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 水晶剣伝説 Y セルムラードの女王


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 ふわりと、浮き上がるような感覚があった。
 飛ぶというよりは、なにかに持ち上げられるような、急激なまでの上昇感。
(オレは、どこにいるんだ……)
 周りにはどこまでも暗い空が広がっている。
 足元を見ると、そこに地面はなく、はるか下の方に小さく、池に囲まれた城があった。あれは女王の城だ。真下には、木々に囲まれた神殿がかすかに見えている。
(オレは飛んでいる……)
 あの地下の水晶の壁から、神殿の天井を突き抜けて、こうして空高く漂っている。それは信じられないような気分だった。
(夢なのか……いや)
 それにしては、意識の方は驚くほどはっきりとしているし、目に見えている風景も現実そのものだ。
(ああ、まだ上がってゆく……いったいどこまで高く上がるんだ)
 この急激な上昇の感覚は、上空の雲の中まで到達しそうなくらいである。体の重さというものがまるでなくなり、風と空気によって浮遊するような、そんなイメージだろうか。
(これが、アストラル体……)
 意識ははっきりとしていて、視覚もあるが、風の冷たさや、息苦しさなどは感じられない。自分の体の存在はちゃんと感じられるし、両手両足も動かせる。だが、それは空気をつかむようなもので、あまり意味はなさなかった。
 レークは、眠りに入る間際に聞いたエルセイナの言葉を思い出していた。
(念じれば、そこへゆけると、そう言っていたな)
(どれ……)
 飛ぶイメージを心に思い描いてみると、どうだろう、それまで上昇していた体がにわかに向きを変え、ゆるやかに空中を進み始めた。
(おお……)
 両手を広げて、鳥のような体勢になると、空を飛ぶスピードが徐々に上がってゆく。
(すげえ、すげえ)
 まるで空気を切り裂いて飛んでゆくような、ものすごい飛行の感覚に圧倒されながらも、次々に流れてゆく周りの景色や、雲の中をくぐり抜ける爽快さに、レークはしだいに快感を覚えるようになった。
(ううむ。なるほど……慣れて来れば、これは面白いかもな)
 頭の中でイメージすると、その通りに上昇したり、下降したり、左右に流れたりと、飛行を自在に操れるということに気づいた。そうすると、これほど自由に空中を移動できるのが、楽しくて仕方がない。空を飛ぶなどという、これまで思いもしなかった体験に、レークはすっかり魅了されていた。
(こいつは楽しいや。さて……ところで、ここはどのあたりなんだろうな)
 適当に飛んでいたせいか、自分がどっちに向かっていたなどは考えてもいなかった。
 少し高度を下げてみると、眼下一帯に見えるのは一面に広がる森だった。
(ふうむ。まずはともかく、ウェルドスラーブへ。首都のレイスラーブへ!)
 強く念じると、飛行の速度がぐんと増した。
 上空の雲が次々に後ろに流れてゆき、地上の景色も瞬く間に変わってゆく。
 森を抜け、山を超え、また森を……そうして、湖や川を見下ろしていると、やがて海が見えてきた。おそらく実際には、馬を走らせても丸一日はかかるだろう距離を、ほんの一瞬で飛んでいるのに違いない。
(ひょう……なんてすげえんだ。オレって)
 エルセイナと水晶の魔力を借りていることなどは忘れたように、レークはわくわくとしながら、上空から地上の景色を見下ろしていた。
(おっ、あの城はどこの城だ?)
 左下に見えている、川に近いその城には、どことなく見覚えがあった。
(もうここはウェルドスラーブに入ったのかな。ちょっと降りてみるか)
 今が夜でなければ、そこが先に自分の戦った国境の城、スタンディノーブル城であると気づいただろう。だが、そうと分かれば、レークは降りずにはいられなかったに違いない。そうなれば、おのずと現在その城を拠点にしているあの王子に近づくことになり、それは今の彼にはひどく危険なことであった。アストラル体としての意識の存在は、とてもデリケートなものであったから、王子が持つ水晶剣の力を前にするとき、いったいどうなってしまうのか分からないのだ。
(ううむ……まあいいか)
 その城になんとなく引き寄せられるものを感じたが、レークはそのまま飛行を続けることにした。
(今はともかく、レイスラーブへゆくのが先決だ)
 そう決めて念じると、また飛行のスピードが上がった。
 森を抜けると、あたりは平地になった。街道や道沿いには、小さな村や町などが点在している。そうして、上空から人々のいる場所を見下ろて飛んでゆくというのは、なんともいえない気分であった。
(神様ってのは、きっと、こういう気持ちなのかもな)
 街道ぞいにさらに飛び続けると、やがて前方の地平に光るものが見えてきた。
(あれは……)
 暗がりの中に見える光は、近づくにつれ、それが炎であることが分かった。
(あそこへ、飛べ!)
