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  水晶剣伝説 \ ロサリート草原戦(後編)


V

 アランは馬上から、夜の彼方へ広がるように続く、どこまでも凍りついた湿原地帯を見つめていた。
(寒いな)
 一歩ずつ、慎重に馬を歩ませながら、ふとそう感じた。
 これまでは、ずっと小隊の中にあり、仲間たちとともに、そして尊敬するレークのもとで戦い、行動をともにしてきた。だがいま、こうしてたった一人で、寒々しい夜の湿原を進んでゆくというのは、経験したことのない孤独感であった。
(暗くて、寒い……)
 仲間たちといたときには感じもしなかった。冬の夜の寒さ……それは確かに、ここが凍てついた湿原地帯であることも要因であったろうが、先の見えない暗がりの中を、ただ独りで方向も分からずに進んでゆくという、心もとなさ、恐ろしさ……認めたくはなかったが、それは間違いなく一歩進むごとに、また大きくなっていた。
(方向は……こっちでいいのだろうか)
 月明かりを頼りに、あとはただ勘のみで進んでゆく。
 ときおり月が雲に隠れると、あたりは濃密な暗闇に覆われ、まるで前後左右が分からなくなる。ザクリと音がして、馬の足が土にめり込むたびに、ぎくりとして、またほっとする。地面の凍り具合は一定ではなく、なるべく固そうなところを選んで進もうとするのだが、せいぜい見えるのは一歩、二歩先くらいまでだ。
(くそ、これでどれくらい進んだんだろう)
 振り返ってみても、そこにはもう、天幕のある陣営の灯はまったく見えなくなっていた。半刻ほど前に、大きな鬨の声というような喧騒が届いてきたので、それが夜襲の合図だというのはすぐに分かった。それと同時に、馬に飛び乗り、あとは一心不乱に馬を歩ませた。最初は怯えていた馬も、いまはずいぶんと凍った地面をゆくのに慣れたようで、手綱をとるのも楽になってきた。やがて、かすかに聞こえていた物々しい戦いの気配は、しだいに遠くなり、まったく聞こえなくなった。
(もうずいぶんと、離れたと思うんだが)
 方向としては、湿原をいったん北西へ進み、ある程度の距離をとってから、南へ戻って草原に戻る予定であるのだが。
(そろそろ、南へ向かってもいいのかな)
 それとも、もう少し敵から離れた方がいいのか。念には念を入れて、という気持ちと、一刻も早く草原に戻らなくては、という気持ちが交差する。
(昼間であれば、あたりの見通しがきくんだろうけどな)
 だが、夜だからこそ、こうして凍った湿原を馬でゆくということが可能なのだと、よく分かっている。いかにジャリア軍とはいえ、こんな作戦は想像していないに違いない。
(さすがレーク隊長だ)
 あのフェスーンの大剣技会で、偶然にもレークの試合を見てからというもの、一緒に見た仲間たちの間では、その神業のような剣技の凄さが大いに話題になったものだった。
(とくに、カシールの熱心さは相当だったな)
 宮廷の騎士仲間のなかでも、同い年のトビー、カシールとは、よく一緒に遠乗りに出掛けたり、剣の練習をしたりしたものだ。もともとカシールには非凡な剣の才能があることは誰もが認めていたのだが、それからというもの、彼はレークのように技を磨くのだと、人一倍熱心に剣に打ち込んだのであった。
(トビーは死んじまって……)
 仲間の死を思い出すと、ぐっと込み上げてくるものがある。小隊にいる間は、他の騎士たちの手前、涙を見せることはしなかったが、一人でいるときには何度か泣いた。同い年の仲間であり、陽気な悪友でもあったトビーの死は、アランの中に消えない痛みとなって、深い傷を残していた。
(カシール、お前は死ぬなよ……他のみなも)
