エアコンの温度設定を28〜29度にして頑張りました。
しかし、原発の事故のあと、シーベルトやらベクレルやら、いままで知らなかった言葉…
セシウムやらヨウ素やらといった言葉があちこちで飛び交い、ときにそれらに過剰に反応したり、
ときに無用に怯えたりと、それらが我々の日常にいつのまにか忍び込んでしまっている、
そのことこそが、この事故の重大さを示しているのだと、あらためてそう思われます。
あの震災以来、生と死について、そして人々のつながりや絆というもの、
電気に頼る現代社会のあり方、放射能の恐ろしさ、安全とはなんなのか、
それらについてを、当たり前ながらより深く考えるようになったような気がします。

世界的なニュースとしては、リビアのカダフィ政権が崩壊したり、
ノルウェーでは77人が犠牲となる銃乱射テロが起こったり、
9月にはタイの大洪水で日本の企業も打撃を受け、
10月はトルコ東部で大地震…今年は本当に大きな地震が多かった。

10月には再び友人と箱根へゆきました。毎年の恒例行事。
震災直後の3月は閑散としていた温泉街にもずいぶんと人が戻ってきていましたね。
我々はそうして日常を取り戻してゆかなくてはならない。忘れてはいけない出来事を記憶に刻みつつ。

12月にはジャーマンメタルセッション、そして先日のメタルDJと、
年末もいろいろなイベントがあり、なかなか充実していました。掃除できなかった…

そうそう、最近変わったことといえば、
起きてからペパーミントティーを飲む習慣がついたことと、
毎日マントラ呼吸をして心と体を整えることでしょうか。
メタルとプログレを聴きまくることは、震災後もまったく変わりません。
そういえば、震災後はTwitterなどのつぶやきに多くの悲観的なものが目につきましたが、
自分はあるときからは努めて、日常的な、いつもの音楽情報をあえてつぶやき続けました。

自分にはそれしかできない。
メタルとプログレ、バンド、そして創作活動と、
結局、大切なものは変わらない。いつまでも大切なのです。
死ぬまで頑張ろうと、そう思います。

災害による急激で甚大なダメージを負いつつも、
人の手による着実な復興は、悲しみの中からも少しずつ勇気と希望を生み出してゆく。

我々の日常が変わってゆく。
ゆるやかに、しかし確実に…
今年はそんな一年であった気がします。

我々は、それでも生きている。
そして来年もまた、生きる。
そうつぶやきながら、この年をまたぎましょうか。


            緑川 とうせい




私的たわごと2010年
2010.12/31


人生は1つの大発見と、5つの小発見、そして4つの無駄によってできている。

CDに例えれば…1枚の大当たりと5枚の当たりと4枚のハズレってことかな。
このハズレや無駄を大事な経験とすることも、次の小発見の質を高めることになるのですよ。

というワケで、
毎年恒例のつれづれ日記です。


まずはざっと、今年を振り返りたいのですが、

我々にはちょっと前の出来事を振り返る時間すらない。
ときはあっと言う間に流れてゆき、それはただの過去となり、すぐに色彩を失う。

誰もがぎりぎりのところでやっている。
仕事に追われ、家事に、育児に追われ、携帯メールの返信に追われ、日記のレスに追われ、と
ネット社会に慣れつつある現代の我々は、
それでもなんとか肉体と精神のバランスと、リアルとオンラインのバランスをとりながら、
ときに誰かの言葉に喜んだり、あるいはへこたれながら、メールでのひと言に悩んだり、救われたりしながら、
ときに己に鞭打ちながら、ぐるぐると頭の中にうごめく得体のしれないものを、誰もが内側にもちながら…
ときにそれに気付かないふりをしながら、なんとかやっているのです。

ひとつには、昨日の昼食を思い出せる生活が欲しいんです。
我々は、今ではとてもたくさんの情報を得すぎるために、少し前の出来事を振り返る余裕もない。
次々に新しい…そう、無用なまでの情報に飲み込まれて、昨日のランチに何を食べたのかさえもう思い出せないのだ。

思い出したいんです。
昨日の食事もそう、昨日感じたちょっとしたこともそう、
空の色でも雲の形でも、昨日の小さな記憶の断片を。

はっきり言いますと、
興味のないものには敢然と目を閉じる勇気も必要です。
興味のないTVはすかさず消し、ネットに流れる興味のない情報は読む必要はない。
人の日記を読むのは目についたときだけでいい。面倒ならコメントも必要なし。そのときの気分次第でよし。
つまらぬ縛りは窮屈になる。
メールの返信は別に明日でもいい。
どうでもいいなら忘れてください。
本当に大切なものはその場ですぐにやり、あとはほっぽらかしてよし。

みなさんもぜひ我が道を進んでください。
つまらぬ思い込みや、たかがネット上での人間関係になど悩むことはない。
すぱっと忘れ、放り出し、よい加減に力を抜いてやりましょう。

誰かのコメントやイイネなどに一喜一憂はせず、自分の書きたいことを書き、どうでもいいことは適当に流し
あるいは堂々と無視し、つまらぬことに心痛めることなく、しごく適当やればよい。

いい加減、適当…本来よい意味であるはずの言葉が、そうでなくなっている。
この時代こそおかしいのである。僕はいつもいい加減に頑張っているんです。


ああ、やっと思い出してきた…
2010年はこんな感じでした。

1月…セッションや音楽関係の仲間と明治神宮へ初詣へ。

2月…バンクーバーオリンピックで、キム・ヨナの怪物ぶりに驚嘆し、真央ちゃんの悔し涙に心打たれました。
しかし雄々しくもトリプルアクセルを2回飛んだ真央ちゃんこそ、僕の中では金メダル級でしたよ。
その後の低迷を乗り越え、12月の日本選手権で見事復活を果たしましたね♪ちなみに僕と誕生日同じです(だからどうした)。

3月…とうせい主催の初めてのメタルセッション、20人を超える人々が集まっての大イベントになりました。
今年は調子に乗って、結局、メロパワ/ゴシックメタルセッション、70'sロックセッション、アニメタルセッション、
シンフォニックメタルセッション、70'sロックセッション2と、計5回も主催してしまいました。
下旬には友人(男)と温泉にも行きました。

4月、5月…花見へ行ったり、マンドリンを見たり、鎌倉へお出かけしたりと、いろいろと春を満喫。

6月…サッカーワールドカップ!前評判を覆す日本のベスト16入りに盛り上がりましたね。
本田や、香川など、その後の日本選手たちの海外での活躍は言うにおよばず。

7月、8月…夏の酷暑にうんざり。何十日も続く「真夏日」「猛暑日」の文字に、へろへろぐったりでした
チリの落盤事故が発生。この2カ月後に全員が救助されるまで、世界中が彼らの心配をしたことでしょう。

9月…イベントで人生初のメタルDJをやらせていただいたきました。ノリノリで楽しかった!
尖閣諸島での中国船の衝突事件が発生。中国との関係に緊張が走りました。

10月…シンフォニックメタルセッションで、普通じゃできないような曲をマニアックな方々たちと一緒に演奏。
DragonlandにThy Majestieを演奏したことは忘れません。
下旬には再び友人と温泉(美肌の湯)にも行きました。

11月…尖閣事件の映像がネットで流出し、Sengoku38に対する賛否両論の渦が巻き起こりました。
また海老蔵さんの事件が連日テレビをにぎわせましたね。12月に入って容疑者が出頭してそれもようやく一段落。

まあ、相当叩かれてましたけど、個人的にはこれくらいやんちゃな人がいないと世の中つまらないかなと。
彼らはその分、己の舞台において人を楽しませる義務があるわけですよ。
亀田兄弟とか、朝青竜とか、少しはみ出し気味の有名人というのは、ファンも多い一方でアンチも多い。
それは彼らがそれだけパワフルであり、ときに人を魅了しているということでもある。
どうでもいい人間のことなどは憎みもしない。ただ無視するだけ。

たとえば、中世の道化師は、絶対的な王に対しても無礼を言うことを許されていた。
彼らは人を楽しませることと引き換えに、はみ出す自由を手に入れていたのだ。
そういう点では、道化師のように生きたい自分も、たとえ人から嫌われようが、白い目で見られようがかまわない。
その分どれだけ自分と人を楽しませられるかというのが一番なのだな。

