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 水晶剣伝説 Y セルムラードの女王


Y

 不思議な夢を見ていた。
 それが夢だと分かったのは、足元がふわふわとしておぼつかないからと、もやもやとした霧の中にいるような感覚からであった。
(ここは、どこだ……)
 あたりは暗いような、それでいて明るいような、白い霧に覆われていて、室内なのか城の外なのかも分からない。生暖かいような、涼しいような風が、頬に感じる気がする。
 足元はふわふわとして、地面から浮かぶような感覚であったが、動かそうとすると、なにかにねっとりと絡みついたように、なかなか早くは歩けない。
 夢を見ているにしては、感覚がとてもはっきりとしている。こんな体験は初めてだった。そういえば、前にアレンから、魔術を扱えるものは、寝ている間に意識体となって空中を漂ったりできるのだというようなことを聞いたことがある。
(たしか、アストラル体とか……)
 だが、自分にそんな能力があるはずもない。また、これは空を飛んでいるなどとはいえない、まともに歩くのもままならないような、ひどくもどかしい感覚である。
(くそ。面倒な……こんな夢さっさと醒めちまえばいいのに)
 そう思いながらも、ここがどこなのか知りたいという、そんな欲求もあった。
(城の中じゃあないしな……)
 濃密な霧は闇の中に溶け込むようにして、視界をぼんやりと曖昧にしていた。目を凝らしてみてもなにも見えない。ときおり、かすかに星のようなものが光る気がしたが、それだけだった。辺りはただ静かで、なんの気配もなく、足元は固くもなくやわらかくもない。ずぶりと見えない砂に足首が埋まるような、そんな恐怖がかすかにあった。
 レークは重りのついたような足を動かして、少しずつ前に進んだ。
(なんとなく、だが……)
 この先になにかがあると、確信めいたものを感じる。
(くそ、いらいらするぜ)
 足が思うように動かない。まるで空気そのものが、弾力のあるゼリーでもあるように、ぬっとりと重いような気さえする。
(夢ならいっそ、このまま飛ぶように運んでくれ)
 歩こうとしてもがくのをやめ、そう念じてみると、不思議なことに空気が変化した。
 暗闇の中で霧に包まれていた辺りは、にわかに明るくなったようだった。といっても光が差したのではなく、ただ暗黒の闇が消えて、そこに霧だけが残ったという感じであった。
 そして、その霧が少しずつ薄らいでいた。
(……)
 レークは目を凝らした。そこになにかが見えると念じると、確かになにかが見え始めた。
(ここは、どこだ……)
 視界の中でうっすらと見え始めたものは、やがてなにかの形をとりはじめていた。
 それは高い石柱だった。何本もの石柱が頭上高くそびえ……
 それが整然と並び、奥の暗がりへと続いている。
 どうやら、ここは建物の中らしい。
 そう感じると、また不思議なことに、さきほどまで歩きにくかった地面は固くなり、そこが石の床であることが認知できた。ねっとりとした生暖かいような風の代りに、今度はひんやりとした空気が彼を包んでいた。
(……ここは)
 どことなくだが、見覚えがあるような気がした。だが、それでいてまったく来たことのない場所であることもまた、はっきりと分かっていた。
(どうも神殿、みたいなところだな)
 なるほど、空気にはどこか厳かな静寂感があり、それは、両側に円柱が立ち並ぶこの回廊……か分からない場所を先へ進むごとに、しだいに強くなってくるような気がした。
 足音はまったく響かない。ふとレークは、自分が裸足であることに気づいた。
(……)
 一歩ずつ歩を進めると、その度に、両側の円柱がまるで自動的に後方へと流れてゆくような奇妙な感じがした。それはまるで、足は動かしてはいても、実際には、床の上をすべるようにして進んでいるというふうでもあった。
 どこかで水音が聞こえた。
 と思うと、その水音はすぐ近くで聞こえ、それはすぐに流水のような、川の水音のような永続的な響きとなった。
 足元を見ると、驚いたことに、さきほどまで見えなかった水路が床の上にできていた。それはごく幅の小さな水路で、ゆるやかな水の流れが暗がりのずっと先まで続いていた。
(これに沿って行けってことか……)
 なにかが自分を導いている……
 あるいは、誰かが……そんな気がした。
 ひどく得体のしれぬ恐ろしさはあったが、この先になにがあるのかを知らないままでは目覚められないと……そんな気分でもあった。
 水の流れは、レークをいざなうように、耳心地のいいやわらかな音を立てながら、どこまでも続いてゆくようだった。薄暗いはずなのに、水面はまるで宝石のようにきらきらと輝いて見え、そこだけは光の筋となって奥まった闇へと伸びてゆく。
