にゃーどとドラゴン
〜魔法の鍵の物語〜


◆8◆ 魚の老人と水の鍵

「う……ん」
 ペトルが目を開けると、そこは浅瀬に近い岩場だった。少年の頬をぺろりと舐めるにゃーどが、心配そうにしている。
「にゃーど……君が助けてくれたの?」
 割れた地面の裂け目に落ちたとき、とっさににゃーどが自分の服をつかんでくれた、その感触をペトルは思い出した。
(まあね。でも、あの巨人よりは全然軽いもんさ)
 ドラゴンネコは、ぱたぱたと翼をはばたいてみせた。
「あっ、あれは……」
 起き上がったペトルは、湖の方を見てたちまち大きく目を見開いた。
 目の前に、巨大な甲羅を持つ亀のような竜が、悠々と泳いでいるのだ。
(ああ、あれが地震の正体さ。さっきまで僕らはあいつの背中にいたんだよ)
「そうだったのか……」
(まったく、不格好なやつだね。僕がニャードラなら、あいつはさしずめカメドラってやつだナ)
 そう言って、にゃーどがフンと鼻を鳴らした。
「そういえば、ガシュウィンは?」
(まだあいつの背中の上さ)
「ええっ、大変だ。どうしよう……」
(でも、どうしようもないナ。僕らではとても助けられない)
「でも……」
 そのとき、ペトルの首にかけられた二本の鍵がきらりと光った。
 すると、岩山のような甲羅から突き出た長い亀竜の首が、くるりとこちらを向いた。そして、何かを狙うようにその目がぎらりと赤く光った。
(大変だ。あいつがこっちに来るぞ!)
 巨大な亀竜は、ケエエ、という甲高い雄叫びを上げて、まっすぐこちらに近づいてきた。
(に、逃げろっ!)
 にゃーにゃーと騒ぎだすにゃーど。その横でペトルは呆然としたまま、迫ってくる巨大な竜の姿を見つめていた。
「ガシュウィンがいる……」
(なんだって?いいから、早く逃げないと)
「あそこにガシュウィンがいるよ」
 ペトルには、竜の首の付け根あたりに、剣を手にしたガシュウィンが、甲羅にしがみつくようにして立っているのがはっきり見えた。
(ああ、本当だ。でもあんな剣くらいじゃ奴の固いウロコには通用しないナ)
(だいいち、あんなに大きな相手に人間ごときがかなうわけがないよ。それより早く逃げよう。ペトル)
「ガシュウィン……」
 心配そうに見つめるペトル。近づいてくる亀竜の背にいるガシュウィンも、こちらを見つけたようだった。
「ペトル!」
 ガシュウィンの声が聞こた。
「無事だったのか。よかった……」
「ガシュウィンも」
「逃げろ、ペトル。こいつは……お前を狙っているようだ」
「ええっ?僕を……どうして」
「ともかく逃げるんだ!」
 ガシュウィンの叫びは、不気味な竜の鳴き声にかき消された。
 今や巨大な亀竜は、ペトルたちのいる浅瀬のすぐ前に迫っていた。その長い首をこちらに伸ばせば、もう届きそうなくらいに。
(ペトル、早く早く!こっちだよ)
 岩場を走り出したにゃーどの後を、ペトルもあわてて付いてゆく。
(ここ。ここに逃げよう)
 断崖となっている島の岩肌に、小さな洞窟があった。彼らはためらわずにそこへ逃げ込んだ。入り口は、ペトルが身をかがんで入れるくらいの狭さで、これなら竜の首も通れないだろう。
(にゃー、助かったナ……)
 穴のなかで安堵する彼らだったが、すぐにドーンという大きな振動とともに、背後でがらがらと岩の崩れる音が響いた。
(にゃっ、にゃんだ?)
 飛び上がったにゃーどは、ペトルの頭の上によじ登った。
「あっ、入り口が!」
 振り返って見ると、洞窟の入り口が岩に塞がれてしまっていた。
(あのカメドラのやつ、ここに入れないからって、僕たちを閉じ込めたんだ)
「そんな……、どうしよう」
(どうしようもないナ。この岩は僕らの力じゃどかせないし。つまり、当分は僕たちはここから出られないってことだよ)
(ふあぁ……出られないと分かったら、寝て待とうか。うン、それがいいかもナ)
 ペトルの頭からひょいと地面に下りると、にゃーどは大きなあくびをした。意外と実際的な性格であるらしい。
「ちょっと、ねえ、にゃーど……」
 ペトルは思わず笑みをもらした。
「あれ……」
 そのとき、彼ははじめて異変に気づいた。首にかけていた鍵が、さっきから小刻みに震えていたのだ。
「どうしたんだろう」
 二本の鍵は互いにカチカチとぶつかりながら揺れていた。しかも、ときおりちかちかと輝きながら。
(ペトル、なにか感じるのか?)
