8/10ページ 
 

水晶剣伝説 [ロサリート草原戦(前編)


[

 そうしてセルディ伯の一行は、ウェルドスラーブ王の乗る馬車を守りながら、カルデリート通りを西へと抜けた。
 市街を出て、マクスタート川にかかる橋を渡り中州に入っても、まだ集まった市民たちからの歓声は続いていた。馬車の窓は閉めて直接は見えなかったにせよ、人々はそこに大変な身分の客人が乗っていることを、うすうす知っていたのだ。
 中州からさらに橋を渡り宮廷前広場まで来ると、そこにはもう一般の市民たちは出入りが出来なくなっていた。宮廷へと続く城門の前には、白銀の鎧姿の騎士たちが整列して、高貴なる客人を迎えるための準備ができていた。
「セルディ伯ご一行、ご到着しました!」
 到着した馬車に歩み寄ったのは、黒ビロードの正規の礼服に、文官の最高位を示す藍色のマントを羽織った、トレミリア宰相、オライア公爵であった。
「ここより、私が王城へとご案内つかまつります」
 ここではまだウェルドスラーブ王の存在は、公にはしない方針なのだろう。オライア公は、馬車の窓に向かってうやうやしく礼をした。王の方もそれを承知してか、窓から顔を覗かせることもしない。
 公爵は、そこにいたクリミナのことをちらりと見たが、言葉を交わすことはせず馬に乗ると、馬車を先導する騎士の一隊に自らも加わった。父娘の久しぶりの対面でもあったが、公の任務にあるいまは、王国に仕える宰相と女騎士にすぎない。
「門を開け」
 オライア公が手を上げると、城門が重々しく開かれた。
 騎士の隊列に守られて、馬車は宮廷へと入った。
(ああ、戻ってきたのね)
 宮廷への門をくぐると、クリミナは馬上から周囲を見渡した。
 緑豊かな庭園と林の間を、整えられた石畳の道がどこまでも続いてゆく。左手に目を向ければ、ジュスティニア神殿の高い白屋根が木々の間から崇高な顔を覗かせ、右手には緑豊かな美しい庭園の向こうに、アミラスカの丘が見えてくる。
(なにも変わっていない……この平和な、トレミリア)
 ウェルドスラーブや草原でのいくさの緊迫した空気とはまったく異なる、ゆったりとした雅びやかな時間が、このフェスーン宮廷の中にはまだちゃんとあった。
 前をゆくセルディ伯も、晴々とした顔で馬上から宮廷の景色を見渡している。それは他の騎士たちも同じであったろう。自分たちはフェスーンに帰って来たのだという、その確かな実感に包まれて。
 そのとき、馬車窓がかすかに開けられたことにクリミナは気付いた。中にいる貴賓もきっと、この美しい宮廷の風景に心動かされたに違いないと、彼女は誇らしげに思った。 
 やがて、道の先には大貴族たちの住まう屋敷や城館が次々に見えてきた。その向こうのひときわ高い丘の上には、朝日を浴びてそびえるフェスーンの王城の威容が。
(ああ、なんて美しいのかしら……)
 しばらくぶりに近くに見る城の姿に、クリミナは馬上から感動に打ち震えた。アヴァリスの光を受けて輝くような白壁と、凛々しく突き立った青屋根たち……いくつもの塔を備えた優美な貴婦人のような城、いまだ戦火にまみれたことのないこの王城こそが、トレミリアのシンボルであり、彼女たち王国のすべての騎士の誇りにして、守るべき姫君のように大切なものであるのだった。
 馬車はさらに内郭の城門を抜けて、いよいよ王城に続く丘へさしかかった。赤紫に紅葉した葉が美しく彩る、収穫の終わったぶどう畑を両側に、馬車は粛々と丘を上る。中腹にあるのは、蘆が絡みついた美しい白壁と円柱の小殿で、そこはかつて剣技会に優勝したレークが騎士に叙任された場所でもある。
 さらに上ると、城壁に囲まれたフェスーン王城の門が現れた。数えて十二の塔を持つ、この王城の内郭へと入ることを許されるのは、王族とそれに仕える女官、そして最高位の貴族のみである。
 城壁をぐるりと周り、先頭をゆくオライア公が案内するのは、王家の一族が住まう天守への門とは別に、諸公たちを集めての謁見や式典などにも使われる、いわば城の中の離れというべき建物であった。その門の前まで来ると、オライア公は馬を降り、セルディ伯に先導された馬車が止められた。