日本的に言えば傾(かぶ)き者、ということかしら。
みなさんもどうか、叩かれることなど恐れず、存分に傾いて欲しいですね。
なるほど、海老蔵さんは実際に歌舞伎役者ですしね。
歌舞伎で役者が見栄を切るときに、顔を傾けるのは、この「傾く(かぶく)」から来ているのかも。

閑話休題…

無意味に人に好かれるというのはなんだか気持ちが悪い。
むしろ適度に憎まれるほうが楽しいかもしれない。
だって、その人を振り向かせたいという気持ちになれるから。
だから、人に嫌われることなどは怖くない。

少年、少女たちにとっては、人に嫌われることはよほど恐ろしいことに思えるのでしょう。
なので、無意味に他人に同調したり、子供のくせに妙に作り笑顔が上手くなる。
どこか個性的であったり、根が優しかったりすると、心ない連中からいじめられたりもして、
それがひどくなると(最近は携帯を使った陰湿なイジメがあるしな)、ついには自殺とかも考えてしまうのだろうが、
なんとかそれを楽しむ…とまではいかなくても、恐れることなくたくわえる力に変えてもらいたいのです。
人から嫌われること…「傾き者」になることはなにも怖くなどない。それは個性がある証。
叩きたけば叩け。素直でいい。あたしゃあ、かぶきものだぜい!…という感じでひとつ。

軽く好かれるよりは、軽く嫌われる方が、絶対に進歩的だと思うなあ。
今に見ていろと、自分の中に煮えたぎるパワーをためて、ためて…
そして…いつかは。とね。

11月つづき…祖母が脳梗塞で倒れました。
脳幹部の出血だったので、もって数日と言われたのが、今も生きております。なんとか年を越せそうです。


ところで、ここで僕の言うところの道化師…傾き者というのは、ぐうたらな変わり者という意味だけではなく、
己の道を突き詰めながら、自分と他人を楽しませることを第一にする者ということです。
人には迷惑をかけたり、暴力や犯罪まがいは決していけませんが、多少のやんちゃくらいは見逃しといてください。
僕の場合は毒舌か…笑

世界において、そういう傾き者はある一定数はいた方がいいのです。
しかし、まだまだこの日本では数が足りないんですよ。

そう。人は言いたいこと、伝えたいことをどんどん言って死ぬべきです。
人生はそう長くはない。もしかしたら明日、脳梗塞で倒れるかもしれないのだから。

みなさんも一緒にもっとかぶいていきましょう♪
寺山修司風に言うなら「阿呆船に乗って出航だ」という感じかしら。

12月…左の腹が割れて、2センチくらいの固い膿のような塊が出てきて、すぽんと取れた、
という夢を見て妙にスッキリした。
そして、メタルとプログレCDレビュー888枚達成!もうなにも怖いものはないな。


さて、今日は大晦日。
空は晴れ渡り、電車から見る夕焼けが綺麗でした。富士山も見えました。

今夜は格闘技とさだまさしが楽しみ。格闘技界の道化師…桜庭さんには頑張って欲しいですね!

来年もひとつ、メタプロと物語を背負って頑張ってゆきます。
どうかよろしくお願いします♪


              緑川 とうせい



私的たわごと2009年
2009.12/31


オバマ氏がアメリカ大統領に正式に就任、世界的変化の兆しを感じつつも、
イスラエルによるガザ攻撃など、変わらぬ人間の醜い行いに憤りつつ始まった2009年、

夏の衆院選では民主党圧勝で、政権交代が実現。
なにかが変わるかとかすかな期待も当時はありましたっけ。

また新型インフルにおびえた今年でもありましたな。
それから、ノリピーをはじめ薬物事件のニュースがテレビをにぎわせ、
見たくもない高相や押尾の顔をテレビで連日のように見せられうんざり…
草g剛の飲酒&逮捕などは、いま思うとかわいいものでしたな。

スポーツではWBC日本代表の歓喜の優勝にはじまり、イチローの大記録達成、
そして松井のワールドシリーズMVPと、なかなか楽しみの多かった年でした。

個人的には、メタプロ新年会で人生初のインフルに感染。
まさか、その後新型インフルが世界的猛威をふるいだすとは、つゆとも知らず…

4月には待望のグインサーガのアニメが始まった…とルンルンしていたら、
5月下旬には、敬愛してい栗本薫さんの訃報に大きなショックを受けました。涙
今年は他にも、忌野清四郎さん、川村カオリさん、マイケル・ジャクソンさんなどなど、
その早すぎる死に無念を感じることも多かったような。

なんだか、今年はとくに、「死と復活」というものを強く感じた年でした。
というのも、去年のつらかったとき、あまり元気のなかった去年の自分からしてみると、
振り返っても、今年はいろいろ充実していたなあと思えますので。

なんとなく参加してみたプログレセッションとゴシックメタルセッションが、自分にとってひとつのきっかけとなった気がする。
いろいろな人たちに会って、一緒に演奏することで、音楽やバンドの楽しさというのを再認識させていただいた。
これのおかけで、また新たにバンドを始めたり、ライブもやったりと、音楽の能動的な楽しみが広がったし、
グインや音楽のおかげで、新たにいろいろな人たちと出会えた。
今年出会ったみなさまも、いままでの方々も、本当にありがとうございました。

やはり、自分からどんどん扉を開けてゆかなくてはダメなのですね。
過ぎ去った過去の扉とは潔く別れ、やわらかに微笑んで、ただ敢然と前を向いてゆく。

かかとの減った
ブーツに足を、つっこんだなら
昨日の扉に鍵かけ出掛ける

今年の僕のテーマソングはいつもこの曲だった気がします。

いまとなっては、もう人から嫌われるのも怖くないし、さして物事にも動じることもなくなった。
どうせあと何十年かでこの世から消えるのだから、
ためこまずに言いたいことを言いつつ、なるべく自らの美意識に沿って生きるべきなのです。
四十にして惑わず…その何年か前に、その境地に達しつつあるような気がします。

ただし、先を見すぎてもいけない。ずっと先のことはおぼろげでもいい。
たとえば大切なのは、去年イメージしていた今年の自分に、いまはなれているのかどうかとか。
どうも少し違う方向に来てしまっているぞと思えば、それは微調整が必要で、これでいいと思うのならそのままいけばいい。
気づかぬうちにときは流れ、調整のきかない方向に流されてしまわぬように。
しっかりと、近い未来の自分をイメージして、今日と明日をすごすのだ。
ただし、人生には正解も不正解もない。これでいいと思ったらそれが答え。

その点では、自分は毎日「これでいいのか」と自問しながら生きているような気がする。
まさに道化師の自問。笑
その積み重ねでCDレビューをし、原稿にいそしてみ、ドラムを叩いて、夜には芋焼酎を飲む。
これでいいのだ(バカボンのパパ)!

敬愛する人生の先生はもう、いなくなってしまいましたが、
結局のところ、僕は先生から教わってきた「言葉の力」というのを信じているので、
これからも少しでも誰かを楽しませるために頑張るだろうし、
弱音は決して吐かず、楽しく強がる方向でやってゆきたいと思います。

で、秋にはRIOTのライブも見れたし(サンデスティ〜ル!)、友と温泉にも行ったのう。
小説もけっこう書いたし、CDレビューはいわずもかな。850枚!
なにかを犠牲にしなくてはこんなには聴けない。
こ…これでいいのだ。うむ。

それから、プログレイベントで、大勢の人を前にバンドの解説をして曲を流すという、いい経験もさせていただいた。
これはやってみないと難しさが分からなかった。次にやるときはもっとスマートにできるかと。笑

来年もまた、変わりゆく日々の中、過ぎ行く時間の中で、あくせくし、
ときにまったりとして、黄昏の空と雲を眺めつつ、
またしてもすぎてゆく1日の速さに驚くのだろう。
温暖化に心を痛め、エコだ(江古田じゃない)と頑張ってマイバックを持ち歩き、
とはいってもDisk Unionで安い中古CDを買いまくり、
麦とホップと、たまのエビスで風呂上がりのささやかな晩酌をし、
CDの山の中で原稿にいそしみ、コーヒーのお供にはカカオ70%チョコをかじり、
カントリーマアムか文明堂のどらやきなどをおやつにして、
ときには憂鬱な午後を乗り切るのだろう。
ドラムも叩くし、セッションやバンドで、人々とまた交流し調子付いてアドリブ叩きまくり、
メタルとプログレのライブも勇んで見に行くだろうし、、
ワタミでほっけをつつきながら、ハイボールか焼酎のお湯割りをいただくだろう。

10年はあっというまです。
とくに20代後半から、30代後半への10年というのは、
かつてないほど早かった。

やることも多いし、やりたいことも多い年代だから。
理想と現実の狭間で、なんとか折り合いをつける術を身につけ、
なんとか、のらりくらりとやってゆける自分なりの方法を見つけるときだから。

つまりは、充実しつつ忙しく、そしてあっと言う間だという。
そんなときを過ごしてきたわけだ。
これからはどうなるのだろうね。

それはまた次の1日から始まる。
なにも変わらないように思えても、少しずつなにかが変わってゆく。
それが次の10年なのかもしれない。

なにも怖くない。
変わらなくてもいい自分というものを見つけられたなら。

みなさまは、どんな一年でしたか?

