緑川とうせい つぶやき名言集
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過去のドラマ性こそが現在を輝かせているのだということを知らねばならない。その場面がドラマティックであるとしたら、そこまでの時間の重なりにおける想いの蓄積を、後乗りで感情移入することで一瞬がより鮮やかになる。それを音楽に置き換えるなら、サビが輝くのはAメロ、Bメロのおかげなのだとね。


壊れる心配をするのは、ヒビが入ってからでいいんですよ。ヒビが見えないうちから壊れることを心配して、先取りで悲しむからつらくて心が疲れるんです。


音楽は人が聴いた時に、初めて芸術になるんですよね。これからも、世界のメタルとプログレバンドのため、そしてまだ知らぬバンドとの出会いを待つ人々のため、メタプロの紹介に身を尽くしてまいります。


「ブラックメタル好き」と「デスメタル好き」には実は大きな隔たりがある。ブラックメタル好きはプログレやアンビエントなども楽しめ、デスメタル好きはスラッシュやハードコア寄りの嗜好を持っている。両方楽しめる方もいるだろうが、どちらか寄りという傾向は必ず持っている。僕はブラック寄りです♪


音楽、小説、アニメ、映画、おおよそ全ての創作物の良し悪しはロマンの強度で決まる。ロマンとは幻想におけるリアリティであり、リアルにおける幻想の強度である。大きな世界を描くことは誰にでも出来るので、結局のところ幻想は細部に宿る。醒めかけた夢に留まらせるのは、細部の強度にほかならない。


独善的な幸せを求めているうちは、幸せになどなれないんですよ。いずれ何もかもが終わる…くらいに思ってニヤリとしていれば、日々をつつがなく過ごせます。メタルとプログレへ捧げる愛とともに。


突き抜け方を知らない小綺麗にまとまりのよい作品を「スタイリッシュ」と評価することはできても、1年後にはきっとなにも思い出せないんだよね。逸脱を恐れた万人受けのアレンジは、たとえクオリティが高くても芸術の真逆をゆくという点で退屈だし中庸の聴き手を喜ばせるだけで偏愛されることはない。


いまは、昔のサウンドをなぞることで心地よい聴き心地を再構築している時代なので、メタルやハードロックで現在形の名曲が出ることは、もうほとんどないんですよ。個人的にはそれでもいいと思っています。何かに似ている、という楽しみ方でもよいんじゃないですかね。


基本的に自分の幸せなんてものにはあまり興味はないんですよ。そうでなくてはCDレビューなんてものに毎日こんなに時間は割かない。笑


世界のことを考えて行動(言動)することが結局は自分の為にもなるということを理解している人と、単に自分のことしか考えられない人との間には大きな隔たりがあるんですよ。自分のための芸術が世界を楽しませるということと、世界に奉仕することが自分の喜びとなるということはわりと近しいんですがね


メンバーが去ってゆくというのは、どんな場合であれ寂しいものなんですが、それにいちいち傷ついていてはいられないんですよ。次に日が昇るまでに新たなアイディアと勇気が湧き起るはずなので。一瞬の痛みには、にやりと笑ってため息をついて終わり。新たな世界と対峙する苦しみと喜びこそが人生なら。


新興宗教に入る人もアイドルヲタも、偶像崇拝をし散財を幸せに替えるという点では大差はないんですよ。ただ、次の世代まで巻き込むカルトはたちが悪いし、そもそも共同幻想というのは、音楽を含めた芸術においては心地よい楽しみなんですが、宗教が絡むととたんに胡散臭くなる。覚醒の痛みを恐れずに。


思えば、あの頃の自分の中の闇と光のバランスがGENESISを選ばせたんだと思う。21歳のメタラーにはイエスは爽やかすぎ、ピンク・フロイドはゆったり過ぎた。EL&Pはギターがなかったしね。クリムゾンの1stは同様の幻想性で気に入った。


ほとんどのヒントというのは、今まで感銘を受けてきた作品の中にあるんですよ。だから、我々は、時々それらを見返したくなるのです。


「創作」と「恥」は紙一重。創作するものはまず恥を捨てよ。 「ただのけっこう恰好いいものを量産する人」にならないように。 光と闇をさらけ出す。自戒をこめて。


物事は、こなす順番さえ間違えなければ、たいていすべて上手くゆきます。材料がすべて揃っているのなら、順番がすべてだと思っています。


基本的には、世界をより良くするためにメタルとプログレの情報を発信しています。文化的貢献、世界のメタプロバンドのため、音楽の芸術とそれを愛するディープなリスナーのために、これからもメタプロでつぶやき続けます。好きなバンドはとくにありません。いま聴いている作品にすべてを捧げます。


自分の作品が自分に力を与えてくれることってあるよね。過去の自分のパワーが詰まったものだからそれは当然なのだ。新たな自信を持って迷わず進むべし。


自分や自分たちではどうしようもないことを考えるのは、時間の無駄なので、しようがあることしか考えません。なにかできるときがきたらそれをやる。ただそれだけのこと。


はったりだけで世界を構築するというのは創作の醍醐味だよね。映画にしろ小説にしろ、音楽もそうか。いかにはったりに説得力をもたせられるか。それによって、壮大な幻想物になるか、はがれやすいメッキで終わるかが決まる。やるならとことんやる。最高のはったりは、現実を凌駕する瞬間がある。


自分の意見というものがなくて、人に迎合して見せかけの仲間を増やすような連中は嫌いですね。そんなものはカルトだけで十分だ。


正しい答えを見つけるのはわりと簡単で、自分を含めて、自分が好きな人々を助けたり、役に立つことで、自分もついでに楽しめる余裕を持てるかどうかということ。恐れるよりも果敢に、気楽にやってみるべきですね。


全員の命がちゃんと感じ取れること。それが本物の物語であるということなんです。アニメでも小説でも映画でもね。そういう作品でないと自分は楽しめません。


生物が光を求めるのは本能ですが、人が暗黒を愛するのはすべて理由があります。それを探求し表現するのが芸術だと思っています。


ただ怒ったり嘆いたりするだけなのはもったいないので、それを文章や絵や演奏などで表現することを、若い人々にはお薦めしますね。最近、激しく怒ることができなくなってきたので、怒れる人がうらやましい。それがエネルギーなのです。変換して推進力にせよ。


既存のジャンルを脱しようとして意味不明な作品になるよりは、既存のジャンルのいいところを継承し濃密に仕上げた方が、作品としてはるかに楽しめる。みんなそんなに天才じゃないのだ。


激しさこそが情熱であると、若い頃はそう思ってましたが、繊細な美しさの中にも確かな情熱が存在するのだということが、歳をとるにつれて分かってくるのです。


追及することに終わりはないんですよ。やめるか、続けるか、ただそれだけのこと。ゴールというものは決してないのだけど、続けることで見えるようになるものがあるので、そのたびに新鮮な情熱の薪を火にくべて、また進めます。


一日ごとに世界は変わるので、一日ごとに生き方を微調整するのが、本来は正解なんですよ。意地を張る必要はない。


BABYMETALというのは、恐ろしく高度なメタル要素のある新たな創作体のスタイルなのかなと思っています。ただの音楽としてとらえたり、メタルとかアイドルとかの側面だけで価値観やメガネが曇ると、真の理解はできないという。日本からでしか生まれ得ない、緻密にして絶妙な創作物なんですね。


面倒な問題を解決させようと努力することも人生の楽しみのひとつですな。それを楽しんでもいるので、問題にぶち当たって心が折れたりすることはないですね。流れの過程で判断が間違ってないのに解決できなかったものは、仕方がないと割り切り、ただ己の糧と経験にするだけです。


創作のあと抜け殻になるのは、己の内の想像性を絞りつくしたからです。逆にいうと、抜け殻にならないのは、それは創作ではなく、ただの仕事です。ときどきはぜひ抜け殻になりましょう。想像性は補充できます。


怒りというのは最高のエネルギー源なんですよ。なので、怒ったときは「ラッキー!」と思って、創作へのエネルギーにすかさず変換してます。はかどるはかどる♪


体力的にはまだまだイケるのに、もう書けない…というときは、脳の中のイメージをすべて絞り出したからなんですね。またイメージをためておかねば。創作というのはイメージの貯金と、それの具現化の繰り返し。脳と体力を両方健康に保たねばなりません。これからも我が脳のためにケンコーに気を遣うぞ!