 御者をつとめる騎士が、いそいそと馬車の扉を開ける。客人が降り立つと、護衛の騎士たちにさっと緊張が走った。
「こちらです」
 オライア公が胸に手を当て、貴人への敬意を示しながら、案内をする。うなずいたウェルドスラーブ王は王妃の手を取り、提督夫人とともに門をくぐった。セルディ伯とクリミナもそれに続く。この先は貴族と、貴族騎士以外は入れない。
 見張り騎士の立つ建物の入り口から、石段を上って中に入ると、ひんやりとした回廊が続いていた。その先にある扉をくぐると、そこは天井の高い大広間であった。
 明かり取り窓から降り注ぐ光が、命の神ジュスティニアをはじめとした十二の神々が描かれた壁の絵画を荘厳に照らし出し、上階の張出し窓に並んだ楽師たちが音楽を奏で始めると、そこはまるで、聖なる礼拝堂のように厳かな空気に包まれた。
 床には赤いビロードの長絨毯がまっすぐに敷かれ、その両側には、トレミリアの名高い大貴族たち……ロイベルト公爵、サーモンド公爵、マルダーナ公爵、スタルナー公爵といった、面々が、尊い客人を出迎えるように居並んでいる。
「ウェルドスラーブ国王、コルヴィーノ一世陛下、ティーナ王妃殿下であられます」
 絨毯の上にひざまずいたセルディ伯が報告する。
「トレヴィザン提督夫人サーシャさまともども、我がフェスーンにお迎えいたしました」
「大儀であった」
 精巧な金細工の紋章が施された玉座から立ち上がったのは、トレミリア国王マルダーナ四世である。
「ようこそ、我がトレミリアへ。コルヴィーノどの」
 金糸を織り込んだ紅色のローブに、トレミリアの三日月紋をあしらった青い長マントを羽織り、略式の王冠をかぶった国王は、ゆっくりと客人に向かって歩み寄った。
「このたびは、難儀であったな」
「我が友にして、偉大な兄なる、親愛なるマルダーナ陛下」
 コルヴィーノ王は胸に手を当て、友国の王への親愛と敬意を示した。
「このように我が王国は戦果にまみれ、多くの民と兵を失いながら、我が身はこうして情けなくも生き長らえることとなりました。友であるトレミリアの助けに深く感謝いたすとともに、我と我が妻、そして提督夫人の身柄を、寛大にも引き受けくださることに、ありがたくも、申し訳ない気持ちでおります」
「なにを言われる友よ。このたびの不当なるジャリアの進軍、その災禍により国を失われることとなった、あなたの苦心はいかばかりか。我らの協力がおよばず、このようなこととなったことに、余をはじめとして、我が国民たちは心痛めずにはおられまい。どうか友として、いや家族として、この国にいる限りはせめてくつろぎ、心安めていただきたい。そして、ティーナ妃、提督夫人は、もともとはトレミリアの姫君であったのであるから、我が家に帰ったつもりで、まずはゆっくりと体を休まれるがよかろう」
 マルダーナ四世は三十五歳、コルヴィーノ王は三十二歳と、年齢的にもちょうど兄と弟といってもよいくらいであったのだが、二人の風貌や性格はまったくの正反対であった。いかにも文人らしい色白で細身のトレミリア王と、海の男そのままに日に焼けた、精悍な顔つきのウェルドスラーブ王が並ぶと、文の兄と武の弟というようで、いったいどちらが国を追われた王なのかも分からなかった。
「かたじけなきお言葉に深く感謝いたします」
 コルヴィーノ王が重ねて感謝を述べると、その後ろに控える王妃と提督夫人もひざまずいて、そっとその頭を垂れた。二人の高貴なる女性は、長い旅をしてきてさすがに疲れた様子ではあったが、彼女たちの生まれ育った王国へ帰って来たという安堵も、その顔に覗かせていた。
「おお、ティーナ王妃。こうして顔を見るのはずいぶんとしばらくぶりであるな。ずっと健やかでおられたかな。いや、もちろん、いまは疲れてもおいでだろうが」
「はい陛下。こうして再びご尊顔を近くにいたしますことを嬉しゅう存じます」
 ウェルドスラーブ王妃であるティーナは、トレミリア王の妹であるファーリアと、マルダーナ公爵との間に生まれた長女であり、つまりはマルダーナ王の姪にもあたる。したがって、その夫であるコルヴィーノ王にとって、トレミリア王家というのは姻族といってよい関係であるのだった。