 強く念じると一瞬にして加速がなされ、レークの体は凄まじい速度で空中を飛び始めた。
 炎の上空に来ると、思わずレークは息をのんだ。
(おお……ここは、)
 眼下に、炎に包まれた町があった。
(レイスラーブ!)
 黒々としたヴォルス内海を背後に、赤々と燃える炎が、そのウェルドスラーブ最大の港町を包み込んでいた。
(……なんてこった)
 燃え上がる炎を上空から見下ろし、レークはしばし呆然となった。
 エルセイナの言っていた通り、レイスラーブはジャリア軍の進入を許したのだ。
 町をよく見ようと高度を落としてゆくと、城壁の周囲はジャリア軍の軍勢に完全に包囲されており、破壊された塔や城門からは黒い煙とともに火の手が上がっている。都市にはジャリア兵たちがなだれ込み、そこかしこで炎に照らされた黒い鎧姿がうごめいている。
(本当に、これは現実なのか……)
 レークは町の中心部の広場にふわりと降り立った。
 辺りは不気味なほど静まり返り、悲鳴や物音はまったく聞こえない。意識体であるアストラル体であるから、視覚以外の感覚はないのだ。
(ここは、どのへんだ……)
 レイスラーブの町にはあまり詳しくない。最初にここに到着したときには、船の上で国王と会見をした後、港からすぐに王宮内へ入って、会議の席で駆けつけた斥候兵の報告を聞き、自らスタンディノーブル行きを志願すると、翌朝にはもう出発したのだ。町を歩き回ることはなかったので、この町のどこになにがあるのかというのはまるで分からない。
(よっ、と)
 ふわりと浮くようにしてジャンプすると、レークは周囲の様子を窺った。
 見渡すと、この辺りにはほとんど人の姿はないようだった。ところどころで煙が上がり家が燃えていたり、壁が崩され破壊された家々が無残な姿をさらしていたが、逃げまどう人々の姿や、ジャリア兵の姿は近くには見えないようだ。
(ブロテやセルディ伯のだんなは、無事でいるのかな)
 そんなことを考えながら、ともかく、丘の上に見えている王宮へ行ってみようかと、レークは歩きだした。歩くといっても、実体のないアストラル体であるから、地面の上をふわふわと浮いているような感覚であるのだが。
(なんだか、こう、ふわふわとして、夢の中にいるみたいな感じだが、これは夢じゃあねえんだよなあ)
 その証拠に、広場をよくよく見渡すと、あちこちに犠牲になった都市の人々が倒れているのが見つけられる。みな抵抗もむなしく、ジャリア兵たちの手で殺されていったのだろう。そこには男も女も、子どもも、それに老人もいた。夜の暗がりが殺戮の爪痕を隠してくれてはいても、朝になれば、それはたちどころに凄惨な光景へと変わるのだろう。
(くそ。ジャリアどもめ……むごいことを)
 無残な亡骸をただ見ているだけで、声をかけたり抱き起こしたりして、まだ生きているものがいるかを確かめることもできない。そんな今の自分にレークはいらだちを覚えた。
 大通りに出ると、いきなりジャリア兵の一隊に出くわした。
(おっ……)
 レークは思わず身を隠そうとしたが、すぐに自分の姿は実体ではなく、相手には見えないのだということを思い出した。
(そうか……なんだか妙な気分だぜ。向こうの姿は見えても、向こうからはオレの方は見えないってのは。透明な人間になったようなものか)
 ジャリア兵たちは、通りの店店から品物を乱雑に引っ張りだしては、金目のものをあさっているようだった。その黒い悪鬼のような禍々しい姿は、通りの向こうから次々に現れ、その数を増やしていた。
(略奪か。くそ……好き放題しやがって)
 近づいて来るジャリア兵に立ち向かうように、レークは通りの真ん中に立ち、やってくる黒い兵士たちを睨み付けた。むろん、意識体であるレークの姿が相手から見えるはずもなく、ジャリア兵たちはなんの警戒もなくレークのそばまで接近してきた。
 と、すぐ近くにきた数人のジャリア兵たちが、いきなり通りの向かいの店に殺到した。
(なんだ?どうした……)
 レークがふわりとそちらに移動すると、ジャリア兵たちが店の中から金品とともに、まだ逃げていなかった住人たちを引きずり出しているところだった。
 乱暴に通りに投げ出されたのは、年老いた夫婦と若い娘であった。彼らは恐怖に顔を引きつらせ、必死に命乞いをしている。ジャリア兵がすらりと剣を抜いた。
(おい、よせ……)
 だがレークの見る前で、ジャリア兵たちは、ためらいもなく老夫婦を剣で差し貫いていた。それから泣き叫んでいる娘を引っ張り出すと、ジャリア兵たちはそのぎらついた目を向け娘を取り囲んだ。
(……く)
 この場にいながらなにもできない自分に、レークは歯噛みする思いだった。ジャリア兵たちに襲われて、娘は助けを呼ぶように身をもがいている。声は聞えないが、その娘の悲鳴が痛いほど感じられた。
