ぱしゃぱしゃという水音は魚がはねたってする。

マントは脱ぎたくなかったのに、お気に入りだから。
濡れるとなかなか乾かない。

まさかザースが小舟の上。
船頭は女
どんどん深い方へ
いざなわれても、困る
だって、泳げなくても浮けるのだから。
海面の
浮かんだ月を目指して。

ちゃぽちゃぽ。

また月は遠くなる。
ゆらゆらとゆれるので。
岸から離れて、夜の海を小舟が
波音も遠く
ここまでくると意外と静かな海の上
とうてい足はつくまい。
どちらにせよ暗くて見えないが
揺れる月のほかは黒々と恐ろしげ
朝になれば帆船がくる海だが
なびく帆は今はないから

夜の海

女は唐突に服を脱いだ。

白い裸体が月夜の海上に
丸みを帯びた曲線は美しく、
乳房も、尻も、腹でさえも……
豊かな、曲線の、

腹か……

ザースが気づいたときにはもう

じゃっぽん

女は海へ
ぶくぶくと泡
沈んでゆき、しばらく浮いてこないのだ。

ザースは月明かりに照らされた水面を
見て見ぬふりをした
しばらく

ぼこぼこ
ぷはっ

女が浮かんできた

仰向けに。海面に。空を見上げて。
やはり浮くだろう
ザースにだってわかる。その腹では。

どう?心配した? と女

ザース答えず
されどひとこと
女の丸い腹を見もしないで

子供が?

女よっぽどほがらかに、水の上は気持ち良いのだ。ええ、と。誇らかに。

奴隷です
私は奴隷。だからこのお腹の子は奴隷の子。

海面にぷかぷかと
きっぱりとね
女は涙も見せず。顔に水がかかるが。

奴隷の子
生まれてはいけない子。
それが奴隷の子。

女は静かに
水音とともに
しばらく
そして

どぶん

あっ、と女。だってまさかザースが
さすがにマントは脱いだが。お気に入りだし
それでも胴着のまま。沈まないのが不思議だ

ザースもぷかぷか
水の上。月を見上げるのもよいか。
笑いもせず
大の字に水の上
銀の髪が水に広がる。
微笑んだのは女。それほど嬉しかったのだろうか。

二人並んでぷかぷかと。
月を見上げて

死ぬのならつきあわない。

ザースがそう言っても女は驚きもせず
吹き出したわけでもなく、くすりと。
またきっぱりと

死なないよ。

女は

死なないよ。この子も

そう。
でも奴隷の子さ
ご主人様に知れたら、殺される。
奴隷だからね。
子を産ませるわけにはいかない。と
ご主人様の奥様は、それは厳しく恐ろしいの。
それでもね

目を閉じながら女は

ご主人様はときどき優しかった。
そのあとで必ずいつも…
いやだったけどでも。
私はいつだって拒まなかった。

はかない笑顔で女

拒んだらぶたれるの。何度も。何度も。
十四のときにここに売られてきて、今のご主人様が競り落としてから、
私はずっと働いて、働いて、
雨の日だって水をくんだし。魚だって運んだもの。ずっとね
そうしていつのまにか、この子ができたのよ。
今まではできなかったのに。
十八になったとたんこれだ。
ご主人様は、女の子なら産んでもよいというけど。
きっと男なら殺すだろう。
高く売れるのが女の子
きっと生んだら小馬に交換
だから逃げてきました。
この船で旅立ちます。
もう戻れないので。

女は嬉しそうにそう言った。

ザースには、
かれは今は男なので、いまひとつ理解しがたかったが、
しかしさきほどの魚料理への助言といい、
この女の、魚と暗黒については、信じられる気がしてきた。
なぜか。

ちゃぷちゃぷ

いつまで浮いていればいいの

しばらくだまっていた
二人は

ちゃぷちゃぷ

他にゆく船もなくなる。
もともと夜に帆船はないが
ガレー船はね。

朝になれば、朝の漁師たちが漕ぎだすだろう。
小船に戻ったら出発しなくてはならない。
女はもじもじとしたが
やはり言えそうもなかった。

ごめんなさい。

腹をなでながら、愛しそうに。
されどザースに
でもやはり一人でゆくのは不安でした。と

ごめんなさい。

もしずっと船の上、いつ生まれるのだろうと考えながら、
漕がなくてはならないときはひとりではね。

もし、あなたが私と…

もし……

ちゃぷちゃぷ

やはり言えそうもない。
女は首もふらず、そのまま言うのをやめた

ちゃぷちゃぷ

水面に浮かぶ女の裸身を、ザースはながめたが
その腹といい
いまでは女が奴隷だと知る前よりも、女が奴隷とは思えなくなっていた。

売られたっていい。生まれるなら。

明日もまた船着場に大きな帆船がやってくる。
数百人の奴隷たちを乗せて。
陸揚げ後
少女は馬並の高額値段で、少年は騾馬なみの価格で、
器量悪しとその他の者は、いつだって果物と野菜に交換だ。
命こみ。つぎに生まれる命さえこみの、その価格でね。

お買い得なのは?