「それに、提督夫人も。きっと草原におるレード公爵も、娘であるそなたの無事を知って、たいそう喜んでおることだろう」
「細やかなお心遣い、痛み入ります」
 トレヴィザン提督夫人サーシャは、トレミリアの姫君として育ってきた、その誇りと品格そのままに、力強く優雅に答えた。
「我が夫は海にて、父は草原にて戦っておりますれば、私のみがこうして逃げ落ちてきたことには、情けなさも感じておりますが、このフェスーンにて、我が母国トレミリアの偉大なるマルダーナ陛下を、コルヴィーノ陛下、王妃殿下とともに、こうしてお並びする様を見られた喜びは、なにごとにも勝るものでございます」
「さすが、大将軍レード公爵の娘にして、名高いトレヴィザン提督の妻たる方であるな。ともかくも、長い旅でさぞお疲れのことであろう。この王城は、いまやあなたがたを家族としてお迎えした。どうぞ、我が家と思ってくつろいでいただきたい」
「そのように言っていただけて、大変安心いたします。私も、そしてティーナ王妃殿下も、このフェスーンに帰ってきました喜びとともに、陛下のお優しさとそのご寛大さに触れて、心より嬉しく存じます」
「それでは、歓迎の宴はのちほどといたしまして、まずはコルヴィーノ陛下と王妃殿下には御身を休めていただきましょう」
 オライア公がそう告げると、長旅をへてきた一行はほっとした様子で表情をやわらげた。とくにセルディ伯は、己の役目をまっとうしたことで、大いなる安堵感に包まれているようだった。
「では、コルヴィーノ陛下、ティーナ王妃殿下は、王城の別塔に居室を用意いたしました。サーシャ夫人は別館の方にご案内しましょう」
 部屋の割り当てもすでに事前に決めてあったというように、オライア公が告げる。
「あら、サーシャもこちらに一緒でもいいのに」
「王妃殿下、ここはトレミリアです。フェスーンの王城は、王族のみが寝食を許される場所ですから」
 サーシャが囁くと、王妃はやや唇をとがらせつつうなずいた。
それでは、ご案内いたしましょう。コルヴィーノ陛下、王妃殿下はこちらへどうぞ」
 オライア公に指示された上級の女官が、うやうやしく礼をしてから、国王夫妻を案内してゆく。
「サーシャどのは騎士がお連れします」
「じゃあ、クリミナ、あとでね」
「はい、サーシャさま」 
 ウェルドスラーブからの高貴なる客人たちが広間を出てゆくと、クリミナとセルディ伯はマルダーナ王の前にゆき、あらためてひざまずいた。遠征軍を率いてトレミリアを出発してからの経緯を報告する。
「まずはこちらを」
 クリミナは、大切にしまっていた二つの書簡を取り出し、それを差し出した。ひとつはセルムラードのフィリアン王女からの書状で、もうひとつはアルディのウィルラースからの書簡である。
「あらためてご報告いたします。私と宮廷騎士レーク・ドップの二名は、ウェルドスラーブのトレヴィザン提督より、アルディのウィルラース閣下への書状を届けるという役目を仰せつかり、東のアルディへと赴きました。そして都市国家トロスにて、ウィルラース閣下と会見し、閣下はウェルドスラーブとの同盟関係の密約に同意なされました。その後、さらにセルムラードのフィリアン女王への書簡を預かり、我々はセルムラードに赴き、女王陛下と謁見いたしたのです。その後、ウェルドスラーブの首都レイスラーブはジャリア軍に落ち、セルディ伯とブロテ騎士伯は、コルヴィーノ陛下、王妃殿下、提督夫人をお連れして脱出し、コス島にて、偶然に私たちと合流しました。そして我らは陛下たちをお守りして、こうしてフェスーンへと帰ってまいったしだいでございます」
 クリミナが簡単に事態の推移を説明する間に、マルダーナ王は二通の書簡に目を通し、それをオライア公にも読ませた。
「数日前に、セルムラードより援軍出発の知らせが届いたが、なるほど、そういう経緯であったか」
 手渡された書簡に目を落としながら、オライア公が言った。
「それにしても、ウィルラースどのがこれほど早く兵を起こすとはな。アルディの東西の分裂については、これまで噂以上の情報は入らなかったのだが。おぬしらが直接会談し、こうして印の押された文書まであるとなると、信じぬわけにもいかんな」
