緑川とうせいの日記より
その他、つれづれ編
ネット上での日記「最近のこと」から抜粋したものをジャンルごとに分けてみました
*時事ネタをシリアスに思う 編
*マンガ、アニメ、映画 編
*音楽、ライブレポート 編
私的たわごと2014年
2014.12/31
己の文章でこの一年を振り返るのが、文章書きの務め…ということで、
今年も恒例の晦日の長文日記。
いやー、早かった。
毎年同じことを言っている気もするけど、だってホントに早かったよ。
自分の中ではそろそろ11月に差し掛かるかな…くらいの感覚でいたら、
アレ…もう大晦日ですよ。2015年ですよ。うは!
思えば、1989年にエックスの「Blue Blood」でメタルに目覚めてから、25年もたっちゃったなんて。
あの日から、いったいいままでに何千枚のCDを(もしかして万超えてる?)聴いてきたかと思うと、にわかに気が遠くなる思い。
たくさんのバンドもやったし、たくさんの出会いやすれ違いや消滅を通り抜けてきて、いまここに立っている。
それらをゆっくり振り返る暇もない、受け取る情報に溢れ、どうでもいい情報にも溢れ、時間の中を溺れるように流されて生きている我々。
1年ごとにこうして、なにが起きていたのかを振り返らないことには、気づいたら恐ろしく遠くまで流されてしまっていて、
いまさら振り返ると色を失った時間の遠さに唖然とするしかない…という現代ですから。
スマホや携帯端末の急速な普及もあって、我々は常に他者との関わりを意識し、
画面上の記号的やりたりに慰めを見出すことを、たいして疑問を抱かずに享受している。
どこへ行っても、つぶやきやイイネやレスが気になったり、メッセやレスの受信音に怯え、
あるいは心待ちにし、かといってなにも来ないと寂しがる、
いわば自己愛的な他者関係の敷衍を、無意識のうちにどこまでも求めている。
独りでいること、独りで考えること、独りで悩むことを知らぬ間に放棄し、他人の言葉を当てにし、
心にもない賞賛に満足し、ときにそれを疑いながらも、なんとなく喜んで受け止めてしまう。
道具は我々を賢くし、そして弱くし、クリックひとつで可能な気楽なつながりは、より多くの人々を巻き込んで、
新たな流行や新たな発見を増幅し、有無を言わさず世界中に広めてゆく。
瞬間的なネットワーク、その良い面、悪い面ともに受け入れながら、
これからも我々はそれを手放すことなく、なんとか付き合ってゆくのだろう。
新たな刺激、新鮮な情報、新たなつながりに、一瞬心躍らせながら、
数分後にはそれに飽き、また次の言葉を欲して、次のイイネを求めて、ときおりムカついたり、面倒だと思いながらも、
それでも明日も同じようにまた楽しみ、利用し、拡散し、自己発信しつづけてゆくのだろう。
情報化された個人個人の存在(アイコン)を画面上に感じることで、ひとときのつながりの安堵を覚えながら。
というワケで、さて、
2014年も色々なことがありましたな。
STAP細胞やゴーストライター騒動、野々村氏の号泣会見、脱法ハーブによる事故の多発など、世間を騒がせたニュースたち。
4月には消費税8%にアップ…来年はいよいよ10%時代がやってくるのか。
世界を恐怖に陥れたエボラ出血熱、イスラム国の台頭などは、今年だけでなく来年以降の世界情勢にも影響を与えるでしょう。
韓国ではセウォル号が沈没、多数の犠牲者が出て、船会社や当局の対応のまずさが露呈、
いまだ見つからぬ墜落したマレーシア航空の旅客機…7月にウクライナで撃墜されたのもこの会社の旅客機…悲惨すぎる!
世界で起こったニュースで、自分に関係のないものなどひとつもない。
身近なところではデング熱も騒がれましたな。新宿御苑も一時閉園されたし、庭園好きとしては、来年は発生しないで欲しいですわ。
広島の土砂災害や御嶽山の噴火では多数の犠牲者が出ました。犠牲者のご冥福を祈るとともに、
自然災害の脅威の前に、我々は大地の上に生かされた小さな存在なのだとあらためて感じさせられました。
スポーツでは、ソチ五輪での、真央ちゃんの感動の演技や羽生くんの活躍から、
田中マーくんのヤンキース移籍…大活躍からの肘の故障(来年に期待!)
6月のブラジルワールドカップに熱狂したのも半年前のことなのに、もうずいぶん昔のように感じるな。
そしてテニスの錦織くんの覚醒ぶりは凄かった、松岡修造の熱い人気も上がる上がる!
