続・騎士見習いの恋  3/10 ページ

V    


 翌日、リュシアンは一人、プルヌスの並木道を歩いていた。
 かつてマリーンを乗せて馬車を走らせたこの道……そして、はじめて彼女に触れた思い出の場所でもあるこの道を、彼は久しぶりに歩いていた。
 春を迎え、通りの両側に並ぶプルヌスの木々は、新緑を若々しく繁らせ、ちらほらと薄桃色の花をつけはじめている。満開になるのはもう少し先だろうが、リュシアンの目には、舞い落ちる花びらの中をマリーンとともに駆け抜けた、あの時の風と花の匂いが、まざまざとよみがえるようだった。
「たった二、三年前のことなのに……、なんだかもうずっと昔のことのようだな」
 馬車の手綱をとりながら、隣に座るマリーンをちらりと見ては胸をどきどきとさせていた、あの頃の自分……
 震える手でマリーンを抱きしめ、思いを告白した、十五才の少年……なにも恐れを知らず、熱情に突き動かされて恋をしていた。あの頃の自分……
 プルヌスの木々の梢の間からのぞく青い空を見上げながら、リュシアンはその向こうの、さらにその遠くを見るまなざしで目をそばめた。
 一人前の騎士として、少しずつ認められはじめている今の自分を、数年前は想像できただろうか。もうすぐ十八歳になろうとしている自分……ずっと背も伸びて、それなりの落ち着きと分別もそなわった。かつて心配ばかりさせていた母親からは、とても立派になったと喜ばれ、己の行動に責任を持つことも覚えた。そんな今の自分を。
(ああ……時は流れるのだな)
 並木道を歩きながら、彼はまるで魔法かなにかで突然に自分が歳をとってしまい、途方に暮れているような、そんな奇妙な気分を感じていた。
 少しずつ花を付けはじめているプルヌスの木々を、不思議な感慨と、思い出の中に誘われることへのかすかな抵抗とともに、彼はしばらくの間、ぼんやりと見上げていた。

 通りをしばらくゆくと、やがて見覚えのある屋敷が見えてきた。
 広々とした庭園の向こうにたたずむ、その三階建ての建物は、そこが年月を重ねた由緒ある貴族の住まいであることを示すような、見事な屋敷だった。
 広大な庭園と、立派な馬車門をそなえたその屋敷は、リュシアンにとってはあまりにもなつかしい場所だった。かつてと変わらない、緑の木々がおい繁る庭園に目をやる。あの思い出のプラタナスの大木は、まだそのままあるだろうか。そう考えながら、リュシアンは屋敷の門をくぐった。
 ほんの数カ月の間だったが、自分はここに住んでいたのだ。母親とカルードに説得され、いやいやながらこの屋敷で修行をすることになった十五の春……ここであの美しいマリーンと初めて出会ったのだ。
 リュシアンは屋敷を見上げながら、その頃の事を思い返していた。
 レスダー伯爵夫人のもと、厳しい礼儀作法を仕込まれ、早起きして庭師の仕事をこなす日々。あの頃も、こうしてよく庭先から屋敷を見上げては、マリーンの部屋の窓を見つめていたものだった。
(ああ……あの窓からマリーンが顔を出して手を振ってくれるだけで、飛び上がるほど嬉しかったっけ)
 そんなことを思いながら、リュシアンは屋敷の扉を叩いた。
 扉が開くのを待つ間にも、マリーンと初めて会ったときの場面や、彼女の部屋に忍んで行った夜のことなどが細かに思い出されて、リュシアンは胸がいっぱいだった。
 だが、なかなか扉は開かなかった。
「留守なのかな……」
 再び何度か強めに扉を叩いてみる。
 なんとなくだが、以前よりも邸内は静まり返っているような印象だった。そういえば、庭園に庭師の姿は見えなかったし、外から見上げた屋敷の窓もどこも固く閉ざされていた。
(カルードももうここには住んでいないらしいし……マリーンもいなくなって、夫人は一人で寂しいだろうな)
 初めてここに来たときは、レスダー伯夫人のあまりのきつい印象に恐れをなしてげんなりとしたものだった。それからのここでの日々は、食事どきすらも気の抜けない礼儀作法の時間であり、夫人の厳しさはときにリュシアンをへこたれさせたものであった。
 今ではもう、どれもがなつかしい思い出であるが、その頃は毎日がはらはらどきどきの、苦労と緊張と、そしてマリーンへの恋心とのせめぎ合いだったような気がする。
(こうして落ち着いて昔のことを思えるなんて、僕も大人になったってことか)
 リュシアンがそんなふうに思い出にふけっていると、ようやく中から人の気配がして扉が開いた。
「まあ、リュシアンさん」
 出てきたのは、顔なじみの屋敷の侍女頭、ミルダだった。
「やあ」
「まあまあ、しばらくですね」
 白髪の増えた侍女は、驚き顔でリュシアンを上から下まで眺めた。ここに住み込み始めた当初は、早起きがつらくて、いつも彼女に無理やりたたき起こされたものだ。
「まあまあ、すっかり立派におなりになって。さあさあ、どうぞお入りになってくださいな」
「ああ、ありがとう」
 屋敷の中は、相変わらず綺麗に掃除がゆきとどいていた。これも伯爵夫人のきっちりとした性格と、この侍女のミルダの勤勉さによるものだろう。ただ、さっと屋敷内を見回すと、やはりかつてよりもがらんとした印象で、この侍女の他に人の気配はなかった。
