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水晶剣伝説 [ ロサリート草原戦(後編)


[

 草原で行われる戦いの一方で、トレミリアの首都フェスーンは、白い横顔のソキアが見下ろす、静かな夜の気配に包まれていた。
 貴族たちの住まう宮廷の敷地内は、戦時中ということもあって、派手派手しい舞踏会や晩餐会は軒並み自粛され、それでも日中はささやかなサロンが催されはしたろうが、日が沈む夜になると、辺りはひっそりと静まり返り、かつては着飾った貴婦人たちを乗せた馬車が競うように行き交っていた石畳の通りには、いまは人影などはほとんどない。丘を上った王城の周囲には、普段よりも多くの夜番の兵士が配備され、華やかな貴族たちの住まうこの一帯においても、戦時中の張りつめたような緊張感が、雅びやかな宮廷の気配を駆逐していた。
 すでに多くの人々が、国を追われたウェルドスラーブ王がその王妃とともに、フェスーンの王城に滞在していることを知っていたし、その悲劇に見舞われた友国の王をなぐさめるべく、城に贈り物などを届ける貴族も多くいた。なので、それらの出入りする人間や物を随時チェックする人員が必要とされ、見張りや深夜番などの数はずいぶんと増えていたろう。城内に出入りする馬車の数も、貴族の他にも、ジャリアとの戦いについての今後の見通しを話し合う会議や、救援や補給活動などの実務に備える廷臣たちの出入りも含めて、平時よりもむしろ多くなっていた。
 さすがに、日が沈んで数刻もたったいまごろになれば、王城の門は固く閉められ、出入りするのは翌朝までは不可能となる。城内に住まうものたち……国王やその家族はもちろん、賓客も含めて、女官や従者、料理人や職人たちも、その多くが眠りにつき、まだ起きているのは警護の騎士か、寝ずの職務につく真面目な廷臣くらいであったろう。
 その静まり返った城内にも、見張りの塔には深夜番の騎士が立ち、城壁の上にはときおり松明を手にした見回りが歩いてゆく。城内の中心部は、さらに二つ目の城壁で仕切られ、内郭と呼ばれるその区画には、王族の住まう天守と、廷臣のなかでも重鎮というべき貴族が滞在する塔や別館がある。そこはまさにフェスーンにおける中枢であった。
 その内郭へと続く城壁の上を、一人の騎士が歩いていた。
 正規の鎧をまとった騎士姿は、見張り番であるのだろう。とくに不審な様子もなく、確かな足取りで城壁上を進んでゆく。
 だが、その騎士の後を付ける不審な人影には、まだ誰も気付いていなかった。前をゆく騎士に気付かれぬためだろう、距離をとりながら、ときおり狭間胸壁の影に身を縮め、それからまたネコのように素早く動いて、後をつけてゆく。明らかになにかの目算がある様子であった。
 前をゆく騎士は、後を付ける存在には気付かぬまま、悠然と城壁の端まで歩いてゆくと、内郭へと続く塔の壁の前で立ち止まった。そのまま、またこちらに戻ってくるのかと思いきや、ひと呼吸ほど間を置いてから、騎士は奇妙な行動を始めた。
 いきなり身につけてた鎧兜を脱ぎ始めたのだ。かと思うと、それらを次々に城壁の外へと投げ捨ててゆく。気でも狂ったというように。そうして身軽になると、男は城壁の端までゆき、いきなりそこから飛び下りた。
 あっと言う間の出来事であった。
 後をつける人影が、暗がりからさっと立ち上がり、そちらへ走り寄った。
「……なるほど、」
 月明かりに照らされて、ほっそりとした白い顔が浮かび上がる。軽く金髪をかき上げ、つぶやくのは、アレンであった。
「こんなところに歩廊があったのか」
 城壁の端から下を覗き込むと、建設途中であるらしい木製の歩廊が続いていた。ここからなら飛び下りられない高さではない。
 これはいくさに備えての城壁補強のための歩廊なのだろう。歩廊はまだ造りかけで、途中で途切れ、そこから地上にまで梯子が降りている。こんなところから内郭への侵入が可能であることなどは、何度も城内を歩き回らなければ分からない。
 ややあって、城壁の反対側からがやがやしと騒がしい気配が起こった。さきほど男が放り投げた鎧兜の音を聞きつけた、見張りの騎士たちが集まってきたらしい。これが、城壁の外側に注意を引きつけておこうという狙いだとすると、なかなか狡猾なやり方である。