(ちくしょう……)
 自分にはなにもすることはできないのだ。この娘を一人助けることすらもできない。
(すまねえ……すまねえな)
 これ以上は見ているのがつらくなり、レークはその場を離れた。
(くそったれ。助けることもできず、ただ見ているだけってのは……嫌なもんだぜ)
 体を浮遊させて、飛ぶように通りぞいを移動していると、やはり同じように、ジャリア兵たちによる略奪や、逃げ遅れた市民たちが乱暴される光景に出くわした。人々が無残に殺され、女たちが犯さる姿を目にするたびに、レークは内心で、彼らの悲痛な叫び声を聞くような気分だった。
 いっそのこと、これが夢であればいいと思う。アストラル体などという、意識だけの存在となった、その自分が見ているただの妄想であれば、と。
 だが、一方ではそうでないことも分かっていた。ここまで鮮明な夢などというものはないし、目に見えているのは確かにどれもがレイスラーブの都市の景色に他ならない。
(これが、いくさに敗れる都市の姿なのか)
 ともかく、レークは王宮へと急いだ。そこにゆけば、仲間たちの安否か、もしくは手がかりが分かるかもしれない。
(ああ、この丘をのぼる道は、前に見たときのままだな)
 王宮へと続く丘を上るこの道を振り返ると、レイスラーブの港と、ヴォルス内海の美しい海とが一望できる。今はただ、黒々とした夜の闇が広がっているだけであったが。
 丘を上がり、王宮の正門までやってくると、レークはふと眉をひそめた。
(誰もいないな……)
 常時であれば、門には絶えず見張りの騎士が立っているはずであるが、今はまったく人影はなく、ひっそりとしている。このあたりはまだ、ジャリア兵たちによって踏みにじられていないのか、どこにも打ち壊されたり火をつけられたりした様子もない。一見すると、王宮は普段と変わらぬ夜を迎えて寝静まっているかのようだ。
(ともかく、城の中へ入ってみるか)
 実体のない体では、閉じられた城の扉を開けることはできないので、レークは思い切って扉をすり抜けようと試してみた。すると、案外スムーズに通り抜けられた。
(うおっ)
 レークは叫びそうになった。むろん、叫んだとしても実際の声は響かない体であるが。
 整然とした王宮前の庭園とは裏腹に、王宮内に一歩足を踏み入れると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
 この王宮は、入り口から回廊がまっすぐ奥まで伸びていて、左右にはいくつもの部屋があり、その回廊の一番奥に王や諸公たちが集う広間があるという、トレミリアのフェスーン城などに比べると、実際的でシンプルな造りをしていた。
(こいつは……ひでえ)
 それだけに、目の前にあるこの光景は、ひどく陰惨なものに見えた。
 まっすぐに続く回廊の上に、ずらりと並ぶように、いくつもの死体が横たわっている。城を守る騎士たち、貴族たち、衛兵、それに小姓のような若者まで、あるものは首を切り落とされ、あるものは血にまみれた苦悶の表情で、そこに転がっていた。
(やはり、ジャリア兵はもうここまで入り込んでいたのか……)
 床に重なる騎士や兵士たちの亡骸を見つめながら、レークは回廊の奥へと進んで行った。先へゆくにしたがって、倒れている兵たちの体から、まだ生々しい血が流れ出しているものもあり、斬られてからまださほど時間がたっていないことを思わせた。
(てことは、この奥にジャリア兵がいるってこったな)
 それも、たいそうな使い手であるはずだ。ここに倒れている騎士たちは、国王の衛兵であり、腕の立つものたちであったはずだ。それを、ほとんど一太刀か二太刀で、確実に仕留めている。レークにはそれが分かった。
(ジャリア軍の中にも、けっこうな剣の使い手がいるってことか)
 そう思うと、いくぶんの興味がかきたてられた。
 相手からはこちらの姿が見えないのであればなおのこと、これを機に、敵の顔を覚えておくのもいいかもしれない。
(どんな奴なんだろう。まさかあの……王子じゃねえだろうな)
 それならばそれで、王子の持つあの剣が、エルセイナのいうように本当の水晶剣であるのか、じっくり見定められる。
 レークはふわりとジャンプするように、回廊をまっすぐに進んで行った。
 回廊の先には広間があった。かつて軍議の途中に斥候の兵がスタンディノーブル城の包囲を伝え、それを聞いたレークが、人々を前にして、自らが単身で城へ乗り込むことを宣言した、あのときの広間である。
(……久しぶりに戻ってきたな)
