9/10ページ 
 

水晶剣伝説 [ロサリート草原戦(前編)


\

 最後まで優雅な様子で、アレンが塔の中へ消えてゆくと、クリミナはほっと息をついた。
(ああ、なんだか、とても緊張したわ……)
(私……なにか、おかしなことを言わなかったかしら)
 アレンと二人だけで言葉を交わしたのは初めてであったし、尋常ではないその美貌を間近にして、知らず胸がどきどきとした。
(でも、本当に綺麗な人。あんな人は、トレミリア宮廷にもいないわ)
 美貌の青年という点では、貴族騎士のヒルギスあたりがその筆頭だろうが、彼ですらもアレンの完璧なまでの美しさからすれば、ごく普通の美男子という程度に思える。そしてまた、決定的に異なるのは、その雰囲気だった。
(なんというのかしら……冷たい氷のようなというのかしら、それとも湖のように澄んで深いというのか。ともかく、他の人とはまるで違うのだわ)
 生身の男性というもの感じをまったくさせない、非現実的なまでの整い方、しなやかな物腰、ひとつひとつの言葉やまなざし、それらはただ貴族的というだけではすまない、研ぎ澄まされた凄味のようなものがあるのだ。それでいて、決して刺々しくはない、あくまで優雅でやわらかな立ち居振る舞い。また同時に、それ以上は奥に入れさせないという、優しい拒絶のようなもの……
(それは考えすぎなのかしら……でも、そうなのだわ)
 ふうとため息をつく。
(あれが、アレン……アレイエン・ディナース。レークの相棒であり、また兄弟のような存在……)
(なんだか、彼といると、自分が女であることが恥ずかしく思えてくるわ)
 クリミナは自分の頬に手を当てた。
(そういえば、旅の間はろくに気をつかわなかったけど、きっと肌も荒れているし、髪だって……)
 髪を撫でつけてみながら、彼女は顔を赤くした。
(ああ、女って、なんて面倒なのかしら。いっそ、男になってしまえればいいのに!)
 だが、そう思いながらも、心の奥底では、自分は女騎士として、もっと言えば、女である騎士であることで、頑張り続けられたのであるということも、またよく分かっていた。
(もし私が男だったら……レークとはどうなっていたかしらね)
 今もどうなっているということもないのだが、なんとなくだが、彼の方も自分のことを好いていてくれているのではないかという気がしている。
(気のせいではないのかな。分からない……けど)
 また城壁を歩きながら、彼女はぼんやりと考えた。
(今度、会ったときには、それとなく、女らしく振る舞ってみようかしら)
(そうしたら、レークはなんと言うだろう)
 そんなことを想像して、一人でまた赤面する。
(まあ、いいわ。どうせ私は、剣を持って馬にも乗る、がさつで気の強い女騎士なのだから。ああアレンが女でなくてよかったわ。もしそうなら、レークだってきっと……)
 アレンとレークが妖しげに抱擁する、その想像に思わずくすりと笑う。
(でも確かにね……あれほど綺麗なら、宮廷の女官たちが大騒ぎするのも仕方ないわね)
(それに彼は父上ともすでに面識があるようなふうだった。そういえば、いつかレークとアレンに会いにいったと言っていたっけ)
 オライア公爵と、レーク、アレンの間でいったいどんな話が交わされたのか、そのときはまったく興味もないことだったが、今となっては、なんだか気になってしまう。
(まさか、私のことなどは話していないでしょうね)
 これまでは考えたこともなかった、つまらないことがいろいろと頭に浮かぶ。
 ふわふわとした奇妙な気分。こうしていろいろと想像をする余裕があるというのは、命懸けの旅を終え、安心できる自分の国に帰ってきたからなのだろうと彼女は思った。
 アヴァリスは、東の空からゆるやかに中天を目指して昇りはじめたばかりだった。

 与えられた一室でしばらく休むと、クリミナは同じ塔に部屋をとっていたサーシャを訪ねてみた。
 コルヴィーノ王夫妻の方は、城の内郭の天守の塔で厳重な警護のもとにあったが、提督夫人の部屋には彼女であれば自由に出入りができた。クリミナにとっては姉のような存在であるサーシャと、たわいなくも心踊るような……女同士だから分かるような、よもやま話を交わし、ゆったりとその日の午後を過ごした。