「ええ。そうなんです。今ではね、侍女たちもみなやめてしまって……残っているのは私と、執事のカストロだけですよ。あとは最近やとった炊婦が一人いるだけで」
「そうなんだ。それで夫人はお元気?」
「ええ……それが」
 ミルダは言葉を濁した。それがリュシアンには気になったが、案内されて階段を上る間.彼が考えていたのは別のことだった。
(ああ……そうだ、ちょうどこのあたりだったっけ)
 まさにこの場所……この階段の途中で、自分はマリーンと初めて出会ったのだ。
(ここだ。ここで僕は振り返り、そして、階段の上にマリーンが立っていたんだ……)
 あれは、この屋敷に来てすぐのこと。カルードへの反発心もあって、屋敷から逃げ出そうと階段を駆け降りたそのとき……この階段で偶然彼女に出会い、それから……なにもかもが変わった。
(ああ……)
 激しく、切なく、そして歓喜に満ちた恋……。自分はそれからの日々を、その熱情の輝きとともに頑張ることができたのだ。
(そして、また僕は帰ってきた……)
(この思い出の屋敷に)
 つき抜けるような感慨に、リュシアンは背筋を震わせた。
 時の流れと人の運命の変転……その大いなる不思議に、彼は新たな感動を覚えながら、階段の手すりに手を乗せた。
「こちらですよ」
 案内されて二階まで上がると、侍女が指さした。たしか夫人の部屋は三階だったはずであるが。そうリュシアンが尋ねると、
「ええ、奥様はもう三階に上がるのはつらいからと、今は二階の空き部屋をご自分のお部屋にされたんです」
 どうやら、夫人の体調は思ったよりよくないらしい。
「このお部屋です。少々お待ちを」
 廊下の南側の部屋の前で侍女は立ち止まり、扉をノックした。すると、中から「お入り」という静かな声が聞こえた。
「奥様。リュシアンさまです。リュシアンさまがいらっしゃいました」
 扉を開けた侍女が告げる。ミルダにうながされて、リュシアンは部屋に入った。
 ここは寝室も兼ねているのだろう、寝台の他にはテーブルがひとつあるだけの質素な部屋だったが、それよりも、リュシアンが驚いたのは、そこにいた夫人の変わりようだった。
「まあ、リュシアン。久しぶりだこと」
 そう言って、寝台の上に座ったまま彼を出迎えた夫人の顔は、すっかり痩せてしまっていた。結い上げた髪にはずいぶんと白いものが増え、リュシアンに向けて差し出された手は、まるで枯れ木のように細かった。
「お久しぶりです。レスダー伯夫人」
 そう挨拶をしながらも、リュシアンはややショックを受け、またしても時間の流れというものに思いを馳せずにはいられなかった。かつてきりりとした顔でリュシアンを睨み付けた迫力は、夫人の顔からすっかり消え、そこにあるのはただ、老婦人のような穏やかさだった。
「さあ、奥様。こちらへ」
 ミルダの手を借りて、夫人はようやく立ち上がると、リュシアンと向かい合う椅子に腰を下ろした。
「最近は、腰の方も悪くしてね。こうしないと動くのも大変なのよ」
「あまりご無理をなされませんよう。僕の方はおかまいなく」
 心配そうに言ったリュシアンに、夫人は笑いかけた。
「まあ、リュシアン。あなたもそんなふうに大人らしく気をつかえるようになったのね」
「恐れ入ります」
「でもそうね……あれから二年もたったのですから。あなたももう、立派な大人の仲間入りをする年頃でしょう。騎士としてのお稽古は順調なのかしら?」
「ええ。おかげさまで」
 答えながらも、リュシアンは夫人のすっかり痩せてしまった顔を見るにつけ、以前の厳しかった面影とのギャップに、なんともいえない気持ちになるのだった。
「ああ、でもなつかしいわ。こうしてあなたがこの屋敷に帰ってくると、まるであの頃に戻ったような気分になる。マリーンが嫁いで行ってから、この家もすっかり寂しくなってしまった。カルードの方も最近はいろいろと忙しく動き回っているみたいで、ここにはなかなか帰ってこないのよ」
 おそらく夫人にとっては、侍女と執事以外の久しぶりの話し相手だったのだろう。はじめのうちはやや疲れたような顔をしていた夫人だったが、リュシアンを前にしていると昔のいろいろな思い出がよぎるのか、ミルダの運んできたハーブのお茶を飲みながら、あれこれと楽しそうに話しだした。
「それにしても、すっかり立派におなりになって。背も伸びて、なんだかとても大人っぽくなったようね」
「ありがとうございます」
「そういう言い方も、とても紳士に見えるわ。昔のあなたは、それはもう活発で、いたずらで……私も何度となく怒ったり、叱ったりしたものだけど。本当に立派になって……さぞお母様もお喜びでしょう」
 いくぶん目を潤ませるような夫人にうなずきかけ、リュシアンは言った。
「それも、このお屋敷での生活があってこそだと思っています。ここでの仕事や、夫人のご指導のおかげで、僕は人としても成長できたのです」
「そう言ってもらえると、本当に嬉しいわ。リュシアン。正直、最初にカルードがあなたを連れてきたときは、このやんちゃで乱暴な少年をいったいどうすればいいものかと、考えあぐねていたこともあったのだけど」
「そうだったんですか」
 リュシアンは、思わずくすりと笑いをもらした。
「じつは……僕のほうも最初に夫人とお会いしたとき、あまりに厳しそうなご様子に、たまらず逃げ出したくなったものですよ」