(ここは、もしかしたら……)
 なにかの予感があったというよりは、気配の起こるその予兆が、かすかにだが感じ取れた……といった方がいいだろうか。
 辺りが、しだいに変容を始めていた。
 まるで、さっきまでの同じ光景が、いったん知らぬ間にどろどろに溶けてなくなり、それがまた寄り集まって、さっきと同じ……だが、ごくわずかに異なる空間を、新たに作り出したとでもいうような。
 レークは耳を澄ませた。
 水音がはたと消えていた。
 見ると、さっきまで確かに水路であったものが、まったく別のものに変わっていた。
 それは……
(おお、これは……)
 きらきらと、光り輝く石たち……
 まるで、洞窟の中で光を放つような、美しい石の結晶。
(これは、水晶……か)
 うっすらとした青紫に輝く、半透明の石の結晶……
 それは天然の水晶であった。
 石の床から生えだしたかのようなそれらの石の結晶は、まっすぐに連なって、神殿の奥へと列をなして続いていた。
(……)
 その輝きに引き寄せられるように、レークはさらに歩を進めた。
 立ち並ぶ石柱と、うっすらと妖しい光りを放つ水晶の列は、いったいどこまで続いているのか、暗がりの先でいったん途切れたと思うと、また連なっては現れてくる。
(どこまで続くんだ……)
 このまま、もう二度と帰れないのではないかという恐ろしさはあった。ただ、もういまさら引き返すことはできない……何故かそんな気がした。
(なにがあるのか、見届けてやる)
 そう強く念じながら、レークは歩き続けた。
 そうして、これが夢か現実なのか分からぬまま、無限にも思えるほどの時間の中で、さすがに疲れたような気分が生まれ始めたころ。
 唐突に、目の前に闇が広がった。
 いや、そうではなく、よくよく見るとそれは壁であった。前は行き止まりになっていた。
(ここは……)
 ついにどこかの終点に辿り着いたのだろうか。
 行き止まりの壁に近づいてゆくと、そこには巨大な絵画が飾られていた。
(不思議な絵だ……)
 それは、どこかの王国の風景らしくで、光り輝くような幻想的な城を中央に、その周囲には奇妙な形の尖塔や建物などがたくさん描かれている。それはまったく見たこともない、物語の中のような不思議な風景画であった。
 その絵をよく見ようと近づいたとき。
(……ようこそ。お待ちしていた)
 どこかから声が聞こえた。
 男のものとも女のものともつかぬ、それでいて透明な、美しい声……
 それは、実際の声というよりは、意識の中に直接投げかけて来るような感覚だった。
(誰だ……どこにいる)
(あなたの目の前に)
 心の中で念じた言葉を聞いたように、声が答えた。
 するとそこに、まるで壁の絵画の中から抜け出してきたかのように、人影が現れていた。
(お前は、誰だ)
 長い漆黒の髪を垂らした、ほっそりとした女が、ゆらりと壁の前に立っている。
(私は、私、ですよ)
 かすかな嘲笑を含んだ響き。真っ赤な唇がにっと横に広がる。
 不思議なことに、しだいに女の姿は、はっきりとその輪郭を持ち始めてゆくようだった。すらりと細い体に、透けるような薄物をまとって、首もとにいくつものきらきらとした首飾りをした、それはたとえようもない美しい女である。
(お前は……)
 レークはその相手にじっと目を凝らした。
 肌は真っ白で、まるでこの暗がりの中にいても、まぶしいくらいに白く見える。切れ長の目と長い睫毛、細い鼻筋、薄い唇……どこか冷酷そうな、それでいて、穏やかな気品のようなものも感じられる。
(どこかで会ったような気がする)
(そう思うならそうでしょう。そうでないなら違うでしょう)
 頭の中に直接響いてくるような、静かに声が語りかける。
(ここは夢の中なのか。オレを呼んでいたのは、あんたなのか)
(ある意味ではそう。しかし、)
 女の目が静かにレークを見つめた。
(いわば、私を見つけたのはあなたの方なのですよ)
(なんだと。それはどういう……)
 気づかぬうちに女はレークの目の前に立っていた。いつ歩いたとも分からなかったが、存在の気配も感じさせないのは、ここが夢の中だからなのか。それとも……
 しかし、ともかく女はそこにいた。
 しっとりした黒髪で顔の両側を半ば隠し、さえざえとした月のように、白い肌を半ばあらわにした服装で、女はそこにいた。いや、これだけ近くに来ても、はたしてそれが本当に女なのかどうかは断定できなかった。ほっそりとした体に女性らしい膨らみはどこにもなく、なにもかもがすらりとしていて、そして、どことなく、ふっと消えてなくなりそうなはかなさがあった。 
(水晶……)
 女の声が、耳元で響いた。
(水晶の剣と、それを手にするものたち)
(なに?)
