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 水晶剣伝説 Z 大森林の行軍


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「このあたりです」
 ブロテが立ち止まったのは、あの洞穴からさほど離れてはいない岩場であった。
「おお、あった。目印に小石を重ねておいたので」
 谷の斜面を見上げると、そこに確かに大きな岩が規則的に置かれ、それが上方まで続いている。
「おお。こりゃ、確かに降りてきたときと同じような石段だな」
「暗いので、足をすべらせないようにしてください」
「分かってるよ。大丈夫だ。オレは身軽なのが自慢なんだ」
 二人はさっそく岩段を上り始めた。
 斜面を上る岩の段は、確かに巨人のものと考えればうなずける大きさで、一段ずつ這い上がるのになかなか難儀した。そして暗闇の中を上ってゆくというのは、昼の間よりもさらに恐怖感がある。
「ふいー、けっこう疲れるな。しかし、この岩段をあの巨人も使っているんだと思うと、どうも妙な気分がするな」
 岩の上で一休みしながら、レークはそう言った。
「おそらく、谷間に獲物が見つからないときには、ここを上っていって、森の中で獲物を探すのではないですかね」
「てことは、このアラムラ森林自体が、やつらにとっては広い庭みたいなもんなのかな」
 人跡未踏で知られる大森林の、さらに奥まった谷に暮らす、幻の巨人たち……恐ろしくもあったが、それはなにか、ひどく神秘的にも思えるのだった。
「きっと……ここでは、オレたちの方が、やつらにとっての侵入者なんだろうな」
「でしょうな。さあ、もう少しです」
 ブロテはその見事な体躯を活かして、どんどんと岩を上ってゆく。遅れじと、レークもそれに続いた。
 半刻ほどもかかって、二人はついに谷の斜面を登りきった。
「もうダメだ……とりあえず、休ませてくれ」
 谷に降りてからも、川を渡ったり、洞穴での巨人との対峙などもあり、さすがのレークといえども疲れ果てていた。岩の上に大の字になるとそのままぐったりとなる。
「ひと休みしたら、もう少し安全そうなところで夜を明かしましょう」
「ああ、そうしよう。しかし……あんたはタフなんだな、ブロテ」
 レークは横になったまま、あぐらをかいて座る大柄な騎士に目をやった。
「なんてえか、ずいぶんとワイルドになったってえかさ……そんな感じがする」
「それはどうも」
 にこりと笑ったブロテは、嬉しそうにうなずいた。
「前にフェスーンの剣技会で戦ったときはさ、ただのデカぶつの騎士さんだと思っていたが。今のあんたは、貴族の騎士とは思えないくらいに、そう……胆も座っているし、えらくタフで、頼もしく見えるぜ」
「そうですな。自分でもそう思います。この遠征に出てから……そう、ずいぶんと自分もたくましくなったような。あのスタンディノーブル城の攻防戦を戦いましたし。あれは、文字通りの命懸けの戦いでしたな」
「ああ、そうだな。もうずいぶんと昔のことのようにも思えるが、あれからまだ、いくらもたっちゃいないんだよな」
 レークは上体を起こすと、水筒の水に口をつけた。
「あんたは、それからレイスラーブへゆき、そこでもジャリアどもと戦ったんだもんな」
「ええ、そこから船で脱出し、コルヴィーノ王らをお守りしながらコス島へ。そして今度はまた、レークどのと、こうして新たな冒険をしているわけです」
「そりゃあ、確かに、たくましくもなりゃあ、胆も座るってもんだな」
 周囲を見回すと、辺りはごつごつとした岩場になっていて、黒々と口をあけた谷が見渡せる。北側を見ると、そちらにはまた黒々とした森が広がっている。
