9/10ページ 
 

水晶剣伝説 \ ロサリート草原戦(後編)


\

「公爵閣下、宮廷騎士長クリミナどの、提督夫人サーシャ様がお越しです」
「そうか。通してくれ」
 オライア公は立ち上がると、これからつらいものを見なくてはならぬ父親の顔を、ほんの一瞬だけ垣間見せた。
「父上……いえ、宰相閣下」
 扉が開いて、クリミナと、続いてトレヴィザン提督夫人、サーシャが部屋に入ってきた。
「夜分に呼び立ててすまなかった。座るがいい。提督夫人もどうぞおかけください」
「なにがあったのですか?塔の周りが、妙に物々しい気配で、それに……騎士たちがいつもより多いようです」
 そこまで言うと、クリミナは部屋にいるアレンの姿に気付いた。
「まあ、あなたは……」
「クリミナどの」
 アレンは、二人の前に来ると、貴婦人への礼をした。
「それに初めてお目にかります、提督夫人。アレイエン・ディナースと申します」
「あなたのことはお話には、うかがったことがあります。サーシャと申します」
 提督夫人は、うっすらと微笑みを浮かべた。部屋は暗く、明かりは燭台の灯だけであったから、アレンが類まれな美男子であることは分かっても、陽光のもとで見るように、息を飲むような驚きにはならなかった。
 おそらくは寝ているところだったのだろう、サーシャは黒髪をきゅっと結い上げ、薄手のローブにガウンを羽織った夜着姿であった。一方のクリミナは、宮廷騎士の胴着に足通しをはいて、腰にはしっかりと剣を帯びていた。なんらかの事態が起こったことを考えて、急いで着替えたのだろう。
「アレンもここにいるというのは、なにかあったのですね」
「うむ」
 オライア公は、非常に言いづらそうに口元を歪め、髭を撫でつけた。
「ここは、コルヴィーノ陛下のお部屋だったはず」
 クリミナはその異変が、ウェルドスラーブ王に関するものだと悟ったようだった。
「まさか……陛下になにか」
「すまぬ。アレン……わしの代わりに説明してくれるか」
「分かりました」
 見るのがつらいというように、オライア公は二人に背を向けた。
「ついさきほどのことです。コルヴィーノ陛下が侵入者に襲われました」
 アレンの言葉に、クリミナとサーシャがさっと顔をこわばらせる。
「残念ながら、陛下は胸を刺されて亡くなりました。侵入者はティーナ王妃を人質にとって逃亡を計ったのです」
「コルヴィーノ陛下が。なんてこと……それで、ティーナさまは?」
「ご無事であられます」
 二人は大きなショックを受けながらも、王妃の無事を聞くと、救われたように顔を見合わせた。
「それで、陛下は本当に……亡くなられたのですか?」
 提督夫人が尋ねる。ヒステリックに取り乱さないのはさすがに気丈な女性であった。
「はい。残念ですが。まだご遺体は奥の部屋にあります」
「ああ……信じたくないですが、確認してもよろしいでしょうか」
 提督夫人の言葉に、オライア公がうなずく。
「では、ご一緒に」
 アレンが先に立って奥の扉を開ける。四人は奥の部屋へと入った。
「ああ、陛下……」
 顔に布をかけられ、胸元にはまだ血がにじんだコルヴィーノ王が横たわる寝台を前に、提督夫人は声を震わせた。
「なんという、なんということでしょう……」
「侵入者は、見張りの隙をつき、短剣で陛下を殺害したものと思われます。私が侵入者のあとをつけて、この部屋に入ったときにはすでにもう……」
 アレンは静かに説明した。
「その後、私は侵入者と相まみえ、剣を交えましたが、ちょうど部屋を訪れたティーナ王妃を人質にとられたのです」
「そのまま、犯人は逃げたというの?」
 クリミナの方も、ウェルドスラーブ王の死を前に、ショックを隠せぬように声を高ぶらせた。
「その犯人は、いったいどうして、ここまで入り込めたというの。警備の騎士たちはいったいなにをしていたの」
