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 水晶剣伝説 Z 大森林の行軍


Z

「ああっ」
 誰かが声を上げた。
 隊列に並ぶ兵が谷の上を指さし……その先を見上げたものが、また声を上げる。
「どうした?」
 歩きだしていたレーク、ハインらも振り返り、兵たちが見上げる谷の上を見やる。
「おお、」
「岩が……ああっ!」
 ちょうど石段を降りるジャリア兵たちの真上……
 斜面の上方にある岩が、ぐらぐらと揺れたと思うと、それがいきなり落下した。
 岩は途中の岩にぶつかり、それが一緒に落下する。ほんの一瞬の内に、いくつもの岩が、斜面をゴロゴロと転がり落ちた。
「ああああっ」
「うわあああっ」
 叫び声が響いた。
 まだ石段の上にいたジャリア兵たちに、落石が直撃した。
 何人かの兵がまるで人形のように吹き飛ばされる。岩は石段にそって転がるように落ち、次々にジャリア兵たちを押しつぶし、なぎ倒しながら落下した。
「退避っ!こちらに落ちてくるぞ。退避だ!」
 隊列のジャリア兵たちも、慌てて斜面から離れようと動きだす。だが、その頭上からガラガラと岩が降り注いだ。
「わあああっ!」
「ぎゃああっ」
 悲鳴と叫び声が交差し、辺りは一瞬にしてパニックになった。
 岩に頭を砕かれたものが血を吹き出し、倒れこんだ兵の体に足を取られて転んだ兵が、別の兵たちに踏みつぶされる。
 そこにさらに、次の岩が落下してきた。
「ああああっ」
「助けてくれ……ぐわあっ!」
 石段から吹き飛ばされた兵が、岩と一緒になって落ちてくる。
「退避だ。退避だーっ!」
「斜面から離れろ!近くにいるものは、頭を低くしろっ」
 しかし、さすがに訓練されたジャリアの兵士たちである。直接に被害を受けたもの以外は、無用に騒ぎ立てることはせず、谷の斜面から離れると、列を正して指示を待つ構えだった。
「負傷者の救出をしろ。手当てを動けそうなものは運び出せ」
 落石がおさまったとみると、ハインはさっそく指示を出した。周りの兵たちがただちに動きだす。
「そうでないものは……助けてやることはできぬ。今後の行軍の遅れとなりそうなものは、かわいそうだが、そのまま置いてゆく」
 落石のあとには凄惨な光景が広がっていた。
 大岩に吹き飛ばされ、かなりの高さから落下したもの、直接岩の直撃を受けたものは、ほぼ即死であった。兜をつけていなかったものは頭ごとつぶされ、いや兜をかぶっていたとしても、大岩にまともにぶつかり助かったものはいないだろう。手足が折れ曲がり、体を押しつぶされたもの、瀕死の状態でもがくもの、まだ生きているものたちの痛切な呻き声が、そこら中で上がっていた。
 軽傷ですんだものは助け起こされ、簡単な手当てを受けた。一方で、ハインのいうように、足が曲がっていたり、体に重傷を負ったようなものは、今後の行程に付いて来られないだろうと、その場にとり残された。仲間を見捨ててゆくことに、無傷の兵たちは心を痛めながらも、決してそれを顔には出さなかった。
「どれくらいやられた?」
「は。重傷のものを含めまして、おおよそ百五十名ほどになります」
「そんなにか」
 リガルドの報告に、ハインは眉を寄せた。
「軽傷のものは五十名ほどで、これはなんとか連れてゆけそうですが」
「よし。とにかく川へ向かう。そこで、負傷者の手当ても含めて休憩をとろう」
「了解しました。しかし、」
「どうした」
「は、この落石ですが、単なる偶然でしょうか?」
「というと?」
「自然の落石にしては、タイミングといい場所といい、まるで我々を狙っていたような……」
「……つまり、お前は、これは人為的な攻撃であるかもしれぬというのだな」
 ハインがぎゅっと眉を寄せる。
「その可能性もあるのではと思われます」
「この森林の奥地でか、いったい誰が?」
「それは……分かりませんが」
 横で聞き耳を立てながら、レークは考えていた。
(さっきの水晶の短剣は、もしかして、これを知らせようとしたのか?)