「ところで、バコサートで別れてから、あんたはずっとオレとジャリア軍の後を付いてきていたのかい?」
「まあ、そうです。まさかアラムラの大森林に分け入るとは、思ってもいませんでしたが、こうなったら腹を決めて、発見されないくらいの距離をとって付いてゆきました」
 ブロテの方も実際にはずいぶんと疲れているのだろう。話ながら水筒に口をつけ、大きく息をつく。
「じつのところ、森林では何度か迷いかけたりもしました。さっきも言ったように、指輪のおかげでしょうか、不思議となんとなくこちらでいいのだ、という気持ちで進んでゆくと、またジャリアの部隊を見つけることができました」
「てことは、ジャリア軍が谷を降りるときにも、あんたはどこかから見ていたわけだ。じゃあさ、ひょっとして……あの落石は」
「そうです」
 ブロテはうなずいた。
「あのとき、谷の上の岩場に自分はいました。ジャリア兵たちが列をなして降りてゆくのを見ながら、これはチャンスではないかと。それで、おそらく先頭にいたレークどのが谷底に着いた頃まで待ってから、思い切って岩を落としました」
「おお、やはりそうだったのか。自然の落石にしてはどうも、そう、タイミングが良すぎると思ったぜ」
「ええ。しかし、まさかあれほどの損害を与えられるとは思わなかったですが。危険な思いをさせて申し訳ありません」
「なあに、おかげでジャリア軍は大パニックよ。さらに川に流されたり、巨人に襲われたりと、やつらにとってはまさしく踏んだりけったりの行軍だな」
「あの大きな洞穴が巨人のものだとは、自分も知りませんでした。谷に降りてから、レークどのとジャリア兵たちが入っていった洞穴を、離れた茂みからから見張っていました。すると、なにやら巨大な人影が現れ……それが洞穴へ入ってゆくので、これは大変だぞと心配していましたが、やがてレークどのが飛び出てきたのを見て、急いでその後を追っていったのです」
「そうだったのか。なんにしても再会できてよかったぜ」
 二人はあらためて、互いの冒険行を思いながら、うなずき合った。
「とりあえず、今夜はこのあたりで休んで、明日の朝になったら、とっとと森林を抜けようぜ」
「それがいいですな」
「もうジャリア軍も、森も、巨人も、うんざりだ!」
 それはまったく正直な二人の気持ちであった。
 しばらく休んでから、もう少し安全そうな岩影を探して移動すると、彼らはそこを今夜の寝床に決めた。
「トロスやセルムラードの寝台とまではいかねえが、せめて夜空が見えるのが贅沢だと思うことにしよう」
 食料などの入った革袋を枕にして、二人は岩のくぼみに横になった。
「できたら日が昇る前に起こしてくれ。でないとこのまま昼まで眠っちまいそうだ」
「分かりました」
 木々の香りを含んだ心地よい風が、涼しく頬を撫でつける。目を閉じれば、ここがアラムラの大森林のど真ん中だとは、とても思えない気がする。
(あいつは……無事にトレミリアに向かっているかな)
 コス島の港で別れた女騎士の姿……そのときの彼女の表情を、まぶたの裏にぼんやりと見つめながら、
 レークは眠りに落ちた。

 揺り動かされて目を開けたとき、辺りはまだずいぶん暗かった。
 どれくらい眠っていたのか分からないが、ほとんど眠っていないような気もする。
「うう……ちょっとまて。頭がぼうっとしやがる」
「レークどの、谷を上ってくる人影が見えます」
 そのブロテの言葉で一気に目が覚めた。
「なんだと」
 上体だけを起こし、岩影からそっと顔を出すと、うっすらと紫がかった霧に包まれた、幻想的な谷の光景が目の前に浮かび上がった。
「この谷なら、あんな巨人がいても、確かに……不思議はないかもしれんな」
「見てください。やはり、我々が上ってきた岩場から、黒い影が」