「はい」
「ともかくセルディ伯爵、クリミナ宮廷騎士長はご苦労であった。そなたたちの活躍により、友国であるウェルドスラーブのコルヴィーノどのと王妃夫人が、こうして無事に救出された。またセルムラードからの援軍も、まこと速やかに派遣されることとなったのだな。我がトレミリアのために命を惜しまず尽力する、おぬしらを誇りに思うぞ」
 マルダーナ王の言葉を受け、セルディ伯がうやうやしく深く頭を下げる。
「もったいなきお言葉、この身に余る栄誉にございます」
「オライア公、そちもさぞ鼻が高いであろう。このように勇敢な女騎士を娘に持ってな」
「恐れ入りましてございます。でありますれば、宮廷騎士長の、部隊からの独断の離脱につきましては、その罪を問わぬということになりましょうか」
 オライア公は、王の前にひざまずくクリミナにちらりと目をやった。
「むろんだ。むしろ単独行にて、その働きぶりはまったく見事。アルディのウィルラース卿、そしてセルムラードのフィリアン女王とを結び、同盟にこぎつけるなど、一介の騎士の成す所業をはるかに超えておるわ。その……なんといったか、もう一人の騎士が供にいたとしてもな」
「レーク・ドップでございます、陛下」
 オライア公がその名をいうと、国王は首をかしげた。
「ふむ……どこがで聞いたような名だが。はて」
「あの、大剣技会のおり、優勝を果たしまして、宮廷騎士となった若者でございます」
「おお、そうか。あの……」
 腑に落ちたように、国王はその声を大きくした。
「思い出した。もう一人は金髪の美しい若者……アレイエンであったな、あの二人でモランディエルの企みを見事あばいてみせた、そうか、あのときの……」
「御意」
「たしか、アレイエンの方は、モスレイ侍従長の推挙により、カーステン姫の教師になったとか。そうであったな、マルダーナ公爵」
「は、そのようでございます」
 口髭を生やした四十がらみの貴族が進み出た。マルダーナ公爵は、国王の実の妹であるファーリアの夫であり、つまりは王の義弟である。ロイベルト公、サーモンド公と並ぶトリミリア三大公爵と呼ばれる位であり、その中でももっとも王家に近い爵位がマルダーナ公爵なのである。また、さきほど退出した、ウェルドスラーブ王妃、ティーナの父であり、他にカーステン、ミリアという高貴な二人の姫を娘にもつ。
「ティーナ妃が無事であったこともなによりながら、なかなか、我がトレミリアは、あの剣技会以来、その二人の剣士に助けられておるようだな。あるいは、彼らは……ジュスティニアが遣わされた剣士であったのかもしれぬな」
「そうかもしれませぬな」
(ジュスティニアが……)
 ひざまずくクリミナは、国王の言葉を聞いて感慨をめぐらすのだった。
(もしかしたら、本当にそうなのかもしれないわ……)
(彼がいなかったら、私も、どうなっていたか。ウェルドスラーブか、アルディで、そのまま命を落としていたかもしれないのだわ)
 そう考えると、王国の騎士という立場からも、あらためてレークに礼を言いたい気がした。
「では二人の功績についてはいずれ正式な叙勲とする。大儀であった」
 国王の言葉に二人は立ち上がった。
「セルディ伯、クリミナ宮廷騎士長、二人とも、今宵は城にて泊まられるがよろしかろう。細々とした事項については、のちほど会議にて話してもらうことになろうからな」
「かしこまりました。では、失礼いたします」
 広間をあとにした二人は、並んで回廊を渡りながら、ほっと息をついた。 
「ふう、やれやれですな、クリミナどの」
「ええ」
 セルディ伯の方は、無事に大きな役目を果たして国に帰って来たことに、心底安堵しているようであった。伯はまだ二十八歳になったばかりであったが、もともと老け顔の上に、ふた月にもおよぶ困難な遠征のせいで、いまでは頬はこけ目の下は隈でおおわれ、いっきに十も歳をとったようであった。
「まったく、えらい遠征でしたな。何度も死ぬかと思ったし、いや、じっさい死んでいてもおかしくはなかったくらいだ。そうでしょう?」
