9/10ページ 
 

 水晶剣伝説 Y セルムラードの女王


\

「これは……」
 短剣の柄にはまった水晶を覗き込むと、その青い宝石が、なにごとかを知らせるかのように妖しくきらめいていた。
(……レン、ア……レンよ)
 声が響いた。
 それは頭の中に、直接響いて来るような……そんな声であった。
 最初、アレンはそれが誰の声なのか分からなかった。それは実際に聞こえる声ではなく、意識の中で響くイメージが、言葉として再構成されたような、そんなものだったからだ。
(アレン……分からないのか)
「誰だ……俺を呼ぶのは。どこにいる?」
 周囲を見回しても、辺りにはなんの気配も感じられない。だとしたら、相手はどこか離れた場所にいて、この剣の魔力を使って話しかけているのだろうか。
(オレだ……アレン、ここにいるぞ)
 その声は、必死になってこちらに呼びかけているようだ。
 しだいに、その言葉のイントネーションに、よく知っているものが感じられだした。
「まさか。レーク……か?」
 アレンはそう気づくと、驚きにまた辺りを見回した。
「どこにいる。本当に、お前なのか?」
(アレン……オレはここにいるぞ)
 頭に響くその声は、確かにそう思えば、相棒のものに違いない。
 アレンは短剣の水晶を見つめ、心の中で念じてみた。
(レーク……レークなのか)
(おお、アレン!アレンよ)
 心の中に響く相手の声が、明らかにこちらの声を認識したようだった。
(やっと気づいてくれたか。さっきからずっとそばにいて、話しかけていたんだぜ)
(レーク、本当にレークなんだな)
(ああ、もちろんだ。オレだ。ここにいる)
(ここに……どういうことだ?)
 アレンは、もう一度また周囲を見回してみた。
(お前の……目の前さ)
(だが、見えないぞ)
(オレにはお前がよく……見える)
(レーク、お前はもしかして、水晶の魔力を使ってオレに話しかけているのか)
(ああ、そうだ。アストラル体……とかいうものに……なって、意識だけでここに……いるみたいだ)
(アストラル体……)
 アレンにも、少しずつ理解できてきた。
(では、つまりお前は、実際にはどこか遠いところにいるのだな)
(そうだ。セルムラード……にいる)
(セルムラード。なんと……そうなのか)
 ウェルドスラーブに向かって出発したレークやクリミナたちのその後の消息は、トレミリアにはほとんど入ってきていなかった。国境の城であるスタンディノーブル城が陥落したというニュースがこれまでの最新の情報であったから、その後のレークの安否について心配はしていたところだったのだ。だが、まさかセルムラードにいるなどとは考えもしなかった。
(クリミナ……騎士長どのも一緒だ)
(そうなのか。しかし、どうやって魔力を……指輪の力だけでは、こんな風に意識体を飛ばすことなどはできないだろう)
(ああ、それは……話せば長くなるが、水晶の短剣が他にもあって……)
(なんだと)
 アレンは今度こそ驚いた。まさかそこまで事が進んでいるとは。
(水晶の短剣を、お前はそれを見つけて、手にしたというのか)
(ああ……が、……の剣は、ジャ……王子が、……ている)
 これまではっきりと響いていたレークの声が、とぎれとぎれになった。
(どうした、レーク?)
(アス……ル、……力が弱まっ……飛ばされ……だ)
(レーク、大丈夫か?レーク!)
 アレンにも、意識体であるレークの身に、なにかが起こっていることが分かった。
(もう……みたいだ。お前と話せ……よかった)
(レーク、最後に聞かせろ。ウェルドスラーブはどうなった?そして、水晶剣のことを)
(レイスラーブ……陥落した。……剣は)
 頭に響いていたレークの声が、しだいに遠のいてゆく。
(あの……王子が……)
(王子?王子というのは、もしや……)
(……セイナ、待ってくれ……まだ、オレはアレンと……)
(レーク、おいレーク!)
(……ああ、体が……飛ばされる)
(レーク!)
