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   水晶剣伝説 \ ロサリート草原戦(後編)


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「う……」
 濡れたものが顔を撫でるような感触に、アランは目を開けた。
 うっすらと光が感じられる。そして草の匂いが……
「ここは……」
 しだいに意識がはっきりしてくる。
 自分がいるのは、冷たく凍った湿原ではなく、やわらかな草地であるようだ。
「俺は……湿原を抜けたのか?」
 顔を舐めていたのは、彼を乗せてきた馬であった。
「お前……まさか、お前が運んでくれたのか?」
 覚えているのは、寒々しい真夜中の湿原を、手足を凍えさせながら歩いたこと。そして、そのあとの記憶はなにもない。
 まさか、自分は死んで、夢を見てでもいるのか。ふとそんなことも思ってみたが、死んでから夢が見られようはずもないと、アランは自分で苦笑した。
「では、ここは……」
 腕に力を入れ上体を起こしてみる。腰が少し痛んだが、それこそ、これが現実であるなによりの証でもあった。
「ロサリート草原……か」
 あたりはまだ薄暗い。だが、さきほど感じた光はすぐに分かった。
「夜明けだ……」
 東の空から、いままさにアヴァリスが到来しようとしていた。
 はるか彼方の地平線に、うっすらと見える山脈のシルエット……その向こうから、輝く太陽がゆっくりと顔を出す。
「ああ……」
 アランは沸き起こる感動を覚えた。
 それは、命があることの喜びであり、この瞬間に自分が、ここに確かに存在しているのだという、大いなる力のもとで……それは黄金律といってもよいのかもしれなかったが、その、あるべき自分の生への確認というべき、根源的な感覚であった。
(俺は、生きている……この大地のもとに。生かされている)
 彼はしっかりと地面に立ち上がると、しばらく、昇りゆく黄金色の円盤の輝きを、じっと見つめていた。
「草原だ……草原に出たんだ」
 世界は、目の前で明るさを取り戻してゆく。周囲を見渡すと、東から南の方角へ、草原の広がりがどこまでも続いている。
「俺は、湿原を抜けたんだ。ああ、なんでもいい。それが事実なら!」
 南西に目を向けると、彼にもよく見覚えのある山々がそこにある。ガーマン山地だ。その向こうに、愛するトレミリアがある。北を振り返ると、草地の先には、はっきりと色の変わった地面が見える。自分が抜けてきた湿原地帯であった。
(では、ここは草原の北西部……まさしく目指していたあたりなんだ)
「本当に、お前が俺を運んでくれたのか?」
 馬に向かって訊いてみても、答えが分かろうはずもない。ただ、凍りついた湿原では、歩くのも限界であったはずのこの馬が、いまはすっかり元気よく鼻を鳴らし、もりもりと草をはんでいる。
「これは、奇跡なのか……」
 アランはしみじみとつぶやいた。その間にも、アヴァリスはいよいよその全身をあらわにし、草原を明るく照らしてゆく。おそらく今日も、激しい戦場になるだろうこの大地を。
「そうだ。ともかく急がなくては」
 にわかに己の任務を思い出すと、アランは再び馬にまたがった。疲労感はあったが、頭はむしろすっきりとしていた。
「南へ!」
 うっすらと立ちこめる朝もやの中を、騎士を乗せた馬が駆けだした。

 トレミリア軍の本陣は、朝を迎えての戦闘の準備に慌ただしく動き始めていた。
 両翼の騎馬隊が隊列を整え、歩兵部隊は鍛冶屋の手によって修復された鎧をまとい、トレミリアの三日月紋の流旗を立てて、敵を迎え撃つ陣形を作ってゆく。
 開戦からすでに六日がたち、軍全体での死者はすでに三千を超えた。負傷者は五千人にも上る。多くのものが疲労し、そして傷を負いながら、また昇りゆくアヴァリスを正面に見ながら、今日一日を生き延びようと、それぞれ神に祈り、あるいは愛するものの顔を思い浮かべて力をみなぎらせるのであった。
 しかし、この数日というもの、いくさはまた膠着状態に陥ろうとしていた。互いに奇襲攻撃はせず、日が昇ると戦いだし、日が沈めば戦いを終えるという、一見すると規則正しい暗黙のルールのようなものがそこに存在するかのようだった。それはおそらくは、夜襲や奇襲などで無益な犠牲者を増やしたくないという、双方共通の方針でもあったろう。