「それが、その侵入者は、この王城に泊まっていたのです」
「なんですって、それは……どういうこと?」
 クリミナはが尋ねる。アレンが答える前に、オライア公は娘から顔をそむけた。
「私は侵入者と対峙し、それが、ロッドという雇われ騎士であることを確認しました」
「なん……」
 とたんにクリミナは言葉を失った。
「なんと……なんと、言ったの?」
「ロッドです」
 アレンは冷酷なまでに淡々と告げた。
「あなたが湖で出会い、護衛としてフェスーンに連れてきた、あの男です」
「そんな……う、うそよ」
 手で口を覆うクリミナ。その目が大きく見開かれる。
「嘘ではありません。私も先日彼に会っていましたから、見間違いはありません。犯人はロッドです」
「嘘よ。嘘だわ。だって、ロッドがどうして……」
 顔を蒼白にしたクリミナは、何度も首を振った。
「彼が、そんなことを……そんなはずはないわ。きっと、なにかの間違いだわ」
「いいえ。私も、それにティーナ王妃も、はっきりと侵入者の顔を見ております。そして彼は、ジャリアの間者なのです」
「なん……ですって、そんな」
 いったい何を言われているのか分からぬように、クリミナはただ首を振るしかなかった。
「ロッド……彼が、そんなはずはない。ロッドは……ロッドは」
「そんなことが……あの彼が犯人だなんて」
 サーシャにしても、サルマからフェスーンまでの道すがら、クリミナとともに護衛の騎士としてロッドの姿を何度も目にしていたし、挨拶程度には言葉を交わしていた。ショックに体を震わすクリミナに寄り添うと、サーシャは気づかうように耳元につぶやいた。
「あなたのせいではないわ。クリミナ……あなたのせいでは」
 そのとき、バタンと扉が開かれる音がして、慌てたようなティモンの声が上った。
「ティ、ティーナ王妃殿下が……」
 それを聞いてオライア公が次の間へ出る前に、ぱたぱたという足音とともに、王妃が部屋に駆け込んできた。
「おお、ティーナ王妃殿下、お体の方はもう……」
「ああ、陛下!」
 王妃はオライア公を突き飛ばすように、寝台に取りすがると、人目もはばからず声を上げた。
「おお、なんてこと……陛下、あああ!」
「王妃殿下……」
「ねえ、うそでしょう。陛下は亡くなってなどおられないのでしょう?ねえ!」
 ティーナ王妃は、コルヴィーノ王の顔にかかる布を取り去ると、その体に覆いかぶさった。
「陛下、私をおいて死ぬなんていや!」
「おお……そんなことはない、そんなことあるはずない!」
 泣きじゃくる王妃の背中にかける言葉を見つけられず、、オライア公はただそれを見守っていた。
「うそだわ。うそでしょう?ねえ……うそよ」
 王妃は公爵を振り返り、それから、クリミナとサーシャがそこにいることに気付くと、助けを求めるように叫んだ。
「ねえ、うそだといって。陛下は死んではいないと。まだ生きていると。いいえ、あるいはそう、ここに横たわっているのが偽物の陛下だと!」
「……」
 クリミナはがくがくと膝を震わせていた。犯人がロッドだと聞かされたショックは、時間とともに増すばかりで、彼女は必死に、その場に崩れそうになるのを耐える様子だった。それを横から支えるサーシャの目にも、涙があふれた。
「うそだわ。ああ、うそだわ!ああ……陛下、あああ!」
 取り乱す王妃の顔はくしゃくしゃに歪んでいた。その髪や服に血がつくのにもかまわず、王妃は夫である王の胸に顔を埋めた。
「コルヴィーノ陛下をお守りできなかったことを、トレミリア宰相として深く……まことに深くお詫びいたします」
 泣き叫ぶ王妃に向けて、オライア公は胸に手を当て深く頭を下げた。
「何故……どうして、こんなことに、ああ、ああ……」
 だが、公爵の謝罪など耳に入らぬように、王妃は声を上げ続けた。
「どうして、どうしてなの……どうして」