 眠たそうだったにゃーども、立ち上がりぴんと尻尾を立てる。
「うん……なんだか、なにかあるみたい」
 ペトルは暗い洞窟の奥に目を向けた。すると二本の鍵がいっそう大きく震えだした。
「あっちに……なにか、ある」
 そうつぶやくと、なにかに動かされるように、ペトルは洞窟の奥へと歩きだした。
(なにかって、おい……)
 ペトルについて、にゃーども歩きだす。
 洞窟は奥にゆくにしたがって少しずつ狭くなっているようだった。真っ暗なので、手さぐりで歩かなくては頭をぶつけてしまう。
(しょーがないナ。ちょい待ち……よいしょ)
 ぶるんと体を震わせると、にゃーどの体の毛が白く光りだした。まるで白く輝く毛玉のように、にゃーどの体の光が暗がりを照らし出した。
「すごいや、にゃーど」
(どうだい?こうすりゃ、ちょっとは見えるだろう)
 いかにも得意そうに「にゃあ」と鳴くと、にゃーどは少年の先に立って、とことこと歩きだした。
 洞窟内の空気はひんやりとしていた。
 ときおり岩の間に水のたまった場所があり、そこを体を白く光らせたにゃーどが通りすぎると、岩についた苔の色が水面に映って、青と緑の幻想的な色合いをつくり出した。
 奥へ行くにしたがって、洞窟の天井はしだいに低くなり、少しゆくとペトルの身長と同じくらいになり、さらに少しずつ低くなっていった。それとともに足場の方も、徐々に下っているようだった。濡れた石に滑らないよう、ペトルは注意して進んでいった。
(にゃー、けっこう来たけど。どうする?まだ先へ行くのかナ)
 前をゆくにゃーどが振り向いた。彼はこの冒険が、まんざら楽しくなくもないという様子だった。
「うん。もう少し。もう少し行ったら……きっと、なにかある気がするんだ」
 ペトルは、さっきからざわざわと震えるような感覚を、体全体で感じはじめていた。それは、首に下げた二本の鍵のせいかもしれなかったし、あるいはペトル自身の予感かもしれなかった。
(おーらい)
 にゃーどはまたぶるんと体を震わせると、自分自身の放つ光を頼りに、洞窟の先へ歩きだした。ペトルもその後に続く。
 少しゆくと洞窟はさらに狭くなり、そして明らかに下りの傾斜になった。天井は腰を曲げて歩かなくてはならないほどに低くなり、両幅も少年がかろうじて通れるくらいの狭さでしかなくなった。
「……」
 ペトルは、しだいに増してゆく恐怖感と圧迫感の中で、時々このまま引き返したくてたまらなくなったが、光り輝くにゃーどの後ろ姿が彼を励ましてくれた。
 一人ではないことが、彼にとっての最大の支えだった。にゃーどはときおり振り返って、ペトルを元気づけるように「にゃあ」と鳴いた。そうすると、少年は恐怖を頭の隅に追いやって、もう少しだけ進んでみようと思うことができた。
 そうやって、いったいどのくらいこの狭い洞窟を歩きつづけたろうか。
 あるとき、前をゆくにゃーどが振り返って、これまでとは違う口調で「にゃっ」と鳴いた。と思うと、彼はとことこと早足で走り出した。
「にゃーど、待ってよ」
 頭を岩にぶつけないようにしてペトルがその後を追いかける。すると、もう何歩もいかないうちに、かすかな水の音が聞こえてきた。
 何段かの急な足場を下り、狭い岩の間をくぐり抜けると、突然、目の前がひらけた。
「あ……」
 これまでの窮屈な穴の中からは想像できないような、広々とした空間が、ペトルの前に広がっていた。
「ああ……」
 床には一面の水……青々とした水そのものが、まるで光を発しているように、周囲の壁を青く照らしている。
 そこはまるで、水の神殿だった。
「ああ、すごい……」