 そのようにして、とくに昨日は、整然とした、いわば表面的な小競り合い程度の戦いで過ぎた。援軍を待つ構えのトレミリア側からすれば、敵側の出方に合わせて、いくぶん時間を稼ぎたいという思惑も含めて、それは確かにありがたかったのだが、
「フェスーンからの援軍はまだか?」
 この朝の軍議で、レード公は開戦して以来初めて、ややその声を荒らげた。
「は、今朝も、まだなにも連絡はありません。早朝に向かわせた偵察隊も、それらしき部隊はどこにもいないと」
 側近であるレード公騎士団副団長のリンデスは、斥候兵から集められた報告書を読み、それを主に手渡した。
「ふむう、ホルンの周辺には援軍部隊の影も形もないというのか」
「そんな馬鹿な」
 左翼部隊を統括するベテラン騎士、アルトリウスが声を上げる。
「どこかへ消えた、とでもいうのですか。一万五千もの部隊が」
「それは分からぬが、昨日の明け方に迎えをだし、遅くとも昨日の昼には、到着するはずの援軍が、丸一日たっても到着しないなどというのは、只事ではないだろうな」
 レード公の言葉に、天幕に集まった人々は黙り込んだ。アルトリウス、ブロテ、リンデス、ヨルン、ヤコンといった面々は、それぞれに腕を組んだり、あごに手をやりながら、互いの顔を見合わせる。ローリングは騎兵部隊の再編成をしたいと、その旨を配下のヤコンに託し、今朝は姿を見せていない。
「それでは、迎えに出たレークどのの小隊の行方もまた、まったく分からないということですかな」
 そう尋ねたブロテに、リンデスがうなずく。
「おそらくは。もし援軍部隊を捜索するにしても、丸一日もかかるならば、その間でこちらに報告をよこすはず。それすらもないということは」
「報告もしようがない状況に陥っている、ということか」
「ともかく、新たに斥候を出すべきですな。昨日は霧がひどくて視界が悪かった。もしかしたら、そのせいで部隊も方角を見失ったのかもしれない」
「そうですな。自分もそう思います」
 人々は互いに深刻そうにうなずきあいながら、それでもまだ、援軍はいずれ到着するだろうという、楽観的な見通しを、どこかで信じていた。あるいはそう、信じようとつとめていた。
 その後、定例の報告……各部隊の編成や装備、物資の配分状況などの確認が行われ、この草原のいくさそのものが、日常的な、大変ではあるがこなせなくもないというくらいの行事に思われ始めているという、油断というほどではないが、かすかな緩慢さとともに、人々がやれやれと腰を上げかけた。
 そのときである。
「報告、ジャリア軍に動きが!」
 騎士が慌ただしく駆け込んできた。
「どうした?」
「それが、その……左右に、ジャリア軍が、大きく……」
 しどろもどろで言葉にならない若い騎士を、レード公が一喝する。
「落ち着け。まず息を整えるがよかろう。それから話せ」
「は、はい」
 騎士はひとつ大きく息をつくと、簡潔に報告した。
「失礼いたしました。ジャリア軍が、大きく二つに分かれました」
「なんだと?それはどいうことだ」
「はい、前線の見張りからの報告ですと、ジャリア軍が左右に大きく広がり、そして、しだいに北側と南側に分かれはじめたということです」
「それは……いったい」
 天幕の人々はざわめいた。
 どう考えていいものかというように、レード公をはじめ、アルトリウスやブロテも、互いに顔を見合わせる。
「どういうことなのでしょうな」
「ううむ……」
 これまで、目立った動きを見せなかったジャリア軍が、ここにきてそのような戦術に出てくるとは。そこにはいったいどんな意味があるというのか。
「もっと詳しい報告を……いや、私が直接見てまいりましょう」
 そう言ってアルトリウスが進み出る。すぐにブロテも手を挙げた。
「自分も行きましょう。よろしいですか?公爵」
「よかろう。詳しい報告をすぐに頼む。必要ならば、前線の隊長たちにも、それとローリングの方にも知らせてやれ。もし、状況がさらに動くようなら、現場の判断で、部隊を動かしてかまわん」
