バスドラハート 3



「朝美、朝美じゃない?」 
 わたしはびっくりして振り返った。こんなところに知り合いがいるとは思わなかったのだ。
「やっぱりー、朝美だ」
 わたしの前に、黒いブラウスにジーンズ姿で、髪を茶色くした女子生徒が立っていた。
「朝美だよね?すごーい、久しぶりー」
「えーと……」
「いやだー、忘れちゃったの?」
 首をかしげて笑うその顔には、どことなく見覚えはあるような気がするのだが、いかんせん名前が思い浮かばない。
「あの、御免なさい。ちょっと」
「やだなあ、忘れちゃうなんて。ほら、これでどう?」
 そういって彼女は、伸ばした髪を両側で手で束ねてみせた。
「ああ、もしかして……」
 わたしは驚いた顔で指を指した。
「えりか?」
「ピンポーン。思い出した?」
「お、思い出すも出さないも……、久しぶりだねぇ」
「うん。3年ぶりくらいかな」
 中学時代のクラスメート……藤村えりかは、そう言って嬉しそうに笑った。

「まあ、今日はあたしのおごりだ。じゃんじゃんやってよ」
「あ、ありがと」
 わたしたちは、駅前のバーガーショップでチーズバーガーとポテトをかじりながら、再会を祝すことにした。
「でもおどろいたなー。まさか朝美が同じ予備校だったなんて」
「わたしだって驚いた。いきなり後ろから声かけてくるんだもん」
「へへっ、ごめんごめん」
「でも全然わかんなかった。変わったよねーえりか」
「そーかな」
「うん、前は髪染めてなかったし、それに……」
「それに?」
「なんか感じも変わったっていうか」
 わたしは、昔の彼女よりもずいぶん垢抜けた……ありていにいって綺麗になった、えりかの顔をまじまじと眺めた。
「うん……まあ、あれからいろいろあったからね」
「ふーん」
「あたしさ、中3のころあんまり学校いってなかったからね。でも、朝美とはずっと会いたいなーって思ってたんだけど」
「うん、わたしも。あれからえりかと一度も会わずに高校行っちゃって、どうしてるかなーって思ってた」
「朝美は秀才だったもんな。高校だって名門の川村女子だし、あたしみたいなバカが会いに行くのも悪いかなー、なんて思ってね」
「そんなこと……。あ、そういえばえりかはどこなの?高校」
「あたし?あたしは行ってないんだー」
「そ、そうなんだ」
 やや顔を曇らせたようなえりかに、わたしは悪いことを訊いたかなと少し後悔した。
「んー、いまはね、バイトしながら勉強してる。大検とって大学行こうかなーと。教師になりたいんだ、あたし」
「へー、すごいんだ」
「へへっ、教師っつっても音楽教師だけどね。最近の音大は一般科目の試験もあるってんで、ここに通ってるってワケ」
「えらいのね」
「全然!まだ大検とれるかわかんないし、やっぱ学校行ってないとつらいわ、ベンキョー」
 えりかは笑いながら頭を掻いた。
「そういえば、えりかは昔から音楽好きだったもんね。合唱コンクールなんかではピアノの伴奏なんかやってたし」
「んー、まあね。でもさぁ」
「え?」
「あの頃は多分、本当に音楽が好きだったんじゃないと思う」
「そうなの?」
「うん。なんつーかさ、ピアノにしても親に言われるままに習ってたわけだし、音楽を聴くことはそりゃ好きだったけど、音楽と真剣に取り組んでいたかというと、そうじゃなかったと思うしね。確かにピアノ弾くのはけっこう楽しかったけど、本当に自分が音楽を学んでそれを仕事にしようなんてことは思ってなかったし」
 ポテトを指で転がしながら、えりかは言った。
「本当の音楽の楽しさと難しさが、最近ようやく分かってきたっていうか。自分と音楽の関係……みたいなもンが見えはじめたような気がしてるのね。それで本当に本格的に音楽を勉強したいって思ってさ。中学卒業してからしばらくブラブラしてたけど、なんか最近やっと自分のこれからの目的らしきものがはっきりしてきたんだ」
「へえ」
「別に音大出てオーケストラやりたいとか、そーいうんじゃないんだけどさ、せめて自分のやりたいことがどーいうことなのか、それが分かるためには、ある程度の知識は必要かなって思ってね。自分が好きな音楽をやるためには、どんなことが出来ればいいのか、それが分かれば目的がもっとはっきりとしてくるんじゃないか、って思ってるんだ」
 わたしはちょっと驚きながら、えりかの言葉を聞いていた。
 中学のころは、あんまりたくさん話す子じゃなかったと思う。どっちかというとおとなしいタイプの子で、クラスでは目立たない方だったはずだ。わたしもえりかとは、すごい仲良しだったという程ではなく、そこそこ話をするくらいの友達だった。なので、こんなにもはっきりと自分のことを話す彼女は、とても意外だったし、新鮮だった。