(それとも、さらに別のことがここで起きるってことなのか)
(くそ……やっぱり、戻らずにそのまま逃げるべきだったか)
 だが、いまさらそう言っても、もう遅い。
(ともかく、この谷を越えるまでは……だな)
 ジャリア兵たちはハインの指示のもと、負傷したものを助けながら、岩に囲まれた薄暗い谷底を列をなして歩きだした。
「おお、川だ」
 谷底を流れる川の流れが見えると、ハインを含め、兵たちはほっとした様子で歩を早めた。
 ジャリア兵たちは、それぞれに川べりに腰を下ろし、川の水を飲んだり、配られた固パンを口にして休息をとった。負傷者の手当ても行われた。それとともに小隊ごとの人数の確認も行われ、落石による死者、重傷者の数は二百名近くにもなることが分かった。
「けっこうな損害ですな。小隊長クラスではルグエンも犠牲になっております」
「そうか。ともかく、負傷者の手当てが済み次第出発する。幸いこの川の深さならなんとか徒歩で渡れそうだ。まずはこの谷を越えなくてはな」
 今度の行軍についてのことをリガルドと話してから、ハインは川べりをうろうろとしているレークを呼ばせた。
「お呼びですか?」
「そういえば、さきほどアクエルがいなくなったと言っていたようだが、どうなのだ?」
「あ、え、ええ……たしかに、岩場で待っているはずだったんですが……どこにも」
「そうか」
 ハインはリガルドと顔を見合わせた。
「きっとこの川のあたりにいるとばかり思ったんだが。どこかに隠れているのかもな」
「なるほど。勇敢なジャリア兵士が部隊を離れて、一人で隠れるくらいに、なにかの恐ろしい目にあったということなのかな?」
 刺のあるリガルドの言葉に、レークは思わず口をとがらせた。
「なんだよ。もしかしてオレを疑っているのか?」
「さて、どうかな」
「もしオレがやつをやっちまったんなら、こうしてわざわざ、のこのこと部隊に戻って来はしないぜ。あ、いや……しないですぜ」
 ついいつもの地を出してしまい、レークはあわてて声を落とした。
「それに、あっしは、やつがこの谷に落ちそうになったのを助けたんですぜ。それはやつに聞いてもらえば分かりますよ」
「ふむ。だが、アクエル一人を捜索している時間はない。向こうからこちらを見つけて戻ってくることを期待しよう。休息ののちに、ただちに川を渡り、我々は谷を越えなくてはならん」
 ハインはあくまで冷静に言うと、水筒に口をつけ、ふと頭上を見上げた。
「ずいぶんと暗くなってきたようだ。まだ日が沈むには早い時間だが。この谷の霧のせいなのか、あるいは……」
 そのとき、ぽつり、ぽつりと、空から水滴が落ちてきた。
「おや、降ってきましたな」
 川べりの岩の上に水滴の斑点が広がる。
 降り出したと思った雨は、見る間に強い音をたてて、岩場を打ちつけ出した。
「休憩は終わりだ。ただちに川を渡るぞ。急げ!」
 ハインの命令を受けて、兵士たちが急いで立ち上がる。
「一列になって渡るぞ。前をゆく者の肩に手をおき、流されぬようにしろ」
 川幅は5ドーンほどであろうか。流れはやや速いものの、深さは人の腰より下くらいで問題なく渡れそうだ。ジャリア兵たちは列をなして川に入ると、次々に渡りはじめた。
「雨足がどんどん強まってますな。ハインさまも早くお渡りを」
「ああ。レンクもこい」
 川の流れは速さを増してきているようだった。ハインとともに川へ入ると、水の深さは胸の近くまでになってきていた。
「うわ。こりゃ、気を抜いたら流されちまいそうだ」
 激しい雨のせいで、川の水かさがどんどん増し、それとともに、流れの勢いも強くなっている。
「急げ。急いで渡り切れ!」
 ジャリア兵の列とともに必死に川を渡り、レークはなんとか向こう岸に辿り着いた。
「ふぃー、死ぬかと思った」
 川の水かさはいよいよ増してきていた。土砂を含んで濁った水が渦を巻くように流れてゆく。隊列の半分ほどが渡り終えたとき、恐れていたことが起こった。
「うわあああっ」
 川を渡りかけていた十数人のジャリア兵が流された。
「ああっ、た、助けてくれ!」
 悲鳴は濁流の中に消え、いくつもの黒い鎧姿が、あっと言う間に飲み込まれた。
「ロープを張れ!」