 夕刻になると、ウェルドスラーブ国王を歓迎する晩餐会が、王城の広間にて開かれた。
 たっぷりと金糸を縫い込んだ豪勢な衣装のトレミリア王が賓客を歓待し、コルヴィーノ王とティーナ王妃は、安全なトレミリアの宮廷に入ったことで、ずいぶんとその表情をやわらげていた。とくに、ティーナ王妃は、己の母国であり、なじみの深いフェスーンの王城への帰還を喜んでいる様子で、その場に顔見知りの貴族や女官などを見つけると、自ら歩み寄って笑顔を見せた。
 提督夫人のサーシャは、クリミナやセルディ伯ら、一般の貴族と一緒の上席に座り、こちらも久しぶりに味わう母国の料理や、楽隊の奏でる音楽などを楽しむ様子だった。セルディ伯は、隣に座るクリミナにあれこれと料理を切り分けてやったり、遠征での出来事を周りに聞こえるような声で話しかけたりと、大広間を忙しく行き来する給仕にも負けず、旅の疲れもなんのそのと奮闘していた。
 ウェルドスラーブ王を迎えたことは、宮廷でもまだ、ごく内輪のみで明らかにされていたので、広間にいるのは国王の他には、マルダーナ公、オライア公、サーモンド公といった、トレミリアの大貴族の中でも王家に近しい面々と、あとはスタルナー公、コルディン伯、オーファンド伯、モスレイ侍従長ら、とくに王家の信頼を得ている貴族たちだけであった。
 オーファンド伯は、セルディ伯の叔父にあたり、先に宮廷騎士団の後見を引き受けた落ち着いた人物で、帰還した甥を嬉しそうに迎え、クリミナに対しては貴婦人に接する丁重さでその無事を喜んだ。クリミナも、この四十歳になる上品な伯爵の前では、不思議と女らしくあることに抵抗を感じないようだった。父であるオライア公に対しては、むしろ宮廷騎士長としての顔が先にきてしまうのだが、オーファンド公や、サーモンド公、モスレイ侍従長などの、つまりはある程度の歳のいった人々からは、まるで小娘のように扱われるのが、そう心地よくなくもなかったのである。
 広間には豪勢な料理が次々と運ばれ、楽隊の優雅な音色が響く中、人々は杯を上げ、トレミリアとウェルドスラーブの変わらぬ友情を誓い合った。たとえ、実質的に友国が敵の手に落ちていても、王家の結びつきは不変であると、ここにいるふたつの国の王のもとで、あらためて誓約がなされたのだった。
 象徴的な出来事としては、ティーナ王妃が、両親であるマルダーナ公と夫人のファーリアに、涙ながらの帰還の挨拶をしたことや、提督夫人サーシャが、実の母であるレード公夫人と対面したことであった。この感動的な再会に、広間の人々は一様に涙ぐみ、国を追われたこの勇敢な二人の元トレミリア王女に、盛大な拍手を贈ったのだった。
 こうして、それなりの盛り上がりを見せつつも、やはり戦時下ということもあり、歓迎の宴はほどほどで切り上げられた。ウェルドスラーブ王夫妻は、騎士の警護のもと再び天守の塔へと戻り、提督夫人やセルディ伯も、各々の部屋へ帰っていった。他の貴族や廷臣たちも、今後の軍備や国内での方針などを含む細々とした会議をいくつもこなしてきたが、今日はこれまでと打ち切り、その多くは城をあとにした。
「父上」
 晩餐の片づけが進む広間を後に、いったんは塔へ戻りかけたしたクリミナであったが、少し迷ってから、彼女は早足でまた回廊を戻ってきた。
 ちょうど広間から出てきたオライア公爵は、息荒く戻ってきた娘を見てうなずきかけた。
「クリミナか、どうした」
「あの、ちょっと……よろしいでしょうか」
「うむ。では、私の部屋に来るといい」
 宰相であるオライア公の屋敷は丘を下りてすぐのところにあり、有事の際にはいつなんどきでも城に駆けつけられるのだが、それとは別に、城には宰相としての執務室があった。今日のように会議や、催しなどが行われるときには、そこでも寝泊まりすることもできる。
 宰相の執務室は、広間のある二階からひとつ上がった上の階にあった。二人が部屋に入ると、ちょうど女官が火のついた燭台を手に、公爵気に入りのハーブのお茶を持ってきた。