Jリーグではガンバが三冠達成。浦和は優勝を逃すし大宮は降格と…さいたま市民的には涙でした。
自分自身のイベントとしては、やはりメタルとプログレに囲まれた1年でした。
1月…ライオット・マノウォー・ジューダス セッションを開催。
はからずも、マーク・リアリの命日の翌日ということで、思いを込めてライオットのドラムを叩きました。
3月…川崎クラブチッタへ「ジャパニーズ・プログレッシヴ・ロックフェス」を見に行ってきました。
JAP'sプログレのレジェンドたち…ノヴェラや新月、ムーンダンサーが観られて最高でしたわ。
5月…イタリアン・プログレを代表するバンド、PFM…プレミアータ・フォルネリア・マルコーニの来日公演へ。やはりプログレは素晴らしい。
7月…闇の皇帝…エンペラーの来日!
1st「In the Nightside Eclipse」20周年記念ということで、アルバム全曲を演奏。念願がかないました!
そして、我が地元にDisk Unionが開店。毎日のように行ってます!
8月末には79-99 メタルセッション (1979年〜1999年までのメタル作品セッション)開催! エンペラーのブラストでヘロヘロ。
9月…ZIGGYコピーバンド、KOOL LIPSのファーストライブ!国立リバプールが熱きジギー愛に包まれたよ!来年もやるぜ!
10月…MANOWAR来日!ラウドパークの振り替え公演的な来日でしたが、むしろ単独で観られてサイコーでした。マノウォーはやっぱすげえ!
11月、12月はバンドで8回もスタジオ入ったよ。いやー、今年はバンドリア充でした。
しかし、来年から3つめのオリジナルバンドがスタートしそうなので、2つのコピバンと合わせて、5つ掛け持ち。
毎週練習は必至…というさらなるバンリア充がオレを待つ!が、頑張るべ。
来年はまた新たな風が吹きそうな気がする。その風の吹く方へ勇敢に進みましょう。
タンパク質たっぷり、炭水化物はほどほどに、適度に身体を鍛えつつ、ときにのんびりリラックスして、
なにより健康的に過ごしてゆきたいと思います。
むろんメタルとプログレとともに。小説も書く!
今年もありがとうございました。
ではよいお年を〜!
2011.12/31
姪っこや知人の合格祈願もかねて地元の神社へ初詣にゆき、
まあまあ平穏に始まったかと思ったこの2011年…
しかし、それがまさかこれほどのの激動の一年になろうとは。
まず1月は、サッカー日本代表のアジアカップ優勝!
李忠成のあの劇的なボレーシュートはすごかった。
大活躍の長友は名門インテルへ移籍と、嬉しいニュースが続きました。
2月なるとニュージーランドで大きな地震が起こり、日本人28人も犠牲になりました。
被害を受けたクライストチャーチの映像を見ながら、大変な災害に日本にいる我々も心を痛めましたが、
それは決して他人事ではなかったのですね。
3月6日には、自分のやっているメタルバンドのライブをやりました。
いま思うとすごいタイミングですよね。もし次の週だったらと思うと…
そしてあの日、3月11日、
地震が起こったときは自分は外にいて、もちろん大きな地震だとは思いましたが、
まさか東北ではあれほどの惨事になっていようとは、そのときは思ってもいませんでした。
結局、終日電車は動かず、朝になるまで店店を移動しながら、歩いたりまた休んだりという感じで、
人々であふれかえる駅の光景や、朝になっても動かない山手線に、唐突に訪れた非日常を感じたのでした。
ともかく、こういうときに思うのは、大切な人間を守りたいという、ただそれだけなんですね。
かろうじて入れたカラオケボックスのテレビで、東北地方の津波の被害の様子を…
水に飲み込まれた町や、大規模火災などのショッキングな映像を目にし、
画面に次々に流れるテロップ情報の、その信じがたいまでの被害の大きさに半ば呆然となっていました。
しかし、翌日になり、さらに数日がたつにつれ、
続く余震の恐ろしさ以上に、福島では深刻な状況が起こりつつあることが判明。
それが、未曽有の原発事故になろうとは、当初は想像もできませんでした。
その後の電力不足による計画停電なるものを、初めて体験しました。
いままで当たり前に思えていたこと、それらは多くの人々やシステムに支えられていたのだということ、
我々はきらびやかに浪費してきた電力をこれほど原発というものに頼っていたのだということを、
信号機の消えた交差点や、灯のつかない夜の闇の中で、まざまざと知らされました。