 ハインの指示で向こう岸にロープが投げられ、両側からそれを兵士が引っ張る。そのロープをつかんで、またジャリア兵たちが川を渡りだす。今や水かさは顔にまで達し、押し寄せる濁流を頭にかぶりながら、兵たちは必死に川を渡った。
 そうして、最後のものがつかんだロープごと引っ張られて、こちらの岩場に辿り着く頃には、川幅はすでに二倍近くにまで広がっていた。
「流されたものはどれくらいだ?」
「全部で、三十名になります」
 ずぶ濡れになった兵たちを整列させ、人数を確認すると、当初の人数の四分の一近くを落石と川とで失ったことが分かった。
「ともかく、動けるものは移動する。雨は激しくなる一方だ。どこかしのげそうな場所を探すぞ」
 容赦なく打ちつける雨の中で、兵たちは息を荒くしながらまた隊列を組んだ。
「報告いたします!」
 斥候に出していた兵士が戻ってくると、ハインの前で西の方を指さした。
「しばらく行った谷の斜面に、とても大きなほら穴があります」
「よし。ではいったんそこで雨をしのぐ。移動するぞ!」
 隊列を組んだジャリア兵たちは、川の上流の方向へ動きだした。
 霧に包まれた静かな谷間は、音を立てて打ちつける雨と凶暴な濁流により、いまやその景色を一変させていた。
「うわああっ、また落石だ!」
「退避!退避しろ!」
 斜面から転がってきた岩が土砂とともに隊列に襲いかかる。
 悲鳴と怒声が交錯する。
 それを雨音が包み込み、この深い谷間を狂騒の中に覆いつくしてゆく。
「あ、あそこです!あの岩場の向こうが洞穴です!」
「急げ。次の土砂崩れが起きる前に逃げ込むぞ!」
 数十人、あるいは数百の兵が土砂の下敷きとなっただろうか。だが、今は己が助かるのが先決と、残ったものは岩場を走り抜けた。
 川からはだいぶ離れたあたりまでくると、周囲は背の高い木々に囲まれ、雨風をずいぶやわらげてくれていた。谷の斜面には落ちてきそうな岩もなく、そこにぽっかりとあいた穴があった
「ここか。これは確かに大きな洞穴だ」
「覗いてみましたが、中はさらに広いようです」
 その洞穴はしっかりとした岩盤にあって、休むにはうってつけの場所に思われた。
「よし、当座はここでしのぐとしよう」
 ハインをはじめ、ずぶ濡れのジャリア兵たちは、洞穴の中へ足を踏み入れた。
 入り口は人が通るには充分な大きさだったが、穴の中はさらに広がっていて、数百人の兵たちが入っても、まだずいぶん余裕があった。
 洞穴の中は暗く、なにかすえたような匂いがしたが、それは耐えられぬほどではなく、天井がとても高いせいか、これだけの人数が入っていても息苦しさはそう感じない。
「場合によっては、ここで夜を明かしてもいいですな」
 ほっとしたようにリガルドが言う。彼も相当疲れているのだろう、兵たちに指示を出し終えると、自身もハインの横にへたり込むようにして座った。ともかく、雨をしのげて座って休めることがとてもありがたかった。
「だが、雨がやんだら出発したい。この谷にとどまるのは。あまりよくないような気がするのだ」
「そうですか。まあ確かに……この人数が寝床にするには、ちと窮屈ですな」
 洞穴の外では、まだ強い雨音が続いているようだ。疲れきった兵たちは、川で汲んだ水筒の水を飲み、残った食料で腹を満たすと、ずいぶんと落ち着いたようだった。
 落石などで多くの犠牲を出したことで、アラムラ大森林を踏破するという強行軍が予想以上の困難であることを、ハインを含めて誰もが思い知ったに違いない。だが、そこは鍛えられたジャリアの兵士たち、不平や弱音を口にするものはおらず、彼らはただじっと、ひとときの休息を体力の回復につとめている様子だった。
 静かな休息、彼らがもっとも欲するものはそれであったろう。
 だが、いくらもたたないうちに異変が起きた。
「お、おい……あれを」
「あれはなんだ」
 洞穴の一番奥にいた兵たちが、なにかに気づいたようにざわめきだした。
「おお、あれは……」
「死体だ。あれは、死体だぞ!」
「どうした、なにごとだ!」
 立ち上がったハインとリガルドが、そちらを見た。
「は、はっ、あ、あそこに……奥の暗がりになにかがあると思いまして、見てみると……あ、あれは、どうやら人間の死体であります!」
「なんだと」
 密集した兵たちを押しのけ、リガルドが洞穴の奥へゆくと、何人かの兵士たちが不気味そうに、それを取り囲んでいた。