「あれか……」
 霧の中から黒い影が現れた。それが巨人なのか、ジャリア兵なのかは、すぐに明らかになった。
「おお、続々と上ってきやがる。やつら……生きていたんだな」
「ええ」
 列をなして岩段を上ってくる黒い影は、ジャリア兵たちの生き残りであった。
「あの巨人を倒したのかな。それとも、なんとか逃げてきたのか……」
「さあ、分かりませんが……数はずいぶん減っていると思います」
 ここからでは、ジャリア兵の姿はまだ人影程度にしか見えないが、霧に包まれた谷間からやってくる黒々とした姿は、まるで死に神の行進のようにひどく不気味に見えた。
「どうするか。また、あんたの腕力でこっから石でも落としてやるか?」
「真上まで行って落とせそうな岩を探すには、いまからではもう間に合わないでしょう」
「じゃあここで、やつらが上がってくるのをじっと待つしかねえってことか」
「ここなら、石段から離れていますし、この岩のくぼみに我々がいることまでは、やつらは気付かないでしょう」
 ブロテの言葉にうなずき、レークは岩影からまたそっと顔を覗かせた。
 負傷者などもいるのだろうし、疲れ切ってもいるのかもしれない、谷を上るジャリア兵の歩みはひどく遅かった。岩のくぼみでじっと待ち続けると、やがて先頭のジャリア兵が谷を上りきったのが見えた。それに続いて続々と、黒い兵たちの姿が岩場に増えてゆく。
 彼ら全員が谷を上りきるまでには、さらに半刻ほどかかった。ここからでは、はっきりとその人数までは分からないのだが、谷に降りる前までは千名はいたジャリア兵が、いまではおそらく、その半分以下にまでなっていただろう。
「やつら、えらく疲れているようだな」
「おそらく、夜通しであの巨人と戦ったのではないでしょうかね」
 遠目にみても、彼らの疲弊は相当であるようだった。谷を上りきった兵の中には、今にもそこに倒れ込みそうなものもいるようだ。だが、そこはおそらくはハインら、生き残った指揮官の叱咤もあるのだろう、彼らは整列を崩すことなく、そのまま動きだした。
「どうやら、やつら、このまま出発するようだぞ」
「でしょうな。彼らにすれば、多大な犠牲も出し、この谷からは一刻も離れたいはず。おそらく、今日の夕刻までに森を抜けたいと考えているでしょう」
「巨人との戦いや、あんたの投石もあったしな。やつらにとっては散々な目に合った、まさにここは忌まわしの谷ってワケだ」
「我々はどうしますか?行動としては二つあると思います」
 そのいかにも戦士らしい屈強な外見とは裏腹に、ブロテには案外に冷静で知的なところもあるのを、レークは知っていた。
「まず、やつらより先んじて森を抜け出し、トレミリア軍と合流、ジャリア軍接近の報告をすること。もうひとつは、やつらの隊列に再び接近し、さらに情報を得るかあるいは」
「あるいは?」
「その兵力をまた、少しでも削ぎ落とす行動に出ること」
「ふむ」
 レークは、森に向かって動きだしたジャリア軍をじっと見つめ、
「じゃあ、その両方だな」
「両方、ですか」
 いささか驚いたようなブロテに、にやりとしてうなずいた。

 谷を越えた森林の北側は、南側とはいくぶんその様相を異にしていた。
 陽光を隠すほどに木々が生い茂り、奥へゆくにつれて暗くなるのは同じであったが、地面はさほど湿ってはおらず、ぬかるんだ土に足を取られることはあまりなかった。苔むした地面のかわりに、草が生えた場所が多くなり、気のせいか、あたりには鳥の鳴き声も多く聴こえるようだ。季候的にも、いくぶんだが風も感じられて涼しく、蒸し暑さに汗ばむこともない。
「これなら、ずいぶん歩くのが楽だな。水も昨日川で汲んでおいた分で、もうしばらく持ちそうだぜ」