 ペトルは驚きの声を上げ、目の前に広がる美しい光景に立ち尽くした。
「にゃー」
 すでに待っていたにゃーどがてくてくとそばに来た。にゃーどはもう体を光らせていなかった。ここではその必要がないのだろう。水が発する青い光は、不思議な静けさとともに、穏やかな明るさを、この不思議な場所にもたらしていた。
 地底の池のようなこの水場には、かすかな流れがあるようで、地下水脈に続いているのだろうか、どこかで水が流れる音が聞こえていた。
 水面を覗いてみると、水はとても透き通っていて、そこに一匹の黒い魚が円を描くようにゆったりと泳いでいる。
「なんだか、ここは……特別な場所みたいだ」
 ペトルがそうつぶやくと、首にかけた鍵は、まるでこの場所に来たことを喜ぶように、きらきらと光りだしていた。
 水面から突き出すように、柱のような岩が四本、天井に向かって伸びていた。その四つの石柱の中心には、ここが神殿であることを思わせる丸い岩場があり、そこに続く足場のような岩が、いくつか水面から顔を出している。
「あそこ……」
 ペトルは、導かれるようにその水面の足場を渡りだした。
 四つの石柱の中心となるその岩場に下りた瞬間、ペトルはなにものかの厳かな気配を全身で感じた。ここは、間違いなく、何かが宿る神殿であった。
(やあ、来たかね)
 すぐに頭の中で声がした。
 はじめ、ペトルはそれがにゃーどの声かとも思ったのだが、そうではなかった。
(ついに、この場所に人間が来た。何百年たって、ついにな)
「あなたは、誰……ですか?」
 声を聞きながら、ペトルは辺りを見回した。
(わしじゃよ)
 だが、その声は頭のなかにはっきりと聞こえるが、周りには誰の姿も見えない。水の中にはさっきから魚が一匹泳いでいるだけだ。
(ほっ。よくも、あのカメの門番をかいくぐってここまで来たものじゃ)
 まるで老人のような声が、愉快そうに笑っていた。
(それでそなたは、水の鍵が欲しいのかな)
「は、はい。あの……」
(分かっておる。分かっておる。そなたの首には、すでに風と大地の鍵がある。四つのマジックキーを集めようと、誰もが願い、そして誰もがそれを果たすことはできなんだ。何故なら、四つの鍵を手に入れるには、勇気と優しさ、理解の心、運命を信じる心、そしてそれなりの幸運とがみんな必要になるからの。そなたには……そう、それがおおむね、おおむねだがの、揃っておると言ってよいようじゃ。ふむ。だからこそ、ここまで来たのだろうがな。ほっほっ)
 まるでなにもかもを知っている仙人のような話しぶりに、ペトルはただ驚きながら、黙って聞いていた。
(それそれ。人の話を聞く心。それもちゃんと持っておる。よきかなよきかな。おお、そしてそのネコちゃん!)
 ペトルの横で、にゃーどが「にゃあ」と鳴いた。行儀よく座るその様子には、彼にもこの声が聞こえているらしい。
(なんとも、なんとも……素晴らしい、未来の運命を持ったネコだの。いや、正確にはネコではなく……、ふむ、まあよい。いずれ時がくれば、それぞれの役目をはたすことになろうて。それまでは、にゃあにゃあと鳴いておっても大事ないない)
 さっきからにゃーどは、四本の石柱の周りをすいすいと泳ぎ回る一匹の魚を、じっと見つめている。
(さてさて、どうするかの。鍵を渡すべきかどうか。だが、あまりじっくりと考えている時間もなさそうだ。北の黒い魔力が強まってきているようだしの。ならば……それではひとつ、そなたに質問をしよう)
 すると、青く光る水面に、ぽっぽっと、いくつか波紋が起こった。
(四つの鍵を手に入れて、そなたはどうするつもりなのだ?)