 レークは思わず、ぶるっと体を震わせた。
(水晶剣のことを知っているのか。お前は……何者なんだ)
(引き寄せ合う力、魔力の源、増幅される思念、意識し合う魂、それがときに力となり、魔力と呼ばれるものとつながる)
(なにを、言っている)
(いずれ分かるでしょう。あなたにも、あの金髪の相棒にも)
(それは、アレンのことか)
(水晶の剣を探すもの。それを手にしたもの。いずれは出会い、思念が重なり、反発し、また融合する。そのときに、あらたな世界が開ける、開ける……)
(……)
 女の声は低く、それは静かですらあったが、神殿の四方に反響して、頭の中でいんいんと繰り返されるようだった。
(水晶剣はどこにある?お前はそれを知っているのか)
(もうあなたは知っている)
(なんだと。それは……)
(魔力の出会いは世界に影響を及ぼす。そしてもう及ぼしている。変わってゆく。世界も、人間も……)
 女の額にある透明な宝石が、うっすらと輝き出した。そんなふうに見えた。
(夢の回廊ですらも影響を受ける。私たちの水晶の短剣ですら、これだけ引き寄せ合うのだから)
(水晶の短剣……ああ、アドから受け取ったやつか)
(それに私たち、といったな。では、あんたもそれを持っているというのか。あんたは、誰なんだ)
(知っておりましょう。またすぐに……出会うことを)
 女の輪郭がまた薄れ始めていた。
(また、すぐに……)
 壁の向こうに溶け込むように、女の体が消えるように薄れてゆく。
 そしてまた、この神殿自体も、それがすべて幻であったとばかりに溶け始めていた。
(うわっ……うわああ)
 色が溶ける。空間そのものが溶ける。何もかもが溶けてゆく。
 その恐怖に、たまらずレークは叫び声をあげた。だが、それもねっとりと包み込むように空気に吸収されて、体中の感覚という感覚が消えてゆくような、そんな消滅のイメージが広がっていった。
 輝いていた水晶の結晶は消え、辺りは闇に包まれた。
 足元の固い床がなくなり、おぼつかない恐ろしい浮遊感とともに……落下が始まる。予感がした。
(あああああ)
 レークは落ちた。
 自分の叫び声だけが、世界中に響きわたり、反響し、また自分に返ってくる。
 暗黒への落下。どこまでも続く、終わりのない落下の感覚……
 夢の中で、彼は再び意識を消失させた。

「いてっ」
 寝台から転げ落ちた。
 ちょっとした背中の痛みとともに目を開くと、そこは壁に囲まれた部屋だった。
「……」
 レークははじめ、自分がどこにいるのか分からなかった。だが、そこがもといた塔の一室だと知り、ほっと息をついた。
「そうか……ここはセルムラードのドレーヴェだった」
 明かり取り窓からは、まぶしすぎない光がぼんやりと部屋に射し込んでいる。太陽はようやく西に傾きだした時分であるようだった。
 この国に到着したのが早朝だったのだから、ひと眠りしてもまだ夕刻にもならない時間なのだろう。扉の前には、女官が用意してくれたに違いない水差しが置かれていた。冷たく清涼な水で喉をうるおすと、気分をすっきりさせてくれた。
「なんだか、妙な夢を見たようだったが……」
 覚えているのは、妖しい暗がりの神殿のような場所……そして、誰かの声。
「あれは、いったいなんだったんだ……」
 本当にただの夢だったのか。それとも、
 寝台に腰掛けてしばらく考え込んでいると、ノックとともに扉が開かれた。
「やあ」
 そこに立っていたのは、銀色の髪の女騎士姿……遊撃隊の女騎士、リジェであった。
「あんたがここで休んでいると聞いてさ。そろそろ起きた頃かと思って」
「ああ、ちょうどいま起きたところだけどな。なんだか変な夢を見て」
「ふふ、夢か。私もよく見るよ。このドレーヴェは神々の山に囲まれているからね、少しでも霊力のある人間は、夢の回廊を歩き回れるのさ」
 そう言う彼女の姿は、いままさに剣の稽古でも終えて来たようで、土に汚れた胴着を着て、むき出しの足には擦り傷がいくつもある。とても野性的な剣士といった様子である。
