にゃーどとドラゴン
〜魔法の鍵の物語〜


◆10◆ 闇の宮殿と炎の鍵

 あっという間に、ゾンビ兵と騎士たちが入り乱れての、激しい戦いが始まった。
 王国の騎士たちの数は百人ほどだったが、誰もがよく訓練された剣さばきで、数百はいるだろう敵兵にも引けをとることはなく、倒れては起き上がってくる不死身のゾンビ兵たちに、勇敢に立ち向かっていった。
 勇気をもらったのは、孤軍奮闘していたガシュウィンとギルだった。彼らは、突然に現れた味方の加勢に力を得たように、さらに力を込めて剣と斧を振り続けた。
「ガシュウィンどの!」
 ガシュウィンは、隣で剣をふるいはじめた騎士を横目で見た。
「おぬしは、さっきの……、グランスだったか」
「お見知り置き、光栄に存じます」
 若き騎士はにこりと笑った。
「共に戦ってくれるのか」
「ええ。いかにわれらとて、このような奇怪な化け物が、王国の味方であるのか敵であるのかは明白。そして、王子殿下のおんために剣を振るうチャンスなどめったにないこと。我ら王国の騎士たちとしては、それを逃すわけにはゆきません」
「そうか」
 ガシュウィンも返り血で汚れた顔に笑みを浮かべた。二人の騎士は互いにうなずくと、再び敵に向けて猛烈に剣を振りはじめた。
「こりゃあすげえ。これなら勝てるぞ。見ろ。ゾンビ兵どもが押され始めている」
 戦いを見守るレファルドが歓声を上げる。
 勇敢に剣を振り続ける騎士たちと、そしてガシュウィンとギルの前に、数百いたゾンビ兵は、やがてその半分ほどまでに倒されていった。
 剣の技術やとっさの判断力では、はるかに人間の方が勝っている。いくら不死のゾンビたちとはいえ、このまま確実に一人ずつを斬り倒してゆけば打ち破れるに違いない。そんな希望が、戦う騎士たちの間にも、見守るペトルとレファルドの中にも生まれ始めていた。
 だが、
「おい。あれを見ろ」
「な、なんだあれは……」
 にわかに、騎士たちの間にざわめきが起こった。
 ゾンビ兵の背後で、黒々とした山のようなものが動いた。
 ずしん、という辺りを揺るがすような足音が起こり……
 騎士たちは皆剣を振る手をとめ、そちらを見上げた。
「おお、でかいのが来るぜ」
 レファルドが指さした。
 その先に、ここからでもはっきりと分かるほど、ひときわ大きな姿が現れた。
 ずしん、と足音が響き、その巨大な影が一歩ずつ近づいてくる。ゾンビ兵たちがのろのろと両側に避けようとする。だが、その巨大な影は、容赦なく何人かのゾンビたちをぐしゃりと踏みつぶした。
 ごおおおお、という火山の噴火にも似た、凄まじい雄叫びが上がった。
「化け物……」
 騎士たちが指さす。
 ぎろりと、その顔の一つ目が凶暴な光でこちらを見た。
「あれは巨人だ。巨人の化け物だ!」
 闇の巨人兵、ツォルマード……それが闇皇帝エンシフェルの分身であることなどは、もちろん誰も知らない。ただ、そのおそろしく巨大なごつごつとした黒い山のような姿が、一歩ずつ足音を響かせ、こちらへ近づいてくる様は、見るものに恐怖を覚えさせずにはおけないものだった。
「ありゃあ、ギルといい勝負だな……いや、むしろ、もうちょいでかいぜ」
 ペトルの横でつぶやいたレファルドが、ごくりとつばを飲みこむ。
 身長は優に三メートルは超えるだろう。分厚い体躯に黒ずくめの鎧を着込み、その手には人間の身長ほどはあろうかという巨大な斧槍を持っている。
 むき出しの額の真ん中には角が一本突き出し、顔の真ん中にあるぎょろりとした一つ目が絶えず左右に動いている。裂けたような口許には牙を覗かせ、腐敗臭をばらまく荒い息を吐きながら、ときおり喉を鳴らして叫びを上げる。その姿は、まさに巨大な怪物であり、恐るべき闇の巨人戦士であった。
 ほんの一瞬、呆気にとられていた騎士たちだったが、目の前に迫ってくるゾンビ兵たちに気づくと、再び剣を振り、戦いだした。
 だが、現れた一つ目の巨人戦士は、ハルバードと呼ばれるその長い槍のような斧を軽々と振り上げ、周りにいたゾンビ兵もろとも騎士たちをなぎ倒した。
「うわあっ」
「ぎゃあっ」
 悲鳴とともに何人もの騎士が、巨人戦士の一撃で吹き飛ばされた。