「分かりました。では」
 ブロテとアルトリウスは天幕を出ると、それぞれに小姓の引いてきた馬にまたがった。
「では行くぞ、ブロテどの。左翼回りで前線へ出よう」
「了解した」
 早朝の冷たい風をきって、二人の馬が走り出した。
 隊列を整え始めた左翼の騎馬兵たちが、通り掛かる二人の姿に、馬上で胸に手を当て礼をする。巨漢のブロテは、馬上にあるとまた、さらに大きく威厳に満ちて見える。その腰には、自分の剣の他に、レークから預かったカリッフィの剣もつり下げていて、さながら二刀流といった様子も、なかなか様になっていた。
 アヴァリスのまぶしい輝きに目をそばめて、ブロテは東の草原に目を凝らした。
「アルトリウスどの」
「うむ」
 二人が馬首を並べて馬をとめると、すぐに前線部隊の隊列から一騎が近づいてきた。左翼の騎馬隊の隊長、ケインであった。
「アルトリウスさま……」
「うむ、分かっている」
 部下の報告を受けるまでもなく、ブロテもアルトリウスも、さきほどからじっと、前方に目を凝らしていた。
 そこに見えるものは……異質なものだった。
 連日の戦闘で、ずいぶんと草地は荒れて、土がめくれ、あちこちにくぼみや穴ができている。あるいは、そこには回収しきれなかった兵の亡骸を急いで埋めたのかもしれぬ。少なくとも数千人からの血を吸ったであろう地面には、壊れた鎧や兜、武器類があちこちに転がり、気をつけていないと馬が足をとられかねないありさまだ。そのせいもあり、戦場は少しずつだが北側へと移動していた。
 アラムラ森林へと続く南側からは、やや傾斜がついて、このあたりはずいぶん地面が低い。なので、双方とも弓隊にかぎっては、それを南側にずっと残しておきたかったのだ。全軍をあまり北へ動かしすぎると、戦いに不利になる。それが誰にでも分かる草原の戦いの論理であるはずだったが。
「おお、動いている……」
 ブロテは思わずつぶやいた。
 距離はおよそ一エルドーンほどだろうか。輝くアヴァリスを背後に、黒い影のように見える、その隊列……それは、じわりじわりと、いまも少しずつ動いていた。
「さきほどよりも、さらに北側へと広がっているようです」
 ケインが指を差す。アルトリウスは馬上で眉間に皺を寄せた。
 黒く広がってゆく、ジャリア軍の隊列、それはひどく不自然な光景に思えた。
「しかし、あそこまで隊列を広げては、前後の厚みはほとんどなくなる。むしろ騎兵で突破しやすくなると思うのだが」
「ですな」
 うなずいたブロテも、東から北へと広がる黒い帯のような敵軍をじっくりと見渡す。
「だが、きっとなにか、そこに意図があるのでしょう。北へ……ああして北側から我々を包囲するということは」
「さきほどまた偵察をやりましたが、ジャリア軍は左右に、つまり南と、北に分かれており、肝心の中央部がまったく空いているのです。これも、なにかの作戦でしょうか?」
 ケインの言う通りであった。確かにここから見ても、それははっきりと分かる。
 右手、つまり南側はほぼ、アラムラ森林の方まで敵陣が伸びており、軍勢はそこから黒い壁のように、ぐるりと北まで広がっているのだが、その真ん中だけがぽっかりと空いている。そこだけ敵軍の黒い壁がとぎれているのが、かえって奇妙に思えた。
「敵はつまり我々を、南と北から挟み打ちをするつもりなのだろう。あるいは、包囲するつもりが、ただ数が足りないのでああなったと、そういうことではないかな」 
「かもしれませんが、しかし……」
 ブロテは、アルトリウスの考えにうなずきはしなかったが、他に考えつく意見もなかったのでそのまま口を閉じた。
「それで、敵の方の援軍は到着しているのか?」
「おそらくはまだのはずです」
「だろうな。偵察からの情報では、少なくとも、今朝まではそうした様子はなかった。だとすると、あるいは、やはり単に数を多く見せる作戦なのかもしれんな」
 アルトリウスは意を得たというようにうなずくと、これで偵察を終わりだとばかりに振り返った。
「ブロテ卿、いったん戻ろうではないか。レード公に報告をし、今後の動き方を決めなくてはなるまい。あの様子だと、敵はゆっくりと我らを包囲にかけようとしている。いますぐに襲いかかってくることはないようだ」