「ふむ。面白くなってきたぞ」
 にわかに騒がしくなった夜警の声を背にして、アレンは、さっきの男と同じようにそこから飛び下りた。
 足音を立てぬよう歩廊の上を歩いてゆくと、前をゆく男は、すでに梯子から地上に降り立っていた。男の向かう方向を静かに見定めると、アレンも梯子を降りた。
 フェスーン城の内郭には、国王家族の住まう天守の城と、東西に二つの塔がある。それを囲む城壁の塔には、近衛兵や国王に仕える騎士たちが寝泊まりし、城を警護している。侵入者が外からここまで辿り着くには、まず宮廷区域を取り囲む城壁を超え、王城のある丘を上る前の検問を超え、丘を上って王城の城門をくぐり、さらに内郭を守る壁を超えなくてはならない。しかも、夜になれば、そのすべての城門は固く閉ざされ、内部へ侵入するのはまず不可能であるはずだった。
 だが、侵入者はやすやすとここに降り立ち、堂々と王城の中心部を歩き回っている。いや、それがただの侵入者などではないことは分かっていた。だからこそ、アレンは男に近づき、今日がその日だと知り、あえて王城の騎士宿舎に留まると、彼を見張り、その動きをずっと注意をしていたのだ。 
 男の目的が想像通りだとすると、王のいる天守か、あめいは西の塔のどちらかへゆくはずだと、そうアレンは睨んでいた。だが、天守の警護はいたって厳しい。近衛兵の深夜番が城の中にも外にも配備され、不審者を見つければそれが誰であろうと捕らえ、尋問する権限を与えられている。
「だとすると……やはり西の塔か」
 西の塔は、天守に比べれば警護の騎士の数は少なく、どちらかというと賓客を迎えることを主目的とした建物である。そこにいま重要な客人が滞在していることは、宮廷のなかでも、ごく限られた人間でなくては知らないことであった。
 アレンは足早に西の塔に近づいて、入り口のある石段の上を見上げた。天守ほど厳重ではないが、入り口には松明が炊かれ、見張り番の騎士がいるのが見える。
 さっきの男の姿はどこにも見えなかった。すでにも見張りの入り口を突破し、塔の中に入ったのか。それとも……
「……」
 少し考えてから、アレンはぐるりと塔の周りを回ってみた。
 すると、塔の裏手の壁に、なにかが張りついているのが見えた。植え込みの影に隠れながら静かに近づくと、それはさっきの男に間違いなかった。
 男は両手に鍵爪のような道具を付け、いままさに塔の壁をよじ登ろうとするところであった。鍵爪の先を石と石の間に巧みにつき入れて、そのまま壁を器用にするすると上ってゆく。男はアレンの見る前で、二階の窓まで達すると、そこから塔の中へと消えた。
 アレンは急ぎ、ふところから短剣を取り出すと、塔の入り口へ向かった。
「何者だ」
 見張りの騎士が誰何の声を上げる。
 アレンは短剣を手にかざしたまま、石段を上がってゆく。
「私だ。アレイエン」
「これは……アレイエンさま」
 騎士は怪訝な顔をしたが、アレン゛その目の前に短剣をかざすと、緊張を解いたようにうなずいた。その顔つきがいくぶん眠たそうになっている。
「こちらに、コルヴィーノ王陛下はおられるかな。なに、私はすでに宰相オライア閣下より、そのことを聞かされているのだ」
「はい、はい……コルヴィーノ陛下は、おられ、ます」
 たどたどしい口調で騎士が答える。その目は半開きになり、起きているのか眠っているのかも曖昧な顔つきだ。
「深夜であるが、私は陛下に緊急の用があり、こうして参ったしだい。ここを通していただけような?」
「それは……」
 アレンは、短剣の宝石を目の前にかざして、騎士をじっと強く見つめた。
「も、もちろん、お通し、いたします」
「ありがとう。それで、コルヴィーノ陛下は、どの階においでか?」
「それは、その、」
 騎士はもぐもぐと口ごもったが、アレンの碧眼に見つめられると、抗ってはならぬ命令を受けたように、その口を割った。
「さ、三階に……おられます」
「ありがとう。では君は、しばらくここで眠るといい」
 アレンは、そう命じると、騎士の横をすり抜けた。短剣をしまいながら振り返ると、騎士は壁にもたれてさっそく眠りだしていた。
