続・騎士見習いの恋  2/10 ページ

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「リュシアンぼっちゃまが戻られました!」
 出迎えた炊婦のメアリはすでにもう涙ぐんでいた。
「やあ、ただいま」
 メアリと抱き合ったリュシアンが屋敷の門をくぐると、なつかしい自分の家が一年前となにも変わらずそこにあった。
「一年ぶりかあ。全然変わってないや」
 メアリの声を聞きつけたのだろう、屋敷の扉が開くと、そこに母のクレアが立っていた。
「リュシアン……」
 母のクレアは、以前とかわらず若々しく、そしてまだ十分綺麗だった。
「ただいま帰りました。お母さん」
 リュシアンと同じ赤茶色の髪をきっちりと結い上げた母の顔は、少しだけ痩せたようにも見える。クレアは、一年前の出発のときと同じ、泣きそうな笑顔で両手を広げた。
「リュシアン。立派になって」
 ぎゅっと抱擁されると、リュシアンの方も久しぶりに感じる母のぬくもりに、思わずほっと安堵の息をついた。
「それに、まあ……なんて背も高くなったんでしょう!」
 間近でリュシアンを見つめ、クレアは驚きの声を上げた。
「そりゃあ、育ち盛りだもん」
 そう言って、にっと笑ったリュシアンを、すっかり感心したように見つめるクレアとメアリは、二人とも涙ぐんでいる。
「本当にご立派になられて。あのいたずら小僧のぼっちゃんが……」
「もう、ぼっちゃんはやめてよメアリ。俺ももう十七なんだしさ」
「そう、そうでございますね……本当に、月日の流れは早いもので」
 しみじみと言ったメアリに笑ってみせると、リュシアンはあらためてなつかしい我が家を見上げた。
(ああ……帰ってきたんだ)
 楽しいことや、つらいことや、いろいろとあったが、やはり生まれ育った自分の家には格別なものがある。
「さあ、ともかく入って。今日はごちそうよ。メアリと一緒に、私も久しぶりに料理を手伝ったんだから」
「それは楽しみ。母様の手料理に、それに久しぶりにメアリの胡桃のパイも食べたいな」
「もちろん、それも焼いてありますよ」
「やった」
 久しぶりの家族の再会に、リュシアンも母のクレアも、そしてメアリも、その日は大いに笑い合い、そしてたっぷりと用意された料理をたいらげた。
 母もメアリも、リュシアンから聞かされる遠征先でのみやげ話に、いちいちとても感心してはうなずき合った。二人はリュシアンに関するどんなことでも聞きたがった。とくに、母のクレアにとっては、あの腕白で人一倍やんちゃだった見習い騎士の息子が、今やこうして立派に騎士として、また成長した青年として帰ってきたことが、なにより嬉しくてならぬようで、ときおり涙ぐんでは声をつまらせていた。
「これもみな、レスダー伯夫人やカルード、それに……マリーンさんのおかげね」
 クレアがふと言ったその名前を聞き、リュシアンの頭の中にはいくつかの苦い思い出がよぎったが、今の彼にはそれを心のうちに秘めたまま、人に気づかせずにさり気なくふるまうことができた。
「そうだね」
 そう言っただけで、リュシアンはおだやかな顔をして、メアリのいれてくれたハーブのお茶を一口すすった。そうした様子を見るにつけ、彼がひどく大人びて見えることに、クレアとメアリはまた大いに感心するのだった。二人は、この日ばかりは何もはばかりなく帰ってきたリュシアンの成長を讃え、人々への感謝の言葉を述べつつ、亡き父、ロワール卿へのよい報告ができると言ってはまた喜び、そしてまた涙するのだった。

 そうして、その日はつもる話に時間が過ぎてゆき、夜も遅くなってからようやく、リュシアンはかつて過ごした自分の部屋に久しぶりに入ったのである。
 彼の部屋はそのままだった。といっても、おおかたのいらないものは捨てられ、おそらくメアリの手ですっかりきれいに片づけられてはいたが、寝台の位置も、床の汚れや壁の傷も、一年前と何も変わっていない。
「うわあ……久しぶりだなあ」
 壁際に置かれていた、かつての見習い騎士時代の鎧や木剣に手を触れてみると、それらはひどく小さく感じられた。