「あ、ゴメン、なんかあたしばっかべらべらとしゃべっちゃって」
「ううん別にいいんだけど」
「でも、朝美は変わってないよねー」
「そうかな?」
「うん。昔から真面目だったし、きりっとしてたし、頭よさそうだったもん」
「……なんか褒められてる気がしないなぁ」
「そんなことないって。なんてゆーかさ、朝美の場合、ただ頭良さそう、べんきょー出来そう、ってんじゃなくてさ、ホントに自分が何をしてるのかが分かっていて、なおかつそれを真剣にやってる、みたいな感じがはたから見てても分かってさ」
「なにそれ?」
「よーするにぃ、たぶんあたしなんかはさ、こんな勉強つまんないなー、役に立つのかなー、やめたいなーなんて思ってて、まぁ実際しばらくホントにやんなって学校行かなかったわけだけど。朝美をみててすごいなぁと思うのはさ、きっと絶対、朝美もこんな勉強とか試験とかが、くだらないことだって分かってるはずなのに、それでもがんばっていい点をとったりしてるってとこがさ、あーあたしには絶対ムリだなー、と思うところなのね」
「な、なんかそれって、わたしが馬鹿みたいに聞こえるけど……」
「そーじゃないって」
 えりかは首を振った。
「だからさー、そこらへんにいる普通の頭のいい人達ってのはさ、いかにも試験でいい点とることがエライんだ、みたいなカオしてさ、あたしみたいなべんきょー嫌いを見ると馬鹿にしたような目をするけど、あたしから見れば『何でそんなつまんない勉強だの試験だのを楽しそうにやってんの?アンタらこそバカじゃないの?』ということになるわけよ。そんなつまんない試験でいい点とって、それでそれが頭がいいということになる、それって何かヘンだなー、ってあたしずっと思ってた。いい高校行くにはそーいう『頭のいい人』にならなくちゃダメなんだー、って思ったらさ、なんか別に高校なんか行かなくてもいいや、なんて思っちゃって、まぁそのせいで大検とるのに苦労してんだから、わたしもやっぱバカなのかもしんないけど」
「……」
「だからねぇ、あたし、朝美を見ていたとき、朝美が学校とか授業とかを本当はつまらないことだ、っていうのを分かっていることを知った時はホントにおどろいたのよ。自分のしてる勉強や試験が、つまらないこと、くだらないことだって知ってるくせに、なんでそんなに頑張れるんだろうって」
「……」
「朝美覚えてる?中3の一学期の終わりにあたしに言ったこと」
「ううん」
「あれは授業が終わってそうじをしてる時かな、朝美はポツリと言ったんだよ。『試験ってつまらないよね。授業って退屈だよね』ってね。その時は朝美笑ってたし、試験でいい点とって廊下かなんかに貼りだされてたから、あたし、嫌味で言ってんのかななんて思ったけど、後でいろいろ考えると、そういえば朝美っていい点とっても全然喜ばないし、授業中とかでも真面目にやってんだけど、なんかすごくつまんなそうにしてたな、とか思って。それじゃそうだったのか、ってあたしすっごくおどろいたんだ。そんな人もいるんだって思った。そしたらなんか、あたしも勇気が出たっていうか、自分でこうと決めたら頑張ってみようって思って、しばらく学校行かなくなったんだ。あたしは自分がなにをしたいのだろう、って考えることにしたの」
「……そう、だったんだ」
「うん。だからあたしにとって朝美は、なんつーか特別な存在だったんだよ。もしかしたらわたしがこーして、自分の目的を探し始めるきっかけを作ってくれたのは、朝美なんじゃないかってね」
「そんな……」
「だからあたし朝美に会えて嬉しいんだ。予備校で朝美を見つけたときも、びっくりして、しばらく見てたんだよ。で、気づいたら思わず声かけてた。驚かせてゴメンね」
「ううん」
 わたしは……何故かだんだんと、えりかの話を聞くことに奇妙ないらだちを感じはじめていた。
 それが何故なのかははっきりとしなかったが、わたしはしばらくの間ぼんやりと、沸き起こってくるあいまいな否定意識に包まれて、えりかの言葉を受け止められずにいた。
「ね、ところでさぁ」
 コーラのカップが氷だけになった頃、えりかが尋ねてきた。
「朝美は、今カレシいるの?」
「え?」
「彼氏よ、カ・レ・シ」
「い、いないよ。そんなの」
「ふーん、そうなんだ」
「えりかはいるの?」
 きっとそう聞き返してほしかったに違いない。彼女の顔がわずかに紅潮し、その顔には誇らしげな笑顔が浮かんだ。
「へへへー」
「いるんでしょ」
「うん。まあ、まだ恋人とかそんな大層なモンじゃないんだけどね」
「どんな人?」
 わたしには関係がなかったし、また興味もなかったが、そう聞いてあげるのが世間の礼儀というものだろう。