ぼくはこれから格闘技見て(魔裟斗、サワーに勝つか?!)、
メシ食って、風呂入って、酒飲んで、さだまさし見てから寝ます。

では、よいお年を〜



               平成21年 12/31   緑川 とうせい


「愛を求めてさまよう子ども」
2009.9/15


我々はみな、愛を求めてさまよう子どもだ。

愛のため格好の餌食になるときもあれば、
狩りの達人として羨望を受けることもある

暁の憂鬱から、黄昏の寂しさまで、
我々はただ、なにかを求めて、しかも満たされず、
それでもまだ希望し続けなくてはいけない。

それに疲れたものは、
自らをあきらめるか、誰かをあきらめるか
生きるのをあきらめるかの選択を迫られる。

席を外せないつらさ、
にこやかに振る舞うことの息苦しさ
すみやかな返答、しゃれた相槌を求められ、
それに成功するか、失敗するかで、自分の価値が決められる

他人の目と他人の言葉とを、常に神経質なまでに気にして
冤罪や誤解に恐怖して、無視と陰口に想像力を浪費して疲れ果て
解き放たれるのは夢の中だけ

心の中の怪物が製造されるのもまた同じ。
それでも夜明けがくると、怪物と心の暗黒をどこかに押しやり
しっかりと扉を閉じて、かっちりと鍵をかけなくては。

見られたらおしまい。評価がすべて
またロボットの一日だ。

メールの返信マシーンになっているときは
己の心の闇は忘れられるだろうし
それでいて、
いくら文字を打ち続けても寂しいのは何故だ

たわいない慰めや褒め言葉で、ほんの一瞬救われても、
それが過ぎると、もっと言葉が欲しくてたまらない。

自分だけへの特別なことば。
魔法の言葉を、誰もがいつも求めてる。

呪いを解いてくれるその言葉を。
なにもかもが受け入れられる、
すべてが許される
そのときを。

それを夢見て人は

今日のロボットを乗り切る。





「忙しさにひそむ空虚」
2009.2/7


それなりに忙しく、それなりに日々が充実しているはずなのに、
でも、どこか虚しく感じるとしたら…
それは、あなたが自分と向き合う時間が少ないからだ。

人間は考える生物であるから、行動するのと同じくらい
考える時間がなければ、本当の充足は得られない。
そこにあるのは、ただ流されるだけの気楽だが虚しい時間である。

現代の人々はあまりに瑣末に忙しすぎて、
自分自身と向き合い、一人きりで自分を考えるという
その当たり前の時間が極端に減ってきているようだ。

パソコン、携帯、メールなどの普及、
仕事中や学校などでも、メールがくればロボットのようにそれに返事を打つか、
あるいは「返事を書かなくては…」というくだらない束縛によって心の自由を失う。

仕事や学校が終わり、本来一人でいられる自由な時間を得たとしても、
またしてもメールやパソコン、ゲームなどに追われ、その忙しさに変わりはない。

本当に一人になって己自身を見つめなおす時間というのは
そんな人々にどれくらいあるのだろう。
ブログの更新やmixiの日記、コメントのレスなどに追われ、
その間にも携帯の着信はせわしなく鳴り続ける。
静かに一人でいる暇などない。
やることは次から次にあって、気づけばまた明日になっている。

友達とカラオケ、週末の愉快な飲み会、趣味に費やす充実した時間…
やることは多く、日々はそれなりに楽しいらしい。
それでいて、ふと立ち止まったとき、なにか虚しいのはなぜなのか。
そうしていつのまにか、ただ時間だけがすぎてゆくのはどうしてなのか。

気づけばひと月が過ぎ、1年が過ぎている。
それもあっという間に。

自分と向き合うことなしに過ごすことは、独りでいる寂しさを紛らわせはしても、
己の本当の強さを育むことなく、自分を見つめることを先延ばしにしてゆくことだ。

自分はこれでいいのか?
すべてはこれでOKなのか
今の方向は間違っていないか。
気に入らない部分があるとしたらそれはなんなのか
ではどうすればいいのか

そうやって煩悶し、悩み、ときに孤独を味わい、あるいはそれを楽しみながら、
そうやって人の心は時間とともに強くなるべきはずなのに。
己と対峙することでしか、己のゆくべき道の先をイメージすることはできないのに。

ただむやみに忙しくしているだけでは、それは逃げることとなにも変わらない。
虚しさを紛らわすために、忙しく駆け回り、メールの文字を打ちまくり
仲間とたわいない話をし、気ぶっせいに笑うだけでは、
しょせんは、次に独りになったときの寂しさをただ増すだけなのに。

まず、人は独りであることを認めるべきなのだ。
そこから、己自身との対話が始まる。

自分を見つめ、答えを探し、答えが見つからなければまた悩む、
それでいい。

ブログの新着コメントに安堵し、携帯メールの返事が早いと嬉しくなる、
逆にメールが来なければ不安でたまらなくなり、
次の週末の予定が決まらないと、仲間外れにされたような気分になる、
それは孤独の寂しさに耐えられない人間の弱さである。

己と向き合う時間、ただ独りで考える時間をもてない人間は
他人からの適当な言葉で一瞬だけ救われた気分になり、
その喜びが冷める前に、また次の言葉をもらいたくて仕方がなくなる。
それは現代病ともいうべき、心の弱さの連鎖に他ならない。

その前に本当に必要なのは、自分自身と語ること、
最初の問題はすべて自分の中にあることを知ること、
それを乗り越えたとき、
あるいは孤独を楽しむことで、己自身に立ち向かえたとき
初めてその人は確立した「個」として、本当の他者と触れ合う強さを身につけられる。

まず、悩むべし。
そこから逃げないで。
携帯に手を伸ばす前に、ブログのコメントにレスをする前に、
するべきことはそれだ。

自分自身と向き合い、独りで考えること。
そして、
自分はこれでいい。これでいいのだと、
そう思えたら、それは最高の喜びだ。

こういう時代だからこそ、自分自身の確認はいっそう大切になる。
情報が溢れ、他者との境界が曖昧になり、メールやネットでいつでもつながれる…
そういうふうに、孤独から背を向けるのが当たり前の時代だからこそ、
己の心とまっすぐに向き合い、対話できる人間は、決して道を間違えない。

創作における真理もまたしかり。
それは独りで静かに己と向き合うこと。
それなしには、決して心の奥にある創造の泉は満たされてはこないのだから。

これでいい。
私はつねに自分にそう確認する。

悩みながらも独りで、
これでいいのだ、と。





「年の瀬に思うこと」
2008.12/31


今年もいよいよ終わりですな。
いやー、早かった。
毎年同じようにそれは感じるのですが、
今年はなんだか…特にそう思います。

まあ、個人的にもいろいろと面倒なことがあったりで、
精神的にも余裕がなくなり、小説を書くこともままならない日々もありましたが、
過ぎてみればそれもすべてはたわいのない物語。

己を見失わず、己のなすべきこと、やりたいこと、
つまりは希望に向かって進んでゆく、ただそれだけなのですな。
たとえ一時は停滞しても、あるいは疲れ果て、ときに歩けなくなっても
だったら這ってでも進めばいい。年間1cmでも進めばそれは前進。

いつだって前のめりでゆきたいものです。
過ぎ去っていった風の香りは、いずれ忘れるだろう。
新たな新緑の風の、そのかすかな芳香に気づいたなら
僕はもう決して戻らないだろう。