 その恐るべき破壊力は、鎧を着た人間の体など、まるで紙人形のように軽々と押しつぶし、ばらばらに吹き飛ばした。
「逃げろっ」
「奴には敵味方の区別がないぞ」
 あわてて騎士たちが巨人戦士から離れようとする。だが、恐ろしい叫び声とともに、その巨大な斧槍が振り回されると、その刃先がかすかに触れるだけで、簡単に鉄の鎧は砕け、腕や足がもぎとんだ。
「引けっ、いったん引けっ」
 ガシュウィンが叫んだ。この巨大な怪物が相手では、生身の人間には到底勝ち目はない。巨人のたった数回の攻撃で、もう十人以上の騎士がやられていた。
「ギル!お前の出番だ」
「おおっ」
 巨人には巨人とばかりに、ガシュウィンに呼ばれたギルが巨人戦士の前に進み出た。
 どちらも人間に比べれば、おそろしく大きな体だったが、それでも巨人戦士の方がさらにギルよりも頭一つ分は大きかった。
「奴と戦えるのはお前しかおらん。頼むぞ」
「お、おらやるだ。ペトルのために、ともだちのために、戦うだ」
 ギルはその顔を紅潮させ、どんどんと胸を叩いた。
 巨人戦士ツォルマードは、その一つ目を目の前の巨人に向けた。ごおおお、とその口から叫びが上がる。
 猛烈な斧槍の一撃が振り下ろされた。どがあっ、と凄まじい音が上がる。
 ギルは両手の斧でなんとか相手の攻撃を受け止めた。
「おお、おおっ」
 今度はギルの口から叫びが上がり、相手に向けて斧を振り下ろす。巨人戦士の肩口に斧がぶちあたった。
「ぐおおおおっ」
 悲鳴ともつかぬ声が、巨人戦士の口から上がった。その体がかすかによろめく。
「やった!」
 離れて見ていたレファルドが声を上げた。馬上のペトルも息を呑んで見守る。
 しかし、巨人戦士は無傷だった。砕けたのは肩の鎧だけだった。反対に、ギルの手にしていた斧は先端から二つに割れていた。
「危ない!」
 ペトルが叫んだ。
 巨人戦士の斧槍が、まっすぐにギルに向かって振り下ろされた。
 ギルはかろうじてそれをかわしたが、態勢を崩したところにこん棒のような太い腕が飛んできた。
「ぐわあっ」
 強烈な衝撃でギルは後ろに転がった。巨人のギルが素手で殴られて飛ばされるなど、ペトルには信じられない光景だった。
 その倒れたギルに、ゾンビ兵たちが続々と群がってゆく。
「うわああっ」
「ギルッ!」
 ペトルとレファルドの見守る前で、ギルの姿はゾンビ兵たちに埋もれて見えなくなった。
 ギルを倒した巨人戦士は、片手に恐るべきハルバードを振りかざし、別の騎士たちに襲いかかっていった。
「うわああっ」
「この、化け物めっ」
 騎士たちは勇敢にも巨大な敵に向かっていったが、その体に剣を振り下ろす前に、猛烈な斧槍の一撃を受けて、体ごとばらばらに吹き飛ばされた。攻撃を避けてかろうじて一命をとりとめた騎士も、どこかに手傷を追ってしまったものは、次々に襲いかかってくるゾンビ兵のえじきとなった。
 王国の騎士たちは、この圧倒的な力の前になすすべもなく、悪魔のような巨人の戦士とゾンビ兵たちの手によって、次々に殺されていった。
「ペトル!」
 馬に乗ったガシュウィンが、ペトルとレファルドのもとに駆けてきた。顔や体中に返り血を浴び、自らも多くの傷を受けた姿は、戦いのすさまじさを物語っている。
「このままではまずい。お前たちはここから逃げろ」
 眉間に皺を寄せたガシュウィンは、荒く息を吐きながら二人に告げた。
「そんな……」
「いいか。あの敵どもを迂回して、北の山へ向かうんだ。闇の宮殿はあの山だ」
 ガシュウィンはまっすぐに指さした。
「ゾンビどもと、あの巨人戦士が現れた方角に間違いなければな。お前たちは、行け」
「ガシュウィンは?」
 ペトルが心配そうに見つめる。
「私は騎士だ。最後まで騎士たちとともに戦う」
 にやりと笑って彼は言った。
「レファルド。ペトルを頼む。馬に乗るのは得意だろう?」
「ああ。任せておけよ」
 詩人はうなずくと、いったんペトルを馬から下ろし、先に自分が飛び乗った。
「さあ、ペトル。後ろに乗れ」
「うん……」
 ペトルは足元で不安げに鳴くにゃーどを見つめ、それから顔を上げガシュウィンを見た。
「セトール殿下」
 ガシュウィンの口調が変わっていた。
