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これまでのあらすじ

大国ジャリアによるウェルドスラーブへの進攻に際し、友国であるトレミリアから援軍部隊としてを出発したレーク、クリミナらであったが、
首都のレイスラーブに到着するや、国境の城がジャリア軍に包囲されているとの報を受ける。レークは志願して単身でスタンディノーブル城へ赴き、
黒竜王子率いるジャリア軍との激しい攻防戦のすえに辛くも城から脱出。クリミナと再会をはたすも、トレヴィザン提督より新たな使命を受け、
ともにアルディへと渡る。山賊との遭遇や、監獄からの脱出の果てに、都市国家トロスにて、革命の貴公子ウィルラースと面会を果たす。
そして、今度はウィルラースより大陸の窮地を救うためと、セルムラードの女王フィリアンに会うことを要請されるのだった。




 水晶剣伝説 Y セルムラードの女王


T

「じゃあな、クレイ坊や……あ、セリアスさまだっけな」
 別れの握手を交わすと、少年は泣きそうな顔をぐっとこらえて、けなげにうなずいた。
「元気でね。このいくさが終わったら、きっとまた会いにくるから」
 都市国家トロスの港……城壁内の人口池に停泊するガレー船の前で、クリミナはそっと少年を抱きしめると、その額に軽くキスをした。
「では、セリアスさま。いましばらくこのトロスにてお待ちください。近いうちに必ず……必ずや、このウィルラースがお迎えに参ります。そのときこそ、新たな時代が、幸せな時代がやってくることを、どうか信じていてください」
 ひざまずくウィルラース……革命の貴公子を前に、アルディ大公家の血を引く少年は、ただ黙ってうなずいた。彼にとって、革命やアルディという国の行く末について、それらがどれほどの大きな意味があるのかは、まだ理解の外であったにしろ、なにかが、大きななにかが起こり始めているのだということは、そのあどけない瞳をした十一歳の少年にも感じられていたのだろう。
 フサンド公王が仰々しく両手を広げ、少年に向かって礼をする。
「このトロスにいれば安全です。気に入られた侍女などがおりましたら、すぐにセリアス様付きにいたしましょう。お好きな食べ物も飲み物もふんだんにあります。街はどこもきれいで、人々はみな心優しい。どうか安心して、いつまででもここでお過ごしください」
 そこでレークはなにか余計なことを言いたくなったが、クリミナに腕をつねられてそれを我慢した。
 両側から美しい侍女たちに巨大な扇で風を送られながら、でっぷりと太った公王は、名残惜しそうにウィルラース卿の一行を見送る構えであった。
「セリアス様のことは、どうぞ安心しておまかせを。そして、いつでもこのトロスに帰ってきてください。ウィルラース卿がいなくなると、今日からトロスは華やかで神々しく美しい賓客を失ってしまう。おお、どうかきっとまたここに戻ってきてくださりますよう」
「ありがとうございます。嬉しいお言葉に、このウィルラース胸が熱くなります。もちろん、事をなした暁には、再びこの美しき都市に舞い戻り、公王はじめ、優美なこのトロスの方々と杯を交わしたく存じます」
 優雅なしぐさで胸に手を当て、騎士の礼をするウィルラースに、公王やその場にいた人々はみなうっとりとなった。
 ウェルドスラーブの首都であるレイスラーブが、ジャリア軍によって包囲されたという報を受けて、おそらく内心ではウィルラース自身が、一刻も早く出発したかったであろうが、そんな様子はおくびにも出さず、わざわざ別れのためのセレモニーを開いて彼を見送ろうという公王に対して、丁重に感謝の意を表す。
「さすがだねえ……」
 その優雅さに感心してレークはつぶやいた。 音楽が奏でられ、人々が別れの歌を歌いだすのを、船の前でややうんざりとして見つめていた彼である。
「オレだったら、とっくにいらいらとして、あのデブの公王を蹴飛ばしてでも出発しているところだが。あれが雅びな貴公子のふるまいってもんなんだなあ」
 それを聞いて、横にいるクリミナはくすくすと笑いだした。
「こういう古い格式を大切にする国では、別れや旅立ちの前には一緒に杯をかかげて、それを惜しみ、また再会を誓うというのがならわしなのよ。とくに、王族とか由緒ある貴族なんかは、そういう様式を重んじるようね」
「しかし、一刻を争うってときによ。優雅なもんだな」
「そうね。どうやらレークはこのトロスはあんまりお気に召さなかったようね」
「まあな」
 レークはそれを認めた。
「なんつうかね……とても豊かで清潔で、なにもかもが整っていて、人々は着飾って贅沢なものを食べて、笑いと歌が響いていて……楽園、そうだな、楽園そのもののような都市なんだが」
 緑の樹木が整然と植えられた歩廊の先にある、典雅な城に目をやりながら、彼は断固として言った。
「だが、オレはここが好きじゃない。それは何故かって、はっきりとは言えねえが、なんとなくここは、そう……時が止まっているような感じがする」
「そうね。それは私も感じる」
 強固な城壁に囲まれて、外の世界とは遮断された、小さな楽園の都市……誰もが幸せそうで、豪華な生活を営むことができる、豊かな都市国家。
 だがここは少なくとも、いまを生きている、彼らのとどまる場所ではなかった。
「なにか他にすべきことがある、ってな。少しの間でもこの都市いると、なんだかこう……もっと自分にはなにかすべきことがあるって、そんな気がしてくるんだ。正直いって、もう何日かここにいろって言われたら、オレはうんざりとして、一人で飛び出してゆきそうな気分だったぜ。ただ美味いものを食って、好きなだけ眠って、楽しく歌って暮らすのもいいかもしれねえが、」
 レークはにやりとして言った。
「オレには無理だな」