「まあ……」
 夫人は呆れたような顔をし、それから笑いだした。
「まあ、そうだったの。やっぱり。そういえば、はじめのうちは夕食どきになると、いつもあなたはふてくされたような顔をして、ナイフを手から滑り落としていたものね」
「ええ。最初のうちは、それはもうマナーやらなにやらがつらくてつらくて。料理の味もほとんど分かりませんでした」
「まあ」
 夫人は笑いだした。そばにいたミルダもつられたように笑顔を浮かべる。
「ああ、おかしい。こんなに笑ったのは久しぶりだわ」
「大丈夫でございますか?奥様」
「平気よ。それに、今日はなんだかとても気分がいいわ」
 夫人は侍女にうなずきかけ、それからリュシアンに向き直ると、その手をとった。
「今日は来てくれてありがとう、リュシアン。あなたの立派になった姿を見て、私も元気が出てきましたよ」
「そんな……こちらこそ、夫人には大変よくしていただきましたから。ああ、もちろんカルード隊長や、それにマリーンさんにも……、それは色々とお世話をかけて」
「……」
 夫人はリュシアンの顔をじっと見つめた。
 リュシアンは一瞬どきりとした。マリーンとの関係をカルードに知られていたことに、リュシアンはとても後ろめたいような思いをしていたし、カルードが自分たちを引き離そうとマリーンを結婚へと追いやったのだということに、今でもリュシアンは憤りを感じていた。 
 一方で、そのカルードの母である伯爵夫人も、そのことについて知っていたのだろうかという部分では、いまひとつ判然としない。意味ありげに自分を見つめる夫人の様子に、リュシアンは密かに胸をどきつかせた。
「ミルダ。ちょっと外に出ていてちょうだい」
「はい、奥様」
 命じられて侍女が下がってゆくと、室内はリュシアンと夫人の二人だけになった。
 しばらく黙っていた夫人は、ひとつ息をはくと、またリュシアンの顔を見つめた。
「マリーンのことだけど」
「……」
「あの子には幸せになって欲しいわ。年齢的には少し遅くなったけど、婚礼もあげて、晴れて伯爵夫人になった。今はきっと、幸せにしていることでしょう」
 夫人の言葉を耳にしながら、リュシアンは胸がうずくような気持ちだった。
 かつての自分とマリーンとの密かな関係について、夫人はカルードから聞かされていたのだろうか。そして、マリーンの結婚後も、二人の関係が……世間的には許されざる関係が、密かに続いていたことを……
「リュシアン」
 名前を呼ばれ、リュシアンは思わず背筋を凍りつかせた。
「は、はい」
 顔をひきつらせるリュシアンだったが、夫人が口にしたのは、まったく別のことだった。
「ですからね。もしこれからあの娘に会っても、私の体調がおもわしくないとか、帰ってきて欲しいと私が思っているなどということは、どうか言わないでちょうだい」
「ああ……。ええ……でも」
 かすかな安堵とともに、うなずいたリュシアンだったが、
「カルードから、すべてを聞いたわけではないけれど……」
 夫人は、ややためらいがちに言った。その目は少年をとがめるふうでもなく、ただ静かに願っているかのようだった。
「あなたが、あの子に思いを寄せていたことは……私も知っています」
「……」
 リュシアンは黙ったまま、夫人の顔を見た。
「それに、あの子も家庭教師として、あなたを教えることにとても喜びを感じていた。はたから見ていても、あなたたちはとても楽しそうで、生き生きとしていたわね」
 おそらく、そう言った夫人は、リュシアンとマリーンの関係がもっと深いもので、そして、今でもまだそれぞれの思いが、心の中でくすぶり、燃え続けているということは知りもしないのかもしれない。
「穏やかで優しい子だけど、あの子はやっぱり私に似て、とても頑固なところがあるわ」
 リュシアンを見る夫人の顔には、なにかを感じてはいるらしい気がかりな様子と、娘を思う母としての表情が同居していた。
「もし、またマリーンに会うことがあったら、私のことは心配するなとあなたの口から言っておってちょうだい。そして……」
 夫人はいったん言葉をきり、
「伯爵の妻として、どう生きればいいかと、あなたなりの答えを見つけなさい、と」
 そう言って、穏やかに微笑んだ。
 その言葉は、遠く離れた娘へのものであると同時に、目の前にいる自分にも向けられたもののように、リュシアンには感じられた。

 「また来ます」と夫人に別れを言い、リュシアンは屋敷を出た。彼は帰り際、あの思い出の場所に立ち寄った。
「ああ……やっぱり、あの頃のままだ」
 庭園から奥まった木立の中にある、ひときわ大きなプラタナスの大木……
 かつて、この場所でマリーンとの逢瀬を重ねた……ときに熱い口づけを交わし、ときに別れの言葉を告げられた……さまざまの思い出がつまったその木の前に、リュシアンは立っていた。
 木を見上げると、新緑を繁らせた豊かな枝が頭上でさわさわと揺れ、まるでリュシアンに「おかえり」とでも言っているかのようだ。太い幹に手を触れてみると、思い出すのはマリーンの婚礼の後、ふらりとここにやってきたときのこと。
(……)
 マリーンを失った悲しみに、半ば脱け殻のようになっていたとき、リュシアンはこの木の前でぼんやりと時間を過ごしながら、なにげなく幹を見つめていた。そして、なにを思ったか、木のうろに手を入れてみると、そこにあの鍵を見つけたのだ。
