バスドラハート 2


 キーンコーンカーンコーン 
 終業のチャイムが鳴る。
 学校という檻の中であらゆる制約とともに日々を過ごしている、私達を縛りつけていた鎖が、ようやく解け去る合図だ。
 最近とみに思うことは、時間はなんて早く流れるのか、そして私達はなんて多くの日々を無為に過ごすのか、ということ。
 通学の時間もムダ。学校の授業もムダ。友人とのおしゃべりも(楽しいけど)結局はムダ。
 そして季節は過ぎ行き、1年は昔になる。あっというまに十年はたっちゃいそう!
 人の一生は何と短いのかしら。「あれをしよう」「これをしよう」と思いながら、結局は何もできずに時が流れているのに気づく。
 みんなそうなのだろうか?したくもないこと、しなくてはならないと思い込んでることの方が、どうして多いのだろう?
 どうしてみんな平気なんだろう?レールの上から毎日同じ景色を見ることに、どうして耐えられるのだろう?
 そんなことをふと両親にもらすと、「みんなそうやって我慢して学校を出るのよ。今は頑張って勉強しなさい」という言葉が返って来る。友人に尋ねると、「しょうがないンじゃない?大学生になれば遊べるんだからサ」と答える。
 本当にそうなのだろうか?確かに、何年かを辛抱して「大学生」なり、「社会人」なりになれば、それなりの自由が得られるのかもしれない。しかし、自分では自由を得たと信じても、実際にはそれは単に、檻の名前が「高校」から「大学」になり、「会社」になるだけの話ではないのだろうか?
 そう考えると、結局何もかもが無駄であり、流れゆく時間だけが、それに縛られる私達をあざ笑い、過ぎてゆくような気がしてくる。
 「今しかできないこと」は他にいろいろあるはずなのに……。私の疑問は、どうしてそれよりも誰が決めたかも分からない「しなくてはならないこと」をする方が大事なのか、ということ。
 先生に聞いても分からない疑問。私にも分からない疑問。
 ……それとも、私のほうがおかしいのだろうか?いつもいつも、こんなことばかりを考えているなんて。
 ああ……この世界で「うまくやっていく」ためには、「しなくてはならないこと」を同じように、繰り返してゆくしかないのだろうか?

「朝美」
「ねえ、朝美ってば!」
「ん?」
 顔を上げると、机の横に奈津子が立っていた。
「もー、なに考えてたの?ぼーっとして」
「んん……別に……」
「なーんだか朝美ってさー」
「なによ」
「ヘンだよね」
 奈津子の言葉は私をムッとさせた。そうでなくても、もしかしておかしいのは自分なのでは、と考えていた最中だったのに!
「あーどうせヘンですよ。私なんかバカでマヌケな上に理屈っぽい、最低最悪の愚か者ですよーだ」
「あ、朝美……」
 顔をそむけた私を心配そうに覗き込む奈津子。ふふふ、ちっとはこたえたか。
「朝美、おもしろーい!」
 奈津子はきゃはは、と笑いだした。ダ、ダメだ……。こいつにはかなわない。
「バイバーイ」
「またねー、えみりん」
「今日どーするゥ?」
「ゲーセンよってく?」
「またプリクラぁ?」
「あたしバイトだもン」
「ねぇー聞いたー?駅前でサぁ」
「あ、知ってるゥー」
「ちょっとカッコイイよねぇ」
「うんうん、あれってサァ……」
「マジでぇ?」
 キャッキャッ、ワイワイザワザワ
 うん、擬音にするとそんな感じだろう。授業の終わった放課後の教室。友達と連れ立って帰る者、部活の用意をする者と、さまざまである。
 おーお、皆「拘束された時間からの解放」に喜んでおるな。なんとも可愛らしいこと……
 あごを両手に乗せながら、ふふふ、と私は不気味に笑った。
「朝美……やっぱりヘン」
 横では、奈津子の奴がまだ心配そうな顔をしている。これ以上変人扱いされるとさすがの私も傷ついてくる。私はカバンを手に立ち上がる。
「何でもない、何でもない。さ、帰ろ」
「ふーん」
「な、なによ」
 奈津子はまじまじと私を見て、
「朝美、もしかして……」
 私の耳に手を当て、囁いた。
「あ・の・日?」
「ちがーう!」
 思わず大声をあげた私を、何人かが振り返る。彼女たちは、珍しいものでも見るように、くすくすと笑いながら私に視線を注いでいく。
 もう!人を人形か何かのように見るんじゃないの!わたしだってたまには大声くらい上げるんだから。
 とはいえ、学校での私はいたって真面目で、成績もそこそこ優秀、先生にも好かれ、その上生徒会副会長なんてものまでやっている、至極立派な生徒の鑑……というワケだから、無理もないかな。