それでも、4月になれば桜はちゃんと咲くのでした。
O宮公園や、新宿御苑、千鳥ヶ淵の桜を見に行き、満開の桜を眺めて
生きていることの喜びと、少しでも希望的であって欲しい未来へ思いを馳せました。
一時は電力不足で心配された4月のライブもなんとかできました。
ウチのバンドのリーダーは実際に被災地にボランティアにもゆき、その魂の歌声を会場に響かせました。
祖母が亡くなったのは5月でした。脳梗塞で倒れてからもうずっと長いこと意識がなく、
地震のときも病院のベッドでしたから、たぶん怖い思いはしなかったかな。
6月19日には秋葉原で盛大なメタルセッションを行いましたし、
翌週はSwallowTail、EARLY CROSSといった知り合いバンドと一緒にライブもできました。
7月は、なでしこジャパンのワールドカップ決勝を徹夜で応援しました。
そして奇跡の同点〜PK戦での勝利。あれは興奮した。
なでしこ世界一のニュースは、今年最高の嬉しいニュースとなりましたね。
8月は連日の猛暑にぐったり。
毎日の電力供給率をニュースやネットでチェックしながら、
なるべく節電に務めつつ、エアコンの温度設定を28〜29度にして頑張りました。
しかし、原発の事故のあと、シーベルトやらベクレルやら、いままで知らなかった言葉…
セシウムやらヨウ素やらといった言葉があちこちで飛び交い、ときにそれらに過剰に反応したり、
ときに無用に怯えたりと、それらが我々の日常にいつのまにか忍び込んでしまっている、
そのことこそが、この事故の重大さを示しているのだと、あらためてそう思われます。
あの震災以来、生と死について、そして人々のつながりや絆というもの、
電気に頼る現代社会のあり方、放射能の恐ろしさ、安全とはなんなのか、
それらについてを、当たり前ながらより深く考えるようになったような気がします。
世界的なニュースとしては、リビアのカダフィ政権が崩壊したり、
ノルウェーでは77人が犠牲となる銃乱射テロが起こったり、
9月にはタイの大洪水で日本の企業も打撃を受け、
10月はトルコ東部で大地震…今年は本当に大きな地震が多かった。
10月には再び友人と箱根へゆきました。毎年の恒例行事。
震災直後の3月は閑散としていた温泉街にもずいぶんと人が戻ってきていましたね。
我々はそうして日常を取り戻してゆかなくてはならない。忘れてはいけない出来事を記憶に刻みつつ。
12月にはジャーマンメタルセッション、そして先日のメタルDJと、
年末もいろいろなイベントがあり、なかなか充実していました。掃除できなかった…
そうそう、最近変わったことといえば、
起きてからペパーミントティーを飲む習慣がついたことと、
毎日マントラ呼吸をして心と体を整えることでしょうか。
メタルとプログレを聴きまくることは、震災後もまったく変わりません。
そういえば、震災後はTwitterなどのつぶやきに多くの悲観的なものが目につきましたが、
自分はあるときからは努めて、日常的な、いつもの音楽情報をあえてつぶやき続けました。
自分にはそれしかできない。
メタルとプログレ、バンド、そして創作活動と、
結局、大切なものは変わらない。いつまでも大切なのです。
死ぬまで頑張ろうと、そう思います。
災害による急激で甚大なダメージを負いつつも、
人の手による着実な復興は、悲しみの中からも少しずつ勇気と希望を生み出してゆく。
我々の日常が変わってゆく。
ゆるやかに、しかし確実に…
今年はそんな一年であった気がします。
我々は、それでも生きている。
そして来年もまた、生きる。
そうつぶやきながら、この年をまたぎましょうか。
緑川 とうせい
我々はみな、愛を求めてさまよう子どもだ。
愛のため格好の餌食になるときもあれば、
狩りの達人として羨望を受けることもある
暁の憂鬱から、黄昏の寂しさまで、
我々はただ、なにかを求めて、しかも満たされず、
それでもまだ希望し続けなくてはいけない。
それに疲れたものは、
自らをあきらめるか、誰かをあきらめるか
生きるのをあきらめるかの選択を迫られる。
席を外せないつらさ、
にこやかに振る舞うことの息苦しさ
すみやかな返答、しゃれた相槌を求められ、
それに成功するか、失敗するかで、自分の価値が決められる
他人の目と他人の言葉とを、常に神経質なまでに気にして
冤罪や誤解に恐怖して、無視と陰口に想像力を浪費して疲れ果て
解き放たれるのは夢の中だけ
心の中の怪物が製造されるのもまた同じ。
それでも夜明けがくると、怪物と心の暗黒をどこかに押しやり