「死体です。まだ、新しく……血がついております」
「どれ、おお……」
 覗き込んだリガルドは眉をひそめた。
「これは、我がジャリア兵ではないか」
 いくつもの岩が積まれるように転がる暗がりに、それはあった。よく見なければ分からないが、それは確かにジャリア軍の鎧を着ていた。というよりも、鎧の上半身だけがそこに転がっていた。
「うっ、なんという……」
 思わず顔をそむけたリガルドは口に手をやった。
 そこにあったのは、胴体の一部と、そして血まみれの……首からもぎ取られたようにして転がる人の頭部であった。
「これは、ひどい……」
「いったい、ここでなにがあったんだ……」
 同胞の無残な姿を前にして、ジャリア兵たちに動揺が広がる中、 
 そばにきた兵の一人が叫んだ。
「あ、あれは……アクエルだ!」
「なんだって?本当か」
「ああ、間違いない……おお、アクエルだ。こんな姿になっちまって」
 恐怖にカッと目を見開いたよう表情で、頭部をちぎり取られたその姿に、ジャリア兵は声を震わせた。
「アクエル……おお、ひどい。いったい誰がこんなことを」
「そういえば、アクエルは偵察役として出発したのだったな」
「ああ、確か……レンクとかいうやつと」
 ざわめく兵たちを見回しながら、リガルドはハインのもとへゆき報告した。
「どうも死体はアクエルのようです。それは、無残な状態で……」
「そうか。それで、レンクはどこにいる?」
 にわかにざわめきだした洞穴を見渡し、ハインはその名を呼んだ。
「レンク。レンクはどこにいる!」
 なるたけ目立たぬように、ジャリア兵の中に紛れていたレークであったが、一人だけが黒い鎧姿でないので、どうしても目立ってしまう。ハインの呼びかけで、周りのジャリア兵たちがさっと距離をとると、彼の周りにぽっかりと間があいたようになった。
 レークは隠れるのを諦めると、神妙な顔つきでハインの方を見た。
「アクエルの死体が見つかったそうだぞ」
「それはまた……」
 なんと言っていいものかと、レークは口ごもった。
「アクエルはお前と一緒に、この谷に降りたはずだな。そして行方をくらまし、この洞穴で死んでいた。これはいったいどういうことだ?」
「どう、と言われても……オレはなにも」
「まったくなにも知らないと、あくまでもそう言い張るのか!」
 リガルドが鋭い口調で問い詰める。
「お前以外に、誰がこんなことをするというのだ?」
「さっきも言ったが、もしオレがやったってんなら、そのまま逃げちまって、こんなとこまであんたらについて一緒には来ないぞ。そうだろう」
 数百人のジャリア兵たちに囲まれては、さしものレークでも緊張に声がかすれた。
「あの無残な死体を見ろ。首を切られ、手足もない胴体が転がっている。誰があんなことをする?森の狼どもがやったとでも言うつもりか?」
「さあ、そうかもな。ともかく、オレはなにも知らねえよ!」
「では……お前を捕らえるしかなさそうだな」
 ハインの言葉に、周りのジャリア兵たちが一斉に剣に手をやった。彼らは無言の命令を受けたように、剣を抜くとレークを取り囲んだ。
(ち……もう何を言っても無駄か)
 レークも腰の剣に手をやった。
 このまま剣を抜けば、すぐにでも斬り合いになるだろう。
(逃げるか……だが)
 逃げようにも、ジャリア兵たちに囲まれたこの状態では、どうにもなりそうもない。
(くそ。こんなところで死ねるか……)
 レークは唇をかんだ。
 そのとき、ずすんという低い音がした。
 洞穴の外でまた落石でもあったのだろう。ジャリア兵たちは気にもとめない。
 いつのまにか、
 さっきまで激しく打ちつけていた雨音が、はたとやんでいた。
「抵抗するなら、やむをえんな。この場で殺さねばならんぞ。レンク」
「……」
 剣を手にしたジャリア兵たちが、前後左右から剣を構える。
(これまでか)
 レークは剣にかけた手に力を込め、
「ちくしょう」
 剣を抜いた。
 そのとき、
 またしても、ずずんという、さっきよりもやや大きな音が洞穴に響いた。
「やれっ!」
 リガルドが命じるのとほぼ同時であった。
 ガガン、という大きな音とともに、洞穴が揺れた。
「な、なんだ?」
 洞穴の入り口から、なにかが現れた!