 唐突に、声はふっととぎれた。
 それまで頭の中に響いていた言葉のイメージも、すべて消えた。
 レークはいなくなったのだ。アレンにはそれが分かった。
「……」
 手にした短剣からも、今はもうなにも感じなくなった。水晶のきらめきも消えていた。
(レイスラーブが陥落……レークはセルムラードにいる)
 確かにそれは聞いた。これが夢でなければ。
 アストラル体……そんな不思議なものになって、相棒ははるばるセルムラードから飛んできたというのだろうか。
 普通の人間であれば、到底信じられないような話であった。
 だが……
 アレンは短剣をぐっと握りしめた。
 この剣の魔力……そして、本当の水晶の力があれば、
(王子……と言ったな)
 ウェルドスラーブに侵攻したジャリアの黒竜王子、その強大な力がついに、ひとつの国を飲み込んだのだとすれば、
(水晶剣は……)
 アレンは夜空を見上げた。
 その空の彼方に続いている、ジャリアやセルムラード、そして、さらなる伝説の王国に思いを馳せるように、彼は静かに流れゆく星々を見つめるのだった。



(か、体が……ちぎれる)
 虚無の中に放り出され、ばらばらにされてゆくような感覚だった。
 どうしようもない濁流に飲み込まれて、四方へ引き流されてゆく。
 そんな恐怖がレークを包んでいた。
(どう……なるんだ、オレは……)
 まるで意識そのものが、強力な力により引っ張られ、吹き飛ばされ続けているようだ。
 この不快さ、気味の悪さというのは、たとえようもないほどで、レーク自身もこれまで一度も味わったことのないものだった。
(いったい、どこへ……)
 上空高く持ち上げられたかと思えば、急激に暗黒の中に投げ出されて、どこへともなく飛ばされてゆく。そのたびに、意識体であるはずの自分が、少しずつちぎれてゆくような感じがした。
(うう……)
 恐怖もそうだったが、この苦しみそのものから、早く自由になりたい、楽にしてもらいたかった。できることなら早く目覚めたい。これが夢であるのなら。
(どこでもいい、下ろしてくれ)
(オレを地上に……帰してくれ)
 必死にそう念じ続けながら、
 暗闇のトンネルの中でもがくような心地で、レークは耐え続けた。
 おそらく、あともう少しだけそれが続いていたら、レークの精神は発狂するか、意識が分裂し、二度と実体には戻れなくなっていたに違いない。
(どこへでも、いい)
 それは唐突だった。まるで霧が晴れるようにして、そこに夜空が現れた。
 いや、もしかしたら、これまで暗黒の雲の中を飛んでいたのかもしれない。その雲を突き抜けて、また空に戻ってきたような、そんな感覚であった。
(うわ……)
 そして、急激な落下が始まった。
 飛ぼうと念じても飛べない。いままで働いていた力が、完全に失われたかのようだ。いくらもがいても、ただ落下するだけだった。
(お、落ちる……)
 眼下には、また雲が広がっていた。その雲を突き抜けると、
(な……)
 そこに広がっていたのは、どこかの都市であった。
 巨大な都市……
 上空から見下ろすその光景は、レイスラーブでもトレミリアでもない。
 それは、見たこともないような都市であった。
(ここは……)
 たくさんの、数えきれないほどのたくさんの塔……地上から突き出した針のように、先の尖った塔に囲まれて、城のようなものが見えた。
 レークは恐怖を忘れて、眼下に広がるその光景に見入っていた。
(なんだ、ここは……)
 これまで見てきたどんな都市の風景とも違う。おそろしい数の塔……そして、さらに異質なのはその輝きであった。
(塔が……光っている)
 月の光、星の光を受けて、その数百、数千とも思える塔の尖った青い屋根屋根が、うっすらと、そして妖しく光っているのだ。まるで、それ自体が宝石でできているかのように。
(なんだか……まるで、水晶みたいだ)
 レークは思い出した。前に夢で見た地下の回廊……その回廊の果ての奥まった壁の、そこにかかっていた絵画のことを……
(ああ、そうだ……あの絵に似ている)
 見たこともないような形の塔と、光り輝くような城……
(水晶……あのエルセイナのいる水晶の壁も、こんな色で光っていた)
(ここは……ここは)
 落下とともに、そのたくさんの尖塔が、眼前にぐんぐん大きくなってゆく。