食品偽装やら、悲惨な通り魔やら、ひき逃げやら、
リーマン破綻による不況の波やら、
筑紫さんや飯島さんや、著名な方々が亡くなったり、
清原や桑田が引退したり、
なんだか、なにがいつ起きたのだったっけ?
というくらい、いろいろあった年でしたけど、
それでも我々は、日々を同じように生きようとしなくてはならず、
スーパーでは冷凍食品の原産国を確かめたり、値上がりした商品を切り詰めたり、
同時にまた温暖化だエコだと、マイバックを持って出かけたり
レジ袋いりませんと、勇んで言う回数が増えてきたり、

いろいろな問題、事件、環境の変化の中で、それでも
そう愉快ではなくても、なんとかそれなりに過ごしてきましたね。

オレオレ詐欺の魔の手や、凶器と化した飲酒運転車や、
身近にいるかもしれない殺戮犯や変質者の影に怯えたり
学校裏サイトや携帯でのいじめにあう少年少女たちや、
相変わらず横柄な政治家たちや、
新型インフルエンザや、中国産ウナギや冷凍ギョーザやら、
さまざまな問題に心痛めたり、時に見ぬふりをしながら、
なんとか生きてきた。
そしてまた生きてゆかなくてはならない。

駅前で声を張り上げる募金運動の子供らを前に、
下を向いて通りすぎることに罪悪感を感じるのなら、
ただポイ捨てや、歩きタバコや、飲酒運転や、電車内での携帯通話をやめる方が
よほどモラルに叶った優しい社会に貢献できる。
もちろん募金できるならすればいい。
それを己の心のなぐさめにするという自己満足でないのなら。

いや、そんなことが言いたいのではなく、
来年もまた、我々は同じように生きてゆくだろうということ。
来年はいい年になりますように、と
毎年のささやかな希望は、年が明けたほんのひと月で、
錆びた鉄のように池の底へ沈むだろう。
またきっと、来年も
悲惨な事件やら、ネットや携帯がらみの悪意やら、
食の危機やら、物価高やら、政治家の汚職やら
不適切な発言やら、タレントのスキャンダルやら
著名人の死やら、スポーツ選手の引退など、
あれやこれやが、次々に湧き出てきて、
TVでニュースを見たその一瞬だけ我々の心をきゅっと痛ませたり、
にわかに自戒の念を強くして、ほんのしばらく世間の話題となったのち
濁流のごとき流れの中で忘れられてゆくのだろう。

つまりは、
我々はたいして変わりばえはせず、
また2009年を、よちよちと、そしてのらりくらりと生きてゆくのだろう。
気づかぬうちに温暖化が深刻なまでに進んでいたように、
気づかぬうちに、人心はすさんでゆくのかもしれないし、
あるいは、なにかのきっかけがあれば、少しは良くなるのかもしれない。
そう思いたい。

さあ、
夕方からは盛大に格闘技が始まる。
お決まりの紅白を見る方もおられるかな。
そばを食べたのち、風呂に入って、
一杯やりながら新年を迎え、
NHKのさだまさしの番組を見て、
新年の実感も沸かぬまま。
そのまま眠りにつくだろう。

そうやってまた年を越え、
ひとつ歳をとり、
我々は人生を過ごしてゆくのだろう。

せめてそこに、
楽しいこと、嬉しいことを
ひとつでも多く迎えられれば
つらく悲しい出来事もただ、
笑顔で振り返られるだろう。

僕はまたプログレとメタルで。

そして物語で。

ときを、またぎます。

みなさま、よいお年を





「迷走の意義」
2008.11/24


目的が見えずに迷走しているときが人間一番つらい。

ここで定義する「迷走と」は、
次の目的が見えずに、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、
これでよいのかと思っても「やっぱりこっちじゃない」と、
分からなくなりながらも動かずにはいられないということ。
もどかしさとあせりでワケがわかなくなったりして、そんなときは自信もなくなるもの。
先の見えない迷路にいるような感覚なのだから、それはつらいものだ。

反対に、確固たる目標ができて、それに向かって邁進しているときが
人間は一番力強く、自信に溢れている。「これでよい」と思えたならば、それに向かってゆくだけ。
ちょっとした困難があろうと問題ではない。それを乗り越え突き進む。
それは強く、そして美しい光に満ちて人を輝かせる。

人間だれしも、迷走時期に陥るものなのだが、できればそれが短いほど幸せなのだと思う。
もちろん、迷走は無駄ではなく、それはいうなれば、「ガイディングライト(導きの光)」を
見つけるための努力なのであり、あるいはいくつか見えている光から、
より求めたいものを選んでゆくという期間でもあるのだと思う。

人生の中では、生涯の目標となるような大きな光が見つかるときも何度かあるだろうし、
小さな光を見つけて、それを得てまた次の光へという連続もあるだろう。
マラソンにたとえるなら、ゴールという最大の目標があって、それに達するまでの、
小さな目標がある(次の電柱だったり、次の曲がり角といった)。

ゴールの決まっているマラソンランナーというのはある意味幸せなのである。
そちらへ走りつづければいずれは辿り着けるのだから。
しかし、人生においては、その目指す方向というのは、なかなか焦点が定まらなかったり、
行ってみたらやっぱりこっちじゃなかった…などということもままあるだろう。

そういう点では、人生とはゴールそのものを見つけ出すマラソンであるともいえる。
その間に、偶然に小さな目標を見つけたりすることが、
日々を生きている我々の喜びであったり、モチベーションであったりするわけだ。

そうした、「小さな目標」というのは案外とても大事である。
それがあるからこそ、今日を頑張れたり、困難を乗り切る意志の力が生まれたりする。
あるいは、その小さな目標のためにつらい決断を可能にしたり、
もしかしたら死を思い止まったりすることもあるだろう。本当にちょっとしたことでも。

次の目標があれば、そこまでは走れる。
その光を目指してゆける。そこへほゆけると信じることで、そのための努力したり、
自分を叱咤して頑張ることで、自分を高めることにもつながるのである。

なので、次の目標がまだあやふやで、どっちへ行くべきかよく分からない…
それでも走りつづけなくてはと焦っている…そのような迷走の時期というのは、
精神的にもとてもつらいし、自分の生き方に自信が持てずに苦しかったりする。

しかし、迷走は決して悪いことではない。
それが次の光を探すための意味ある迷走ならば。そして己の意志で走っているのならば。
それならば、きっといずれは目標が見つかるだろう。

ひとつの目標をクリアすれば、新たな次が見つかるだろう。
次は迷走期間を少なくできればなお素晴らしい。
そうして、いかにそのときの目標を自分のものとして、それを喜びとしてゆくかで、
人生が充実感に包まれてゆくのではないだろうか。

探す必要のない目標というのは、すでにその人の人生のテーマになっている。
そういう幸運な人間にとっては、苦痛も困難もさほど問題ではない。
そこへつながる小さな目標を見つけて、次々にこなしてゆけばいいのだから。

さて、私自身の次の目標は決まった。
できれば今年中にやり遂げて、次の目標にそなえたいものだ。



「自分の中の大切な暗黒」
2008/6/10


暗黒は大切です。

それは誰にでもあるもの。
それは決して、殺人犯や通り魔だけが異常なのではなく、我々の中にもある暗黒なのです。

まずは、秋葉原での通り魔被害者の方々にはご冥福をお祈りします。
しかしながら、こうした事件において、犯人の異常性のみが問題なのではなく、
普段は真面目でおとなしい人々が、自らの暗黒をこのようにしか表現できなかったということが悲劇であるのです。

人間には誰にでも内側に暗黒を持っています。
大切なのは、それと対峙して、しっかりと自らの暗黒を知り、認め、それと上手に付き合ってゆくこと。

今回の犯人もそうであったらしいですが、周りにはいい人を演じ続け、
己の暗黒を隠したまま、溜め込んでゆくというのは、とても危険です。

ちなみに、自分の場合は、小説や音楽があるので、己の暗黒を表現し、
客観視することで、それを昇華しております。
人間には、少なからずそうしたものが必要で、楽器を演奏したり、曲を作ったり、
物語を書いたり、絵を描いたり、 あるいはそういう具体的な表現でなくても、
カラオケで歌ったり、運動をしたり、世界を共有できる親しい友人と話すことなどでも、
己の暗黒を溜め込まずに済むのですね。

