にゃーどとドラゴン
〜魔法の鍵の物語〜


◆9◆ 草原の戦い

「ありがとう、水の精の魚さん」
 大切そうに鍵を握りしめたペトルだったが、辺りを見回して「あっ」と声を上げた。
 それまで水の神殿のようだったこの場所からは、すっかり水が消えてしまっていた。干上がった石の上にぴちぴちと跳ねている魚を見つけ、ペトルはついさっきまで水の流れていた岩底に下り立った。
「魚さん!大丈夫?」
 その手に小さな魚を拾い上げると、心配そうに覗き込む。
(ふむ……水の鍵がそばに来ると、少し楽になるの。しかし、どちらにしても、もうこれまでじゃ)
 弱々しい声が聞こえた。
「魚さん。死んじゃうの?」
(なあに、わしは、思いの外長く生きてしまったからの……もう、もうよいのじゃよ)
「ごめんなさい。まさか、ここの水が鍵になるなんて……」
(よいさ。わしがよいとおもって、こうしたのじゃからな。では鍵を……頼むぞ)
 ペトルの手の上で、魚はしだいに弱ってゆくようだった。
「魚さん!」
 両手に魚と鍵を手にしたまま、ペトルは急いで駆けだした。
「にゃーど。行くよ!」
「にゃー」
 にゃーどはぶるりと体を震わせると、再びその体を白く光らせ、ペトルとともに走り出した。
「魚さん。頑張って」
 ペトルは魚に声をかけ、少しでも楽になるようにと、洞窟の途中に水たまりがあると水をすくってかけてやった。そうして、もときた出口へと急いだ。
 魚の精はペトルの手の中でぐったりとなったまま、もうなにも話しかけてはこない。それでもペトルは、声に出して魚を励まし続け、途中でまた少しでも水を見つけると、急いでそれをかけてやった。
 ペトルたちは、ようやく洞窟の出口まで戻ってきた。だが、相変わらず出口は堅く岩にふさがれており、このままでは外に出られそうもなかった。
「誰か、誰か助けて!」
 出口をふさぐ岩の前で、ペトルは必死に叫んだ。
「魚さんが……魚さんが死んじゃうよ。誰か!」
(もうよい。もう、わしはだめじゃよ……)
 魚の精が、最後に弱々しく語りかけてきた。
(ありがとう。ここまで連れてきてきれて。久しぶりじゃ……外の水の匂いは)
(ありがとう……よ)
 魚はぴくりとかすかに震え、それきりペトルの手の中で動かなくなった。
「魚さん!」
 ペトルの目から涙があふれた。こぼれた涙が、手の中の魚と一緒に水の鍵を濡らした。
「そこに……いるのか、ペトル?」
 そのとき、岩の向こうから声がした。ペトルがはっとして顔を上げると、出口をふさいでいた岩がゆっくりと動きだした。
「ペトル。大丈夫だか?」
「ギル!」
 岩の間から、巨人のギルの顔が見えた。
「待ってろ。今、岩をどけてやるだ」
 ギルの力を込めた唸り声とともに、大きな岩がごろりと転がった。
「さあ、出るだ」
「ああ、ありがとうギル!」
 ペトルとにゃーどは、急いで洞窟の外へ飛び出した。
 久しぶりの外の空気は冷たく心地よかった。辺りはすっかり夜になっていたが、月明かりのおかげか洞窟の中よりよほど明るかった。
 ペトルは急いで水辺へゆき、手の中の魚を水に戻してやった。しかし、魚は水の中でぐったりとしたまま動かない。
「魚さん……死んじゃったの?」
(まあ……しょーがナイよ、ペトル。君はよくやったさ)
 なぐさめるように、にゃーどが体をすり寄せてきた。
(それより、あれを見なよ、アレ)
 暗くなり始めた湖に、巨大な甲羅をまとった竜が漂っていた。
 洞窟に入る前は、凶暴に赤い目を光らせこちらに襲いかかってきたのだが、その亀竜は、今はただおとなしく湖面を漂っている。
「さっきまで暴れていたのに、急におとなしくなっただ」
 ギルが言った。
「ガシュウィンが危なかったから、おら、ここから岩を投げて、あいつと戦っただ」
「じゃあ、ガシュウィンは、まだあの竜さんの背中にいるの?」
「ああ。でも、もうおとなしくなったから、大丈夫みてえだ」
「どうやら、オレの歌が効いたみたいだな。へへん」
 そう言って岩場から下りてきたのは、詩人のレファルドだった。
「レファルド、どこにいたの?」
「うむ。オレはな、あのカメ野郎が暴れ出したとみるや、すかさず島の上から竪琴を奏で、オレの歌を聞かせたのさ。この優雅なメロディと見事なまでの歌唱には、ギルのときと同様、カメのやつもメロメロになるに違いないってな」
 自慢そうに言う詩人だったが、その横で巨人は首を振った。
「いいや。お前の歌はまるで役に立たなかっただ。お前の歌が始まってから、いくらたってもあの竜はまだ暴れ続けて、オラとガシュウィンはへとへとになるまで戦っただ」
「なんだと?だって現にああやっておとなしくなったじゃねえか」
「それはほんのついさっきだ。ペトルたちが見つかるほんのちょっと前だ。あれがおとなしくなったのは歌のせいじゃないだ」
「じゃあ、誰のおかげだってんだ。ええ?あのカメが静かになったのは……おおっ、ちょっと待て。見ろ。カメのやつ、こっちに向かってくるぞ」
 レファルドが湖面を指さした。
 そのとおり、亀竜は少しずつこちらに近づいてきていた。ただ、それはゆったりと静かに泳いでくる様子で、こちらを襲うつもりではないように見える。