 目の前に広がるこの不思議な王国に、レークは何故かなつかしいようなものを感じた。
(オレは……ここに戻ってきたのか)
 意識が、ゆるやかに溶けてゆく。
(オレは、ココに……)
 しだいに、落下の恐怖は、えもしれぬ心地よさへと変わってゆき、
 きらきらと青く輝く塔たちに囲まれた、その城を見つめながら、
 レークは己がやっと、なにを探していたのかを知ることができた気がしていた。
 そして、長い長い旅の末に、ついにその目的を見いだしたものが抱くような、
 そんな大いなる安堵に包まれていた。
(水晶の……王国)
 自分がなにをつぶやいたのかも知らず、
 レークの意識は最後の落下とともに、ふっと消えた。



 ……
 ……
 次に目が覚めたとき、レークは自分が寝台に横たわっているのを知った。
(う……ここは)
 頭がずきずきと痛んだ。意識が寄り集まってきて、それがようやくひとつになったというような、奇妙な不快感とともに。
(オレは、いったい……)
 自分の肉体がどうなっているのか、まっさきに知りたいのはそれであった。
 両手足にはまだいくらかのしびれがあったが、まぎれもなくそれは自分の手足であった。
 だが、これがまた別の夢の中なのではないかという疑いもあった。
 ためしに、おそるおそる体を起こしてみる。体全体に、しっかりとした現実の感覚があった。自分の体がちゃんと言うことをきくというのが、これほど嬉しいことだとは。
(あれは、夢だったのか……)
 ここが、セルムラードであることは確かである。それに、自分が今横たわっていたのは、見覚えのある部屋の寝台だった。この国に来て、女王に会って、それから、この部屋で眠りに落ちたことまでは現実であるはずだ。
 だがそのあとは、どこからが夢で、あるいは、どこからが現実であったのだろう。頭がまだぼうっとしているせいか、それも定かには分からない。
 思い出されるのは、あの奇妙な体験……神殿の噴水の穴から階段を降り、地下の回廊を歩いてゆき、そして、あの妖しい宰相エルセイナと会った。水晶の壁の前で……
 そして、
(アストラル体……オレは空を飛んで、ウェルドスラーブへいった)
(ブロテにも会えたし、それから、アレンに……)
 あれは、本当のことだったのだろうか。
(アレン……)
 久しぶりに会った相棒と、そのときなにを話したのかまでは覚えていないが、確かに、心の中で言葉を交わしことは覚えている。
(それに……ああ!) 
 脳裏におほろげによみがえる、あの不思議な景色。
(あれは、いったい……)
 どこかの王国のような、見たこともないような都市の姿……
(城も塔も、美しく輝いていた……) 
 まぶしいほどに、青く光り輝いていた、まるで宝石のような尖塔の屋根屋根……あんなものが現実にあるとは思えない。この大陸のどこにも見たことがないような都市である。
 それではやはり、あれはすべてが夢の中の出来事だったのか。
「……」
 寝台から起き上がって床に足をつくと、レークは自分の足が汚れていることに気づいた。まるで裸足で外へ出たかのように、足の裏には砂がつき、かすかな擦り傷もある。
「オレは、夢遊病者にでもなったのかな」
 ふっと笑いをもらしてつぶやき、水おけの水で顔を洗う。頭の中は、まだなんとなく、ふわふわとしたような変な感じだった。
 いろいろと物事を考えるのも面倒なので、レークはともかく部屋の外に出た。
 塔の窓からはまぶしい朝日が射し込んでくる。一晩ちゃんと眠ったにしては、なにやら体はとても疲れているような気がした。
「メシでも食って、もう一回寝りゃあ、すっきりするかな」
 階段を降りて外に出ると、青く晴れ渡った空と、涼やかな朝の風が彼を出迎えた。陽光に照らされて輝くような池の水面には、女王の城の姿がうっすらと映り込んで、じつに美しい。
「そういや、あのときは確かこのあたりでネコが……」
 女王のネコ……というか、あれはエルセイナのネコなのだろうか。まるでレークを案内するように神殿へ連れていってくれた。はたして、あれも夢だったのだろうか。
「……ふむ」
 なんとなく思い立って、レークはそのときと同じように、塔の裏手の方に回ってみた。すると、そこにはやはり見覚えのある、ごく狭い通路が城の裏側へと続いている。