 わたしは、なるたけ学校では自分の考えていることを口に出さないようにしている。それはそうだろう。真面目で優秀な生徒の鑑が、「無駄な授業と檻としての学校」などについて考えていると知ったら、きっと先生たちはパニックに陥るに違いない。私としても、無駄な口論や争いをするのも面倒だし、いくら私一人が現状の学校制度に憤慨しても、簡単に変えられるものでもないだろうから、余計なことは言わない。
 だから、わたしは授業中でも、生徒会の役員会議でも、なるたけ無駄なことは言わずに、必要なことだけをてきぱきと正確に答えるようにしている。先生たちは、わたしを「真面目な生徒」と思い、親しくない友人たちは「面白みのない堅物」と思っていることだろう。それはそれで、私にとっては何の不都合もなかった。
 もともと私は、周りの女子連中がよろこんでいるもの、流行のファッション、アイドルグループ、カラオケやプリクラや携帯やメールといったものにあまり興味がない。勿論、友人にさそわれてカラオケに行ったこともあるし、自分が気に入った服を買うのは、楽しいと思う。ただ、なんでそんなものにそれ程の時間と手間ひまとお金をかけたり、気違いのように熱狂できるのか理解できないというだけだ。ようするにそういった流行だの、アイドルだのというものは、テレビや雑誌などで多く取り上げられたりしている、というだけの話で、それらが本当に面白くてカッコいいかどうかという以前に、我々が「それらが面白くカッコいいと信じ込まされている」というだけにすぎないのではないか。
 私がそう言うと多分、彼女たちは私を変人かなにかのように扱い、相手にしなくなるのだろう。よく私は、「醒めた人ね」と言われることがある。確かに私は、何かに熱狂することがあまりない。テレビも学校の授業と同様、退屈だ。最近のヒット曲も、どれも同じに聞こえる。カラオケは……嫌いじゃない。ただ、人前で歌うのはあまり好きではない。携帯は一応持ってはいるが、メールをするのは奈津子か家族くらいのもの。しかも、私の方からはほとんどかけないし、メールも送らない。いや、ごくたまに……は送るけど。
 やはり私はつまらない人間なのかもしれない。勉強も学校もつまらない。そう言っているくせに、もしかして、くだらないのはこの世界ではなく、私自身のほうなのだろうか?

「もうすぐ夏休みだね、朝美」
「そうね」
 わたしと奈津子は、駅に向かういつもの帰り道を歩いていた。
「朝美はどっか行く予定ある?」
「あのねぇ、一応仮にもあなたは三年生よ?受験を控えたこの時期に、海だ山だプールだ祭りだ、と遊んで過ごすつもりなの?……なんて親に言われそうだから、多分行かない」
「だよねぇ、朝美のお母さん厳しそうだし……」
「仕方ないよ、特に他にすることもないし、おべんきょしませう」
「我ら悲しき受験生、ってカンジ?」
「ですね」
 そういえば、紹介がまだだっけ?わたしのとなりのこの元気な子が、親友の小泉奈津子。明るくて、調子がよくて、かわいらしい、……ようするに私とは正反対のタイプ。この子とは中学からのつきあいで、家も隣近所とあって、よく二人で遊んだり出かけたりしたものだ。
 それにしても謎なのは、どう考えても私とは性格がまるっきり違うし、時々ついていけないと思うこともあるのだが、それでも私達が妙に互いを理解し合っている、ということ。例えば、私が例によって冷笑じみた物言いを投げかけても、奈津子は私のその言葉に対する素直な感想を私に返してくる。お気楽に、何も考えていないかのようでいても、なんだか奈津子の笑顔を見ていると、しばしば私は、正しいのは彼女のほうで、もってまわった私の考え方はただの傲慢なのではないか、という気さえしてくるものだ。
 奈津子はどんな時にも笑顔をたやさないし、物事がうまくいかない時でも、その「なんとかなるよ」的な明るさは、周囲をほっとさせる。時々、私なんかよりよっぽど強いんじゃないかと思うこともある。お調子者のようでいて、彼女はしっかりと「自分」を持っているようだった。私は奈津子が好きだったし(勿論友人としてだ)、彼女のほうも少なくとも、こんな私をそれほど不快には思っていないようだった。
(奈津子は大学行くのかな)
 そういえば、一度も聞いたことがなかった。私は「大学」というものを、多分みんなが行くだろうもの、一つ先にある駅の名前、くらいに考えていたのだ。
「ねえ、奈津子」
「んー?」
「奈津子は大学、行くの?」
「うーん、わかんない」
 そろそろ夕方だというのに、まだ日の沈む気配もない。じめじめとした湿気が逃げきらない駅前通りを歩いてゆく。汗の乾ききらない、ブラウスの背中がキモっ。前をゆく女子高生の一個小隊は、揃いもそろって全員がブ厚いルーズソックスだ。うぇっ、暑そう!