(水の鍵を持つものは、湖の守護者を従える……)
 ペトルの頭の中で、かすかな声が聞こえた。
(もうあのカメは、もうそなたの言うことを聞くじゃろうよ)
「魚さん!」
 ペトルは、足元の水辺に泳ぐ魚を見て、顔を輝かせた。
「生きていたんだね?」
「なんだ、おい?魚がどうしたって?」
 レファルドがペトルの横から水辺を覗き込む。
(おお、なんとなつかしい水の匂いよ。わしはここで生まれたんじゃ。なんと、またこうしてここに戻ってこられるとは)
 魚はまだ弱ってはいたようだが、水の中で嬉しそうに泳いでいた。
(礼を言うぞ少年。そなたのおかげで、わしはここに帰ってこられた。またこの湖で生きられる)
「よかったね。魚さん」
 魚の声は、当然ながら詩人とギルには聞こえていないようだった。ペトルが魚に向かって話しかけるのを、二人は首をかしげて見つめている。
(ふむ。しかし、これは意外だった。思索をきわめたと思っていたわしであったが、世界はこんなに広かったのだな。なにもかもを知ったつもりで、岩の中で閉じこもっていてはだめだ。あらためてそれが分かった)
(では、少年。最後の鍵を手にゆくがよい。己の運命へ向かって。きっとまた会うときもあろう。わしはこの湖で、また思索をし直すことにしよう。さらばじゃ)
 魚は水の中で一度くるりと回ると、そのまま広い湖へ泳ぎだしていった。
「魚さん。ありがとう。さようなら」
「にゃあー」
 ペトルとにゃーどが魚に別れを告げる。それをギルとレファルドは、顔を見合せながら不思議そうに見守っていた。
 夕闇に包まれた湖に、ガシュウィンを乗せた亀竜がゆっくりと近づいてくる。
 ペトルは、手にした水の鍵をしっかりと握りしめた。
 魚の精の言ったとおり、水の鍵の力は巨大な亀竜を手なずけ、一行はイカダではなく、亀竜の甲羅に乗って岸まで渡ることになった。
「うひょう……なんとまあ、いろいろと面白い経験ができるなあ」
 そのごつごつとした、岩のような甲羅の上におそるおそる乗り込み、詩人は思わずつぶやいた。島のような大きな亀竜の甲羅は、巨人のギルでも楽々と乗ることができた。にゃーどは甲羅の上を元気に駆け回り、ガシュウィンは剣を手に持ったまま、さっきまで戦っていた相手の上にいることが、どうにも落ちつかないという様子だった。
 甲羅をまとった奇妙な竜の背に乗って、夜の湖を渡ってゆくのは、まるで物語の中のように幻想的な体験だった。ペトルは、暗くなった湖面を見つめながら、あの不思議な魚の精のことを考えた。
 陸地に着くと、一行はとりあえず今夜はここに泊まることに決めた。ペトルはゆるゆると去ってゆく亀竜に礼を言い、その巨大な姿が夜の湖に消えてゆくのを見送った。
 手に入れた水の鍵を仲間たちに見せると、詩人はさっそく話に聞いた不思議な魚とあの亀竜についての曲を作りはじめるのだと、竪琴をつまびきだした。ガシュウィンは野営のための焚き火をたき、己のマントを地面にしいて寝床をつくると、なにごとかを考えるようにしながら剣を抱いて座っていた。
「ともかく、これで鍵は三つ見つかったんだな」
 愛用の竪琴を手に、思いついたメロディをいくつか奏でながら、レファルドが言った。
「それで、あとひとつ。最後の鍵ってのは、どこにあるんだろうな?」
「風の鍵、大地の鍵、水の鍵、そして残るのは炎の鍵……」
 焚き火の炎を見つめながら、ガシュウィンがつぶやくように言う。
 その三つの鍵を大切そうに首から下げたペトルは、眠そうに目をこすり、うとうととしながら聞いていた。
「炎の鍵のありかは、もう分かっている」
 ガシュウィンの言葉に、詩人が竪琴を弾く手を止める。
「へえ。どこだよ」
「王城からはるかに北にある、山に囲まれた宮殿……そこは、魔の宮殿とも闇の宮殿とも呼ばれている」
「闇の宮殿。そこに行けば、最後の鍵が揃うのかい」
 ガシュウィンはうなずいた。
「ただし、そこはとてつもない魔の力が働く場所だ。そして、聞いた話では、炎の魔力を持つといわれる闇皇帝が待ち構えているという。そこは闇の種族たち、闇に生を受けた魔のものたちが、闇皇帝のもとに集う場所なのだ」
「闇皇帝……」
 その妖しい響きに、レファルドはぶるっと体を震わせた。
「なんつうか、物騒な感じだな」
「そうだ。そこへ行くにはこれまでにない危険がともなうだろう。おそらく命懸けのな」
 ガシュウィンは、焚き火を囲む仲間の顔を見渡した。ペトルはいつの間にか、マントの上に横になり、すうすうと寝息を立てている。
「レファルド、ギル。お前たちは、ここからは無理について来なくてもかまわぬのだぞ」
 ガシュウィンの言葉を聞いていたギルが、のっそりと立ち上がった。
「おら……おら行くだ。だって、ペトル友達だ。ペトルのためなら、おら、なんだって頑張れるだ」
 やや興奮した顔でどんと胸を叩く。
 その横で詩人は、竪琴をポロンと鳴らし、くすりと笑った。
「まあな。オレもここまできてさ、いまさら、はいさようならって気分じゃあないし……それにこのぼうやと一緒だと、これまで見たことも聞いたこともないような冒険ができそうだ。それを曲にして語り継ぐことが、オレの使命のような気がしてきたところさ」