「最後までお守りできず申し訳ありませぬ。ただ、私は最後まで王国のために戦います」
「ガシュウィン」
 胸に手をやってひざまずく戦士を見つめ、ペトルは声を震わせた。
「今まで、ありがとう……いつも僕を見守り、助けてくれて。また、また会えるよね」
「もちろん」
 ガシュウィンはにこりと笑った。
「生きてまたお会いできましたならば、戦い抜いた私の剣を受け取っていただけますか」
「うん。きっと」
 ペトルは……そしてセトール王子は、自分と王国の両方を、命をかけて守ろうとするこの黒髪の騎士に、敬愛と親愛のまなざしを向けうなずいた。
「さあ、お行きください。王子」
 レファルドの手を借り、ペトルは馬に乗った。にゃーどもひらりとその肩に登る。
「無事で。ガシュウィン」
「じゃあ、いくぜ」
 手綱を握ったレファルドが馬の腹を蹴る。
 走り出した馬の上からペトルは手を振った。傷と血にまみれたガシュウィンの顔が、力強くうなずいた。その澄んだ目はむしろ穏やかですらあった。
 騎士たちの絶叫、剣のぶつかる響き……
 戦いの喧騒を背後に、ペトルの乗った馬は草原を走り出した。
(ガシュウィン……ギル、どうか、どうか無事でいて)
 ただ馬上でそう願う。そしてペトルは、馬を走らせるレファルドの背にしっかりとしがみついた。
 雲間から夕日が顔を覗かせた。
 赤々と燃える円盤を草原の彼方に見ながら、馬は走った。
 戦いの喧騒はしだいに遠ざかり、今はただ風の音のみが耳に流れる。
 前方に見えはじめている黒々とした山々。そちらから吹いてくる向かい風を受けながら、二人の乗る馬は走った。
 草原を抜けると、やがて周囲は岩に囲まれた傾斜になった。
「ここからは山道だな」
 レファルドは詩人特有の勘で、さきほどガシュウィンが指さした山がこの辺りだと目星をつけていた。
 辺りには草木がなくなり、その代わりに黒々とした岩肌ばかりが続いていた。ときおり上空を飛び回るカラスを目にする他には、動物の姿はまったく見えない
 岩ばかりのもの寂しい風景を馬上から見回しながら、ペトルは少しずつしみ込んでくるような緊張を覚えていた。
(なんだろう、これは……)
 それは、なにかひどく恐ろしいものに包まれているような不安な心地……どきどきとして落ちつかない、たえず後ろを振り向きたくなるような、そんな気持ちだった。
 ペトルの肩にへばりついていたにゃーども、どこか警戒するふうにぴんと尻尾を立てている。彼らが乗る馬は、ときおり進むのを拒むかのように首を振りいなないた。手綱をとるレファルドは気の立った馬をなだめながら、岩ばかりの坂道を慎重に歩ませてゆく。
 そうして、しばらく山間の岩場を登ってゆくと、唐突に行く手がひらけた。
 彼らの前に谷が広がっていた。
 すべてを飲み込むような、黒々と口を開けた深い谷間……そこに、まるでこちらとあちらの世界をつなぐかのように細い吊り橋がかかっている。
「ひええ、ここを渡れってのか」
 馬から下りたレファルドが、おそるおそる崖から谷間を覗きこむ。谷底は相当に深いようで、下のほうは真っ暗でなにも見えない。そこにはただ、どこまでも暗い虚空が続いてゆくようにも見える。
 この橋を馬でゆくのは不可能だった。
「レファルド、あれ」
 馬を下りたペトルが指さしたのは、吊り橋を渡った向こう側の岩山だった。岩の上に黒くそびえる建物が見えた。
「あれが、闇の宮殿ってやつか」
「じゃあ、やっぱりここを渡ってゆくしかないね」
 馬を放してやると、二人は黙ってうなずき合い、おそるおそる吊り橋に進み出た。
 古びた板とロープでできた細い橋は、ときおり頼りなげに風に揺れている。それはまるで、渡ろうとするものを意地悪く振り落としにかかるようにも見えた。
「レファルド……先にどうぞ」
「なにをおっしゃいます。王子殿下こそ、お先に……」
 二人は顔を見合わせ、くすりと笑った。そうしている間に、ひょいと橋の方に飛び出したのはにゃーどだった。
「にゃあ」
 ドラゴンネコは、恐れも知らずに、そのままとことこと細い橋げたを駆けてゆく。
「あいつはいいよな。いざとなったら飛べるんだし」