「それは、あの……」
 口ごもったペトルに、頭の中の声はやや厳しく告げた。
(思ったままを答えるがいい。この場所にいるかぎり、心と言葉の波動のずれは、わしにはすぐに分かってしまうからの)
「はい。あの……」
 だが、ペトルは何といえばいいのかよく分からなかった。
「僕……」
 ただ、自分の中に涌き出てくる気持ちを、素直に言葉にすることにした。
「僕は、……僕自身に戻りたいんです」
(ほう)
 ぴしゃんと、水面に魚が跳ねた。
(それはまた面白い答えじゃの。そなた自身にか。つまり、今のそなたは本当のそなたではなく、そなたは本当のそなたに戻るために鍵を探していると、そういうわけなのかな)
「は、はい……」
 自分でもよく分からなかったが、それはきっと確かな気持ちなのだという気がした。
(ほっほっ、なかなか、なかなか。興味深い。自分に戻りたい。つまり自分を取り戻したい。これは命題。すべての者にとっての命題に他ならないのう。本当の自分は今の自分ではない。そう思いながら生きているのは、なんと辛いことよ。素直な欲求けっこう。世界の運命を握る四つの鍵をもって、自分自身を取り戻すか。なんとも可愛らしい。そして、身の程をわきまえた答えだろうか。ふむ。気に入った)
 ぴしゃん、ぴしゃんと、たて続けに魚が跳ねた。
(よかろう。ならばそなたに鍵を授けよう。このわしが、よもやそんな気持ちになるとはの)
「あ、ありがとうございます」
 ペトルは見えない相手に礼を言った。
(なんてことはない。見えとるじゃろう。わしはここだよ)
 水の中をぐるぐると泳いでいたその魚が、ペトルの立つ岩場のそばまできて、くるくると回りはじめた。
「えっ、まさか……」
(そうじゃ、わしだよ)
 ペトルはその場にしゃがみこみ、目の前を泳ぐその小さな魚を見つめた。
「魚さん……だったのですか?」
(ふむ。いかにも。わしは魚じゃよ。もとはそう、ただの魚じゃった)
 ペトルは、その不思議な魚の話に聞き入った。
(わしも、もともとは外の湖にいたのだがの。ふとしたことから、洞窟に迷い込んでしまった。昔は洞窟もここも、ずっと水でつながっていたのじゃが、徐々に水かさが減って、気づいたときにはもう、もとの湖には戻れなくなっていた。ここに取り残されたわしは、長いこと、長いこと、ここで過ごすうちに、次第に知力に目覚め、思索する心を持つようになった。おそらく、この水の力じゃろうな。そしてついに、水の精の魔力を身につけるにいたったのじゃよ)
 それは、なんという不思議な話だったろう。ペトルは、思わずぶるりと体を震わせ、世の中に起こる奇跡というものの存在を、あらためて考えずにはいられなかった。
「では、魚さんは水の精さん……なんですね」
(ふむ。そういってもよいじゃろうが、もうわしにも分からん。わしはこのとおり、今でもただの魚じゃし、それでいて世界についての思索も続けている。ここは、誰も邪魔するものが来ないのでな。静かな思索にはうってつけなんじゃ)
 魚の精は、それからまたぐるぐると勢いよく、水の中を泳ぎはじめた。
(さて、最後にこれだけ泳いだからの。もう思い残すこともない)
 そうして再びペトルのそばにくると、ひとこと魚の精は告げた。
(鍵をそなたに渡そう)
「ありがとうございます」
 ペトルの首にかけた、二本の鍵がきらきらと輝き出す。それとともに、辺り一面の水の輝きも増しているようだった。
(では、両手を差し出すのじゃ。決して水をこぼさぬようにな)
「は、はい」
 大きな波紋を作って、ぴしゃんと魚が飛び跳ねた。次の瞬間、辺り一面の全ての水が浮き上がった。
 そして、水は凝縮するように小さくなり、あっと言う間に拳くらいの大きさの玉になった。
(受け止めるのじゃ!)
 声が聞こえた。
 ペトルは、慌てて両手を差し出し、その水の玉を手のひらで受け止めた。
 水は、まるでそのものが生きているかのように、少しのあいだ、しぶきを上げたり、手からこぼれ出そうになったりしたが、やがてそれは形を取りはじめ、ペトルの見つめる前で鍵の形になった。
「ああ……」
 ペトルは、手のひらの上できらきらと青く輝く鍵を、驚きと感動とともに見つめていた。さっきまでは確かに水だったものが、すっかりと固い重みのある鍵へと変わっていた。
「これが、水の鍵……」
 首から下げた二本の鍵が、新たな仲間を迎えて喜ぶように、カチカチと揺れていた。
 ペトルは三つめの鍵を手に入れたのだ。



◆次ページへ