「……」
 ガシュウィンは二人を見比べるように見つめ、「そうか……」と言った。そして、もう話はすんだとばかりに、無言で剣の手入れを始めた。
「なあ、それよか、あんたの方はどうなんだい?」
 再びメロディをつまびき始めながら、詩人が尋ねた。
「あんたは、いったいまたどうして、このペトルぼうやのことを、そんなに一生懸命に守ろうとするんだい?命懸けでさ、なんていうか、まるで大切な自分の主みたいだぜ」
「……」
 ガシュウィンは顔を上げ、黙って詩人を見た。
「そう睨むなよ。つまり、このペトルにはなにか秘密があるんだろう?オレもこのところやっと、このぼうやがただ者ではないらしいと気づきはじめたよ。まあもとから、ただの村の子どもにしては変に礼儀正しいし、なんていうか、どことなく品がいい感じがしていたんだよな」
「……」
「なあ、オレはただ知りたいだけさ。このぼうやがいったい何者なのか。もともとは何のかかわりもないはずの、オレやあんたやこの巨人までもを、こうして引き寄せて、魔法の鍵を探す冒険へ連れ出してしまった。これがただのガキだなんて、誰も信じないぜ」
「そうか……そうだな」
 ふっと笑って、ガシュウィンはつぶやいた。
 焚き火を囲んで、元は城の騎士であった戦士と、旅の吟遊詩人、そして巨人族の生き残りは、今初めて、この不思議な縁について感じ入るように、互いの顔を見交わしていた。その横で寝息を立てるペトルと、寄り添うようにして眠るドラゴンネコ……
 ガシュウィンはそちらにちらりと目をやり、
「いずれ、わかるだろう……もうすぐ、な」
 そう静かに言った。
 森の方からは、ウォー、ウォーという狼たちの遠吠えが聞こえてくる。
 彼らはそれぞれに耳を澄ませ、この冒険について思いを馳せるように、ぱちぱちと音をたてる焚き火の炎を見つめていた。

「三つの鍵の波動が同調しました」
 闇の宮殿の大広間……黒曜石の床にひざまずく、黒フードの魔術師ゲルフィーが、うやうやしく頭を垂れた。
「おそらく、王子が三つめの鍵を手に入れたに違いありません」
 魔術師がひざまずく先の、階段の上にある玉座が、ぼうっと青い炎に包まれた。
「その時がきたか……」
 ゴロゴロという低い唸り声の中に、人の声がした。と思うと、玉座の上に異形の姿が現れた。
 青白い肌につり上がった両の目、そして額には縦に割れた三つめの目をもち、王冠をかぶる頭の両側からは鋭い角が天に突き出す。その人とも魔物ともつかぬ姿……
「エンシフェル様……」
 魔術師ゲルフィーは、うっとりとその異形の皇帝の姿を見つめ、深い感動を込めてその名を口にした。
「その時が来ましてございます」
 玉座の背後で青い炎が激しくゆらぎ、闇皇帝の額の目がかっと見開かれた。毒々しいその真紅の目が、遠くのなにかを見つけたようにぎらりと光る。
「よかろう」
 その口から、喉をならすような凄まじい唸りが上がり、闇の広間全てに響きわたった。
「魔のものを集結させよ。三つの鍵を持つ王子を迎え撃て。そして奪え。すべてを……奪え」
「は。すべての鍵が揃いますれば、もはや傀儡としての王子の利用価値なども瑣末ごと。四つの鍵の大いなる魔力で、王国全土はエンシフェル様のものになりましょう。すべての人心、動物から草木、魍魎どもにいたるまで、何もかもが魔の支配によってあらたな息吹を得ることでしょう」
 死人のような色をした顔に、ゲルフィーは冷酷な笑みを浮かべた。
「王子の命などより、ともかく鍵の魔力を手に入れるのです。そのために……あの哀れな少年を引き裂いてもよろしいでしょうな」
「かまわぬ。我が宿願をはばむ者は、すべて叩きつぶせ。我が分身、ツォルマードを連れてゆくがいい」
「かしこまりました。それでは」
 玉座からの声にうなずくと、ゲルフィーは立ち上がった。
 闇皇帝の低い唸りとともに、玉座の炎が大きく揺れた。その場に黒い影のようなものが立ちのぼり、それは天井に届くほどの大きさになると、やがて人の形になった。
 ずしん、と広間を揺らす足音が響いた。
 玉座の横から下りてきたのは、黒々とした巨大な怪物だった。その一つ目がかっと見開かれ、鋭いキバの生えた口から凶悪な唸り声が上がった。それは、人の形をしてはいたが、決して人ではあり得ない、慈悲も知性も感情すらない魔物だった。
「ありがとうございます。では、魔の者たちを覚醒させましょう」
 ゲルフィーが手にしていた杖を両手に持ち、ぶつぶつと低い呪文を唱えはじめる。
 魔術師が囁く呪文は、そのまま消えることなく広間の中にいんいんとこだまし続け、それとともに、少しずつ、どこかでなにかがむくりと起き上がるような、そんな気配がした。
 黒い者たち、闇に生を受けるものたち、そして闇に染められたものたちが、むくり、むくりと、一人また一人と、吹き込まれた黒い命のもとに目覚めてゆく。そんなひどく不気味で、邪悪な気配が、辺りにどんどんと大きくなっていった。
「闇の魔力と闇の皇帝に栄えあれ!」
 魔術師の声に調和するかのように、決して耳には聞こえない、黒々とした闇の中からの声ならぬ声たちが、一斉に禍々しい鬨の声を発したように思えた。