「同じだ」
 その通路をネコに案内されたのと同じように歩いてゆく。あのときと違うのは、今は太陽の昇った朝であり、ゆらめく池の水が妖しく思えることもなく、魔力を感じるかすかな予兆もないことだった。
 狭い通路を抜けて城の東側に出ると、レークは池に沿って歩いた。
「確か……どこかに、橋みたいに池を渡れる場所があったはずだ」
 池の水面を見ながら歩いてゆくが、それらしいものはなかった。あのときは、ネコに案内され、水の上を渡れる場所を見つけられたのだが。
「おかしいな。どこにもないぞ……」 
 今は朝なので、池の水は底まですっかり見通せる。しかしどこにも、石の橋らしきものは見当たらない。
 池の向こう側には、白い壁と円柱の神殿が、緑の木々に囲まれて静かに立っている。あのときと違うのは、そこに黒と白の二匹のネコの姿がないことだ。
「どういうことだ……やっぱり、あれは夢だったのか」
 しばらくそうやって池を見つめながら、レークがそこにたたずんでいると、後ろから声をかけられた。
「やあ、レーク・ドップどの。そんなところでなにをしている?」
 振り向くと、そこに立っていたのは、銀色の髪を束ねた女騎士……リジェであった。
「ああ、あんたか」
 彼女は朝稽古の後らしい、兜を手に持って、その額にはうっすらと汗をにじませている。白い肌がほのかに上気していて、きりりとした騎士の姿をしていても、彼女ははとても美しかった。
「朝の散歩でもしていたのか」
「ああ、まあ……そんなとこだ」
「ふうん」
 彼女はそばにくると、じっとレークの顔を覗き込んだ。
「私はこれから、定例の見回りに行こうと思っていたんだけど……」
「そうかい。ごくろうさん」
「ねえ、ちょっと付き合ってよ」
 リジェは思いついたようにレークの腕をとった。
「付き合うって、どこへだ?」
「いいから。こっち」
「おい、ちょっと……オレは朝メシを」
 ためらうレークにもおかまいなしで、リジェはぐいぐいと腕を引っ張った。
「いいじゃない。私たちと一緒に食べれば。ね。あとで遊撃隊の宿舎で、一緒にさ」
「でも、クリミナが……」
 それを聞くと、リジェはぱっと振り向いた。
「レークどのは、あの人が好きなの?」
「な、なに?」
「私、そういうのって、はっきりさせたい人なんだ」
 こちらをじっと覗き込むリジェの目には、熱っぽいものが含まれていた。
「ねえ、どうなの?」
「いや、だから……それは」
 レークは口ごもった。
(この娘も、こうして見れば綺麗だよな……)
 美人に迫られてそう悪い気がするはずもない。困りながらも、まんざらでもないとばかりに、レークは口元を歪めた。
(それに、女騎士っていう点では、クリミナにちょっと雰囲気が似ているかもな)
 身長はクリミナよりもずっと高い。レークとほぼ変わらぬくらいだろう。
「ね、昨日……試合のあと、キスをしたこと、怒っている?」
 潤んだような目でリジェが囁く。
「い、いいや……べつに、怒っちゃ」
「よかった」
 その手がすっと伸びて、レークの首筋に絡みついた。
「私はね、強い男が好きなんだ。私より剣の強い男が……」
「……」
「そんな男が、本当にいるとは思わなかった」
 ゆっくりと顔を寄せてくる。白い肌もあらわなその胸元から、汗のまじった女の匂いがほのかにただよう。レークはごくりとつばを飲み込んだ。
(まあ……いいか、一度するも、二度するも、同じこったよな)
そう思って、リジェの体を抱きとめようとしたとき、
(うわっ)
 ちょうどこちらに歩いて来る人影が見えた。
「あ、ちょ、ちょっと……ま」
 慌てて身を離そうとしたが、もう遅い。
「む……」
 リジェの唇が言葉をふさいでいた。
 その肩ごしに見ると、相手もこちらに気づいたようだ。やや距離はあったが、その目が一瞬こちらを見た。
「……」
 血の気が引くような気分で、レークは城の方へ消えていったクリミナを目で追った。
 唇を離すと、ほのかに頬を染めたリジェが首をかしげた。
「どうしたの?」
「いや……まあ、別に」
「そう。じゃあ行こう。私はもう一回あんたと、剣を交えたかったんだ」
 うきうきとして腕をとるリジェ。レークは半ば腑抜けのように、ただ引っ張られるままだった。