「なるほど。あんたは夢の中でも剣を振り回していそうだな」
「あはは。そうかもね」
 リジェは笑った。無造作に束ねた銀色の髪を揺らして豪快に笑う、そんな彼女につられて、レークも思わず笑いをもらした。
「ねえ。ところで、あんたを呼びに来たんだよ」
「オレを?」
「そう。隊のみんながあんたの剣の腕を見たいってさ。だって、あのトレミリアの剣技大会で優勝した剣士なんだもの当然さ」
「まあ、いいけどよ……」
「じゃあ、早く行こう」
 リジェに腕をつかまれると、ふっといい香りがした。白い胸元が間近に見えて、レークは思わず顔を赤くした。
「おい、ちょっと待て。ちゃんと服を着るから」
「ああ、そうか。そうだね」
 レークが服を着替え、身支度をはじめると、女騎士は少し照れたように横を向いた。
「夕方からはさ、あんたらを歓迎して女王陛下の広間で晩餐会があるみたいだよ」
「それはありがてえ。なんだかんだですっかり腹が減ったからな、いくらでも食べられそうだ。さて、これでよしと」
「じゃあ行こう」
 支度を終えたレークの腕をとり、リジェはにっこりと微笑んだ。
 部屋の外に出ると、ちょうど向かいの部屋から、クリミナが出てきたところだった。
「よ、よう」
 二人は顔を見合わせると、挨拶ともいえぬようななかなか曖昧な感じで、気まずく黙り込んだ。
「私たちはこれから剣の手合わせをするんだ。よかったら、あなたもどうかしら」
 リジェの言葉に、クリミナはなにか言いたそうにしたが、そのまま首を振った。
「私は……けっこうです」
「そう。では行こう。レーク」
「あ、ああ……」
 引っ張られるように歩きだしたレークが振り返ると、恐ろしく冷たいクリミナの目が一瞬こちらを見た気がした。

 橋を渡って、池ぞいの遊歩道を歩いてゆくと、柵に囲まれた広場が見えてきた。
 その向こうには白い壁の建物があり、それが遊撃隊の宿舎だった。女王の城にこれほど近いのは、有事の際には真っ先に駆けつけて戦い、城を守るのが第一の役割だからだと、リジェは誇らしげに言った。
 練習場であるその広場に近づくにつれ、剣の響きにまじって勇ましい掛け声が聞こえてきた。それがすべて女性たちの声であることに、レークはちょっとした新鮮さを覚えた。
「うちの騎士長さんも女だけど、その他には女の騎士はいないからな。あんたらはみんな女だってんだから、そりゃあ驚きだよ」
「ふふ。女だからって甘く見ると、痛い目に会うからね。気をつけなよ」
「ほっ、怖いねえ」
 二人が広場に入ってゆくと、女騎士たちはさっと稽古の手を止め直立した。
「みんな、ご苦労。今日の午後の稽古はここまでだ。集合!」
 リジェがそう告げると、五十人以上はいるだろう広場に散らばった女騎士たちが、一斉にこちらに走り寄ってきて、ぴたりと整列した。
「へええ、よく訓練されているねえ」
 レークは感心しながら、居並んだ女騎士たちを見回した。みな女性にしては大柄で、セルムラード特有の白い肌をした美人であった。リジェと同じように、手足をむき出しにした野性的な格好で、剣を手にした彼女たちが並ぶ様は、なんとも魅惑的であった。
「こちらにいるのは、トレミリアの騎士、レークどのだ。あのフェスーンで行われた大剣技会で、名だたる騎士たちを打ち負かし、見事優勝した、剣の達人である」
「へへ、照れるね……どうも」
 リジェからの紹介で女騎士たちの視線を一身に受けて、レークは頭を掻いた。
「そこで、レークどのの妙技をこの目で見られるいい機会。これより剣の模擬試合を行いたいと思う」
 並んだ女騎士たちから歓声と拍手があがった。
「ねえ、リジェ姉。最初は私にやらせてよ。そいつがそんなに強いっていうんならさ」
 進み出たのは、リジェとともに町の外で会った隊にいた女騎士だった。薄い金色をした長い髪に、透き通った青い目の美人である。女性にしては体格もなかなか逞しく、腰に下げた剣は男顔負けの長剣であった。