極論で言うならYesやEL&Pなんかはどのアルバムを聴いても同じなんですよ。それはようするに、アルバムごとにポップになったか、プログレっぽいか、という差でしかない。しかし、KING CRIMSONやPINK FLOYDの場合は、「そういう問題ではない」んですよね。

模索し続けることをマジメにやっていたのがクリムゾンで、ユルめにやっていたのがフロイドとも言えるかもしれませんが、フリップ先生の実験精神を正座して楽しみつつ、足を崩してのんびりとギルモアのギターにまどろむ、というのが素敵なプログレライフかなと。


基本的に幸せな人という方々には、自分の物語を描かなくてはならぬという強い渇望がないので、深い部分での創作意欲については理解しあえない。純粋に他者の創作物を楽しむことはできないということは、自分の物語がなくては生きてはいけないんですよ。己が生きるために描き続けるしかないんですね。


思いついた言葉はすぐに伝えたり、表現したりするべきなんですよ。何度も言いますが、言葉には賞味期限があるんでね。


どうでもいいようなことをこだわったり気にしずぎて、大切な本質を忘れるような人というのは、たいていはブレまくりで決して真理には辿り着けない。というか、辿り着く気がない。


もしも、パズルがはまる感覚があったら、それを実行するべきですね。すべての要素がそちらを向いているときを、見逃してはならない。今がそのときです。


組み立て始めたプラモデルは最後まで完成させるタイプです。たとえ部品が足りなくとも、適当な代用品を探して完成させます。そのひとつの完了体験が次の創作物へ向かうモチベーションと新たな探求心を生み出すのです。


公園の遊具で遊ぶメンバーたちを、「楽しんでる?」と気遣いつつ、ときに一緒に遊具の補修をしてもらい、新たな遊具のイメージや公園全体のイメージを考えながら、同時に前向きに一緒に遊ぶ姿勢も見せる。それがリーダーの役割だと思っています。


一人でいられない人間が増えている気がしますね。冷静に己を俯瞰する視点と安定した精神を保つための神経の制御力は明らかに退化している。


ようするに、一番やりたい人がそれをやればいいんですよ。技術や条件よりも優先されるべきです。 一番やりたい人がやればいいんですよ。


行動の選択における適切な答えというのはいつもすぐに出てきます。なにも考えることはないからです。


可能性のない物事への執着をやめて、身を切る思いでふりきることで、新しいチャンスとの邂逅があるんですよね。ゼロやマイナスからリスタートすることを恐れてはいけない。


苦しみながら一歩ずつ進むときも必要です。むしろそれこそが創作の醍醐味なのです。


人生とは道化師のように生きることである。さらけ出してナンボ。楽しませてナンボ。喜びも苦しみも己の糧となる。


基本的にネットやニュースで飛び交う情報の真偽をリアルに確かめる術は我々は持たないんですよ。なにを信じるか、なにを信じさせられるか。それは端末としての個人の判断にゆだねられるんですが、それを逆手にとった団体や、宗教や、メディアが、洗脳集団を作りやすい時代でもあるんですね。気を付け!


幸せになることにはなんの興味もないですね。創作を志す人間は幸せではいけないんですよ。満ち足りたらそこで終わり。


プログレ界のベビメタ…もそろそろ出てきてもいいよね。メロトロン奏者の美女や、オルガンに馬乗り弾きまくる美少女とか。変拍子に合わせてのキメポーズとか…曲名は「アナログ・ラバーズ」とか、「メロトロン★星人」とか、「七拍子の宮殿」とか、「こわれもの…ダモン♡」とか…ハマりそう♡


孤独な時期というのは、人生においてとても大切な局面なんですよ。自分を成長させてくれる、正しいものの見方を養える。孤独に耐えられない人間に成長はないのです。


ゆるキャラに、「ペイガンくん」というのはどうだろうか。バトルアックスを背負った2等身の可愛らしいヒゲ面の戦士で、ときどき戦いのポーズをとったり転んだりする。「ペーイ、ペイ、ペイ、ペイガンくーん♪」というのが登場時の雄々しい叫び声。声質はダンディな低音です。


ANGE ANGE ANGE とっても大好き、デカンえもん♪


もしも…そう、メタルとプログレに関することをワークだとするならば、私ほど勤勉なものはこの世界にいまい。


ゴッホとゴーギャンだったら、完全にゴーギャン派です。自分も想像と幻想の徒ですから。幻想せずに現実にしか興味がない人は、たいてい精神を病みますのでご注意を。


核心を突かない会話はただの戯言です。前に進みたいのなら、多少の修羅場は覚悟して核心をつくべきですね。


常々、ブラックメタルというのは、メタルではなくて、暗黒芸術なのだと思っています。なので普通のメタルは聴かない純ブラックメタラーがいるというのはしごく当たり前なのです。


怒りに勝る推進力というのはないですからね。というか、怒りは速やかに推進力に変換すべきです。そうしないとただの負のエネルギーのままなので。それじゃもったいない。


なんつうか、なくなって困る物…というのは自分には存在しません。そこまで大切な所有物というのはないですね。CDもPCも携帯も、ないならないでかまわないです。あれば便利だし楽しいけれどね。それに縛られている自分というのはありません。


自分はただ、自分にできることをやればいいんですよ。悪いのはただ、自分にできることをやらないことなんですよ。


永遠に続く物語のコツは、何度でも「ふりだしに戻る」ことなんですよね。けっこう勇気がいることなんだけど。


受け止る側もいろいろな情報を次々に取り入れすぎて、ひとつの楽曲、ひとつの文章を、じっくりと集中して味わいにくい時代なんですよ。なので奥深い芸術性を見つけるよりも即効性を評価する人が増えているんです。たまにはじっくり味わいたいんですけどね。


昔は名曲が1曲あればCDは売れたんですよ。たとえ他が駄曲ばっかでも。いまは1曲単価150円で買えちゃいますからね。作り手はそこそこ質の高い曲を並べなくてはならない。もはや名曲は生まれにくい時代なんですよね。


人間は無駄に情報を受け取りすぎる。とくに昨今はネットやスマホでほぼリアルタイムで世界各地の事件やニュースが伝わってきてしまう…本来なら知る必要も ない事までも。それらの情報が本当に必要でない限りは、いちいち影響を受けるべきではない。押し寄せる情報の洪水に脳が疲れ果ててしまふ。


基本的に誰かを楽しませるために生きているんですが、その誰かの中には自分も入っているワケ。自分を楽しませることが出来たら、まず一人確保…ということで。ずいぶん気が楽になる。 生涯鬱にはならない思考回路です。


自分のことしか考えない人間に成長はないんですよ。自分のためにやることが人のためにもなるという、一石二鳥を早く見つけてください。


ゴシックメタルもフォークメタルもメロスピもプログレメタルも、飽きてきたのは確かだな。よっぽど美しいか、よっぽど暗いか、よっぽど荘厳な迫力があるか でないと、最後まで聴き通せないわ。ただ激しかったり、ただ派手だったりだけではダメ。40分飽きさせない才能というのは稀有なものなのです。


たまに「音楽バカ」のように思われることがあるんですが、自分としては全然普通だと思ってます。世界中にいるいいバンドを探求しているだけですから。各国の文化や土着性を感じながら、それらを楽しむ。それが芸術鑑賞の醍醐味ではないですか。味わい尽くさなくては。


ちなみに、日本のアイドル文化に関しては、受け手や作り手の精神的な未成熟さを助長させる点で、良くも悪くも異質な文化だと思いますね。 プロの歌手、シンガーとしての実力よりも、未成熟の危うさを商売にすることがアイドルなのだとしたら、僕はそれにはなんの興味もないです。


いかに己のディープな趣味の世界を反映されるか。それがすべてでしょう。ディープすぎる場合は多少のソフィスティケートも必要かもしれませんが、本当はなくてもかまわない。


たまに怒るのは必要なのであった。ストレスとアドレナリンが両方湧き起るので、怒りは新たなモチベーションとパワーを与えてくれるのです。のんびり過ごしつつ、たま~に怒る。これが創作者としての理想の生き方なのかもしれません。


ストーリーがありそうでないB級映画もけっこう好きです。カメラワークが偏執狂的ならなおよし。エロスを感じさせるほど、偏ったレイアウトとか、たまらんですわ♪

それは音楽もしかり。八方美人の安心クオリティよりも、たとえつたなくとも、ごく一部に妄執偏愛されるような、ディープな世界観が好きです♪


基本的に創作以外の時間は全部無駄な時間なんですよ。無駄ではない学べることもあるけれど、それを使わなければ結局は無駄なんです。今日どこまでできるか、それがすべてですね。

与えられる情報の取捨選択だけで一生を過ごすつもりなんですかね。そうでないなら、ある程度シャットアウトすべき。そうしなければならない時代なんだよね。


思えば、22年前のあの日…ふっと現れたプログレ星人に連れ去られ、そのときから僕は、これから地球を征服することになるプログレ星人の参謀になったのです。 みんな、ゴメンよ。涙 戦闘員募集。


受け手に想像の余地を残しておかないと、音楽も、物語も、ただのCG映画のようになっちゃうんですよね。なにもかも見せなくていい。


どうせ売れないなら好きなことをやり続ければいいんですよ。売れようなどと思った時点で終わりが始まる。


プログレファン「とろん、とろん、メロトロン♪」
普通の音楽ファン「…」
プログレファン「とろん、とろん、メロトロン♪」
まともな音楽ファン「ええと…」
プログレファン「とろん、とろん、メロトロン♪」
一般の音楽ファン「俺、もう帰るわ…」
プログレファン「つぎはオルガンね♪」


たとえばだが、マスオさんのあだ名を「マスオどん」にすれば、マストドンとタメを張れるくらいの迫力になる気がするのだが。


あわてて決めてしまうよりも、選択肢を3つくらい見つけて、それから最善を決めるのがいいですね。4つ以上だと時間がかかりすぎるし、2つだとさらによいものがあるかもしれない。時間(労力)と質(結果)のバランスが大切ですな。


人生は終わらない風呂敷たたみですな。ほとんどが道半ばで途絶えるんだから、あせる必要はない。やることをやるだけ。


いくら演奏にパワーがあっても、楽曲自体にパワーがないと、脳は感動できないのです。楽曲が描く世界観の強度といいますかね。なにも描けない高度な演奏というのはあまり意味がないように思う。


よくも悪くも70年代の音楽作品って、手抜きな曲がいくつかあって、トータルな流れが感じられるんだよね。逆に最近の作品は、どの曲も同じように詰め込んでいて、むしろ濃密すぎて聴き通すのがつらいという。曲単位で試聴したり買ったりする時代の弊害か。スカスカな手抜き曲じゃ売れないだろうしな。