しっかりと扉を閉じて、かっちりと鍵をかけなくては。
見られたらおしまい。評価がすべて
またロボットの一日だ。
メールの返信マシーンになっているときは
己の心の闇は忘れられるだろうし
それでいて、
いくら文字を打ち続けても寂しいのは何故だ
たわいない慰めや褒め言葉で、ほんの一瞬救われても、
それが過ぎると、もっと言葉が欲しくてたまらない。
自分だけへの特別なことば。
魔法の言葉を、誰もがいつも求めてる。
呪いを解いてくれるその言葉を。
なにもかもが受け入れられる、
すべてが許される
そのときを。
それを夢見て人は
今日のロボットを乗り切る。
「自分の中の大切な暗黒」
2008/6/10
暗黒は大切です。
それは誰にでもあるもの。
それは決して、殺人犯や通り魔だけが異常なのではなく、我々の中にもある暗黒なのです。
まずは、秋葉原での通り魔被害者の方々にはご冥福をお祈りします。
しかしながら、こうした事件において、犯人の異常性のみが問題なのではなく、
普段は真面目でおとなしい人々が、自らの暗黒をこのようにしか表現できなかったということが悲劇であるのです。
人間には誰にでも内側に暗黒を持っています。
大切なのは、それと対峙して、しっかりと自らの暗黒を知り、認め、それと上手に付き合ってゆくこと。
今回の犯人もそうであったらしいですが、周りにはいい人を演じ続け、
己の暗黒を隠したまま、溜め込んでゆくというのは、とても危険です。
ちなみに、自分の場合は、小説や音楽があるので、己の暗黒を表現し、
客観視することで、それを昇華しております。
人間には、少なからずそうしたものが必要で、楽器を演奏したり、曲を作ったり、
物語を書いたり、絵を描いたり、 あるいはそういう具体的な表現でなくても、
カラオケで歌ったり、運動をしたり、世界を共有できる親しい友人と話すことなどでも、
己の暗黒を溜め込まずに済むのですね。
しかしながら、世間一般では暗黒はさほどよしとされない。
いい人であることを親に義務づけられ、上辺だけの友人には明るくふるまわざるをえず、
会社では仕事のできる快活な人間であることを己に課し、恋人の前でも爽やかでいなくてはならない…
嫌われないために、いい人でいるために、己の暗黒を隠し、心の中にしまい込む。
それはとてもストレスであるし、あるときそれが爆発すること(キレるというやつ)は、
その度合いによっては周りにも深刻な影響を及ぼすし(こうした事件のように)、
本人自体を破滅させてしまう。
暗黒のためすぎには注意しましょう。
もし、自分が親になったら、子供には良い子でいることよりも先に、物語や音楽を教えたいものです。
己の世界を表現できる場所を教えたい。いざというときに、自分の感情をぶつけ、光と暗黒を知り、
そしてそれを冷静に見つめられるということは、とても大切なのだと思います。
暗黒は大切です。そして光もまた大切です。
それらは上手く使えば、素晴らしい創作にもなるし、なにかをなしえるエネルギーにもなる。
たとえば音楽を聴いていて、自分は絶望的に暗いゴシックメタルとかも好きなんですが、
「ああ、いい具合に暗黒を使っているなあ」と感心することもあります。
素晴らしい暗黒のデスメタルとかはもう、うっとりですね(笑)
逆にいい子ぶっているメタルは嫌い。もっと怒れ!もっと暗黒を表せ!などと思ってしまいます。
それこそが自己表現というやつです。綺麗すぎる、整いすぎるメタルはダメ。
自分も、物語などに己の暗黒をぶつけますが、出来上がったものを見て、
自分の内面をさらけ出していることが、ときに恥ずかしくもありますが、またそれが心地よくもあります。
自分の内側を表現するというのは、気恥ずかしかったり、ときに勇気もいるのですが、
それによって己を改めて見つめ直せたり、自分自身の暗黒を知り、
それと上手く付き合ってゆけることにもなるわけです。恐れずに自分を知ること。
話が少し脱線しましたが、
つまり、もっと世間が暗黒に対してオープンになることも必要なのだということです。
いい子ちゃんだけが褒められ、みんなが「良い人」を演じなくてはならないというのはそれこそ病んでいます。
たとえば、学校の授業などで、もっと一人一人の内面を見つめたり、
深い部分の感情を発散できる授業なども必要なのではないかと思いますね。
人間としての暗い部分はなるべく見ないようにして、なかったことにして生きてゆくというのは、