「ガーシャか、いいだろう」
「やったね」
「ガーシャは、いまのところうちのナンバー2だからね。いくらトレミリアの優勝騎士でも、油断すると痛い目に合うよ」
「そいつは楽しみなこった」
 他の女騎士たちが二人の周りを取り囲み、大きな輪を作った。試合のときのお決まりなのだろう。
「レークどの、鎧はつけないのか?」
「いらねえよ。そんなもん」
「しかし、客人に怪我をさせるわけには」
 リジェに向かってにやりとする。
「なあに。そのときはそのとき。かすり傷くらいならどうってことねえ」
「かすり傷じゃすまないかもしれないよ」
 すらりと剣を抜いたガーシャが言った。
「ほっ、なかなかいい剣だな。それを使いこなすんなら、けっこうやるんだろうな」
「じゃあ、いいかい。二人とも。これは模擬試合だからね。相手を傷つけるのが目的じゃない。頭部や急所への無理な攻撃はしないこと。どちらかが剣を取り落とすか、降参するか、または私が止めるかで勝負ありだ」
 審判役をつとめるリジェが、向かい合う二人に言った。
「では、始め!」
 掛け声とともに、ガーシャは両手に剣を構えた。左足を前に出した半身の体勢だ。じりじりと足場を移動しながら、慎重にこちらの動きを窺うかまえだ。
 だが、レークは腰の剣に手をかけながら、まったく動かなかった。
「何故、剣を抜かない?」
「おかまいなく。かかってきなよ」
 にやりと笑ったレークに、ガーシャは眉を吊り上げた。
「ガーシャ、やっちまいなよ!」
「あんたの腕を見せてやれ!」
 周りをとり囲む仲間の女騎士たちがけしかける。
 しかし、まだガーシャは動かなかった。剣を何度も握り直しながら、ときおり飛び込んでゆくそぶりを見せつつ、またそこに踏みとどまる。
「どうしたんだ。いつものガーシャなら、手の早い攻撃で相手を圧倒しちまうのに」
「本当、さっきから全然動かない」
「いや、動けないのさ」
 二人の戦いを近くで見守るリジェがつぶやくように言った。
「隙を見つけて仕掛けることができないんだ。相手の動きが読めないから……」
 二人の間合いから、恐ろしい緊張感が立ち上ってくるようだった。
 こわばったガーシャの表情からは、試合前の余裕はもう消えていた。その額にはじっとりと汗がにじみ、激しく戦っているわけでもないのに息を荒くしている。
「ガーシャ、ガーシャ!」
 仲間達が応援の声を上げ、手を叩き始めた。
 それを聞いてか、じりじりと半円を描いて間合いを計っていたガーシャが、ぎゅっと剣を握り直した。
 そして、
 「やっ」と、掛け声もろとも、素早く飛び込んだ。
 ガッ
 剣が合わさる音が響いた。
 と思うと、
「ああっ」
 息をのむ女騎士たちの前で、空中に舞った剣が地面に刺さっていた。
「な、なに……」
 腕を押さえて呆然と立ち尽くすのはガーシャだった。
「ガーシャの剣が……」
「なにが……起こったんだ」
 ざわめきに包まれる女騎士の輪の中で、レークは無言で剣を鞘に戻した。
「それまで。レークどのの勝ちだ」
 勝敗を告げるリジェの声に我に帰ったように、ガーシャがつぶやいた。
「早い……まるで見えなかった。私の剣をかわしたまでは分かったけど……」
「やあ、おつかれさん。なに、あんたもなかなかたいしたもんだよ」
 レークはにやりと笑って手を差し出した。
「むやみに打ち込んで来ないのは、一撃に自信があるからだろう。それもなかなか強力な突きだな。たいていのやつならあの一撃で死んでる」
「私の……負けだ」
 悔しそうにレークの手を握ると、ガーシャは自分の剣を拾った。
「さすがだね」
 そばにきたリジェがレークの耳元に囁いた。
「ガーシャの剣を横にかわしながら、低い体勢で抜いた剣で、そのまま下から相手の剣をはね上げるとは……並の早さじゃない」
「どうもありがとさん」
 飄々としたレークの様子に憤慨したように、女騎士たちから次々に声が上がった。
「隊長、次は私にやらせてください」
「いや、私に」