「朝美は?」
「えっ?」
「朝美は行くんでしょ?だいがく」
「うん……たぶんね」
「朝美なら、どこだって行けるよ。なんたって学年一番だもン!期末の結果見た?」
「まだ」
「貼りだされてたよぉ!でかでかと。1番鮎乃朝美。3年1組、491点!」
「……」
「わたしはねー、何と、48番!スゴイっしょ?」
「うん」
「これも朝美のおかげね。何たって前日のヤマが、もー見事にビシーッて当たったカンジでさァ……」
「……よかったね」
 学校の試験はくだらない。いい点を取りたいと思うなら、物事を深く考えず、相手がどんな答えを要求しているか、のみを考えればよい。想像力は要らない。ただ「求められる出口にいかに早くたどり着くか」ということが評価のすべてなのだ。それが良いことなのか、悪いことなのかは私には分からない。ただ確かなのは、それはとてもつまらない、ということだ。
 つまらない。つまらない。
 何もかもつまらない。
 またもやわたしが、いつもの“くだらない”迷宮に入りかけたときだ。
「ねえねえ、朝美ィ」
「ん?」
「ほら、あれよ、あれ」
 何かを見つけたように、奈津子は駅のほうを指さした。
「なに?」
 別段、何も変わったものは見えない。駅前にはただ、ビラやティッシュを配る人達や、帰宅する女子高生の一群とその他の人々がいるだけだ。いつもと変わらない光景。そう大きくもないこの駅が、恐らく一番にぎわう時間帯。
「ほらあの人達だよ」
 どうやら奈津子が指さしたのは、駅の階段の前でティッシュを配っている連中の、その中の一人のようだった。
「最近よく見るよねえ」
「そうなの?」
「うん。あ、ほら、あの金髪のコちょっとイケてるっしょ?」
「……」
「クラスでも、あのコ目当てで電車で通ってる子もいるんだよ」
「へえ……」
 わたしはまじまじと、手際よくティッシュを配っているその男たちをながめた。そのグループは3人、4人、だろうか。明らかに、他のティッシュ配りの連中とは様子が違う。Tシャツに汚いジーンズ、それに背中まで伸ばした長髪に、耳にはピアス。あらためて冷静に見てみると、多くの人が行き交う駅前にいてもかなり目立つ。髪をブリーチにしたり、怖そうにひげをはやしたりと、その姿はまっとうな社会人とはかけ離れていたし、少なくとも彼らが定職についていると考える者はいないだろう。売れないバンドマン、これが彼らにぴったりの形容であることは、まず正しかった。
「今日はラッキーだね、朝美。いこ、いこっ」
 ぐいぐいと腕を引っ張る奈津子。
 はしゃいでいる奈津子には悪いが、わたしはそれ以上、彼らに興味は示さなかった。こういうた連中が駅前でティッシュを配る光景など、特に珍しいものでもないし、またそれはわたしには「関わりのないこと」でもあった。
 わたしはそう思っていたのだ。たしかにその時までは。
「はい、おねーさん」
 だから、奈津子のいうその、「金髪のちょっとイケてる」奴が、こちらにティッシュをさしだした時も、わたしは無視して通りすぎた。ちらりと一瞥をくれて。
「はい、よろしくー」
 にっこりと笑ったその彼は、近くでみても確かに格好よく、奈津子や他の女子高生が熱を上げるのもうなずける。女に笑いかけるのに慣れたその様子は、わたしなどから見ると大変ウザいのだが、クラスの女どもはそれにしびれてしまうのだろう。
 みんな馬鹿だ。私には関係ない。そんなつくりものの微笑みも、テレクラのティッシュも、金髪のバンドマンも。
 わたしには関係ない。そう思った。
「ちょっとアンタ」