「そうですわね」
 命懸けのいくさを共にしてきた同士であることをことさら強調するように、セルディ伯はぶちまけた。
「国境の城での、あのジャリアどもとの防城戦!まさしく、生と死のはざまというべき困難な戦いでした。そして、首都レイスラーブでの窮地は……攻め寄せる数万の敵を前に、次々に城壁はやぶられ、黒い影が押し寄せてくる……おおっ」
 伯は思い出すようにぶるっと体を震わせた。
「目の前で部下たちが無残に死んでゆく。しかし、私はこの命に代えてもコルヴィーノ陛下らを脱出させるという使命を果たすことを、心に誓っていたのです」
「ご立派ですわ」
 クリミナの言葉に、伯はその頬を火照らせた。実際には、スタンディノーブル城でもっとも激しく戦い、活躍したのはレークやブロテであったし、レイスラーブで国王夫妻を手際よく脱出させられたのも、ブロテとその優秀な部下たちによるところが大きかったのだが、しかし、それでも確かに、セルディ伯とても、その勇気をいつになくふりしぼって行動したのは確かに本当だった。 
「そうです……あのときは、死を覚悟しました。それでも、私は……ああ、このトレミリアのために、そしてクリミナどののために、我が命を賭けたのです」
 そのいささか大仰な言い回しには、クリミナは内心で苦笑せざるを得なかったが、回廊の途中で立ち止まったセルディ伯が真剣なまなざしで見つめてくると、困ったように目をそらした。
「クリミナどの……いえ、クリミナ姫」
「はい、伯」
「私の……この、私の思いを、」
 そのとき、回廊の出口に立っている人影が、こちらに歩み寄ってきた。一行の護衛として同行してきたロッドであった。
「あらロッド、待っていてくれたの?」
「はい。中には入れませんので、ここにおりました」
 セルディ伯はあからさまにむっとした顔をしたが、ロッドは何食わぬ顔で二人に礼をした。
「私と伯は、今日は城に泊まることになりそうなのだけど」
「じつは、自分も。さきほど護衛番の騎士隊長と話をしましたところ、身寄りがないのであったら、今宵は城の外の騎士番小屋に泊まってよいということで」
「まあ、そうなの。よかったわね」
 嬉しそうにロッドと話すクリミナを見て、セルディ伯はますます不機嫌な顔になった。
「クリミナどの、私はここで失礼する。ではまたのちほど晩餐で」
「はい、伯」
 すれ違いざまにロッドを睨み付け、セルディ伯は去っていった。そこに取り残された二人は、いくぶん気まずく顔を見合わせた。
「セルディ伯さまは、私が気に入らぬようですね。やはり、どこの馬の骨とも分からぬ身分低いものが、フェスーンの王城にいるというのは、よろしくないことなのでしょう」
「そういうわけでは、ないだろうけれど」
 クリミナには、伯が嫉妬しているのだということが分かっていたが、いったいなにに嫉妬しているというのか。自分とロッドの間になにがあるというのか。
(なにも……なにも、あるわけはないのだけど)
 思わず赤面しそうになる自分に言い聞かせる。
(なにも、あるわけない……)
 外に出た二人は城壁ぞいを歩いた。
 そびえ立つ天守を見上げたり、丘から見渡せる景色に立ち止まったり、久しぶりに王城のある眺めに、それだけでクリミナはとても楽しい気持ちになるのだった。
「それにしても、近くで見てもフェスーン城はとても美しいですね」
「そうでしょう?」
 クリミナはにこやかに答えた。本当なら、すぐにでも宮廷騎士団の宿舎に帰りたかったのだが、この城にいればサーシャとまたゆっくり話すこともできるし、それにロッドもいるのであれば、彼女にしてみれば、それはそれで嬉しくなくもなかった。
(ああ、久しぶりだわ。ここからこうして景色を見渡すのは)
 この丘からは緑豊かな宮廷内が一望できる。右手の方には広大な庭園とともに雅びやかな大貴族たちの城館が点在し、左手には丘を下ったすぐのところにはクリミナの生まれ育ったオライア公爵の屋敷の、そのなつかしい赤茶けた屋根が見えている。さらに遠くに目を向ければ、宮廷を囲む城壁の向こうには、朝日を浴びて輝くマクスタート川の流れと、中州をはさんで川向こうに市壁が広がる。リクライアでも最大の都市、フェスーンの市民たちが住まうそこにも、いまは同じように朝が訪れて、人々は今日一日の生活をそれぞれに忙しく始めているのだろう。