「ええ、ですが……」
「どうした?」
 言葉にならない己の考えを飲み込むように、ブロテは首を振った。
「いえ。私もすぐにゆきますので、どうぞお先にお戻りを」
「そうか」
 それを不審がるようでもなく、アルトリウスは部下のケインにいくつかの指示をすると、優雅に馬首を返した。
「……」
 一人残ったブロテは、前線からじっと敵軍の動きを見つめていた。
 少し目を離しているうちに、敵軍の黒い帯はまたじわりと広がっているようだった。だがそれは急激な動きではない。
 いっそ、いますぐ敵が突進してくるのであれば理解できるのだが。ゆるやかに、じれったいほどにゆるやかに広がる、その黒い帯は、まるでこちらを少しずつ、少しずつ包み込もうとするかのように思える。
「ブロテどの、いかがしますか。また偵察をやりましょうか?」
 馬上にじっと動かないブロテを見かねてか、ケインが近づいてきた。アルトリウスの気に入りの部下だけあって、頭もよく誠実な人柄の騎士伯だ。 
「いや……いい。私もそろそろ戻るとしよう」
「はっ」
 馬上でさっと騎士の礼をするケイン。トレミリア屈指の剣士であるブロテは、多くの若手騎士から尊敬を受ける存在であった。それに軽くうなずきすけると、ブロテは馬首を返した。だが、思い出したように、最後にもう一度、北の方角を見やる。
「北……か、その向こうにあるのは」
 ロサリート草原の北側……そこには湿原地帯が広がっているはずだった。その湿原では、レークらトレミリアの援軍が敵の包囲を受け、押し込められていることなどは、彼には想像もつかない。
 ただ、しきりと、なにかよくない予感がするだけだ。それは戦士としての勘であったかもしれない。
「無事でおられることだろうが、どうも胸騒ぎがする」
 ブロテはふと腰の剣に手をやった。レークから預かってから、ずっと身につけているカリッフィの剣だ。
「いずれはきっと、これが必要になるに違いない。それまでは……」
 じっと北の方向を見つめて、少し迷うように首を振ると、ブロテは馬腹を蹴った。
 いまは自分にできることはなにもない。その歯がゆさが、彼の精悍な顔をいっそう険しくさせた。

 ブロテが本陣の天幕に戻ると、アルトリウスの報告を受けたレード公らの面々が、ジャリア軍の新たな動きについての対策を話し合っていた。
「しかし、そのような大胆な布陣というのは、どうにも解せぬ」
「奇策というべきでしょうな」
「ですが、敵の援軍がまだ到着しないのなら、数の上では互角。その上、ああして全軍を横に広げるのなら、かえってこちらとしては対策がとりやすい。ここはやはり、中央を突破するべきでしょう」 
 人々を見回し、アルトリウスはきっぱりと言った。ちょうど天幕に戻ったブロテを見て、同意を求めてくる。
「ブロテ卿、そう思わぬか」
「そうですな。たしかに……」
 人々の注目を受けながら、ブロテは慎重に言葉をついだ。
「あのジャリア軍の布陣……大きく北側に開いて、まるでこちらを包み込むように思える、あの動きには、たしかになにかの意図があると思われます」
「つまり、たとえ隊列を薄くしてでも、我々を包囲したいというのが、敵の思惑だということか?」
 腕を組んだレード公がブロテに尋ねる。
「おそらく。なにか、敵にはそうすべき理由があるのではと思われます。もちろん、アルトリウスどのの言うように、中央を突破するのもひとつの作戦だとは思いますが」
「では、ブロテ卿は、私の提案には不満があると言うのかな」
「そういうわけではないですが、おそらく、敵側も中央を突破しようという我々の動き方は、とっくに予想しているのではないかと」
「では、どうすべきだというのか?」
 アルトリウスはいくぶん眉を吊り上げた。
「このまま手をこまねいて、敵が包囲してくるのを待っていろとでもいうのか」
「いえ、そうは申しません。ただ、中央突破をかけるにしても、敵の動きの様子を見ながら、慎重に対応するべきかと」
「それはもちろんだ。敵がわざわざ中央を空けているということは、我々をそこに引き込むことも考えているのだろうからな。それは私だって分かっている。だが、相手の動きに遅れをとっては、敵の援軍が到着するのを待つことにもなってしまうぞ」