「よし。じゃあ、僕も行くよ」
 意を決して、ペトルも吊り橋に足を踏み出した。
「き、気をつけろよ」
 橋の上を歩きだすと、両側から思ったよりも強い風が吹きつけてきて、足元が浮き上がるような感じがした。橋げたの板と板の間には、黒い谷底が深遠な闇の世界を広げて、ペトルを吸い込もうとするかのようだ。
「……」
 なるべく下を見ないようにしながら、ペトルは一歩一歩慎重に橋を歩いていった。
 後ろからはレファルドも続いてきた。
「にゃー、にゃー」
 すでに向こう側へ渡りきったにゃーどが、ペトルを応援するように声を上げている。
(ああ……)
(なんだか、すごくいやな感じがする)
 ペトルはさっきから、ちくちくと首の後ろがそそけ立つような感覚を覚えていた。
(この橋を渡ってしまったら、もう……もときた方には帰れない)
(このまま、違う世界へ行ってしまうような気がする)
 そんな不吉な予感が頭をよぎる。
 だが、ここまできた以上はもう戻れない。命をかけて戦っているガシュウィンやギル、そして王国の騎士たちのためにも。
(そうだ。僕は行かなくては)
 ペトルは勇気を振り絞り、黒い谷の魔力を追いやると、また一歩ずつ橋を渡っていった。
 吊り橋を渡りきると、辺りの空気にはいっそう妖気が増したように思えた。
 ごつごつとした岩に囲まれた道を登ると、やがて二人の行く手に黒い建物が見えてきた。
 それは、まるで岩そのものが城になったような、奇妙な形のものだった。
 全体は黒々とした岩肌に覆われており、いくつもの塔が岩から突き出すようにそびえ立つ。塔の上空にはたくさんのカラスが飛び回っているのが見える。
「うへえ。こりゃあなんとも……けったいな城だぜ」
 レファルドが眉をひそめてそう言ったのも無理はない。黒い岩でできた城……それはまさに、闇の宮殿というにふさわしい、ひどく不気味な建物であった。
 少しの間、二人は息を飲んでその黒く不吉な岩の宮殿を見上げていたが、とことこと歩いてゆくにゃーどを見て気を取り直すと、彼らもまた歩きだした。
 城の周囲は黒い岩ばかりで、草も木もない。灰色の空を飛ぶカラス以外には、ここには生命の気配というものがまったく感じられなかった。ときおり、地面になにかの骨のようなものが転がっていて二人をぎょっとさせたが、それがなんの骨なのか、動物のものなのかあるいは人のものなのか、それを確かめる気にはとてもならなかった。
 二人は、なるべくならここから一刻も早く逃げ出したいというような顔で目を見合せると、緊張と恐怖心を押し殺しながら、一歩づづ城に近づいていった。
 城門らしき石柱を通り抜けても、二人の考えていたような、恐ろしい魔物やゾンビーなどは現れなかった。辺りはただしんと静まり返り、相変わらず生きるものの気配はなにもしない。
 遠目から見ていたときに思った、はたして岩の宮殿に入り口があるのだろうかというレファルドの疑念は、正面にぽっかりと口を開いた穴を見つけるとすぐに消し飛んだ。
 そこがこの城の唯一の入り口、そして出口であるのは明白だった。なんの飾りも、そして扉すらもない、ただのくり抜かれた岩の穴であったが、ここから入ってゆく以外に選択はなさそうだった。
「行くか……」
「うん」
「にゃあ」
 ペトルはぶるっと体を震わせ、にゃーどはどこかわくわくとする様子で尻尾を振る。やや顔をこわばらせたレファルドを先頭に、彼らは岩城の入り口に足を踏み入れた。
 中に入ると、そこはまるで洞窟かなにかのように湿った空気がただよっていた。足元の石畳も、どこか濡れているようにすら思える。そして、妖気というか、魔力の気配というのか、なにかただならぬ気配が確かにびりびりと感じられる。
 ぴんと尻尾を立てたにゃーどの、その首の後ろの毛がかすかにそそけ立っている。レファルドはきょろきょろと周囲を見回しながらペトルを守るように、先頭を歩いてゆく。
「暗いな……」
 ときおり壁に灯っている蝋燭の炎だけが、ぼうっとかすかに周囲を照らしている。それさえもがひどく恐ろしげで、むしろ完全な暗闇の方がましなように思われた。
 しばらく歩いてゆくと、狭い通路が不意に終わった。