「さて……」
 素早く塔内に滑り込むと、アレンは階段を上がった。
 西の塔には、以前にモスレイ侍従長に連れられて、滞在中のマルダーナ公爵夫人を訪れたことがあった。二階が一般客向けの部屋で、三階、四階はより高貴な客人のための部屋である。
 おそらく、先に忍び込んだ男は、コルヴィーノ王のいる部屋がどこかまでは知らないはずである。ひと部屋ずつ探しているのなら、こちらの方が早くゆけるはずだ。
 アレンは、音を立てぬよう石造りの階段を上った。
 三階まできた。従者たちもすっかり寝静まった時分だろう。辺りは暗く、静かだった。
 アレンは、ネコのような足どりで、素早く暗がりの回廊を進んだ。
 突き当たりの扉で立ち止まると、息を殺して気配を窺う。この向こうには次の間があり、その先が、コルヴィーノ王の部屋である。
 扉の向こうには見張りのいる気配がする。アレンは短剣を取り出すと、扉をコツコツと叩いた。
「誰か?」
「しっ、静かに。お知らせしたいことがあって来た」
 囁くようにアレンが言うと、ややあって扉が開いた。
「このような夜分に、いったい何用であるのか」
 見張りの騎士はそう言うと、そこに立っていたアレンの姿を見て眉を寄せた。
「あなたは……」
「さあ、これを見て」
 アレンは短剣を目の前にかかげると、ぶつぶつとなにかをつぶやいた。すぐに見張りの表情からいくぶん力が抜ける。
「騒いではいけない。この向こうにはコルヴィーノ陛下がおられるのだろう」
「そう……です」
「いいか、不審な男が、この塔に侵入した。塔の入り口の見張りは、眠らされた」
 声に抑揚を付けて、命じるような口調で告げる。
「君には、大切な任務がある」
「大切な……」
 騎士が言葉を繰り返す。
「そう、コルヴィーノ陛下を、お守りすることだ」
「そう、コルヴィー……へいかを」
「不審者が塔に入ったと、君は、王城にいるオライア公爵に、すぐに知らせにゆけ」
「オライア公爵に……」
「ここは私が守っている。だから安心しろ」
「しかし……」
 騎士は、あらがうように苦しそうにつぶやいた。アレンは、短剣の妖しく輝く水晶を、さらに騎士の顔に近づけた。
「トレミリアのためだ。重要な任務だ。オライア公爵に知らせろ」
「トレミリアの……」
「そうだ。行け」
 アレンは口調を強くした。
「分かり……ました」
 騎士はぎこちなくうなずくと、ふらふらと歩きだした。やがて、騎士の姿は暗がりの回廊へ消えていった。
「やれやれ」
 アレンは素早く部屋に入ると、静かに扉を閉めた。
 水晶の魔力に体力をとられたのか、少しだけ体が重い。忠誠心の強い騎士に、別のことを命じるのは、水晶の力があってもなかなかに大変なのである。
「さて……」
 燭台の灯に照らされた室内を素早く見回すと、そこはいかにも次の間らしく、簡素な机とイスがある他にはなにもない部屋であった。床にはビロードの絨毯が細長く敷かれ、その先に奥の部屋への扉があった。そこがコルヴィーノ王の居室だろう。
 アレンは足音を忍ばせ、奥の扉へと近づいた。
 だが、すぐになにかに気付いたように、急いで燭台の火を吹き消すと、今度は壁際のカーテンの影にさっと身を隠した。
 ほどなくして、回廊側の扉がゆっくりと開かれた。
 さっきの見張り騎士が戻ってきたのではない。アレンにはそれが分かっていた。
 ごくかすかな気配とともに、室内に何者かが入ってきた。ゆっくりと、慎重な足どりから、その警戒ぶりが感じられる。
 侵入者の足音が近づいてくるのを、カーテンの影から感じた。
 アレンは息を殺した。気配を消す訓練はずいぶんやってきた。たとえ相手がレークでも、なかなか勘づかれはしないのだ。
「……」
 足音は、アレンのいるカーテンの前でふと止まったが、すぐにまた動きだした。やはり、狙いは奥の部屋であるのだろう。 
 奥の扉の前に立ち止まり、そっと扉を開けるかすかな音が聞こえた。
 ここで飛び出して、後ろから男に斬りかかれば、まだ間に合うだろう。あるいは、それが騎士として、王を守るという務めであるはずだった。
 だが、アレンはそこに動かなかった。
 静かな一瞬が過ぎる。