 まさか、意識体などというものになって、はるばるセルムラードから飛んでくることになるとは、思いもしなかったが。
 広間の扉は開いていた。中からはかすかな明かりがもれている。
(さて……)
 いくぶんの緊張とともにレークは広間の中に入った。
 薄暗い広間の床には、四、五人の死体が横たわっていた。警護の騎士らしき兵の他に、上級の貴族と思われる立派な服を着た死体もあった。
(国王のではないな。それに、ブロテやセルディ伯でもないようだ)
 死体を覗き込んで確認すると、レークは少しほっとした気分になった。
(なら、ブロテたちはまだ無事でいるのかもしれない)
 広間のテーブルには燭台の灯がともり、そこには都市周辺の地図や命令書らしきものが広げられていた。たぶん最後の会議がなされていた最中に、敵の襲撃を受けたのだろう。
 ぼうっと、蝋燭の炎が揺らいだ。
 レークははっとしてそちらを見た。
 広間の奥は一段高くなっており、普段は国王の玉座があるのだが、
 いまそこに、誰かが座っていた。
(……)
 意識体であったにもかかわらず、レークは、まるで気配を悟られるのを恐れるように、ゆっくりとそちらに近づいた。
 ゆらりと、鎧姿の人影が玉座から立ち上がった。
 レークははじめ、それがあの黒竜王子その人であるかと思った。
 だが、そうではなかった。
 男の鎧は黒ずくめではなく、金銀の細工をあしらった、ごく貴族的なものであった。そのマントはもとは青かったようだが、今はたっぷりと返り血を吸い赤紫色をしていた。
 レークは男のそばに立ち、じっとその相手を見つめた。
(……こいつは、誰だ)
 それがただ者でないことはレークにもすぐに分かった。おそらくジャリア軍の中でも名の知られた騎士か、武将なのだろう。
 まだ血の滴る剣を手に持ち、広間を見渡す顔つきは冷徹そのもので、つり上がった目と引き結んだ口元からは、およそ人間的な温かみなどは感じられない。
(こいつが、衛兵たち全員を……)
 この広間にいるのがこの男だけだとするのなら、あの回廊に倒れていた騎士や兵士たちは、この男がすべて一人で殺したということになる。だが、その割には、男の表情には殺戮の昂りも、征服者としての喜悦も、まったく見てとれなかった。
 むしろ、その顔にあるのは、冷徹とした憎悪のように思えた。そう……なにかを憎み続け、あるいはなにかに歯向かい続ける、そんな憎しみへの渇望というような、ただならぬ気配が、男の体からは立ち上っているようだ。
(こいつは……誰なんだ)
 しばらくの間、惹きつけられるように、レークは男の横顔を見つめていた。
(こいつとも、いずれは剣をまじえることになる……)
 そんな予感もあった。レークはまだ知らないが、それが「血染めのジルト」として恐れられる、フェルス王子の副官であったと、いずれ気づくときがくるだろう。
 そのとき、ずっと無表情だった男の顔が、さっとこわばった。
 その目が鋭くこちらに向けられると、レークは、自分の姿が見られているのかと一瞬緊張したが、そうではなかった。男の目は、広間の入り口に向けられていた。
 一人のジャリア兵が広間に駆け込んできたのだった。ジャリア兵は胸に手を当て、男に向かってうやうやしく礼をすると、緊張した様子でなにかを報告した。
 とたんに男の眉がつり上がり、その顔に獰猛な色が浮かんだ。
 男はテーブルに近寄ると、そこにあった地図を指さし、部下になにごとかを訊いたようだった。
(くそ。声が聞こえればな……)
 レークは横から地図を覗き込んだ。ジャリア兵はその地図の一カ所を指でさしていた。それは、どうやらこの都市の南側にある港のようであった。
(なるほど。きっとそこに、なにかあるんだな……)
 なにごとかを命じられたジャリア兵が、慌ただしく広間から駆け出してゆく。
 部下が出てゆくと、男の顔には無表情の冷たさが戻っていた。
 ゆっくりと玉座に座り直すと、男はどこか倦み疲れたような目で広間を見渡した。その視線の先に、いったいなにを見ているのかまでは、レークには分からなかったが。
(あばよ。いつか戦うだろう、ジャリアの青マントさんよ)
 最後に男に一瞥をくれると、レークは広間を出た。空中を飛ぶように回廊を抜け、王宮の外へ。
 丘の上から見渡すと港の位置はよく分かった。ともかく、そこへいけばなにかが分かるのだろう。
 レークは丘の上からふわりと飛んだ。
 空中を滑空するようにして丘を降りてゆく。それはなかなか爽快であった。
 冷たい夜気が頬を撫でたり、風の音が耳元で鳴ることはなく、やはりどことなく夢の中を飛んでいるような、ふわふわとした気分である。
(おっ、あそこだな)
 町の上空を飛び越え、南端の港まであっと言う間にやってきた。
