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 水晶剣伝説 Y セルムラードの女王


X

 城門塔に挟まれた市門はすでに開門され、町に出入りする人々や馬車などが列をなしている。リジェの馬を先頭に、女騎士たちの騎馬が近づいてゆくと、こちらに気づいた門兵の一人がさっと手を上げた。すると、閉じられていた片側の小門が開けられた。
「さあ入るぞ」
 リジェの馬に続き、他の五騎も次々に小門をくぐり抜ける。
「我がセルムラードの首都、ドレーヴェへようこそ」
 肩ごしにリジェが言う。背中になびく銀色の髪がふわりと鼻先にかかると、なんともいえないよい香りがして、レークはむずむずするような心地になるのだった。
 都市の通りはしっかりと石畳で舗装されていて、両側には石造りの家々がぎっしりと立ち並び、赤茶けた色の尖った屋根を突き出している。
 まだ早朝なので人通りはさほどでもなかったが、通りに並ぶ店店には、すでに営業を始めている店もあった。パン屋の煙突からは煙が上り始め、忙しそうに仕入れの品を荷車で運ぶ商人が通りをすれ違ってゆく。
 通りに見かける人々はみな小奇麗で、馬でゆくこちらの姿を見ると、にこやかに挨拶をし、手を振ってくる。整然とした町並みが物語るように、ここには貧困や悪徳の香りはあまりしない。もちろん、多くの人間が集まる都市であるから、裏にはそうしたものが潜んでいるのかもしれないが。だが、少なくとも、この爽やかな朝の空気の中には、そうした気配は見えず、また一日働き始めるという、健全な朝の活気が町を包んでいた。
「どう。ドレーヴェの町は。トレミリアのフェスーンに比べれば、それは田舎の風景だろうけれど」
「いや、なかなか綺麗な街だな」
 レークは馬上から、周囲の町並みを興味深げに見回していた。
「確かにフェスーンに比べれば小さいかもしれないが、こんな丘の上にこれだけの町を造るんだから、それは立派なもんさ」
 大通りからはいくつもの横道が伸びていて、中にはとても狭い路地のようなものもあったが、そこにもやはりぎっしりと家々が重なるようにして並び、家の二階部分がくっついてアーチ状になっているような路地もあった。
「このドレーヴェも年々人口が増えているからね。この大通りは町の中心街を通り抜けているけど、他の道は狭くて、いったん路地に入ると迷路のように狭く入り組んでいるから、迷わないよう注意するんだね」
「なるほど。しかし、オレはそういうごみごみした路地なんかが好きなんだ。そのうちふらりと散歩してみるとしよう」
「ふふふ。あんたって面白い男だね」
 大通りを進んでゆくと、前方に都市内の城壁が見えてきた。その壁の向こうに、尖塔のようにそびえる城があった。
「あそこが、ドレーヴェの王城さ。フィリアン女王陛下のおはす緑柱の城」
「緑柱の城?」
「そう。このドレーヴェの周囲の地盤からは、緑柱石が多くとれるんだ。わが国の重要な天然資源のひとつといっていい。リクライア大陸に出回っているエメラルドのほとんどは、セルムラードが原産だと思うよ」
「へえ。景色だけでなく、宝石も美しく、そして女も美しくか。なんだかこの国が気に入りそうだよ」
「ふふ。それはよかった」
 城壁の前まで来ると女騎士たちは馬を降りた。馬車が一台通れるくらいの門の前に、見張りの騎士が立っていて、よく見るとそれも女の騎士であった。
「トレミリアの客人をお連れしたと、女王陛下にご報告しろ。ここの見張りはネルとマルタに代わらせる」
「はっ」
 胸に手を当てて騎士の礼をすると、見張りの女騎士は城門の向こうに消えていった。
「さて、ここからは外国の客は身分あるものしか入れない決まりだ。使者の役目であるそちらのお二人はもちろん歓迎するが、」
「あ、私ですか」
 自分のことを言われていると気づき、ラズロがうなずいた。