(そうだ。そうしてまた僕たちは……)
 密かにマリーンがそこに隠したという、その鍵を使って、彼は湖畔の城に忍び入り、妻となったマリーンとの関係がまた、密やかに始まったのだった。
 リュシアンは、なつかしむようにその大きなうろに手を入れてみた。もちろん、今はそこにはなにもありはしなかったが、こうすると今でも、あの時に指の先に当たった鍵の感触と、驚き、にわかに沸き起こる希望とに体を震わせたことが、彼の中でまざまざと蘇るかのようだった。
「マリーン……」
 自然と口をついて、その名がつぶやかれた。この木の前で、これまでも何度となくこの名を呼んだことだろう。ときには涙を堪えながら、ときには心の中につぶやきながら、熱くその思いをたぎらせて……
(マリーン……会いたいよ)
 思い出の場所がそうさせるのか、沸き起こる思いにリュシアンは目を閉じた。それは昔のように、どうしようもない熱情に突き動かされるような衝動的な気持ちではなかったが、体と心にしみ込んだものがゆるやかににじみ出てくるような、そんな深く自然な感情であった。
 リュシアンはしばらくの間、その木の前にたたずみ、じっと目を閉じていた。

 プラタナスの木に別れを告げて、屋敷の門を出たときだった。
 なんとなく、そんな予感があったのかもしれない。門を出てすぐに背後から名前を呼ばれたときも、彼は驚きもせず振り向いた。
 そこにコステルが立っていた。
「リュシアン」
「やあ」
 リュシアンは小さく笑顔を作ってうなずきかけた。内心の困惑を顔に出さないくらいには、彼はもう大人であった。
 コステルはもじもじと手を組み合わせた。その様子は、昨日のパーティでの彼女とはまた違った雰囲気だった。
 春らしい薄い生地の緑の胴着姿で、蜂蜜色の髪をくるくると巻いて両肩にたらした姿は、とても可愛らしい。だが、先日の再会で見たとおり、彼女もまた、二年前よりはずいぶんと大人びて、時の流れを感じさせるだけの変化をその身にまとっていた。可愛らしさ中にも、うっすらと微笑んだ口許には、艶めいた女性としての色香を漂わせている。
「ちょっと、いいかしら」
 近くに止められている馬車は、彼女が乗ってきたものだろう。リュシアンの家よりもずっと格式がある家だけあって、綺麗に磨き上げられた黒塗りの二頭立ての馬車は、ひと目見て大貴族だと分かる立派なものだった。
「ああ……」
 リュシアンはうなずいた。ただし、馬車に誘われたら断ろうと、そう思いながら。
 二人は人通りの少ない通りを、並んで歩きだした。
「……」
 ちらりと横を見ると、彼女は可愛らしい微笑みを浮かべて、さっきからリュシアンを見つめている。
「ねえ、どうしてずっと黙っているの?」
「ああ……いや」
 首をかしげて尋ねるコステルに、なんといってよいものかと、リュシアンは口ごもった。
 かつては、この少女のことを好もしくも思い、マリーンとの間が冷えかけたときは、そのまま付き合ってゆこうかとも考えたほどである。しかし、思い悩んだすえに、やはり自分にはマリーンしかいないと気づき、彼は半ば振り捨てるようにしてコステルのもとから去ったのだ。
 それゆえ、リュシアンの中には今も少なからず、コステルに対しての罪悪感のようなものがあった。もちろん、だからといって、いまさら許してほしいとか、かつてのような仲のいい友達に戻りたい、などという都合のよいことは考えてもいなかったが。
 つまり、リュシアンからすれば、決して嫌いになった相手ではないだけに、それは複雑な思いだったのだ。
「なんだかその……」
 コステルの横顔をちらりと見ながら、リュシアンはおずおずと言った。
「君は、だいぶ変わったね」
「あら、そうかしら」
 コステルは立ち止まり、くるりとリュシアンの前に立った。可愛らしく首をかたむけると、蜂蜜色の金髪が肩に流れ落ちる。
「どんなふうに?」
「ああ……いや、その……」
 正面から見つめられ、リュシアンはもじもじと頭を掻いた。そういうところは、もともとが口達者でない彼の、昔と変わらぬ部分であった。
「なんというか……その、ずいぶん大人っぽくなったな、って」
「それはそうでしょう。だってあれから二年もたったんだもの」
 くすりと笑ってコステルは言った。
「でも、あなたの方こそ、ずいぶん変わったわ」
「そうかな……」
「うん。なんたか背も伸びたし、男らしくなったっていうのかな。すごく逞しくなったみたい」
 女性にそう言われれば、まんざらでもない気分になるのは男としては仕方がない。リュシアンは彼女に初めて笑顔を見せた。
「ありがとう。自分もなんだかやっと一人前になってきた気がするんだ。もうすぐ騎士見習いを卒業できそうだしね」
「よかったわね。また会えて嬉しいわ。なんだか、ほら、あの時は……ちゃんとお話もできないまま、あなたは行ってしまったから」
「ああ……」
 裸の彼女を寝台に残したまま、まるで逃げるように去ってしまった、あのときのことが、まざまざと思い出される。
「ごめんよ」
 リュシアンは素直にあやまった。
「ううん。いいの」