 次に足を踏み出すと、そこは大きな空間になっていた。
 通路よりは多少は明るかったが、それでも宮殿の大広間というにはそこはひどく暗く、そしてじめじめとしていた。
 広間はしんと静まり返っていた。
 両側の壁ぎわには、高い天井までそびえる太い円柱が並んでおり、床もその柱もすべてが黒曜石で造られていた。広間の奥はさらに暗くて、ここからではよく見えなかったが、どうやら階段のような段差があり、その上になにかがあるようだった。
「……」
 ペトルとレファルドは、互いに無言で顔を見合わせた。
 声を出すのもはばかれるような、そんな重々しい空気がこの広間にはただよっていた。
 にゃーどがふんふんと鼻をならす。明らかに、このドラゴンネコだけはこの場所に来たことがあるような様子だった。恐れげもなく、正面の暗がりに向かっててくてくと歩いてゆく。二人もそれに続いた。
 広間の奥にある階段の前までくると、その上に玉座のようなものが見えた。玉座の両側には、不気味な彫刻の彫られた柱が立ち、背後の壁には巨大な額縁に入った絵が飾られている。
 ペトルははっとした。その玉座に、何者かが座っているのだ。
 ごごご、という、唸りのような声を二人は聞いた。そして広間中にもやもやとした妖気が立ち込めるような気がした。
 獣の唸りのようだった声が、やがて人の声へと変わった。
「闇の宮殿へようこそ」
 声が言った。低く、抑揚のない響きで。
「我はエンシフェル。闇皇帝と呼ばれる者」
 ペトルは息を呑んで、玉座に座るその人影を見つめた。
「闇皇帝……」
 横にいるレファルドの声もいくぶん震えていた。
「あいつが……すべての親玉ってわけか」
 広間全体を包むどろりとした妖気が、自分たちを重たい闇の中に引き込もうとでもしているかのように感じられる。
「鍵を持つ少年よ」
 その声にペトルはびくりと体を揺らした。エンシフェルと名乗った人物の、その頭の両側に突き出た角の先から、青白い炎が見えた。
「風の鍵、大地の鍵、水の鍵を集めたこと、大儀であった。その三つの鍵を持ち、こちらに来るがいい。褒美をとらす」
「……」
 ペトルはごくりとつばを飲み込んだ。
「その鍵は、我が炎の鍵とひとつになり、この王国、そして、この世界全体をこののち五百年は魔力によって繁栄させることになろう。生きとし生けるものすべてが、魔力の支配下に置かれ、その生命を生かされる。これぞ世界の摂理の完成。王国の未来である」
 冷酷なまでに静かで、冷たい声が広間に響いた。
「さあ、どうした。鍵を持ちこちらへ来い。そしてただ、我の前にひざまずくだけでよい。鍵は反応を始めている」
 ペトルの首にかけられた、三つの鍵が小刻みに揺れ出していた。こうしたことは前にもあった。鍵同志が出会い、互いの魔力に引かれ合っているのだ。
「……」
 ペトルは動かなかった。いや、動けなかった。
「なにを恐れることがあろう。鍵の未来は王国の未来である。そなたも王子であれば、それは理解できよう。魔力を有効に広げ、広げながら支配を確実にしてゆく。そうして、人のなした愚かな行いも、不条理に満ちた物事も、すべては有益なものとして働くのだ」
 闇皇帝の声が辺りを包むように、いんいんと響く。
「どうしようもない人間どもの数々の愚行、知性のかけらもない粗暴さ、愚かしいまでの感情の起伏、くだらぬ情や嘘に流され、時を浪費し、大地を汚し、水を汚し、木々を切り倒し、自然を我が物にしたような顔をしながら、それでいて大雨や洪水、干ばつ、飢餓に苦しみ、情けない顔をして神に祈る。そんな虫けら以下のような人間どもを、魔力の力があれば、もっと崇高で実際的な部品とできるのだ。それはなんという素晴らしい未来であるか」
「……」
 ペトルは、頭の中にまで響いてくるようなその声を聞きながら、何かに耐えるようにして、まだじっと動かなかった。
「この美しい大地、森や湖、川や草原。それを守り、永遠の繁栄をもたらすのは、人間という害虫を支配し、世界のためになる存在として生かすことなのだ。分かるだろう。お前も王子として、帝王学を学んだことはあるはず。四つの鍵の魔力さえあれば、愚かしい一人一人の行いや間違いを許さず、ひとつにまとめて奴らを動かすことができる。四つの元素である風と大地、火と水を有益に使いながら、この世界を再生させるのだ。なんという崇高なことだろうか。世界を救うとは、そういうことではないのか」