 きっといまごろ、前線で戦っているだろう仲間のことを考える。すると、寒さにかじかんでいた手足の先に、新たに力が加わるような気がした。
(俺も……なんとしても、任務を果たすから)
 手綱をにぎりしめると、暗闇の先に目を据え、アランはまた馬を歩ませた。
(なんとか、夜のうちに湿原を抜けないとな)
 革の鎧に短剣のみという軽装では、万が一敵兵と相対したときは、互角に戦うことはできない。敵に発見されることなく、レード公のいるトレミリアの本営まで辿り着くことが肝要だった。
(とにかく、草原に出れさえすれば、だいたいの方角を頼りに、味方の陣地までゆけるはずだ)
 自分にそう言い聞かせながら、どこまでも終わりなく続く、凍りついた湿原を、彼はただ一人で進んでいった。
 そうして、どのくらい暗闇の中を進んだのか。
 北から吹きつける風が、体を芯から冷えさせる。手足はまた、痛いような冷たさにしびれ、しだいに感覚がなくなってゆくようだ。
(そろそろ方向を変えるべきか、それとも、まだなのか……)
 気をつけていないと、このまま眠ってしまいそうだ。そうなったらもう、命はないことは分かっている。
(くそ……もう少しだ)
 必死に己を叱咤する。
(もう少し進んだら……そうしたら南下しよう)
 なにも見えない暗がりのなか、凍った地面に気をつけながら、慎重に進んでゆくというのが、これほどつらいことなのだと、アランは初めて知った。いっそこのまま、思い切り馬を走らせたい。だが、万が一、湿原に足をとられて馬が倒れたら……
(馬がだめになれば、俺もおしまいだ)
 広大なロサリート草原に一人、徒歩で投げ出されるというのは死にもひとしい。食料はほとんどなく、水筒一杯の水しか持たずに、生きて味方の陣地まで辿り着けるはずもない。いまはただ、一歩先の地面を見つめながら、こうしてのろのろと進んでゆく他はないのだ。
(ああ、宮廷での俺は、なんておぼっちゃんだったんだろうな)
 ふと、そんな思いが込み上げてくる。
 貴族の子息としてなに不自由なく育てられ、なんの苦労もなく騎士団に入り、乗馬の才能があると周りからは一目置かれて、いい気になっていたあの頃……実際の戦いなど知りもしないくせに、行儀のよい剣の試合で勝っては、自分の実力を過信していた。
 それが、たったほんのひと月前の自分であったはずだ。こうして本物のいくさを経験し、仲間の死を目の当たりにし、命懸けの任務を与えられ、真夜中の湿原を彷徨っている……いまの自分とは、まったく別の人間のようにすら思える。
(俺は、なにも知らなかったんだな)
(いくさのことも。それに命のことも……)
 人は、ああも簡単に死んでしまう。そして、いくさというのは、ああも簡単に大勢の人間を容赦なく殺すのだということを。実際に剣を手にして戦っているときにはさほど思わなかった、いくさというものの恐ろしさが、いまになって感じられる。
(そうだ。俺も、この俺だって……いつ死ぬか分からないんだ)
(あのトビーがそうだったように。次の瞬間に目の前に敵が現れ、そして……)
 ジャリア兵の長槍に貫かれる自分の姿を想像し、アランは思わず馬上で胸をおさえた。
(そうだ。命なんて……誰にも分からない)
(だからこそ、懸命に生きたいと思うんだ)
 かつては思ったこともなかった、そんな思いが、自分のなかにじわりと広がってゆく。
(ナルニアさま……)
 ごく無意識に、その名前が浮かんだ。
(もし、もしも無事に、このいくさが終わり、トレミリアに戻ったら)
(俺は……)
 カラスの濡れ羽のような、あのしっとりとした黒髪と、いくぶん気が強そうで、凛然と美しい、その令嬢の顔を思い出すと、アランはかっと胸が熱くなるのを覚えた。