(私の国……私たちの町、フェスーン)
 この町を守り、この国を守る為に、自分は、自分たちは戦っているのだという思いが、あらためて、強く彼女の中に湧き起こる。
「大きな町ですね、フェスーンは」
「ロッドの故郷はどんな町なの?」
 クリミナは興味をひかれて訊いた。
「自分が生まれたのは、自由国境地帯の小さな村であるようですが、よく覚えておりません。その後すぐにヴォルス内海に面した港町アンマインに移りました。母が死んでからは父親に連れられて、各地を転々として、トレミリアの南部のロースクンドに近い村に移り住んだのがもう五年ほど前です。ですから、自分には故郷というものがないんです」
「そうなの。それは、大変な生活だったのでしょうね。私には想像がつかないけれど」
(そういえば、レークも、もとは浪剣士……大陸中を旅していたようなことを聞いたことがあったかしら)
 傭兵であるロッドもまた、そうして旅から旅の生活で、己の剣を磨き、逞しさを身につけていったのだろうか。浪剣士や傭兵という、自分とはまったく違う、その生い立ちや生き方に、驚きとともに強い興味を惹かれるのかもしれない。
 しばらく王城の周りを歩いてから、二人は門の前で別れた。
 ロッドは中庭で訓練をする城の騎士たちの中に加わっていった。塔の螺旋階段を上りながら、クリミナが窓から中庭を見下ろすと、彼は気兼ねせずに他の騎士たちと剣を交えて、稽古をする様子だった。
「なんだか、もうすっかり馴染んでいるみたい。そういうところも、ちょっとレークに似ているのかもね」
 階段を上り、勝手知った足どりで塔の中を歩いてゆく。彼女にとっては、この城は幼いころよりオライア公に連れられて何度も来ていたので、迷うことはない。
 この先にあるサーシャの部屋を訪れようと思っていたのだが、クリミナはふと思い立って城壁の上に出てみることにした。旅の疲れはさほどでもない。それよりも、こうしてフェスーンに戻ってきて、城内を歩くのが、うきうきとして楽しいのだ。
 さらに螺旋階段を上がって城壁上に出ると、頭上には大きな青空が広がった。
 ひんやりとした朝の空気が、川からの香りを含んだ風とともに、体を包み込んでくる。流れゆく雲が、どこまでも続く空をゆったりと渡ってくる。
(ああ、風が気持ちいい。フェスーンの風の匂いだわ)
 胸間城壁の間から一望すると、宮廷と都市をはさんで流れるマクスタート川と、市壁に囲まれたフェスーンの町並みまでがよく見渡せる。振り返れば、すぐそこには、フェスーン王城の青屋根が高くそびえ、ここにいる彼女自身を守るかのように思える。
(私はこの国が好きだ)
 彼女はそう思った。だから、この町が戦火に包まれたり、ジャリアの侵入を許すことなどは考えたくもない。そのためならば自分も、騎士たちも、己の命を喜んで捧げるだろう。
 体いっぱいに風を受けながら、城壁の上を歩いてゆくと、やや離れたところに人影を見つけた。てっきりそれは、見回りの騎士だろうと思ったが、そうではなかった。
 その人影は、クリミナと同じように、周囲を眺めるようにゆっくりこちらに歩いてくる。
(誰、かしら……)
 近づいてくるにつれ、その姿がはっきりとした。クリミナは立ち止まった。
 相手と視線が合った。
「あ……」
 ふっと微笑んだ相手を見つめて、彼女は思わず息をのんだ。
 朝日を浴びてきらきらと輝くような金髪、すらりとした立ち姿は一見して剣士とは思えない、優雅な貴公子めいた、その姿……
「あ、あなたは」
 クリミナのそばまで歩いてくると、「彼」は優雅な様子で騎士の礼をした。
「これは、クリミナ姫。ごきげんよう。無事にお戻りになられたのですね」
「あ……ええ、ありがとう。アレイエン」
「アレンでけっこうですよ、姫」
 そう言ってにこりと微笑んだのは、金髪の美剣士にしてレークの相棒、アレイエン・ディナースであった。
「ご無沙汰しております。 クリミナ姫」