「ですな。それはやつらにも同じでしょう。昨日よりもずいぶんと行軍が早いようです」
 二人は、ジャリアの部隊と一定の距離をとりながらあとをつけていた。
 朝日が昇りきると、森の中でもずいぶんと明るく感じられた。もちろん、生い茂った木々がどこまでも続く大森林であるから、視界良好というわけにはいかなかったが、それでも、確かに森の南側に比べると、谷を越えたこちらの北側の方が、明らかに見通しはよくなっていたし、空気自体も澄んでいるような気がした。
 木々のあいだに見え隠れするジャリア兵たちを、その後方から注意深く観察しながら、二人は慎重にあとをつけた。
「このぶんなら、じっさい今日中には森を抜けられそうな気がするな」
「ええ、いくらか光も差し込みますから、太陽の方向で進む方向を確認できますし。ただ視界がよくなったぶん、我々が見つかることも注意しないと」
「ああ。だが、夜を待っている余裕はないな。仕掛けるとしたら……」
 足元の木の根をひょいと飛び越すと、レークは前方に見えるジャリアの隊列を指さした。
「やつらが次に休息をとったら、やるぜ」
「やるというと、まさか、いきなり切り込むということは……」
「まさかな。いくらオレでも、五百人のジャリア兵を相手には、そんな無謀なことはしないさ」
「ですかねえ」
 疑わしそうなブロテを横目に、レークはむしろ楽しそうににやりと笑った。
「まあ、そうだな……百人くらいだったら、やったかもしれねえが」
 二人は辛抱しながら、ジャリアの隊列の後を、つかず離れずの距離を保って歩き続けた。あるいは、彼らを追い抜き、先に森を出てしまった方がよほどよいのではないか、という気持ちももちろんあった。だが、できればやはり、もっと情報を仕入れた上で、それをトレミリア軍に持ちかえりたいという思いが、焦る気持ちを抑えた。
 森の中の行軍を続けるジャリア軍と、それを追う二人の剣士……ゆるやかな緊張に満ちた時間が過ぎてゆく。生い茂る木々の間からときおり差し込む陽光は、もうずいぶんと上の方にまできていた。
「おお、見ろ。やつら、ようやく足を止めたぞ」
 太陽が中天に差しかかった頃だろう、彼らにとってのチャンスがきた。
「どうやら、小休止して食事をとるようですね」
 木々の間から見つめる二人の前で、ジャリア軍の隊列は動きをとめていた。レークとブロテは見つからぬよう、頭を低くして茂みの間を移動した。
「どうしますか?」
「ちょっと待て……」
 レークは茂みから、じっと敵の動きを観察した。
「見ろ……隊列を離れていく兵士が何人もいるぞ。きっと用を足しにいくんだ。できたら、行軍について詳しいことを知っていそうな、隊長クラスかなんかのやつを、茂みでひっ捕まえて、情報を聞き出すんだ」
「危険ですが……たしかに、チャンスは今しかないようですね」
 二人はうなずき合うと、また木々の間に隠れながら、ジャリアの隊列の前方が見えるところへと近づいた。
「よし、このへんがいいだろう」
 茂みの中から息をひそめて見張っていると、少しして黒い鎧姿のジャリア兵が、隊列から離れて歩いてくるのが見えた。
「おっ、一人だけ離れて森の奥へゆくやつがいる。あいつは……たしか、隊長かなんかのやつだぞ。名前はなんつったか……」
 それはたしかに見覚えのあるジャリア騎士であった。用を足すためにか、暗い茂みの方へと分け入ってゆく。
「よし、こりゃ都合がいいぞ。あいつにしよう」
 そう決めると、レークとブロテは気配を悟られぬように、風上の方からジャリア騎士に近づいていった。
(いくぞ)
 隊列からはだいぶ離れたので、少々の物音では気取られないはずだ。二人は目を見交わすと、ジャリア騎士を挟み込むようにして左右から忍び寄った。
「誰だ?」
 はっとしたようにジャリア騎士が振り返る。