 そして、その恐るべき闇の合唱は、どろりと静まり返った黒の宮殿を包み込み、今度はその外へ向かって、ゆっくりと広がってゆくのだった。

 朝の光を浴びながら湖を後にしたペトルたち一行は、最後の鍵を求めて出発した。
 ガシュウィンを先頭に、ペトル、詩人、そして巨人のギルの四人が、隊列を組むようにして歩くその横を、尻尾を立てたドラゴンネコのにゃーどがちょこちょこと付いてゆく。
 半日近くかかって森を抜けると、彼らの前には緑の草原が広がった。
 彼方に見える青い山々をガシュウィンが指さす。大剣を腰に吊るし、戦いの始まりを予見するように鋭く前方を見やるその姿は、歴戦の勇士のようにとても頼もしい。
 その後をゆくペトルは、村の老人にもらった短剣をしっかりと腰に差し、決意のまなざしで前方を見やる。愛用の竪琴を背負った詩人のレファルドは、やや緊張の面持ちで口笛を吹き、巨人のギルは、ガシュウィンから渡された斧を軽々とその肩にかつぎながら巨体を揺らす。彼ら……四人と一匹が目指すのは、この草原を超えた北の山の向こう。炎の鍵が眠るという、闇の宮殿である。
「なあ、それで本当に炎の鍵はそこにあるんだろうな?」
 草原を見渡しながらレファルドが言った。さわやかな風が詩人の三角帽を揺らす。
「あの山まで歩くにゃあ、けっこうな距離だぜ、おい。なあペトル。お前さんの言う、風のドラゴンってやつに来てもらって、あそこまで乗せてもらおうぜ。それがいい」
「うん……でも」
 気楽そうに言う詩人にくすりと笑いかけ、ペトルは首から下げた三つの鍵を通したペンダントを見下ろした。
「でも、歩いていけば、いつかは着けるんだし。ドラゴンさんを呼ぶのは、もっと……本当に必要なときだけだよ」
「ああそうかい。じゃあ、残り少ない食料と水でカラカラに干からびながら、この草原を行くとしよう」
 皮肉そうに言った詩人を振り返るでもなく、ガシュウィンが口を開いた。
「馬のあては、あるといえばある」
「なんだって?」
「あれだ」
 ガシュウィンが指さした方を、三人は一斉に目をやる。
 すると、草原の彼方……はじめはなにも見えなかった地平線の向こうに、ぽつぽつと黒い影のようなものが現れた。
「あっ、ありゃあ……なんだ?」
「おそらく、三つの鍵が集まった時点から、あるいはもっと前から、ゲルフィーはこちらの動きを察知していたはずだ。当然、我々がこの草原に出るだろうことは、予期していたのだろうな」
 その声は相変わらず落ち着き払っていたが、ガシュウィンの表情にいくぶんの緊張の色が見えた。
「おそらく……あれは、王国の騎士団だ」
 小さく影のように見えていたものは、近づくにつれしだいにはっきりと騎馬の形になった。地平線に次々に現れるその数は十や二十ではない。まっすぐにこちらに向かってくる騎士の集団……その一人が持つ槍に、王国の紋章である紅の鷲が描かれた流旗がはためく。
「じゃあ、あいつらと一戦かまして、馬を奪い取ろうってんだな」
 レファルドの言葉に、巨人のギルも片手に斧を振り上げ、興奮の様子で胸を叩いた。
 だが、
「いや。なるべくならそうしたくはない」
 そうガシュウィンは首を振った。
「なんだって?あいつらはそのゲルフィーって魔法使いの部下なんだろう。だったらオレたちの敵じゃないのか」
「そうとも言えるが、そうでないとも言える」
「どういうことだ?」
「確かにゲルフィーは我々を狙う敵だが、彼らは、元々は王国の忠実なる騎士たちにすぎない。できることなら、味方にしたい」
「味方にだって?はっ、そんなことできるワキゃないだろう」
 馬鹿馬鹿しいとばかりにレファルドは首を振った。だが、まっすぐこちらに向かって駆けてくる、百人以上はいようかという騎士たちの姿を見やると、たった四人でまとも戦って勝てるともとても思えなかった。
「おい、どうする。もうこっちは見つかっちまったようだぞ。逃げるのか?戦うのか?……なあ、どうするんだ」
 焦るように言う詩人の横で、ガシュウィンは腰の剣を抜く様子もなく、黙って腕を組んだままだ。
「おい……」
 一人だけで逃げるわけにもいかず、レファルドは横にいるペトルの顔を見やり、またじっと動かないガシュウィンの背中を見た。
 その間にも、騎士の一団はぐんぐん近づいてきていた。もうその一人一人の兜の形までがはっきりと分かる。銀色の鎧を着込んだ完全武装の騎士たちは、それぞれに長槍や剣を装備し、こちらを逃がさないというかのように、横一列に並んだ陣形で駆けてくる。
 ガシュウィンは最後まで剣を抜くことはなかった。それを見て巨人のギルも手にしていた斧を下ろした。あきらめたように詩人は口許をゆがめた。
「……」
 ペトルは、ただ緊張の面持ちで、近づいてくる騎士の一団を見つめていた。本来は、王子であった自分に味方する王国の騎士たちが、今は反対に自分たちを捕らえに来た敵であるということが、どうにも複雑な気持ちだった。
 しだいに馬蹄の音が大きくなり、今や草原を並んで駆けてくる騎士たちの姿が、その威圧的な鎧姿で眼前に迫っていた。もうこちらが逃げる気はないと見て取ったか、彼らは一定の距離までくると隊列を整え、よく訓練された動きで近づいてきた。