いずれは歪められたものが煮えたぎり、どろどろとしみ出していってしまうでしょう。
人を殺しまくるテレビゲームや、携帯メールなどでの陰湿ないじめ、学校裏サイトなどでの匿名の書き込み
くらいが子どもたちのストレス解消の手段なのだとしたら、そんなに恐ろしいことはない。
誰かを犠牲にして成り立つ平和…それはまるで中世の魔女狩りです。
このままでは、我々の社会には、
人の心の痛みも知らない、ただ上手くメールのやりとりができる返信マシーンでしかない、
そんな上っ面だけは優等生の、心の中の怪物をどんどん生み出し続けてゆく気がします。
一人一人の持つ薄暗いものを早いうちから保護者が見つけてやり、
人に迷惑をかけずそれらを上手く発散する方法を教えたり、
己の内面を表現できる手段を若い内から身に付けておくことが、
建前や偽りの自分に流されずに生きる上で、とても大切なのではないかと思います。
「道具に支配されるなかれ」
2007.12.28
ネットやパソコン、携帯などは、本来は人類の未来に素晴らしい貢献をするはずの道具ですが、
我々人間の心の弱さもあってか、近頃とみに負の影響が目立ちます。
便利なはずの道具にいつのまにか支配され、悪しき心や薄暗い欲望を助長し、
それを内側にためこみながら、しだいに麻痺するように影響されてゆく我々…
もちろんメールやネットでしかできない関係や、ステキな友人、
素晴らしき表現手段、有益な情報力など、活用すべき良さも多いわけですから、
大切なのはちゃんと理性をもってそれらを享受すること、ですね。
CG ゲーム、テレビ 自然のままのもの(映像)が減り、綺麗に整えられたものばかりが目につく。汚れのない精巧な虚構世界。 ↓ 現実と虚構世界との境界が曖昧になる。 ↓ 実際の痛みや、恐怖ではなく、作られた感覚の方が確かに思えてしまう |
パソコン インターネット クリックするだけで自分の好きな情報をとり出せる。無駄のなさ ↓ 論理的思考のみが増して、創造性、応用性が失われる ↓ イライラ、ストレスの増加。無為な時間や相手との好意的でない接触にキレやすくなる |
メール、ブログ 好きな相手とだけ連絡がとれ、つながることができる。 自分(たち)の世界のみでの楽しみ ↓ 不要なものの排除。 近くにいる実在の人間よりも、ネットワーク内の相手に心をくだく。 ↓ 悪意すらも手軽に送信でき、匿名的な曖昧さで相手を攻撃できる→いじめ |
携帯 どこにいても好きな相手とだけ連絡がとれ、つながることができる。 ↓ 不要なものの排除。 近くにいる実在の人間よりも、離れたメル友の方に心をくだく。 ↓ 目の前の現実(人間)に触れる生活時間の減少。 親や近所の人間ですらも実像を把握できない |
日常的なストレス ↓ 家族間での役割を演じること 両親との関係不和 | 学校、会社での違和感、疎外感 満員電車など、個を冒される非人間的な空間 集団の中での自己のアンデンティティを維持する難しさ ↓ 生きることそのものの苦しみ→ |
食料偽装、振り込め詐欺、政治家の汚職など、テレビで見せられる暗い事件、ニュースの数々 ↓ 社会への不信 人間そのものへの不信 → ↓ 無気力、無関心 将来の希望の減少 ↓ 投げやりな事件 弱いものへの暴力の増加 自殺 |
テレビ、CG、メールになどへの過剰な依存、時間的、感覚的な麻痺 大人(社会)への不信 ↓ 疑うことのストレス 疑われることのストレス ↓ 疑心暗鬼、信じられるものの減少(友人、恋人すらも…) ↓ 過剰な怒り、身勝手な論理、DV、 自己抑制の欠如 or 他者との接触への恐怖、 内的な引きこもり |
「己を鼓舞しつつ歩き続ける」
2006/2/17
なんだか、あっというまに2月も半ば。
世間はトリノオリンピック(日本まだメダルゼロ)
今日は滋賀の方で園児二人が刺されて殺害されるという事件もあり
(犯人は別の園児の母親の中国人ということ)
なかなかに、私の気分も滅入っています。
というか、やる気がでない。
小説が書きたい。水晶剣のつづきも書き始めたいのに、
どうも気分が乗って来ない…
花粉症にはまだ早いでしょう。
そして風邪をひいているわけでもない。
少しずつ寒さもやわらぎつつあり、
しだいに春に向かっているのが感じられます。
さて…
と、ついぼんやりとしてしまう。
いつもスロースターターなのだけれど。
なにかが起こるまで待っていては、時間は過ぎるばかり。
たゆみなく歩み続けたい。
そのモチベーションも欲しいし、
かつての情熱も思い出したい。