「みんな、お黙り!」
 仲間たちを制して、リジェは言った。
「レークどのには失礼をした。ガーシャでもまったく相手にしない強さ……おそらく、他のものたちが次々に試合をしても、誰も勝てるものはいないだろう」
「そいじゃ、お稽古はおしまいにしますかい?」
 背中を向けようとしたレークを、リジェが呼び止めた。
「待たれよ。私が、相手をしよう」
 銀色の髪をぎゅっと束ね直すと、彼女はじっとこちらを見つめた。
「どうかな?」
「いいだろう」
「よし。ではネル、審判を頼む」
「はい」
「おお、リジェ姉が自ら……」
「隊長が試合をするのは久しぶりだ」
 周りを囲んだ女騎士たちが、息をのんで二人を見つめる。
「レークどの、鎧は?」
「ふむ。じゃあ、革手袋だけもらおうか。それで充分だ」
 受け取った手袋をつけると、レークは剣を引き抜き、邪魔になる鞘を腰から外し投げ捨てた。隊長であるリジェの実力は相当のものとふんだのだ。
「ところで、アドとあんたはどっちが強いんだい?」
「さあ、ちゃんと比べたことはない。試合ではいつも私が勝っていたが、あの子は人一倍隊長の私に気をつかうからね」
「なるほど」
 レークは相手の手にする剣を見た。それはアドが使っていたのと同じ、剣刃が湾曲したシミターであった。
「アドに曲刀を教えたのは私だよ」
「そいつは……あんたの実力も想像できるってもんだな」
 曲刀を両手に持ち替え、それぞれの手で軽く振ると、彼女はそれを左手に構えた。
「左利きか」
「さあね」
 レークは、珍しくまともに剣を構えると、ふっと息を吐いた。もしもそばにアレンでもいれば、相棒がこんなに真面目に剣を構えるのは、かつてないことだと思ったろう。
「いいですか。では、始め!」
 合図とともに、二人はぱっと間合いをとった。
 間髪を入れずにリジェが打ちかかってきた。
 カッ、カシッ、
 剣と剣が軽やかにぶつかり合う。
 ためらいなく次々に繰り出される攻撃を、レークはかろうじて剣で受けとめた。
「くっ、やるね。さすが隊長さん」
「そちらも。私の攻撃を全部受け止めたのは、これまで誰もいなかった」
 まるで戦いのモードに入った戦士のように、彼女は涼やかな顔で剣を構え直すと、再び間合いに飛び込んできた。
 カッ、カカッ、
 剣がかするような響きがいくつも重なり、見ているものが瞬きをする間に、もう次の攻撃が行われている。リジェの剣さばきは、力強さよりも、その素早さ、舞のような美しさにおいて、確かにかつて見たアドの戦いを思い出させるものだった。
「くっ」
 上下左右から、まるでムチのようにしなった剣先が飛んで来る。それを一瞬の感覚で受け止め、あるいはかわしてゆくのは、レークでなければ至難の技だったろう。
(こいつは……へたすると、アレンのレイピアより早いかもな)
 ほとんどこちらに攻撃する暇を与えない。それだけリジェの繰り出す剣は素早かった。それが力づくの打ち込みではなく、舞いながら空気を切り裂くような軽やかなものであることも、体力的な負担のない理に適った攻撃だった。
(このままじゃ埒があかねえ)
 一か八か、思い切って懐に飛び込むか、それとも……
 レークが一瞬決断を迷ったとき。
 予想もしない角度から、リジェの曲刀がしなるように飛び込んできた。
 かろうじて身を反らしてかわしたが、鋭い剣先がレークの胴着を切り裂いていた。
「うおっ」
 きらりと光るものが胴着の懐からこぼれ落ちた。
 レークは無意識にそれを左手でつかんだ。アドからもらったあの短剣だ。鞘が外れ、剣先があらわになっていた。
 柄に埋められた宝石が妖しくきらめくと、その輝きが短剣全体を包み込んだ。
 そして、レークの中に不思議な感覚が沸き起こった。
「なんだ……?」
 リジェの曲刀の次の動きが見えた。
 とっさにそれを剣で受け止めると、レークはそのまま攻撃を仕掛けた。
「なにっ」
 驚いたようにリジェが飛びすさる。
(いまのは、いったい……)