 リュシアンは木剣を手に取った。この剣をかついで、毎朝の稽古に出掛け、フィッツウースら友人たちと戦いのまねごとをしたり、悪ふざけをしてはカルードにしかられたものだ。
「なつかしいなあ」
 寝台に腰掛けて部屋を見渡しながら、リュシアンはしばし、昔の思い出をなぞるように思い出し、それらに思いを馳せた。
 ふと、机の上に置かれたままの羽ペンが目に入ると、マリーンへの思いのたけを羊皮紙に綴ったときのことが思い出された。同時にまた、マリーンの婚約のことを聞かされた自分の取り乱しようまでもが、まざまざと脳裏によみがえってきて、思わずリュシアンは苦笑した。
「ああ、あのときは雨が降っていたっけ。そうだ……フィッツウースに馬を借りて、夜通し森の中を走ったんだ」
 それはたった二年前のことであったが、今となってはなんと昔のことのように思えることだろう。若く、未熟だった自分。熱情と恋心に身悶えて、この寝台の上で何度も寝返りをうったあの頃……
 マリーンの結婚に絶望し、自分たちを引き離そうとしたカルードに怒り、そして母にもたくさん心配をさせた。何度となく騎士の稽古をほったらかしにしたこともあった。
「なんだか、ずっと前のことみたいだ」
 不思議な気分でリュシアンは寝台に寝ころがった。そうして天井を見上げながら、かつての少年時代の自分に思いを馳せる。
 そうすると、数々の思い出とともに自分が成長してゆくということ、時の流れの中にいる自分の存在というものを、あらためて見いだす心地がした。
(ああ……マリーン)
 自分にとって特別な人間を示すその名を、心の中でつぶやく。
(マリーン……僕は……)
(帰ってきたよ)
 そのまま、リュシアンは眠りに落ちた。

 翌日になると、リュシアンの帰還を聞きつけた友人たちが、続々と家にやってきた。
 緑の芝生の庭には、テーブルと椅子がいくつも置かれ、朝からメアリが張り切ってこしらえたごちそうが次々に並べられた。
 今日はリュシアンのためのパーティだ。知り合いや友人らが大勢くるだろうと、昨晩からメアリとクレアが用意していてくれだのだ。
「やあ、リュシアン」
「おめでとう!」
「久しぶりだな!」
 見習い騎士時代の友人たちが、次々に訪れ、声をかけてくるのに、リュシアンは笑顔で握手をかわす。中には何年かぶりに再会するものもあり、すっかり大人っぽくなったものもいれば、かつてと全く変わらぬものもいて、リュシアンの中にまたなつかしさがこみあげてくる。
 友人たちの中でもひときわ目立つ、背の高い姿が門から現れると、リュシアンはそちらに歩み寄った。
「おう、久しぶりじゃん!」
 リュシアンの顔を見て顔をほころばせたのは、親友のフィッツウースだった。二人は昔よくやったように互いに手を叩き合わせて、その再会を喜んだ。
「おお、なんかお前、背が伸びたなあ」
 すっかりたくましくなったリュシアンの姿をまじまじと眺めて、フィッツウースは言った。
「もう、身長は俺とあまり変わらないんじゃないか?」
「そうかな」
 少々照れながら、リュシアンは嬉しそうに笑った。昔から、フィッツウースの洒落たセンスの良さやすらりとした背の高さが、彼にはうらやましくてしかたがなかった。自分よりひとつ年上のこの親友は、いつだってリュシアンにとっては一番の相談相手であり、悪さをする仲間であり、そして密かな憧れの対象でもあったのだ。
「それに、なんかこう、一回り大きくなったってのか……顔つきやら物腰がよ。なんかわからんが、立派に騎士らしくなったもんだ」
 感心したように何度もうなずきながら、リュシアンの肩を叩く。そうされてリュシアンはまた照れながら、親友に聞いた。
「お前の方はどうなんだ?」
「あ?俺?」
 昔と変わらぬとぼけた様子で、フィッツウースは肩をすくめた。
「まあ、相変わらずよ。のんびりとしたもんだ」
「じゃあ、まだ正式の騎士になってないのか?」
「ああー。まあなー。なんかこう面倒っていうか、いろいろ……資格試験やらなんやら、申し込むのを忘れたりサ。めんどっ」