 おそらくは、さきほど命令を受けたジャリア兵が駆けつけるまで、もうしばらくは時間があるはずだ。
 空中から降りてゆくと、港のあたりには人々がせわしなく行き交っており、なにやら騒がしい様子だった。そこにひしめいているのは、どうやらレイスラーブの市民たちと、騎士たちのようである。
(まだこんなに生き残っている人々がいたんだな)
 見ると、人々はどうやら、港から船で町を脱出しようとしているようだ。そして騎士たちは、その押し寄せる人々を整理しようとしているらしい。数百人、いや千人以上はいるだろう市民たちが、押し合いへし合いしながら、港へ入ろうともがき、騎士たちの作る壁をこじ開けようとしているのである。
 だが、上から見るに、港にある船はほんの数隻のガレー船だけで、到底ここにいる全員が乗れるはずもない。
(この分だと、都市の東の港は、もうすでに敵の手にあるようだな)
 ヴォルス内海に面した東の港は、アルディ海軍によって占拠されつつあるのかもしれない。この南側の港は、普段は小型の船舶の出入りにしか使われないのだと、トレヴィザンか誰かから聞いたことがあった。
 レークが港の船に近づいてみると、
(おお、あれは……)
 そこに停泊する一隻のガレー船……多くの騎士たちが厳重に警護している、その船の前に見知った姿を見つけた。
(ブロテ!無事だったのか)
 そこにいたのは確かにブロテであった。他の騎士たちよりひと回り大きいのですぐに分かった。その周りにいるのも、トレミリアの仲間たちに違いないようだ。
 レークは嬉しくなってそちらに近づいた。
 ブロテは厳しい顔つきで部下たちの報告を聞き、次々になにかの指示を出している。その様子には追い詰められたような焦りの色が見て取れた。当然ながら、ここにいるものたちにとっては、ジャリア軍の浸入を許し、レイスラーブは今や陥落の憂き目に会おうとしているのだから、誰もが戦いに疲れ果て、または絶望していたとしても無理はなかった。
(お、船にはセルディ伯のだんなもいる)
 伯はガレー船の甲板上にぐったりとした様子で座っている。その顔色は悪く、とてもやつれているようだ。その他に、甲板の後部座席には、黒いフードをすっぽりとかぶった人物がどっしりと座っており、その隣には、こちらも目立たぬように黒いローブに身を包んだ二人の女性を連れていた。
(あれは……)
 レークは、そっとガレー船の上に降り立って、そちらに近づいた。よく見ると、その人物が会ったことのある相手であるのが分かった。
(国王……コルヴィーノ王か)
 それはまぎれもなく、ウェルドスラーブの国王、コルヴィーノ一世であった。顔を隠すように深くフードをかぶり、王は微動だにせず、そこにじっと座っていた。
(なるほど、そういうことか)
 横にいる女性のうちのどちらかは、ティーナ王妃に違いあるまい。トレミリアのマルダーナ公爵の娘であり、カーステン姫の姉にあたる女性だ。
(では、もう一人は……トレヴィザン提督の)
 提督の夫人といえばトレミリアのレード公爵の長女、サーシャ姫であるのは広く知られている。その二人の女性は互いにしっかりと手を取り合い、確かに高貴な身分を思わせる気品をもって静かに座っていた。国王の方はときおり腕を組んで、どこか憮然とした様子であった。
(じゃあブロテたちは、国王の脱出を護衛する役目を受けたんだな)
 ともかく、こうしてトレミリアの仲間たちが生きていたことに、レークは心から安堵した。もちろん、騎士たち、傭兵たちの中には犠牲になったものも多かったろうし、これから命を落とすものもいるに違いない。それでも、ブロテやセルディ伯の姿を見ることができて、レークはただとても嬉しかった。
 ややあって、港に立つ騎士たちの中に、にわかに慌ただしい動きが見えた。
 レークがふわりと浮かんで見にゆくと、都市からの通りを、この港に向かって押し寄せて来る黒い鎧姿の一団が見えた。
(さっきの命令を受けたジャリア兵の部隊だな)
 そこに集まっていた市民たちは、ジャリア兵の姿に気づくと、パニックに陥ったように、ばらばらになって逃げ始めた。そこに剣を手にしたジャリア兵たちが突進して来る。
 ジャリア兵は、容赦なく市民たちをなぎ払い、港を守る騎士たちに襲いかかった。
(これは、早いとこ、王様は脱出しないと、ヤバいぜ……)
 ジャリア兵たちは明らかに、国王の脱出を阻む命令を受けているのだろう。その黒い鎧はどんどんと数を増やしている。このままでは騎士たちも港を守りきれないだろう。
 レークが再び船の方へ戻ると、国王の乗るガレー船はようやく出航の準備を終えたようで、漕ぎ手たちは櫂を取り、じっと指示を持っている。
(早く、早く出航しろ!)