(ああ、ナルニアさま……)
 大将軍レード公爵の娘である彼女と、しがない中流貴族の自分とでは、身分的には釣り合わないのはよく分かっている。直接に言葉を交わしたことなどは、晩餐会での挨拶程度であった。それでも、アランは自分が彼女を愛していること、彼女のためならば、喜んでこの身を投げ出すことを、はっきりと確信していた。
(俺はきっと、ナルニアさまに告げるのだ)
 彼女を乗せた馬車と、ただすれ違うだけで胸を高鳴らせていた、かつての自分……だが、いまならば、きっと言えるはずだ。
(ああ、堂々と言えるとも。いつ死ぬかも分からない、このいくさを思えば)
 愛している、と。
 アランはそう、そっとつぶやいた。
(それに、ああ、そうだ……)
 もしも、この任務を無事に果たし、本陣にいるレード公爵に目通りがかなったなら、公爵に自分のことを知ってもらえる。きっと覚えてもらえるはずだ。
(そうすれば、俺だって……きっと)
 にわかに希望が湧いてくる。朦朧としてくる意識に、ひとすじの光がさしたかのようだった。
(ああ、ナルニアさま……やりますよ、俺は)
 夜の闇もいつかアヴァリスの光に包まれるように、湿原にも必ず終わりがある。広大な草原もそうだ。希望を失わなければば、いつかは辿り着ける。
 アランはそう信じた。
(行くんだ)
 夜明けまではまだまだ時間がある。馬の歩みを数えて、あと百歩、その次の百歩を進んだら、方向を変えよう。そう決めた。
 寒さに凍えて死ぬよりは、任務の中で敵と戦って死ぬべきだ。そう思う。
(だが、死なないさ……きっと、辿り着くさ)
 レーク隊長や仲間のためにも、そしてトレミリアのためにも。己の任務を果たすのだ。
 凍った地面を見据えながら、アランは慎重に、そして確実に、一歩、また一歩、馬を歩ませていった。

「くそったれ!」
 オルファンの剣を振り上げ、レークは吠えた。
 いったん敵陣に突入してしまえば、あとはただ闇雲に戦う乱戦となる。そのはずだった。
 だが、思いの他、敵の対応は冷静だった。いや、正確には、敵に与えられた混乱は思ったほどではなかった。
 火矢を合図に敵陣に突入したときには、敵側に慌ただしい混乱が起こったように思えたのだが、ジャリア軍はすぐに装甲兵を横に並べる防御の陣形をとってきた。その整然とした動きは、あるいは、この夜襲すらも予期していたというかのようであった。装甲兵が一列に並んで楯を構え、長槍で牽制するという、その防御姿勢はおそろしく強固で、最初の混乱の時間を過ぎると、もはや簡単に突撃はできなくなった。
 レークも部下たちを引き連れて、何度か敵陣に切り込んだものの、さしたる戦果は上げられず、かえって小隊には何人かの負傷者が出た。たしかに、これはあくまでアランを助ける為の陽動であるには違いなかったが、意表をついたはずの夜襲がこうも通用しないということに焦りを感じるのである。つまり、どうあっても、敵は我々の包囲を解くつもりはなく、昼夜を問わず、敵の作る壁を突破するのは難しいということを、まざまざと思い知らされたのだ。
「ちくしょうめ……退け、いったん退くんだ。負傷者を後方へ運べ!」
 レークの指示に従い、トレミリア兵たちは攻撃をやめ、敵から距離をとり始めた。司令官であるヒルギスも、同じ命令を告げながら、部下たちを下がらせてゆく。
 ジャリア兵は追ってくることはなく、あくまで包囲を構築するように、その場をじっと動かない。それはまるで黒い壁のように不気味であった。
「ヒルギスのだんな!」
 息を切らしながらレークが走って近づくと、いかにも指揮官然と後方から戦いを見守っていたヒルギスは、馬上で悠然とうなずいた。その横には寄り添うようにしてカシールが乗る馬がいる。