洗脳されている人間というのは、己の価値観が揺らぎそうになると、相手に対して攻撃的になるんですよね。自身を正当化させるために。そうしないと、精神的なゲシュタルト崩壊を起こしてしまうので。


佐村河内さんには頑張って欲しいなあ。これを機に、己の内側にあるどろどろとしたものを表現してもらって、どんなにつたなくてもいいから今度は自分の手で、DEVIL DOLLのような暗黒プログレを作って欲しい。タイトルは「漆黒なる復讐の掟」…というような感じで。それなら俺買うわ♪


イスラエルのメタルとプログレは好きだけど、国家としてのイスラエル、つまり政府は嫌いですね。被害者意識を美化したがる連中というのは妄想に陥りやすいんですよ。そういえば、来日予定のバンドが来られなくなったみたいだが、アンネの日記が各地で破られた事件と関係があったりしてね。

あと、アンネの日記を破って、プロパガンダに使おうとしている連中も許せんですね。あれは、人種や宗教も別にして、ようするに純粋な乙女日記ですよ。


好きな言葉はエピックです。好きな言葉はゴシックです。好きな言葉はプログレです。好きな言葉はシンフォニックです。好きな言葉は…ヘンタイです。私たちは、メタルとプログレ大好きクリニックです♪


若いころはピロピロ&キンキン系のサウンドも喜んで聴いていたけど、いまはドゥームな低音の方が心地よい。これってたぶん聴力とも関係があるんだろうね。若い方がより高音を認識できるっていうのは本当だろうし。あとはうわべの綺麗さよりも精神領域の深みを味わう方がずっと楽しくなってくるのだね。


誤解を恐れずに言えば、宗教というのはこの世界で最大の共同幻想だと思うのだが、ゴシックメタルやエピックメタルもそうあるべきだと思う。部外者からはうさんくさい目で見られつつ一部の人間から偏愛されるという。夢を見させる側はもっとアーティスティックに異端になっていい。勇んで逸脱しましょ♪


ゴシックやドゥームなどの雰囲気もの作品は、1回聴いてとても気に入っても、あるときふっと醒めたようにつまらなく感じるときがある。プログレメタルの場合は純粋に展開に飽きたりする。やはり何度聴いても飽きない作品というのは、それだけパーツごとの完成度が高く、描かれる世界観も強固なのだ。


芸術に人生をかけてたずさわるような人間というのは、どこか歪んでいるんですよ。逆に言うと、歪んでいないマトモな人はあまり深入りしない方がいいのです。歪みを愛する精神…不自然な趣味こそ愛すべきもの。その精神こそが芸術の入り口。


ネットやテレビのニュースなどでは、簡単に悪者を作れてしまうんですよね。だからこそ、敵をつぶしたい団体や大手企業は、メディアを買収したがるんだろうな。誰かを悪者にすると得をする連中が、世の中には必ずいることを覚えておいた方がいいです。


「みんなから好かれる」とか、「みんなから愛される」とか、一番気持ち悪い言葉だよね。なんでそんなに、好かれたり、愛されたりしなくてはならないのか。キモすぎるわ!


世の中で一番嫌いなのは、ある一方的な価値観に染まった(洗脳された)人ですが、僕が憎むのはその人本人ではなく、洗脳した側の人間あるいは団体ですね。カルトもしかり、それが国家レベルとなると、世界的な犯罪であるとさえ思いますな。


この世で一番尊敬し、愛していた人間はもうこの世にはいないので、正直、この世界がどうなろうと、あまり興味はないんですよ。


去年は何を書いたかと思い出しています。その年の最後に1年を振り返るというのは大事かもしれませんね。止まらぬ流れのうちにあって、感じたこと体験したことどもが、ただちに過ぎ去って色を失ってゆくとしても。こんな時代だからこそ。


KING CRIMSONのロバート・フリップ先生の言葉に、「質問の質が回答の質を決める」というのがありますが、それはSNS上では、「つぶやきの質がレスの質を決める」と言えるかもしれませんね。


40で死のうと思っていた高校三年の頃、30で死にたいと言っていた小川くんにエックスを聴かされたのが始まりだった。ヨシキを見てドラムを始めた。エックスの曲を聴いていると、自分の代わりに何度も死んでくれているような気がして、若き日の抑えがたい破滅衝動を昇華してくれた。


芸術の探求に満足というものはないんですよ。どんな素晴らしい作品に出会ったとしても。決して満足することはない。だから、多くの人は自分で曲を作り始めたり絵を描いたり文章を書いたりするんです。自分を満足させるために。それがまた新たな芸術を生む…そうした輪廻の中で我々は生きているのです。


音楽を芸術として聴く人と、娯楽として聴く人の間にはじつは大きな隔たりがある。音楽を芸術として鑑賞する人は、たぶん絵画や本など、他の分野においても芸術的な作品を楽しむ嗜好があり、音楽を娯楽として楽しむ人は、明快な心地よさを好み、音楽以外でもたぶん娯楽的な趣味や楽しみをもっている。

また、芸術というものは、必ずしも収束に向かわない(つまりは型外れのもの、エキセントリックなものも含む)のだが、娯楽としての作品となると、心地よい音…つまり、よりメロディアスだったり、キャッチー、ポップというものへと収束してゆくことになる。明快な聴き心地=楽しさということになる。

ヘンタイな音楽を好むということは、間違いなくそれを芸術として愛しているのであるが、その手のアヴァンギャルドな作品は、娯楽として音楽を楽しむ人には向かないし、むしろ気持ち悪いとさえ思われる。得体の知れないもの、奇妙なセンス…それらを楽しめるかどうかが分かれ目なのかもしれない。

あと身もフタもない事実として、音楽を芸術として鑑賞する人は、よりたくさんの作品との出会いを求めるて彷徨う(散財する)のだが、音楽を娯楽として楽しむ人は、好きな作品を何度も聴くことの心地よさで満足できる。もちろん、人によって差異はあるけれど、おおむね芸術の探求は散財との戦いである。


物語というのは風呂敷を壮大に広げている間が一番ワクワクするのであって、それを畳み始めると、どうしても凡庸になってゆく。たとえ、大変な才能がある作り手でもそう。だから、多くの人は、風呂敷を広げるだけ広げてほっぽり出すんですよ。完成への痛みと凡庸に耐えられないときには。


生まれてから、死ぬまで生きる。ただそれだけのことなんですよね。なんか勘違いしている人が多くて、もったいない。


目的が明確なストーリーというのは、あまり好きではないんですよ。先が読めるし、展開を急ぎすぎるきらいがある。彷徨いながら、目的を見つけてゆく物語の方が、ワクワクできるし好きですね。それこそがプログレッシブというもの。


言葉はパワーです。もう一度言います。言葉はパワーなのです。


自分の信じた道を進むのにためらいなどないですね。存分に探求しましょう。有限の時間との勝負ですな。


演奏って、人生そのものだよね。逆に言うと、その人の人生が見えて来ない演奏というのは、いくら上手くても人に感銘は与えられないと思う。


つまらない作品というのは、たいてい聴き心地は悪くないんだけどパッとしないんだよね。いろいろな要素を入れようとしても、アレンジセンスがないと、なにひとつ効果的じゃないもどかしさというか…だったら全部とっぱらってシンプルにしろよと。まずはシンプルにメロディかリフを追求してみて下さい。


バンドというのは、構成員のエネルギーと持ち時間の集合体というべき「生き物」なので、いずれは終わるものだから、それは別にいいんですが、終わる前に次の方向性をいくつかイメージしておくといいよね。車輪がストップする前に、新たな方向へ向かえればロスも少ない。さて、次はどうしようかなあ。


辺境の魅力にハマると、もうメジャーなメタルが商業音楽みたいに聞こえて仕方がないという感覚が分かる気がします。B級でもいいクサメロならば…の精神とは、言い換えれば、収束に行き着かない純粋な土着性であり、それは他では決して味わえぬ、つたなくも愛らしい旋律なのであります。クサメロラヴ?


Web上の情報も、テレビも新聞も、ただ信じてはダメなんですよね。むしろ半分は嘘だと思うくらいがいい。何を信じるかは自分しだいで、そしてより真実に近づくためには、常に感覚を尖らせて、かすかな虚飾の匂いを嗅ぎ取れるくらいに鋭敏になっておくのがいい。実感をもとにした経験をデータにして。


言葉は伝えないと意味がないんですよ。言葉というのはナマモノなのでしまっておくと腐ります。己の内側から生まれた言葉は、腐る前にちゃんと伝えたり、つぶやいたりしてくださいね。自分もそうします!


ミスのない演奏を綺麗にこなしたとして、それがなにかの価値になるんですか。それを録音してライブアルバムでも出すならともかく。ミスしようが、しなかろうが、情熱の強い方の勝ちです。


あまりいい言い方でないかもしれないが、バンドなんてのは、本気でやる遊びなんだから、あまり面倒くさく考えることはないんですよ。それでメシを食っていこうという人以外は。つまらないことで楽しめなくなるのは馬鹿らしいじゃないですか。Enjoy!