 ティシュを無視して素通りした私の背中に、その金髪のバンドマンが声をかけた。
「は?」
 振り返った私をじろじろと眺めて、彼は言った。
「アンタ、可愛くないね」
 いつものわたしだったら、そんな言葉は無視してさっさととその場を去ったろう。しかし、どうもこの日のわたしは違った。
 虫の居所が悪かったのか、たび重なる自己嫌悪によりとてもイライラしていたのか、とにかく……ムカーッときてしまった。
「よ、余計なお世話です!」
 私は相手に向かって叫んだ。金髪の男は一瞬ひるんだふうだったが、腕を組むと唇を突き出して、馬鹿にするような表情をした。
「多いんだよなぁ、最近。そーいう、あたしにゃ何もかも関係ない、みたいな女子高生が。うんうん。いかんねえ」
 男の物言いが、私の怒りを逆撫でした。
「そ、そっちこそ何なんです?いきなり失礼なことを言って!」
「あ、朝美ぃ」
 横で、奈津子がはらはらとしている。
「なにやってんだ、リアン?」
 この金髪の仲間らしい何人かが、私達のほうへやって来た。皆背が高く、長髪で細い足をしている。
「あーいや、ちょっとこのコがさー……」
 男達を前にして、わたしは思わずたじろいだ。こんなふまっとうで怖そうな連中に、いったい何をされるのかと、内心ではらはらしていた。逃げ出したほうがいいかも。
「おい、あんまり騒ぎ起こすなよ。ただでさえ……」
「あーい、わかってますって。クビになったらメシが食えん、と」
 男の一人に言われると、意外にも金髪はおとなしくなった。
「そーいうこと」
「あああ、たまには寿司でも食いたいなぁ」
「ぜーたく言うな、おれたちゃ貧しいんだ」
「ロッカーには貧乏が似合う。そして貧乏はロッカーを育てる」
「何だそれ、とうせい?」
「ロックにおける格言です。僕が作った」
「……」
 男達は黙り込み、それから気を取り直したように一人が言った。
「とにかく、だ。今は働こう。真面目にだ」
「へーい」
 私と奈津子は、ぽかんとしながら、目の前で会話するバンドマン連中を見ていた。なんというか……わたしは(多分奈津子も)面食らっていた。長髪でピアスをしたロッカー、なんて連中はカッコつけで、おしゃれで、傲慢なやからなのだとばかり思っていたので、そのパッと見には派手でこわそうな彼らの口から、貧乏だの寿司食いたいだのといった言葉を聞くと、妙に違和感を感じてしまう。
 唖然として、駅の階段の前に立ちすくんでいるわたしと奈津子に、彼らの中でリーダーらしき一人が話しかけてきた。
「あー、えーと……ごめんねー。コイツったら失礼な奴でさ。よく言い聞かせておくから」
「んーだよ、別にオレ悪いこといってないぜ」
「リアン!お前もういいから仕事しろ。ほら、リョウが向こうで睨んでるぞ」
「ちぇっ、わーったよ」
 リアンというらしい金髪は、しぶしぶといったように離れていき、向こうでまたティッシュを配りはじめた。
「ごめんごめん。あいつってばちょっとカワイイ子見ると、なんだかんだとすぐちょっかい出すくせがあってさ」
「はあ……」
「カオがよくってもガキっぽくっていけない。もしオレが女だったら、少なくともヤツよりはオレを選ぶと思うけど……いやいや、まあ、とにかく、だ。あんま、気にしないでね。アイツが無礼なのはいつものことなんで。」
「はあ……」
 顔を見合わせる私と奈津子。
「オレは三好コウ。一応このバンド“エメラルド・スラッシュ”のリーダーです。んでこっちがドラムの緑川とうせい」
「へえー、やっぱりバンドやってるんですかー?もしかしてビジュアル系とか?」