「私はもう一人なの?もう決してあなたは、私の顔を見て、可愛いとも、綺麗だとも、言ってくれないというの」
「王妃殿下……、もう、申し訳、ありません……」
 クリミナが床に膝をついた。
「私が、彼を……ロッドを」
 王妃の泣き声がぴたりととまった。
「ロッド……そうだ、あの男」
 振り返った王妃がクリミナを見た。涙に濡れて真っ赤な目が、怒りの先を探すように見開かれる。
「そうだ、私は見た。この部屋にいたあの男は……ロッド、あの男だ。そして、私を剣で脅し、引きずり抱えあげて、それから……逃げたのか、あの男は逃げたのか?」
「おそれながら、取り逃がしましてございます。宮廷内を警戒させるとともに、行方を追わせてはおりますが」
「なんという……陛下を殺し、私を人質にとり、そして、のうのうと逃げおおせたというのか。あの男……そうだ、クリミナ、お前が連れてきた騎士だったな」
「も、申し訳……」
「ではお前のせいか。陛下が死んだのはお前のせいなのか」
「……申し訳、ありません」
 それ以上はなにも言えず、クリミナはぶるぶると体を震わせて平伏した。
「陛下、ああ陛下……あのようなならずものに、そのお命を奪われるなど、ご想像もしなかったでしょうに!」
 王妃は再び、声を上げて泣き始めた。
「ああ、あああ……」
 その悲鳴にも似た嗚咽の声は、クリミナの心を刺し貫いた。血の涙を流すのは王妃だけでなく、胸をえぐるような傷となって、彼女を永遠に苛み続けるのだろう。
「出てゆけ」
「王妃殿下……」
「誰の顔も見たくない。みな出てゆけ!」
 オライア公は、アレンをうながして部屋を出させた。まだ立ち上がれないクリミナを振り返ると、サーシャがその肩にそっと優しく手を置いている。それを見て、いくらか救われたような面持ちで、公爵も部屋を出た。
 次の間に出て扉を閉めても、王妃の嘆きの声が聞こえてくる。
「無理もない……まだお若い王妃殿下であるし、なによりコルヴィーノ王を本当にお好きであったからな」
 そうつぶやくと、オライア公はひどく疲れたように息をついた。
 やがて部屋からクリミナとサーシャが出てきた。クリミナは、ほとんどサーシャに肩を借りるような様子でよろめき、その顔は青ざめ、唇を震わせていた。
「オライア公さま、クリミナはこの通り、とても疲れております。今日はひとまず下がって休ませてもよろしいでしょうか」
「もちろん。よろしく頼みます、サーシャどの」
 父親の顔でうなずいた公爵は、この気丈な提督夫人がいてくれてよかったと、心底思うように、その目を見て言葉以上の思いを伝えた。
「それでは、これで」
 サーシャも分かっているというようにうなずくと、ぐったりとしているクリミナの手を引いて、部屋から出ていった。
 それからどっかりと椅子に座ると、オライア公は一瞬だけ休ませてくれと言いたげに、額に手をやり、目を閉じた。
「さてと、せねばならぬことが山ほどある」
 本来なら、夜半もとうにすぎたこの時間は、とっくに眠っている頃であったろうが、公爵は、にわかに宰相としての厳しい顔つきを取り戻すと立ち上がった。
「まずは、おぬしに命令書と、サルマの城門の通行証を渡すのであったな。ではいったんわしの部屋へゆこう」
「はい」
「その前に、ティーナ王妃のご様子を」
 少し前から、奥の間からは泣き声も嘆きの声も、まったく聞こえなくなっていた。心配そうな顔つきで、オライア公は奥の間の扉をそっと開けた。
「おお……」
 立ち尽くす公爵の後ろから、アレンも部屋を覗いた。
 寝台のコルヴィーノ王に、寄り添うようにして横たわる、ティーナ王妃の姿があった。目を閉じて動かない王妃の様子は、まるで王の後を追って自害したようにも見えたが、そうではなかった。
 王妃の口からは、すやすやと寝息が漏れていた。
「泣きつかれてお眠りになったのだろう。ティモン」
「はい」