 だがもう遅かった。飛び込んだレークが、背中から相手の腕ひねり、押さえつけた。
「きっ、きさま……」
「おっと、静かにしてもらおう」
 レークが耳元で囁く。剣を抜いたブロテが、剣先をジャリア騎士の胸に突きつける。
「う……」
「すまねえな。手荒な真似をして。ただちょっと、情報を教えてもらいてえんだよ」
「きさま……レンクか、レンクだな」
 ジャリア騎士が呻くように言う。騎士は部隊の隊長であるリガルドであった。
「やはり、きさまは……敵の間者だったのか」
「間者なんてご立派なモンじゃないがね。まあともかく、なんでもいい。早いところ教えてくれ。この部隊の目的だ。たぶん、トレミリア軍に奇襲でもかけようってんだろうがな、それにしちゃあ人数がさ、少なすぎるよな」
「……」
「あんたなら、知っているんだろう。あのハインさん……大将さんの作戦を。それとも、黒竜王子のか。まあどっちでもいい、この部隊の本当の目的と、この行軍が目指す正確な場所をだ」
「知らぬ……いや、知っていたとしても言わぬ」
「はっ、嘘をつけ。隊長クラスのあんたに知らされてないはずはない。さあ、はやく言えよ。でないと、このガタイのいいオレっちの仲間が、あんたを刺し貫いちまうぜ」
「……く」
 さすがに隊長騎士としての誇りもあれば、内なる信念もあるのだろう、リガルドは歯を食いしばるようにして、ただ肩ごしにレークを睨んだ。
「そうか、仕方ねえな。では、ちっとばかし、痛い目に合わせるしかないようだ。そう時間もないんでな」
「……」
 レークは押さえる役を任せようと、ブロテに目配せをした。そして一瞬だけ、騎士の腕をひねり上げていた手をゆるめた。
 そのとたん、そのときを狙ったようにして、リガルドは腕を振りほどき、ごろりと地面を転がった。
「ちっ、逃がすかよ」
 すぐに剣を抜こうとしたレークだったが、
「そこまでだ!」
 すぐ近くの茂みから声があがった。
 木々の間からぞろぞろと、数十人のジャリア兵たちが現れた。
「もう、逃げられんぞ」
 黒い鎧姿のジャリア兵たちを指揮し、剣を手にしたハインがそこに立っていた。
「こんなこともあるかもしれぬと、リガルドをおとりに待ち構えていたのだ。やはり、お前はただの浪剣士などではなかったのだな」
「くそ……」
 レークとブロテを取り囲むジャリア兵たちは一斉に剣を抜き、すぐに動けるよう命令を待っていた。ハインの横に駆け寄ったリガルドが、こちらを指さした。
「こやつらは、間違いなく敵であります。我々の行軍の目的を聞き出そうとしておりました」
「なるほど。はじめからそのつもりで我が軍に近づいたようだな。それから、その大きな男。お前は、バコサートの路地裏で、私を襲った剣士だな。そのあとに現れたレンク……私を助けるふりをして近づいたが、お前たちはもとからグルであったということだな」
「……」
 レークは、黙ったまま、じっとハインを見た。
「レンクというのも嘘の名前か。それから、その大男は、どこかで見覚えがあるような気がするが、そういえば、トレミリアには大柄で、名のある騎士がいるのであったな。確か、スタンディノーブル城の戦いでも、我々と剣を交えたの騎士……ブロテどの、であったかな?」
 ジャリア兵たちが包囲の輪を狭めるように、じわりと一歩前に出る。
「くそったれ……」
 レークはつぶやいた。トレミリアの騎士と知られてしまっては、なおさらここで捕らわれるわけにはいかない。
(おい、ブロテ……)
 追い詰められるフリをしながら、レークは肩ごしにブロテに囁いた。
(ここで戦って死ぬのは、やっぱつまらんよな)
(さあ……しかし戦うのなら、私はべつにかまいませんが)
(ああ、そうかい。ならやつらに突入するかい?)