 横から奈津子が身を乗り出すように訊いた。
「いやー、まあ、ただのハードロックですけどね」
「さっきの金髪のヒトは?」
「ああ、奴がヴォーカルのリアンで……」
「やっぱりぃー!いかにもぼーかるってカンジだもんねえ。リアンって本名ですか?なんか外人みたい」
「ええと、まあ本名らしいですがね……」
「カッコイーっ、うそみたいー、足ながーい」
「ははは。そうだね。でも俺だって足はけっこう……」
「リアンくんかあー、カッコいいなあ、歌ってるとこ見たいなあ」
 イケメンに長髪というのが好みだという奈津子のやつは、現金にもここぞとばかりにまくしたてている。
(ちょっと奈津子)
 わたしは肘で奈津子をつついた。
(わたしもう行かないと。予備校あるし)
「ああ、そっか」
「それじゃ、私達急いでますんでこれで……」
 わたしがそう言って、歩き出そうとすると、
「あ、ちょっと」
 後ろから、三好と名乗った彼がわたしたちを引き止めた。
「えーと、とりあえずお詫びのしるしということで、このスペシャルなティッシュを差し上げますよ」
「いえ、別に……」
 いらない、と言う前に、目の前にティッシュを差し出された。
「さあ、遠慮せずにどうぞ」
「はあ、それじゃ」
「どうも」
 私たちはそれぞれにティッシュを受け取った。スペシャルな、と言っても、どう見てもただのティッシュのようだった。裏にはテレクラのダイヤルナンバーが書いてある。
(わたし、テレクラなんか興味ないのにな……) 
 仕方なくティッシュをポケットにつっこんで、わたしたちはその場を後にした。
「またねー。オレたちしばらくはここでバイトしてるから、よかったら声かけてよ」
 駅の階段をのぼるわたしたちの背中に、さっきの三好さんの声がかろうじて届いてきた。なるべくならもう関わりにはなりたくないものだ、とわたしは密かに思った。それよりも予備校の授業に間に合うかどうかの方が、私は心配だった。

「ねぇ朝美」
「朝美ってば」
「んー?」
「なに怒ってんの?」
「……別に。怒ってないよ」
「うそ。怒ってるぅ」
「……」
 電車が鉄橋を渡る。
 やっぱり快速電車の方がスピードが速い分うるさいみたい。奈津子の声が聞こえなくなる。わたしはほっとする。
 なにもいわなくていい時間というのは、何て少ないのかしら。
 「何も言わなくてよい時間」と「何も言えない時間」とは違うものなんだと思う。だから授業中の静まり返った空気は私はあまり好きではない。それは平穏な静けさが存在するというよりも、一人一人の強制された沈黙がつくり出す、息のつまる空間のように感じるからだ。
 相手の反応を気にせずに、一方的に言葉を投げつける教師たち。それらを受けとめる生徒の側は、苦痛を感じないではいられない。そして張りつめた沈黙に耐えされられた挙げ句、時々教師の投げかける問いには正確な回答を要求されるのだ。
 一方的な知識の提供と、それへの理解度の点検。わたしたちは常に、休み時間の自由と安堵のことを考えながら、その拘束された時間を乗り切る。それが何度か繰り返されて一日が終わる。それからは友達とのおしゃべり、帰りの満員電車、家に帰ると両親の小言や世間話、テレビの中にはやかましいタレント……実際、私達が他人の言葉や、必要とされる沈黙を気にせずに、一人で物事を考えることのできる時間というのは、布団をかぶって眠りにつくまでの間だけなのではないか、という気さえしてしまう。
(あ、電車が鉄橋を渡るあいだもそうかな?)