「どうする?このまま下がらせるか。敵に混乱はない以上、夜襲の意味はもうない」
「そうだな」
 あくまで優雅にヒルギスはあごに手をやり、横にいるカシールをちらりと見た。カシールは馬上からじっと、レークを睨むように見つめている。
「負傷者もけっこう出た。それに、これだけ時間を使えば、アランのやつも、ずいぶん距離を稼いだだろうしな」
「ふむ、そうだな」
 その返答に、いくぶんいらいらとしながらも、レークはじっと相手の言葉を待った。たとえ面倒でも、一応は司令官であるヒルギスの顔を立てることが、軍全体のスムーズな行動につながることを、レークも学んでいたのだ。
「よし、では全軍を後退させよう」
「ああ。じゃあオレは、ひとっ走り右翼まで行って、セルムラードの連中にも伝えてくるぜ」
 レークは慌ただしく手近な馬にまたがると、「ハイッ」と掛け声ひとつ馬腹を蹴った。
 かがり火も炊かない夜襲であるから、暗がりの中にうごめく騎士たちの気配と声を頼りに、軍勢の後方をぬうように右翼へ移動する。
「これ以上の突撃は無駄だ。退け、いったん退くんだ!」
 兵たちに向かって叫びながら、右翼を指揮するスレイン伯を探す。
 暗がりの中、兵士たちはいくぶん混乱するように、ばらばらになって引き上げてくる。セルムラード軍の騎士たち、兵士たちは、このような闇夜の戦いなどはきっと経験がないのだろう。
「退け、とにかくいったん退くんだ!」
「ああっ、レーク!」
 その声とともに、近づいてきた人影にレークは振り向いた。
「おお、リジェか」
「ああ、無事だったのね」
 よろめくようにして、彼女はレークの馬の前に走ってきた。兜を脱ぐと、長い銀色の髪が流れ落ちる。
「馬はどうした?」
「最初の突撃で敵の槍にぶつかって、そのあとはただ、もう闇雲に戦ったわ」
「なんて無茶な。ケガはないのか?」
「大丈夫」
 にこりと笑うが、その白い頬にはうっすらと血がにじみ、いくらか足を引きずっていた。
「後ろに乗れ」
「うん」
 手を貸して馬の後ろに乗せると、彼女は背中にしがみついてきた。
「大丈夫か?このまま下がって、天幕で手当てするか?」
「大丈夫よ。こうしていれば」
 いくぶん荒く息をついて、リジェは身体を密着させてきた。このような夜襲などは初めてだったのだろう。口には出さなくとも、その恐ろしさは女には相当なものだったはずだ。
「リジェさま、ご無事ですか?リジェさま!」
 前線から駆けてきたのは、ビュレス騎士伯だった。
「リジェさま!」
「大丈夫よ。ちょっと、馬を失っただけです」
「では、私の馬に」
 若き騎士伯は、横に馬を並べると、リジェに手を差し出した。
「さあ、リジェさま、こちらに」
「おい、それよりスレイン伯はどこだ?」
 レークが訊くと、ビュレスは初めてレークに気付いたようにこちらを見た。
「いったん全軍を退かせるんだよ。このままここにいたら、敵の槍にやられるぞ」
「そんなことは……」
 知らないと言いかけて、リジェの手前か、ビュレス騎士伯は言葉をあらためた。
「スレイン伯なら、さきほど後退を指示なさりに、自ら右翼の端までゆかれた」
「そうか、ならいい」
 レークはうなずいた。リジェの腕が、自分の胴をぎゅっと抱きしめるのが分かる。
「では、オレたちも退くぞ」
「わかった」
 やや不満そうにビュレスがうなずく。
 背後からジャリア軍が追ってこないか確かめる。暗がりの向こうには、相変わらずに黒い壁が、不気味な存在感で威圧している。
「徹底してやがるな。深追いはなしって」
 レークは思わずにやりと笑った。
 後退してゆく騎士たちをまとめながら、彼らはまた、北側へ……湿地帯に追いやられるように退いていった。