 それは、黒く、そして巨大なもの。
「おお、なにかが……」
 近くのジャリア兵が、振り返るよりも早く、
 ぬっと、大きな手が伸びてきた。その手がジャリア兵の一人の頭をわしづかみ、凄まじい力で引き寄せた。
「わあっ、ぎゃっ……」
 バキバキ、と骨が砕けるいやな音がした。吹き出した血が、洞穴の岩壁に飛び散る。
「なっ、なんだ?」
 いったいなにが起きたのか、彼らにはまったく分からなかった。
 その巨大な手が、つかんでいたジャリア兵を人形のように投げ捨てた。血まみれの肉塊が、兵たちの頭の上に落ちると、洞穴の中に恐慌が広がった。
「わああっ」
「ば、化け物だぁっ!」
 その黒く大きなものが、どすんと足音を立てて洞穴に入ってきた。「ぐしゅう」という、獣じみた声ともつかぬ息が上がる。
「ひっ、な、なんだこれは……」
 兵たちは驚きと恐怖とで、その場に動けなくなった。
 大きさは優に二ドーンを超え、三ドーン近くはあるだろう。その巨体は、この洞穴の高い天井に届くほどである。
「化け物……化け物だ」
 黒々とした毛に包まれたそれが、凶暴な生物であるのは明白であった。
「巨人……」
 誰かがつぶやいた。
「森の巨人だ……」
 人間の胴体ほどもあるその長い腕が、ぶんと振り下ろされると、何人かの兵士が軽々と吹き飛ばされ、洞穴の岩壁に叩きつけられた。
「うあああっ、」
「ぎゃあっ」
 巨人の目がカッと見開かれた。頭の真ん中にある一つ目……ぎらぎらとした物騒な光をたたえて、こちらを見下ろすその目が、ひどく怒りに満ちている。
「ひっ、」
「うわあああっ」
 唸りとともに巨人がまた両腕を振り回す。ハンマーのような拳が当たると、ジャリア兵の頭は果物のようにつぶれ、あたりには血と脳漿が飛び散った。
「助けてくれ……化け物だあっ!」
「ひ、ひるむな。剣をとれ!」
「ぎゃああっ」
 リガルドの命令も、兵たちの悲鳴にかき消される。
「わあああっ、」
「この化け物がっ!」
 勇敢なジャリア兵が剣を振りかざし、巨人に向かってゆく。だが、その巨木のような足に蹴られると、別の兵たちを巻き込んで吹き飛ばされる。
「うわああっ!」
「ひいっ、助け……」
 ジャリア兵たちは洞穴の奥へ固まるようにあとずさった。外へ逃げようにも、巨人の体が入り口にあって逃げられないのだ。
(こいつは……なんてえ、化け物だ……)
 レークは壁際にぴたりと体をつけるようにして、巨人の様子を窺っていた。
 逃げようとするジャリア兵たちは、次々に巨人の腕につかまり、あるものは地面に叩きつけられ、あるものはまた鎧ごとつぶされ、無残な姿で転がった。
(これが、伝説の森の巨人なのか……本当にこんな化け物がいたとはな)
 レークとて、もちろん背筋が震えるような恐ろしさはあったが、反対に、おかげでジャリア兵に囲まれた窮地から救われた気持ちもあった。それだけに、むしろ、冷静に事態を観察できたのだ。
(ともかく、なんとか、ここから逃げねえとな)
 己の住まいを荒らす人間どもに、ひどく怒りをたぎらせているように、黒い巨人はどすどすと、その大木のような足を踏みならした。
「ハインさま!このままでは……」
 逃げまどうジャリア兵たちは、仲間の死体を踏み越え、洞穴の奥へと集まって身を寄せるしかなかった。兵たちを見渡し、ハインはつとめて冷静に言った。
「なんとかして洞穴の外へ出るのだ、いいか……誰かが巨人を引きつけ、その隙に、あの足元を抜けて出口へゆくのだ」
「おとり、ですか。しかし、いったい誰が……」
 眉を寄せるリガルドに、ハインが告げた。
「私がやろう」
「それはいけません。ハインさまこそ、この部隊でもっとも大切な御身。なにかあったら、それこそ王子殿下もお嘆きになるでしょう」