しかしながら、世間一般では暗黒はさほどよしとされない。
いい人であることを親に義務づけられ、上辺だけの友人には明るくふるまわざるをえず、
会社では仕事のできる快活な人間であることを己に課し、恋人の前でも爽やかでいなくてはならない…
嫌われないために、いい人でいるために、己の暗黒を隠し、心の中にしまい込む。
それはとてもストレスであるし、あるときそれが爆発すること(キレるというやつ)は、
その度合いによっては周りにも深刻な影響を及ぼすし(こうした事件のように)、
本人自体を破滅させてしまう。

暗黒のためすぎには注意しましょう。
もし、自分が親になったら、子供には良い子でいることよりも先に、物語や音楽を教えたいものです。
己の世界を表現できる場所を教えたい。いざというときに、自分の感情をぶつけ、光と暗黒を知り、
そしてそれを冷静に見つめられるということは、とても大切なのだと思います。

暗黒は大切です。そして光もまた大切です。
それらは上手く使えば、素晴らしい創作にもなるし、なにかをなしえるエネルギーにもなる。
たとえば音楽を聴いていて、自分は絶望的に暗いゴシックメタルとかも好きなんですが、
「ああ、いい具合に暗黒を使っているなあ」と感心することもあります。
素晴らしい暗黒のデスメタルとかはもう、うっとりですね(笑)
逆にいい子ぶっているメタルは嫌い。もっと怒れ!もっと暗黒を表せ!などと思ってしまいます。
それこそが自己表現というやつです。綺麗すぎる、整いすぎるメタルはダメ。

自分も、物語などに己の暗黒をぶつけますが、出来上がったものを見て、
自分の内面をさらけ出していることが、ときに恥ずかしくもありますが、またそれが心地よくもあります。
自分の内側を表現するというのは、気恥ずかしかったり、ときに勇気もいるのですが、
それによって己を改めて見つめ直せたり、自分自身の暗黒を知り、
それと上手く付き合ってゆけることにもなるわけです。恐れずに自分を知ること。

話が少し脱線しましたが、
つまり、もっと世間が暗黒に対してオープンになることも必要なのだということです。
いい子ちゃんだけが褒められ、みんなが「良い人」を演じなくてはならないというのはそれこそ病んでいます。

たとえば、学校の授業などで、もっと一人一人の内面を見つめたり、
深い部分の感情を発散できる授業なども必要なのではないかと思いますね。
人間としての暗い部分はなるべく見ないようにして、なかったことにして生きてゆくというのは、
いずれは歪められたものが煮えたぎり、どろどろとしみ出していってしまうでしょう。

人を殺しまくるテレビゲームや、携帯メールなどでの陰湿ないじめ、学校裏サイトなどでの匿名の書き込み
くらいが子どもたちのストレス解消の手段なのだとしたら、そんなに恐ろしいことはない。
誰かを犠牲にして成り立つ平和…それはまるで中世の魔女狩りです。
このままでは、我々の社会には、
人の心の痛みも知らない、ただ上手くメールのやりとりができる返信マシーンでしかない、
そんな上っ面だけは優等生の、心の中の怪物をどんどん生み出し続けてゆく気がします。

一人一人の持つ薄暗いものを早いうちから保護者が見つけてやり、
人に迷惑をかけずそれらを上手く発散する方法を教えたり、
己の内面を表現できる手段を若い内から身に付けておくことが、
建前や偽りの自分に流されずに生きる上で、とても大切なのではないかと思います。



「思考停止について」
2008/4/3


考えようによっては「かわいい」も「素晴らしい」もひとつの思考停止なのだな。

人が物事を考え、それを自分の中で咀嚼し、表現するまでには、多くの「揺らぎ」が必要で、
単に絶対的な価値(「かわいい」、「素晴らしい」もそう)に頼ってしまうと、
その時点で自分自身で思考することをやめていることになる。言葉自体に縛られてしまうわけだ。
お決まりの価値観にとらわれずに、自身の心の生み出す言葉で、自分の考え出す価値を語ること、
それこそが表現的な成長でもあるし、人間としての向上でもあるのだと思った。

たとえばJ-POPなどでのお約束の「泣ける歌詞」なども、
大半はそうした思考停止の価値観で、聴き手を誘導しているのだと気づけば、
どれが本物の歌で、どれがそうでない押しつけの商業曲なのかが判断できるだろう。
「泣け」「感動しろ」というメッセージは、そうした音楽や映画などにはいくらでもある。
それに素直にハマってしまうのもいいけれど、ときには自分の「思考停止」を疑って見るのも必要かと。

ニュースの事件などで、お気に入りのキャスターの解説に「そうそう」と安易にうなずいてしまう瞬間も同じ。
与えられた情報のみに踊らさせて、画面の中でのもっともらしいコメントにただ迎合してしまうのはとても危険だ。
尊敬する先生が言っていたから、大好きなアイドルが言っていたからと、
誰かの価値観の上にあぐらをかいたとき、その人の思考は停止している。
それを自分自身の価値観だと錯覚して気づかないのだとすれば、都合のいいロボットと同じことだ。

考えれば考えるほど、多くのメディアの圧力に知らぬうちにさらさせている我々は、
日々の気づかない思考停止によって、本来生まれるはずの自分(考え、言葉)を殺し続けている。

いかなるときも、自分自身で考え、揺れ続けながらも、本当の言葉を探す強さを持っていたいものだ。
植えつけられた価値観ではなく、思考停止の決めゼリフでもなく。

揺れ続けていいのだ。それが人間。
迷い、苦しみながら考え続けることが本当の強さなのだと、そう思ったしだい。


*参考
自分の「思考停止ポイント」を発見する
http://www.1101.com/essay/2001-04-04.html



「ネットで拾った言葉」
2008/3/23


人は苦しいから問題を解決しようとする。
しかし、本当は問題を解決しようとしているから苦しいのであって、
実は、解決しないと困るという思い込みであるにすぎない。
つまり、「困る将来」を自分が勝手に創造しているのだ。

未来を憂いて、逆算して今どうすればいいか悩んでいる。
それは馬鹿らしい。

恐れの心から出た行動は、何にせようまくいかない。
常に「良い・悪い」という価値観を持たないで行動すること。

自分の行動の結果について期待しすぎない。
「そうならないと困る」という場合には、結果に対する期待があるわけで、
そこで思っていたようにならないと、また穏やかでいられなくなる。

まず、「私たちは、結果を生み出す力はない」と考えて見ること。
思い通りにならなくても、「これこそがベストなことなんだ」
そう思えることこそ大切な心の余裕となる。



「セルフ・アイデンティティ」
2008/3/6


自分はだいたい毎日のように、
「自分はこれでいいのか」、「自分はなんなのだろう」と、
問いながら生きている。

つまり、セルフ・アイデンティティの確認だ。
自分が今やっている作業に満足しているか。
あるいは満足できなくても「納得」しているか。

それは自分にはとても大切であって、自分を見失わないための指針でもある。
そんな暇もなく、締め切りに追われてただ原稿を書きまくっていたこともあったが、
それでもやはり「納得」しているかどうかで、その仕事の出来は変わったし、
終わってからの達成感もあった。

つまり、自分はいつも自分でいたし、いっときは見失いかけたこともあったにせよ、
なにも考えずにただ働かなくてはならない立場の人々に比べて、
そこだけは幸せだったのだと思う。
つまり、自分にとっての幸せとは、金でも地位でもなく、
自分自身でいるという、ただそれだけのことなのだ。

それを守るために、自分は仕事を選んだし、
ときどきは貧乏であったにせよ、心だけは豊かでいられたのだ。

それはこれからも変わらないだろう。
あるいは、なにかが上手くいって、名誉やら地位やらが手に入ったとしても。
それは二次的なことにすぎない。
それはオマケで、結局は自分はやはり自分であり続けるだろう。

目的となるおぼろげな場所のために、確かな目標を育てよう。
それが日々を潤す。それが己を深化させる。

心を研磨しながら、強さと優しさを身に付けてゆこう。
それが俺の生き方である。



「魔法の言葉」
2008/2/26


ひとは幸運の時は偉大に見えるかもしれないが、
真に向上するのは不運の時である。
〜シラー(詩人・劇作家)〜

自分を知ること。そして、自分に忠実であること。
人間にはあらゆる生き物と通じ合える命の火花がある。
これを忘れないようにして毎日の仕事をしていかなくては。
〜デイヴ・ブル−ベック(ジャズミュ−ジシャン)〜