その曲を気に入るかどうか、最初の5秒で分かるんです。せわしないこの時代です。作り手は最初の5秒に全てをかけてください。退屈な曲は6秒で飽きます。

ていうか、いま世界が終わってもいい…くらいな気持ちで作品を聴こうとしているのに、最初の5秒に魂が感じられなかったら、「どうしてくれんねん」ということですよね。ふざけるなと。リフでもフレーズでも無音でも、世界は感じ取れます。

昔のように才能がちゃんとある人だけが音楽やっていた時代ではなく、いまは誰でもCDとか出せちゃうからね。天才でない人は頭の5秒に命かけるべきです。一度、退屈脳にシフトしてしまった聴き手というのは、その後は興味を失った女とのデートみたいな感じで、アルバムと付き合わなくてはならない。


つながる、つながる、って、最近どうも世の中がつながる方向に来ているみたいですが、なんでそんなにつながらなくてはならないのか。正直キモいわ。孤独に創作したり自問自答したりする時間こそが人生の醍醐味だと思うんだが。つながらなくてはいられない弱い人間が増えそう。つながりすぎ危険!


自分にとって大切な存在なんてのは、1人か2人いればいいんですよね。うわべだけのつながりに縛られることは馬鹿らしいし、一人ではなにもできない極端に孤独を恐れる連中が増えていってしまう気がします。

つながりを強要されたり、空気を読みすぎるような仲間意識というのは、本来強さを持っているはずの個人が、しだいに精神的なストレスを抱えてしまうことになるような気がします。そうした人々が日本社会の中心になるときが、なんとなくいまから心配です。


結局、洗脳されている連中は気持ち悪いんですよ。宗教に国家にしろ洗脳教育がある国はカルト国家というべきだし、敵を憎むことで自己を正当化する連中はマインドコントロールされているのと同じ。偶像崇拝が過ぎればキリスト教徒の十字軍遠征のような気違い沙汰にもなる。八百万の神のいる国で良かった


完璧なまでに作り込まれた作品というのは真の意味での傑作にはなり得ないんですよ。なにかが足りない、と受け手に思わせること。欠損の美しさというかね、そこを勇気をもって受け手の想像で補わせることで、共同幻想が生まれるんです。

これはメタルとプログレも同じことで、作り込まれ過ぎた濃密な作品というのは、一回聴けばもういいや…となるんです。想像の余地がないというか。B級のクサメタルやB級のシンフォプログレが耳に心地よいのは、聴き手が幻想を描く隙間が残されているからなんですね。


日本のバンドって、いうなればホンモノっぽくないところが魅力だし面白いですよね。ライトノベルっぽいとか、ファンタジーっぽいとか、クラシカルっぽいとか、英語っぽいとか…ホンモノほど深みはないけど、それなりに構築するので完成度もまあまあ高いと。これってアニメ文化とも関係がありそう。

つまりは、文化におけるハイセンスなデフォルメの歴史が、すでに自然な経験値として、我々日本人にはすべからく取り込まれているということか。素材に幻想を上乗せする技術とでもいおうか。アニメもメタルもハイセンスなデフォルメなのだな。


簡単に感動する人って、飽きるのも早いんですよね。感情を吐き出してひとつスッキリしちゃうと、ケロってなっちゃうから。


願望と行動が矛盾している人っているよね。「こうなりたい」と言っているくせに、実際にはそうなるための努力をしていない。地道に種をまいて育てなくては望む結果は得られるはずもないのに。なにもせずただ願うだけで、あとは待つだけってのは、なりたくないと言っているのと一緒。宝くじ待ちの人生。


人を喜ばせることを自分の存在意義にしすぎる種類の人は、精神を病みますのでお気をつけを。

つまりは、道化師とストリッパーは、意外なほど共通点が多いんですね。自分は両方好きです。


基本的にはロックンローラーなので、「くそったれえぇ!」と思いながら日々を生きています。怒りがなくなったら創作はやめますわ。


どうするのが一番正しいのか、それを常に考えているので、たいてい、いつも答えはすぐに見つかります。

これは創作においてもしかりで、自分の場合はプロットは粗めで、その場その場で「どうなるのが正しいのか」考え、沸き起こる感情で瞬間的に行動が左右されるときもあり、その結果で新たなカタルシスが生まれるのですが、ときには意外な方向へゆくことも。しかし、それが正しい道だったりするのですね。

具体的には、自分が世界の流れの中にある存在であることを認識した上で、1.筋を通すこと、2.より多くの人間がハッピーになれること、3.内なる心(感情)の解放、この3つがより同じ方を向いたところにベターな答えがあるのだと思っています。

逆にいうと、これらのベクトルがまったく異なった場合には、落とし所を探すのはけっこう大変で、イチローのポテンヒットなみの感覚的技術が必要になるかと。笑 
その場合に大切なのは、結果を受け止める勇気だと思っています。


寝る前に歯を磨くとき、鏡の向こうの自分の目といつも勝負をしています。 まだ一度も負けたことがない。


人間関係は、水か空気のように、自然にそこに在り、流れてゆくものと心がけています。


複数の問題が同時に進行してゆき、それがときに関わりをもつ方が物語は重厚になるし面白いんです。これは現実においてもしかり。それぞれの問題への対応が新たなドラマを生んでゆくのです。Enjoy!


人を幸せにするというのは最高の喜びですね。それも第三者的な立場として。すべて、創作者たるものは、それを念頭に置かねばならぬ。


苦しく厳しいまでの情熱がなければ、長続きはせんよ。


頑張り続けた人間は成し遂げるもんですな。すべての創作物に拍手を。


ジャケのイメージと実際の音が違うと、とたんに萎えるよね。期待外れというか…よくよく聴けばそう悪くないのかもしれないけど、耳がすでにジャケのような世界観を欲してしまっているのだもの。


客観性を欠いたドラマティックさというのは、その瞬間だけはそれなりに感動的なんですが、長い目で見ると気恥ずかしかったり、勘違いの思い込みぶりが表れてしまうので、どんなに盛り上がった場面を描くときでも、極力淡々とした描写を心がけています。物語も人生と同じね。


結局、人間というのは、その相手を前にしたとき、それぞれの相手に対しての自分(役割)を無意識に演じているんですよね。まあ、それでいいんじゃないでしょうか。

それぞれの相手との最適な距離感…パワーバランスをこそが、社会を維持していると考えればね。そういう小賢しさをもたない「KY」と呼ばれる純粋な人々はステキです。


最近はなかなか良いアルバムというのはないですね。日本盤クラスのものも、ほとんどは2回以上聴くCDはないです。どうしょうもないB級やヘンテコなものが少なくなってきて、ドキドキする楽しみが減りました。どのバンドも「普通」すぎる。もっとヘンテコな作品が聴きたいのに。それが芸術たるもの。


不快ではないけれど、不快直前の表現…それこそが芸術におけるひとつのキーワードですな。綺麗なだけではダメ。


正直、多くのバンドの(ベテランも含む)手詰まり感というのは、そろそろ危機的な感じだよね。いくら質が高くても、しだいに興奮できるものが少なくなってゆく。過去のバンドの模倣か、過去の自分の再現という要素が増えてゆくのは仕方がないことなのか。もっとスリリングな冒険心を聴かせてくれ!


レビューを書くとき、「構築センス」と書きたいところを、いつもPCの野郎が「高地苦戦す」と変換しやがる。オレは歩兵戦闘員か!


ドラムやってる人の打ち込みと、やってないひとの打ち込みって、明らかに差があるよね。ちゃんと叩いている感じがするもの。あと、経験のない人の打ち込みは曲ごとに「違うドラマー」が叩いてるような感じ。リズム感に統一性がないというかね。ちゃんと「同一人物」を想定して作った方が説得力がつく。


それはアンタの考えだけど、俺を変える力はないよね。そんなスタンスでよいかと。自分が目指すものにしか興味ないし、他のことは望まない。基本、他人の評価なんてのはホントどうでもいいです。早くガンダルフっぽい(白髪の長髪)スナフキンになりたいっ。


プログレメタル要素もある正統派メタルバンドって、たいてい売れないか忘れ去られてしまうよね。人間の脳はまずカテゴリー分けとイメージとしての簡素化をしたがるので、境界線上にいるバンドのことは、認識を強めることができず曖昧な存在になってしまうんだろうね。実際はいいバンドもいるんだけど。


基本的に、明日の心配は明日になってからします。今日がこんなに晴れているのに、心配するなんてもったいない。


芸術というのは本来地域性…つまり各々のアーティストの生きる場所から生まれる作品なんですよね。そうしたメロディや楽曲の匂いにこそ魅力があるのだと思います


人生なんてのは、空気のように生き、そしていつのまにかいなくなる、というのが最高なんですよ。それまでに、もうちょっとCDレビューと創作をしておこう♪


閉塞感は人の歩みを止めさせる。なにもなかったふうに考えようとしても、それは頭の中で常について回る。光に向かって歩き続けるには、やはり面倒事をひとつずつクリアにしてゆくほかにない。時間がかかればかかるほどトンネルは長くなる。慎重に急いでよし。


まあ、しょうがねえな。でたいていを済ませられる精神力こそ、我が目指している境地です。だいぶ近づいてきた。


いったん動き始めれば局面は変わり始める。あとは流れに身を任せつつ、その都度ベターな判断をし続けるのみ。


ヘナチョコなクサメタルによる癒しは表面的なものにすぎない。いうなれば、ファンタジーなライトノベルを読んで現実逃避するようなもので、痛みや核心に近づくためには哲学的な命題を含んだ創作物に触れるべきだ。メタルでいうと、個人的にはエピックドゥームがツボ。重厚に癒されます。


メロディの流れが最後まで収束に向かわないソロパートというのは退屈だし、気持ちよくないんですよ。いくらテクニカルであっても、それはただピロピロ系の自己満足にすぎない。人間の脳が一番気持ちいいのは、単純→複雑→単純 という流れなんですね。広げた風呂敷は畳むべき。それがカタルシスを生む