「もとより、私はお二人をセルムラードまで案内するためにお供をしました、ただの船乗りです。では、私はここで引き返すことにいたします」
「すまねえな。ラズロ、ここまでありがとうよ」
「いいえ、なんのお役にもたちませんで」
「そんなことはない。お前がいて助かったぜ。これで帰りの馬でも調達してくれ」
 レークは革袋から金貨を取り出して、ラズロに渡した。
「ドレーヴェの市内では自由にしてかまわない。ゆっくり休まれてから帰路につくのがよろしかろう」
「ありがとうございますリジェどの。では、お二人をくれぐれもよろしくお願いします」
 礼を言うと、ラズロはレークとクリミナ、それぞれと握手を交わした。
「お二人が確かに無事にドレーヴェに入られたことを、ウィルラースさまにしっかり報告いたします」
「ああ、頼むぜ」
「では、女王宮に入るとしよう。ネルとマルタはここの見張りを引き継いでおけ」
「了解しました」
 去ってゆくラズロを見送ると、レークとクリミナは、女騎士に付いて城門をくぐった。
 そこは整えられた庭園のような空間だった。
 トレミリアのフェスーン宮廷のように広大な敷地ではないが、丘の上の城壁都市の中にあるとはとても思えないような、優雅なおもむきのある場所であった。
 城門からまっすぐゆくと正面に大きな池があり、池の周囲には、木々に囲まれた石畳の道が左右にぐるりと伸びている。澄み渡った湖のような水面には、古風な石造りの橋が渡され、その先に、空に向かってそびえるような城があった。
「おお。あれが女王の城か。まるで、水の上に浮かんでいるみたいだ」
 レークが感心するように、それは、トレミリアのフェスーン城とはまた違った美しさの城であった。さきほどリジェが言っていた、「緑柱の城」という名のように、その城はまるで、水面から突き出したエメラルドの柱のようにも見えた。
「なんて、綺麗なお城なのかしら……」
 クリミナも、はじめて見るその城の姿に、うっとりとして両手を組み合わせた。
 もちろん、実際の城の壁はエメラルドというほどには緑がかってはおらず、光によってはほのかに緑に見えるというくらいであったが、その尖った屋根にはおそらくたっぷりと緑柱石が使われているのだろう、陽光を浴びてじつに美しくきらきらと輝いている。全体のシルエットとしては、城というよりもむしろ塔のように細長く、あるいは池に浮かぶ白鳥が細い首を伸ばしたような姿にも思えた。
 どちらにしてもそれは、森に囲まれた王国の女王が住むにはまことにふさわしいような、優美でたおやかな、そして、どこか物語めいた幻想的な城であった。
「美しいだろう。私たちも、毎朝ここからこうして、あの城を眺めるんだよ。水に浮かぶ白鳥のような、丘の上の守られた宝石のような、あの女王の城を」
 誇らしげなリジェの言葉は、おそらく彼女ら遊撃隊の女騎士たち、すべてが思うことなのだろう。
 池の前に立って、彼らはしばしその城の眺めを楽しんだ。レークは、池の右手にある木々に囲まれた建物に目を向けた。大理石のような白い円柱がいくつも見えている。
「あれは神殿だ。いろいろな儀式をとりおこなったり、エルセイナさまが神の声を聞いて、それを御告げになることもある」
「神の声……エルセイナさまってのは、巫女さんかなにかなのか?」
「そうではないが、あの方はそう……あらゆる学問や神話に通じ、軍事や政治を司り、そして霊力もおありなる。とても万能な御方なのさ」
 リジェはそれ以上詳しくは言わなかったが、この国の宰相であるエルセイナというその人物が、人々に敬われていることは確かなようだった。
「さて、ガーシャ、ローリ、カレア、お前たちは隊の宿舎に戻り、みんなと先に訓練を始めていろ。私もあとでゆく」
「はい」
 リジェの部下の騎士たちは、騎士の礼をすると踵を返し、その場を去っていった。
「向こうの左手に、私たち遊撃隊の宿舎があるのさ。訓練所もかねた屋敷ってとこだね」
「ところで、ここには男の騎士はいないのかい?」
 女騎士たちの背中を見ながらレークはリジェに尋ねた。