「あ、あの……私のことも、クリミナでけっこうです。姫などと呼ばれるのは慣れませんので」
「そうですか、では失礼をいたしまして。クリミナどの」
「……」
 なにか奇妙な心地で、クリミナは目の前の金髪碧眼の美青年を見つめた。
 レークの相棒として剣技大会で活躍し、宮廷に入ってはなにかと目立つ存在で、女官たちからの噂の的でもあった。カーステン王女の家庭教師になったということまでは知っていたが、どこかの舞踏会やサロン、宮廷の行事などでときおり見かけたことはあっても、これまでにまともに話をしたことはなかった。
(そういえば、そうなのだわ。レークのことはずいぶん分かるようになったけど、彼の相棒……兄弟のように親しいという、このアレンのことは、私はなにひとつ知らないのだ)
 ただ彼女には、この美しすぎる若者が、ただの一介の剣士というだけではない存在であることが、はっきりと分かっていた。
(あの、剣技会での、はっとするようなレイピアさばき……)
 あれほど優雅にレイピアを振る騎士を、彼女はこれまで見たことがなかった。そして、それ見た自分がかすかな嫉妬を覚えたことも。
(なんという美しくて、そして巧みなレイピアさばき、そしてステップだったろう)
 おそらく、自分は彼に勝てないだろうという、その認めたくはない事実を、あの試合を見つめながら彼女は思ったのだった。もちろん、その貴公子のような美貌にも強い印象と、興味とを持ったが、それは女官たちのように乙女らしい気持ちではない。むしろ、そこにはっとするような恐ろしさ……というか、ソキアのような美しすぎる冷たさを見た思いであったのだ。
 ただ不思議と、その後は、彼と関わる機会はほとんどなかった。相棒であるレークの方とは、宮廷騎士団の稽古などでごく近しく接してきたのだが、アレンに関しては依然として謎の多い存在という、彼女にとってはいまだにそういう印象であったのだ。
「どうかしましたか?」
 湖のような深いまなざしが、静かに彼女を見つめていた。
「あ、いいえ……ただ、私はあなたのことをよく知らないのだと、あらためてそう思ったのです」
「そうですね。確かに、そうですね」
 アレンはくすりと笑った。
「私の友人……いえ、相棒のレークは、いつもお世話になっておりましたね」
「お世話にというか……彼には、何度も助けられました。この旅の間にも。でも、たしかに宮廷騎士の稽古などでは、それはもう、いろいろと面倒事を起こしていましたけど」
 思わずなつかしさに微笑みが浮かぶ。
(あのころは、なんて……いまとは違っていたのかしら。そう、なにもかもがまるで)
 あの、粗暴な浪剣士に対しての感情も、自分の立場も、なにもかもが、ときのながれとさまざまな物事の中で、少しずつ、少しずつ変わっていったのだ。
「心配ですか?レークのことが」
「そういうわけでは、ないけれど……宮廷騎士長としては、やはり、気にはなります」
「そうですか。騎士長として、それだけですか?」
「それは、どういうこと?」
 クリミナはかすかに赤面した。
「いえ。失礼でしたら、お気になさらないでください」
 やわらかに微笑みながら、アレンは東の空に目をやった。輝く金髪をまとわせたその横顔は、彫刻のように美しい。
「彼はいま、どこにいるのでしょうね?」
「……」
「ウェルドスラーブからは脱出したとは聞きましたが、その後はいったいどこへいったのか……」
 その問いに、彼女はどう答えていいものか迷った。レークがいまどこにいるのかは、彼女自身も詳しいことは分からないのだが、その無事を心配する気持ちは同じであったし、相棒である彼にとってはまた当然のことに違いない。
 クリミナは吸い込まれるようにアレンの顔を見つめ、口を開いた。
「よかったら、私が知っている限りのことは、お話しします」
 正式には騎士でもトレミリアの貴族でもない相手に、どこまで話していいものかと考えながら、彼女はレークとの長い冒険の旅のことを話し出した。
「……なるほど、」
 アレンは静かにうなずいた。
「すると、レークとあなたは、トレヴィザン提督の命を受けてアルディへ赴き、都市国家トロスでウィルラース卿と会見したというわけですね。さらにはセルムラードへゆき、フィリアン女王とも謁見なさったと」