いまは、実生活において「ふへへ」と笑ってみたいですね。ふへへと笑える場面に遭遇することが、今後の現実的な目標であり夢です。ふへへ…


我慢の上に成り立つ調和というのは、あまり正しくないんですが、我慢しないで成り立つ調和というのは、奇跡に近いんですよ。


珠玉の金言は「よい加減と適当」、ある一線を通過した者にとってはどちらも最高の褒め言葉であり、よい加減の中にこそ、すべての本質と素直な未来が見いだせるのである。


なんか、いろんな問題について、些細なことも含めて、考えたり思い悩んだりすることについて、それも楽しくなくもないなと思い始めた。それが生きているということですもんね。問題も楽しめば面白い面白い。


物事はシンプルに考えるべきですね。というか、たいていの物事はシンプルなものなんですよ。要は、いかに勇敢に核心にまで近づけるか。ただそれだけが重要なこと。


立場や圧力や人間関係などに惑わされることなく、正しい道を自然に選択できる。それが人生においてもっとも必要なスキルなんでしょうね。今年はどうも、それを磨く年になりそうな気がする。


人間、目標を語っているときが一番美しいね。たとえ実現しなくても、それは美しいんですよ。語ることは恥ずかしいことじゃない。


感情に流されてよりベターな選択をできないのはダメなんですよ。人生における物事はすべて選択と判断の連続なのですから。どうでもいい物事は感情で行ってもよし。そうでなければ冷徹に決断をするべきですね。


内なる言葉と感情は常に表現にして吐き出すべきですよ。どちらもナマモノなので、しまっておくと腐ってしまう。新鮮なパワーこそが周囲に影響を与え、世界を動かすのです。文字でも声でも演奏でも絵でも、それはなんでもよいのです。表現は楽しい♪


「金具栗無損、絵馬村麗句浜、貧苦古井戸、冷え酢、The 絵無椅子」…なにげに昔のテキストファイルを覗いたら、こんなことが書いてありました。俺って…笑


ヘンテコとヘンタイ、エキセントリックとアヴァンギャルド、プログレッシブとテクニカルは全部意味が違うのです。ヘンタイは大好きですが、ヘンテコの方が心なごみます。つまり、よりサイケに近いユルさ…それこそがヘンテコの魅力なのかもしれません。ただヘンタイの方がより芸術に通じています。


選択肢がふたつのときは、だいたい2、3秒で決められます。どっちが楽しいかを一瞬で想像するんですよ。物事があるべきところに収まるなら、そのピースが組み合わさる心地よさだけが感じられます。


これだと思って突き進んでも、その情熱が続かないのなら結局は本物ではなかったということなんですよね。感性を基盤に創作するタイプだと衝動が継続につながらないのはよくあることで、たとえ高名な作家でもそういう未完の作品というのはたくさんある。古ぼけてしまった衝動はしょうがないので捨てる!


やりたいようにやればいいのさ。根拠のない自信を頼りに。いずれは本物の自信になる。


これだという答えが見つかるときが一番気持ちいいんですよね。あとはそれに向けて邁進してゆけばよい。困難を排除するパワーが生まれるのは、これだという確信だけなんですよ。


オリジナルバンドとコピバンのスタンスには、ものすごく大きな隔たりがあるんですよね。目指すものがまるで違うので当然だろうし、自分はどっちも好きなんですけど。ときおりコピバン的技術至上主義に違和感を覚えることもある。ではおやすみなさい。


とりあえず動いてみれば景色が見えてくる。これでいいのか悪いかが分かれば、あとは方向を修正すればいい。行き詰まって衝動で動いたときには思いがけない景色が見えたりする。それが創作の醍醐味よ。


創作するにおいて、自分が天才だと思わないのはダメですよ。創造からの構築を支える土台とは無限の自信であり、その次に来るのが冷静な俯瞰だべ!

引きどころと落としどころなんですよね。結局、高度なドラマ性というのは。引っ張りすぎるとしらけるし、早すぎると盛り上がらない。いまだ!というところで切る勇気というか、センスというかね。要はその潔さですわ。


基本的にヘヴィすぎるメタルってあんまり好きじゃないんです。だからブラックメタルやベテランのデスメタルが好きなのかも。

ところで、ブラックメタルってものは、ある種の異形のプログレなんですよね。ブラックメタル聴きながらだと心地よくうたた寝できるんですが、デスメタルだと無理なのはそのせいかも。


選曲的な不満はあるにしても、結局はブラガーは最高ってことです。だって、こんな世界観は他のバンドには出せないですよ。ベスト盤でありつつ2枚組の壮大な作品として聴けてしまう。リミックス効果で音質も迫力UPしてます。その辺のファンタジー映画より遥かに重厚な世界ですわ♪


なんか今日はえらい夢をみたわい。電車で東京に降り立ったら、どこまでも続くゴミと廃棄物置き場、そこいら中に累々と横たわる死体…これが変わり果てた東京の姿か。急いでやってきたので靴を履き忘れ、店で買おうとしたら、その家の家族のサンダルやらサイズの合わない上履きやらを出されて困った。


ヘヴィメタルが疾走したものがスラッシュメタルで、メロハーが疾走したものがメロスピなんですよ。構造的に。メロスピは好きだがメロハーはダメという人はおかしいよね。メロディの質ではメロハー系バンドの方が上だと思う。誰かFAIR WARNINGのドラムを倍速にしたものを作ってください。


Univers Zeroが偏執狂的なまでに好き…という人とは友人になりたくない。少し控えめなカンジで「ユニヴァル・ゼロ…いいですよね」というタイプの人となら分かり合える気がする。個人的な闇は個人で浸り鑑賞するもの。光を当ててはいけない。


STRATOVARIUSやANGRAなど、いわゆる人気バンドというのは期待のされ方も大きいので、商業的側面も含めて作り手の作品ごとの苦労や精神的な疲労で、たいていは年月とともに才能が磨り減ってしまう。自由に伸び伸びできるという点では、むしろB級クサメタルバンドが一番幸せなのかも。


手放しで評価できるメタルはヘンタイ系だけです。


自分で確かめたり調べようとはせず、気楽に人を頼るような連中が多いな。開拓精神、探求精神はどこへいった?ネットの情報過多のおかげで脳の使い方を忘れているんだろうな。人を頼るというのは基本的には恥ずかしいことだと思っているんですがね。


それなりに出来が良いのに詰まらないメタルというのはけっこうあるんですが、プログレの場合そういう作品はほぼ皆無です。おそらく、売れセンや商業志向と無縁であることが理由であるかと思いますが、そういう点では、すべてのプログレ作品はアーティストの意志が通った芸術作品であると言えるのです。


人間、使い慣れた道具の方が実力を発揮できるよね。新しいツールに比べて、たとえ制約が多くとも。新しい道具の使い方を覚える間に、古い道具で己を高める方が性に合っている。だから、なかなか買い換えないんですね。だって便利さよりも己の感覚をシンプルに追求したいじゃないですか。


自分の作品に対する突き放した視点というのがあって、冷酷かつ無邪気にそれを弄ぶやり方ってすごいよね。ある意味、それは小説家とかの視点なんだが。SIGHの曲を聴いていてそれを感じた。


その環境がためらいなく人を殺せるようにしてしまうって、怖いねえ。宗教紛争とテロの只中で、警備兵として戦う夢を見たよ。まさにやられる前にやる、という感じでした。爆弾や人体への化学薬品も使われたり、何度も死にかけた。銃を持って敵が現れるとためらいなく引き金をひいてしまう環境でした。


日本のバンドって、律儀なのか繊細なのかこまいのか、10曲作るとたいてい似た感じになっちゃうんですよね。よくいえば統一感がある。悪くいえば途中で飽きる。これなら5曲くらいでいいよ。日本人にはミニアルバムが合っているような気がします。


10人以上の人間を管理して動かそうと思っても、そう上手くはゆかない。ともかく機会と情報とスケジュールを与えて、あとは各人のモラルに任せるしかないんですよね。


いつまでもべったりな関係って気持ち悪いよね。どんなに仲よくても所詮は他人。ともに立ち向かえるサイド・バイ・サイドの関係が一番でしょう。存分に剣をふるえるくらいの距離はとるべきですな。


最近のバンドはスカスカな曲を作る勇気がないんだな。スカスカを格好よく聴かせるのがロックだろうに。


時間がたち興奮や期待から覚めると、あれだけ素晴らしく思えていたものが、冷静にみてつまらなく思えることがあるよね。人間の脳味噌なんてその程度のもの。己の脳をだましだまし、幻想の歓びに浸らせて生きる動物なのですよ。


自分の実力で出来うるギリギリの演奏(表現)というのは人前でするべきでない。余裕がない表現というのは格好悪いんですよね。スピーディかつテクニカルに、かつ余裕をもって演奏するのなら、それを7~8割の力でもできるよう自分の実力を高める必要がある。


物事や仕事や作品を「そのあるべき形」にもってゆくためには、足りないものをとにかく付加してみてから、今度はそれを冷徹な基準で削り取ってゆくことが必要だ。創作的作業において、「なにが必要でなにがいらないか」を見極めることが、最も必要な能力なのだと思う。


自分らしく居られる場所(時間)、そして心血を注げる遊び(仕事)、これがあれば、歳をとることはまったく怖くないのですよ。いますぐジジイになってもいいな。


質問の質が回答の質を決めるんですよ。よい回答を求めるのならまず「質問の質」を高めてください。せめて貴方の求める具体的な目標物のイメージがちゃんと伝わるように。


“正統派”って、むしろ嫌いな言葉なんです。好きなのは“異端”と“ヘンタイ”、“背徳”それに“アヴァンギャルド”です。


理想なくして遠くへは行けないが、理想だけでは正しい道をゆけない。目の前の一歩にどうして、もっとよく目を向けないのだ。次に踏み出す土の上に、ぬかるみや毒虫があるかもしれぬ。無駄な労力は有限の時にあって避けるべきだ。より大切な有益な努力のときのために。まずは次の一歩に集中すべし。


バンドというのは遊びではなく単なる趣味でもない、メンバーというのは友人ではなくひとつの世界を形成するための仲間であるから、互いにある程度の緊張感を持ちながら真摯に活動を楽しむべきだ。足並みが揃わないとしたら、それを形成するメンバーに問題があるので、厳しい決断を下す時もやってくる。


なるほど…脳内のドーパミンが増えると時間は短く感じるのね。メタルとプログレを聴きまくっている自分が、いつも時間が短く感じるのはそれか!