 右手に長剣、左手に短剣を握って、レークも驚きに立ち尽くしていた。自分がいま、いったいどうやって動いたのか、自分自身にもよく分からなかった。
(こんな感覚は、初めてだぜ……)
「やるな。さすがに」
 気を取り直したようにリジェは再び剣を構えると、同じようにして打ちかかってきた。
(おお、見える……相手の次の動きが)
 目を見開くと、レークは軽々とリジェの剣をかわした。
 剣を受ける前から、相手の攻撃がどの角度でくるのかが分かる。それは不思議な感覚だった。まるで、予測した通りに相手が剣を出してくるのだ。
(なんだかしらねえが、こいつはいいや)
 相手の剣の軌道に合わせて体を動かせば、剣を受けると同時にすぐに攻撃につなげられる。こんなに楽なことはなかった。
(もしかして、オレは本当に天才だったのか……)
 続けて剣を合わせるうちに、しだいに、戦いの優劣は逆転していた。
 リジェの息が上がり始めた。的確なはずの攻撃はすべて簡単にはじき返され、それと同時に相手からの攻撃を受けるのだから、疲れは二倍になる。
 攻撃の手数が落ちれば、体力に勝るレークが圧倒的に有利だった。早さでは同等であっても、剣の重さではやはり差があった。強力な打ち込みを、彼女はなんとか剣で受けとめていたが、それにも限界があった。
「うっ」
 ついにレークの一撃が、リジェの曲刀を地面に叩き落とした。
「それまで、勝負あり」
「くそ……」
 しびれた右腕を押さえて、彼女は悔しそうに唇をかんだ。 
「私の負けだな。さすが、レークどの」
「いや、あんたも、たいした腕前だぜ。さすが女だてらに騎士の隊長をやってるだけのことはある」
 二人は握手を交わした。
「それは、アドの短剣だな」
「あ、ああ……」
 手にしていた短剣を鞘に収めると、もうさっきまでの輝きは消えていた。
(この短剣を手にしたとたん、なにもかもが見えた)
(そう……相手の動きも、次に来る剣の軌道も……そして、負けることなどありえないっていう自信が、腹の底から沸き起こって来るような、そんな気がした)
 さきほどの不思議な感覚が、あるいはすべてこの短剣の力だったのか……レークにはいまひとつ信じかねるような気がしていた。
(こいつが……魔力なんだとしたら)
 短剣の宝石をじっと見つめていると、そばに来たリジェが肩を寄せてきてた。
「ねえ、あんたはアドが……あの子が好きなのかい?」
「ああ?いや……そうじゃなくて。この剣がさ。不思議だと思ってな」
「ふうん。それはエルセイナ様からもらった剣だって、あの子が自慢げに言っていたよ」
「エルセイナ……あの宰相か」
「ねえ、それより」
 耳元に吐息を感じ、横を向いたとたん、
「おっ」
 やわらかな感触が唇をふさいでいた。
「わっ。リジェ姉、やるう」
 女騎士たちから、きゃあきゃあと嬌声が上がる。
「お、おい……」
「ふふ。祝福のキスってとこさ」
 少し頬を染めたリジェが、銀色の髪をかき上げてくすりと笑った。
 
 黄昏に移りゆく紫の空を背景にして、水の上に浮かぶ女王の城が、その優美なシルエットを幻想的に浮かび上がらせる。アヴァリスの嘆きと、そう人々に呼ばれるところの西の残照……それに照らされた雲が、ゆるやかに色合いを変えてゆくのを見つめるひととき。この空中都市ドレーヴェで見るその空は、どこよりも美しく、そしてはかないと、吟遊詩人は歌うことだろう。
 夕日を受けてきらきらと輝く水面と、空にそびえる城の高く伸びた影……そこに森の王国の女王が住まうことが、いっそう神秘的な物語を見るものに想像させる。まるで、太古から続くという伝説の都市国家、エルブガンドのように、ゆったりと流れる時の中で、世界の興亡を静かに見守ってきたかのような、そんな蕩々とした、浮世離れした悠久のときを思わせるような空気が、確かにこの王国には存在していた。