 ごく簡潔に語ると、それは突拍子もない冒険行にも思える、到底信じがたいような話であったが、それを聞くアレンは驚くようなそぶりもない。ごく自然に相槌をうつのだった。
「つまり、レークもあなたとともに、ウィルラース卿、そしてフィリアン女王との会見を果たし、その後、コス島にて、セルディ伯一行と合流したと、そういうわけなのですね」
「はい、そうです」
 もちろん、国家間の極秘事項と思われる、アルディ王家の血を引くセリアス少年のことや、ウィルラースとウェルドスラーブの同盟について、そしてセルムラードの派兵などに関する具体的なことは、クリミナはあえて口にしなかった。また、コス島では、レイスラーブから逃れてきたウェルドスラーブ国王らをかくまい、その高貴なる客を守りながらフェスーンへの帰還を目指したことも。ただ、それらは、宮廷に出入りするアレンにはすぐに知るところとなるのだろうが。
「ともかく無事にフェスーンに辿り着かれてよかった」
 アレンもクリミナの立場を知ってか、それ以上は深く追求することはなかった。
「ご一緒にどのような客人がいたにせよ、この情勢ですからね。さまざまなことが起こりうる。では、クリミナどのはコス島にてレークと別れてから、その後の足どりは分からないと、そういうことなのでしょうか?」
「あの……いいえ」
 クリミナはためらいがちに首を振った。
「たぶん、彼はロサリート草原にいると思います」
「ほう、草原……つまり、ジャリア軍が進攻する戦場へ向かったということでしょうね」
「そう、思います。彼にはなにか……きっと考えがあるのでしょう」
「ふむ。それに、彼は草原が好きですから」
 アレンは涼やかに言った。いったいなにを考えているのか分からない、うっすらとした笑みを浮かべて。
「ありがとうございます。友人の行方が知れただけでも、嬉しく思います」
「いいえ、私こそ上手く話ができなくて」
 クリミナは思わずうつむいた。どことなく、やわらかに尋問を受けたような気分もしたが、彼の青い目を見ていると、それすらも許せてしまう気がするのだ。
「最後に、もうひとつだけ。立ち寄られたサルマにて、誰かとお会いになりましたか?」
「誰か、とは……どういうことでしょう?」
「そうですね。たとえば、草原の方から来た商人、あるいは旅人であるとか」
 質問の真意が分からず、クリミナは首をかしげた。
「あるいは、兵士でも騎士でも」
「ええと、湖で倒れていた騎士を助けました」
「ほう」
 アレンの湖のような目がかすかにきらりと光った。
「名をロッドという……いま、ちょうど中庭で、城の騎士とともに稽古をしていますわ」
「そうですか。その彼は、この城にいるのですね」
「はい。それがなにか?」
「いいえ。ただ……そう」
 アレンはさりげなく付け加えた。
「その彼が、レークのことについて、なにかを知っていないかと気になったもので」
「ああ、そうですわね。それについては、私はなにも尋ねていませんでした」
「その騎士はロッドというのですね」
「はい。短い黒髪に髭を生やして、ちょっと落ち着いた感じで、もともとは旅の傭兵だったとか」
「なるほど」
 説明をするクリミナをじっと見ていたアレンは、ふっと表情をやわらげた。
「分かりました。ありがとうございます。あとで彼をあたってみることにします。では、そろそろ私はゆかなくては。じつは、あなたのお父君でもあるオライア公と、これからお会いすることになっているのです」
「まあ、そうなのですか」
「ええ。さきほど城にまいりましたら、まだ会議が長引いているということでお会いできず、ここを散歩しながら待っていたのです。そこへちょうど、あなたがいらして……お話しできてよかった」
「そうでしたか。私もじつはまだ、帰還してから父とはまともに話せておりませんが、あとで訪ねてみようかしら」
「それがよいでしょう。オライア公閣下も、内心ではさぞあなたの安否を心配しておいでだったでしょうから。それでは、失礼いたします。ご機嫌ようクリミナ姫」



次ページへ