完全な幸福は何も教えてくれない 
〜 コレット(小説家)〜

人生には素晴らしい喜びがたくさんある。
人生は冒険に満ちている。
先はわからないし安全でもない。
でも、頭をはたらかせれば、
きっといい冒険ができる。 
〜マーチン・ゴッドフリード(作家)〜

人は結局自分のやりたいことをします。
人を、自分の思い通りになど動かせません。
わたしたちにできることがあるとすれば、
ただ自分をみつめることだけなのです。
〜 アン・ウイルソン・シェイフ(学者)〜

おまえの口から出る言葉がおまえを生かすのだ。
おまえの口から出る言葉がおまえを殺すのだ。
〜 ボブ・マーリイ(歌手)〜

終わりというものはない。始まりというものもない。
人生には無限の情熱があるだけだ。
始まりと思うのも自分、もう終わりだと思うのも自分。
〜 フェデリコ・フェリーニ(映画監督)〜

人生でいちばん喜ばしいのは、
君にはできない、と思われていることをやってのけること。
〜 ウォルター・バジョット(経済学者) 〜

流れるように日々が過ぎていくとき、生きるのはたやすい。
大切なのは八方ふさがりのときでも、
微笑むことができる人になること。
〜 エラ・ウイーラー・ウィルコックス(詩人)〜

人は、自分が自由だと気づき、その自由を使いたいと思うやいなや、
その人本来の活動が始まるものだ。
〜サルトル(哲学者)〜

あるがままの自分になろうとするのが、
幸福におけるもっとも重要なポイントである。
〜 デシデリウス(オランダの哲学者)〜

人のからだは庭だ。
そして庭師は人の意志である。
〜ウイリアム・シェイクスピア(劇作家)〜

どんな不幸のなかにも幸福がひそんでいる。
どこに良いことがあり、どこに悪いことがあるのか、
我々が知らないだけである。 
〜 ビルジル・ゲオルギウ(ルーマニアの詩人) 〜 

覚えておいてほしいこと。
彼または彼女が、『運命の人』だったとしても
永久にそう思い続けなくていい。
この恋に破れても、それは別の恋が待っているからかもしれない。
いつまでも悩むことはない。
だって、少なくともいっときは、心から愛し合ったのだから。
〜 ペッパー・シュワルツ(ワシントン大学教授)〜

人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬も早すぎず、一瞬も遅すぎない時に。
〜森 信三(哲学者)〜

君の魂の中にある英雄を放棄してはならぬ 。
 〜 ニーチェ(哲学者)〜

他人を愛することは、最も難しい最後の試練であり、
他のすべてのことは、そのための準備にすぎない。
〜リルケ(詩人)〜

あなたが自分を「美しい」と思った分だけ、
人はその美しさを認めてくれるものだ。 
〜ジョセフ・マーフィー博士〜

どちらかが去るべきときが来たら、
そのことに気づき、
思いやりと許しと感謝の気持ちで相手を送り出しなさい。
これこそが、愛に関する最も重要な教えです。
〜 バーバラ・アンジェリス(心理学者)〜

道中なんのトゲもいばらもなく、
聖なる住居にたどり着いた旅人はいない。
〜ウィリアム・クーパー(イギリスの詩人)〜



「道具に支配されるなかれ」
2007.12.28


ネットやパソコン、携帯などは、本来は人類の未来に素晴らしい貢献をするはずの道具ですが、
我々人間の心の弱さもあってか、近頃とみに負の影響が目立ちます。

便利なはずの道具にいつのまにか支配され、悪しき心や薄暗い欲望を助長し、
それを内側にためこみながら、しだいに麻痺するように影響されてゆく我々…

もちろんメールやネットでしかできない関係や、ステキな友人、
素晴らしき表現手段、有益な情報力など、活用すべき良さも多いわけですから、
大切なのはちゃんと理性をもってそれらを享受すること、ですね。

CG
ゲーム、テレビ


自然のままのもの(映像)が減り、綺麗に整えられたものばかりが目につく。汚れのない精巧な虚構世界。

現実と虚構世界との境界が曖昧になる。

実際の痛みや、恐怖ではなく、作られた感覚の方が確かに思えてしまう
パソコン
インターネット


クリックするだけで自分の好きな情報をとり出せる。無駄のなさ

論理的思考のみが増して、創造性、応用性が失われる

イライラ、ストレスの増加。無為な時間や相手との好意的でない接触にキレやすくなる
メール、ブログ

好きな相手とだけ連絡がとれ、つながることができる。
自分(たち)の世界のみでの楽しみ

不要なものの排除。
近くにいる実在の人間よりも、ネットワーク内の相手に心をくだく。

悪意すらも手軽に送信でき、匿名的な曖昧さで相手を攻撃できる→いじめ
携帯

どこにいても好きな相手とだけ連絡がとれ、つながることができる。

不要なものの排除。
近くにいる実在の人間よりも、離れたメル友の方に心をくだく。

目の前の現実(人間)に触れる生活時間の減少。
親や近所の人間ですらも実像を把握できない

日常的なストレス

家族間での役割を演じること
両親との関係不和
|
学校、会社での違和感、疎外感
満員電車など、個を冒される非人間的な空間
集団の中での自己のアンデンティティを維持する難しさ

生きることそのものの苦しみ→
食料偽装、振り込め詐欺、政治家の汚職など、テレビで見せられる暗い事件、ニュースの数々

社会への不信
人間そのものへの不信 →

無気力、無関心
将来の希望の減少

投げやりな事件
弱いものへの暴力の増加
自殺
テレビ、CG、メールになどへの過剰な依存、時間的、感覚的な麻痺
大人(社会)への不信

疑うことのストレス
疑われることのストレス

疑心暗鬼、信じられるものの減少(友人、恋人すらも…)

過剰な怒り、身勝手な論理、DV、
自己抑制の欠如
or
他者との接触への恐怖、
内的な引きこもり

もちろん、ここに書いたものだけがすべての要素ではなく、
おそらく、根源的な部分での始まりは、生まれてきての最初のコミュニケーションである
親と子の関係に大きく関わっているとは思いますし、
もっと様々なことが相互に絡まりあい、複雑かつ微妙に影響し合っているのだと思います。

たとえば、電車内でのマナーの悪さは、目の前にいる他者への配慮のなさ、
そして想像力のなさであり、自分の仲間、友人以外の存在には意味を感じていないから。
彼らは現実のコミュニケーションがあって、初めて相手を「生きた人間」だと認識するので、
そうではない相手に対してはなにをしても、どんなところを見せてもさして気にならない。
電車内で人目もはばからずにけばけばしく化粧直しをしている女性をよく見ますが、
彼女にとっては彼氏以外の男は「自分に関係がない」ものとみなしているわけです。

極論を言うなら、そうした自分に関わりのない他者の生はどうでもよい、
生きようが死のうが、笑おうが怒ろうが、自分にはどうせ関係がないのだから。
なので、いきなりその他者が自分に対しての怒りを見せたり注意をしたりすると、
ぎょっとなって「なんだこいつ」という顔で驚き、そしてすぐにキレるわけですね。
いきなり背景にまぎれていた人形だったものが生きている他者…自分とは異なる考えをもった
実在の人間だと気づいて、それに驚き、うろたえ、あるいはパニックになって、
短絡的な怒りとともに殴り掛かったり、ひどいときには排除しようとしてしまう。

すべては想像力のなさであり、
そうした連中は携帯の向こうのメール相手のことしか見えていない、考えていない。
つまり「灯台もと暗し」型人間には、目の前にいるはずの実在の人間の人生が見えないわけです。
まあ、それらがすべて、美麗なCGやゲームや携帯やネットやメールやブログや食品偽装などの
せいとはいいませんが、それらは確実に要因のひとつとして関わっていることは確かだと思います。

道具は上手く使うもの。
道具はしょせんは道具でしかない。

そんな当たり前のことを我々は忘れかけている。
あるいは少しずつ麻痺してきている。
少なくとも、ハンドル名しかしらないメル友よりも、今すれ違った実在の相手の方が
はるかに確かな人間であるのだという、そんな当たり前の事実をちゃんと理解するべきですね。

そうすれば、少なくとも
歩きタバコの煙で後ろを歩いている人間が迷惑していることに気づくだろうし、
電車内でものを食べれば、横で誰かがかぎたくもない匂いをかいでいることも分かるだろうし
座席で必死に化粧をしている女性は、対面に座って顔をしかめている男性が、
もしかしたら近い将来に親しくなる可能性があったかもしれないということに後悔するだろうし、
携帯を見ながら自転車に乗っている少年は、歩道でぶつかりそうになったその相手を
まるで道端のモノでも見るような目で睨むこともしなくなるだろう。