「そこの者たち、動くな」
 一団はこちらを取り囲むようにして馬をとめた。
 その中のリーダーらしき一人の騎士が、鋭く声を発した。
「お前たちが、我が王国に敵するという不逞の輩であるな。もし抵抗すれば、この場で殺せとの命令を受けている。おとなしく来ればよし、さもないと」
 リーダーの合図で、馬上の騎士たちが一斉にすらりと剣を抜く。
「ちょっと、待てよ。オレたちがどうして王国にたてつく輩なんだ?オレたちはなにもしていない。ただの旅の仲間だぜ。なあ」
 レファルドが取りつくろうように言う。一方のガシュウィンは、なにを言っても無駄だと悟っているのか黙ったままだった。
「ともかく、これはゲルフィー閣下の命令である。黙ってその少年を引き渡せば、他の者は助けてやってもよい。ただし、そちらの剣士……」
 リーダーの騎士は、ガシュウィンの方に目を向けた。
「お前は他のものとは別に、必ず城に連行するようにと命じられている。歯向かうようならその場で殺せともな」
「……」
 ガシュウィンはややうつむいたまま、腰の剣に手をやることもなく、じっと押し黙っている。むしろ、はらはらとしているのはレファルドの方で、彼はこれから自分たちがどうなるのかと、不安で仕方がないという様子だった。
「さあ、まずはそこの子ども。こっちへ来てもらおう」
「あ……」
 騎士が馬上からペトルに剣を向ける。
 ペトルがあとずさると、ギルがかばうようにして騎士の前に立った。
「おい、ペトルに悪いことするな。おらが許さねえど」
「な、なんだきさま……歯向かう気か」
 馬上の彼らよりもはるかに大きな巨人の姿に、騎士たちはややひるんだようだった。
「おら、おら……ペトルのためなら戦うだ!命なんていらないだ」
 ギルは巨体を揺らせて叫ぶと、手にした斧を振りかざした。
「戦闘用意!」
 リーダーの命令で、騎士たちは一斉に剣や槍を構えた。今にも切り込んでくるという態勢だ。
「くそ、こうなったらやるしかないか」
 口の中でつぶやくと、レファルドは懐のナイフに手をやった。
 騎士たちの槍がギルに向かって突き出される。
 一触即発の緊張がただようなか、
「待たれよ。王国の騎士たち!」
 声が上がった。
 誰もが振り向かずにはおけないような、強い響きの声が。
 それまで、じっと黙っていたガシュウィンが、その右手を高々と上げていた。
「しばし、待たれよ。我らには戦う意志はなし。そして、そなたたちも、ただちにその剣を引かなくてはならない」
 あっけにとられたように騎士たちは動きを止めた。これほどに、強い意志の込められた声というのを、彼らは今までに聞いたことがなかった。
「間違いでなかったら、もしや、あなたはガシュウィン卿ですか」
 居並んだ騎士の中から声が上がった。
「かつて王国の騎士団長であった、ガシュウィンどのだ。そうですね?」
「いかにも」
 うなずいたガシュウインに、彼を知る騎士たちからざわめきが上がる。
「私はガシュウィン。かつては王国の騎士だった者だ。そして、ここにおられるこの方……そなたらが今、剣を向けようとする相手が、何者であるのかを知るがいい!」
 王国への忠誠と、強い義心の響きとが込められたその声に、騎士たちがはっとなって注目する。
「この方こそ、前国王陛下の跡継ぎであるお方……偽りに満ちた戴冠により現国王が玉座にのさばってはいるが、真の王位継承権者はこの方にほかならぬ」
 彼はペトルの方を指さし、言った。
「この方こそがセトール王子殿下その人である!」
 しばらく……
 騎士たちは、馬上で静まり返った。
 彼らは、いったいなにを言ったらよいのか分からぬように、ただ呆然とする様子だった。
「……」
 そして、当のペトルも、その目を驚きに見開いて、自分の横にいるガシュウィンを見つめていた。
「なんと……そんなことが」
「そ、それはまことであるのか」
 騎士たちの間からつぶやきがもれる。
 それは、ざわざわとしたざわめきとなり、彼らの間に広がっていった。
「そんな馬鹿なことが」
「王子殿下は亡くなられたはず……」
「だが……ああ確かに、そういえばこの少年は、よく王子殿下に似ておられるようだ」
 口々に言い合いながら、騎士たちの視線はペトルの方に集中していた。
 当のペトルは、いったい何が起きたのかと周りを見回し、まだきょとんとしている。
「これまでの……数々のご無礼を」
 横に立つガシュウィンが、うやうやしくひざまずく。
「どうかお許しを。王子殿下」
「ガシュウィン……」
 声を震わせ、ペトルは言った。
「知って……いたの?」
「はい。最初にあの村でひと目見たときから。かつて騎士として王国に仕えた私が、王子殿下のお顔を忘ようはずはありませぬ」
「ペトルが、王子さまだって?そりゃ……本当かよ」
 少年の横に立つレファルドは目を丸くしてつぶやいた。
「さあ騎士たち、すぐに剣を引け。王子殿下に剣を向けるは、それこそ王国に敵する行いぞ!」
 ガシュウィンの言葉に、居並んだ騎士たちは互いに顔を見合せながら、おずおずと槍と剣を戻そうとした。
「騙されるな!」
 リーダーである騎士が鋭く叫んだ。