「カッコイイよ。背が高くて、足が長くて、バンドやってんの」
「ふーん」
 背が高くて足が長くてバンドやってることが、そう恰好いいものなのかどうかは知らないが、えりかにとってはきっとそれが自慢なのだろう。
「実はあたしもさ、最近バンドやってんだ」
「へえ」
「その彼とは違うバンドなんだけどね。自分たちでオリジナルの曲作ったり、ほら、あたしピアノやってたから、コードとって譜面にしたりとかサ、いろいろ役立つこともあるんだよ」
 そう話すえりかの顔は、きらきらと輝いていた。
「そうだ、良かったらさぁ、今度見に来てよ」
「う、うん。そうね」
 わたしはいくぶんおざなりに答えた。さっき暗記した黒板の文字を忘れてしまわないかと、わたしにはそれが気掛かりだった。

 結局、家に着いたのは9時を回ったころだった。
「ただいま」
「おかえり。遅かったのね。夕飯は?」
「食べたからいいよ」
 わたしは妙に疲れを感じながら、母にそう言うと、部屋への階段を上った。
「はぁ、疲れたぁ」
 部屋に入り、電気もつけないままカバンを置くと、わたしはベッドにねそべった。
「……」
 天井を見上げながら、さっきのことを思い出す。
 えりかはそれから、いろんなこと……中学を卒業してから色々なバイトをしたことや、知り合いからバンドに入ることを勧められたことや今作っている曲のことなど……を楽しそうに話してくれた。最後のほうは、ひたすら自分のことを話すえりかに、わたしはただあいづちをうつだけだったと思う。それはわたしを、一時間みっちりと、現国の読解にでも付き合わされたような気分にさせた。
 帰り際に、えりかはわたしにノートを貸してくれた。どうせ来週も予備校で会えるのだからと。そうなのだ。学校はなくても、予備校に夏休みなどはない。これからもあの教室、あの講義でえりかと会えるのだと思うと、嬉しさの反面、一人で気楽だったはずの予備校が、そうでないものになってしまったような、がっかりした気持ちが沸いてくる。
 えりかはとてもいい奴だし、ちょっとおしゃべりだけど、しっかりと自分の目的のために頑張っているようだ。なんとなく適当に勉強して、適当な大学へ行こうとしている私よりは、少なくとも立派なのだと思う。
 それでも……だ。そう、不思議なのは、それでも、わたしは何故か彼女の話を聞くこと、それにあいづちをうつことに確かに苦痛を覚えていた。どうしてなのだろう?
 彼女が目的をもって一生懸命やっていることが、羨ましく思えたのだろうか。わたしは、そんなに嫌な奴だったのだろうか。
 彼女が、わたしに会えて嬉しいと言い、昔のわたしの言葉を今でも覚えていたりすることが、わたしにはとても不思議に思えた。
 わたしだって、偶然えりかに会えたことが嬉しくないことはない。しかし、そう……よく考えてみても、中学のころのわたしとえりかは、本当にそれほど親しかったというわけではないのだ。わたしに記憶違いがないとすると、えりかとは中学二年と三年の時におなじクラスだったが、その間、お互いの家に遊びに行ったり、どこかに一緒に出掛けたりしたことは一度もない。なにしろ、わたしは彼女の家が何処にあるかすらも知らないのだ。
 思い出してみても、えりかはクラスではあまり目立たない存在で、わたしとはけっこうよく話をしたけれど、そう友達が多いほうではなかった。もちろん、わたしにしても、このとおりの非社交的な性質上、決して友人が多いとは言えなかったのだが……それでも、わたしには奈津子や、あと何人かのそこそこ仲の良い友達はいた。その中にえりかが含まれていたかどうかは、今考えるとあやふやなのだが、やはり、彼女とは奈津子のようにそういつも一緒にいたという記憶はあまりない。
 えりかが中三の二学期からあまり学校に来なくなっても、どうしたんだろうとちょっと気にはなったが、さほど真剣に心配もしなかった。多分病気か何かなのだろうと。高校受検を控えていたこともあったし、わたしもあのころは今よりずっと自分勝手だったから。まさか、さっきえりかが言ったように、それがわたしの言葉のせいだったとは、そのときは夢にも思わなかったわけだし……
 わたしはひどく奇妙な気分だった。
 はきはきとしっかり物を言うえりかと、それにあいまいな返事を返すわたし。どうも、なにかおかしかった。調子が狂う……とでもいうのか。目を輝かせて自分のことを語るえりかは、たしかに素敵だと思った。それなのに……
 何かが、わたしには納得がいかないのだ。それが何かと聞かれると、はっきりとは答えられないのだが。少なくとも、それはわたしの性格が悪いせいではないような気がするのだが。違うだろうか?