「これで、はたして夜襲は成功したのかどうか」
 負傷したものは手当てをさせ、しっかりと見張りを立てて敵の動きに警戒しながら、兵たちに交替で休息をとらせると、バルカス伯をはじめ、スレイン伯、ヒルギス、レークらはまた天幕に集まった。
「敵にはほとんど、損害らしい損害は与えられなかった」
 バルカス伯がつぶやく。
「奴らは驚くほどに冷静に見えました。ほとんど混乱をせずに壁を作り、ただ防御に徹していたというように」
 そう言うスレイン伯は、血のにじんだ包帯を足に巻き付けていた。同じく負傷したリジェは、ビュレスに付き添われて救護用の天幕で手当てを受けている。その他の隊長クラスの騎士たちも、血のついた鎧やマントをまとい、それぞれに傷を負っているものも多かった。
「成功もなにもねえ」
 レークは身も蓋もなく言った。
「ただ、アランのための時間かせぎなんだからな。これが上手くいかないのなら、オレたちはただ、ここで敵に囲まれて、凍え死ぬか飢え死にするかしかないんだ」
 人々は黙り込んだ。つまり状況はなにひとつ変わっていないのだ。ただ、一人の騎士に希望を託して、あとはただ待つしかないのである。
「我々にできることは、敵の包囲網に注意を向けながら、余計な疲弊をしないようと務めることですかな」
 スレイン伯の言葉に、レークはうなずいた。、
「あの強力な敵の壁を見りゃあ、どうあっても奴らはオレたちを逃がさない構えだ。突破するのはほぼ不可能だろう。となりゃあ……」
 天幕の人々を見回し、ほとんど気楽そうに言う。
「あとは寝て待つしかねえな」

 凍りついた湿原地帯は、相変わらずどこまでも続いていた。
(本当に、この方角でいいのだろうか)
 馬を歩ませながら、アランは何度もそう思い、そのたびに、自分を叱咤しながらまた前へと進んできたのだ。
(風は……風の方向からは、こちらが南のはずなんだが)
 後ろから吹きつけるひんやりとした風が、北からのものだと信じ、それを頼りに南下を始めたのだったが。
(どうにも、分からなくなった)
 風はおよそずっと、北から吹いているものだと思っていたのだが、ときおり西からも吹いているような気がするのだ。西のバルデード山脈から吹き下ろす風が、北からの風と合わさって湿原に吹き込んでいるのかもしれない。
(だとすると、俺は東へ向かっているのか……いや)
 考えるほどに分からなくなってくる。寒さと眠気のために、意識もがぼんやりとしてくる。油断していると、一瞬気を失っていたかのようになって、はっとして我に帰り、慌てて周囲を見回すのだが、これまで進んでいた方向すら分からなくなる。
(くそ。もっと仮眠をとっておくんだったな)
 寒さも堪えたが、いまではそれを上回る眠気と戦うのにアランは必死だった。いったん馬をとめて、少しでも休みたい気持ちがあるのだが、凍りついた湿原で眠っては、自分も馬も凍死することになるだろう。
(とにかく、草原に出なくては)
 だが、いつまでたっても、湿原の終わりは見えない。暗闇の先にそれがあると信じて、ずっと歩いていたのだが、それもいまでは疑わしく思える。
(方向を変えるべきか。それとも……)
 アランは迷った。
 馬上から空を見上げるが、頼りにしていた月は雲に隠れて見えず、正しい方角を教えてくれるものはなにひとつない。
(もしもここで、自分が死んだら……)
 信じて待っているレークや仲間たちはどうなるのか。トレミリアの命運は、自分にかかっているのだ。
(なんとか、進むんだ。なんとか……)
 朦朧としてくる意識に言葉を投げかけながら、アランは手綱をとった。だが、彼を乗せる馬も、その足どりは弱々しくなっていた。ときおり立ち止まり、次の一歩をなかなか踏み出せなくなることもあった。