「セトール王子は死んだのだ。それは公然の事実。それに、その子どもが王子である証拠がどこにある。たわごとに騙されるな。早くそやつらを捕らえるのだ」
 剣先を向けられたペトルをかばうように、ガシュウィンはその前に立ち、馬上の騎士を睨んだ。
「分からぬのか。この方こそ王国の未来。王国の希望なのだぞ。ゲルフィーの魔力に取りつかれたまま、我等の王国を乗っ取られてもよいのか」
「なにをたわごとを。やれ、捕らえろ!」
 リーダーの騎士が命じる。しかし、他の騎士たちは互いを見渡し、いったい何を信じて動けばいいのかと迷う様子だった。
 そんな騎士たちに向けてガシュウィンが言った。
「王子の首もとを見ろ。我が王国に伝わる四つの鍵の伝説は聞いたことがあろう。その魔法の鍵のうち三つを王子は手に入れられた。ひとつは、ゲルフィーの策略によって王子が捕らわれていた北の塔で、ひとつは巨人族に伝わる守り神の中から、そしてひとつは森の中の湖にある島のほこらで。それぞれに苦難と冒険の中で、王子自身の力で手に入れたものだ。それこそが、王家を受け継ぐ力と人徳の持ち主であるなによりの証。このお方こそが、我らが守るべき王国の希望なのだ」
 騎士たちは誰も何も言わなかった。
 王子の首元に輝く三つの鍵は、それ自体が王冠か王笏のように、騎士たちに高貴なるものへの敬いをもたらした。彼らは一人、また一人と馬から下り、ペトルの前に膝をついた。
「きさまら……」
 リーダーの騎士は、部下たちがもう己の命令を聞きそうもないことを知り、ただ馬上で口許を引き結んだ。
 ガシュウィンは、騎士たちを見回して穏やかに言った。
「共に戦ってくれとは言わん。そなたらにも、現在受けている命令があるだろうからな。ただ、我々は行かねばならない。だからここは黙って通して欲しい」
 歩きだした彼らを、止めようとするものはいなかった。
「お待ちを。この馬を……王子殿下に」
 進み出た一人の騎士が、こちらに馬の手綱を差し出した。立ち止まったガシュウィンが相手を見る。
「ありがとう。おぬしの名は?」
「グランスと申します」
 若い騎士は兜を脱ぐと、ペトルとガシュウィンに向けて騎士の礼をした。
「覚えておこう、グランス。王国が我々の手に戻ったときには、次の騎士団長は君だ」
 ガシュウィンは騎士にうなずきかけると、ペトルを馬に乗せ、自らはその手綱を引いて歩きだした。レファルドとギルもそれに続く。
 周りの騎士たちがさっと道をあける。
 彼らはその場に動かず、一行の姿が遠くなるまでずっと見送り続けていた。
「なあ、ペトルが王子ってのは、本当なのかい?」
 草原をしばらく歩きながら、レファルドがおずおずときりだした。彼にしてみれば、これまで一緒に冒険をともにしてきた少年が、まさか王家の身分をひく人間だとは、とても思いもしなかったのだ。
「そりゃあ、なんていうか、ただの子どもではないとは思っていたけどさ……でもまさか、それがこの国の王子さまだったなんて。それとも元王子と言った方がいいのかな。でもそうだよな……考えてみりゃ、あの時オレがペトルと引き換えに五百枚もの金貨をもらったことを思うと、それが王子さまってんなら、そんな大金もうなずけるよな」
 ペトルはどう言っていいものかと、馬上からちらりとレファルドを見た。少年の前に座るにゃーどは、楽ちんそうに馬の背に揺られている。
「私は、最初に村でお見かけしたときから、これは王子殿下に違いないと気づいたのだ」
 手綱を引くガシュウィンが言った。
「しかし、私自身もそれまではセトール王子は亡くなったものとばかり思っていたので、最初は半信半疑でいたのだがな。首にかけておられた鍵を見て分かったのさ。捕らわれていた王子はゲルフィーのもとから逃げてきたのだと。そして、たぶんペトルと名乗られたのは、王子という身分を隠し、城の追手から逃れるためだとな」
「そうだったのか」
 詩人が感心したようにうなずく。
「それでペトル……いやセトール王子さんは、四つの鍵を集めて王国を取り戻そうと。そういうワケなのかい」
「ペトル、王子?セトール、王子?」
 彼らの後ろで首をかしげるギル。
「ペトルは友達。王子でも、まだ友達?」
「バーカ。王子殿下ってのはな、オレたちのような下々の者とは友達なんかにはなれないんだよ。ガシュウィンみたいな騎士ならともかく、吟遊詩人やまして野蛮な巨人なんかじゃあな」
 レファルドの言葉に巨人が憤慨する。
「野蛮じゃない。おら優しい。ペトル友達。王子だって……友達」
「そうだよ」
 ペトルがにこりと笑った。
「ギルもレファルドも、今だって僕の友達だよ。それに……僕はペトルだよ。今は王子ではなく、ただの旅の仲間だよ。だから今まで通りにペトルって呼んでよ」
「にゃー」
「うん。もちろん、にゃーども友達だよ」
「そうこなくちゃ」
 ぱちんとレファルドが指を鳴らす。
「じゃあペトルよ。オレたちは仲間なんだな。それならこのガシュウィンさんに、いちいちこの無礼者って、斬りつけられないかとヒヤヒヤしなくてもすむわけだ」
「ペトル、やっぱり友達!」
 嬉しそうにどんと胸を叩くギル。ガシュウィンは黙って肩をすくめた。