「ああ。女王宮の警護はすべて我々遊撃隊が任されている」
「へえ。それじゃ戦争になったら、戦える男たちはここにはいないわけかい?」
「もちろん騎士はいるさ。セルムラードの各地には公爵領があるから、いくさとなれは各公爵たちに仕える騎士たちが集まってくる。それにこのドレーヴェにも騎士団がある。ただそう数は多くないからね。主に守備隊として都市の城壁塔に住んでいるよ」
「なるほどね。まあ、こんな山と森の中にあって、しかも丘の上の都市にいくさをしかけてくる国なんぞは、そうそうないだろうからな」
「そう願いたいものさ。さあ、どうやら城の迎えがきたようだ」
 リジェが池の方を指さした。
 城へと続く橋を、向こうから渡って来る女官らしき姿が見えた。白いサテンの薄いローブを身につけた女官が、彼らの前にしずしずとやってきて、優雅に礼をした。
「トレミリアからのお客人を歓迎いたします」
 歌うような美しい声で、女官はそう告げた。
「女王陛下がお会いになるそうです。どうぞこちらに」
「ああ、どうも」
 女官のあとについて、レークとクリミナ、リジェの三人は池にかかる橋を渡りだした。
 陽光に照らされてきらきらと輝く水面には、緑柱の城の優美な姿が映り込み、覗き込むと、澄みきった水の中にいくつもの魚の影が動いている。池の周囲には、整えられた植え込みや花壇、彫像などが並び、あたりを華やかに彩っている。昇りゆくアヴァリスの輝きを背景にした神殿の姿は、橋の上から見ると、またじつに神秘的なおもむきであった。
 石橋はそのまま城へ続く吊り橋につながっていた。城門の前までくると、リジェは立ち止まった。
「さて、私はここまでだ。あとは女官が案内するだろう」
「ああ、ありがとうよ」
「レーク・ドップ、お前に会えて嬉しいぞ」
 そう言って、女騎士はいきなりレークを引き寄せた。
「お、おい……」
「挨拶だよ。親愛のな」
 軽い抱擁に戸惑うレークに、女騎士はくすりと笑って耳元に囁いた。
「あとでぜひ、手合わせをして欲しい、噂にたがわぬ剣の使い手とな」
「あ、ああ」
 橋の上を戻ってゆく女騎士の姿を見送りながら、レークはしばらく情熱的な抱擁の感触にぼんやりとしていたが、そばにいたクリミナの目がおそろしく冷たいことに気づくと、慌てて言い訳をした。
「手合わせだってさ。こんなところにきてまで試合をするなんざ、思いもしなかったな」
 だがクリミナは黙ったまま、つんと顔をそむけてしまった。微妙に険悪な空気のまま、二人は女官に案内されて城の吊り橋を渡った。
 いよいよ女王の城へと足を踏み入れると、城の中はひんやりとしていて、かすかにハーブかなにかのよい香りがした。天井がとても高く、見上げると塔のような造りで、壁際の螺旋階段がはるか上の方まで続いている。明かり取り窓の数自体は多くはなさそうなのに、城内は不思議ととても明るかった。きっと、緑柱石が使われているからなのだろう。
「どうぞ、こちらです」
 城の奥へと続く回廊を女官に続いて歩いてゆく。
 回廊は狭くもなく広くもないくらいで、壁龕にある燭台と、歴代の国王たちの肖像が描かれた絵画が壁に並ぶ他には、装飾品というものは見当たらなかった。女王の居城にしてはもっと派手やかでもよいくらいな気もするが、かといって貧相に見えるわけでもなく、床も壁も綺麗に磨かれて、しっかりと手入れがされていた。ときおり見かける女官たちも、同じように白いサテンのローブをまとっていて、こちらに道を空けながら優雅に礼をするその様子には、やわらかな清潔感が感じられた。
 回廊を奥へ進むと、突き当たりに扉があり、そこに入ると、さらに大きな扉があった。ここは次の間であるらしい。女官はここでしばし待つように二人に告げた。
「どうぞ。女王陛下がお待ちです」
 ややあって両開きの扉が開かれた。二人は女王の間へと足を踏み入れた。
 そこは光にあふれた大広間だった。