(いけない、いけない……わたしの悪い癖だな)
 わたしはもう、それ以上は考えるのをやめた。えりかはえりかで頑張っている。わたしが勝手に物事をややこしく考えるのは、彼女にはただの迷惑でしかないだろう。
「よしっ、と」
 わたしは起き上がると、とりあえず制服を着替え、それから、えりかに借りたノートに目を通そうとカバンに手を伸ばした。
 そのとき、カバンに入れてあった携帯がブーンと鳴った。マナーモードにしたまますっかり忘れていた。
「もしもし」
「あ、朝美?あたし」
  慣れ親しんだ親友の声だ。わたしはなんだかほっとした。
「ああ、奈津子。もしかして、なんどか電話くれた?」
「うん。もしかしてまだヨビコーにいるのかなって思ったけど、もう帰ったの?」
「うんそう。ごめんごめん。今日はちょっと遅くなっちゃって」
「へえ、朝美でも寄り道することあるんだぁ?」
「うん、そういうんじゃないんだけど……」
 わたしはいったん言葉を濁したが、なんとなく奈津子に話してしまいたくなった。
「実は、今日えりかに会ったんだ。ほら、中学で一緒だった」
「へ?えりかって……、ああ、もしかして藤村さん?」
「うん、そう」
「へぇー、なつかしいねー。あのコ今どうしてんの?」
「うん、それが、なんか高校は行ってないみたいで、今はバイトとかしながら予備校で勉強してるみたい」
「ふーん。えらいんだネー」
「うん。びっくりしたよ。まさか同じ教室にいたなんてさ」
「そういえばあのコって、中3のころはけっこう学校さぼってたからさ、あたしもちょっと心配だったんだー」
「うん、そうだね」
「でも良かったね。そうか、今は頑張ってるんだー」
「うん」
「あたしも今度会いたいなー。ねえ、じゃあ今度、一緒にヨビコーについてっていい?」
「うん、別にいいけど……」
「わーい。じゃ、あたし髪形変えておどろかそっかな。ストレートに髪下ろして、三つ折りの白ソックスで、おしとやかに『おひさしぶりぃ。私、小泉奈津子ですわ』なんつって」
「……」
「やーだ冗談だよ。朝美」
(アンタならやりかねない……)
 私の内心を悟ってか、奈津子はちょっと声のトーンを落とした。
「だってあのコ、なんか冗談とか通じなさそうだもんネ。無口でマジメそうだったし」
「そうね」
 やはり奈津子のイメージするえりかもそんな感じらしい。わたしはそれにほっとしながらも、今のえりかとのギャップに、また違和感を感じるのだった。
「でも、久しぶりだなー。中学の頃の友達の話って。高校に入ってからほとんど会わなくなっちゃったもんね、昔の知り合いと」
「うん。そうだね」
 わたしは何となく、それ以上えりかの話をするのも気乗りしなかったので、それとなく話題を変えた。
「……でさ、奈津子の用はなんだったの?」
「ああー、そうそう!忘れてた」
 電話の向こうで、奈津子が声を高くした。
「これがちょっとオドロキなのよ。明日学校で言おうかなとも思ったんだけど、やっぱり今日電話したほうがいーなーと。なにしろ明日なんだし」
「明日って?」
「アレ?何だ、まだ見てないの朝美?」
「何を?」
「朝美、まだティッシュ持ってる?」
「ティッシュ?」
 いったいなんのことかと、わたしは首をひねった。
「ホラ、駅でもらったでしょ、バンドの人たちに」
「ああ、そういえば」
 そんなことすっかり忘れていた。
「それがどうかしたの?」
「ちゃんと見てみた?」
「ちゃんとって……わたし別にテレクラなんかに興味ないし……」
「ちがうよー。そうじゃなくて、中になんか入ってたかってコト」
「何かって?」
「あのリーダーの人が言ってたじゃない。特別なテイッシュだ、どうだとか」
「そういえば……そんなこと言ってたような」
「とにかく早く見てみてよ」
「わかった。ちょっと待ってて」
 わたしは携帯を手にしたまま、カバンの中を探した。
「えーと、多分奥のほうに突っこんだはずなんだけど……あ、あった」
 カバンから取り出してみると、確かにそれは学校帰りに駅でもらったティッシュだった。同時に、あの妙なバンド連中のことも思い出してくる。
「あったけど……、べつに、ただのティッシュだよこれ」
 わたしは再び携帯から奈津子に話しかけた。