「ああ、ご苦労。カーラ」
「あら宰相さま、まあ、今日は久しぶりに騎士長さまがご一緒ですのね」
「まあな」
 顔なじみらしい中年の女官は、クリミナを見て微笑みかけた。
「水入らずでよろしいですわね。それでは、クリミナさまもどうぞごゆっくり」
 オライア公とクリミナが父娘であることは、この宮廷では誰もが知っていることだ。いくぶん照れたような公爵に礼をして、女官は去っていった。
「まあ、座るがよい」
「はい。では、お茶は私が」
 クリミナは、気の利いた女官が用意していた二つのマグに、爽やかに香るハーブのお茶を注いだ。それを見ているオライア公は、しみじみとつぶやいた。
「少し……似てきたな」
「は?」
「いや、そなたの母にだよ」
 彼女の母エネルは、クリミナを生んで何年もたたないうちに病で亡くなった。なので、彼女は母の顔というものを覚えてはいない。その後は、乳母に育てられ、父から剣の手ほどきを受けて、十二歳で宮廷騎士団に入団したのだ。それからはただ、剣ひとすじに打ち込み、十八にして宮廷騎士長となった。
「母上のことは、よく知りません」
 これまでも、ときおり乳母や、父である公爵の口から、ときどき母のことを聞かされたりしたが、実感はなかったし、自分が母に似てきたと言われて、それが嬉しいことなのかどうかもよく分からなかった。
「そうだな。ふむ、すまん」
「ところで父上、いえ、宰相閣下」
 彼女が父をそう呼ぶのは珍しくはない。オライア公は、にわかに父親から公爵の顔つきに戻った。
「うむ」
「陛下の前でも申しましたが、今回のウェルドスラーブ遠征において、部隊から離れ、命令にはない単独行動をしてしまいましたことを、王国に仕える騎士としてあらためてお詫びいたします」
「それについては、ウィルラース卿からの書状をじっくりと読ませてもらった。そなたは、トレヴィザン提督に請われて任務を遂行したのだろう。つまり、コルヴィーノ王の命を受けた提督より授かった任務であるから、ウェルドスーブのために尽力するという、当初の目的からは外れてはおるまい。その件に関しては先に言ったように不問とする」
「でしたらいいのですが」
「ところで、あのレークとは、ずっと一緒だったのか?」
「は?」
 目をそらした公爵は髭をなでつけた。
「いや、つまり……できれば、その驚くべき旅についてのことを、もう少し詳しく聞きたいのだが」
 父でもあり宰相でもあるという、いくぶん複雑な表情である。それを見て、クリミナはいつになくやわらいだ気持ちになった。
(私は、これまで父の前ではずっと、立派な騎士としてあらねばならないと、そう思ってきたけれど……)
 誰にも負けまいとただ剣を振り、つっぱり続けてきた自分が、いまは父としての公爵を穏やかに見つめている。
(私も、少しは大人になったということなのかしら)
「いいですよ」
 彼女は、娘でもあり騎士でもあるというような顔でうなずくと、最初にトレミリアを出発してからのことを、順を追って話しだした。
 サルマから船に乗って、まずコス島へ着いたこと。そこから物資を運んでレイスラーブへと渡り、当地にてコルヴィーノ王、トレヴィザン提督と会見をもったこと。その後、スタンディノーブル城の窮地を聞くや、レークが単身城ヘ向かったこと。その後の情勢の変化とともに、ジャリア軍の進軍に対応すべく、トレヴィザン提督の率いる軍についてオールギアからトールコンへと移動したこと。そこで城を脱出してきたレークと再会を果たしたことなど。それは任務の報告というよりは、彼女自身が見て、そして感じたことを、父親に語るような感じであった。
 オライア公は腕を組み、ときおりうなずいたり、気になったことを質問をしつつ、娘の話に聞き入った。