 床も壁も緑ががった白い天然石で覆われており、天井はやはりとても高かった。驚いたことに、天井らしき部分はほとんど透明で、空が透けて見えていた。よくよく見れば、壁の石も半透明で、太陽の光が四方から射し込んでいる。そのため広間がとても明るいのだ。
 広間の左右には白いサテンのローブ姿の女官が、その顔に涼やかな微笑を浮かべて、微動だにせず立ち並んでいる。明るい緑色のビロードの絨毯が奥へと伸び、その先に女王の玉座があった。
 だが、女王はそこにはいなかった。
 広間の右手奥には小さなバルコニーがあった。周囲の池を見渡して涼やかな風を運んでくる、そのバルコニーに、銀色の髪の女性がしゃがみこんでいた。
 女性はどうやら、黒と白の小さな動物を相手にしているようだった。
「あら、行ってしまうの。シル、ジル」
 女性が声をあげ、それから、ようやくこちらに気づいたように振り向いた。
「まあ」
 バルコニーからこちらに戻ってくると、女性はレークとクリミナの前にきて、にこりと微笑んだ。
「ごめんなさい。気づかなくて。ネコたちが来てしまったものだから」
「あ、いえ……」
 口元を引きつらせたレークは、そのまま言葉を失った。
「あなた方が、トレミリアからのお客様ですか」
 澄んだ声が尋ねる。
「は、はい……」
 うなずいたクリミナも、そのまま吸い寄せられるように女性を見つめていた。
(これが、セルムラードのフィリアン女王……)
 きらきらと輝く銀色の髪と……深い泉のような瞳をした、類まれな美女がそこにいた。
 束ねた銀色の髪を黒いリボンでゆったりと巻いて背中に垂らし、額には宝石の入った金の略王冠をはめ、裾に金糸の刺繍がほどこされた紫色の長いスカート状のシェルコットに身を包んでいる。その胸元には大きなエメラルドがはめ込まれていた。
 真っ白な肌はやはりこの国の女性の特徴なのだろう。しかし、不健康そうな印象ではなく、微笑みを浮かべた顔はむしろ少女のように可愛らしい。もちろん、その目の輝きには王女としての気品と落ち着き、そして芯の強さが感じられた。歳は二十台の後半にさしかかったくらいだろうか。まだ充分に若々しく、そしていよいよ女の盛りを迎えたしっとりとした美しさにあふれている。
 レークとクリミナは、自分たちが女王の前に立っていることを、ようやく実感していた。これまで肖像画などでは見知っていたとしても、目の前にいる女王は、もっとずっと生き生きとして輝いて見えた。
「ああ、ええと……女王、閣下……いや陛下、には、お元気、じゃない……ご機嫌うるわしゅう。わ、我々は、その……」
「まあ。ふふふ」
 しどろもどろのレークの様子に、女王は可笑しそうに口もとに手を当てた。
「あなたは、トレミリアの方にしては、ご挨拶が苦手のようですね。いいのですよ。普通にお話しください」
「ああどうも、ええと……失礼しました」
 ばりばりと頭を掻いて、レークは頭を下げた。
「こんな美人の女王さまとは、思わなかったもので」
「レーク、言葉に気をつけて。セルムラードのとても高貴なる御方なのよ」
「ふふ。いいのです。ありがとう。そんなふうに、直接言われるのはなかなかないことですから、とても嬉しく思いますよ」
 女王はにこりと微笑んだ。
 そうすると、どんな天上の女神たちもかなわないだろうという、やわらかな輝きがあふれ、広間にいるものたちすべてを包み込むように思えた。この国の何千、何万の騎士たちが、その微笑みのために命をかけるだろう。レークにはそんな気がした。
「私は、フィリアン・マリセア・セルムランド」
 森の王国の女王は、誇らかにその名を名乗った。
「我が王国セルムラードへようこそいらっしゃいました。トレミリアから、それはお疲れのことでしょう」
「いや……その、最初はトレミリアから出発したんだが、それからウェルドスラーブへ行ってそれからアルディ、トロスといろいろ回って、こっちに来たんですがね」
 それを聞いて女王の顔にはふと、別の表情が浮かんだ。