すれ違った人々、目に見えている人々はその誰もが生きていて、実在していて、
それぞれに悩みや希望を抱えながら、人生を続けているのだということを、
我々は、いちいちその時々に、確かに感じるべきなんですね。
とくに、今という時代においては。

そうしないと、画面の向こうのブログを唯一の心のより所として引きこもったり、
返って来ないメールの返信を確認するために何度となく携帯を開けてはまた閉め、
顔や体系をフォトショップで修正されたアイドルの画像あつめにやっきになり、
ネットゲームで強力な武器を手に入れるために毎日悩んでいらいらしたり、
BBSの悪しき書き込みに心痛めたり、マイミクの足跡を数分おきにチェックしたり、等々…

そうして、あらゆる支配は
本来あるはずの毎日の現実世界との出会いをむしばんできているのです。

まずは空を見上げて立ち止まってみましょうよ。
そして背筋を伸ばして歩きましょう。
そんなに急いでいないなら、携帯は家に帰ってから開けばいい。
目の前にいる見知らぬ人々の確かな存在と、
この瞬間にだけ触れることのできる景色を、まずは感じて。


                       2007.12.28 緑川 とうせい


「ときはながれてゆく」
2007/1/18

ときは静かにながれてゆくんです。
すべての人の想いをのみこんで
たゆたい流れてゆくんです
忘れかけていた記憶の断片からもう二年たって
気づかぬうちに、少しずつ変わってゆくんです
忘れられない熱情も忘れかける頃があるんです
なにもかもが封印されてゆくんです
そうして流れ去ってたゆたい消えていって
過去が積み重なってときの重みが凝縮されてゆくんです
忘れえぬ苦痛なんてないんです
希望はなくなるものです
だから希望し続けるんです
それが大変疲れる困難だとしても
失われる過去の長さだけ先に見えるものを追うことをしなくては
ひらけてゆくことが失うことでもあり
輝かしい未来などは望むべくもなく
ただ心してたゆたい、また思い、告げるべく
流れゆくときの中で舵をほのかにとるのです

「己を鼓舞しつつ歩き続ける」
2006/2/17

なんだか、あっというまに2月も半ば。

世間はトリノオリンピック(日本まだメダルゼロ)
今日は滋賀の方で園児二人が刺されて殺害されるという事件もあり
(犯人は別の園児の母親の中国人ということ)
なかなかに、私の気分も滅入っています。

というか、やる気がでない。
小説が書きたい。水晶剣のつづきも書き始めたいのに、
どうも気分が乗って来ない…

花粉症にはまだ早いでしょう。
そして風邪をひいているわけでもない。

少しずつ寒さもやわらぎつつあり、
しだいに春に向かっているのが感じられます。

さて…
と、ついぼんやりとしてしまう。
いつもスロースターターなのだけれど。
なにかが起こるまで待っていては、時間は過ぎるばかり。

たゆみなく歩み続けたい。
そのモチベーションも欲しいし、
かつての情熱も思い出したい。

無駄なことはやらない。
そういう合理性がどこかに身についてしまっている。
やみくもに進んでみることなどできなくなっている。
だから、結果の出るだろう方向へのみ進んでゆく、
進んでゆこうとする。

そのせいかもしれない。

無駄な時を過ごせないと、
焦りつつもなにも動けない
それは馬鹿げているのだが。

やろう。
やらねば。

そうつぶやいて自分を追い込もうとする
それにも限度があるので、
結局は自然な熱情が降りて来るまで待つことになる。

待つのはつらい。

一日たてば、また一年が短くなってゆく。
そういえば、今年はワールドカップイヤーです。
もう4年たったのだな。

さて、自分の方は
今年こそは…

そう毎年考える
同じく自分を鼓舞しつつ

やりましょう。


「本来必要な空虚」
2005.12.2

世の中馬鹿男と馬鹿女が多すぎる。

本来は人というのは、少年期から青年期の間に自分と他人、世界との関係を考えて悩み、
生と死についての根源的な恐怖と畏怖を覚えたり、この地球と宇宙に思いを馳せたり、
ときの流れに呆然としたりしながら、
そうしてやがて、誰もが「大人」になってゆくのではないのか。

だが今の世には、携帯とメールとパソコンとテレビゲームなどにそうした時間を食いつくされ、
氾濫する大量の情報と過剰なコミュニケーションの中で、自動的に成長して「しまった」
…そんな少年少女たちがなんと多いことか。

本来、なにもない空虚な時間において、人間は、孤独を知り、それに耐えることを知り、
「自分は何者であるのか」、「自分にはなにができるのか」について考え、
ときに挫折し、立ち直り…そうして、新たな世界へと向き合ってゆくはずだろうに。
彼らはその代わり、携帯とメールとでむやみやたらとコミュニケーションをとり、
そうすることで虚無と孤独にいることを忘れ、あるいは忘れたつもりになっている。
メールとパソコンとテレビゲームがなかったら、何も出来ない連中…
空虚で、豊かな時間を与えられても、それらなしでは自分がなにをしたらいいのかも分からない。

彼らは、毎日を「案外忙しく過ごしている」と思いながら、
その実はなんら中身のないコミュニケーション「ごっこ」をすることで、
無為で空虚な時間というものを消した「つもりになって」いる。
しかし実際には、そうしたコミュニケーションツールや、バーチャルな世界というのは、
Emptyな箱の中をデジタルなおもちゃで埋めつくすことでしかないのだ。

孤独と、真の無駄な時間と、空虚さの中からしか出て来ないはずの自己発見や、
世界と関わってゆく強い意志というものが彼らには持ちえない。
メールを無視されただけで逆上し、精神の苦痛を覚え、ときに己を失って相手を攻撃する。
本来はそうした心の傷を癒すべき静寂と、ゆるやかな空虚と時間の流れとを、彼らを持つすべを知らない。
常に学校や、親や、友達や、携帯やメールの着信音や、サイトのBBSの書き込みを気にし、
それらに一喜一憂し、怒り、悲しみ…そしてなおそれを「表面に出さずに」ふるまい
また学校へ、職場へ行き、友達と笑顔で会話し、机の下で携帯をいじりながら、
同時に受験のためにと黒板の文字を正確に書き取らなくてはならない。
それはなんと忙しく、ストレスと恐怖に満ちた生活なのだろう。

「空虚と、孤独」を楽しむことを、彼らはもう知らない。
それらはない方がいいものだと彼らは思っているのだろう。
孤独は怖い…空虚な時間はつまらない。
世界の静けさと人間としての苦悩よりも、彼らはたわいもない表面的なメールのひとことを望むのだから。
そこに、真の意味での世界とのかかわりはない。
あるのは、携帯の向こうにいる相手…しかも、短いメール文と顔文字でしか分からぬ、
想像上のコミュニケーションの相手があるのみだ。
自分の想像と、現実での相手の様子が違えば、彼らはパニックになるだろう。
その相違を自分の中で許し、埋めてゆけるだけのゆとりがあるものはまだいい。
そうでない者は、はじめて出会ってしまった「現実」におびえ、ときに怒り、憎むようにもなるだろう。
正しいのはメールの中のあの子だ、正しいのは自分の想像の中にいるあの子の方なんだ…と。
それは病的であり、自己中心的な見方でしかないが、
そうした考え方を多かれ少なかれ、彼ら…我々は内包しているのだ。
携帯とメールとゲームの世界が現実よりも素晴らしいと、そう思えた瞬間…
彼らのいる「虚無の箱」はそれ自体が楽園となり、それを疎んじたり、排除したりしようとすれば、
たちまち彼らは発狂するだろう。
実際の矛先は常に弱いものへ向けられる。
子供たちが欲望やストレスのはけ口にされる事件のなんと多いことか。

「虚無の箱」はデジタルなおもちゃでいっぱいだ。
そして、文字と顔文字から成り立ったメル友という名のキャラクターがおり、彼に優しくしてくれる。
「虚無の箱」は、本来の“孤独な時間”を意味する真の虚無から彼を遠ざける。
孤独と静けさの中で自分を見つめ、自分を知り、苦しみ、悩み、世界と出会う…
そのプロセスを、豊かすぎるせわしない情報と便利なコミュニケーション
…実際にはそれらの多くはディスコミュニケーションでしかないが…が確実に妨げている。