 彼女の方も、そのことを思い返していたのだろうか。かすかにうつむきながら頬を染め、コステルは小さく笑った。そうすると、昔と同じような、無邪気で朗らかな少女の顔になる。
 リュシアンはかすかに胸をどきつかせた。
「ねえ、リュシアン……」
 コステルが囁くように言った。
「もう、私のことは嫌いになっちゃった?」
「……」
 ついさっきまで考えていた、毅然とした態度で彼女に接するというリュシアンの思いは、積み上げた小石の城のようにゆるやかに崩れかけていた。
「いや……そんなことはないよ。君は、前と変わらず可愛いし」
「本当?嬉しい」
 そっと、彼女が体を寄せてくる。
「……」
 やわらかな感触とかすかな香水の香り……リュシアンは、己のなかの男がむくむくと、どうしようもなく、鎌首をもたげてくるのを感じた。
「馬車に、来て……」
 コステルがいざなう。
 振り返ると、後ろからはさっきの馬車が追いついてきていた。おそらく彼女がそう命じておいたのだろう、馬車は二人の横に来て静かに止まった。
「さあ、乗って」
「ああ……」
 腕をからめとられるようにして誘われ、リュシアンは馬車に乗った。
「ねえ……」
 座席に着くなり、コステルはぴったりと寄り添ってきた。
 胸元にのぞく白い肌、頬をくすぐる髪と吐息に、彼の中の欲望がゆっくりと渦巻きはじめる。
「リュシアンは、私のことまだ好き?」
「あ……」
 リュシアンがなんというべきかと考えるその間に、コステルが体ごとおおいかぶさってきた。
「私は、好きよ。ううん……ずっと好きだった」
 花のように甘い香りと、若い女性のやわらかな肉体の感触に、理性では抗えない興奮がつのってゆく。
「……」
「ねえ。好きって言って。少しでもいいから……私をまだ嫌いでないって、好きって言って」
 甘い声が耳元でねだる。
「あ、ああ……」
 くらくらとなる頭の奥で、かすかな警鐘が鳴っていた。
(ああ……だめだ)
(でも……)
 それはしだいに遠くなり……
 自分の内に本能的な欲望が広がってゆくのを、リュシアンはもはや抑えきれなかった。
「ああ……好き、だよ」
 そう言ったとたんに、ぎゅっと抱きしめられた。柔らかな女の体の感触が、彼を包み込む。
 密かな微笑みが、コステルの口許に浮かんだ。
                    
 荒い息づかいと、喘ぎ声とが部屋に響いていた。
「ああ……いいっ」
 のけぞる白い体に、むさぼるように覆いかぶさるもうひとつの体。
 乱れた金髪が寝台の上に広がる。
「もっと、もっとぉ……」
 背中に回された手が、ぐっと強く、彼を引き寄せる。赤く広がった唇からは、ときに喜悦の声が上がり、ときにせつなそうな喘ぎがもれ聞こえた。
「はあっ……あっ、ああっ、すごい……」
 あごをそらして喘いだコステルの顔は、すでに少女のものとは思えない、肉欲の悦びに浸りきる女の表情だった。
「もっと、もっとしてっ」
 その艶めいた声に、リュシアンはいっそう腰を打ちつけてゆく。
「んっ、あっ……あああっ」
 快感をにじませた声が、彼女の口から上がる度に、彼の中では女を抱くときの征服欲を感じる男の本能が、いっそう大きくなる。
「好きよ……リュシアン、ああ、好きぃ!」
 両足を腰に組み付くようにして、コステルがしがみついてくる。それを見下ろしながら、リュシアンはただ腰を打ちつける。
 肉体のぶつかり合う響きが、二人の荒い息づかいに合わさり、それぞれの快感を高め合ってゆく。
「ああっ、もうっ……私っ」
 絶頂にびくんと体を震わせるコステルの体を組み敷くようにして、リュシアンもその瞬間を迎えた。
「うっ、俺も……」
「きてっ、リュシアンッ!」
 彼女の体の奥深くで、膨らみきった快感が解き放たれる。
「あああっ」
「あっ、いくっ!」
 二人は同時に叫びを上げ、体をのけぞらせた。
 痙攣するようにがくがくと体を震わすコステルの体の上に、リュシアンは倒れ込むように覆いかぶさった。
 荒い息をつきながら、二人は寝台の上に汗ばんだ体を重ねていた。それは、かつての早春の初々しい行為とは異なる、成熟した男と女の肉体の交わりであった。
「……あのさ」
「いいのよ、なにも言わなくて」
 寝台で上体を起こしたリュシアンに、彼女はくすりと笑いかけた。
「ほんの少しでも、まだリュシアンが私のことを好きでいてくれたんだから。それだけで……いいの」
 頬を染めてそう言った彼女は、とてもいじらしく、そして可愛らしくリュシアンには見えた。
「コステル……」
 だが、肉欲を満たした彼の心からはもう、さっきまでの高ぶりは消えていた。性愛の焔が一瞬で過ぎ去ると、彼にとってはこれが過ちであることは明白だった。
「……」
 リュシアンの中にあるのはただ、ここにはいないマリーンへのつのる思いと、いっそう大きくなったコステルへの後ろめたさ、そして後悔の気持ちだけだった。
「俺、もう行かないと……」
 いつまでもコステルの顔を見ているのはつらいだけだった。熱情の走り去ったときの現実的なせわしなさに急かされるように、リュシアンはいそいそと服を身につけると立ち上がった。
 そんな彼を寝台の上から裸で見つめるコステルの表情には、満足げな女の顔つきとともに、肉体に追いつかない彼女の心を表すような、少女めいた痛々しさがあった。むろん、リュシアンにはそれを読み取るすべもなかったが。