 少しして、奥の部屋から、「ひっ」というような、悲鳴とも息づかいともつかぬ声が聞こえた。そして、ザクリ、ザクリという、なにかを突き刺すような気配……それがなにを意味するのか、アレンは知っていたに違いない。
 ややあって、いくぶん荒い息づかいとともに、その何者かが部屋から出てきた。
 ゆっくりと、アレンはカーテンの影から足を踏み出した。
 暗がりのなかで、男がさっとこちらを振り向いた。
「誰だ?」
 男の声は、アレンの考える通りの相手であった。
「さっきからそこにいたのか?」
「ああ、そうだ」
 アレンが答えると、男は慌てる様子もなく、その手に剣を構えた。
「きさま、何者だ?」
「まだ分からないか」
 さっとカーテンを開け放つ。
 アレンはすらりとレイピアを抜き、男の前に立った。
「あ、あんたは……」
 男の声に驚きの響きが混じった。
「どうして、ここに」
「それより、この塔に忍び入って、コルヴィーノ王に手をかけ、そのまま逃げおおせられると思っていたのかな」
「なに。あんたは、全部知って……」
「……」
「そうか。やはりあんたは、ただ者ではないな。いや……トレミリアの騎士でもない」
 男が手にしているのは短剣であった。ああして壁を上るには長い剣は邪魔だったのだろう。アレンはゆっくりと間合いを詰めた。
「俺が来る前から、そこに隠れていたのだとすると、つまりあんたは、俺をみすみす見逃したということだ。違うか?」
「それがどうした」
 アレンはふっと笑った。
「お前の方こそ、クリミナどのをだまし、フェスーンに入り込んだのだろう。ジャリアの四十五人隊か」
「なんだと。なぜ、それを……」
 口を滑らせたことに気付いて、男は口をつぐんだ。
「やはりな。黒竜王子の命令か。おそらく、第一の目的は、トレミリア国王、あるいはウェルドスラーブ王の殺害。トレミリア王のいる天守は警備が厳しいと、こちらの西の塔を選んだのだろう」
「……」
 男は黙り込んだ。もはや、ここを脱するには戦う他はないというように、短剣を手にして身構える。開けておいたカーテンの横の木窓から風が吹き込み、月明かりがうっすらと室内を照らした。
 男の顔を睨むようにして、アレンはレイピアの剣先をその男の胸に向けた。
「ロッド、というのもいつわりの名なのだろうな」
「……」
 男は……いやロッドは、アレンの剣の腕を探るように、間合いを計る様子だった。黒髪に黒い髭をたくわえた、クリミナが湖で出会った騎士……それが、侵入者の正体であった。
「いつから……いつから、知っていた?」
「はじめから」
 男の問いに、アレンは静かに答えた。
「いや……君の剣の稽古を見たときからかな。そのたたならぬ剣の腕前は、正規の訓練をほどこされ、なおかつ幾多の実戦で磨かれたものだ。腕力もありそうだし、おそらく長槍の扱いも得意なのだろう」
「……ロッドは、死んだ親父の名だ」
 男の口から、低い声がもれた。
「本当の名は、サウロという」
 命懸けの覚悟をとうに決めているのだろう。迷いのない目付きで、男は短剣をかざした。
「では、サウロ。来るがいい」
 深夜の塔の一室に、剣が合わさる響きが上った。
 アレンの見た通り、ロッドの剣の腕は確かなものだった。間合いの短さで不利な短剣であっても、アレンのレイピアの突きを正確にはじき返してくる。その体の使い方には無駄がなく、動きの速さも、実戦で相当鍛えられているのだろう。
 何度か剣を合わせるが、互いに相手に傷を与えるまではいかない。ロッドの方にしても、アレンのレイピアの腕は、おそらく想像以上のものであったに違いない。
 扉の向こうから、ノックとともに声が上った。
「いかがされました?騒がしい物音が……」
 若い女の声……隣の部屋で眠っていたティーナ王妃だろう。
「陛下?なにかあったのですか?開けますよ……」
 扉が開かれた。燭台を手にした王妃は、室内の異常に声を上げた。
「ああっ、これは……いったい」
 剣を手にした二人の男の姿を前に、驚きに声を震わせる。
「そ、そなたたちは……」
「王妃殿下、警護の騎士を呼んでください」
 王妃を怯えさせぬよう、アレンは務めて静かな口調で言った。