無駄なことはやらない。
そういう合理性がどこかに身についてしまっている。
やみくもに進んでみることなどできなくなっている。
だから、結果の出るだろう方向へのみ進んでゆく、
進んでゆこうとする。
そのせいかもしれない。
無駄な時を過ごせないと、
焦りつつもなにも動けない
それは馬鹿げているのだが。
やろう。
やらねば。
そうつぶやいて自分を追い込もうとする
それにも限度があるので、
結局は自然な熱情が降りて来るまで待つことになる。
待つのはつらい。
一日たてば、また一年が短くなってゆく。
そういえば、今年はワールドカップイヤーです。
もう4年たったのだな。
さて、自分の方は
今年こそは…
そう毎年考える
同じく自分を鼓舞しつつ
やりましょう。
「本来必要な空虚」
2005.12.2
世の中馬鹿男と馬鹿女が多すぎる。
本来は人というのは、少年期から青年期の間に自分と他人、世界との関係を考えて悩み、
生と死についての根源的な恐怖と畏怖を覚えたり、この地球と宇宙に思いを馳せたり、
ときの流れに呆然としたりしながら、
そうしてやがて、誰もが「大人」になってゆくのではないのか。
だが今の世には、携帯とメールとパソコンとテレビゲームなどにそうした時間を食いつくされ、
氾濫する大量の情報と過剰なコミュニケーションの中で、自動的に成長して「しまった」
…そんな少年少女たちがなんと多いことか。
本来、なにもない空虚な時間において、人間は、孤独を知り、それに耐えることを知り、
「自分は何者であるのか」、「自分にはなにができるのか」について考え、
ときに挫折し、立ち直り…そうして、新たな世界へと向き合ってゆくはずだろうに。
彼らはその代わり、携帯とメールとでむやみやたらとコミュニケーションをとり、
そうすることで虚無と孤独にいることを忘れ、あるいは忘れたつもりになっている。
メールとパソコンとテレビゲームがなかったら、何も出来ない連中…
空虚で、豊かな時間を与えられても、それらなしでは自分がなにをしたらいいのかも分からない。
彼らは、毎日を「案外忙しく過ごしている」と思いながら、
その実はなんら中身のないコミュニケーション「ごっこ」をすることで、
無為で空虚な時間というものを消した「つもりになって」いる。
しかし実際には、そうしたコミュニケーションツールや、バーチャルな世界というのは、
Emptyな箱の中をデジタルなおもちゃで埋めつくすことでしかないのだ。
孤独と、真の無駄な時間と、空虚さの中からしか出て来ないはずの自己発見や、
世界と関わってゆく強い意志というものが彼らには持ちえない。
メールを無視されただけで逆上し、精神の苦痛を覚え、ときに己を失って相手を攻撃する。
本来はそうした心の傷を癒すべき静寂と、ゆるやかな空虚と時間の流れとを、彼らを持つすべを知らない。
常に学校や、親や、友達や、携帯やメールの着信音や、サイトのBBSの書き込みを気にし、
それらに一喜一憂し、怒り、悲しみ…そしてなおそれを「表面に出さずに」ふるまい
また学校へ、職場へ行き、友達と笑顔で会話し、机の下で携帯をいじりながら、
同時に受験のためにと黒板の文字を正確に書き取らなくてはならない。
それはなんと忙しく、ストレスと恐怖に満ちた生活なのだろう。
「空虚と、孤独」を楽しむことを、彼らはもう知らない。
それらはない方がいいものだと彼らは思っているのだろう。
孤独は怖い…空虚な時間はつまらない。
世界の静けさと人間としての苦悩よりも、彼らはたわいもない表面的なメールのひとことを望むのだから。
そこに、真の意味での世界とのかかわりはない。
あるのは、携帯の向こうにいる相手…しかも、短いメール文と顔文字でしか分からぬ、
想像上のコミュニケーションの相手があるのみだ。
自分の想像と、現実での相手の様子が違えば、彼らはパニックになるだろう。
その相違を自分の中で許し、埋めてゆけるだけのゆとりがあるものはまだいい。
そうでない者は、はじめて出会ってしまった「現実」におびえ、ときに怒り、憎むようにもなるだろう。
正しいのはメールの中のあの子だ、正しいのは自分の想像の中にいるあの子の方なんだ…と。
それは病的であり、自己中心的な見方でしかないが、
そうした考え方を多かれ少なかれ、彼ら…我々は内包しているのだ。
携帯とメールとゲームの世界が現実よりも素晴らしいと、そう思えた瞬間…
彼らのいる「虚無の箱」はそれ自体が楽園となり、それを疎んじたり、排除したりしようとすれば、