 それを聞いて、思わずリュシアンはぷっと吹き出した。
「お前らしいな」
「まあ。そうだな」
 フィッツウースも笑い声を上げた。
「なワケで、俺は今もまだ見習い騎士ってワケよ。隊では最年長のぬし、とか呼ばれたりして」
「へえ。そうか。じゃあまだカルード隊長に怒られたりしてるのか?」
「んー、いや……」
 フィッツウースは曖昧に首を振った。
「隊長は実質もう変わった。ほら前に副隊長だったバラックが、今は我らのおかしらになったってわけよ」
「そうだったのか」
「ああ、カルードの方は、お前が西の大隊に配属された翌年あたりから、いろいろ異動があったみたいで。時々はこっちにも顔を出しに来ていたが、最近はそれもごくたまにって感じで。たいそう忙しいらしい。大変だねえ……ああいう期待されてる若手騎士ってやつは」
 フィッツウースは無責任そうに言いつつ腕を組んだ。そういう真面目ぶった顔つきをすると、自慢の黒髪を後ろで束ね、不精ぎみにあごひげを伸ばした風貌もあいまって、まるでベテラン騎士のように貫祿がある。しかしその中身はまったく変わっていない、愉快でお調子者のあのフィッツウースである。
 長年の親友のその変わらぬ様子に、リュシアンは、安堵のような喜びを感じていた。
「よう、ちょっとこっち来いよ」
 さっと周りを見回したフィッツウースが、リュシアンの耳元で囁いた。

 大貴族の庭園ほどには広くはないが、それなりに木々が植えられ整った庭は、母のクレアとメアリとが交代で手入れをしている。その庭の隅まで行くと、フィッツウースは切り出した。
「ところでお前、あっちの方はどうなんだ?」
「あっちって?」
 首をかしげたリュシアンの背中をどやしつけ、
「馬鹿。決まってるだろう。女だよ、女!」
 フィッツウースはそう言ってにやりと笑った。この手の話題をするときには決まって目を輝かせる、昔と変わらない顔つきが、リュシアンの笑いを誘った。
「なんせ、お前も十七だ。もうガキじゃねえ。立派に騎士になろうって歳だしな。それに見たところ、昔よりも全然いけてるぜ、お前。女から見たら、いい男になったって言われるぜ」
「そうかな……」
 リュシアンは頭を掻いた。
「向こうでも言い寄ってくる女の一人や二人はいるんだろ?どうだ、こいつめ。向こうで女作ったのか?」
「そんなの、いないよ」
「なにいー?嘘だ、この野郎!」
「本当だって……おい、イテッ、よせよ」
 ばんばんと背中を叩かれ、リュシアンはたまらず咳き込んだ。
「女って……それどころじゃなかったよ。向こうの大隊は稽古が厳しくて」
「本当かー?」
「ああ、本当に」
「なんだ、つまんねえ」
 ふんと鼻をならしたフィッツウースは口をへの字にした。
「じゃあ、お前の方はどうなんだよ」
「ああ?俺?ああー……まあなー」
 とたんに彼は冴えない顔つきになり、ぼりぼりと頭を掻いた。
「まあ、そりゃ、たまーには……あったけどよ。それも、どうもダメだね。長続きしねえ」
「そうなのか」 
「んー、なんつーか、前からそうだったんだけどサ。ちょっと可愛い子だな、いい女だな、ってのはいても、一度くっちまうと、すぐ飽きちまう。ありゃ、この程度だったか?って感じでさ」
「贅沢なことを」
 リュシアンは呆れて苦笑したが、フィッツウースの方にはそれは案外深刻な問題であるらしい。ため息をついたその様子はなかなか寂しげな風だった。
「まあ、そりゃ分かってるんだかな。どうもダメなんだ。ひどいのは、アレをしてる途中で冷めちまったりさ」
「なんだそりゃ?」
「ああ、お前にゃ分からんかもな。なにせ、お前ときたら初めての相手が年上で最高の美人だったわけだから」
「……」
「ああ、すまん」
 慌ててフィッツウースはあやまった。
「いや、大丈夫だけど」
「ああ、ならいいが。悪かったな」
 マリーンのことを口に出すのは、彼の方もそれなりに気をつかっているようだった。かつて、彼女とのことで幾度となく相談に乗ってもらっていたわけであるから、フィッツウースほどに二人の馴れ初めから、その後のリュシアンとマリーンのたどった変遷までを心得ている者はいない。