 クリミナの話は、いよいよアルディでの冒険に入っていった。船で出会ったクレイ少年を連れての旅の道中を、彼女は思い出すようにして語り続けた。恐ろしい盗賊との遭遇、レークと離ればなれになり、少年を連れてグレスゲートを目指したこと。辿り着いた目的地で、この少年がじつはアルディ王家の血を引く公子であると知ったときの驚き、さらには、ウィルラース卿との出会い。都市国家トロスにて行方の知れないレークを待ちながら、その閉鎖された享楽の都市で過ごしたこと。そして、ついにレークとの再会を果たしたことを話したときには、彼女の顔がぱっと華やいだ笑顔になったのを、オライア公はじっと見つめていた。
「ふうむ。それはなんという、とほうもない冒険だろうな」
 あらためて聞いても、それは半ば信じられぬような物語であったが、この娘が物事を不要に誇大にしたり、嘘をつくなどということはせぬことを重々分かっていたので、公爵は驚きに包まれて、何度かため息をついた。
「まだまだつづきがあるわ。それから、私たちはウィルラースさまの書状を手に、今度はセルムラードへ向かったのよ……」
 クリミナは、本当はこうして誰かに旅のことを話したくて仕方なかったのだというように、いくぶん頬を上気させ、その口調は知らずに弾んでいた。
 再びレークとともに船に乗り込み、自由都市のスタグアイに上陸し、陸路でセルムラードの首都ドレーヴェを目指したこと、山の中で狼の群れに囲まれ、森に迷いながらもついにドレーヴェを発見し、丘の上にある不思議な都市ドレーヴェに入城したこと、そして、湖に浮かぶ美しい緑柱の城で女王フィリアンと謁見したことなどを、彼女はうっとりと思い出すように話した。
「本当に、信じられないくらいに美しくて、あでやかな方だったわ、フィリアン女王は。それに、宰相のエルセイナさまは、それは不思議な方で……」
「うむ。わしも会ったことがあるが、確かにあの宰相はただものではないな。頭も切れるし、それに、恐ろしいほどに、こちらの考えを読み取るような、そんな人物だった」
「ええ、そのエルセイナさまにかけあい、レークは援軍の約束をとりつけたのだわ」
 そのときのことを、クリミナは誇らしげに語った。
「本当に、大きな役目を果たしたのだと、そう思いました。その翌日には、もう私たちはセルムラードをあとにし、それからコス島へと向かいました」
「そこで、ウェルドスラーブ王を脱出させてきたセルディ伯らと合流したというわけだな。しかしだ、そう……何故そなたらは、コス島に彼らがいると分かったのだ?」
「それは、レークが宰相のエルセイナさまから、確かな情報だと知らされたそうですが」
「ふうむ」
「私も本当にびっくりしました。あのコス島の小さな宿に、コルヴィーノ王とティーナ王妃、それにサーシャさままでがいらしたのだから」
「なるほど。そのような旅をへて、お前はウェルドスラーブ王らとともに、フェスーンへ戻ってきたのだな。なんとも、まったく、吟遊詩人の冒険譚にでもなりそうな、壮大な物語だ」
 公爵は嘆息まじりにつぶやいた。
「ともかく、ご苦労だった。そして、無事でよかった」
 他の誰も経験したことのないような旅をへて、彼女がこうして無事に帰還したのだと思うにつれ、公爵は、いまはトレミリアの宰相というよりはただの一人の父として、目の前の娘の顔を、あらためて見つめずにはおれないのであった。
「聞けば、レークには何度も救われたということだな。次に彼に会ったら、宰相としても、そして、父としても礼を言わねばなるまい」
「そういえば、父上はレークとも、それにアレンとも面識があるのですね。今日もアレンと会っていらしたとか?」
「うむ、よく知っておるな。それがまた、じつは、おかしな話でな」
「といいますと?」
「まず、これはまだ正規の触れを出しておらぬ情報なのだが、」
 そう前置きをして公爵は話しだした。
「セルムラードからの援軍一万が、明日にもフェスーンに到着する。これは、さきほど語ってくれた、そなたとレークによる大きな働きによるものなのだが、そのセルムラード軍に、さらに我がトレミリアからの増援五千を加えた連合部隊を、近く草原へ向かわせることになっている。じつはアレイエンは、そこに参加を志願していたのだ」
「そうだったのですか」
 クリミナはいささか驚いた。あの優雅な貴公子が、戦場にいって剣を振るい、敵の返り血を浴びるなどというのは、とても想像できないことであった。