 巨人は次の獲物を求めるように、その両肩を揺すりながら、洞穴の中をぐるりと見回した。
(よし。やってみるか……)
 決断したレークが壁際から動いた。
「おらおら、この猿巨人め、こっちだぜ!」
 大声とともに、引き抜いた剣を振り回す。
「おらおら、どうだ、きやがれ!」
 巨人のひとつ目が動き、ぎろりとこちらを見下ろした。
「そら、来いよ。来いってんだ!」
 ふおおおお、という息とも声ともつかない音をたてて、こちらに向かって巨人が動きだす。
「よーし、へへ」
 そのまま壁際に追い詰められる格好となったレークだが、いきなり身をひるがえすと、洞穴の奥へ……ジャリア兵たちの集まる方へ走り寄った。
「こっちだ、バーカ。そら、来い!」
 あっけにとられるジャリア兵たちをよそに、レークはさかんに声を上げ、巨人を怒らせるかのように騒ぎたてる。
「おおおお」
 怒るように両腕を振り回しながら、巨人が襲いかかってくる。
「へへへっ、じゃ、あとはよろしく!」
 そう言うと、レークは洞穴の壁際を一周するように走り抜けた。
 伸ばされた巨人の腕をひょいとかわし、その横をすり抜ける。と同時に、オルファンの剣で巨人の足を切り裂いた。
「ぐおおおおお」
 凄まじい叫びが上がった。
 巨人はレークを追おうと振り向こうとするが、しかし、その姿はもう洞穴の出口へと消えていた。
「おおおお!」
 強烈な叫び声が響く。
「うわあああっ」
「く、来るな!」
 巨人はその怒りを、目の前にいるジャリア兵たちへ、向けることにしたようだった。
「わああああっ」
「ぎゃああっ」
 ジャリア兵たちの悲鳴が上がる。
「ひるむな、剣を持て。戦え!」
 怒声と絶叫、それに巨人の雄叫びが交差する。
 巨人太いの腕に捕まり、バキバキと体ごとつぶされるジャリア兵……血肉がバラバラと飛び散り、それにまた足を滑らせ倒れるもの、吹き飛ばされて壁に叩きつけられるもの……暗い洞穴に見るもおぞましい、陰惨な光景が繰り広げられていった。

「ひゃあ、助かった!」
 ジャリア兵たちの叫びと、混乱の喧騒を背中に感じながら洞穴の外へ飛び出したレークは、洞穴から少しでも離れようと、暗がりの岩場を走り続けた。
 何度も振り返りながら、ようやく川べりまで来ると、ほっとしていくらか歩をゆるめる。
 川の流れは相変わらず激しいが、雨はずいぶんと弱まり、もうそろそろやみそうであった。
 辺りはさっきよりもまた暗くなっていた。すでに日が落ちかけているのかもしれない。むしろこの暗さなら、たとえジャリア兵が追ってきたとしても見つかることはないだろうと、レークは思った。
「しっかし、まあ……あんな化け物が本当にいたとはな」
 暑苦しい黒い胸当てを脱ぎ捨てると、さっきの洞穴で起こったことを再び思い返し、レークはぶるっと体を震わせた。
「森巨人だか、谷巨人だか知らねえが、まさか……あんなおっそろしいのがいるなんて」
 今頃まだ、ジャリア兵たちは巨人と戦っているのだろうか。あの様子では相当の被害が出ているはずである。
「全滅なんてことも、ありえるだろうな。うう……こりゃ早いとこ、この谷を抜け出さねえと」
 水筒に口をつけ、ひと息つくと、レークは周囲を見回した。
「これだけ暗いと、もあどっちに行ったらいいのかも、さっぱり分からねえな」
 川の流れの向きから、かろうじて方角は分かるが、谷を抜け出て再び森の中へ入れば、確実に迷ってしまいそうである。
「ここで夜を明かして、日が昇ってから動くってのが、本当はいいんだろうが……」
 だが、巨人かジャリア兵か、そのどちらかが生き残っているにせよ、結局はやっかいなことになる。できるなら一刻も早く、この谷を抜けたいというのが正直なところであった。
「さてと、どうしたもんか……」
 川を見ながら考えていると、ふとかすかな気配を感じた。