 それから遊撃隊の訓練場でリジェと剣の試合をしたが、レークはあっさりと敗れた。とくに手を抜いたというわけでもなかったが、レークの剣はただ力なく宙を切るだけで、リジェの曲刀の軽やかな舞いのごとき動きには、まったくついてゆけなかった。
 女騎士は拍子抜けしたように、剣を落として呆然とするレークを、なにかよほどショックなことでもあったのだろうと見つめていたが、レークにしてみれば、それは確かにクリミナにリジェとのキスを見られたことは精神的に影響していたにせよ、こうも簡単に負けるなどとは思っていなかったのだった。
(そうか……)
 レークはようやく、自分があの水晶の短剣を身につけていないことに気づいた。
(前のときは、あの短剣を手にしたとたん、相手の次の動きが見えるように思えた。……ってことは、やっぱり、前に勝てたのはあの剣の魔力があったからなのか)
 それにしても、あの短剣はどこいったのだろう。
(そういえば、あの神殿で噴水の扉の鍵に使って、いやまてよ……)
(それからアストラル体となるときに、たしか二本の短剣を合わせたんだっけ)
(じゃあやっぱり、あれは夢じゃあなかったんだな)
 あれがまぎれもない、現実であったということ。それにあらためて気づくと、あのときの地下の神殿でのエルセイナとの会話や、巨大な水晶の壁、そして意識体となって空を飛んだという、あの信じがたい体験が、頭の中でまざまざと蘇ってくる心地がした。
(ともかく、もう一度行ってみよう)
 リジェからの食事の誘いを断ると、レークはその足で神殿へと行ってみることにした。
 池の周囲をぐるりと回り、木々に囲まれた白い円柱の並び立つ神殿の入り口へやってくると、レークはためらわず中に入った。
 神殿の中はしんと静まり、人の気配はなく、むろん、あのとき案内してくれたネコたちの姿もなかった。穏やかな空気には、あの夜のような神秘的な感じもない。そこはただの日常の祈りに使われる場所であった。
 噴水のある泉を覗き込んでみても、そこに地下への入り口が隠されているような形跡は、今はもうまったく見えなかったし、短剣も見当たらない。やはり、あれはただの夢であったのかと、また思わされてしまいそうになる。
(エルセイナ……あの不思議な宰相と、もう一回話をしたい)
 そうすればきっと、なにもかもが分かるはずだ。水晶の短剣のことも、アストラル体となって自分が見た、さまざまなことについても。
 しばらく神殿の中をさまよっていても、そこにふらりとエルセイナが現れるようなことはなく、どこかから不思議な声が聞こえてきたり、あるいはあのネコたちが走り寄って来ることもなかった。
 当てがはずれたような気持ちで、レークは神殿をあとにした。仕方なく、また塔の自室に戻ってみると、ほどなくして女王からの使いの女官がやってきた。
「女王陛下がお会いになりたいそうです」
 レークは、朝食をとり忘れたことをいくぶん後悔しつつ、女官について城へと向かった。
 緑柱石の壁に囲まれた、光り輝く大広間に入ると、銀色の髪を美しく結い上げた女王が玉座に座り待っていた。フィリアン女王の顔は、心なしか昨日よりも晴れやかで、その頬はうっすらと紅潮し、ますます美しく輝いて見えた。
「レークどの。昨日はゆっくりと休めましたか?」
「あ、ええと……まあ、はい」
 レークは曖昧にうなずいた。昨夜はアストラル体となって大陸中を飛び回り、心身ともにへとへとになりました、などとはとても言えない。
「……」
 広間にいたクリミナに気づくと、レークはやや気まずい気分で近づいた。彼女はこちらの存在などは無視するように、まったく顔を合わせようとはしない。
(やっぱ、怒ってんのかね)
「こちらは、バルカス伯爵」
 女王はそこにいた貴族を紹介した。
「昨夜の晩餐でもご紹介しましたね。セルムラードの軍部の責任者です」
 黒に近いダークブラウンの髪に髭を生やした、三十半ばくらいの、なかなか精悍な顔つきの人物である。晩餐の席で見た覚えもあるが、よく覚えていない。
「よしなに、レークどの」
(ああ、そういえば、この国の男は銀髪じゃあないんだな)
 そんなことを考えながら、レークは伯爵と握手を交わした。