(レークどのにお任せします)
 それを聞いて思わず苦笑する。
(あんたを動じさせるには、ジャリア兵よりもむしろ、麗しの美女の方がいいのかもな)
「武器を捨てろ、レンク」
 鋭くハインが命じた。
「捕虜として投降するのなら、王子殿下に直訴して、命はとらぬようお情けをいただいてやってもいい」
 こちらを囲むジャリア兵たちがまた一歩近づいた。
「……」
 ひとつ息をつくと、レークは剣を戻した。
「お前も剣をしまえ」
「ですが……」
「いいから、言う通りにしろ」
「わかりました」
 ブロテも剣を収めた。
「いい心がけだ」
 うなずいたハインが、一瞬気を抜いたのを見て取ると、
(いくぞ、しっかりついてこいよ)
 そう囁くと同時に、レークはくるりと向きを変え、だっと駆けだした。ブロテも慌ててそのあとを追う。
 二人は剣を振り上げるジャリア兵の間を突破し、木々の間に飛び込んだ。
「追え!逃がすな」
 背後に上がる叫びを聞きながら、レークとブロテは森の中を走りだした。
「レ、レークどの、どこへ向かうんです」
「知らねえよ」
 レークはときどき向きを変え、茂みに飛び込み、木の幹をくるりと周ったり、いきなり左へ切り返したりと、まるでめくら滅法に走り続けた。なんとなくだが、そちらへ行った方がいいというような気がする……一瞬ごとの判断、それに任せるようにして。
「まだ追ってくるか?」
 二人は息を荒くして背後を見た。
「ええ……まだ。だいぶ引き離しましたが、こちらに向かってくるようです」
「しつこいやつらめ」
「こっちはいったい、どの方向なんでしょうね」
「さあな、ただ、なんとなく……こっちがいいって気がするんだ」
 あたりは変わらず木々の生い茂り、どちらへ行っても森の中である。太陽の位置をちゃんと確かめないでは、どちらへ向かっているのか分かりようがない。
「よし。たぶん、こっちだ」
 レークはまた走り出した。地面に盛り上がった木の根があったので、それを飛び越えて、草の上に足をついた。そう思った瞬間だった。
「うわっ」
 そのまま、足が地面に吸い込まれるような感覚があった。
 あたりが暗闇に包まれる。急激な落下の感覚に、レークは一瞬死を覚悟した。
「うわああっ」
 だが、無意識に手を広げると両手に土が触れた。いくぶん落下がやわらぐと、傾斜のついた穴をするすると滑り落ちるような感じになった。
「お、おどかしやがって……」
 草に隠れていた縦穴に、自分がすっぽりと落ちたのだと知った。
 やがて足が地面に届いた。けっこうな高さを滑り落ちたようだ。
「レークどの!」
 上からブロテの声が聞こえた。
「大丈夫ですか!」
「お、おお」
「大丈夫ですか!ここに落ちたのですか。上れますか?」
「ああ、大丈夫だ」
 上からブロテが穴を覗き込んだらしい。その声がはっきりと響いた。
「では早く。向こうから敵が……敵が来ます」
「つってもな……けっこうな高さだ。すぐには上れないぜ」
「そうですか、手を貸しますか?」
「いや、待て……」
 あたりを手さぐりで確かめる。
 真っ暗でよくわからないが、人が入るに充分な空間があるようだ。それに、穴の中なのに、ひんやりとして不思議と風通しがよい気がする。
「どうやら、しばらくここに隠れられそうだ」
「なんですって?」
「お前も降りて来い。きっと、ここなら見つからないぞ」
「で、ですが……」
「敵が近くまで来ているんだろう。早くしろ」
「わ、分かりました」
 ややあって、上から土がぱらぱらと落ちてきた。
 おそらくブロテの巨体では、この穴は通るにはぎりぎりなのだろう、落ちるというよりは周りの土を崩しながら、その体がゆっくりと滑り下りてくる。
「おお、地面についた」
 ほっとしたようにブロテが言った。