「進め、進むんだ!」
 何度も馬腹を蹴り、声を出して命じるが、馬はよろよろとするばかりで、ようやく何歩か歩いたものの、ついにはそれきり動かなくなった。
「動け、おい……頼む、動いてくれ」
 こんなところで立ち往生になっては、それは死に等しい。アランは必死に馬を励まし、馬腹を蹴り続けた。
「もうちょっとだ。もうちょっとで、きっと草原へ出られるから」
 彼自身が、はたして本当にそう信じていたのかどうか。主の恐れを察知しているように、馬は進むのを嫌がった。
「くそ……くそっ」
 仕方なくアランは馬から降りた。凍りついた地面はとても冷たく、ザクリと足がめり込むと、それだけで身が凍るような思いだった。
「動け。頼む……動くんだ」
 前に立って手綱を引っ張るが、馬はもうこれ以上は動けないのだとばかりに、ただ足をよろめかせるだけだった。
 どこまでも続く暗闇と、凍てついた湿原の寒々しさに、しだいに恐ろしさと焦りとが込み上げてくる。このまま、ここで自分は死ぬのか。そんな気持ちが沸き起こる。
(馬を捨てて歩くか。もう、それしかないのか)
 だが、はたして歩いてゆけるのか。このままの方向へ進んで、本当に草原に出られるのか。なにもかも不確かで、頼りなかった。
(だか、ゆくしかない。ゆくしか……ないんだ)
 意を決してアランは歩きだした。
 馬が付いて来ることをかすかに期待したが、それはなかった。何歩か進んでは振り返るが、馬はその場にたたずんだまま、やがて暗がりに見えなくなった。
 凍りついた地面の上を、ザクリ、ザクリと音を立てて、ともかく彼は歩き続けた。
(ゆかなくては。俺が……ゆかなくては)
 命を賭ける使命がある。ただその使命感のために、アランは歩くのだった。
 凍りついた黒い地面と、夜闇の向こうに、きっと目指すところがあるのだと。
 そう信じて。
(レーク、隊長……)
(トビー、カシール……)
(ナルニア、さま……)
 愛するものたちの顔が、次々に脳裏に浮かぶ。
 おぼつかぬ足どりと、ときおり沈み込むように消え入りそうな意識……それに必死に抗うように、彼は歩いた。
 いったいどれほどの時間を歩いたろう。
 もう時間の感覚はほとんどなくなっていた。
 実際には大した時間はたっておらず、歩いた距離もさほどではないのかもしれない。あるいは、湿原の終わりはもうすぐなのだろうか。
 だがそれも、もうどうでもいい。
 自分がいったいどうして歩いているのか。ここは、どこなのか……それすら分からなくなってくる。
(俺は……いったいになにを、)
 その続きの疑問の言葉すらも分からない。
 ただ、操り人形のように、よろよろとよろめいて、一歩、また一歩と、重たい足を前に出すだけだ。
 足元の冷たさも、しだいに感じられなくなった。
 ぐしゃっという感触とともに、足首が土にめり込んだ。次の足を出そうとして、体がバランスを失った。
「う……」
 そうとしか声が出なかった。
 冷たい土の感触で、自分がそこに倒れたのだと分かった。
 だが、もう起き上がる気力はなかった。
 のろのろと手を差し出して、地面をつかもうとする、それすらも無意識の行為であったかもしれない。
(俺は……)
(隊長……レーク、)
 薄れゆく意識が、必死になにかの警告を告げていた。それは、本能的な死への最後のあらがいであったかもしれない。
 もう、風の音も聞こえない。溶けかかった、ねっとりとした土に包まれ、体はそのままそこへ沈んでゆくようだ。
(ああ……)
 諦めにも似た虚脱感がアランを包んだ。
 手足の感覚はなく、ゆっくりと、意識が闇の中へ沈んでゆく。
 それはある種、眠りに入るときのような、解放される心地よさであった。