 笑顔を見せたリュシアンに安心したように、彼は自分の話を続けた。
「そんで、ともかくもそんな感じでさ、何人かの女とはいろいろあったが、それも結局はその場かぎりの恋……ってやつ止まりよ」
「ふーん」
「前はそれでも全然よかったんだが、最近はこう……ちっとは寂しいってのか、この俺もひとときの恋愛ってのには、どうもちょっと疲れた感じがする」
「なるほどねえ」
 リュシアンにはそうとしか言えなかった。
 なんといっても、恋愛に関しては自分よりもはるかに経験の多いフィッツウースである。本人は初めての女は十二才で経験し、その後は一度として振られたことはない、とよく豪語していたものである。悩みを話すことはあっても、彼の方からそうした愚痴のような悩みを話されることは、これまでほとんどなかったわけだから、リュシアンには今の彼をどうやってなぐさめてよいか、よく分からなかった。
「まあいいや」
 だがフィッツウースは、あっさりとそう言うと、ペッと唾をはいた。
「しょうもないことで悩んでも、仕方ねえ。そのうちまたいろいろあるだろう。恋ってのは、考えてするもんじゃねえ。そうだろ?」
「あ、ああ」
 こういうさばさばとしたところが、フィッツウースの良いところでもあった。深く思い悩んだり、くよくよと後悔することが、彼ほどに似合わない男もいない。だからこそ、リュシアンも自分の悩みを彼には包み隠さず話せたし、マリーンとのことで力を借りることにも、そんな彼であるからこそためらいなく頼めたのである。
「さって、……んで?」
 気を取り直したように言うと、フィッツウースはきらりと目を光らせた。
「どうなってる?」
「なにが?」
 聞き返すリュシアンに、にやりと笑いかける。
「マリーンのことだよ」
「……」
「結婚して、湖の城にいっちまってから、俺たちはほとんど彼女の顔も見てないし、こっちのレスダー伯夫人の屋敷にも戻ってないみたいだからさ」
「ああ……」
 黙り込んだリュシアンを見て、フィッツウースは真面目な顔になって言った。
「まあ、あまり色々と聞きほじるのもなんだが、お前ら二人のことは俺もけっこう気になってたからさ」
 いいかげんなようでいて、こういう所では案外相手の気持ちを察したり、気をつかうところもあるのが彼らしい。
「俺が聞いたのは、けっこう前にもらったお前からの手紙で、マリーンとのことが旦那のモンフェール伯にバレてた……ってことくらいなんだが。それからはどうなった?まだマリーンとは続いてるのか?」
 リュシアンは首を振った。
「いや……。騎士団の稽古もだいぶ忙しかったし、それから一年くらいは全然会わなかった」
「そうか。まあ、そりゃそうだな。ここに戻ってきたのも久しぶりなんだし。なるほど。じゃあ、しばらく女なしの硬派な生活をしていたわけか。そのおかげで、そうして立派な騎士殿になられた、ってワケだな」
「まあな」
 リュシアンは相棒を見て笑った。
「お前も、そうやって清く正しく稽古に励んだらどうだ?そうすれば、もう少し剣の方も強くなるだろ」
「ああー、そうかもな!……でもダメだ。今年の剣技大会も二回戦どまりだったし。俺には剣の才能がまるでない」
 がっくりと肩を落としてみせるフィッツウース。思い出したようにリュシアンはくすりと笑った。
「そういえば、剣技大会で、相手の剣をよけた拍子に試合場から落ちたこともあったな」
「ああ、古き良き思い出よ」
 フィッツウースも、それを思い出したのか苦笑を浮かべた。
「あの時は、カルードは怒るべきか同情するべきか複雑な顔をしていたっけ」
「なつかしいな」
「ああ……」
 二人は木の幹に背をつけて昔の出来事を思い返しながら、しばらくそれぞれの感慨にふけった。
「昨日……」
 リュシアンはぽつりと言った。
「マリーンに会ってきたんだ」
「そうか」
「うん」
 リュシアンは、久しぶりに会ったマリーンのことを話して聞かせた。その嬉しそうな顔につられるように、フィッツウースの方もやわらかな笑みを顔に覗かせる。