「私はアレイエン・ディナース。不審者の後をつけて、塔に入りましたところ、この男が部屋に入るのを見て、急ぎかけつけましたが……」
「陛下は、陛下はどうされた?」
「残念ながら、おそらくすでに……」
 それを聞いた王妃は、ショックを受けたようにその体をよろめかせた。
「なんと、なんと……そんなことが」
「王妃、ここは危険ですので、ともかく外へ……」
 アレンが言いおえる前に、素早くロッドが動いていた。
「ああっ」
 王妃が悲鳴を上げる。燭台が床に落ち、火が消えた。
「動かないでいただこう」
 ロッドは、後ろから王妃をつかまえ、その体を楯に部屋から出た。
「助けてえ」
「お静かに。おとなしくしていれば、危害は加えない」
「ティーナ王妃殿下をお放ししろ」
 ある意味、無駄と分かりきったセリフであったが、立場上は王妃の身を案じなくてはならない。アレンにすれば、むしろ、こののままレイピアで斬りかかったら、ロッドがはたしてどうするのか、試してみてもいい、というような気持ちであったかもしれない。
 ロッドは王妃を引きずるようにして、回廊を歩きだした。
「お願いよ……助けて」
 恐ろしさにすすり泣く、ティーナ王妃の声が、暗がりの回廊に響いてゆく。
「お静かに。無用に騒ぐと、嫌でも乱暴なことをしなくてはならぬ」
「助けて……助けてえ」
 短剣を手にした髭面の男に脅されては、うら若き王女の恐怖たるや、大変なものであったろう。王妃は顔をくしゃくしゃにして首を振った。
「ああ、助けて……」
「分からぬ方だな」
 ロッドは面倒だとばかりに、ひょいと王妃の体を肩にかつぐと、回廊を歩きだした。 
「ひいいっ」
 さすがに気配を聞きつけて、塔にいる従者たちが集まってきた。といっても、賓客を迎えるとき以外には使われないこの塔には、もともとそう多くの従者がいるわけではない。警護の騎士も含めて十人とはいなかったろう。
「あっ、王妃殿下!」
 燭台の灯を照らし、階段を降りてゆく不審者と、まさにさらわれる王妃の姿を見つけ、従者が声を上げる。アレンはそのあとを追いかける、いかにも侵入者を追い詰める騎士然と、レイピアを手にして言葉を発した。
「おのれ、コルヴィーノ王陛下ばかりか、王妃殿下まで手にかけようというのか。逃げられんぞ。ティーナ王妃殿下を離せ」
「えっ、コルヴィーノ陛下が?なんてことだ」
 おろおろとなる従者たちを振り返り、アレンは毅然と告げた。
「さきほど、オライア公爵に知らせをやった。ここは私がなんとかしよう。君たちは、コルヴィーノ陛下のもとへ行ってくれ」
「わ、分かりました」
 動転した様子で従者たちが回廊を駆けだしてゆく。
 その間にも、王妃をかついだロッドはもう、階段を二階まで降りていた。ティーナ王妃は、すっかり気を失ったようで、ロッドに担がれてぐったりとしている。 
「王妃は殺さないのか」
「なに?」
 階段を降りる足を止め、ロッドは肩ごしに振り返った。
「コルヴィーノ王の暗殺が目的なら、王妃ともどもを狙ったのではないのか?」
「その命令は受けていない」
 ロッドは奇妙な顔つきで答えた。矢狭間にも使われる階段途中にある窓の前で、いったん王妃の体を下ろすと、男はじろりとアレンを見た。
「アレイエンと申したな……貴公は、トレミリアの騎士ではないのか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
 アレンはゆっくりと、一段、階段を降りた。とたんにロッドがさっと身構える。
「ただ……そう、君の主である、王子殿下には興味がある」
「なんだと?それはどういう……」
 そのとき、階段の下から慌ただしい足音が響いてきた。
「おお、これは……」
 警護の騎士とともに階段を上がってきたのは、オライア公爵だった。
「王妃殿下……なんということだ」
 公爵は、剣を手に王妃をさらおうというような男を見上げ、その顔を険しくした。
「オライア公、お気をつけを。この男は相当の手練です」
 そう言いながら、アレンは男を追い詰めるようにレイピアを構えた。
「もう逃げられんぞ。王妃殿下を離せ」
 階段の上と下から挟まれる格好となったが、ロッドは慌てる風でもなく、窓に近寄ると、そのまま外へ飛び出した。