 玉座の闇皇帝の額が裂け、そこに第三の目が現れた。暗がりの中、赤く光る目がペトルを見下ろした。
「さあ、こちらへ来るがいい。鍵をここへ。そうすれば、お前には我が一番目の息子として、王国を司る立場を与えよう。なにを迷うことがあろう。さあ、鍵を持て、ここへ」
 闇皇帝の三つの目がかっと見開かれ、ペトルを誘うように妖しく光りをはなつ。
「……」
 闇の中にまたたく赤い光を見ていると、しだいにそちらへ吸い込まれゆくような気分で、頭がぼうっとしてくる。
 だが、必死のあらがいがペトルを動かした。
「い、やだ」
 少年は首を振った。
「なんと。我のこれほどの懇願を拒むというのか。王族とはいえ、たかがひとりの人間のこどもが」
 闇皇帝の声にいらだちと怒りがまじる。
 その赤い目に見つめられながら、ペトルは苦しそうに言った。
「この鍵は……僕の願い。僕のただひとつの願いなんだ」
「ほう、願いだと。お前のちっぽけな願いごときのために、この鍵の魔力を使うというのか。笑止。なんと、笑止なことよ」
 闇皇帝の額の目が大きく見開かれ、そこから真紅の光があふれ出した。
「ならば、こうしてやる。向こうの世界で、己の浅はかさを悔いるがいい!」
「あっ」
 反射的に皇帝の目から顔をそむけたペトルだったが、突然、足元が崩れるような感覚が襲ってきた。
「わああっ」
 ぽっかりと床に黒い穴があき、彼の体をすっぽりと飲み込んだ。
 ペトルはそのまま深い闇の中へ落ちた。
(わあああっ)
 物凄い速さで落下していた。周りは真っ暗でなにも見えない。
 ただ、足元の空間だけが、永遠に続く落とし穴のように、恐ろしいまでの虚空を感じさせた。
(あああ、助けてっ)
 だが、叫んでも実際に声は出ない。ここには音もなく光もない。闇の中の落下……
 それはたとえようもない恐怖を彼に感じさせた。
 どこまで落ちてゆくのか。体が何度もねじれ、しだいに上下左右のの感覚も分からなくなってゆく。
(あああっ)
 だが、無限に続くかに思われた落下の時間は、不意に終わりを告げた。
 いきなり、落下は終わり、あたりは静かになった。
 暗い闇の中……目覚めの時が近づいている。
「セトール」
 誰かが自分を呼んでいる。
「セトール」
 どこかで聞いたような声だ。
「あ……あああっ」
 声が出た。自分の叫び声が耳に痛い。
 光が差し込む。
「あ……」
 はっとして目を開けたとき、彼は仰向けに寝ていた。
 体は汗でびっしょりだった。何度か荒い息をついて、それから辺りを見回す。
 ペトルは、自分が寝台の上にいるのを知った。それも、これは見覚えのある……
「ここは……」
 なつかしい香りがした。子供の頃からよく知っているような……
「セトール」
 すぐ近くで声がした。
 寝台の上で起き上がると、目の前に誰かがいた。
「セトール、気がついたの?」
「あ……」
 はじめ、彼にはそれが誰だったか分からなかった。いや、ただ信じられなかったのだ。
「なんだかひどくうなされていたわ。大丈夫?悪い夢でも見ていたのかしら」
 優しい声、そして柔らかな笑顔がそこにあった。
「か……」
 ペトルは知った。ここが自分の部屋であることを。
 そして、彼の前で優しく微笑んでいるのは、
「母様……」
 そこに立っているのは、死んだと聞かされていた母であった。
「母様……生きて……いたの?」
 信じられない思いで、ペトルは母の顔を見つめた。彼と同じ蜂蜜色の金髪を後ろに結い上げ、記憶にある通りの優しい笑顔をして、母はそこにいた。
「まあ、なにを言っているの?セトール」
 くすりと笑う母の顔を、ペトルはまだ信じられないように、ただじっと見つめていた。
「悪い夢でも見ていたの?ずっと私はここにいますよ」
「でも……でも、母様……僕」
 ペトルは、いったいこれはどういうことなのだろうと考えた。
 あらためて部屋を見回してみると、そこは昔の記憶にある通りの自分の部屋だった。