 なにかがこちらに近づいてくる。
 人並みはずれて耳のいいレークには、川の音とは別に、自然の音とは異質のそのかすかな気配と、音がはっきりと感じられる。
 その場にじっとして、神経を集中しながら気配を探る。この暗がりでは、離れていればこちらをすぐに発見できるはずはない。
(ジャリア兵かな……それとも)
 いまやはっきりと分かる。なにかが、まっすぐにここに近づいてくる。
「……」
 ゆっくりと腰の剣に手をやる。
 相手が背後から間合いに入ったら、振り向きざまに剣でなぎ払うイメージを作り、レークはじっと待った。
 かさりと、近くの茂みで音がした。相手はもう、こちらの存在を知って接近している。
「……」
 緊張をにじませつつ、力を抜く。
 懐にある水晶剣の短剣が、熱を帯びたのが感じられた。
「なんだ……」
 レークは緊張をとき、振り返った。
 木々の間の暗がりから、ぬっと人影が現れる。
「おお、」
 低い声が上がった。
「やはり、ここに」
「あんたか……」
 レークはほっとして、その人影に近づいた。
「まさか、こんな谷底で再会するとはな、ブロテ」
 そこに立っていたのは、バコサートで別れてから、姿を見ていなかったブロテだった。
 二人は顔を見合わせると、互いの肩を叩き合った。
「しかし、よくもまあオレのいるところが分かったもんだな、おい」
「ええ、それが……なんとなく」
「なんとなくって、おめえ」
 ブロテをよく見ると、その顔や腕には擦れたような傷がいくつもつき、胸の革あてもずいぶんと汚れている。森林を進むのによほど苦労したのだろう。
「じつは、この指輪が……」
 ブロテは、握りしめていた銀の指輪をレークに差し出した。触れてみると、指輪は熱を帯びたように熱くなっている。
「この指輪がいつも、なんとなく進むべき方向を教えてくれたような、そんな気がするんです」
「ああ、オレの短剣に反応していたんだな」
 返された指輪を再び左手にはめると、不思議なことにふっと指輪から熱が消えた。
「それにしても、あんたがずっとついてきていたとはな。よくもまあ無事で……」
「途中で、何度か見失いかけましたがね」
 ブロテは泥に汚れた顔でにっと笑った。
「さあ、ともかく、ここを離れませんか。詳しいことはあとで。どうも、この谷はとても恐ろしいところのようだ」
「ああ、同感だ。じゃあ、あんたも、あの巨人を見たのか」
「ええ。見ました。それも、この谷にいるのは、どうも一人……というか、一体だけではないようです」
「なんとまあ。あんなのが他にもまだいるってのか」
「黒く大きな動くものを見たというだけで、はっきりとは分かりませんでしたが」
「それで充分だよ。うう……で、どっちへ行けばいいんだ?」
「谷に降りたときのような石段が、こちら側にもあるのを見つけました」
「おお……」
 レークはぽんと手を叩いた。
「てことは……つまり、あの石段は、やはり、やつら……あの巨人どもが谷を上り下りするためのものってことか?」
「のようですな。おそらく。あの岩の大きさからして、やつらのサイズにぴったりですから」
「なんてこった……」
 思わずレークはぶるっと体を震わせた。
「じゃあやつらは、この谷だけじゃなく、森の方にも出没するってことか」
 耳を澄ますと、どこかで獣の叫びのような声が聞こえた。
「ゆきましょう。我々人間の匂いは、きっと、やつらにとっては鹿や猪と同じような、獲物のようなものだ」
「おお、大地の神グレーテと森の神ルベに誓って、オレはやつらに食われるのだけはゴメンだ!」
 暗闇に包まれた岩場を、巨人の影が現れぬことを祈りながら、二人は急ぎ足で歩きだした。


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