 すぐさまアレンが窓辺に駆け寄る。外を見下ろすと、壁を伝ってゆくロッドの姿が見えた。おそらく、同じ場所から上ってきたときに、足場を見つけていたのだろう。
「おお……ティーナ王妃」
 その場にぐったりとなっている王妃を、オライア公が抱え起こした。
「大丈夫です。気を失っておられるが、命に別状はありません」
「アレン、おぬしはどうしてここへ」
「じつは、騎士団の宿舎にて怪しい男を見つけ、後を追ってこの塔まで来たのですが、少し遅かったようです」
「では、コルヴィーノ陛下は?」
 アレンは神妙な顔で首を振った。
「おそらくは……すでに」
「なんということだ」
 オライア公は、ティーナ王妃を部屋に運ばせるよう騎士に命じると、窓から外を見下ろした。男の姿はすでに暗がりの中に消えていた。
「逃げたのか」
「そのようです」
「それで、あの男は、いったい何者なのだ?」
「ロッドという騎士です。いえ、おそらくジャリアの間者かと」
「ジャリアの……」
 オライア公は眉を寄せた。
「では、最初から、コルヴィーノ王を狙ってのことか……」
「おそらく、あの剣の腕前からすると、黒竜王子の直属の騎士クラスだと思います」
「ううむ」
「公爵、私は以前にクリミナどのより、ロッドについて聞いたことがあるのですが」
 アレンは、ごく冷静な口調で言葉をついだ。
「あのものは、突然にサルマの町はずれの森に現れたということでした。おそらく、サルマの城門を迂回するルートで侵入したのでしょう。ですから脱出するときも、きっと同じ場所を経由するものと思うのです」
「なるほど。それで?」
「私に命令書と、サルマの城門の通行手形をいただきたい」
 一刻を争うというような顔つきで、アレンは言った。
「すぐに追いかければ、サルマを出る前に、男を捕らえることもできるでしょう」
「おぬしが行くというのか?」
「はい」
 オライア公は、一瞬、考えるようにして口を閉じたが、すぐにうなずいた。
「よかろう。すぐに準備させる。だがいまはともかく、天守を含めて、宮廷内の安全管理と、コルヴィーノ陛下のことだ。ティーナ王妃の方もお手当てを差し上げなくてはな」
「はい」
 二人は階段を上って、コルヴィーノ王の部屋へ向かった。
 さきほど、アレンがいた次の間から、奥の扉をくぐると、そこには四人の従者と、二人の騎士が寝台を囲むようにして立っていた。
 燭台の火に照らされて、寝台に横たわるコルヴィーノ王は、苦悶の表情で目を閉じ、その胸からは血を流している。
「コルヴィーノ陛下」
 オライア公とアレンが近づくと、コルヴィーノ王の体を検めていた初老の男が立ち上がった。
「これは公爵閣下。私は、この西の塔にて医師を務めるケルスヘグスです」
 頭を垂れる医師は、厳粛な面持ちで告げた。
「コルヴィーノ王陛下は、すでに亡くなられておいででございます」
「そうか」
 オライア公は胸に手を当て、寝台の横に立った。
「短剣で胸の急所を二カ所突かれております。相当の手練でありましょう」
 王の体には他に傷は見当たらない。争う前にとどめを刺されたのだろう。
「ご苦労だった。この件については、正式に発表をするまでは、伏せておいてもらいたい。ご遺体の埋葬などについては、のちほど取り決めることになろう」
「かしこまりましてございます」
 医師はうやうやしく礼をすると、部屋を出ていった。
「ティーナ王妃はどうされた?」
「は、隣の部屋にお運びして、休まれております」
 二人いる騎士のうち、一人はこの部屋の見張りをしていた若い騎士で、その顔は青ざめ、己の責任を痛感してもいるように、体を震わせていた。もう一人は、オライア公の直属の騎士で、こちらは主の命令を待つようにしてじっと立っている。
「では、アルス、お前は王城内の警備の強化と、侵入者の捜索をやらせるよう、近衛兵に伝えてきてくれ。何人かを今宵の西の塔の警備に当たらせるように。くれぐれもコルヴィーノ陛下の暗殺のことはまだ漏らすな。ただ侵入者がいるとだけ伝えろ」
「かしこまりました」
「それから、」
 オライア公は、少し迷うようにしてから言った。
「宮廷騎士長をここへ。サーシャどのも一緒に来られるようなら、二人で来るようにと」