 見張りを務めていたティモンがこちらに来た。
「誰か呼んで、王妃殿下をお部屋にお運びしろ。いや、待て……」
「は」
 オライア公は、少女のように幸せそうなティーナ王妃の寝顔を見ながら、首を振った。
「アヴァリスが昇るまでは、夢の中でお二人でいさせて差し上げよう」
「わかりました」
 公爵は燭台の火を吹き消すと、王妃の眠りを妨げぬよう、ごく静かにその扉を閉めた。

「スタルナー公と、オーファンド伯を至急呼んでくれ」
 いったん王城の自室に戻ると、公爵はさっそく書類の用意を始めながら、秘書である従者に指示を出した。
「もし用件を訊かれたら、海の客人のことで問題があると言え」
「かしこまりました」
「それから夜が明けたら、一番にマルダーナ公、サーモンド公、それとモスレイ侍従長をお呼びしてくれ」
 コルヴィーノ王の死去、そして、それが暗殺であるという事実に際して、やらなくてはならぬことが数多くあった。報告する相手と順番、そのタイミングなども、ひどくデリケートで難しい問題であったし、いわばこれ自体が大陸における国家間のバランス構造すらも左右しかねない事件であったから、否が応にも慎重に事を運ばねばならない。
 その上、時間も限られていた。いずれは、人づてに真実か噂かが広まってゆくであろうし、一般大衆に向けた公表時期なども、これから考えなくてはならぬ。そしてなにより、その暗殺者は逃亡し、いまだ捕まってはおらぬのだ。
「差し当たって、宮廷内の探索はやらせているが、あるいはすでにフェスーンの町に入り込んでいるかもしれぬ。そうなったら、もう簡単には発見はできまいな」
「はい」
 執務机の前に立つアレンがうなずく。
「ですが、やはりトレミリアを脱出することを考えるのなら、北のホルンか南のサルマからということになりましょう。城砦都市のホルンを抜けるのはまず不可能でしょうから、やはり」
「サルマか」
「ええ。クリミナどのが最初に彼に出会ったというのがサルマの森であったというように、あるいは、城門を通らずに抜けられる場所を知っているのでしょう」
「なるほど」
 書き上げた命令書に蝋印を押すと、公爵はそれをアレンに手渡した。
「これがあれば、サルマの町に限らず、国内のどの城門であっても通り抜けられる。それから特例の命令書として、これを見せれば、いつなりとも兵や物資などの協力を得られるだろう」
「ありがとうございます」
「くれぐれも頼むぞ。そのロッドという男の生死は問わん。下手人の首級を上げれば、ティーナ王妃殿下も、いくらかはなぐさめられるだろう」
「全力をつくします」
 受け取った羊皮紙を筒に入れて、大切に懐にしまうと、アレンは騎士の礼をした。
「武器などは宮廷のものを好きにもってゆくがいい。馬も自由に選ばせよう」
「じつは、すでに用意をしております。あの男が怪しいとふんで、今日の朝方から注意をしておりましたので」
「それはまた、さすがといおうか、おぬしは、まるで予言者のようだな」
「恐れ入ります。しかし、事態を未然に防げなかったことは、私の至らなさでもあります。私としても、ロッドを追い、捕らえることが己の使命と感じております」
 涼やかにアレンは言った。ロッドの凶行を目前にしながら、それをみすみす見逃したなどと、誰にも悟ることができぬだろう。そんな落ち着いた顔つきである。
「夜の道中、くれぐれも気をつけてな。といっても、そなたの剣の腕があれば、山賊なども寄せつけまいが。なんなら、騎士か従者の一人でも連れてゆくか?」
「お気遣いありがとうございます。しかしながら、単独の方が身軽でありますし、追跡する上でも相手に怪しまれませんので」
「確かにな。それに、そなたは見かけよりもずっと実際的で、肝が座っていることは、よく分かっているつもりだ」
「は、それでは、これにて」
 最後にオライア公の顔を、少しだけ長く見つめ、一礼する。