 それに当たり前ながら、国の職務を女性だけでこなしているわけでもないようだ。女王や中性的な宰相のエルセイナ、それにリジェたち女ばかりの遊撃隊の印象が強かったせいだろう。ここに来てから、男の貴族とちゃんと言葉を交わすのは初めてかもしれない。
「今朝一番で、エルセイナも含めてこちらのバルカス伯と、ウィルラース……どのからの書状に関しての会議をいたしました」
 革命の貴公子の名を口にすると、女王の声のトーンがかすかに高くなる。
「そこで取り決めたこと、すべてについては話すことはできませんが、いまお二人に伝えられるのは、我がセルムラードは、長年の友であるトレミリアのために、そしてまたリクライア大陸の平和と安定のために、できるかぎりの手助けをしたいということです」
 横でうなずいたバルカス伯爵が、ややかしこまって、その後を続けた。
「軍部の決定としてはこうです。我がセルムラードからは、騎士一千と一万の兵員を派兵すること。行き先は、ロサリイト草原」
「ロサリイト草原」
 思わず声をあげたレークとクリミナは、ちらりと互いの目を見交わした。
「宰相エルセイナ閣下もかねてより予測していた通り、ジャリア軍は現在ロサリイト草原の東に陣を張り、その兵員を増やし続けていると聞きます。それに対するトレミリア軍も、草原の西側に陣を構え、着々と応戦の体勢を整えているとの情報であります」
 バルカス伯爵は軍人らしく、その声にいくさへの興奮を覗かせながら言った。
「遠からず、ロサリイト草原が大きないくさの舞台となることでしょう。セルムラードの騎士団と、各公爵の兵力を集めるべく、さきほど各地に伝令を走らせました。数日のうちに兵を編成し、遅くとも、そう五日ののちにはロサリイト草原に向けて出立できるかと」
「五日……五日、だって?」
 レークはぎゅっと拳を握った。
「遅すぎる。それじゃ……遅すぎるぜ」
「レーク?」
「だって、オレはこの目で見たぞ。ウェルドスラーブはもう……」
「レーク、なにを言っているの」
 クリミナが驚いたように囁く。
「オレはこの目で見たんだ。昨日……首都のレイスラーブは、ジャリア軍に……」
「レークどの。それはどういう」
 眉を寄せるバルカス伯爵に、レークは首を振った。
「どうもこうもねえ。とにかく遅いんだよ、五日だって?ジャリア軍はきっと、あと三日のうちには全面的な侵攻を始めるに違いない。五日ものろのろとしていちゃ……」
「レーク、女王陛下の前よ。無礼なことは」
「かまいません」
 女王は静かに言うと、玉座から立ち上がった。
「私も、エルセイナより情勢の推移はある程度は聞かされております。事態が切迫していることは承知しているつもりです。それだからこそ、ここで慌てふためいて、まばらな兵を放つようなことは愚であると、そう思うのです。遅くとも五日、できれば三日で兵を編成し、一刻も早くトレミリア軍と合流すること。それが強大なジャリア軍に立ち向かう、私たちの最善の策であると信じます」
 女王の言葉には、やはり一国を統治するだけの、強い決意と誇りとがあった。光射す緑柱石の壁を背にして立つ、その姿は、輝く銀色の髪とともに神々しいほどの美しさに包まれていた。
「ああ、申し訳ねえ……つい気が焦っちまって」
 レークは胸に手を当て、彼にしては珍しい陳謝の意を示した。
「ただ、つい昨日見たことが……いや」
 レークは口ごもった。
 アストラル体となって見たことを、この場で語ったとしても、誰がそれを夢ではない現実のことだと信じるだろう。ここにエルセイナでもいれば、そのことについてもっと詳しく話ができるのだが。
 それから、二人の手にトレミリア王国へという正式の書簡が渡された。これで正式にセルムラードとトレミリアの共闘同盟が成ったことになる。
 ウェルドスラーブと、ウィルラースの立ち上げようとしている新たなアルディとの関係に関しては、女王は今の段階での明言を避けた。それはまた、これからの会議ののちにということなのだろう。
 ともかく、これでレークとクリミナは役目を果たしたことになる。ウェルドスラーブから始まった長い旅も、ようやくひとつ落ち着いたというように、二人は広間を出ると大きく息をついた。
「で、これからどうする?やっぱトレミリアへ戻るんだろう」
「そうね。フィリアン女王から預かったこの書状を、トレミリア宮廷に届けなくてはならないし。それに、私たちにはウェルドスラーブでの情勢を報告するという義務もあるわ」