「そんなはずないよ。ちゃんと中見てみなよ」
「中って……」
 奈津子の言う通りに、そのティッシュを破って中を調べてみる。すると、テレクラの広告の紙の下に、なにか別の紙が入っていた。
「あれ……なに、コレ」
「あった?」
「うん、なんか紙が……、あれ、これって……」
 二つに折られていたその紙を広げてみる。
「ライブのチケット?」
「やっぱりー!朝美のにも入ってたんだ」
「何でこんなものが……」
 《ライブハウス“スターレス”特別ご招待券
                    7月20日(土)当日のみ有効》

 チケットにはそう書かれていた。
「し、7月20日って……」
「明日だよ」
「あの……まさか奈津子、あんたこれに行くつもりなの?」
「えー、朝美は行かないの?」
 いかにも意外そうな奈津子の声。
「じょ、冗談じゃないわよ」
 わたしは思わず声を大きくした。
「どうして?せっかくタダでもらったんだモン。行こーよ」
「あ……あのねぇ、もうすぐ夏休みとはいえ明日も学校あるのよ。かりにもわたしたちは受験生なんだし。いきなりチケットもらって次の日に、はいそうですかって、よく知りもしないバンドのライブにいくワケ?あんたは」
「うん」
「……」
 しっかりと即答されて、わたしは言葉を失った。
 さ、さすがに長年わたしとつきあってもめげないだけはある……、奈津子のお気楽さ加減はまぎれもない「本物」だ。
「ねえ、いこーよ朝美ィ。せっかくあの人達がチケット入れてくれたんだしさ、ほら、裏にも書いてあるしさ」
 チケットを裏返してみると、ライブハウスの地図の横には出演バンドの名前がごちゃごちゃと書いてあり、そしてその下には、下手くそな手書き文字でこう書かれていた。
 「カワイイ女の子歓迎……リアン
 わたしは氷の目つきでその字を見つめた。
「リアンって、あの金髪の奴だっけ」
「そう。彼ボーカルだって言ってたよね。カッコいいなァ。早くみたいなァ。歌うまいのかな?あ、ボーカルなんだから当たり前か。ラッキーだよね、朝美。タダでライブ行けるなんて。久しぶりだなぁ、ロックのライブなんか行くの」
「行かない」
 わたしは敢然と言った。
「何着てこーかな。やっぱロック見るんだからハードにキメた方がいいよね。でもあたしレザーのパンツとか持ってないしィ……それとも学校帰りに行くんなら、着替えやすいTシャツにジーンズとかのほうがいいのかなあ」
「行かない」
「……ねぇ、朝美ィ」
「行かないったら、行かない」
 わたしはさらにきっぱりと言った。さすがにもう聞こえないふりはできまい。
「どおしてぇ?」
 電話の向こうで、奈津子が口をとがらせるのが分かった。
「どうしてもよ」
「どおしてぇーっ!行こーよ、行こーよおぉ」
「やーよ、行かないわよわたしは。行くんならあんただけで行けばいいでしょ」
「そんなぁ。だって、ライブハウスって、暗くてタバコ臭くてコワそうなんだもン。あたし一人じゃ……」
「そんなの知らないわよ。だいたい明日は学校があるし」
「明日は土曜だから半日だよ。ライブは夕方だから」
「でも、わたしは予備校が……」
「いつも、土曜日はないって言ってたよね、ヨビコー」
「う……でも、帰ったら授業の復習をしないと……」
「明日は終業式だからホームルームだけだよ」
 こういうことだけは頭の回転が早いのだ、奈津子は。
「……と、とにかく」
「ねー、いこーよー、朝美ィ」
「行かないっ」
「ねーってば、ねーってば、ねーってばぁ!」
「行かない、行かない、行かなーい」
「ヤダヤダ!一緒にいこーよおぉ。お願ぁい」
「えーい、うるさいっ。ぜったいに、行かなーい!」
 わたしは思わず、携帯に向かって大声をあげてしまった。
「朝美!今何時だと思ってるの?静かになさい!」
 一階から母が声を上げる。時計を見ると11時を回っていた。し、しまったなあ。
 わたしは声をおとして携帯に囁いた。
「とにかく、わたしは行かないわよ。絶対……いいわね」



 次の日の夕方、
「この道でいいんだよねぇ、朝美」
「たぶんね」
 私達二人は見知らぬ繁華街の通りを歩いていた。どこへって?ライブハウスへだ。まったく! 