 部屋を出ると、アレンは早足に回廊を抜け、王城警護の騎士団の宿舎へと向かった。昨晩はそこに泊まり、ロッドの動きをずっと注意して見ていたのだ。
 宿舎の管理棟の一室をノックすると、ややあって扉が開かれた。
「まあ、アレイエンさま」
 そこから顔を覗かせたのは、黒髪を編み込んだ、まだ若い女だった。
「やあミナ。まだ起きていたのか」
「はい。なんだか心配で……なにか、あったのでございますか?」
 この宿舎で働く炊婦であろうが、女官といってもよいくらいには品のある顔だちで、なかな美しい女である。夜着ではなく、しっかりとした胴着にローブを羽織った姿からすると、本当にまだ眠っていなかったようだった。心配そうに両手を揉み絞るその様子は、恋人の帰りを待ち続けた娘の憂いそのものだった。
「じつはね、これからすぐに発たなくてはならない」
「まあ……」
 女は驚いたように口元に手を当てた。
「ありがとう。君にはいろいろと良くしてもらった」 
「いいえ、いいえ。アレイエンさまのためでしたら、私……なんでもいたします」
 うっすらと涙を見せながら健気にかぶりを振る。
「ありがとう」
 アレンはそっと女を抱き寄せると、その額に唇を当てた。とたんに女の頬がバラ色に染まる。
「いつかまた、帰って来てくださいますか……ああ、いいえ、分かっています。そんなことを聞く権利などないことは。私はただ……ああ」
 女は両手で顔を覆った。だが、すぐに顔を上げた。気丈なたちなのだろう。流れる涙を隠しもせずにうっすらと微笑んだ。
「……行って、おしまわれるのですね」
「君には本当にお世話になった。そのことは忘れない」
「はい」
 女はいったん部屋の中へ戻ると、預っていた旅用の荷物とマントを取ってきた。
「すまない。ミナ、最後にもうひとつ頼めるかな」
 受け取ったマントを身に付け、荷物を背負うと、アレンは封をした二通の書簡を女に差し出した。
「これを、それぞれモスレイ侍従長と、カーステン姫に渡してもらいたい」
「はい」
 優雅にマントを羽織ったアレンの姿を、女はうっとりと見つめた。
「もし、カーステン姫に渡すのが難しいようなら、どちらもモスレイ侍従長に渡してしまってかまわないからね」
「分かりました」
 うなずいた女は、こらえきれぬようにまた涙を流した。
「どうぞ、どうぞ……お気をつけて」
「ああ。また会えるときまで」
 アレンは女に向かって貴婦人への礼をしてやると、踵を返した。
 女はいつまでも、もう二度と会うことはないだろう相手を、そこからじっと見送っていた。最後までアレンは振り向かなかった。

 王城の裏手門から、アレンを乗せた馬が走り出てゆくころ。
 城門ぞいをを見下ろす東の塔の窓辺で、彼女は声を押し殺していた。
「ああ……」
 彼女を気づかうサーシャに、なんとか大丈夫だと告げ、ひとり部屋に戻ったクリミナは、力が抜けたように寝台に倒れ込み嗚咽した。
 なにもかもが信じられなかった。
 コルヴィーノ王を暗殺した犯人が、あのロッドであるなどと。
(彼は、ジャリアの間者です)
 あのときのアレンの声が、いまでも冷たく突き刺さる。
 なにもかもが崩れ落ちるような心地がした。いまとなっては、本当にそれを聞いたのかすら、さだかではない。いや、むしろ、これが夢であるなら……そうであって欲しかった。
 どれくらい時間がたった頃か、起き上がった彼女は、窓辺から外の暗がりをぼんやりと眺めていた。もちろん、闇夜を駆けてゆくアレンの馬になど気付くはずもないが。
(ロッドが……あの、ロッドが)
 サルマの湖のほとりで出会い、彼を助け、騎士として信頼をして、フェスーンまで連れて来たというのに。その彼が、自分をだまして、このような裏切りをするなどとは。
 クリミナにはどうしてもまだ、それが完全には信じられなかった。
(すべては、嘘だったの?)