 天蓋付きの寝台に、小さな机と椅子。椅子の上には見覚えのある本が置いてある。誕生日に父がくれたものだ。壁にはお気に入りの城の絵の入ったタペストリがかけられ、その下には木彫りの馬のおもちゃや子供用の弓などが置いてある。
 ここは、まぎれもなく自分の部屋……王城にあるかつての自分の部屋であった。
「大丈夫?青い顔をして。お医者さまを呼びましょうか?」
 心配そうに母が自分を覗き込んでいる。
「ううん……平気」
 ペトルはまじまじと母の顔を見た。何年ぶりだろう、こうして母を近くで見るのは。甘やかなバラの香り……母の気に入りの香水の香りだ。
 こみ上げてくるものを抑えられず、ペトルは母に抱きついた。
「母様……母様!」
「セトール、どうしたの?」
「母様……ああ」
 母のぬくもりをその腕に感じ、思わず涙がこぼれる。
「本当に怖い夢を見たのね。まあ、甘えん坊さんなんだから」
 優しい声が耳元で囁く。
「もう大丈夫よ。母様がここにいますからね。可愛いセトール」
 これまで我慢してきた分を取り戻すように、ペトルはぎゅっと母を抱きしめた。
「良かった……母様が生きていて」
「もちろんよ。ずっとここにいるわ。これからもこの城で、あなたとお父様と三人で、ずっと一緒に暮らすのよ」
 ペトルは顔を輝かせた。
「じゃあ、父様も……父様も生きているんだね」
「あたりまえよ。ばかね。お父様は立派な国王として、これからもこの国を守ってゆくのよ。あなたがその後を継ぐまではね」
「父様も生きている……なんだ。そうだったんだ。よかった」
「よかった……」
 ペトルの頬をいくすじも涙が伝った。それは安堵と、そして喜びの涙だった。
「悪い夢を見ていたのね。でも大丈夫。それは全部夢なのよ」
「夢……」
 だとしたら、自分はなんて、なんて長い夢を見ていたのだろう。
 あの塔のてっぺんに連れてゆかれ、そこから逃げ出して、ドラゴンに助けられ、それからいろいろな人々と会った……
 ガシュウィンやレファルド、おじいさん、おばあさん、セシリーにギル、それににゃーど……みんな、みんなあれは、ただの夢だったのだろうか。
「でもね、母様はずっと心配していたの。あの三年前の収穫祭の日から、お前の様子が変わってしまったから」
「収穫祭……」
「そう。あの年の収穫祭で、お前は何者かに連れ去られてしまいそうになった。でも寸前のところで城の騎士がお前を見つけ、助け出したのよ」
 ペトルの脳裏に、そのときの収穫祭での映像が浮かび上がる。
 そうだ。あの日誰かに捕まって、それから自分は、暗い塔の中に閉じ込められたのだ。では、ここにいる自分は……もしかしたら別の未来の自分なのだろうか。
「犯人は、お父様の王座を狙った叔父のさしがねだったのよ。でも、その計画も未然に防がれた。そのおかげで、私たちはこうして、またもとの平和な生活を取り戻せたの」
「じゃあ……叔父さんは」
「処刑されました。あの収穫祭から三日後に」
 母の言葉を聞いて、ペトルは衝撃を受けた。父に代わって王座についたはずの叔父が、すでに死んでいるとは。
「じゃあ……あの子は」
 思い出してペトルは尋ねた。
「ルリカはどうなったの?」
「あの子には可哀相なことをしたわね……」
 母は顔を曇らせて言った。
「あの子は、父である叔父の反逆罪を受けて、今は北の塔に閉じ込められています」
「そんな……」
 ペトルは言葉を失った。
 では、彼女は本来なら自分がなるはずだった捕らわれの身に、自分の代わりになっているというのか。あの暗い塔の中で、悲しみと絶望に包まれて、ただ独りぼっちでいるというのか。
「なんで……そんな」
「仕方がないのよ。でも、そのおかげで私たちはこうして幸せに、これからもこのお城で暮らしてゆくことができるのだから」
「でも……」
 ペトルは顔を上げ、母の顔を見た。美しい母は、そのやわらかな微笑とともに、愛情の込もった目で自分を見つめている。こんな日がまた来ることを、夢のなかで何度願ったことだろう。
「さ、ペトル。鍵を」
「えっ」
「その鍵を使いましょう」
 穏やかな微笑みを浮かべながら、母が言った。
「そうすれば、この幸せがずっと続くのよ。豊かで、楽しい城の暮らしがずっと」