遂行を完了した物事というのは輝きを失う。それはもう過去のことだから。推敲が苦手なのもそれせい。過去作の手直しなどもあまり好きではない。つたなくともそのときの情熱が作ったものだから。しかし、どうしても前に進めないときには、自分の原点を見つめ直す意味で過去に触れてみるのはアリかなと。


人間が幸せに生きる為の唯一絶対の行いは、考えても仕方のないことは考えないことなんですよね。酒飲んで寝ようzzz


文章書きとしての職業病か、体言止めにとても敏感です。ネット上のレビューや、テレビのナレーションなどもそうなのだが、やたらと体言止めを使用するのは、恥ずかしいことなのだと分かっているのだろうか?ポエムじゃないんだからさ。少なくとも、自分はここぞというとき以外には体言止めは使わない。


実行力というのは、まずは抽象的な目標を想像し(イメージ)それを固めた後、そこに至る為の具体的ないくつかの方法を考え(プラン)その中から最良のものを選んで(チョイス)遂行する(ワーク)ことなのだと思う。

もしも、イメージした目標に至る為の具体的な方法が思いつかないのなら、イメージそのものが間違っていることになる。当然ながら、イメージするだけではなにも起こらないが、イメージすることなしにはなにも始まらない。


BSドキュメンタリー「血塗られた携帯電話」…考えさせられる内容だった。我々の使う携帯に必要な鉱物資源のため、途上国では鉱山をめぐる紛争により人々が殺され、少年たちが過酷な労働についているのだと。今の携帯は7年くらい使ってますが、むやみに買い換えることはこれからもしないでしょう。


「歓声」と「喚声」の使い分けでよく悩みます。たとえばコンサートのお客が上げるのは歓声で、デモの人々が上げる声は喚声だとすると、つまり、そこに歓びの感情があるかどうかで決まるのでしょうが、あるいは音としてとらえるか、言葉としてとらえるかでも変わる気がするんですね。

野球の試合において、ひいきでない打者が立ったときに客席から上るのははたして歓声なのでしょうか?第三者的な視点ではそれは喚声の方だと思うのですが、お客が試合自体を楽しんでいないわけではないという点では歓声である気もするんです。やはり主観となる視点をどこにおくかで決まるんですよね。

声を音としてとらえるか、そこにある感情を察知するという、ある種の入り込んだ視点をとるかでも変わってくる。「喚声」は音であり、「歓声」は感情であるという、そう割り切ってしまってもいいものなのか。悩みながらいつも書いています。


素晴らしいものには称賛を惜しまず、ダメなものははっきりきっぱりとこき下ろす。海外のスポーツメディアのようなレビュワーでいたい。それが文化の発展につながる。


濃密でインパクトの強いものって、たいてい早く飽きるよね。とくに根本的な部分での魅力がなくて、綺麗に彩られただけの濃密さというのはなおさら。まず薄口の状態でも素晴らしいものが本物なのだと思う。


負の感情を吐露するというのは、そこにあるパワーが作用すればそれだけで芸術たりうるんですが、それが作品としてより強い輝きを放つには、芸術であらぬという視点…もう少し言うなら、負の感情を俯瞰する冷静さが必要なんですね。僕も頑張って詩を書き続けたいと思っています。


カテドラルの「この森の静寂の中で」は秋山幸子さんの対訳にもしびれましたね。「惨めに泣きぬれるその姿こそ我らが悦び。麗しい人生などいらぬ。愛しいのは弔いの眺めよ。詰まらぬもので溢れる不運こそ望むところ。些細な悲劇に喜んで祝杯を掲げよ」

「骨を砕き、偽者どもを粥にして味わったあとは、味気なきものを信奉し、無益なものに献身する者どもは、耐え難きを耐え、甘んじて灰と化すのみ。真実は雄弁に語られる。おお我を進ませ給え。果てしなく荒廃した造営物の間を彷徨させよ。おまえの破局でおとずれた平和に、我が友ガーゴイルと共に立つ」


広く影響を与えたメタルバンドという点での四天王は…JUDAS PRIEST、IRON MAIDEN、METALLICA、SLAYERなのではないかと思う。ジューダスとメイデンは全てのヨーロピアンメタルの原点、スレイヤーはスラッシュとデスメタルの原点、メタリカは意外と構築性の原点。

フォロワーの多さの点では、HELLOWEENとDREAM THEATERがツートップですかね。メロディックスピードメタル、プログレッシブメタルを開拓した、この2バンドの功績は計り知れない。その後の数多くの“もどき”が出現しましたもんね。90年代は僕もたくさんもどきを漁りましたわw


自分の周りのささやかなことからも世界は変えられます。まずは自信を持って微笑んで、「俺はやれる」とそう思うんです。強くなったフリを続ければ、いずれは強くなりますからね。


これぞメタルコアの代名詞だ!という曲がないのも、もともとが北欧メロデスやデスラッシュやエモや、いろんなものを取り入れてモダンに仕上げましたという、曖昧なジャンルだったからなのではないかな。

あとはインターネット世代のジャンルということで、ネットで一回聴いてインパクトを持たせるために、どの曲も音圧が一定で、そこそこ格好よくて激しいという曲ばかりなので、結局は中の上程度の似たり寄ったりのアルバムが多い。試聴したら格好いいけど、CDで買って聴いたら飽きちゃうというね。

あと、個性的なプレイヤーがいないですよね。みんな機械みたいに上手い。けど、リフにしろソロにしろ、リズムにしろ、味のあるプレイを聴かせるというのがないので、何度も聴く気にはならないんですな。ヴォーカルもみんな同じに聴こえるし、心に残るリフもない。

たとえば個性的でなくても、個性的なセンスがあれば、既存の要素の集合でも新鮮に楽しめるんですよね。つまり料理人しだい。素材が新鮮なことが一番だが、たとえ新鮮でなくても腕がよければいい料理にできる。まあ、そんなセンスを持っていれば、DREAM THEATERクラスになってるか…笑

まあ、音楽なんてのは、自己満足の芸術なんですよ。プロとなるとあとはいかに商業との折り合いをつけるか。イングヴェイの自己満足のおかげで、世間にはギタリストが増え続け、DT のおかげでプレイヤーのレベルも上がっています。けっこうじゃないですか。それが文化の発展。


物語においていかにして寓話的であるかというのは重要だ。もっと言うなら、作り手が意識して寓話的たらんとするスタンスこそが重要なのだと思う。そうでないものは、一回かぎりのジェットコースターのように刹那的な娯楽にしかならない。心に深く残るものというのは、総じて本質的な寓話性を有している

これは音楽においても同様で、最近の作品が派手さばかりを表に出した刹那的なものが多いのに対して、過去の名作が長い年月をへてなお、これほど愛されているというのは、そこにある寓話的な本質が、ときを超えて我々の心を打つのだと思う。言い換えれば、芸術の精神たる核とはそれなのではないか。


現代人にとってのサバイバルスキルとは、垂れ流される情報から、己にとって必要かつ有益なものを選びとる能力なのではなかろうか。いるものは素早く追い求め、いらぬものは目にとめない。せわしない時間の流れの中で取捨選択をしながら、結果として成長できる能力。すべてを追っては疲れ果てますから。


すでにご存じかと思いますが、僕がこのようにメタルとプログレのマニアックなツイートをするのは、5年後、10年後を見据えてのことなのです。少しでもメタルとプログレ人口を増やすことで、より住みやすい社会作りを目指しているのです。メタプロ的国家発展のため、これからもつぶやき続けます。


今日というのは、昨日の結果であり、明日への準備なんですよね。いい準備ができれば、きっとよい成果が上がるし、もしも、今日がイマイチだったならば、それは昨日の自分のせいなんですわ。食べる物も含めて、すべてが明日のための準備なんですわな。


その日に聴くCDは前日からだいたい決めています。効率的なレビューのため。何事もそうだと思いますが、その日の気分次第…なんていうのは当てにならないんですよ。時間の無駄が多くなる。事前に自分の意識をある程度方向付けておくのは大切なんですね。もちろん、ちゃんと気が変わったら変えてOK。


最近1200円とかで中古CD見かけても高い気がしてしまう。もう1000円以下でないとほとんど買わないですね。そういうのって大事。これ以上の値段だったら買わないとしっかり心に決めておけば、お金はたまります。実際、こんだけCD買いまくってるけど、この1年で貯金は1.5倍に増えた。


ゴシックメタルやシンフォメタル系のアルバムによくあること…最初に聴いたときのインパクトや、ファンタジックで壮大な音に「おおっ」となるのだが、何度か聴くうちに、それはただ「雰囲気」にだまされたのであって、それに慣れると楽曲やメロディ自体は実は大したことがないと気付いて売りに出す。