「確かに、」
 レード公がうなずく。
「アルトリウスの言うように、待つことでかえって状況が不利となることもあろう。敵がこのように奇策をしかけてきたということは、つまり奇策をとらなくてはならぬ状況であるからなのだろう。数の上で上回っているのなら、なにもそんなことはせずとも、正面から押してくればいいのだからな」
 公爵の言葉に、リンデス、ヨルン、それに前線から報告に戻ってきていたクーマンンらもうなずく。
「では、やはり敵の包囲を破るための、くさび型の密集隊形をとりますか」
「ふむ、みなに異存がなければな」
 レード公が天幕に集まった騎士たちを見渡した。誰も異論を唱えるものはいなかった。
「よし、では前列に騎馬隊を集めましょう。この際、弓兵はもう不要、歩兵隊に吸収して中央部をより厚くするのがよいでしょう」
 学んできた戦術を発揮するときとばかりに、アルトリウスが勇んで進言する。
「敵の包囲が狭まったときを狙い、一気に隊列を突進させます。もちろん、ある程度の人数は予備兵として後方に残し、トレミリア領内への敵の進入を防ぎます。上手くすれば、前後から敵を挟み打ちにできるでしょう」
「なるほど。では左右の騎兵四千を前方に、中盤に五千の歩兵、残りを後詰めにするという編成でどうだ」
「よいでしょう。ではさっそくかかりましょう」
 人々が動きだそうとしたとき。
「お待ちを、方々」
 よく通る声とともに、大股で天幕へ入ってきた騎士がいた。
「おお、ローリングか」
「遅くなりました。偵察にやっていた騎士がようやく戻ってきたもので。ヤコンからの報告も聞きました」
 ローリングは、房飾りのついた銀のかぶとを脇にかかえ、さっと騎士の礼をすると、天幕にいる騎士たちを見回して言葉をついだ。
「敵の動きについても、ここにいる方々と同じほどには把握しております。その上で申し上げますが、これは敵の罠かと思われます」
「むろん、その可能性も分かってはいるが、どちらにしても、敵の包囲をそのままにしておいては……」
「アルトリウス、まずは最後までローリングの意見を聞こうではないか」
 レード公爵の言葉に、アルトリウスはおとなしく口をつぐんだ。
 公爵が、ローリング騎士伯に絶大な信頼を置いていることは誰もが知っていたし、このトレミリア最高の騎士は、いかなるときも冷静さを失わないという点で、彼を知る人間であれば、等しく敬愛を抱かずにはおけない。いまは激しい戦いに無数の傷のついた鎧姿であったが、それでも鋭い眼光に、全身から気力をみなぎらせ、その存在感だけで、そばにいるものに頼もしさと信頼を抱かせる。彼はそういう人物であった。
 ひとつ息を整えると、ローリングは話しだした。
「敵が、ああして、北側に広がった陣形をとるのは、間違いなく我々を包囲する狙いでしょう。そして、こちらが中央を突破しようという狙いは、まったく正しい。つまりは敵もすでに、それを予想しているはずです」
「むろん。だがそこをあえて突破してやれば、敵の狙いも明らかになろう」
 アルトリウスの言葉にうなずきながら、ローリングは言葉を足した。
「それはそうですが、ひとつ気になるのは、敵の数が明らかに少ないことです」
「というと?」
「さきほど、独自に部下をやり、ぎりぎりまで敵に近づいて偵察をさせましたが、報告によると、おそらく、現在の敵の総数は一万もないのではないかということです」
「それは、つまりどういうことなのだ」
「私の考えはこうです」
 ローリングは、敵の布陣に見立てるように、その両手を大きく広げて見せた。
「敵は、その数を多く見せるために、あえて広がって、こちらを包囲しようというように、見せかけているのではないかということです」
「包囲しようと見せかけるとは、それは、いったいなんのために?」
 アルトリウスが眉をひそめる。
「それは、はっきりとはまだ分かりません。ただ、それが分かるまでは、みすみす敵が予想している陣形をとるべきではないのではと」
「しかし、待つということはすなわち、敵の本国からの援軍が到着するということになりますぞ。ここはやはり早急に手を打つべきかと、私はそう考えます」