たちまち彼らは発狂するだろう。
実際の矛先は常に弱いものへ向けられる。
子供たちが欲望やストレスのはけ口にされる事件のなんと多いことか。
「虚無の箱」はデジタルなおもちゃでいっぱいだ。
そして、文字と顔文字から成り立ったメル友という名のキャラクターがおり、彼に優しくしてくれる。
「虚無の箱」は、本来の“孤独な時間”を意味する真の虚無から彼を遠ざける。
孤独と静けさの中で自分を見つめ、自分を知り、苦しみ、悩み、世界と出会う…
そのプロセスを、豊かすぎるせわしない情報と便利なコミュニケーション
…実際にはそれらの多くはディスコミュニケーションでしかないが…が確実に妨げている。
よく出来たおもちゃの群れと、たくさんの作られたキャラクターたちの中で、
毎日を忙しく無駄なく過ごしている彼らには、
道端に落ちた枯れ葉がやがて自然に分解され消えてゆくことや、
黄昏どきの雲がゆるやかに色を変えてゆく美しさも知らず、
星を見上げ宇宙の中の地球に思いを馳せる暇もなく、
自転車に乗りながら片手に携帯を広げ、
道を歩いている誰かとぶつからぬよう器用にハンドルを操作しながら、
受信したメールの愉快な顔文字に一瞬だけ癒されたつもりになって、
「帰ったらあの子になんと返事を送ろうか」と思いつつ、急いで家路につくのだろう。
それなりに忙しく、それなりに楽しく、そこそこの悩みもあるが…おおむね上手くやっている。
ネットゲーでの新アイテムやレベルアップは順調だし、異性のメル友も増えた。
ちょっと気になる子と今度の日曜にカラオケに行くことになっている。
ホームページで趣味の合う仲間も見つけた。携帯も新機種に買い換えよう。
明後日は欲しかったゲームの発売日だ。オークションもチェックしておこう。
やることは毎日たくさんある。
メールも多いし、アドを交換した知り合いもたくさんいる。
そこに空虚はない。
孤独も無駄な時間もない。
ただ僕らは「虚無の箱」にいるだけだ。
「ときは優しく降る」
2005.2/8
なにかを変えたい
変えたいと思いつつ
なんにも起きない今日と明日
外は雨ですよ
雨は嫌いじゃない
雨の降るしとしとと、いう音がいいね
空気もキレイになるし
花粉も飛ばない
だから今日は調子がいいはずなのに
うすらぼんやりとしてしまうのはなぜ
ぱーっと外に出て
どっか行って
旅に出たりして
さらさらの気分になりたいのに
そうもできない今日と明日
憂鬱なわけではない
幸せなわけではない
だからつい
ここにいてしまう
探しても見つからない場合は
どうしたらいい
求めても手に入らない場合は
どうしたらいい
答えのないまま
ときは流れてゆく
ただ流れてゆく
俺の知らない、この今でさえも
誰かと誰かが出会い、
別れ、傷つき、愛している
それが「とき」ということだ
完璧なものなんていらない
完璧なことなどできない
それが分かっている今となっては
甘やかすことに慣れてしまう
だからなにかを変えよう
つかまえるのが怖いのだとしても
つかまえるのをあきらめてはだめだ
疲れて休む間にだけは
ときは優しく降る
「物語の寓話性」
2004/2/22
私は常々「物語」というものには、ある程度の「寓話性」が必要だと思っている。
そして最近、どうも我々の身の回りにはそうした物語が、足りていない気がしている。
寓話性・・というのは、ようするに人が生きる上での教訓めいたものや、
若い人々が見て、善悪の指針を考えられるような要素のことで、
古くは「イソップ童話」や、かつTVアニメで放映していた「まんが日本昔話」など、
極端にいうと、「説教臭い物語」ということである。
最近のトレンディドラマやTVアニメ、映画などは、結局のところ「今」を映し出したものばかりで、
それらは娯楽としては成立しているものの、そこに本当に普遍的な共感を感じたり
流れゆく時間と人生と生と死についての思いをはせられるものはごく一握りでしかない。
もちろん、私は説話を書きたいわけではなく、また、説教と寓話性ばかりの堅苦しい物語を書いて
それを人に押しつけるようなことはしたくはない。
私にとって「物語」とは、読みおわって「ああよかった」と思えるものであって、
そういう点で、私はこれからも、たとえ「お決まり」と言われようとハッピーエンドを書きつづけるだろう。
そこに一片の悪徳と美徳と、そして苦すぎない程度の説教をまじえつつ。
それは芸術性や高尚な文学性などとは対極にある、「娯楽としての寓話」なのかもしれない。
「名作アニメシリーズ」も、「日本昔話」もテレビから姿を消した昨今、