 わたしはくすりと笑った。
「ねぇ朝美、」
「ん?」
「さっきのひとたちだけどさぁ」
「さっきのって、あの何とかっていうバンドの人達?」
「うん」
「それがどうしたの?」
「うーん、なんて言うかぁ……カッコいいよね」 
「どうして?」
「んー、何となく、カッコいいよ」
「あんた、単にあの金髪の……なんだっけ」
「リアン」
「そう、彼がきれいな顔してるから、ってだけなんでしょ」
「うーん、それもあるケド……でも」
「でも?」
「でもなんかそれだけじゃないっていうか……うまく言えないけど、自由なカンジって いうかさ、そんな雰囲気がいいなァって」
「それはあの人達が、学校や会社に行ってないからそう見えるだけよ」
 わたしは憎々しげに言った。つかんだ吊り革がぎしぎしと音を立てる。
「んー、そーいうのとは違う気がするんだけド……」
「あのね、自由ってのは、ただ髪長くしてぶらぶらしてることをいうんじゃないでしょ」
「まあ、そうだけどサ」
 さっきまで忘れていた怒りが、またこみ上げてくる。
「あんな、テレクラのテイッシュ配りなんかして。人に失礼なこと言ったり!」
「やっぱり怒ってない?朝美……」
「別に。ただわたしはああいう連中はやっぱり好きじゃないわ。毎日だらしなく無駄な時間を過ごして、のほほんと平気でいられるなんて」
「そうかなあ」
「そうよ」
「うーん、でも好きな音楽をやるために働いてんだから、目的もなくただガッコ行ってるあたしたちよりは、もしかしてえらいんじゃないかな?」
「……う」
 ここで黙ったら負けだ、とわたしはやっきになった。昔から論争では負けたことがないのだ。
「だからって、彼らがこの社会を形成する、生産的要素とは無縁である、という事実に何ら変わりはないワケで……」 
「でも、何も社会を形成するヒトたちだけが偉いワケじゃないと思うケド」
「そ、そりゃそうだけど」
「朝美の好きな小説家の“九里もとか”だって、直接的に社会に役立ってるワケじゃないんだし」
「で、でもそれは……」
「大体、朝美だって今現在、社会のためにがんばってるワケじゃないもんネ?」
「あ……」
 言葉を失い、わたしはため息を付いた。
 奈津子はニコニコと笑っていた。言い負かされたことは悔しかったが、何の邪気もなく、素直に思ったことを言う奈津子が、わたしにはちょっと羨ましく思えた。
 電車が駅に着いた。
 わらわらとホームに下りてゆく人々は、ほとんどがスーツ姿のサラリーマンか、私達のような学生ばかりだ。わたしはふっとさっきのバンド連中の姿を思い出した。長髪の若い男の人はたくさんいるしとくに珍しくもないのに、どうして彼らはああも不真面目でだらしなく見えるのだろう?
 それは彼らが長髪だからでも、テイッシュを配っているからでもない。違うのはその外見だけではない。道をゆくサラリーマンたちと彼らが違うのは、きっとそうした服装や髪形のせいではなく、もっと……そう、なんというか、「根源的な」何かのせいなんだという気がする。サラリーマンだけでなく、わたしたち学生とも、道をゆく長髪のおしゃれな男性とも、多分彼らは違って見えるのだ。では何がそんなに違うのか?しかし、その時のわたしには、それ以上のことは分かりたくもなかった。
「じゃあ奈津子、わたし乗り換えだから」
「うん、ヨビコーがんばってね」
「うん、それじゃ」
「バイバイ」
 わたしは奈津子と別れ、電車を乗り換えるため別のホームへの階段を上っていった。

 わたしは週に四回、学校が終わったあと予備校に通っている。高三になってから両親の勧めで通いはじめたのだ。大学受験を控えて、学校の授業だけでは心もとないだろうと親がいうので、わたしも「そうかもしれない」と思って承諾した。また、例によってわたしのひねくれた性格から、「心もとない授業をするこの高校を勧めたのは母さんだよ」と心の中では呟いたりもしたが。
 わたしは学校と同様に、家のなかでもあまり余計なことは言わないようにしている。母さんは厳しいし、時々口やかましいけど、大嫌いと言うわけでもない。むやみなことを言って、余計な口論をしたくない。多分わたしの変に冷静な物言いが、人を怒らせるのだろう。それは自分でも分かっている。
 それに、わたしは予備校へ行くのがそう嫌いでもなかった。奈津子なんかは「学校の授業で疲れ果てたあとでよくヨビコーなんか行けるわねー」と言うが、別に学校が疲れるのは勉強が大変だからではないと思う。学校の授業がつまらなく、退屈で、しかもやたらと時間が長く感じるのは、私達生徒がそれら授業時間をあたかも「拘束」であるかのように思っているということに、教師の側が気づいていないか、気づいていないふりをしている、ということにも問題があると思う。誰だって興味のない授業、将来の自分にとってなんの役に立つかもわからない勉強に、真剣に取り組めといわれてもいま一つピンと来るものではない。そんなことをわたしが言うと、クラスの連中は驚いて、その次には言うだろう。「じゃあ何でマジメにやってんの?」と。