「鍵……」
 ペトルは思い出したように、自分の首にかけてある三つの鍵を見下ろした。魔を退ける力があるというドラゴンのヒゲで作ったペンダントを。
「ね、そうしましょう。その鍵をお父様に渡して。また三人で一緒に、この城を守りながら、幸せに暮らしましょう」
 そのとき、部屋の外から足音が聞こえた。
「お父様がいらっしゃるわ」
「父様が……」
 ペトルは扉の方を見た。
 最後に父に会ったのはいつだったろう。ペトルの記憶にあるのは、ドラゴンの背に乗って戻ってきた城の階段の途中で見た絵の中の姿だった。あのときは、父も母もどこにもおらず、寂しさにいまにも泣きそうになっていた。だが、こうして今は、生きている母と再会し、これから父にも会えるのだ。
「父様……」
 ペトルの心に、じわりと喜びが広がった。またもとのように、父と母と三人で、幸せに暮らしてゆけるのだ。
「そうよ。セトール。その鍵があれば。その鍵の力があれば、またもとのように楽しく、愉快に暮らしてゆけるのよ」
 やわらかな母のぬくもり。優しい微笑み。それを近くに感じながら、ペトルはくらくらとした、どこか目まいにも似た心地よさを覚えていた。
 扉の外で足音が近づいてくる。
「あ、でも……」
 ペトルはふと思った。
「でも……じゃあ、叔父さん夫婦はもう死んでしまって、ルリカはどうなるの?」
「……」
 母は黙って微笑んだままだ。
「僕がまた王子になったら、僕が幸せになったら、そのぶん誰かが不幸になるなんて。そんなの……そんなのいやだよ。ルリカが可哀相だ。それに……ここにはガシュウィンもレファルドも、にゃーどもいないよ。あの村のおじいさん、おばあさんは?セシリーは、ギルは今どこにいるの?」
「さあ、お父様が来ましたよ」
 にっこりと微笑んで母が言った。
 扉が開いた。
 そこに、王冠をかぶり、長いマントを引いた国王の姿があった。
「父様?」
 口許には立派なひげをたくわえ、威厳ある顔つきに、優しい目をした父の姿……それは、最後に見た絵の中の父そのものだった。
「セトール」
「父様……」
 両手を広げ、歩み寄ってきた父を前にして、だがペトルは妙な違和感を感じていた。
「さあ、セトール。お父様に鍵を……鍵をお渡しして」
 母の言葉に操られるように、ペトルはおずおずと首元のペンダントに手をやった。
 そのとき、
(ダメだよ!ペトル)
 警告のような声が頭の中で響いた。
「えっ、にゃーど?」
 ペトルは辺りを見回した。
 ふと見ると、今まで自分の部屋だったはずの場所が、奇妙に変わりはじめている。天井も、壁も、床も、すべてはそのままだったが、どこかが歪んでいるような気がする。
 なにかがおかしかった。
 ペトルはもう一度、目の前にいる父と母を見つめた。
「さあ、セトール。鍵を」
 穏やかな父の声がした。その横には、相変わらず無言で微笑む母がいる。
「父……様?」
「さあ。鍵を!」
 父の声が変わっていた。
 それとともに、王冠の下の顔がどろりと溶けだした。
 そこに現れたのは、死人のように青白い顔……尖った鼻に、かさかさに乾いた唇、そして黄色く濁った細い目をした男の顔。
 それは父ではなく、魔術師ゲルフィーの顔だった!
「さあ、王子……鍵を」
「あ、ああっ」
 ペトルは身体中が総毛立つのを感じた。
「さあ……」
 その横で、美しかった母の顔もどろどろと崩れはじめ、目も鼻も口も溶けてなくなってゆく。
「う……わああ」
「セトール、どうしたの?」
 骸骨のような顔が、かたかたと動いて母の声を発した。
「母様……ああ、あああっ」
 ペトルは恐怖にかられて叫んだ。
「さあ、鍵を」
「セトール、鍵を」
 父と母であった二人が、今は不気味な骸骨と魔術師の顔になり、両手を差し出し、ゆっくりと近づいてくる。
「いやだ……ああ」
 ペトルは必死に首を振った。
「いやだ。いやだよ……」
 魔術師の顔が、目の前に大きくなる。
「鍵を!」
 身体中を震わせ、ペトルは絶叫した。
「いやだあああ!」



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