 だが、船はまだ動かない。
(なにをやってんだ!)
 いらいらとしてレークが船の上に降り立つと、ブロテとセルディ伯が、国王に向かって沈痛な面持ちで話しかけていた。国王はフードをはね上げて、そのあらわにした顔に苦渋の表情を見せ、じっと腕を組んでいる。おそらくそこには、市民たちを見捨てて自分だけが逃げ延びるということへの苦悶があるのだろう。
(気持ちは分かるがよ。ここで死んじまったら、それこそなんにもならねえ。あんたが死ねば、ウェルドスラーブって国はもう完全になくなったちまうんだぜ)
 ブロテとセルディ伯も、きっとそのように説得しているのに違いない。国王は口を引き結んだまま、重々しくうなずいていた。
(おい。もうすぐ敵はここまで来ちまうぜ。早く、早く船を出せ!)
 まるで実際に、自分もこの場にいるような気持ちでレークは叫んだ。だが、その声が誰かに聞こえるはずもない。
(おい、早く……)
(レーク、レーク・ドップ!)
 そのとき、頭の中で強く声が響いた。
(なっ、だ、誰だ……)
 驚いたレークは、思わず辺りを見回した。
(レーク・ドップ、時間がない!)
 それは、頭の中に直接響いてくるような声であった。
(水晶の魔力はもうあまりもたない。アストラル体が消滅してしまう前に、戻ってくるんだ)
(おお……あんたは)
 それがようやく誰の声なのか思い当たった。
(エ、エルセイナか……ちょっと待ってくれ)
 いきなり、ふわりと体が浮かび上がる感覚があった。誰かが勝手に自分を持ち上げるような、あまり気持ちよくはない感覚である。
(うわ……うわわ)
 空中に舞い上がりながら下を見ると、国王の乗るガレー船が、みるみる眼下に小さくなってゆく。
(ブロテ……ちゃんと脱出しろよ)
 レークの体は……いや意識体は、そのままぐんぐんと上昇した。
(ま、待ってくれ。頼む……
(もう一カ所だけ、行きたいんだ)
(頼む……そこへ)
 レークは必死に念じた。
 周囲が暗くなり、やがてものすごいスピードで、空の星々が後ろに流れ始めた。
(うわっ……)
 もはや自分で飛んでいるのではなく、なにものかに腕をつかまれて無理やり空を飛ばされているような、そんな恐ろしい感覚であった。
(うわああああ)
 体が引きちぎられるかのような恐怖と、しだいに意識が遠のくような、己の存在自体が消えてしまうのではないかというような、あやふやな感じ……
 そんな恐るべき飛行の中で、レークはただ念じた。
(そこへ、行かせてくれ……)
(そこへ……)
 真っ黒い穴の中を、無理やり通ってゆくような息苦しさ。
 それがしばらく続き、
 そして、
 いきなり、ふっと体が軽くなった。
(……)
 レークは目を開けた。
(ここは……)
 あたりは暗がりに包まれており、とても静かだった。
 しばらく、レークにはここがどこであるのか、見当もつかなかった。
 やがて目が慣れて来ると、周囲の景色がうっすらと見えてきた。意識体であるということは、己の精神が安定しなくては視覚を得られないのだと、エルセイナがいればそう言ったことだろう。
 どうやら、ここは庭園のような場所だった。足元は石畳で、周りには整えられた植え込みや、整然と並ぶ灌木などが見えた。
 さきほどまでの、レイスラーブの物々しいいくさの喧騒とはまったく異なる、静かで穏やかな、そして、どこか雅びやかな空気……
(もしかして、もしかして、ここは……)
(本当に、オレの念じた場所に来られたのだとするなら、ここは……)
 振り返ると、背後には大きな屋敷があった。
(おお、やはりここは)
 きっと名のある貴族のものだろう。月明かりの中で見ても、高い尖塔を両側にそなえた、それは大変に見事な屋敷であった。
(ああ。ここに……あいつが)
 体が絶えず浮かびそうになる、ふわふわとした感覚がずっと強まっていた。エルセイナの声が言っていた、アストラル体としての限界が近いのかもしれない。
 今にも吹き飛びそうな体に必死に意志を送り込むと、レークはふわりと歩きだした。



「先生、どうかなさいました?」
 暗がりの廊下で呼び止められて、アレンは振り向いた。