 彼の体はもう、ぴくりとも動かなかった。

 どのくらいの時間が経過したのだろうか。
 夜明けまではまだずいぶんあるだろう、依然として深い闇夜は、世界を包んでいる。
 ゆっくりと、雲に隠れていたソキアが、その青白い顔を覗かせる。さえざえとした、女神の横顔を思わせるその月が、ほのかに暗闇に光をさした。
 もはや動くものとてないはずの、しんとした静寂のなかで、
 かすかに、足音がした。
 ざくり、ざくりと、
 その音は、ときおり遠くなったり、近くなったりしながら、しばらく聞こえたり、また聞こえなくなったりしていたが、
 あるときから、まるで確信をえたというように、明らかに近づいていた。
 ざくり、ざくり、
 地面を踏むのは、どうやら人ではなく、馬のようであった。
 だが、
「ほう、ここだったか」
 声がした。
 馬には誰かが乗っている。
 うっすらと、月明かりが、その影を浮かび上がらせる。
「こんなところに……さて」
 馬の手綱をとるのは、およそ、このような所にはひどく不似合いな老人であった。麻色の長ローブに身を包み、ぼさぼさの白髪に白い髭をたっぷりと伸ばして、ぎょろりとした目つきは異様でもある。
 寒々しく凍りついた夜の湿原に、こんな老人が一人でやってくるなどはありえない。だが、老人はさして寒さを感じていないのか、その薄手のローブの袖から骨ばった手を覗かせた。
 老人の手が地面を指さすと、馬はその場におとなしくなった。老人はひょいと馬から降りた。その足は裸足であった。
「おや」
 少し驚いたような声を上げ、
「なんだ、かの者ではないではないか」
 老人は、あてがはずれたように言うと、地面を覗き込んだ。
「なるほど、これのせいじゃな。短剣そのものより魔力は落ちるものの、持ち主の意志が作用すると、一瞬の輝きはそれにひけをとらんと、そういうわけなのだ」
 ぶつぶつと言いながら、そのとがった鷲鼻を、地面に向けてくんくんとさせる。
「ふうむ。まだ間に合いそうだが、どうしたものか……」
 髭を撫でつけながら、老人は少し考えるふうだった。
「これが、大陸レベルでの歴史干渉となるやいなか。いや大局的に見れば、当然なるだろう。やめておくのが賢明、だが……」
 土に埋もれるようにして倒れている騎士を見下ろす。
「ええい。仕方ない」
 いまいましそうに言うと、老人は口の中でなにかの言葉をとなえた。
 ローブの中からすっと手を出すと、いままでそこにそんなものが入っていたとは思えない、人の頭くらいはありそうな、輝くような球体が現れた。
「なあ、ばあさんや。本当にいいのかの……」
「うん……なに?ああ、そうかい。はいはい。分かったよ」
 老人はまるで、その球体と話をするように、皺深い顔に笑みを浮かべ、球体を優しく撫でた。
「では、やってみるかの。なに、まだ完全に死んではおらぬから、そう難しくはなかろうよ」
 球体をゆっくりと差し出すようにして、地面に倒れた騎士の上にかざす。
 老人が呪文のようなものをぶつぶつとつぶやくと、球体はきらきらと、より強い輝きを放ちだした。
 輝きは大きくなり、倒れた騎士の背中に、その光がかぶさった。
「さあ、これでよかろう。あとはただ……」
 老人は球体を再び、ローブの中に戻そうとした。
 だが、その手をふととめる。
「なに?最後まで面倒をと?やれやれ……仕方のない」
 かっかっ、という乾いた笑いが上がる。
「このわしをこき使えるのは、この世界でただ、お前だけだわい」
 老人はまた、そのきらきらと輝く球体と、妖しく、そして、いとおしそうに言葉を交わすのだった。



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