「……なるほどな。お熱いこって。じゃあ、まだお前はマリーンさんのことが好きなんだな」
「まだ……っていうか、ずっと、さ。そりゃあ、一時はあきらめかけたけどさ。マリーンの結婚を聞いたときは。でも……やっぱりダメだ。他の女じゃだめなんだ。マリーンでないと……」
 そう言ったリュシアンの横顔には、何かを超えたものが持つような、ある種の強さがかいまみえた。
「そっか。なら……仕方ねえな」
 フィッツウースはふっと笑うと、彼にしては珍しい言い方で肩をすくめた。リュシアンに向けられた彼の目には、友人への変わらぬ親愛のまなざしとともに、なにか羨ましいものを見るような、どことない寂しさのようなものもあるように見えた。
「……さって。そろそろ、戻った方がいいみたいだぞ。なんたって、主役のお前がこんな端っこにいたんじゃ、せっかくのパーティも盛り上がらないからな。行こうぜ」
「うん」
 芝生の上に並べられたテーブルの周りにいた友人たちが、戻ってきたリュシアンの姿を見るや声をかけてきた。
「よう、リュシアン。久しぶり」
「おう、リガルド。それにコッツも」
 かつての見習い騎士時代の仲間たちだ。
「すっかりでかくなりやがってこの」
「そう言うお前は、すっかり太ったなあ」
「うるせっ」
 乾杯のグラスの音と笑い声が響く。
「よう、聞いたか。この前のバラック隊長の話」
「ああ、例の……パーティでの泥酔事件」
「そんなことがあったのか」
「あったあった。ありゃあ、聞いたら笑えるぞ」
「おう、リュシアン。こっちは相変わらず楽しくやってるぜ。お前の方の話も聞かせろよ」
「ああ。色々あるよ。そうだな……まずは」
 リュシアンは友人たちに囲まれながら、メアリが運んでくる料理を頬張り、また仲間と談笑し合った。久しぶりに過ごす楽しいひとときに、彼は時間を忘れ、しばしの間、あの頃のやんちゃな少年の笑顔を取り戻していた。

 パーティもたけなわとなった頃だった。門の外に一台の馬車がとまった。
 最初にそれに気づいたのはフィッツウースだった。彼は微妙な表情で立ち上がり、それをリュシアンに知らせに近づいた。
「おい、リュシ……」
 フィッツウースが言いおえる前に、門の方から別の声が上がった。
「リュシアン!」
 振り返ったリュシアンの見る前で、小走りにこちらに駆けてくる女性の姿があった。
 はじめ、リュシアンにはそれが誰であったのか分からなかった。
 女性が手にした日傘をたたむと、その蜂蜜色の金髪があらわになった。白いモスリンのドレスに、腰には青地に金糸の折り込まれたサッシュ。流行のシュミーズドレスは、足元が透けるほどに薄い生地で、大人っぽい女性を象徴するファッションである。その姿は、まさに貴族社会の貴婦人といったいでたちであった。
 優雅な足取りで歩み寄ってきた、その娘の顔を見て、リュシアンはようやくそれが誰かに気づき、しばらく驚きに目を見開いていた。
「……」
 フィッツウースには最初からそれが誰かが分かっていたようだった。彼は苦笑ぎみに、ぽんとリュシアンの肩を叩いた。
「久しぶり」
「君は……」
 リュシアンの前に来た娘は、膝を引いて優雅に貴婦人の礼をして見せた。
「コステル……かい?」
「ごきげんよう。そしてお久しぶりね。リュシアン」
 そう言って、彼女……コステルはにっこりと微笑んだ。
「や、やあ。久しぶりだね。コステル」
 リュシアンの声はやや震えていた。二人の事情を知るものであれば、それも無理はないと思ったであろうが。
 コステルの顔に向けられたリュシアンの目は、やや不自然にそらされたが、まるで吸いよせられるように、また彼女の笑顔に視線がゆくのだった。
 リュシアンの内心の狼狽をよそに、周りの仲間たちは、美しいコステルの登場に歓声を上げた。彼らは一斉に彼女の周りを取り囲むと、こぞって我先にと挨拶をしはじめた。次々に貴婦人への挨拶と、手の甲に口づけを受けながら、彼女は慣れた様子で一人一人の少年たちに軽く微笑みかけてゆく。