 奈津子のやつは、今日の朝からずっと、通学の電車内から終業式の最中、ホームルームから帰りの道中までずっと、うるさくやかましくかまびすしく、くどくどとライブのことを耳元でしゃべり続けた。さすがのわたしも、とうとう音を上げてしまい、一緒に行くことをしぶしぶ承知させられたというワケである。
「はぁ……」
 わたしが逆らえないのは、実は親でも先生でもなくて、奈津子なのではないかと時々思ってしまう。
「まったく、なんでわたしが……」
 終業式も終わり、いよいよ受験生にとっては勝負の夏休みだというのに。その最初がまさかライブ見物とは……。とても親にはそんなことは言えないので、予備校の夏期授業だなんだとごまかして出てきたのだ。
 横を歩く奈津子の方は、わたしと反対にとてもうきうきしているようだ。
「楽しみだねー」
「そうねー、ははは」
 半ばヤケクソぎみに私も笑った。こうなったらもう笑うしかない。
「その服カッコいいね、朝美」
「そうかな?ヘンじゃない?この格好」
「ぜんぜん!もーナイスな女ロッカーってカンジでイケてるよー」
「そ、そうかな」
 あまり派手に着飾るのも気が引けたので、スリムジーンズに黒のタンクトップという、わりととシンプルな出で立ちにしたが、首元にはシルバーのクロスペンダントをつけて、ロックっぽくしてみた。奈津子の方は、ブルーに白の水玉のミニワンピース、それに素足に厚底サンダルを履いている。足の爪にはピンクのペティキュア。髪はいつものポニーテールではなく、両側でチョコンとしばっておさげにしている。その格好は奈津子にとても似合っていて、とてもかわいらしく見える。
「奈津子もかわいいよ、その服」
「ホント?良かったー。ちょっとロックっぽくないかナ?なんて思ったんだけど」
「そんなことないよ。ロックだからって、この暑いのに革パンとか履いているよりは」
「そうだね。でも朝美ならけっこう似合うかもよ」
「まさか」
 わたしは自分が、スタイルがいいわけでも、すごい美人でもないことをよく知っている。だから、必要以上に自分を着飾ったり、きれいにみせたりすることはしたいとも思わない。
 それは別に、わたしが外見や服装に無頓着である、ということではない。ただ、わたしはそんなに美人でもない自分が、不相応にきれいなものを着るのは似合わないし、そう気分がいいものでもないと思っているだけだ。
 化粧はほとんどしなかった。それはそうだろう。わたしが濃いめの化粧をして、黒づくめの姿で、さらに十字のペンダントを首につけて、ロックのライブに出かけるのだと知ったら……きっと母さんは目を白黒させて呆れ、次にわたしが気が触れたのではないかと心配を始めるに違いない。だから、わたしはなるたけそーっと、親に見られぬように、ハラハラしながら家を出てきたのだった。
「朝美ぃ、こっちこっち」
「はあ……」
 元気いっぱいの奈津子をよそに、わたしはまたため息をついた。
 大通りを少し外れた路地にある、地下への階段……その横の小さな看板に『ライブハウス・スターレス』の文字があった。
「あそこだ!」
 それを見つけた奈津子が指さした。
「早くいこーよ、朝美」
「う、うん」
 階段の前には「いかにも」といった感じの長髪の連中や、めかしこんだ女の子たちがたむろしている。わたしたちがその横を通ると、何人かの女の子たちが値踏みするかのように、こちらをジロジロと眺め、馬鹿にしたようにふんと顔をそむけたた。
(やっぱりくるんじゃなかった)
 わたしはそう考えながら、奈津子に押されるようにして地下へ続く階段を下りた。
 狭い階段の両側の壁には、びっしりとポスターだの宣伝だの、バンドに関する情報などが乱雑に重ねられて貼られ、その隙間にはスプレーやマジックなどで落書きがされている。階段をおりるごとに、私達は何か異様な空間にでも近づいているような、そんな感じを覚えていた。
 受け付けの横のボードには、「本日の出演、モービッド・クラウン、エメラルド・スラッシュ」と、読みづらいロゴのような文字が書かれていた。私たちは、けばけばしく化粧をして髪を逆立てた、受付のおにいさんに昨日もらったチケットを渡した。
「“エメスラ”はもう始まってるよー。そこのドアから入ってね」
 ドリンクの半券とチラシなどを受け取ると、わたしは奈津子を見てうなずきかけた。
 おそるおそる扉のノブに手を掛ける。扉の向こうからは、すでにドラムやギターの音が響いてくる。防音の厚い扉は重くてなかなか動かなかったが、奈津子に手伝ってもらい、ようやく開いた。
 そのとたん、轟音がわたしの耳をつんざいた!
 ギャッギャギャーン!
 ズドドドド!
 ドッドカドカドカ!

 そんな感じの音の塊が、一斉にわたしたちに襲いかかって来た。
(な、なんなの、コレ)
 わたしは、あまりの音のやかましさに反射的に手で耳を塞いだ。後ろで扉がしめられた。人々のひしめく暗い密室で、わたしたちはこの凶悪な音楽を聴かなくてはならなくなったのだった。
 ズガガガガ!
 グジャジャジャ!
 ガシャーン、ドッドカドカ!