「なあなあ。じゃあさ、王国を取り戻したら、せいぜいオレたちにいい身分をもらいたいもんだな」
「そうしたら、お前の金貨五百枚は返してもらうぞ」
「そりゃあないぜ」
 詩人は口をへの字にした。四人は声を上げて笑った。
 草原の向こうに見えている黒い山を目指し、一行は歩きつづけた。
 何度かの休憩をとり、残り少なくなった食料で腹を満たすと、彼らはまた目的地である北の宮殿の方角へその目を向け、歩きだした。
 四人と一匹の旅の仲間は、互いの立場や身の上を超えて、ひとつのものを目指して進み続けた。それは、利益や見返りのためではなく、ただ愛すべき友達のためであり、その少年の優しいはにかんだ笑顔……ただそれを守るためであった。
 しだいに、草原に夕暮れが近づいていた。
 傾き始めた円盤が、その燃えるような紅の輝きで、紫色の空を染めはじめる。
 すうっと風が吹いた。
 生暖かい、なにか不吉な震えを運ぶ風が。
 そして不意に、灰色の雲が現れると、すっぽりと太陽を隠した。
 にわかに暗くなった草原に、北からの風が吹きつける。そして、辺りの空気が少しずつ変容するのが感じられた。
「あれはなんだ」
 詩人のレファルドが指をさし、叫んだ。
 草原の向こうから、なにか黒い、もやもやとしたものが見えた。
 それは、彼ら一行の行く手を阻む壁のように、じわじわと横に広がってゆき、しかも、少しずつ近づいてきていた。
 ざっざっざっ、
 ざっざっざっ
 まるで、そのような足音が聞こえてくるようだった。ひどく整然と、はじめは静かに「それ」はこちらに向かっていた。
「ゲルフィーが、闇の部下たちを集めたな」
 半ば予期していたような口調で、ガシュウィンが言った。同時にすらりと腰の剣を抜きはなつ。
 黒い……黒い軍団。それは、そう表現するしかなかった。
「ざっと、二、三百はいるな」
 剣を手にしたガシュウィンが目をそばめる。
 黒ずくめの騎士たち……闇の兵士たちの軍団が、ずらりと横に並んで、こちらに向けて粛々と歩いてくる。
 近づくにつれ、黒い兵士たちの姿は、その一人一人がはっきりと見えるまでになった。黒い兜に黒い鎧、片手には剣を持ち、まるで隣のものと歩調を合わせるように、一糸乱れずに歩いてくる。その姿はひどく不気味で、そしてどこか非人間的であった。
 レファルドがごくりとつばを飲み込む。
「ありゃあ、ただの人間じゃないぜ」
「おそらく、闇の種族を生き返らせたのだろう。黒魔術の力でな」
 低い声でガシュウィンが言った。
「お前はペトルを守ってここにいろ。私とギルとで奴らに向かう」
「たった二人でか?無茶だぜ!」
「時間はかせげる。もし、私たちが危なくなったら、お前たちはそのまま逃げろ」
 剣を持ったガシュウィンは、そばに巨人を呼んだ。
「戦えるか?ギル。巨人族の誇りとともに」
「おおっ、おら戦うだ!」
「殿下……いや、ペトル。どうかご無事で」
 最後に振り向いたガシュウィンが、軽く一礼する。
「ガシュウィン」
 ペトルにはそれ以上なにも言えなかった。
 これまで陰ながらに自分を見守ってくれ、何度となく自分を助けてくれた、黒髪と髭の戦士。言いたいことはたくさんあった。
 だが、ありがとうでも、頑張ってでも、言葉に足りない。そんな言葉では表せないくらいの、感謝と敬意……それを懸命に込めて、ペトルはただ戦士の後ろ姿を見送った。
 ガシュウィンとギルの二人は、黒い軍勢に向かって歩きだした。
 不気味な黒い兵士たちはゆっくりと迫っていた。ここまで近づくと、その兵士たち一人一人の兜の下に見える顔が、人間ならざるものであることがはっきりと分かる。
 どろりと濁った赤い目をして、肌がボロきれのようにただれているものもいれば、黒くくすんでまるで焼け焦げた木の皮のようなものもいる。それはまるで、一度は死んで腐敗したものが、なにかの力でそのまま生き返ったという風にも思えた。
 ペトルとレファルドが息を飲んで見守る中、ついにガシュウィンが軍勢の最初の兵士に斬りかかった。がしんと鋭い響きで、鉄のぶつかる音が響き、続いて黒い兵士の首が吹き飛んだ。
「おお、やったぞ」
 レファルドが歓声を上げる。だが、
 首のとれた兵士は倒れることもなく、そのまま剣を振り上げて向かってきた。
「な、なんだ、ありゃあ。あれは人間じゃねえ。見たか、ペトル」
「うん……」
 不安げに馬上でうなずくペトル。
 見るとギルの方も、手にした斧で敵兵士を吹き飛ばしたが、首がもげ胴体が折れ曲がっても、相手はよろよろと起き上がり、また向かってくる。
 ガシュウィンは続けざまに剣を振り、敵兵士を何度も斬りつけた。相手の体からどろりと赤茶色の体液が吹き出した。
 ばらばらになった相手兵士はようやくその動きを止めた。だが、すぐに近くの兵士がガシュウィンに襲いかかる。ガシュウィンはまた同じように、相手に斬りかかる。しかし、腕がもげ骨が何本も折れても、相手はまったく平然とした様子で攻撃を続けてくるのだ。
「ありゃあ……ゾンビだ。ゾンビの兵士だ」
 戦いを見守るレファルドが、声を震わせた。
「ゾンビ……兵士」
 ペトルも恐ろしそうにつぶやき、目の前で繰り広げられる凄惨な戦いを、じっと息を殺して見つめていた。