 誓って言うが、わたしは真面目な生徒ではない。それは勿論、彼らのいうような「マジメ」とは違う、ということだが。どう考えても、わたしはそういう意味で真面目に授業をうけたことはないし、自分がマジメだなどと思ったこともない。試験で百点をとれば、それが「マジメ」になるのかどうか私は知らない。生徒会の役員になればそれが「マジメ」になるのかしらん。どれもわたしには、どっちかというと「どうでもいいこと」だった。ただみんながいうからわたしは生徒会にも入ったし、母さんを黙らせるために「百点をとれるように」勉強もした。それを人は「マジメ」と呼ぶのだろうか。
 わたしは一度だって、学校の授業を有意義に感じたことなど無かった。試験もだ。お仕着せの授業。お仕着せの試験。教科書の「重要部分」とやらに赤線を引いて、それを暗記して満点を取って何が楽しいのだろう?なんて無駄な時間だろう。なんて無駄な授業だろう。わたしはいったいいつまでここにいればいいのだろう。とそればかり考えている私が、優等生のふりをしたり生徒会の役員をしたりしている。こんな不真面目なことがあるだろうか?
 わたしは自分が好きではない。
 「なにもかもくだらない」と、心の中で思いながら、わたしは黒板の板書をノートに写し、先生の出す問題にしかつめらしく答え、友人たちの言葉に笑ってみせ、毎日、同じ満員電車の窓から町を見下ろしている。「こんなのはもうたくさん!」……多分、そう叫ぶチャンスはいくらでもあった。それなのにわたしは、それらのすべてを飲み込んで、夕食の席でも優等生を演じ、次の日の予習があるからと言ってTVのものまねに笑う両親を残して、一人で部屋に戻ったりした。
 わたしは、自分がひねくれ者の嫌な奴であることを知っている。わたしは何度、自分が奈津子のように素直になれたら、と思ったことだろう。どんな時でも思ったことが言えるようになればいい、と思う。
 だが、わたしが思っていることをすべて言ってしまったら、何もかもが狂ってしまいそうな気がする。友達に対しても、両親に対しても、先生に対しても。わたしは自分が思っていることを言ってしまいそうになると、ありったけの力でそれを止めようとしてきた。きっと、それらがわたしの口から出た瞬間に、彼らは驚き、今までだましていたことに怒り、そしてわたしを変人か何かのように扱うだろう。
 両親はきっと悲しそうな顔をするだろうし、友人たちは冷たい目で私を見るだろう。先生たちは驚きを隠しながら内申書に何事かを書き記すことだろう。奈津子は……奈津子は多分変わらないだろうと思う。少なくとも奈津子に対しては、わたしは思ったことをほぼそのまま言っているし、彼女もきっとそれは分かっていると思う。わたしが変な理屈をこねたり、ぐちを言ったりしても奈津子はそれを面白そうに聞いてくれたり、それに対する自分の素直な意見を言ってくれる。彼女がいなければ、きっとわたしは童話のなかのように、木のうろに向かって言いたいことを叫ぶしかなかったろう。
 わたしは多分弱い人間なんだと思う。理屈っぽくて、ひねくれもので、シニカルなくせに、自分の言いたいことも言えず、たえず優等生を装って衝突を避ける、都合のいい人間なのだ。
 人は私のことを真面目だというが、彼らの言うその「マジメ」が、なるべく自分を殺し、よけいなことは言わず、興味のない授業を仕方なく黙って聞き、つまらない試験に良い点をとって、とりあえず親を喜ばせることだとしたら、わたしはとても真面目な生徒なのだろう。そういう意味で、真面目でいることは楽だったし、なにより友人や先生や親などとよけいな口論をしなくてすんだ。
 わたしが学校をつまらなく退屈な所だと思うのは、恐らく、私自身がつまらなく真面目でいることを「演じなくてはならない」場所であるせいなのだ。学校という退屈な舞台の上で、なるたけそこに合った踊りを踊ろうと、必死に自分を殺している、ちっぽけな自分。言いたいこと、思っていることを口に出さず、心の中で舌を出しながら先生の質問に従順に答える私……試験でよい点を取っても当たり前のように表情一つ変えず、生徒集会の席では先生達が喜びそうな優等生の言葉をすらすらと発言する。
 いつだってわたしは、そんな自分が大嫌いだった。そして、そんな自分でいなければならない、この「学校」という場所が大嫌いだった。毎朝、電車のなかで、わたしはこの電車が永遠に駅に着かなければいいと考える。電車が駅に着き、学校の門をくぐった瞬間からわたしは優等生であり、生徒会役員の大変真面目な一生徒なのだ。
 いつまでここにいればいいのだろう。授業のあいだ、窓の外を眺めながら私は考える。英語の教科書を朗読しながら、私は考える。
 いつまでここに……?