「彼は、もともと、正式には騎士として宮廷に入ったわけではない。それに、今はカーステン姫の家庭教師という立場もある。そのカーステン姫はアレンのことをいたく気に入っておるということだから、彼がいくさに赴くのには強く反対されているとも聞く。なので、アレイエンにはこれまで何度も思い止まるように言ってきたのだ。それでも彼は、草原へゆく部隊に加わりたいという、その気持ちを曲げなかった」
「……」
「なので、わしとしても仕方なく説得を断念し、今日には部隊に編入する際の細かな調整を彼と話し合うつもりだった。少なくとも、こう思うのはわしだけではないだろうが、あのような美しい、というか、華奢なような若者を、最前線に送ることはしたくなかったのでな。だが……驚いたことに、今日会ったとたんに、彼は考えを変えていたのだ」
「といいますと?」
「うむ。まったく、どういう心変わりなのだろうな。つまり、彼は今日になって、部隊に参加するのは取りやめたいと、こう言い出したのだ。つい昨日までは、なんとしても草原へゆくといってきかなかった彼が、まるで神の信託にでも会ったように、突然考えを裏返したのだ。それは何故かと訊いたとも。だが、彼は、カーステン姫におしとどめられたのだと、そう言う。姫の悲しむ姿を見ていられなかったとな。もちろん、その理由も分かるとも。カーステン姫は、我がトレミリアの第三王位継承者であられるし、姫の要望に応えるのは、宮廷におけるすべての騎士の役目でもある。ましてや、アレイエンはその姫君の教師という立場だからな。姫の意向に従うというのは、まことにもっともな理由だ。しかし……」
 オライア公は首をひねった。
「分からん。彼という人間が。先日までは、あのやわらかな物腰の中に岩のような固い意志を宿していたように見えた彼が、こうもあっさりと指針を裏返すというのは」
「そうでしたか。じつは、わたし、今朝方、城壁の上にてアレンと偶然に会いましたが、そのときもそのような話はまったく……」
「そうか、」
「はい……」
 彼女はふと、父の顔を見ながら、自分が少し嬉しい気持ちでいることに気付いた。一国の宰相と宮廷騎士という、それぞれの立場を、いかなるときでもどうしても含ませてしまう二人であったが、会話の内容がどうあれ、親子二人で、これほど面と向かい話をしたのはいつ以来だったろう。
(トレミリアを出発する前だって、ただ、任務の注意を受けるくらいで、まともな話をしたのは……もうずっと前のような気がする)
 もしかしたら、これまではあえて、自分の方から避けていたのかもしれない。王国の宰相という地位にある父を。そして、そんなつっぱる自分の気持ちを、父は察していたのかもしれない。いまのクリミナは、そんなふうに考えることができた。
(国事に奔走する忙しい父を持って、私は強い誇りと同時に、自分に対する責任も感じていた。とにかく一人立ちしなくては、父を頼らずに自分が頑張らなくては、と)
 だが、そうではあっても、なにより確かなのは、唯一の血のつながった肉親であり、父はどうあっても自分の父なのだということ。いまはそう思える。
(勝手にわだかまりを感じてきたのは、わたしの方……)
「奇妙な話よの」
「はい、父上」
 いくぶん照れながら、彼女は付け加えた。
「あの、ご心配をおかけしました。私はトレミリアに戻って来られて嬉しく思います」
 彼女の表情の変化を、公爵は読み取ったようだった。
「クリミナ……」
 普段は決して人前では見せない、娘に対する暖かな愛情が、その顔に溢れた。
(ああ……)
(なにかが溶ける……これまでの私が)
 内側からじわりと広がるような感情に、クリミナは体を震わせた。
(もしかしたら……これも、あの人のおかげなのかしら)
 トレミリア王国の宰相と、宮廷騎士長……互いに頑固で、そしてまっすぐな父と娘は、王城の執務室にて、おそらく初めて親愛の抱擁を交わした。

 その翌日の昼過ぎごろ、オライア公のもとに、セルムラード軍到着の知らせが届いた。