 穴の底はブロテが降りてきても、そう狭さは感じなかった。すべり降りる縦穴は狭いのだが、底の方はちょっと広めの空間になっているようだった。
「レークどの。ここは……いったい」
「さあな。暗くて分からねえが、手さぐりで調べた感じだと、あっちの方にまだ穴が続いているようだ。ちょっと行ってみよう」
 いくぶんの恐ろしさもあったが、好奇心の方が勝った。手さぐりで穴を進んでゆくと、まるで地下道のように、穴はずっと奥の方まで続いているようだった。
「こいつは、どこまで続いているんだろう」
 さすがにブロテは頭を低くしないと通れなかったが、レークの方は普通に立ったまま歩けた。動物が堀った穴にしては大きすぎる。明かに、これは人の手による地下道であった。
「あの巨人のものにしては、逆にこれは小さいですな。となると、やはり我々と同じ人間が堀ったものでしょうか。しかし、誰が、なんのために……」
「さあてな。しかしまあ、ともかく、今はジャリア軍から逃げるのにはうってつけの場所だってことだ」
 気軽そうにレークは言った。どんどんと奥まで進んで行っても、穴の中はひんやりとしていて案外に快適で、どこかから空気が流れているのか息苦しさも感じない。
「こりゃ、けっこうな大きさの地下道だぞ。まさか、アラムラの大森林に、こんな地下迷宮みたいな穴があるなんざ、誰も知らないだろうな。こりゃちょっとした探検だ」
 暗闇の中を歩いてゆくのは、まるで自分が地下世界に迷い込んでしまったような、先の知れない不安とともに、ワクワクするような不思議な気分があった。手さぐりに進んでいるので、実際にはそう長い距離でもなかったかもしれないが、もうずいぶんと歩いているような気がしてくる。
「レークどの、穴が少し狭くなってきてませんか」
「ん?どれ……おお、本当だ」
 手を伸ばしてみると、さきほどまでは余裕があった穴の天井が、今は頭のすぐ上だった。ブロテはさっきから窮屈そうに体をかがめている。
「おや、この先になにかあるぞ」
 レークは前方に目を凝らした。暗がりに目がだいぶ慣れてきていた。
「なんです?」
「行き止まりか……いや、違うな」
 慎重に進みながら手を伸ばすと、なにか固いものに触れた。
「おっ、こりゃ、木でできた壁みたいだな。いやまて……これは扉だ!」
 レークは驚いて声を上げた。
「本当ですか?」
「ああ」
 手さぐりで確かめると、扉は穴の大きさにぴったりとはまっていて、なかなかしっかりと造られたもののようだ。
「真ん中へんに、鉄輪の取っ手みたいのがついているぞ。開けてみよう」
 レークは鉄輪をつかむと引っ張った。
 だが、扉はびくとも動かない。
「おっ、こいつ……くそっ」
 何度か引っ張ってみるが、錠でもかけられているのか、扉はまったく開きそうもない。
「くそ、引いても押してもダメだ」
 今度は体ごとぶつかって押そうとしたとき、
「当たり前だ」
 いきなり声がした。
「人の家にノックもなしで入ろうとするでないわ!」
「なっ、なんだ……誰かいるのか?」
 驚いたレークは、思わず鉄輪から手を離した。後ろにいるブロテは、背中を丸めたまま、剣に手をやろうと身構える。
「まったくのところ、ぬしらは客なのか、それとも敵なのか……」
 その声は扉の向こうからはっきりと聞こえてくる。
「しかし、ここまで来られるということは、結局のところは敵というではないということになるか……ふむ」
 カチリと音がした。
 そして、きいと音がして扉が内側に開かれた。ぱっと光がまぶしくきらめく。
「お、おお……開いたぞ」
 二人はおそるおそる中を覗き込んだ。
 そこは、地下というには明るい……とても明るい部屋だった。


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