(コレ、本当に音楽?)
 あたりは薄暗くてよく見えなかったが、相当な数の客がいるらしく、熱気が物凄い。そして空気も悪かった。
 まわりの人達は、この凄まじい轟音とも騒音ともつかない音楽にも、楽しんでのっているのか、踊っているのか……とにかく押し合いへし合いしながら体を動かしている。
 ステージは見えない。わたしは女子としてはそんなに背がひくい方でもなかったが、わたしの前には高い壁のように人々が重なり合って視界をふさいでいて、背伸びをしようがジャンプをしようが、ステージも、そこに立っているはずのメンバーの姿も見えなかった。ただかろうじて、ライトの向きや音の方向から、ステージのある場所が分かるだけだった。
 少し慣れてきたわたしは、耳から手を離し、その死ぬほど大きい音を何とか聴こうと試みた。だが、どうがんばっても、ギターとベースの音の区別も、ヴォーカルが何を叫んでいるのかも、全く聴き取れなかった。
 今考えると、わたしはその時までこんなに近くでバンドの演奏する生のギターや、ドラムの音を聴いたことはなかったのだ。だから、ベースやバスドラムの低音が体を突き抜けるように響いてきたり、ガリガリとしたギターの音が頭の中まで貫いてくるような感じに、わたしはただただびっくりしていた。
 体が音に揺さぶられるというのか、おなかの中にまでずんずんと振動が伝わってくるような感じ。ドカドカとものすごい速さのドラムと、アンプやスピーカーを通したギターやベースの音が、ごちゃ混ぜになって襲いかかってくる。その上をヴォーカルがやたらと高い声で、喚き、叫び、がなりたてている。
「うるさい」「耳が痛い」「わけがわからない」……わたしが彼らの音を聴いた最初の印象は、まったくそんな感じだった。
 ハードロックだかヘヴィメタルだか知らないが、メロディもへったくれもない、そのリズムとノイズの塊のような楽器音は、どう考えても「音楽」と呼ぶにはうるさすぎ、「曲」というにはわけが分からない。どこがサビなのか、どこが聴きどころなのか、全く分からない。それどころか、今は歌っているのかどうか、これで何曲目なのかどうかすら、わたしには判別できなかった。
(あ……、頭が痛くなってきた……)
 わたしは、鳴り響くギターと打ちつけられるようなドラムの音にめまいを感じながら、ふらふらと後ろを振り返った。
(あれ、奈津子は……?)
 いつの間にか、わたしのすぐ後ろにも人の壁ができていて、もう奈津子の姿は見えなかった。動こうにも、こう人が多くては捜し回ることもできない。周りの人々は、バンドのリズムに合わせて頭を振り、みな思いきり体を揺らしている。
(……)
 そんな光景を前に、わたしは自分はいったいどこに来てしまったのだろうと、半ば呆然としながら考えた。
(人が、多いな……)
(奈津子はどこに、いったんだろう……)
(外出られるのかな……)
(なんか、気分悪いし……)
(それに、暑い……)
 ぼんやりとしている頭の中に、容赦なく轟音が響きわたる。タバコの煙のせいか、空気も悪い。真っ赤なライトがチカチカと狂気的に空間を照らしだす。
 息苦しい。それはきっと空気のせいだけでなく、この密室の空間そのものが、熱気とこの音に支配されているからなのかもしれない。
 わたしはなんだか、頭の中が痺れるような、奇妙な感覚にとらわれはじめていた。
 ものすごいスピードで刻まれるリズム。バスドラムの響きはまるで、自分の心臓の音のようだ。甲高くつんざくギターはひどく暴力的で、ガリガリとわたしの頬を削り取ってゆく。
 わめきちらす、という表現がぴったりのヴォーカル。日本語なのか英語なのかも分からない。いや、もはや「言葉」という観念さえも無意味に感じるその絶叫……それらの音が狂気的に混じり合い、刃物となって、乱暴にわたしを切り刻んでいくようだ。
 だんだんと、わたしは自分が一体どこにいるのかも、なにを聴いているのかも、分からなくなってゆくような気がしはじめていた。いや、むしろ分からなくなるというよりは、どうでもよくなるといった方が正しいのかもしれない。
 どうでもいい。そうだ……今自分がどこにいて、何をしているのかということなど、およそ意味の無いことのように思われる。凶暴なまでの低音は、ハンマーのようにわたしの頭を打ちつづける。
 振り下ろされる刃物のように。爆発と炎のように。そして、我々はその刃に切り捨てられ、爆風に吹き散らされ、ただ呆然として、その強力な流れにのみこまれてゆく。暴力と狂気、死ぬほどうるさい轟音……我々を包み込むのではなく、ただ殴りつけ、吹き飛ばし、踏みにじっていく音の壁。
 息が苦しく、頭が痛かった。