「アルディへ……そうですか」
「ああ、オレはレーク・ドップ。一応、トレミリアの騎士、みたいな感じだ」
「みたいな感じ、じゃないでしょう」
 横からクリミナが肘で小突いた。
「フィリアン女王陛下。私はトレミリア王国宮廷騎士長、クリミナ・マルシイと申します。このたびはぶしつけな推参にも関わらず拝謁をお許しくださったことを感謝いたします」
「これは、クリミナ・マルシイどの。存じあげております。かつて一度、フェスーンにまいりましたときに、お会いしたことがありましたよ。あれからもう何年もたっていますが。お父上のオライア公爵さまはお元気ですか?」
「はい。恐縮に存じます」
 まがりなりにも、彼女も由緒あるトレミリア貴族の姫である。女王を前にしても気後れすることなく、流暢に言葉をついだ。
「トレミリアとセルムラードの変わらぬ友情と、お互いの平和と繁栄への願いは、二百年の昔より変わっておりません。それもひとえに、女王陛下のご威光と薫陶のたまものと存じます。これからも、どうかこのリクライア大陸において、その輝けるお姿と慈悲あるお心で、世界を照らしてくださいますよう」
「おお、もちろん」
 女王はクリミナの手をとった。
「トレミリアは昔からのお友達。セルムラードとは一番の親友といってもよいお国です。素晴らしき繁栄と文化の雅びを追求し、我が国にも多くの豊かさをもたらしてくださいます。歴史ある古き王国として、お互いへの尊敬の念は決して絶えることはありません。こちらこそ、私など名ばかりの女王のいる田舎の山国ですが、これからも永久なる友情をお願い申します」
「女王陛下にジュスティニアの祝福ありますよう」
 クリミナは儀式にのっとった仕種でひざまずき、女王のローブの裾に口づけをした。横にいたレークも、うながされて慌てて同じようにする。
「さあ、堅苦しい挨拶はこのくらいにして。お茶を用意させましょう。それともお食事がいいかしら?もし長旅でお疲れでしたら、いったんゆっくり休まれますか?」
「お心遣い恐縮に存じます。ですが、フィリアン女王陛下。私たちがこの国に参った目的は、少し急を要するものでございます」
「まあ、そうでしたか」
 ひざまずく二人を見て女王はうなずくと、そこに控える女官に訊いた。
「エルセイナはどちらに?」
「さきほど神殿の方にお使いを出しましたので……そろそろ参られるころかと」
「そう。お二人のご様子からすると、私ひとりではなく、エルセイナがいてくれた方がいいのではと思います」
「私はここにおります。陛下」
 広間の入り口から声がした。まるで、はじめからそこにいたとでもいうように、そこに人影が立っていた。
 長い黒髪を腰まで垂らし、ほっそりとした体に薄いローブをまとった美女……見かけは少なくともそうだったが、それは、なんとも不思議な人物だった。
「エルセイナ、こちらへいらっしゃい」
「はい」
 音もなくすべるようにこちらに歩いて来る、その女性は……いや、それを女性と断定してよいものか、他の誰にも分からなかった……真っ白な肌は女王と同じだが、女王の銀色の髪とは正反対の漆黒の色の髪に、細く切れ長の目にほっそりとした鼻筋、男性にしては細すぎるあごのライン……それは、誰もが目を見張るほどの美貌であった。身長は女王よりもいくらか高く、見ようによっては、非常に美しい男性であるようにも思える。その点では、レークのよく知るあの、金髪の相棒に少しだけ雰囲気が似ていたかもしれない。
 だが、なにかが決定的に違う。
(これが、噂に聞くセルムラードの宰相か……)
 レークにはさっきから、はっきりとある感覚が感じられていた。それは左手にしていた指輪が、うずくように指を締めつけていること。
 そして、今はただそれだけでなく、
(懐の短剣が熱い……)
 懐にある短剣……アドから受け取ったあの短剣が、まるでそれ自体が熱をもったように感じられていた。
(このエルセイナというやつ……いったい、なにものだ?)