「だな」
 城の外に出て陽光に輝く池を眺めながら、レークはクリミナと普通に話ができたことにいくぶんほっとしていた。ただ、完全に怒りが収まったわけでもないらしく、彼女の様子はいくぶん刺々しくはあったが。
(しかし、怒っているっていうのは……やっぱリジェとのことだよなあ)
(それは、ようするに焼きもちってことで)
(てことは、オレに気がなくもないってことで……)
(ううむ……わからん)
 ちらりと横目で見ると、彼女はまだ口元を尖らせてはいたが、この旅の目的を果たしたということに、ずいぶんほっとしている様子ではあった。久しぶりにトレミリアに戻れるということも嬉しいに違いない。
「でも、あなたはもうしばらく、ここに留まっていればいいのじゃない?」
「ああ、どうして?」
「別に。そうしたいのじゃないかと思って」
 彼女は冷やかな口調でそう言った
「なんだ、それ」
 少しむっとしたレークは口をへの字にした。
「あんたがトレミリアに行くのなら、オレも行くさ。それが嫌なら、宮廷騎士をクビにでもしてくれ」
「……そう」
 クリミナはぷいと横を向き、
「じゃあ、出発は明日の朝」
 そう言い残すと、一人でさっさと塔の方へ歩きだした。
「おい……」
 レークは追いかけようとしたが、そのとき、池の向こうになにかがきらりと光った。
「なんだ?」
 視線を向けた方向に、あの神殿があった。
「……」
 目をそばめてそちらを見ると、神殿の円柱の影に、なにかゆらゆらとした、陽炎のような人影が見えた。引き寄せられるような気分で、レークはそちらに近づいた。
 すると、今朝はまったく見つけることのできなかった池の中の石橋が、浮かび上がるようにそこに見えていた。レークは迷わず裸足になると、水の上を渡りだした。

 神殿の前まできたが、そには誰もいなかった。柱の影に見えていた人影らしきものは、ただの幻覚だったのだろうか。
 だが、レークにはなんとなく予感があった。
 静まり返った神殿に足を踏み入れ、まっすぐにあの噴水の前までゆくと、泉を覗き込んだ。なにかが起こるとするなら、ここしかなかった。
「……」
 泉の底の文字盤と、短剣の形をした鍵穴を見つめる。そこに地下への入り口が現れる、あのときの魔法のような光景を想像して。
 だが、しばらくはなにも起きなかった。人の気配も、誰かの声も、いっこうに現れも聞こえもしない。
 それでもレークはもう、あのことが夢であったとは思わなかった。ただじっと水底の文字盤に目を凝らし、なにかが起きることを信じ続けた。
 どのくらいたったころか、
 あるいはそれは、ほんのひとときの時間であったのかもしれない。どこからきたのか、軽やかに走り寄って来る小さな影があった。
 それは、あの二匹のネコたちだった。
「シルバンとジルファン、だったな」
 名前を呼ばれたのが嬉しいように、二匹は泉の回りをぐるぐると走りだした。
 どちらがシルバンで、どちらがジルファンだったのか、レークにはよく分かっていなかったが、ともかく黒いネコがその口にくわえているものに、レークははっとなった。
「シル……いや、おまえはジルファンの方か。ともかく……おい!」
 ネコたちはぴたりと走るのをやめると、揃って「みゃあ」と鳴いた。くわえていたものがぽろりと落ちた。
「いい子だ」
 レークは短剣を拾い上げ、それを迷わず泉の中に落とした。
 水底の鍵穴に短剣が吸い込まれると、あのときと同じように、文字盤がゆっくりと動きはじめた。
「おお、あのときと同じだ」
 文字盤が左右に開かれ、泉の水が流れだすと、そこに地下への入り口が現れた。
 やはりあれは夢ではなかったのだ。レークは興奮とともに水底に降りると、光を放つ短剣を拾いあげ、地下への階段に足を踏み入れた。
 水の流れ落ちる階段を延々と降りてゆくと、あのときと同じ場所……両側に円柱が立ち並び、真ん中に水路の流れる地下の回廊にきた。ためらわず、レークはそのまま回廊の奥へと歩きだした。ここにエルセイナがいるだろうことを、もう疑わなかった。
 回廊の終点には、あのときと同じように、水晶の壁があった。壁一面の水晶が、辺りを照らすようにして青く、神秘的に輝いている。
 そこに、エルセイナ・クリスティンはいた。


次ページへ