 強力な音の勢いの前に、わたしは自分の身体がこなごなにされてゆくかのような感覚に耐えていた。
 それは圧倒的な破壊……そう、破壊だ。台風のように、ミサイルのように、なにもかもを吹き飛ばし、バラバラにする。わたしの体も、精神も、思考も、すべてがばらばらに砕け散ってゆく。
 ステージの上の演奏する人間の姿が見えない分、わたしにはいっそうその音が、無機的な、冷徹な刃のように感じられた。なんだかわからない強力な力の前に無理やり引き出され、何もかもがはぎ取られてゆくような。恐ろしい勢いで迫ってくる列車の前に立たされているような。吹きすさぶ嵐のなかで身体中に強風を感じるような。
 ふいに、わたしは笑いだしたくなるような思いにとらわれた。
 ギターの物凄い轟音と、打ちつけるハンマーのようなドラム、そして吐き捨てられるような絶叫。
 何といったらいいのだろう。そうだ、あえていうならそれはやけっぱちな楽しさとでもいうのだろうか。
 どしゃぶりの雨にうたれ、身体中がびしょびしょになりながらも、打ちつける雨の激しさがだんだんと気持ち良くなってゆくときのような、あのどうにでもなれという感じ。傘を持っているときには、わずかに体が濡れるだけで不快に思うのだが、全身で雨を浴びてしまえばそんなものは吹き飛んでしまう。そこには中途半端な見栄も分別もない。強い勢いの前にさらされることは、実際には苦痛であっても、その「どうしようもなさ」に対して、我々が出来ることはただ笑うことか泣くことなのだと思う。
 その時のわたしが感じたのは、まさにそういう、ある意味での潔さのともなった感覚だった。
 あいかわらず、ギターは刃のようにわたしを切り付け、バスドラムがわたしのお腹を叩く。しかし、耳をふさぐのを止め、打ちつける雨を体に浴びるように、それらの音に体を預けることは、そう不快ではなくなっていた。自分がいまどこにいて、何をしているのかなどは、もう頭の中にはない。ただあるのは、押し寄せてくる音の渦と、それを体で浴びている自分の存在だけだ。
 メロディも曲も分からないまま、わたしはしだいに音の洪水に呑み込まれていく。
 すごいスピードで刻まれるリズム。人間の叫びのように吠えるギター。音はわたしをうちのめし、わたしの聴覚以外の全ての感覚を奪い去ってしまう。自分が頭を振っているのか、体を揺らせているのかも分からない。わたしを動かしているのは、音であってわたしではない。打ちつける雨は、今やわたしの体だけでなく心までも麻痺させてしまったかのようだ。
 自分でも気づかないうちに、わたしはふらふらと動きだし、人々をかき分けてステージに近づいていた。
「……」
 いったい何がわたしを引き寄せたのかは分からない。わたしは夢遊病者のように、半ば自我を失った人形のように、のろのろと、ただ前へ前へと進んでいった。
 重なり合う人の壁をかきわけてゆくと、不意に強烈なライトの光が目の前でまぶしくきらめいた。そして、今までよりもさらに大きな爆音がわたしを包み込んだ。
 わたしはステージのすぐ前に来ていた。
 巨大なスピーカーが目の前にあった。音を遮る人の壁がなくなり、わたしは直接、その凶器的な轟音を体に受けたのだ。
 あまりの衝撃に頭が痺れ、意識が遠のいてゆく。
 わたしの目に映ったのは、ステージを照らすまばゆいばかりの赤や青のライト。そして……
 そして、長い髪を振り乱し、何かに憑かれたかのようにギターを弾く、その姿。
 わたしは彼を見た。
 激しく頭を振り、肩から黒い凶器のような尖ったギターを下げて、一心不乱に音を吐き出し続ける、その様子は、まるで人の形をした悪魔のようだ。目をギラギラとさせ、長い髪を顔が隠れるほどに振りかざす。
 わたしの目の前に、彼はいた。
 炸裂するギターの轟音。そしてその音の暴力の根源が、わたしのすぐ目の前にある。ステージの一番前に立つ、その姿に、手を伸ばせば届きそうだった。
 わたしの手が、まるで自分の手ではないかのように動いていた。ステージの上からこちらを見下ろす「彼」に、触れんばかりに差し出される。
 そして、彼はわたしを見た。
 ぴたりと私達の目が合った。
 なにかに憑かれたような鋭い目が、一瞬だけわたしに向けられた。
 刺すようなきついまなざし。口元には、悪魔のような微笑み。
 そして、空間を引き裂くギターの咆哮……その豪音の中で、わたしたちは出会ったのだった。
 そこからは、覚えていない。
 そのとき自分が笑っていたのか、泣いていたのかも……
 わたしは気を失ったのだ。
                              


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