 その黒髪の宰相は、女王の側にくると、まっすぐにレークの方を見つめた。
 二人の黒い目が正面から合わさった。
「……」
 指輪が強くうずき、懐の短剣はますます熱くなるようだった。
「こちらが、我がセルムラードの宰相、そして神官のエルセイナ・クリスティン」
「どうぞ、よしなに」
 冷然とした表情を崩さぬまま、口数少なく軽く頭を下げる。
「女王として未熟な私の補佐をしてくれています。重要な問題ごとは、すべて彼女を通すのが、私の決まり事のようになってしまっているのですよ」
「恐れ入ります、陛下」
 「彼女」と呼ばれることが、もはやそう不自然でもないのだろう。確かに女性と思えば、姿はまるきり女性であった。それだけ美しく、優雅で、なよやかに見えるのは確かである。
(だが、なんとなく……ただの女じゃないのは分かる)
 その謎めいた黒髪の宰相を、レークはじっと見つめた。
(それとも、もはや男なのか……いや、そうじゃねえ。そんなことよりも)
 強く感じられるのは、もっと大きな雰囲気……神秘的というのが正しいのかは分からないが、なにか普通の人間というイメージを超えたもの……そんな気配が、そのほっそりとした体から立ち上っている気がするのだ。
(ともかく、こいつはただ者じゃねえ。こんな感じは初めてだ……)
 まるで、夜空のソキアのように、冷たく美しく、そして恐ろしい……
「エルセイナ。こちらは、トレミリアのクリミナ・マルシイさまと、ええと、あなたは……たしか」
「レーク、レーク・ドップだ」
「よしなに、レークどの」
 エルセイナの顔にかすかな微笑が浮かんだ。すると、そのとたん、指を締めつけていた感覚はふっと消えた。いつのまにか懐の熱さも消えていた。
「……」
 まるで魔力の気配が魔力によって断ち切られたような……もし、アレンであれば、あるいはそうも考えたかもしれない。
 だがレークはただ、目の前の妖しい黒い瞳を見つめていた。
「さあ、宰相もここに来たことですし、こちらにお座りになり、お二人のご用というのを申してください」
 女王は、三人を玉座の方に手招くと、自らは玉座に座り、横にエルセイナを立たせたまま、レークとクリミナに席を勧めた。
「はい。では失礼いたします」
 レークとともに席につくと、クリミナは話しだした。
「それではまず……さきほどこちらのレークも少し申しましたが、私たちは当初トレミリアを出発しまして、友国であるウェルドスラーブへ物資とともに到着しました。ジャリア軍の進軍については、ある程度はこちらにも伝わっているかと思いますが、その勢いは想像以上に早く、強力なものでした。今では国境の城スタンディノーブルは落ち、ジャリア軍はついに首都のレイスラーブを包囲しようとしています」
「そこまでの情報は、こちらにも伝わっています。ウェルドスラーブは大変な状況にあるということを」
 女王はその顔に憂慮の表情を浮かべた。
「あなた方はよくご無事でしたね」
「ええ。じつは、私たちはトレヴィザン提督から書状を使わされて、その後アルディへと赴きました。東西に分断されつつある、東側のアルディへ」
「東のアルディへ……」
「はい。東のアルディで革命を起こそうと、その勢力を集っているウィルラース卿とお会いしたのです」
「ウィルラースさまと」
 その名を聞いたとたん、女王の目が輝きだすのを二人は見た。
「ああ……そうでしたか。では、あなた方はウィルラースさまのと会い、そしてここへ」
「はい。都市国家トロスにてお会いし、その後書状をいただきまして、直接セルムラードのフィリアン女王に会うようにと」
「おお、私に。あの方が……」
 女王の声が震えた。
「それで、あの方は、お元気でいらっしゃいましたか?」
「はい。とても。できればご自身でうかがいたかったと。それから、いずれ平和がきたら正式に訪問し、そのときには誓いを果たしたいと、そう申されておいででした」
「あの誓い。まあ、そうおっしゃられたのですか。あの方が……」
 胸の前で両手を組み合わせ、女王はまるで十五歳の少女ででもあるように、うっすらとその頬を染めた。
「そうですか……まあ、そんなふうに」
「はい。それで、ウィルラースさまは、ウェルドスラーブとの同盟を組まれ、海戦になるはずのレイスラーブへ船団で向かわれると」
「おお、あの方が、いくさに?」