 いつまで……

 リンゴーン リンゴーン
 わたしを起こしたのは、講義終了を告げるチャイムの電子音だった。
 いけない、いろいろ考えながらつい寝てしまったらしい。
 顔を上げると、すでに、周りの人たちは帰り支度を始めている。うう。まさか最後まで寝てしまうとは、私としたことが……不覚。
 講義が終わり、ざわざわと騒がしくなり始めた教室で、わたしは大急ぎで黒板の文字をノートに写しはじめた。
(ほとんど予備校で眠ったことなどなかったのに。なんで今日に限って……別に寝不足って訳でもないし、疲れてもいないのになぁ)
(あー、シャーペンの芯が切れたぁ!)
(芯もってなかったっけ)
 わたしはカバンに手を突っ込んで、何か書くものを探したが、鉛筆一本、ボールペンすらも入ってはいなかった。        
(あーもう!しょうがないな)
 わたしはノートをとるのを諦め、黒板に書かれた文字の中で、ポイントとなるものだけを覚えておくことにした。暗記にはそこそこ自信がある。家に帰ってそこを調べ直せばよいのだ。
 他の生徒たちがぞろぞろと帰ってゆく中、わたしは一人ポツンと座ったまま黒板を見つめていた。
 わたしが予備校をそう嫌いでない訳は、ここが「目的のはっきりした」場であるということだ。ここが学校と違う点は、講師の側と生徒の側が始めからコミュニケーションをとらない、とる必要のない場である、ということをお互いに理解しているというところだ。
 ここでは、学校の授業のように、教師が生徒を立ち上がらせて答えを求めたり、答えられない生徒をしかりつけたりするといった光景はない。反対に、生徒が講師に対して質問をするということはあっても。だから、生徒の側は、安心して講義を理解することに専念できるのだ。
 もうひとつの理由は、ここでは自分が「真面目であること」を演じる必要がないということ。それは、そうだろう。学校とは違い、ここではいろいろなことを考える暇がない。授業に集中していれば、それだけであっと言う間に時間は過ぎる。教室に入り必要な本とノートを広げ、それを閉じてカバンに入れるまでの間、何一つよけいなことを考えずに済むのだ。集中したあとの心地よい疲労感だけがそこには残る。
 ここでは、わたしは本当に「真面目」になれる。なにも装わなくてよいのだ。よけいな会話もなく、よけいな時間もない。そして、他人のことを気にかけずにいられる、という意味で、ここは図書館の机のように個人で仕切られた空間なのかもしれない。大勢の人が同じ教室にいながら、互いに会話もなく、黙々と自分個人の勉強に没頭する場所……他人に攻撃されることも、教師に名指しで叱られることもない、「情報」としての勉強法を学ぶ静かな空間。
 それが心地よい、ということは、わたしはよほど暗い人間なのだろうか?自分のことを誰も知らない、誰も近づいてこない、こうした場所は、妙にわたしをほっとさせる。したくもない会話や聞きたくもない言葉はここにはない。ここでは講師の発する情報を、一人一人の受け手がそれぞれに受信するという、縦のつながりのみがあって、生徒同士のつながりは友人どうしでも無いかぎりは存在しないのだ。
 そんなことを頭の隅で考えつつ、おおかた重要な部分を記憶しおえると、わたしはノートをカバンにしまい、立ち上がった。
(よし。忘れないうちに帰って調べなきゃ)
 すっかり人が少なくなくなった教室には、モップを手にした掃除のおばさんが入ってきた。わたしはその横を通り抜け、いそいそと出口に向かった。
 そのとき、いきなり背後から声をかけられた。



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