「わかりました」
 命令を受けた騎士が部屋から出てゆく。
「お前たちもいったん下がるがよい。この深夜にそなたらにできることはなにもない。ただし無用な噂は漏らすなよ」
「か、かしこまりました」
 公爵の言葉を受けて、従者たちも部屋を出ていった。
 部屋にはアレンと公爵、そして若き見張り騎士だけが残った。
「……」
 腕を組んで眉間に皺を寄せる公爵は、普段の柔和な顔つきとは異なる、一国の宰相の表情をしていた。
 それだけ事は重大であった。たとえジャリアの占領を受けても、国王が健在であればウェルドスラーブという国を再建することは可能であったのだ。だがむろん、それこそがジャリアの狙いだったのだろう。名実共にウェルドスラーブを葬り去ることが。
「なんということになったのだ……」
 思わずというように、ため息まじりのつぶやきが、その口から漏れる。
 公爵は、丁寧にコルヴィーノ王の顔に布をかぶせると、後ろに立っている見張り騎士を振り返った。
「お前は、名はなんという?」
「は、はっ……ティモンと申します」
 若き騎士は緊張しきった様子で、公爵の前でひざまずいた。
「そんなことはせんでいい。それより、そなたはいったい何故、この部屋の見張りを離れて、わざわざ私のところへ不審者がいると告げにきたのだ。そなたの代わりに誰かをよこせばすんだことだろう」
「は、はい……」
 騎士はただうつむくだけで、答えられなかった。アレンの水晶の短剣によって命じられたことなどは、記憶としてすっかり失われているのである。
「わかりません」
 声を絞り出すように騎士は言った。
「自分でも、どうしてそうしたのか、よく分からないのです」
「いまさら、とやかく言っても、詮ないことだが」
「きっと、侵入者を発見して、気が動転してしまったのでしょう」
 騎士をかばうようにアレンが言った。
「私が、もう少し早く駆けつけていれば……」
「いや、それこそ言っても詮なきこと。むしろ、そなたがおったからこそ、ティーナ王妃は無事だったのだと考えるべきだろう」
「おそれいります」
 アレンはうやうやしく頭を下げた。
「ティモン、そなたの責任を重く問うようなことはせぬので、それについては安心するがいい。もし、そのようなことになっても、謹慎程度で済むように取り計らおう」
「あ、ありがとうございます。なんと言ってよいか……」
 騎士は目に涙を浮かべながら、胸に手を当てた。
「今夜のところは、もう少し働いてもらうぞ。次の間にいて、許可のないものは部屋に入れぬようにしてくれるか」
「かしこまりました」
 公爵のとりなしにいくらか元気を得たように、騎士は部屋を出ていった。
「さて、我々も、少し腰を下ろして休むとしようか。こうなった以上は、もうおろおろ騒ぎ立てても仕方がない。むしろ、このことが広く知られて、人々が騒ぎ立てるのを抑えなくてはならぬのだから」
 さすがに、どんなときにも冷静な対処を強いられる宰相の立場である。公爵は肝の座った様子で言うと、アレンをうながした。
 次の間に出ると、二人は椅子に腰を下ろした。
 燭台の火を挟んで向かい合うと、公爵はふうと息をついた。回廊側の扉の前には、ティモンが見張りに立っている。
「……」
 アレンは無言で蝋燭の揺れる炎を見つめた。ついさきほど、この場所で侵入者であるロッドと対峙し、剣を交えたことなどはとうに忘れたような、いたって静かな顔つきである。
「おぬしに命令書を渡さなくてはならぬな。もう半刻ほど待ってくれるか。さすがに、これからのことを考えると、いろいろせねばならぬことが頭の中でまだまとまらぬ」
「はい」
「それにしても、なんということになったのだ。これはウェルドスラーブという国の存続そのものに関わるし、ひいては、サーシャ王妃も含めて、血縁であるゆえに、トレミリアそのものにも関わる。大変な問題を抱えることになった」
 つぶやくように言いながら、公爵は、己の考えを頭の中でなんとか整理しようという様子だった。
 ほどなくして、外の扉がノックされた。


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