 名前も、身分も、自分に語ってくれたこと、その全部が。自分を欺く為の、自分を安心させるための真っ赤な嘘であったというのか。
「……ああ」
 どうにも息が苦しく、頭がずきずきと痛い。
 クリミナは床に膝をつき、胸に手を置いた。
 そんなに心を許したわけではない。
 だが、それでも、こんなにも苦しいのは何故なのか。
 彼が自分を見るまなざし……気づかうような言葉に、男性としての、頼りがいと優しさを感じたのは、自分の勝手な思い込みにしかすぎなかったのか。
(私は……私は、なにも知らず、彼を信じて)
(彼は、ジャリアの間者です)
 アレンの言葉……それが正しいことは、すでに心では認めている。いま思えば、ロッドの目的が、最初からフェスーンの宮廷に入り込むことだったのならば。
 結果として、自分がロッドを助けて、トレミリアに連れてきたことが、コルヴィーノ王の死につながってしまった。考えたくなくとも、それが残酷な事実であるには違いない。
「なんて……ことなの」
 コルヴィーノ王の亡骸に取りすがり、声を上げて泣き続ける王妃の姿がまた目に浮かぶ。突然の夫の死、ウェルドスラーブという由緒ある王国の未来がついえたこと……若き王妃の嘆きと混乱とは計り知れない。
「ああ……だったら、そのすべては」
 耐えられぬように、クリミナは床に突っ伏した。
「すべては、私のせい……ああ、私のせいなのだわ」
声を上げずに、彼女は泣いた。
 ロッドに裏切られた心の痛み、ティーナ王妃の悲しみ、そして宮廷騎士長でありながら、重大な過ちを犯した自分のふがいなさ、言い知れぬ怒り……それらが入り混じり、内側から身体が震えた。
「く……ああ、ああ!」
 いっそのこと、このまま気を失い、死んでしまいたかった。いや、それともロッドを追いかけて行って、正面から剣で戦い、死ねればよかった。
 だが、どちらにしても、もうコルヴィーノ王は生き返らない。ティーナ王妃の永遠の嘆きが癒されることは、決してないのだ。
「だめだ……私は」
 頭がガンガンと痛い。世界中のすべての人間が、自分を責めているような、そんな気がする。
(助けて……誰か)
 女騎士などと、鼻息を荒くし格好をつけようとしてきた、これまでの自分が、なにもかも無価値に思えた。自分の存在そのものが。
「私が……私のせいで、なにもかもが」
 なにかもかもがやり直せれば……ロッドと会う前にもう一度戻れたら。
 この現実を受け入れて、明日から自分はどんな顔をして、この国で生きてゆけばいいというのか。さまざまな思いが交錯し、彼女を苛み、苦しませた。
「ああ、助けて……」
「助けて、レーク……」
 口の中でその名を呼ぶと、いっときだけ心が安らぐようだった。だか、それもほんのいっときであった。
 また夜闇の中で、悶々と己を責め、後悔をし、王妃の嘆きを思いながら、ロッドのことを考えてまた身悶える、そんな苦痛の時間はずっと続いてゆくのだった。
「ああ……ううっ」
 アヴァリスを迎えるころには、なにかが、劇的な希望の光が、現れるのではないかという、その決して信じてはいない救いを、どこかで願い、打ち消しては、また願いながら。
 クリミナは、苦しみに耐えるように声を押し殺し、ひとり嗚咽し続けた。



次ページへ