「セルムラードからの一万と六百の軍勢が、フェスーン郊外に到着、正規の同盟文書を携えた使者が、今し方宮廷に到着しました」
「ご苦労」
 報告を受けると、公爵は執務室を出て足早に回廊を歩きだした。
「いよいよか。この援軍で、ある程度でもいくさに決着がつけばよいが」
 髭をなでつけながらつぶやく。背筋を伸ばしたその後ろ姿には、昨夜に得た大切な喜びが、新たな決意の力となって表れているようだった。
 宮廷前広場には、すでに朝から待機していた新たに派兵されるトレミリアの五千の兵士たちが、出立の命令をいまかいまかと待ち構えていた。
「これより、我が軍はセルムラード軍と合流し、ロサリート草原に向けて出発する!」
 今回招集されたトレミリアの増援軍は、正規の騎士二千人と、三千の傭兵と市民兵で構成されていた。その中には、あの大剣技会に参加した剣士も多くいて、彼らはいよいよ自分が実戦に赴くことになるのだと、整列しながら興奮を隠しきれない様子だった。
 正騎士部隊の筆頭は、トレミリアでも有数の使い手として名高いヒルギス伯である。白銀の鎧兜に身を包み、流旗をなびかせる騎槍を手にしたそのヒルギス伯を先頭に、騎乗した騎士の隊列が、ゆるゆると動き始める。
 マクスタット川にかかる橋を渡って、中州からまた川を渡り、市壁をくぐると、
「トレミリア万歳!」
「トレミリアにジュスティニアの加護を!」
 カルデリート通りにびっしりと集った市民たちから、大きな歓声が上がった。
「ジュスティニアとゲオルグの加護を!」
「アヴァリスの加護を!」
「万歳!トレミリア」
「万歳!」
 通りを埋めつくした人々は、商人も職人も、店子も見習いも、旅人も物乞いも、都市貴族も令嬢も、誰もが顔を赤くして、これから草原へと出発する兵士たちへ、口々に祝福の声をかけ、拍手をし、万歳を唱和した。
 きらびやかな銀色の騎士隊の後には、傭兵と市民兵の列が続き、さらに食料物資を積んだ馬車が続々と続いてゆく。美しい鎧姿の正騎士隊に比べれば、傭兵たちの隊列はいかにも地味ではあったが、それでも、揃いの鎧に身を包み、真新しい剣を吊るした姿は、いかにも傭兵部隊という粗雑な雰囲気はなく、立派なトレミリアの兵士隊であった。彼らはあの剣技会以来、宮廷内の宿舎に寝起きをし、この日のために剣の稽古に励んできたのである。意気込みという点では、むしろ正騎士以上であった。
「トレミリア万歳!」
「トレミリアに勝利を!」
 国の命運を懸けた部隊が、隣国セルムラードの軍と合流し、いよいよジャリアを討伐に向かうのだと、見送る市民たちも、誰もが高揚に胸を高鳴らせ、通りに響く歓声はますます大きくなっていった。

 それより少し前、トレヴィザン提督夫人サーシャとクリミナは、中庭を見下ろすテラスで、午後のお茶を楽しんでいた。
「いま聞いてきたのだけどね、セルムラード軍を指揮するのはバルカス伯爵だそうよ」
 侍女の運んできたミルク入りのハーブ茶に口をつけ、提督夫人は、テーブルに向かい合うクリミナにそう聞かせた。
「他には、スレイン伯爵、ビュレス男爵、それに遊撃隊のリジェ女隊長なども参加しているらしいわね」
「そうなのですか」
 にわかにクリミナの顔つきが変わったことに、夫人は気付いた。
「どうかして?クリミナ」
「いいえ。あの……」
 クリミナは平静を装うように微笑んだ。だが、言葉はなかなか出ない。
「すみません、私……」
「クリミナ?」
「……わ、わたし、行かなくては、なりません」
 いくぶん震える声でそう言うと、彼女は立ち上がった。
 そのまま一礼して歩きだす。
(どうしたのだろう、私は……)
 いったい、なにが自分をつき動かすのか、よく分からなかった。
(この気持ちは……なんなのだろう)
 なにか、いても立ってもいられないような。心が苦しいような、この胸の痛みは。
 螺旋階段を駆け降り、城門の前にいた騎士に馬の用意を頼むと、それから彼女は中庭へ向かった。騎士たちが剣の稽古をする中に、その姿を見つけて走り寄る。
 クリミナの姿に気付くと、彼は剣を振る手を止めた。