 それが誰かはすでに分かっていたので、驚かせぬように穏やかな笑みを浮かべながら。
「こんな時間に、どこへゆかれますの?」
 彼女の声には、いくぶんの叱責の響きが感じられた。この屋敷にいる間は、自分には客人として規則正しく振る舞うことが求められているのだろう。
「いえ、ちょっと……外の空気が吸いたくなったもので」
「こんな夜中にですか。外は冷えますわ。そろそろ秋も深まってきましたから」
 燭台を手にした彼女は、そっとそばに来ると、こちらを見上げた。寝台から起き出して来たのだろう、その見事な金髪を今は後ろに軽くまとめ、絹の薄物をまとっただけの姿で、可愛らしく首をかしげている。
「ええ、そうですね。姫、あなたこそお体を冷やしてしまう。さあ、部屋にお戻りを」
「いやです。それに……それに、姫などと呼ばないでください。二人のときはカーステンと呼んで」
 アレンは困ったようにくすりと笑った。
「では、カーステンさま。さあ、こんな夜更けに起き出してくるのは、よろしくない。お部屋にお戻りください」
「いいえ。先生が戻らないのなら、私も戻りません」
 彼女は案外強情にそう言うと、いたずらそうな目でアレンを見つめた。
 カーステン・ド・マルダーナは、トレミリア三大公爵として名高いマルダーナ公爵の娘であり、トレミリアの第三王位継承者である。フェスーン宮廷でももっとも高貴な姫君の一人であり、まだ十六歳でありながら、その花のような美しさから、いずれはトレミリア随一の美姫となるだろうと宮廷人たちからのおぼえもめでたい。
 そのカーステン姫が、一介の元は剣士にすぎなかった男を教師に付けたという話は、人々の耳目を驚かせ、大きな噂になった。それがあの大剣技会で優勝したレーク・ドップの相棒であり、売国の陰謀を防いだ美貌の若者だということも含めて、宮廷の人々だけでなくフェスーンの市民たちの間でも、それは大いに話題となったものだった。
 モスレイ侍従長をはじめ、アレンをよく知るものであれば、その生まれついての宮廷人であるかのような雅びやかな立ち居振る舞いや、言葉使い、そして豊かな知識と才覚ある弁舌を前にして、彼が元浪剣士であるから云々といった論議は、まったく無用なことであると理解できたろう。そうでなければ、たとえカーステン姫自身がそれを強く望んだとしたところで、王位継承者の教師という大切な仕事を与えられるはずもない。
 アレンの方は、そうした己の身分や立場をすっかりわきまえていたので、貴族たちとは、自分があたかも最初からの宮廷人であるように対等に接することはせず、常に一歩下がった謙譲の態度を崩さなかった。自らでしゃばって晩餐や舞踏会に出向くこともなければ、必要以上に宮廷の夫人や姫君たちに近づくようなこともしなかった。
 そうして、なるべく空気のように自らを律することで、彼はしだいにフェスーン宮廷の中で、その存在を疎むものたちからの密かな憎悪や嫉妬を受け流し、やがてその立場を暗黙のうちに認められるまでになりつつあった。なので、カーステン姫の教師という肩書も、はじめのうちは噂の的でありはしたが、いつしかそれすらも、公の立場として認知されはじめていたのである。その点では、アレンの空気を読む能力、世評を敏感に察知して、自らの行為の規範に取り入れる才能というのは、天才的であるといえたかもしれない。
 またカーステン姫の方も、今ではすっかりアレンになついていたし、もちろん教師としてもその信頼は増すばかりであった。なので、たとえばこの日のように、アレンが姫君の住まう公爵の別邸に泊まるようなことも、そう珍しいことではなくなっていたのである。
「仕方ないですね」
 アレンは苦笑気味に譲歩した。この姫君が、一度言い出したら聞かない、案外に依怙地なところもあることを、彼は知っていた。
「では、少しだけ、お話しでもしましょうか」
「はい」
 目を輝かせるカーステンは、すでにアレンが自分にとって厳しいだけの教師ではないことを、無意識に感じ取っているのだろう。甘えるようにその身をそっと寄せてきた。
 二人は廊下の奥にある一室に入ると、いかにもこういうことが初めてではないという様子で、くすくすと笑いをもらしながら壁際に並んで腰掛け、まるで睦言を語らう恋人のように、ひそひそと話しだした。