「はい。申しましたように、ジャリア軍はウェルドスラーブを包囲し、さらにはロサリイト草原にも進軍を始めています。ウィルラースさまが言うには、ジャリアはいずれトレミリアと、そしてセルムラードへの侵攻を狙っていると。このままでは、リクライア大陸は大きな戦乱の渦に飲み込まれていってしまうと」
 女王はぎゅっと両手をもみしぼった。
「事態は、そこまで切迫していたのですね。森と山に囲まれたこの国は、まったくいくさなどとは無縁に思われていたのだけど。実際にはそうではなかったのですね」
「そうそう、それで、これがウィルラースさんから預かった書状ってやつですよ」
 レークは懐から小さな筒を取り出し、それを女王の手に渡した。
「あの方からの……」
 筒から引き出した羊皮紙を広げ、女王はそれを読みくだすと、横にいる宰相に手渡した。
「どう思いますか。エルセイナ」
「これは、おおかたは理に適った申し出です。いくつかの点では、議論をしなくては決定できない部分もありますが」
 書簡の文字を読んで冷静に断を下すと、宰相は羊皮紙をまた筒に戻した。
「それで、そこには、なんて書いてあるんだい?」
「それは言えない。ここにあるのは、セルムラードと、ウィルラース卿の言うところの新たなアルディとの間の事項だ。それに、どちらにしても、即決できるような申し出ではない」
「なるほどね。お国同士の利害関係ってわけか」
「レーク、無礼よ」
 クリミナが横から囁く。
「ところで、この書状が、ウィルラース卿のものだという証拠はありますか?または、お二人がウィルラースどのの使者であるという確かな証明はできますか?」
「エルセイナ。書状の文字は確かにあの方のものです」
「おそれながら、陛下。書状は本物でも、それをもってきた者が本物の使者であるとはかぎりますまい」
 まるで年を経た老宰相のように、落ち着き払った声で彼女は言った。
「とくにこのような重大な事項に関しては、なにもかもが確かであることを確認してからでないと、決定をくだすことはできぬものです」
「ごもっとも」
 レークは、懐の隠しにひょいと手を入れ、
「あるよ。確かな証拠ってやつなら」
 そう言って、そこから取り出したものを差し出した。
「それは……」
 女王ははっと目を見開いた。
 それは、ウィルラースから託された銀のペンダントであった。
 震える手でそれを受け取ると、
「これは、確かにあの方のもの……」
 女王はうっとりと、それを見つめた。
 美しいエメラルドのはめられたペンダントを大切そうに胸の前に抱き寄せ、そっと目を閉じる。その女王の胸には、同じようなエメラルドの飾りが光っていた。
 その様子を見守るレークとクリミナは、二人の間に交わされた誓いというものに、あらためて思いを馳せるのだった。

 クリミナはほっとため息をついた。
「なんだか、まるで物語のような光景だったわね」
「ああ」
 女王との謁見を終えた二人は、女官に案内され城の回廊を歩いていた。
 「ゆっくりと休まれて長旅の疲れをおとりください」との女王の言葉に、一晩眠らずに森をさまよった疲労感がにわかに蘇り、ゆるやかに襲ってきた。また、「書状にある申し出のいくつかについては、一両日中に決定できる可能性がある」という宰相エルセイナの言葉もあって、いずれにしても、明日まではこの国にとどまることになりそうであった。
 輝くような銀色の髪をした世にも美しい女王と、漆黒の髪の謎めいた宰相……そんな二人が並んでいるだけで、物語か伝説の中に出てくる古代王国のような、幻想的な空気をまとっているように思えた。そこにきて、美貌の革命貴族からの女王宛の書簡と、かつて女王と交わされたという密かな誓い、さらには遊撃隊なる女の騎士団の存在や、なによりこの、森に囲まれた丘の上の王国と、池に浮かぶ緑柱の城などという、これまで見たこともなかった人々や光景を前にして、さしも、ウェルドスラーブからアルディ、トロスと、各国をずっと旅をしてきたレークとクリミナでも、また新たな異国へ来たのだという新鮮な驚きに、胸ときめかせずにはおられなかった。
「フィリアン陛下は、肖像で見るよりもずっとお綺麗で……なんというのかしら、しっとりとした優しさと不思議な器の大きさを感じる御方だわ」
「ああ。それによ、あのエルセイナって宰相、」
 前をゆく女官には聞こえぬくらいの声で、レークは言った。