 その様子をやや離れた所から見つめながら、リュシアンはぽかんと口を開いたまま突っ立っていた。横ではフィッツウースが「やれやれ」というように肩をすくめている。
「あの子……あんなに綺麗だったか?」
 思わず、リュシアンの口からつぶやきがもれる。それも無理はなかった。
 久しぶりに見た彼女の変わりようというのは、大変なものだったからだ。
 その肌が透けるような薄い生地のドレスをまとった姿や、くるくると両側で巻かれた、美しい金髪を引き立たせる手の込んだ髪形もそうであったが、それ以上に、その彼女の顔と、そして表情には、この二年の間に、いったいなにがあったというのだろう、と思わせるくらいのものがあった。
 一部の隙もないように化粧のほどこされた顔は、まったく大人の貴婦人のそれで、眉の形や唇の紅の塗り方ひとつをとっても、細心の注意がなされたというような、それは完璧な美しさであった。その顔にはもう、かつての無邪気な少女めいた面影はなかった。かすかに色香を含んだ目つきや、艶然とした口もとの笑みには、成熟した女性のみがつくり出せるものが備わっていた。
 目の前にいるコステルは、二年前の彼女からは程遠い、リュシアンが抱いていたイメージとはかけ離れた姿をしていた。それは、ありていに言うと、少女から大人の女へと変貌を遂げた、そんな姿であった。
「リュシアン……あらためておかえりなさい」
 ひととおり、少年たちとの挨拶を済ませた彼女がリュシアンのそばに来た。
「本当にしばらくぶりね。とても会いたかったわ」
「あ、ああ……」
 それ以上、なんと言えばいいのか分からなかった。かつてのコステルとは、ひとかたならぬ関係にあり、彼女とマリーンとの間で揺れ動いた自分。そして、最後には彼女を振り捨てるようにしてマリーンを選んだことは、かすかな罪悪感となって、今もリュシアンの胸の内に残っていた。
 再会したコステルのあまりの変わりようが、あるいは自分のせいでもあるのでは……という考えも、リュシアンの中で一瞬だけ浮かんだ。だが、それは自意識過剰というものだろうか。彼はそう、内心で必死に首を振った。
「どうしたの?リュシアン」
「あ、ああ……いや、なんでも」
 思わずまた視線をそらしたリュシアンに、コステルは悲しそうな顔をした。
「もしかして……私が来てはまずかったかしら?」
 ほっそりとした白いうなじを襟元から覗かせ、彼女が首をかしげる。周りの少年たちからは、まるでため息にも似た感嘆の声が上がった。そうした反応を見るにつけ、彼ら少年騎士たちにとって、今や彼女というのは大変な憧れの存在であるらしかった。
 リュシアンは慌てて首を振った。
「いや。そんなことはないよ。僕も……久しぶりに会えて嬉しい」
 そう言って、リュシアンは笑顔で手を差し出した。
「ありがとう。私もとても嬉しいわ。リュシアン」
 その手を握りしめて、コステルはにっこりと微笑んだ。その笑顔は、かつての陽光のような可愛らしさよりは、優美で艶めいた貴婦人のものだった。

 パーティに華やかな女性が加わったことで、少年たちはまた大いに盛り上がった。
 その後は、メアリが腕を振るった料理の数々、そして自慢の胡桃のパイなどを皆で楽しみ、リュシアンはまた友人たちと大いに語り、笑い合い、ときに思い出話にひたった。とりわけリュシアンの口からは、かつての隊長だったカルードに叱られたエピソードが、思い出しても思い出しても限りないほどに出てきて、大いに仲間たちを笑わせた。
 リュシアンとは少し離れた所に座ったコステルは、両隣の少年騎士からひっきりなしに話しかけられたり、飲み物を渡されたりと、ちやほやされていた。彼女はそれににこやかに応対していたが、ときおりリュシアンと目が合うと、うっすらとした微笑みを浮かべて、意味ありげに首をかしげる仕種をして見せた。
 慌てて目をそらすリュシアンに、彼女はくすりと笑いをもらすのだが、そのいかにも貴婦人らしい婉然とした微笑に、周りの他の少年たちは、うっとりと惹き寄せられるのだった。