 剣の技術では圧倒的にガシュウィンの方が勝っていたし、力を込めたギルの斧の一撃は、それだけで何人もの敵を打ち倒すことができる。しかし、敵は不死身なのか、頭がなくなってもいっこうに気にしないかのように、起き上がってはまたのろのろと迫ってくる。その不気味な様子には、離れて見守っているだけで、悪寒がするほどの恐怖がこみ上げてくるものがあった。
 敵兵士の中には、顔がぐすぐすにただれて、腐りはじめているようなものや、ほとんどひからびて骨と皮ばかりのものもいた。彼らはみな、背の高さや体格もまちまちであったが、全体に言えるのは、そのまるで操られてでもいるかのような、ひどくのろのろとしたぎこちない動きと、ひと言の声も発しない不気味な静かさだった。
 その口から息づかいや、悲鳴でも上がれば、まだいっそ人間らしい近しさが感じられるのだが、剣で斬りつけても、腕を切り落としても、声ひとつ上げずに静かにまた立ち上がり、のろのろと迫ってくる。そんな相手を敵にするのは、体力的によりもずっと精神的にきついものだった。それも、相手の体を完全にばらばらにして、立ち上がれないほどにしなくては、いつ起き上がってくるとも分からないのだ。
 ガシュウィンは、ただ必死に相手を斬りまくり、それでも立ち上がってくる相手をまた斬り、いったいどれがどれとも分からぬ相手を、ひたすら斬り続けた。
 ギルの方は、ガシュウィンに命じられ、少し下がった場所でペトルたちの方に敵が行かないようにと、やってくるゾンビ兵士たちを相手に斧を振り回していた。巨人の斧の一振りは強力きわまりなく、一度に四、五人の敵兵士を吹き飛ばしたが、頭や腕がもげてもすぐに立ち上がってくる相手に、ギルは思わず恐怖の悲鳴を上げた。
 倒しても倒しても、また後から後からやってくるゾンビ兵士たちは、二人の精神を少しずつ痛めつけていった。ガシュウィンとギルはじりじりと後退させられ、黒い敵の軍勢は、さっきよりもペトルたちのいる場所に近づいていた。
「ダメだ……あんな奴らを相手に、たった二人じゃ」
 レファルドがつぶやいた。やはり、二人だけでは、数百人の敵兵をくい止められるはずもない。
「こうなりゃ、オレたちもやるしかねえか」
 懐のナイフに手をやる。こんな武器であのゾンビ兵士たちと戦えるのか分からなかったが、ここで二人を見捨てて逃げることはできない。それはペトルも同じ気持ちだった。
 馬から下りたペトルは、その手に短剣を握りしめていた。その横ではにゃーどが、少し勇ましそうに「にゃっ」と鳴いた。
 二人が意を決して、迫り来るゾンビ兵たちに向かってゆこうとしたときだった。
 不意に、背後から馬蹄の音が聞こえてきた。
 振り返ると、草原の彼方から、ものすごい勢いでこちらに駆けてくる軍勢が見えた。
「あれは……」
 レファルドは目を凝らした。
 馬の上には銀色の鎧姿の騎士たち。彼らはそれぞれに剣や槍を手にし、その槍の先には王国の紋章をつけた流旗が見える。それは、ついさきほどペトルたち一行を取り囲んだ、王国の騎士団であった。
「奴ら……追いかけてきたのか。くそっ、これじゃ挟み打ちじゃねえか」
 レファルドの言うとおりだった。前からはゾンビ兵、背後からは騎士たちと、完全に挟まれてしまった。これではもう勝ち目はない。
 どどっ、どどっ、という馬蹄の音は、あっという間に大きくなり、馬上の騎士たちの姿がペトルの目にもはっきりと見えてきた。
「ちくしょう……ともかく馬に乗るんだ」
 レファルドの手を借りて、ペトルは再び馬にまたがった。
「こうなりゃ、やけっぱちだ。お前は、オレが守る……」
「レファルド……」
 ペトルは、やや頼り無げにナイフを構える詩人を見やり、それから前方で戦い続けるガシュウィンとギルに目をやった。
 振り返ると、銀色の鎧姿が視界に大きくなっていた。先頭の騎士が馬上で高々と剣を振りかざすのが見えた。その一騎に続くように、百人ほどの騎士たちが、一斉にこちらに向かって駆けてくる。
 レファルドはペトルの馬をかばうようにして、その前に立った。
 馬上で剣を振り上げた騎士が、二人の眼前に迫る。
 その口から、声が上がった。
「王子殿下のために!」
 騎士は、ペトルたちの横をすり抜けたと思うと、そのままゾンビ兵の方へ突進した。
「セトール王子殿下のために!」
「王子殿下のために!」
 口々に声が上がった。そして他の騎士たちも同じようにペトルとレファルドに向かってうなずきかけながら、次々にすれ違ってゆく。
「なっ……」
 振り返ったレファルドは、銀色の騎士たちが、ゾンビ兵のただ中へ突っ込んでゆく様を見つめた。
「あいつら……味方に」
 騎士たちはその振り上げた剣を、ゾンビ兵たちに向けて振り下ろしてゆく。
「なんてこった。味方だ。王国の騎士たちが味方についたぞ!」
 レファルドは飛び上がった。
 ペトルたちの見る前で、騎士たちはガシュウィンとギルに加勢するように、次々に敵たちの中に突入し、ゾンビ兵たちを切り結んでいった。
 


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