「なんだか、ただものじゃねえな。なんつうか、もう何もかも知っているというような、あの冷静そのものって顔……すげえ美人なんだけどさ、あの冷たい目で見られると、なんだかこう、ぞくっとして……怖いくらいだ」
「そうね」
 クリミナもうなずいた。
「セルムラードのエルセイナ宰相は、噂でしか聞いたことなかったわ。男性なのか女性なのかも分からない謎めいた才人だって。でも、こうして実際に会ってみると、確かにその通りだわ。見かけは女性に見えるけれど、なんというか……」
 そのとき、女官がくるりとこちらを向いたので、クリミナは慌てて口をつぐんだ。
「こちらでございます」
 回廊を回って、女官は二人を城からつながる塔のひとつへ案内した。塔の入り口にいる別の女官が、こちらにうやうやしく頭を下げる。
「しかし、さっきから女官しか見かけないな」
 周りを見回しながらレークはつぶやいた。そういえば、この城に入ってからは、他に騎士や廷臣たちの姿もなければ、貴族の城なら当たり前のようにいるはずの下男や小姓といった姿もまったく見ていない。広間にいたのも、そういえば女官だけであった。
「きっと、この城にいるのは、女王に仕える女官だけなのね」、
「女だけの城か……そういや、あの女騎士たちといい、やっぱり女の王に合わせて、ここには女しか置かないってことなのかね」
「それもそうだろうけど。きっとたぶん、無用な噂や醜聞の種を作らないという、国民への配慮もあるのではないかしら。市井の人々というのは、いつも貴族や王族たちの恋や噂話などにはとても敏感なものだから。あれだけ美しい女王であれば、なおさら噂が起きやすいでしょうね。フィリアン陛下は、そうしたものに気を配っておられるのだと思うわ」
 まんざら、そういう立場にいなくもない彼女は、実感のこもった言葉で言った。
「それに、女騎士なんてものも、なかなかやってみると大変なものなのよ」
「なるほど」
 レークはそう言うだけにしておいた。せっかく直ってきたクリミナの機嫌を、また損なうようなことは避けるくらいの気遣いは、いかに無粋な彼にもできたのであった。
 女官のあとについて、二人は塔の壁際の螺旋階段をぐるりと上がってゆく。壁に等間隔に造られた矢狭間も兼ねた縦長の窓からは、城の周りに広がる池や、その周囲の庭園がぐるりと見渡せた。
「こりゃ、いいながめだ」
 池の右手にある広場らしき場所では、馬に乗る騎士たちが訓練している様子が見えた。きっとさっきの女騎士たちだろう。
(リジェっていったか。なかなかいい女だったなあ……)
 そんなことを考えていると、背後でかつんと石を踏み鳴らす音がした。すぐ下からクリミナがこちらをじっと見ていた。
「なに止まっているの。早く上がりなさいよ」
「あ、ああ……」
 レークは内心を見透かされたようにぎくりとしながら、慌てて階段を上った。
「こちらと、そちらのお部屋です。どうぞご自由にお使いください」
 二人が案内されたのは、塔の三階くらいにある部屋であった。侍女が去ってゆくと、レークとクリミナはちらりと顔を見合わせ、また目をそらした。
「……」
 別に同じ部屋という期待はしていなかったが、レークは少しばかりがっかりした気分で、向かい合ったふたつの部屋の扉を見比べた。
「ちょうどよかったわ。一人でゆっくり休めそう」
 そう言うと、クリミナはさっさと部屋に入って、ばたんと扉をしめてしまった。
(まあいいや。明日になりゃあ、機嫌も直っているだろう)
 ふっと息をつくと、レークも自分にあてがわれた部屋に入った。
 部屋は四方を石壁に囲まれ、寝台とテーブルがあるだけのシンプルな造りであったが清潔に整えられていた。寝台には新しい毛布が用意され、壁には乾燥したハーブが吊り下げられており、ほんのりといい香りがした。
 着ていたものを脱ぎ捨て寝台に横たわると、すぐにでも眠れそうだった。実際に相当疲れてもいたし、旅の間ずっと、クリミナを守ろうと気を張っていたのだ。
(なんにせよ、無事にここまで着けてよかった……)
 使命を果たした安堵感が、体を心地よく弛緩させた。
 森の中で出会ったあの山狼の姿をふと思い浮かべながら、レークは眠りに落ちた。


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