 それを見ながらリュシアンの横ではらはらしていたのは、フィッツウースだった。
 二人のいきさつや間柄を良く知る彼は、シャンパンのグラスに口をつけながら、ときおりリュシアンとコステルを交互にちらちらと見ては、自分の役割はいったいなにをすべきなのかとでも考えているふうだった。

 やがて、パーティもたけなわを迎えて、皆大いに飲み、食べ、笑い合って、すっかり良い気分になったころ。
 相当シャンパンに酔ったのか、赤い顔をして立ちあがった一人の少年がいた。
「よう、リュシアン。そういえばお前、カルードの姉さんに惚れていたんだってな?」
 彼は皆を見回して、わざわざ聞こえるような大声で言った。
「マリーンさんだったか。どこかの伯爵さんと結婚しちまって、お前もたいそう落ち込んだみたいだって、聞いたが」
「おい、よせレナス」
 立ち上がったフィッツウースが止めようとしたが、リュシアンは横から「大丈夫」というふうに首を振った。
「ああ。そんなこともあったな」
 リュシアンは笑って言った。
「あの頃は俺も子供だったよ。カルードには怒られてばっかりで。姉君のマリーンさんには家庭教師もしてもらって、お世話になったからね」
 努めて冷静な顔で、リュシアンは言った。それを聞いて思い出したように、少年騎士の誰かがつぶやく。
「マリーンさんか、綺麗だったなあ」
 彼らの騎士隊長だったカルードの美しい姉君のことは、少年たちの間でも有名であった。かつての剣技大会や、そこで負傷したリュシアンの復帰パーティの席などで、マリーンの姿を初めて見た少年騎士たちの中には、彼女に密かに憧れる者も多かった。この年頃の少年たちにとって、マリーンは艶やかに美しく、優しく、魅力にあふれて見える年上の女性であった。だから、彼女がリュシアンの家庭教師であったときなどは、仲間たちはたいそう羨ましがったものである。
「マリーンさんが結婚して、がっかりしたのは、別にリュシアンだけじゃないさ。俺だって……じつは密かに彼女を狙っていたのに」
 フィッツウースはそう言ってため息をついた。それを周りの仲間がどやしつける。
「この野郎。お前なんかにマリーンさんを渡すかよ!」
「そうだ、そうだ」
 少年たちからどっと笑い声が上がるのを見て、リュシアンはほっとした。
 マリーンと自分の関係を深く知るのは、親友のフィッツウースだけである。七歳も年上で、しかも隊長であったカルードの姉君との恋愛など、世間的にも許されるものではない。そして、彼女が伯爵夫人となった今でも、この秘密の恋愛が続いているということは、決して誰にも知られてはならないのだ。
 リュシアンが「助かった」と目で礼を言うと、フィッツウースもにやっと笑ってうなずいた。
「なんだよ、お前ら。マリーンさんはもう伯爵夫人なんだからな」
 つい調子に乗ったフィッツウースは、余計なことを口にした。
「じゃあ、いいや……その代わり、ここにいる、コステルを俺がもらっちゃおうかな」
「ええっ?」
 名前を呼ばれたコステルは、驚いたようにきょとんとした。だが彼女は、それからすっと金髪をかきあげると、なまめいた笑顔をその顔に浮かべた。
「あら、私でいいの?」
「ああ、もちろん……」
 とたんに少年たちからは不平の声が上がる。その場のノリで答えたフィッツウースだったが、さすがにまずかったかと、ちらりと横のリュシアンを見た。
「……あの、いやコステル……」
「あなたは格好いいものね。フィッツウース」
 コステルはくすりと笑った。
「背も高いし、いつもお洒落だし。そうそう、私のお友達のトルーデも、ソランよりもずっとあなたの方が素敵だって言ってたわ」
「そ、そりゃどうも」
 やや困った顔でフィッツウースは頭を掻いた。
「でも……ダメよ」
 コステルは微笑んだまま言った。
「だって……」
 周りの少年騎士たちが、一斉に彼女の言葉に注目する。
 その中で、彼女は告げた。
「私が好きなのは、リュシアンだもの」


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