よく出来たおもちゃの群れと、たくさんの作られたキャラクターたちの中で、
毎日を忙しく無駄なく過ごしている彼らには、
道端に落ちた枯れ葉がやがて自然に分解され消えてゆくことや、
黄昏どきの雲がゆるやかに色を変えてゆく美しさも知らず、
星を見上げ宇宙の中の地球に思いを馳せる暇もなく、
自転車に乗りながら片手に携帯を広げ、
道を歩いている誰かとぶつからぬよう器用にハンドルを操作しながら、
受信したメールの愉快な顔文字に一瞬だけ癒されたつもりになって、
「帰ったらあの子になんと返事を送ろうか」と思いつつ、急いで家路につくのだろう。

それなりに忙しく、それなりに楽しく、そこそこの悩みもあるが…おおむね上手くやっている。
ネットゲーでの新アイテムやレベルアップは順調だし、異性のメル友も増えた。
ちょっと気になる子と今度の日曜にカラオケに行くことになっている。
ホームページで趣味の合う仲間も見つけた。携帯も新機種に買い換えよう。
明後日は欲しかったゲームの発売日だ。オークションもチェックしておこう。

やることは毎日たくさんある。
メールも多いし、アドを交換した知り合いもたくさんいる。
そこに空虚はない。
孤独も無駄な時間もない。

ただ僕らは「虚無の箱」にいるだけだ。


「ときは優しく降る」
2005.2/8


なにかを変えたい
変えたいと思いつつ
なんにも起きない今日と明日

外は雨ですよ
雨は嫌いじゃない
雨の降るしとしとと、いう音がいいね
空気もキレイになるし
花粉も飛ばない

だから今日は調子がいいはずなのに
うすらぼんやりとしてしまうのはなぜ
ぱーっと外に出て
どっか行って
旅に出たりして
さらさらの気分になりたいのに
そうもできない今日と明日

憂鬱なわけではない
幸せなわけではない
だからつい
ここにいてしまう

探しても見つからない場合は
どうしたらいい
求めても手に入らない場合は
どうしたらいい

答えのないまま
ときは流れてゆく

ただ流れてゆく

俺の知らない、この今でさえも
誰かと誰かが出会い、
別れ、傷つき、愛している
それが「とき」ということだ

完璧なものなんていらない
完璧なことなどできない
それが分かっている今となっては
甘やかすことに慣れてしまう

だからなにかを変えよう
つかまえるのが怖いのだとしても
つかまえるのをあきらめてはだめだ

疲れて休む間にだけは

ときは優しく降る



「物語の寓話性」
2004/2/22

私は常々「物語」というものには、ある程度の「寓話性」が必要だと思っている。

そして最近、どうも我々の身の回りにはそうした物語が、足りていない気がしている。

寓話性・・というのは、ようするに人が生きる上での教訓めいたものや、
若い人々が見て、善悪の指針を考えられるような要素のことで、
古くは「イソップ童話」や、かつTVアニメで放映していた「まんが日本昔話」など、
極端にいうと、「説教臭い物語」ということである。

最近のトレンディドラマやTVアニメ、映画などは、結局のところ「今」を映し出したものばかりで、
それらは娯楽としては成立しているものの、そこに本当に普遍的な共感を感じたり
流れゆく時間と人生と生と死についての思いをはせられるものはごく一握りでしかない。

もちろん、私は説話を書きたいわけではなく、また、説教と寓話性ばかりの堅苦しい物語を書いて
それを人に押しつけるようなことはしたくはない。
私にとって「物語」とは、読みおわって「ああよかった」と思えるものであって、
そういう点で、私はこれからも、たとえ「お決まり」と言われようとハッピーエンドを書きつづけるだろう。
そこに一片の悪徳と美徳と、そして苦すぎない程度の説教をまじえつつ。
それは芸術性や高尚な文学性などとは対極にある、「娯楽としての寓話」なのかもしれない。

「名作アニメシリーズ」も、「日本昔話」もテレビから姿を消した昨今、
画面には美麗なCGと、せわしないCM、そして悲痛なニュースとそれを押し隠すような
バラエティの過度な笑い声とが充満し、氾濫している。
見ているだけでくらくらとし、色彩と音楽と言葉の渦に飲み込まれ
気がつくと、中身のあるようでいて実はまったく無為な時間が過ぎている。

テレビを消し、喧騒に別れを告げ、私は物語を描くだろう。
そして、今必要だと思う形のハッピーエンドをまた描き続けるだろう。
そこにもし少々のメッセージを感じ取っていただけたなら、
これにまさる喜びはない。

                               緑川 とうせい



「ときのながれの速さに」
2002/12/4


気づけばもう12月だぁ。
なんてことだ・・・。こんなにも早い一年はかつてあっただろうか。
いや、やはり歳をとるごとに時間の経過が加速しているのだ。

子供の頃は無限にも感じた一年の長さが、今ではまたたくまに過ぎる。
それはつまり我々が大人になり歳を重ねるごとに、物事を深く考え、時間を有用に活用し、
日々生活するために「必要なこと」を行っているということなのだろう。

ぼんやりと将来を夢みていた時間は過ぎ、
この現実の中で「どうやってなんとかうまくやってゆくか」ということに
我々は奔走し続けている。

そうやってゆったりと休むまもなく、これからも時間は過ぎるのだろう。
もちろん休息のときはあるとしても。
それは「次の時限」を見つめながらあせりつつ過ごす、
短い「休み時間」にしかすぎないだろう。

そういう意味では、おそらく老人になるまで、もしくは
棺桶に入るまで、真の意味での休息などは訪れないのかもしれない。

ジェットコースターのように、
転がる石のように、
我々は時間とともに流れてゆき、
おちてゆき、
転がり続けるのだろう。

それが「人が生きる」ということであるなら、
こうして毎年のように年末になってしみじみと、
そして半ば呆然と一年を振り返ることも
そう悪いことではないな、と思う。


「孤独をまぎらわす道具」
01/12/15


パソコンが直った。
しかし、なんてことだ。修理代4万とは!
ハードディスク交換だから金がかかるのもしかたないが・・・

久々にページの更新ができる。
しばらくメールもできなかったので、返信できずにいた方々ごめんなさいっ。
なんせアドレスも全部消えたので、よかったらメールしてください。

あうう・・、しかしパソなしの不便さを改めて感じました。
それと同時に、たかが機械ごときが、これだけ人の生活の中で重要な位置を占めるというのは、
じっさい恐ろしいことなのではないか、などとも考えてしまいました。

メールもネットもできずにさびしいような気もしましたが、これらのコミュニティが存在しなかったころは
我々はもっと「人は基本的には一人である」ということを認識していたはずです。
ネットやメールを「孤独を紛らわすための道具」と考えてしまうのは危険なことです。
まず我々は「個人」であり、「一人」である、という自らの存在を確認をした上で、
はじめて「他者」の存在があるのです。
たとえオンライン上のみの関わりであっても、その人に「個としての確立」がなければ、
他者との関係においても結局はすべてが「嘘」となってしまいます。

今回2週間ほどメールもネットもせず(ネット喫茶には数回行きましたが^ ^;)、
パソなしの閑静な生活をしてみて、そのようなことを改めて考えさせられましたね。

まずは人としての少々の孤独に耐えうる強さを身に付けたいものですな。


「知る機会」
2001/1/30


インターネットの普及。
それはつまり「知る機会」が増えた、とういうことだ。
数々の検索サービス、膨大な量のホームページ、
およそあらゆる情報がこの電脳世界には散らばっている。
重要なのは、それを利用する側が、いかに「目的意識」をもってそれらを活用するか、なのだ。
なんの目的もなくただ、ネット上をさまようだけでは、単なる時間の浪費にすぎない。
いかに知りたいことがあるか、そしてそれがなんなのか、
あるいは自分は何に関わりたく、どんな情報を得たいのか、
それらをきちんと念頭におかなくては、
結局はドラクエの経験値かせぎと同様、人生の貴重な時間を無駄にすることになる。
知りたいことは何か そしてそれを知った後どうするのか
それが有効な情報活用に必要な意識だと思う。
重要なのはつねに「良質な質問」を投げかけること。
そして答えはどこかにある。
良質の解答を見つけ出すためには、
自分の質問の質を高めるのが先決だ。


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