 アルトリウスとローリング、二人の意見の微妙な対立に天幕は静まった。どちらにも一理があり、どちらが正しいということも決めかねるというように、人々は顔を見合わせる。
「そなたらの考え、二人ともまことにもっとも。アルトリウスの言うように、なにもせんで手をこまねいているだけでは遅れをとろう。ただし、ローリングの言うように性急に動きすぎても、敵の罠に落ちる恐れがある」
 指揮官であるレード公は決断をくだした。
「ともかく部隊を新たに編成し、敵の出方を伺いつつ行軍を開始する。よいか」
「はっ」
 騎士たちの顔に緊張が走る。いよいよ、こちらから敵へ打って出るときがきたのだ。
「まず、全軍の隊列を縦に密集させる。そして、いつでも突破がかけられるよう騎兵を前方に置く。北側には念のために弓兵を。敵の動きに合わせて矢を放てるようにしておけ。それが不要という判断なら、そのまま歩兵に吸収するがよかろう。騎兵部隊の指揮はアルトリウス、中央の歩兵隊はブロテ、後詰めはリンデスにそれぞれまかせる。常に報告をとり合い、敵になんらかの動きが見えた場合はすぐに連絡させよ。それからローリング、おぬしは私のそばで副官の役割をしてもらいたい。状況によっては騎馬隊を率いたり、別動隊の指揮をとれるように」
「了解しました」
 レード公の命令を受け、隊長クラスの騎士たちが、部隊の編成にとりかかるべく散ってゆく。
 トレミリア軍が動きだした。
 アルトリウスの指揮のもと、左右の騎馬隊が歩兵隊の前方に集結し、それは三千を超える大きな騎馬部隊となった。中央の歩兵部隊は前後に長くなり、騎馬隊の突進に合わせて敵陣へ突入すめるための身軽な装備となって整列する。全軍の北側には弓隊と、楯となる重装兵が配置された。
「隊形整いました」
「こちらも、完了いたしました」
 トレミリアの三日月紋をなびかせる流旗を立てた本陣の後衛に、続々と報告が届いてくる。レード公爵は馬上から、見事にくさび形に並んだ一万を超える部隊を見やり、満足そうにうなずいた。
「よし。そのまましばらく待機。敵の動きを見ながら、いつでも動けるようにしておけ」
 信頼を置く隊長騎士たちが、それぞれの己の持ち場へと向かうのを見つめながら、公爵はかたわらにいるローリングに訊いた。
「どう思う?」
「いまは、これが最善の陣形でしょう」
 馬上で兜の面頬を上げて、前方を見つめていたローリングは、ゆっくりと左手……北へと視線を移した。
 ジャリア軍の方には、まだ大きな動きは見えなかった。東から北に大きく広がった黒い隊列は、こちらに接近してくるふうでもなく、相変わらず不気味に沈黙を守っている。それはまるで、網にかかる獲物を待つような静けさで、それがトレミリアの兵士たちをいっそうじりじりとさせた。
「それにしても、敵にほとんど動きがありませんな」
 黒く広がった敵陣を眺めながら、ローリングがつぶやく。
「向こうから仕掛けてくる様子がないということは、敵はやはり、援軍の到着を待っているのかな」
「もちろんそれもあるでしょう。しかしそれにしても、ああも兵が広がっているというのは、やはりなにかが……」
 言いかけたローリングは、ふと言葉をつぐんた。
「どうした?」
「いえ、なにか……左翼で異変が」
 馬上から左手……陣形の北側をじっと見つめる。ローリングの視線を追って、レード公もそちらを見た。
「あれは……」
 整然と隊列を組む重装兵と弓兵の向こう。何騎かの騎馬兵が、そちらへ向かって慌ただしく飛び出してゆく。
「いったいどうしたというのだ」
「私が見てきましょう」
 そう言うや、ローリングは「ハイっ」と掛け声ひとつ、馬腹を蹴った。
 房飾りのついた銀色に輝く兜と、新しい赤ビロードのマント姿は、それだけで騎乗する者が誰なのかを物語っていた。トレミリアの栄えある騎士伯、ローリングの馬が部隊を通れば、騎士たちはさっと道を空け、崇拝を込めた騎士の礼でそれを見送る。
「どうした、なにがあった?」
 隊列から飛び出した騎馬兵たちに近づいてゆくと、ローリングは声を上げた。
 それが軍の副司令官であるローリング騎士伯だと、すでに分かっていた騎士たちは、すぐに馬を下りると、うやうやしく胸に手を当てた。