「またね。リュシアン」
「ああ……」
 寝台から手を振るコステルに軽くうなずきかけ、リュシアンは部屋を出た。
 後ろ手に扉を閉める瞬間、彼にはかすかにくすくすという少女の笑い声が聞こえたような気がした。
「……」
 リュシアンは歯を食いしばり、廊下を駆けだした。
 コステルの住む屋敷は広く、長い廊下では何度か屋敷の侍女とすれ違った。リュシアンの姿を見て侍女が振り返る度に、いたたまれない後ろめたさが彼を襲った。
 屋敷の門を出るまで、リュシアンは走りつづけた。
(くそ……)
 まるで熱病に浮かされていたように、彼女にのしかかっていったさっきの自分が、ひどく憎らしかった。
 今自分が抱いたのは、はたしてコステルという少女だったのか、それともただの……一人の女だったのか。
 それさえも、今のリュシアンには分からなかった。 
 本当に愛しているのは、マリーンだけであることは、とっくに分かっていたはずなのに。
(俺は……また)
 後悔と自分への腹立たしさに、彼は唇を噛みしめた。
 いっときの欲望に負けたのは確かであった。だが、それと同時に、コステルのことを一瞬でもいとおしく思った、そんな自分がいたのもまた本当だった。
 あのコステルの目……
 男を惑わすような、媚びたような、女のまなざし。
 その息づかいも、悩ましい喘ぎ声も、リュシアンをたまらなく興奮させ、そして感じさせた。心では否定しても、そのときの感触を思い出すだけで、またしても体の奥からじわりとこみ上げてくるものがあるのだ。
「くそっ」
 屋敷の門を走り抜けて、リュシアンは道端で立ち止まった。
「くそっ……くそっ」
 苦しそうな顔で、彼は首を振った。
 何度も、何度も。まるで、なにかを振り払うかのように。



 それからの数日間を、リュシアンは自分の家でのんびりと過ごした。
 炊婦のメアリは腕をふるって素晴らしい御馳走を作ってくれ、久しぶりに味わうなつかしい料理の数々に、リュシアンは大いに舌鼓を打った。母のクレアも、数日間は官庁の仕事の休みをもらい、リュシアンと二人して馬車で川辺に出掛けたりするなど、すっかり大人らしくなった息子との、母子水入らずの時間を楽しむ様子だった。
 当のリュシアンの方は、先日のコステルとのこともあり、頭の中にはなにかもやもやとしたものがあったのだが、久しぶりの我が家でのくつろいだ時間はよほど気が休まった。持ち前の前向きさと、なるようになれという若さゆえの気楽さもあってか、数日の休暇をそれなりに楽しく過ごすことができた。
 そうして、あっと言う間に休日は終わり、名残おしむ母とメアリを残し、また配属先の宿舎へ帰る日が来た。
 「くれぐれも体に気を付けて、また手紙を書くように」と、涙ぐむ母の背を元気づけるように抱いてやり、メアリの作ってくれた弁当を手にして、リュシアンは馬にまたがった。
「今度は、夏の休暇に戻ってくるよ。なに、ほんのもうすぐさ。去年は入隊したてで休みどころではなかったけどね」
 のんびりと過ごしたこの数日で、すっかり英気を養ったリュシアンは、騎士らしい精悍な顔つきで、馬上から二人にうなずきかけた。
「くれぐれも病気はしないでね。しっかり食べて休んで。そして、周りの方々にも迷惑をかけないように」
「分かってるよ。母さま。僕はもう、子供じゃないよ。騎士なんだ」
 それでも心配顔の母に、安心させるように馬上で笑いかける。
「それじゃあまた、夏に」
「元気でね」
 リュシアンを乗せた馬が歩きだす。手を取り合って見送るクレアとメアリに、リュシアンは馬上から手を振った。

 貴族たちの住む区域を分ける市壁を抜け、リュシアンの馬は街道を東へ進んでゆく。
 暖かな春の風が、馬上の彼をやさしく吹きつける。街道の両側に広がる、新緑の美しい野原を眺めながら手綱をとるのは、なかなか気持ちがいい。馬上の旅には今はとてもいい季節である。
 リュシアンの配属先は、馬で約二日ほどのところにある城砦都市であった。この一年の間に、何度か行き来をしているので、もうこうした馬での旅も慣れたものだ。
(行きがけにまた、マリーンのところに寄っていこう)
 そんなことを考えながら、リュシアンが馬を歩ませていると、しばらく先の道の前方に、一台の馬車が止められているのが見えた。
(こんなところで、なにをしているんだろう?)
 不自然な感じで道端に止められた馬車を、リュシアンは不審に思ったが、見たところ事故やなにかではないようだ。
(ただの休憩かな)
 それ以上の興味は持たず、リュシアンの馬が近づいてゆき、馬車の横を通りすぎようとしたとき、
「ん?」
 馬車の方から、かすかに女の声が聞こえた気がした。
 リュシアンは馬上からそちらに目をやった。カーテンの閉められていない馬車窓から、中の座席がかいま見えた。
 リュシアンは眉を寄せた。そこに重なり合った男女の体が、淫らにうごめいていた。
(こんなところで……)
 馬車の中でそんな行為をするなど、ろくな奴らではない。かつての自分のことなどは棚に上げて、リュシアンは思った。
 すぐに顔をそむけようとしたが、次に彼はふと眉をひそめ、また視線を戻した。
(あれは……)
 蜂蜜色をした金色の髪が、馬車窓から覗いたのだ。
(コステル?)