ちょっとした壁や失敗にぶつかると、すぐ思考停止になる人がいるけど、それでは毎回「ふりだしに戻る」ばかりで成長できないんですよね。道はいくらでもあるし、ときには自分で道を作ることもできるわけで。失敗や壁にめげる前に次の行動(アイデア)を試すべき。でないと人生を冒険する甲斐がない。


「イイネ」を押せばうわべのコミュニケーションもどきが成り立ってしまう某SNSに比べ、ここでは自分の言葉でつぶやくことこそが醍醐味だし、文字を駆使するのが楽しいわけで、それがメンドーな人はけっこう消えてしまってますよね。「イイネ」大好きな人はツイには不向きなのかも。


やはりどう考えてもMの方が人生はより楽しいと思う。ムカつくことや苦しみ、困難すらもあえて「楽しむ」ことができれば成長できる。大成するアスリートのほとんどはMか隠れMだろう。苦しみを楽しみつつ己を鍛えられること、そして孤独を楽しめることが真の強さであり、Mの強さなのだと。ビバM♪


とりあえずは、「ウマグマ」、「原子心母」、「狂気」、「炎」、「The Wall」と、最低限この5枚はまず聴いてもらいたいですね。どれもが色の異なる傑作。それで少しずつ、ピンク・フロイドというバンドの音楽的変遷と表現する世界が分かってくるかと。


ライブにおいてスタジオアルバム以上のことを表現しようとするのが本当の音楽家。楽曲の再現に終始している時点で定型内の演奏にしかならない。たとえ完璧でもそれは退屈だ。失敗があったとしてもより高いビジョンを目指そうとしている演奏は興奮するし、お客はそれを求めて高い金を払うのではないか?


結局、人間めげたらそこで終わりなんですよね。信念とともに続ければ、七転び八起きは確かにあるのだと思う。


歩き方ってホント大切だと思った。歩き方が醜いと格好悪いし、なにより、せっかく健康に生まれたのだから、美しく歩くよう努力すべき。その方が見ていて心地よいし、体も歪まず健康にもいい。知り合いだったら注意するところだったぞw


ドイツ、北欧、イタリアは、メタルとプログレの好きなバンドが最も多い地域だとあらためて思う。ドイツは「武骨さとロマンティシズム」、イタリアは「素朴さ、濃密、大仰(オペラティック)の同居」というイメージ。それから、オーストリアの優雅さも好きですね。あとポーランドの薄暗さとかも。

スカンジナビアの3国もそれぞれに音から匂うイメージが異なって、ノルウェーは「土着的、勇壮で神秘的」、スウェーデンは「正統的、お洒落、繊細」、フィンランドは「知的で高品質、メランコリック」という感じがする。どの国にもいつか行ってみたい。音のイメージを重ね合わせながら旅をしたい♪


とあるつぶやきが目に入った。現状を変えたいというような不満をつぶやきつつ、結局はその状況に甘んじているのを望んでいる気がしますな。不満を吐き出す前に、リスクを覚悟しても己の望む道を進むべき。それがまだかなわぬなら、せめて希望し続けるべき。それはいつか叶う。


ネットしていると知らなくてもいい情報までつい知ってしまうんですよね。自分も好奇心旺盛な方なのでつい知りたがってしまう。でも、いらない情報はやっぱりいらないんですね。とくに物事に集中したいときには。最近は知らなくていいことは、なるべく知ろうとしない努力をしています。


根拠のない自信がふつふつと湧いてくるまではじっと耐える。それが人生ってやつよ。少し湧いてきた。


少しだが前に進んだ。こうして這ってでも進んでゆけば、いずれは歩きだせる日が来る。やはりちょっとでも書けると己の存在価値を許せる気がする。苦しむのはトレーニングと思え。さてこれから身体の筋トレじゃあ~!


自分が作品をレビューするにあたって評価するポイントは、そのアーティストの志向する世界が音でどれだけ描けているかどうか。たとえば今年のナンバー1がOPETHなのは、彼らの目指すビジョンが完璧に遂行された作品だからで、何度聴いても気持ちいいのは音を通じてそれが直に伝わってくるからだ。

同じ理由で、いくらゴージャスできらびやかに繕われていても、そこに「意思」のような強い力が感じられない作品は評価できない。意思は世界であり、音の向こうにある核となる。人間で言えば魂。まずそれがあり、それをなんとか音で表現しようとするのが音楽という芸術であるべきだと自分は信じている。

さらに身も蓋もない話をすると、元のビジョンのレベルが低いと、完成されたものもどうあってもそれ以上にはならない。人間に置き換えると、目指す目標が低いならどう頑張ってもそれ以上にはなれないということで、すべての人間はより高い人生の目標を掲げるべきだと思う。それが実現するしないにせよ。


別に技術があろうとなかろうと、楽曲の出来が良かろうとイマイチだろうと、情熱や気概が伝わってくるものであれば聴く価値はあるんですよ。僕が退屈だと思い二度と聴きたくないと思うのは、たいていは商業的な思惑やら二番煎じを狙ったりしていて、しかもハズしているもの、情熱も探求もない音なのです


ただのヘヴィロック以上の魅力をサウンドに与えるのは、ヴォーカルさんの表現力が不可欠なのだなと思った。これがシンフォニックメタルやメロスピであれば、クサメロやきらびやかな疾走感で多少ごまかしが効くんですが、オーソドックスなゴシック、ヘヴィロックの場合はとくに世界観は歌で決まる。


女はバレーボールが好きだ。男はサッカーや野球が好きだ。おそらく点の取り合いと、すぐに得点という結果が出る明快さがよいのだろう。一方、間合いのスポーツである野球や、得点までのプロセスを楽しむサッカーは彼女たちには退屈であり複雑なのかもしれない。男女の性質の違いといえばそれまでだが。


ネットは重要なツールですが、様々な価値観の中で他人と比較したりせずに、自分は自分と思えるのが本当の強さなんですよね。逆にその強さがないと、流されて本当の自分を見失ってしまう。つながることで安息を覚えるというのはちょっと違いますよね。孤独を恐れすぎというか。


昔はmixiもTwitterも、ネットも携帯すらもなかったんですよ。人はみなリアルの付き合いのみで、いまよりも独りでいて、そして強かったのです。僕はその世代なので、寂しさを紛らわすだけの無意味な交流はいっさいしません。笑


考えてみると、70年代のバンドって、スタジオ録音もライブみたいなもんですもんね。そりゃカッコいいわけだ!

メタルのライブアルバムって、デジタル機材が進んだ2000年以降だとほとんどいい作品がないよね。まあDREAM THEATERなんかは別として。やはり楽しめるのは昔の作品だな。ただのスタジオ盤の再現という、最近のバンドのようなつまらなさはない。その瞬間しかできない演奏をしている。

大事なのは的確な演奏力よりも表現力なんですよね。己から湧き出る力を音にして差し出す感じ。それが感じられるかどうかが、いい演奏だな~と思えるかどうかになる。もちろん基本的な技術力は必要ですが。ミスを恐れない勢いと迫力もときには必要。個人的にはタメとグルーブです。自分も頑張ります!


mixiやTwitterに不満はいっさいありません。たかがネットじゃないですか。


悩みや迷いというのは、ほとんどが自分の思い込みによるものなんですよね。それに気付くと生きるのが楽になるよ。「~に悩んでいる」というのを、「~と思い込んでいる」というように考えてみると、可能性はひらける。嫌いな人も苦手な人も、この世に居ていいのだと。


Facebook、mixi、Twitterと、3つもやっていると、いい具合に表現欲を分散できて、ひとつのものに入り込まずに済むな。mixi中毒とかの人もいっぺん離れて別のところでつぶやいたりすると、狭かった視野が多少ひらけるかも。日記にコメするだけのお友達ゴッコは正直気持ち悪い。


表現者というのは道化師とほぼ同義だと思う。自分をさらけ出すことで、人が喜ぶことを是とする者。内面も含めた赤裸々な吐露により人を楽しませることが喜びでもある。自分の悪口やゴシップでスレが盛り上がるなら、それもまたひとつ役割を果たしているという気がするな。もっといい道化師になりたい。


思えば、ファミコンや8ビットPCにおける所謂クソゲーを繰り返しプレイしたことで、我々の世代は忍耐力と無駄に豊かな想像力を確かに身につけていったのだと思う。絶対にクリアできないゲームとか、いまじゃありえんwプレステ世代の君たちは忍耐が足りない。そしてもっと不条理を楽しむべし。


過小評価されていたり、素晴らしいのに知名度があまりない作品やバンドをプッシュして、それに正当な評価を与えるというのが、レビューサイトのひとつの大きな役割だとも思う。反対に大御所やもてはやされる人気者にはとても厳しい、ひねくれものの僕ですが。さて、DREAM THEATER聴くかw

興奮のない知的な整合感はフュージョンを聴いている感覚にも近いな。夢見る頃を過ぎると、とくにプログレ関係のバンドというのは無駄に質ばかりが高くなるんですよね。それが悪いというわけではなく、醒めた脳味噌で聴く音楽というのは、芸術とはやはり少し違う気がするのです。


つまらないバンドの20分の大曲などはただの苦痛でしかない。早く終われとすら思ってしまう。人生の貴重な20分をこんな曲で浪費したくないと。これが素晴らしいバンドなら、30分でも40分でもうっとりなのだがね。人の感覚的な好みや脳内での評価というのはホント非情なものだな。