画面には美麗なCGと、せわしないCM、そして悲痛なニュースとそれを押し隠すような
バラエティの過度な笑い声とが充満し、氾濫している。
見ているだけでくらくらとし、色彩と音楽と言葉の渦に飲み込まれ
気がつくと、中身のあるようでいて実はまったく無為な時間が過ぎている。
テレビを消し、喧騒に別れを告げ、私は物語を描くだろう。
そして、今必要だと思う形のハッピーエンドをまた描き続けるだろう。
そこにもし少々のメッセージを感じ取っていただけたなら、
これにまさる喜びはない。
緑川 とうせい
「ときのながれの速さに」
2002/12/4
気づけばもう12月だぁ。
なんてことだ・・・。こんなにも早い一年はかつてあっただろうか。
いや、やはり歳をとるごとに時間の経過が加速しているのだ。
子供の頃は無限にも感じた一年の長さが、今ではまたたくまに過ぎる。
それはつまり我々が大人になり歳を重ねるごとに、物事を深く考え、時間を有用に活用し、
日々生活するために「必要なこと」を行っているということなのだろう。
ぼんやりと将来を夢みていた時間は過ぎ、
この現実の中で「どうやってなんとかうまくやってゆくか」ということに
我々は奔走し続けている。
そうやってゆったりと休むまもなく、これからも時間は過ぎるのだろう。
もちろん休息のときはあるとしても。
それは「次の時限」を見つめながらあせりつつ過ごす、
短い「休み時間」にしかすぎないだろう。
そういう意味では、おそらく老人になるまで、もしくは
棺桶に入るまで、真の意味での休息などは訪れないのかもしれない。
ジェットコースターのように、
転がる石のように、
我々は時間とともに流れてゆき、
おちてゆき、
転がり続けるのだろう。
それが「人が生きる」ということであるなら、
こうして毎年のように年末になってしみじみと、
そして半ば呆然と一年を振り返ることも
そう悪いことではないな、と思う。
「孤独をまぎらわす道具」
01/12/15
パソコンが直った。
しかし、なんてことだ。修理代4万とは!
ハードディスク交換だから金がかかるのもしかたないが・・・
久々にページの更新ができる。
しばらくメールもできなかったので、返信できずにいた方々ごめんなさいっ。
なんせアドレスも全部消えたので、よかったらメールしてください。
あうう・・、しかしパソなしの不便さを改めて感じました。
それと同時に、たかが機械ごときが、これだけ人の生活の中で重要な位置を占めるというのは、
じっさい恐ろしいことなのではないか、などとも考えてしまいました。
メールもネットもできずにさびしいような気もしましたが、これらのコミュニティが存在しなかったころは
我々はもっと「人は基本的には一人である」ということを認識していたはずです。
ネットやメールを「孤独を紛らわすための道具」と考えてしまうのは危険なことです。
まず我々は「個人」であり、「一人」である、という自らの存在を確認をした上で、
はじめて「他者」の存在があるのです。
たとえオンライン上のみの関わりであっても、その人に「個としての確立」がなければ、
他者との関係においても結局はすべてが「嘘」となってしまいます。
今回2週間ほどメールもネットもせず(ネット喫茶には数回行きましたが^ ^;)、
パソなしの閑静な生活をしてみて、そのようなことを改めて考えさせられましたね。
まずは人としての少々の孤独に耐えうる強さを身に付けたいものですな。
「知る機会」
2001/1/30
インターネットの普及。
それはつまり「知る機会」が増えた、とういうことだ。
数々の検索サービス、膨大な量のホームページ、
およそあらゆる情報がこの電脳世界には散らばっている。
重要なのは、それを利用する側が、いかに「目的意識」をもってそれらを活用するか、なのだ。
なんの目的もなくただ、ネット上をさまようだけでは、単なる時間の浪費にすぎない。
いかに知りたいことがあるか、そしてそれがなんなのか、
あるいは自分は何に関わりたく、どんな情報を得たいのか、
それらをきちんと念頭におかなくては、
結局はドラクエの経験値かせぎと同様、人生の貴重な時間を無駄にすることになる。
知りたいことは何か そしてそれを知った後どうするのか
それが有効な情報活用に必要な意識だと思う。
重要なのはつねに「良質な質問」を投げかけること。
そして答えはどこかにある。
良質の解答を見つけ出すためには、
自分の質問の質を高めるのが先決だ。