「さあ、もうそろそろいいでしょう。もうだいぶ夜も遅いですから。早くお休みなさい。いい加減にしないと、本当に僕は、不届き者としてここから追放されてしまう」
「まあ、先生。そんなことは私がさせません。アレイエン先生は、いつまでもいつまでも、私の先生でいていただきたいから」
「姫が二十歳になっても、三十歳になっても、僕は先生ですか?」
「そうですわ。私が二十歳になっても三十歳になっても。ずっと、そばにいてください」
 誰も使わない物置のようになっている部屋の暗がりで肩を並べて座り、元浪剣士である教師と由緒ある王国の姫君は、ときおり互いの目を見交わしながら、それぞれの秘めた思いを探り出そうとするようだった。
「では約束しますよ。ずっと姫のそばにいると」
「本当に?本当に……?」
「ええ」
「ああよかった。では、もうそろそろ寝ます。じつを言うと、さっきからすごく眠たかったの」
 まだ十六歳の無邪気な少女の表情を覗かせて、カーステンはくすりと笑った。
「おやすみなさい。僕もじきに休みますから。明日はまた、修辞学のテストをしますからね。午前中は予習をしておいてください」
「はあい」
 二人は立ち上がると、このまま別れがたいというように向かい合った。
「先生……いつもの、してください」
 カーステンがねだるように囁いた。
「……」
 アレンがそっと引き寄せると、彼女はうっとりとして目を閉じた。
 唇が軽く触れ合うと、その体がぴくりと震えた。
「それじゃ、先生……おやすみなさい」
「おやすみ」
 頬を染めたカーステンが部屋を出てゆく。
 小走りに廊下をゆく足音が消えるのを待ってから、アレンは動きだした。
(さっきの感覚は、なんだったんだ)
 まるで、誰かが自分を呼ぶような、そんな気がして、いてもたってもいられぬような気分になった。こんな感覚は初めてだった。
 部屋の木窓を開くと、冷たい夜気が吹き込んできた。この二階の部屋からは、屋敷の庭園が一望できる。
 暗く静まり返った庭園には、ここから見るかぎり動くものの気配はない。
(……)
 だがアレンには、己の感覚的なもの、その鋭敏さに関しては、決して過たぬという自負があった。少し考えてから、彼は窓枠を乗り越えると、そこから飛び下りた。
 まるでネコのようにしなやかに地面に降り立つと、周囲の気配を慎重に窺う。
 屋敷のものたちに、こうした夜の徘徊を気づかれるのも面倒だ。じつのところ彼は、この屋敷に来ているときには必ず、夜中には密かに屋敷内を歩き回り、どんな些細な情報でも手に入れようと動いていたのだ。さきほどのように、カーステン姫と夜中に落ち合うことも珍しくはなかった。彼女はアレンの夜の散歩のことを知ると、他のものには決して言わないという約束をして、その代りにひとときの甘い時間を求めたのだ。
(いまは、なにも感じられない……あれは、気のせいだったのか)
 周囲を見回しても、人影はおろか、動くものの気配もまるでない。いつもと変わらぬ静かな夜……まだいくさの匂いの届いて来ない、平和なトレミリア王国、その首都フェスーンの奥まった宮廷内である。
 アレンは庭園の石畳を歩きだした。
 宮廷内でも北側に位置するこの屋敷の庭園からは、南の方角に丘の上に映えるフェスーン城のシルエットを楽しむことができる。とくに夕刻になると、黄昏の空を背景にした城のたたずまいは、えも言われぬ幻想的な優美さで、アレンの気に入りの光景だった。今はその姿は闇夜に隠れているが、おそらくあと数刻もすれば、朝日を浴びて輝く城の清々しい姿を見られることだろう。
 その南の方角にしばらく庭園を歩いてゆくと、ふと奇妙な感覚を覚えた。
「……」
 アレンは思わず懐に手をやった。そこには肌身離さず身につけている短剣があった。一瞬、それが熱を帯びたように感じられたのだ。
「これは、どういうことだ……」
 懐から短剣を取り出し、その柄を握った瞬間だった……
 なにかの気配が、自分のなかに流れ込んでくるような感覚があった。


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