 リュシアンは心の中でその名を叫んでいた。
(まさか……)
 馬をとめて確かめようかと、一瞬考えたが、リュシアンはそうしなかった。手綱をぎゅっとつかむと、彼は馬の足を速めさせた。
 後方に馬車が小さくなってゆく。
(……)
 馬を歩ませながら、リュシアンは奇妙な不快感を覚えていた。
 ほんの一瞬だったが、馬車の中で絡み合う男女の姿が、リュシアンの目にはっきりと焼きついていた。それが、本当にコステルであったのかどうかは定かではない。
 それに、もしそうだとしても、それがなんだというのだろう。彼女は自分の恋人でもなんでもないのだし、コステルが誰と何をしようと、もはや自分には関係がないことである。
(そうさ……)
 だが、それでもリュシアンの心の中には、かすかな違和感というか、もやもやとした気持ち悪さのようなものが残った。
(あれは、やっぱりコステルだった……)
 何故だか、そんな確信めいたものがあった。
 くるくるとした蜂蜜色の金髪……ほんの数日前に自分が抱いたときと同じような、悦楽に身を浸した甘いせつなげな声……
(……)
 なんとも言えない、嫌なもの……どろどろとしたとても不快な感情が、自分の中で沸き起こってくる。
(くそ。どうでもいいことだ……。俺にはもう、どうでも……)
 何度も、自分自身にそう言い聞かせながら、リュシアンはそれを忘れようと努めた。だが、手綱を握る手には自然と余計な力がこもるばかりだった。
「くそ……」
 晴れ渡った空も、心地よいはずの風も、街道ぞいに続く美しい緑の森の景色も、彼の心を爽やかにしてはくれなかった。

 その日の夕刻に湖畔の城に到着したリュシアンは、マリーンと再会した。
 リュシアンは、レスダー伯夫人と久しぶりに会ったことや、夫人からことづけられた言葉をマリーンに伝えると、すぐにまた馬に飛び乗った。今晩は泊まっていってはと引き止めるマリーンに、馬上でリュシアンは首を振った。
 早くマリーンに会いたいと、心の中ではずっと思っていたはずだったが、いざ彼女を前にすると、何故だかひどく心苦しい気分が沸き起こった。それは当然、コステルとのこともあっただろうし、もうひとつは、マリーンの夫であるモンフェール伯の体調があまり良くないということに、気をつかってのことでもあった。
 見送るマリーンを馬上からちらりと振り返ると、彼は口を引き結び強く馬の腹を蹴った。
 夜の街道を馬を走らせながら、リュシアンは思っていた。次の夜明けが来れば……、そうすれば……きっとまた、晴々とした気分で剣が振れるはずだと。
 手綱をとりながら、彼はそう、自らに言い聞かせた。
 
 そうして、また騎士としての稽古の日々が始まった。
 リュシアンが配属された騎士隊は、東の第一大隊と呼ばれ、約百名ほどの騎士からなる国内でも屈指の騎士隊である。そこには若手の見習い騎士から、実戦経験のあるベテランの騎士まで、国中から集まった実力のある連中が集まっている。
 かつてリュシアンが所属していた中隊は、その半数が見習い騎士の少年たちであったのだが、ここではそうした見習いの数はそう多くなく、十名ほどいる若い少年騎士たちにしても、リュシアンをはじめとして、そろそろ正式な騎士となろうとしている者ばかりである。
 この大隊をまとめる隊長は、国民にも人気の名騎士、ライカルスである。剣の実力では若手の騎士ではナンバーワンとも呼ばれる戦士で、国を挙げて行われる剣技大会でも二年連続で優勝するほどの腕前だ。年齢的には三十になるならずというくらいだが、立派な髭をたくわえたその風貌には非常な貫祿もあり、物腰には落ちついた穏やかさがある。
 配属後すぐにリュシアンは、この飾らない性格の隊長に好感を覚え、以来、すすんで剣の指導を仰いでいる。かつての彼の隊長であったカルードも相当の腕前であったが、このライカルス隊長の剣さばきは、まったくリュシアンを惚れ惚れとさせるものだった。
 リュシアン自身も、この何年かで剣の方はかなり上達したことを実感していて、実際にこの新しい隊に入ってからも、少年騎士の中では一番の実力だと、皆に認められるようになるのにそう時間は要さなかったのだが、それでも、彼にはまだまだ満足がいかなかった。すでに正規の騎士たちと遜色のないくらいの技術は身につけていたが、この隊の騎士たちは皆、誰もかれも素晴らしい剣の腕前をもっていて、毎日の稽古の度に、「もっと頑張らなくては」「もっと強くならなくては」と思わされるのである。
 彼は再び、かつてのように熱心に剣に取り組みだし、騎士としての誇りを胸に、日々の稽古に励むのだった。

 そして、リュシアンにとって当面の目標だった、七月の剣技大会がやってきた。
 去年は入隊した直後ということもあり、出場選手には選ばれなかったのだが、今年になってから隊の中でもめきめきとその実力を伸ばしてきた彼は、今回は見習い騎士の部の代表としてはもちろん、その他に、一般の騎士の部にも参加することになっていた。
 また、この大会は正式の騎士としての資格審査も兼ねており、ここである程度の成績を修めれば、問題なく騎士叙任式を迎えられるのが慣例であった。なので、正式な騎士を目指す見習いたちにとっては、この剣技大会はとても大切な行事なのだった。
 国王をはじめ、多くの貴族たちが列席する中、人々の歓声と拍手に包まれて、いよいよ剣技大会が幕を開けた。