 その女王の城の広間では、二人の客人のための晩餐会の用意が整えられていた。といっても、正規の国賓ということでもない、いわば密使のような二人であったから、それは国民に告知するような大々的なものではなく、にぎやかすぎないごく小さな歓迎の晩餐であった。しかしもちろん、女王主催の名に恥じぬよう、広間のテーブルに運ばれてくる料理はどれも見事なものであったし、とくにセルムラードの特産でもある芳醇なワインは、たっぷりと樽ごと用意された。
 広間の上座には、女王をはじめ、客人であるレークとクリミナ、それと何人かの貴族が座り、その他のテーブルにはドレーヴェの都市貴族や、騎士たちなどが座していた。遊撃隊の隊長であるリジェも、おそらく隊を代表しているのだろう、騎士の正装姿で端のテーブルに座っていた。彼女はレークと目が合うと、にこりと笑って片目を閉じてみせた。それが目に入ってかどうか、レークの横に座るクリミナは、無表情で口を引き結んでいる。
 銀色の髪を美しく結い上げ、ゆったりとした紫色のドレスに身を包んだ女王が立ち上がると、広間の人々から拍手が起こった。
「このたびは、はるばるトレミリアからお越しくださったお二人のために、ささやかですが歓迎の晩餐を用意しました。我がセルムラードの友人として、これからも変わらぬ友情を信じ、お互いに育みたいと願っています。平和と友情、そして愛に」
 女王が杯を上げると、人々もそれに習って唱和した。
「平和と友情、愛に!」
 ワインを飲み干したレークは、待ちきれぬとばかりに料理に手を付けた。
 豊かな森のドングリをたっぷり食べて育ったブタの丸焼きに、女騎士たちが狩猟でとってきたという鹿の焼肉、そしてこのドレーヴェの周囲の森でしかとれないという、クフィンと呼ばれる独特のキノコを使った料理など。トレミリアの手の込んだ料理に比べればこちらは自然味のある、風土の豊かさを思わせる素朴な味わいに、健啖をもって知られる彼は喜んでそれらを食した。
「おおっ、うめえ!この野趣あふれる鹿肉の味わいはどうだ。こっちのブタの焼き加減も絶妙だぜ。この甘辛いソースがまた……たまらん」
 豪快にナイフで肉を切り取り、それを口に放り込む間にも、左手はもう別の皿に伸びている。
「うほっ。こりゃあいい。はじめて食ったが、このキノコの美味いこと。なんてえか、すげえ濃厚で、このチーズのとろみと完璧なハーモニィを奏でていやがる」
 まるで食通気取りのセリフであったが、その少々……というか相当下品な食べっぷりには、同じテーブルにつく女王も驚いたようだった。
「気に入ってよかったです。それはクフィンといって、この国でしかとれないキノコなのですよ。とても貴重なもので、ちょうど今頃の時期にしかとれないのです」
「ほええ。そりゃ、来てよかったな。いや……です。こんな美味いキノコは生まれて初めてだ。これはたまげた。しかもワインによく合うこと。このワインも本当に最高!」
 女王はくすりと笑った。そうした自然な笑顔もまた美しい。基本的に素直な人柄であるのだろう。その点ではまったく気取らないレークの素直さに、微笑ましさを覚えたのかもしれない。
「いやあ、美味い。本当に美味いですぜ。女王陛下!」
「まあ、それはよかったこと」
 女王は可笑しそうにくすくすと笑っていたが、レークの横に座るクリミナは、いっそう恥ずかしそうに下を向くのだった。
「ああ、食った食った」
 口当たりのよいワインをしこたま飲み、料理をたらふく食いつくし、すっかりいい気分で、レークは部屋に戻ってきた。
 酔いが回ってからは、調子に乗って女王の前でまた馬鹿な話をして、クリミナに睨まれた記憶もあるが、もはや定かではない。そういえばあの女騎士のリジェからダンスを誘われて、ふらふらとしながらも愉快に踊ったことまではかろうじて覚えていた。
「ふあぁ……おやすみ」
 どさりと寝台に横たわり、目を閉じる。
 すると、そのまますうっと深い眠りに落ちるような、奇妙な感覚が襲ってきた。
 


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