「なにも命令は出ておらぬはずだが、このように隊列を乱すとは、相応の理由があるのだろうな」
「はっ」
 そこにいた騎士の中の一人が、直立して報告する。
「じつは、怪しいものを捕らえましてございます」
「怪しいものだと?」
 見ると、二人の騎士に取り押さえられ、うずくまる男の姿があった。
「その者は、なにものだ?」
「はっ、たった一騎でわが軍に接近してきましたところを発見し、ここに捕らえました。まだ尋問はしておりませんが、」
 騎士が言い終わる前に、捕らわれた男がはっとしたように顔を上げた。
「ローリングさま!」
 男の顔は青ざめており、疲れ切っているようだった。だがその目だけは、ぎらぎらと光っている。
「ローリングさま、私は……」
「この、無礼者が。まずはお前の尋問が先だ」
 騎士たちに押さえつけられて、男はうめき声を上げた。その姿は、兵士というにはあまりにも軽装で、革の胸当てはすり切れ、全身には土や草擦れが付いて、とても汚れていた。
「待て……どうも、見覚えがあるぞ」
 ローリングは馬を下りて、男の顔をじっくりと見た。
「お前は……たしか」
「は、はい。私は、私は……アランです」
 男は……いや、アランは必死に叫んだ。
「レーク隊長の部下の、アランです!」
「おお……」
 それを聞いて、ローリングは目を見開いた。
「そうか。レークの……覚えているぞ。たしかお前は、草原に現れたレークを引っ立ててきたときの騎士だな」
「は、はい。そうでございます」
 アランはうなずくと、言葉をついだ。
「その後、レーク隊長の小隊に入り、いくさを戦いました。そして、今回の任務で……うっ」
「大丈夫か?待て、水をやろうか」
「も、申し訳、ありません」
 苦しそうに息をつくアランに、革袋の水を差し出してやる。
「この者はトレミリアの騎士、アランだ。放して座らせてやれ」
「は、はっ」
 騎士が手を放すと、アランはその場にへたり込んだ。
「水を飲むがいい」
「は、はい……」
 受け取った革袋から、アランは水をむさぼるように飲むと、何度も咳き込んだ。
「うっ、も、申し訳……」
「かまわん。それより聞かせてくれ。レークはどうした?お前たちは、援軍を迎えに北へ向かったのだろう」
「は、はい……」
 大きく息をつくと、アランは、気力を振り絞るように声を出した。
「もう……申し上げます。トレミリアからの援軍は、現在、草原北側の湿原地帯付近にて、ジャリア軍に包囲され、身動きがとれぬまま……」
「なんだと?」
「こ、この書簡を……」
 アランは懐から大切そうに筒を取り出した。バルカス伯とヒルギス伯が連名でしたためたものだ。
 ローリングがそれを受け取ると、アランの体から力が抜けた。
「おい、しっかりしろ」
「救援を……早く」
「レークは、レークは無事なのか?」
 だかアランはもうなにも答えなかった。任務を果たした堵感もあったのだろう。その体を揺さぶるが、もうすでに彼は気を失っていた。
「なんと……いうことだ」
 ぐったりとなったアランを支えながら、ローリングはつぶやいた。
「ジャリア軍の包囲を……そうか、そういうことか」
 北側に見える黒い広がり……そのジャリア軍の陣形を睨むように見つめる。いまとなっては、広がったジャリア軍の陣形が、おそるべき意味をともなっていることを、歴戦の騎士ははっきりと理解していた。
「ともかく、アランを運んで手当てをしてやれ。意識が戻り次第、私のところへ」
「了解しました」
 アランの体を騎士に預けると、ローリングは馬に飛び乗った。
 事態の急変を告げる使者が現れたことに、にわかに気持ちが昂った。同時にまた、いくつもの難題や、今後の作戦についてなどが、ぐるぐると頭の中を駆けめぐる。
 あの陽気な友は無事でいるのか。そして、トレミリアの援軍部隊はどうしているのか。今後の展開や見通しを考えるほどに、不安が重たくのしかかる。
「ハイッ」
 己自身を鼓舞するような掛け声とともに、ローリングは馬に拍車をかけた。驚いたように馬がスピードを上げる。
 一刻も早く、動きださなくてはならなかった。
 そう、手遅れになる前に。


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