「ロッド。ちょっと、一緒に来て欲しいの」
「分かりました」
 彼は即座にうなずいた。二人はそれぞれの馬に乗って丘を駆け降りた。
 目立たぬよう、宮廷の正面門ではなく、南門へと抜ける方角へ馬を走らせる。見慣れた練馬場の近くを通ると、クリミナの姿を見つけた騎士たちが手を振ってくる。
 二人の馬は南門を抜けた。門の前の広場では、青の砦の見張り騎士たちが隊列を組み、いまにも出立するところだった。荷物を積んだ馬車がせわしなく動きだしてゆく。
「これは、クリミナさまではないですか。どうなされました?」
 砦の部隊の隊長騎士が声をかけてくると、クリミナは反対に尋ねた。
「セルムラードの部隊は、まだフェスーンの郊外にいるのかしら?」
「はい。そろそろ、我らの増援部隊と合流するころでしょう。水と食料が足りないというので、いま慌てて用意して届けるところです」
「そう。ではまだ間に合うわね」
 クリミナは馬上から礼を言うと、ロッドにうなずきかけた。砦部隊の隊列を追い越して二人の馬が走りだす。マクスタット川を渡る橋を越えて、フェスーンの市壁ぞいの道を西へと。
 しばらく道をゆくと、市壁に沿うようにして続く長大な隊列が見えてきた。セルムラードから到着した一万の軍勢だ。部隊の多くは軽装の市民兵のようだったが、隊列の中には緑柱石をはめ込んだ見事な鎧を着た正騎士の姿も、ちらほらと見える。
 横を通ってゆくクリミナとロッドに、彼らは笑顔で手を振ってくる。馬上にいる彼女が誰なのかをすぐに分かるものはいないだろうが、女の騎士というものに、彼らは慣れ親しんだ感覚があるのだろう。
「遊撃隊のリジェさんは、どこにいますか?」
 クリミナは馬を止めると、近くにいた騎士の一人に尋ねてみた。
「ああ、リジェさまなら、きっともう少し前の方にいるはずだよ」
「ありがとう」
 長い隊列の横を駆け抜けてゆくと、部隊の中ほどからは明らかに正騎士の姿が増えてきた。思えば、ドレーヴェの王城では女ばかりしか見なかったのだが、それを思うと、これほどの男の騎士がセルムラードにもいたのだと、あらためて知る思いである。
(それはそうよね) 
 女ばかりの遊撃隊が、一国を守る主戦力であろうはずはない。それに、これは不思議なことだったが、あの遊撃隊を見たとき、何故だか彼女はあまりよい気持ちはしなかった。本来なら、女でありながら宮廷騎士として剣を振る自分と、ある意味では似ている者同士のはずなのだが。
(でも、それは彼女たちがフィリアン女王の近衛兵であって、騎士ではないから……)
(いいえ、でも、そういうことではないのかもしれない……)
 もしかしたら、自分は彼女たちに対抗心を持っていたのだろうか。男たちの中で孤独に戦う自分とは違い、女だけの兵士として公に認められた、その存在そのものに。
(わたしは、そんなに嫌なやつなのかしら)
 自分は彼女たちに嫉妬をしていたのか。それとも軽薄していたのか。女騎士であるという自分の誇りが、これまで培ってきた矜持が、ただ奔放で自由なだけの彼女たちの姿に、相反するもの……怒りを感じてでもいたのだろうか。
 そして、いま彼女に会ってどうしようというのか。
(わからない……けど)
 ただ、なんとなく、会わなくてはならないと。もう一度リジェに会って、その顔を見ることで、なにかが確かめられるような、そういう気がするのだ。
 ときおり馬をとめて、隊列の中にその姿を探し、また馬を歩かせる。ロッドは後ろからただ黙って彼女についてくる。
 ずいぶんと前の方まできたとき、隊列の中から一人の騎士が進み出た。
「あら、あんたは」
 こちらに近寄ってきたその騎士が、緑柱石のはめ込まれた兜を脱ぐ。銀色の滝のような髪がこぼれた。
 まるで雪のように白い肌に、きらきらと輝く銀色の長い髪……女王に仕える遊撃隊の隊長である女剣士は、クリミナを見てにこりと微笑んだ。
「やあ」
「リジェ、さん」
 馬を降りたクリミナに、兜を持ったリジェが歩み寄ってきた。
「あの、出発前の忙しいときにすみません」
「なあに。べつに、あたしはこの軍勢の中ではただの一兵卒だからね。とくになにもすることはないさ」