それでも
捨てられるのはまだいい。と
ふと考えたザースが
女に子供を宿らせた主人のその子供には、
なぜか奴隷の悲しみを教えたくさえなったのはいったい。

女は小船に上がった
ぎしぎし揺れる
いつまでもお腹を冷やしてはだめだと
見てくれた医者に言われたそうだが。

船の上の女を
月明かりに照らされた女を
ザースはこの上もなく綺麗だと思った。

さて
ザースが船に戻ると
女は彼を引き寄せた。
なぜだかきっぱりと。

もう母親の目をしなくては

でも最後に
一度だけ
その裸身を押しつけて
彼の胸に身を。
ザースは拒まなかった
抱き寄せはしなかったが。
女の腹と、乳房が、
とても熱く思えた。

濡れた体で抱き合って
はたしたのはたったの一度のキスなんて
それでいいと思えるならば。
幸せに。

初めてのキスなの、と。
女が言っても

悲しみなどないし。
胸に身を預けて泣くのは
ただ

もう遅い。

幸せに。

たった一度のくちづけだが
女はこれで
母になった。


ザースはマントを羽織った。
とっぷり夜も更けた。
月は高く上った。
だからか
港は暗くなった。だいたい消えたから明かりが。
ゆっくりと厚手の胴着とローブを着て、
女は擢を握った。

方向はどっちへ?

尋ねたいのは女の方なのだが
負けたくはなかった。
たった一度のキスで男を愛したとしても

背を伸ばした
腰痛になっては子も産めない

ぴんと
ぴんとね

ザースは言った
細身の剣を、陸に置いてきた。と
多分酒場のおやじが持っているだろう。
目を見る。

女は、
笑った。
もはや力強く
母のように

それなら、と

岸まで戻ろうか。
ただし

目を見る。
目を見て

ザースは、

負けた。

降りるのはあんただけだ。


そしてまた微笑む

なんという勝負だ。

ザースは首を振った
では、ここでいい、と。
せっかくここまで漕いだのに。
無駄になっては。
夜のうちに、いくのなら。

女うなずく。

陸は黒く
月だけが頼りに
立ち上がり、
ザースは
今度はマントを脱がず
飛び込む、前に
胴着から取り出した、小さなビンを
女に。
液体か何かか?
受け取った女。それをふところに
しまい。うなずく。

囁きもしない。ありがとうと。
擢を握る手は、自由に。
あふれ。涙は、出ない。
希望のほうが多いし。暗黒を抑えればね。

ザースは船べりに。
女の、乳房と、あたたかな、命のこもった
体を思い浮かべたように
一瞬静かに立つと
振り返ることなく

ざぶん

と、水面に飛び込んだ。
泳いでも。
遠くなる。

船は進んでいるのか。
波はさほど高くないが

女は

漕いでいるか。




「ときがながれてゆくよ」
「ときがながれてゆくよ」

海に浮かんだ小舟のいのち。
奴隷たちはこうして、流れて?

「仕方ないよねザース」
「仕方ないよねサース」

ピクトルの言葉は、
海面のザースまでは。





翌朝
奴隷の少女が逃げ出したと
奴隷見張り専門職である、ガレー船保管管理部長のもとを、
一人の気難しそうな紳士が訪れたが、
奴隷脱走リストの膨大な書面を見せられ
捜索料一人につき馬一頭、という料金もあいまって、
二度舌打ちをして、愚痴をいった挙げ句、
断念して帰っていった。

だったら、新しいのが来る。
すぐに、と。
船着場へ。

新しい奴隷の少女を。
もう帆船は着いているだろう。
彼の妻は二人の子を産み、厳しく、知性の
ある教育をほどこしている。よい妻。
だからね。
愚かな男が、奴隷に魅せられるのだ。
船いっぱいの荷物を降ろし、
今日も奴隷市が始まる。
カリストスの港町。

母になった女は
誰にも知られず、
旅立っていつか。
いつかね。


ザースは朝食を終えた。
やはり暗黒を持った漁師たちの魚はうまい
間違っていなかった。
朝から麦芽酒の黒は飲めずとも

支度を整え
それでも魚の匂いに
少し飽きたら
港の喧騒と
奴隷市と
果物、塩漬け肉、野菜、その他香辛料
毛皮、綿製晶、ビロード、
金銀細工、リボン、上質の亜麻布
あらゆる品々
あらゆる人種
うずまく
港の喧騒と
潮の匂い
波音
かもめの鳴き声
そして
彼が愛しかけた女
母になった女を背に
港町を後にした


「ときがながれてゆくよ」

かたかたと揺れる人形も
葦毛の馬の上で




相次ぐ不平不満、そして反乱により
この港町カリストスで
奴隷たちの売買が禁止されるのは
それから四年と二ヵ月後のことである。

母は何人になり
こどもはどれくらい生まれたのだろう
奴隷は母になっても奴隷で
こどもは父がいても奴隷で
人々はしだいに
家族と奴隷とを区別する暗黒を使い果たしたのだろうか。
暗黒も見ずに捨てられ、殺された、こどもの数は、
売られた馬と騾馬の数とどちらが。

知らない。
だからか。

カリストスの港町
あらゆる人種がやってきて
あらゆる品々が行き交う
ゆるやかに。
町は囲まれてゆく。
戦いなく
なくなり。包まれ。せっかくの独立は失われ。
どこかの国のただの港町に。
消えていった。
母になった女のように。
静かに
ひっそりと。
されども負けることなく。
どこかへ、なくなっていった。

*


馬の手綱をとり
男は港を見下ろす高台に

港に停留する帆船の
白い大きなはためく帆は
すずしそうだ。

波音はここまでは届かない

港町の喧騒
人々の小さく見える
ひとつひとつが

置き忘れた剣があったから
もうここに用はない

ザースは
一人晴れ渡った海の彼方に目をやり
水平線の向こうに消えていった
誰かと
誰かのために
銀の髪をなびかせ
風に
ひとこと

人形はかたかたと

「なんのために走るの」
「なんのために走るの」

まばたきもせずに





                  黄昏騎士3完


小説トップページへ       黄昏騎士04へ