これだけ長い間聴いていても疲れないのがプログレの素敵なところですよね。それぞれのバンドにはそれぞれの世界観があって。まさしくアーティストたちの芸術に耽溺するような感覚。ネットでラジオ聴きながら、思わずサイトのプログレレビューページの整理、編集をしてました♪


やはり重要なのは「目指しているものが出来ているかどうか」なのだなと思う。それはすぐに分かる。輝くパワー(方向性)にあふれているから。自信にみなぎった音というのはどんなものでも美しい。ギターのひとつまびき、ドラムのひと叩きですらも、そこにエネルギー(世界)を感じることができる。

つまり、迷いのなさこそが構築の原点。音の描くビジョンの強度こそが作品の価値であるべきだ。正直、曲の出来不出来はその次の問題かと。たとえば単純なリフでもそこに強固な世界があるのなら名曲たりうる。


市販の菓子パンも食べないです。たとえばクリームパンとか、クリームなのになんで常温で保存できるの?それは大量の保存料が投入されているから!あとは「肉の味のする保存料」というべきハム&ソーセージもヤバいから。これらをいっさい食べないだけでも、健康でいられる期間はだいぶ伸びる気がする。


日本のプログレバンドで世界に誇れる3枚を選ぶなら、Mr.SIRIUS「ダージ」、KENSO「夢の丘」、VIENNA「STEP INTO...」だと思う。技術的にも楽曲の素晴らしさという点でも世界の頂点といってよいレベルの名作たち。必ず聴いて欲しいですね。


【ファンタジーロックフェス】遊佐未森さんは間近で見ても可愛らしい方でした。ケイト・ブッシュの名曲「嵐が丘」に感激。その絶品の歌声、表現力…完全にケイトになりきってました。ちなみにバックのギターは今堀恒雄さん。トライガンとか好きだったなあ。そして隣の席ではどんどん酒臭くなるN店長が

【ファンタジーロックフェス】桜庭統さんは相変わらずオルガン&ムーグシンセの鬼という感じで、激しくアナログキーボードを弾きまくり。変拍子まくりの楽曲はまったくもってプログレ!もうエマーソンか永川敏郎さんかというほど。拳でピアノも叩きますがMCでの素朴すぎるぎこちなさはまさに職人風w

【ファンタジーロックフェス】植松伸夫先生はドラクエに出てくる長老のようなお姿で登場♪クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」は見事なコーラスの掛け合いに感動です。ジェラルドの佐々井さんの歌声とオルガン弾きまくる植松さんのHRナンバーも熱かった。そしてベリーダンスの美女の踊りに釘付け

【ファンタジーロックフェス】総評…とてもプログレだった、そしてすべてはロックだった。なんというか、ゲームミュージックというものの可能性…つまりそこではプログレも70'sハードロックもまだまだ生きているのだという、そんな不思議な感慨を味わいました。第2回FRFの実現に期待します!


最近、よく接点の分からない業者さんからもフォローいただいて嬉しいです。もっと怪しい業者さんもよろしくお願いします。自分に足りないのはさらなる怪しさである気がしています。もっと怪しく、ああ…胡散臭くなりたいのです。そして怪しい人々にメタルとプログレを広めてゆきたいのです。


いまNHKでアンチエイジングのことをやってたけど、自分の経験的に音楽をやっている人、音楽が大好きな人というのは見た目も心も若い気がする。楽器や音楽でストレスを発散というのもあるだろうし、心から好きなものがあるということ…それが本当のアンチエイジングなのかなと思う。ドラム頑張ろう~


創作する人間は同ジャンルにおける他人の創作物をあまり知らない方がいいと思う。自分が天才だと思えるくらいの自信がなければ良い創作物はできないし、影響のない無から灯った火の方が美しいから。自分もあまり小説は読まない。書くときは自分の能力を信じて疑わない。ヘコむのは書き終えてからでいい

これが表現者となるとまた別で、表現者(プレイヤー)は、自分の愛する&目指す創作者の表現に触れ、それを肥しとして己を高めることができる。その点では創作者よりも表現者の方が生みの苦しみというのは少ないのかもしれない。ただその分、表現の質をシビアに問われることになるので競争は激しくなる


メタル、ヘヴィロックにおけるアルバムで似たような曲が3、4曲あると、いくら質がそれなりであっても傲慢な聴き手はすぐに飽きてしまう。10曲のうちで無くてもいいと思える曲が半分近くあったらアルバムとしては失敗だと思う。だったらいっそ5曲まで削ってミニで出した方が強いインパクトになる。


いま所有している全部のCDをもう一回ずつ聴くだけで、自分の人生は終わるだろう。この大量のCD群が自分なき後に無駄なゴミと化さないよう、はやいとこ息子を作って“緑川とうせい二世”として有能なメタプロレビュワーに育てなくては…ふとそんなことを考えるCDの山の前で。


mixiのマイミクさんで、さよならって書いて消えてゆく人がけっこういるんだけど、なんだかねえ…もうちょい気楽にやったらいいのにな。たかがネットのコミュニティ、ストレスを感じたり傷ついたりするのはあまりに馬鹿らしい。気を使いすぎたり、期待しすぎたり、結局はそれがネット疲れなのかな…


エヴァンゲリオンはある種のオペラですな。クールと大仰、情念と救いのシンボライズ。


そうそう、僕もあるときから気付いたんですよ。人に良く見せようとか、良く見られたいとかいう気持ちは己を偽ることで、ありのままの自分をさらけ出すことが本当の創作であり、表現なんだと。そうした真実の姿こそが人の気持ちに届いたり、なにかが伝わったりするんですよね。


メタルを好きな人間は基本的にどこかおかしいのだと思う。毎日変わらぬ日々、リアルな現実生活だけでは満たされないなにかを秘めている者…ロマンであったり、己自身の闇であったり、芸術への希求であったり、そういう得体の知れぬなにかを持っている者…それを「こちら側の人間」と自分はとらえている


超絶テクニカルなデスメタルは、ほとんどギャグと同じですね。スパスパ、ドドドド、ガガガガン、キュインって感じで。たとえば痛い系の芸人(江頭とか)のバックで流したりすると、より笑える痛さが効果的な気がする。正しいテクニカルデスの聴き方は、痛笑にあり!

…しかし、ブルデスやってる人ってM男なんじゃないかと思った。ブラストに合わせてユニゾンするリフの嵐…Sだったらもっと簡単な音楽やるよね。コワイ顔して、カンニバルやサフォケーションのTシャツ着てるが、こういう奴らは全員M男だ!そうに決まっている。


出来のいいCDは1度聴くと満足して次に聴くまでけっこう間があく。出来の悪いCDは1度聴いて売る。出来が良くも悪くもないCDは、売ろうかどうしようか考えるのでけっこう何度も聴いてしまう。


自分がモヤさまが好きな理由は、バラエティを含めたいていのTV番組は「ここで笑え」「ここは泣け」という信号が出ているので、視聴者はそれに乗って安心して笑ったり泣いたりができる。ようするに感情を操られているのであるが、

モヤさまの場合には「まあ笑うとこだけど別に笑わなくてもいいよ」というユルさがあるので、僕のようなひねくれ者にはちょうど気持ちよいのである。こうした感情をコントロールする信号に慣れてしまうと、もしもそれがなかったり、弱かったりすると、困ってしまう…

つまり面白いのか面白くないのか教えてもらえない、という状態に陥るのである。それはTVだから面白くなくてはならない、という受け手の縛りであるのだが、そういう人々はたいていNHKのドキュメント番組などは苦手なのである。感情を操ってもらえないので物足りないからだ。

話はやや脱線したが、そういう意味では、さまぁ~ずは「ウマグマ」の頃のPINK FLOYDに似ているな。天然のユルさが漂う点で。笑いを強要しないところが心地よい。もちろん「モヤさま」の場合は大江アナという超天然キャラがおられるおかげで成り立っているのだが。

ビートたけしは間違いなくKING CRIMSONですね。「聴き手を置き去りにしても俺は好きなことやるぜ」というスタンスが。明石家さんまはEL&P。たたみかける「タルカス」から「ラブビーチ」まであり。爆笑問題は知性ある構築、安全性という点でYESかな。このタイプはけっこう多そうだよ


順調にいこうとするとつまずく。それがバンドというものだ。バンドも生き物であり、一人一人の構成員が生物の細胞のひとつであり、それが健全に作用し、全体を支えなければ、結局はいずれ無理がでてきてしまう。健康な細胞こそが全体を動かす。そして、それが揃うというのは奇跡に近いことなのだ。


テクニックがありメロディアスで質が高くても、どうにも耳を惹かれないサウンドというのは、構築される世界観の弱さなのだろう。逆に上手くなくても魅力があるバンドというのは、音で描き出されたビジョンが魅力的なのだ。技術があり綺麗にまとまっているだけでは決して魅力ある音楽にはならない。


今日は2枚くらいしか書けなかった。行き詰まっているのではない。想像が足りないからだ。創作には想像力が必要なのだが、その想像の質が創作物の質に直接関わるので、まずは質の高い想像をしなくてはならないのだ。その貯金が創作の糧となる。注文した資料本が届いたら、想像力を高めながら読むずら!


開いている人と、閉じている、もしくは閉じ気味の人の差は大きいよねえ。最近それが一目で…というか一行で分かるようになった。俺も以前はけっこう閉じ気味だったのかしら。今となっては恥も外聞もない。己の道を邁進、精進すること以外あまり興味がないというね。ようするに楽しいかどうかが全てよ。



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