 そう言って彼女はにやりと笑った。大変な美人であるのだが、つり上がった細い眉と強いまなざしが、どことなく中性的な雰囲気を感じさせる。
「それに、あたしのことはリジェでいいよ。その代わり、あたしもクリミナって呼んでもいいだろう?」
「ええ、もちろん」
 相変わらずの率直な物言いにいくぶん戸惑いながらも、クリミナは決して自分がこの女兵士を嫌いではないことを感じた。
「で、なにか用なのかい?もしかして、わざわざ見送りに?」
「ええ、まあ……あの」
 彼女と会ってなにを話すかなどはまったく考えていなかった。クリミナはぎこちなくもじもじとした。
「あら、そっちの人は?」
 後ろにいるロッドの姿を見て、リジェは訊いた。
「そっちのはあんたの彼氏かい?」
「え、ええ?いいえ、ち、違います……」
「ふうん。でも、なかなかいい男じゃないか」
 慌てるクリミナの耳元に口を寄せ、リジェは囁いた。
「レークよりもお似合いなんじゃないの?」
「そ、そんな……」
 顔を真っ赤にするクリミナを見て、くすりと笑う。
「冗談だよ。ところで、レークはどうしている?まさか、あんたと一緒にフェスーンに戻ってきたってことはないだろう」
「ええ。たぶん……彼は草原へ行ったと思います」
「うん、だろうね。彼の性分ならね」
 リジェはいかにも分かっているというようにうなずいた。
「あんたを安全なフェスーンに送って、自分はいくさの草原へってワケだ。男だねえ。ますます惚れるわ」
「……」
 少しむっとしたクリミナは、気を落ち着けようと別のことを訊いた。。
「ところで、遊撃隊の他の方は?……」
「いないよ。部隊に志願したのはあたしだけだから。ガーシャなんかは一緒に来たがってたけどね。あたしが止めたよ。なんせ、これは命懸けの本物のいくさなんだ。あの子らには、あたしにもしものことがあっても、近衛兵としてフィリアン陛下をお守りするんだよって、言い残したよ」
「そう、ですか」
「ああ、そうだ。もし草原で彼に会ったらさ、なにか伝えることはあるかい?」
 リジェは片目をつぶった。
「フェスーンであんたと会ったよって、レークに伝えてやるよ」
「ええと……」
 クリミナは口ごもった。
 いったい彼に、なにを伝えるというのか。ただ、無事でいることを願っていると?
 それとも、ただ、
(あ、愛している……と?)
 顔を赤らめ、彼女はうつむきがちに首を振った。
「いいえ。なにも、とくには……」
「そうかい」
 リジェは首をかしげ、そっとクリミナを覗き込んだ。
「あんた……」
 そう言いかけたとき、隊列の騎士から声が上がった。
「リジェさま。トレミリア部隊との合流が完了し、補給物資も届いたとのことで、これよりただちに出発するようです」
「ああ、分かったよ」
 騎士に手を振ると、リジェはなにか言い残したことがあるように、クリミナを見た。
「ええと、なんだったかね……」 
「まあ、いいや」
 黙り込んだクリミナに向かってにこりと笑う。
「もし、生きて帰って来られたら、いつか、あんたとも腹を割って話したいな」
「あ……」
「じゃあね」
 引き止める間もなく、リジェは隊列へ戻っていった。
「……」
 ゆるやかに部隊が動きだした。セルムラードからきた騎士たち、兵士たちが、長い長い列を作って歩いてゆく。馬に乗るものも徒歩のものも、荷物を背負うものも、みなこれから、戦地であるロサリート草原へと向かってゆく。トレミリアのため、セルムラードのため、そしてリクライア大陸のために。
 馬上のリジェがこちらに手を振った。その姿が部隊の中にまぎれ、やがて見えなくなる。
「……」
「よかったのですか?」
 横にきたロッドを振り向くでもなく、クリミナはうなずいた。
「ええ、たぶん……」
「そうですか」
 二人はしばらくそこに立ったまま、動きだした軍勢を見送った。通りすぎるセルムラードの兵士たちがこちらに手を振ってくる。それに手を振り返し、クリミナは彼らの無事を祈り、そして草原にいるだろう男の無事を、強く祈った。



次ページへ