 各隊を代表する騎士たちが、それぞれに見事な試合を見せてゆく中で、見習い騎士の部では、リュシアンの強さは際立っていた。
 軽い鎧と木剣で行われる見習い騎士の部には、十四歳から十八歳までの少年騎士たちが参加していたが、その中の誰一人として、リュシアンの鎧兜に剣を当てられる者はいなかった。
 この一年間で、さらに実力を身につけたリュシアンの剣さばきは、かつてカルードがその才能を見抜いたように、その動きの速さと正確な攻撃で、対戦した相手の誰もが舌を巻くほどのものだった。どの試合でも、彼はほとんど数合の打ち合いで相手の剣をたたき落とし、次々に勝ち名乗りを上げていった。
 そして、ついにリュシアンは、見習い騎士の部で圧倒的な力で優勝を果たした。だが、まだ彼は喜びを爆発させることはしなかった。すぐに、次の正騎士の部の試合がはじまるからだ。
 見習いの部とは違い、正騎士の部においては、本物のプレートメイルを身につけ、試合用の剣とはいえちゃんとした鋼鉄の剣での戦いになる。まともにくらえば、大怪我をしたり、ときには命にもかかわる真剣勝負である。
 ずしりと重い鎧を着込んだリュシアンは、かすかな緊張とともに、剣をとり試合場に上がった。
 彼の一回戦の相手は、なんと、かつてリュシアンが所属していた東第二中隊の副隊長であったバラックであった。フィッツウースに聞いたところによると、現在ではカルードの後をうけて隊長となったということだ。
 かつての先輩騎士を目前にして、リュシアンはぐっと表情を引き締めた。
 試合開始のらっぱが吹き鳴らされた。
 戦いはほとんど互角だった。思ったとおりやはり相手は手ごわく、リュシアンの繰り出す攻撃をやすやすとすべて剣で受け止めた。さらに、初めて体験する鉄の鎧を着ての試合では、時間がたつにつれて鎧による暑さと重さで、じわじわと疲労が襲ってくる。
(くそ……負けてたまるか)
 技術と経験ではやや相手が上だが、若さにまかせた攻撃の勢いでは自分に分が有るはずだ。リュシアンはそう考えた。それに、昔からバラックはどちらかというと防御が得意な騎士であったのを、彼はしっかり覚えていた。
 試合は一進一退が続き、膠着しかけるかに見えた。だが、リュシアンは密かにタイミングを図っていた。
(ここだ)
 相手にも疲れが見えはじめたと見るや、リュシアンは攻撃をやめ、いったん後退するそぶりを見せた。
 それを見た相手が、ここぞとばかりに大きな動きで剣を振り上げた。その瞬間、リュシアンは剣を両手に中段に構え直し、矢継ぎ早の攻撃を左右から繰り出した。
 虚をつかれた相手が、一瞬バランスを崩したところへ、すかさず渾身の打ち込みをはなつ。これは、かつて隊長のカルードから教わった技である。
 不意をつかれた攻撃で、鎧に剣を受けたバラックが転倒すると、客席からは割れんばかりの大歓声が上がった。
 勝利のらっぱが鳴り響いた。
(勝った……)
 勝者として自分の名が告げられると、リュシアンは、信じられないといった顔で周りを見回した。客席からの拍手、それに周りにいた騎士たちからも、自分を称える声と拍手が上がっていた。
 自分が一人前の騎士としてやってゆけるのだという確信、そして、初めての勝利の感動に包まれ、リュシアンは立っていた。
(勝った……)
(僕は騎士として勝ったんだ)
 この記念すべき勝利を、できることならカルードやマリーンにも見せたかった。今回の剣技大会にカルードが参加していないのは分かっていたし、もちろん結婚して伯爵夫人となったマリーンが、かつてのように気軽に自分を応援しに来ることはできないとも分かっていたが。
(勝ったよ。カルード、母さま……)
 それでも、こみ上げてくる喜びは、彼の体を震わせるに十分だった。
 兜をはずした彼は、空を見上げてその名を心で呼んだ。
(勝ったよ……マリーン)
 かつて彼女が願った、一人前の騎士として、自分は一歩を踏み出したのだ。
 誇らかに、リュシアンは空に拳を突き上げた。
 それは、彼が本物の騎士となった瞬間でもあった。
 リュシアンは次の二回戦で惜しくも敗れはしたが、今の彼にはそれで充分だった
 見習い騎士の少年が、正規の騎士たちにまじって堂々と戦い、そして勝利を収めたのだ。それはまったく快挙といってよかった。
 現隊長のライカルスも、リュシアンの勝利をまるで自分のことのようにたいそう喜んでくれた。結局、今年の剣技大会で激しい戦いを制して優勝を飾ったのは、三年連続でそのライカルスであった。表彰式で最高の騎士の横に並ぶことを許された少年……見習い騎士の部での優勝者は、その栄誉以上の大きなひとつの勝利に、誇らかな笑顔を輝かせていた。
 その夜、勝利の報告を手紙に書き綴ったリュシアンは、それを母とマリーン宛に送った。本人の手で、なかなか大げさに書かれた戦いと勝利の描写には、母のクレアもマリーンも、きっと楽しげに笑いながら羊皮紙を広げることだろう。そして、騎士としての確かな成長をとげた彼を、それぞれに祝福してくれるはずだ。
 翌日から、リュシアンはまた稽古で剣を振りはじめた。
 騎士としての階段を着実に登ってゆく彼を、ゆるやかに移り変わる季節も見守っていてくれる。
 そうして
 また夏が来た。
 リュシアンにとっては、さまざまな意味で忘れられなくなるだろう、
 その夏が。


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