 ようやく別れの合唱曲が終わり、続いて最後の乾杯が行われた。ウィルラースは名残惜しげな公王と握手をすませると、しびれを切らしたように大股でこちらにやってきた。
「やあ、待たせたね。すぐに出発だ。さあ船へ!」
 かたわらにアドをともなった彼は、二人に告げると、これ以上は引き止められたくないというように、先頭に立ってガレー船へ乗り込んだ。顔を見合わせたレークとクリミナも、続いて船に乗る。
 公王から貸し与えられたガレー船は、さほど大きな船ではなかったが、臙脂色に塗られたその船体はじつに優雅で趣があった。船体後部には日除けのテントが張られ、その屋根となる真紅の布には、金糸による細密な刺繍がほどこされている。漕ぎ手であるトロスの船乗りたちは、おそろいの青いチュニックと縁無し帽をかぶり、居並ぶ彼らの姿は船体の赤と美しいコントラストをなしていた。
「これなら誰が見てもトロスのガレー船だと思うだろう。つまり、敵に見つかったとしても手出しはできない。たとえジャリアだろうが、アルディだろうがね。トロスに喧嘩を売るというのは、その向こうにあるアスカに反抗するのと同じことだと、誰でも知っているからね」
 船体後部の座席に腰を下ろしたウィルラースが言った。レークとクリミナも、今はこの船の賓客扱いでその隣に座っている。ウィルラースの横には、まるで影のようにひっそりと、銀髪の美女剣士、アドが付き従っていた。
 船を見送るフサンド公王が、桟橋からしきりにこちらに手を振っている。ウィルラースはそれににこやかに手を振り返しつつ、 
「やれやれ、やっと出航できそうだ。本当は、私だって面倒な儀式や挨拶はまっぴらなんだよ。ただ、幼いころからの訓練で、それを我慢してこなすことができるというだけで」
 そのつぶやきは、横にいるアドとレーク、クリミナにしか聞こえなかった。少し離れて立っているこの船の船長は、トロスの人間なのだろう。
 ウィルラースが船長にうなずきかけると、船長は出航の合図を出した。よく訓練された船乗りたちが、一斉にオールを船尾に押し出してゆく。船はゆるやかに動きだした。
「ウィルラースさま、お飲み物をお持ちしましょうか?」
 かたわらに立つアドが、侍女のようなしとやかさで主に伺いを立てる。彼女は今は、女性らしい青い長スカート姿で、その美しい銀色の髪を束ねて後ろに垂らしている。そのほっそりとした体つきと、穏やかな言葉づかいからは、監獄にいるレークを助け、馬に乗っていさましく敵を蹴散らしたときの彼女などは、まるで想像もつかない。
「いや、私はいいよ。ではこちらのお二人に、お酒を……いや船酔いしてしまうかな。そうだな、なにかお茶でももってきて」
「かしこまりました」
 銀色の髪を揺らせてアドが船内へ入ってゆく。それを見送りながらレークは言った。
「なんだか、優雅なこったな。レイスラーブではさ、今も激しい戦いの最中だろうに」
「しかし、焦っても仕方がないさ。船はこれ以上は速く進まない。ともかく、すべてはそう、グレスゲートに着いてからだ」
 ウィルラースのその貴公子然とした美しい顔は穏やかそのもので、さすがにこれから革命を起こそうという人物だけあって、なかなか肝の据わった落ち着きようであった。
「ところで、」
 クリミナが口を開いた。
「セルムラードにゆくのはよいとして、私たちなどがフィリアン女王に軽々しくお会いできるものでしょうか?」
「私たちなどって、少なくともあなたは、栄えあるトレミリアの宰相閣下のご息女なんでしょうに。それだけでも無下に扱われることはない」
「それは、そうかもしれませんが……」
「それに、レークどのにお渡ししたそのペンダント」
「ああ、これかい」
 レークは、エメラルドのはまった銀のペンダントを懐から取り出した。
「それがあれば、それを見せれば……女王にはすべて分かるはず」
「へえ。これはそんなたいそうな代物なのかい」
 美しいエメラルドを覗き込みながら、レークは訊いた。
「あんたと、フィリアン女王って、いったいどういう関係なんだい?」
 その無遠慮な質問にも、ウィルラース怒るでもなく、ふっと笑いを見せた。
「ははは。君のそういう率直なところは、私は好きだねえ。たとえ少々無礼であっても、そのまっすぐな性格はきっと、君の武器にもなるのだろうな」
「はあ。そりゃどうも」
「ともかく、まずはセルムラードに入り、首都のドレーヴェを目指すことだ。その先の心配はそのあとですればいい」
「まあ、そりゃ……そうだがな」
 質問を上手くかわされたことに、レークはやや不満であったが、いかに不遜な彼とても、女王とのことについて、それ以上追求すべきではないようだと悟ったようである。
 船内のハッチからお茶の用意を手に、アドが現れた。
「どうぞ、はちみつ入りのハーブのお茶です」
「ありがとう、アド」
 お茶の注がれたカップに口をつけると、爽やかな香りと甘い風味が広がった。
「美味しいわ、とっても」
「レモングラスが入っています。疲れをとってくれますよ」
「アドはなんでもできるのね。剣も強いし、こういう女性らしいこともちゃんとできて、うらやましいわ」
 クリミナの言葉に、アドは嬉しそうに微笑んだ。
「それも、私の仕事ですから」
「いいねえ、ウィルラースさんは。こんなになんでもできる美人がいつもそばにいて」
 それに貴公子は笑ってうなずいたが、横で口を尖らせたのはクリミナだった。
「あら、なにもできなくて悪かったわね。どうせ、剣を振る以外には女らしいことはなにひとつできないですからね」
「べつに、そんなこと言ってねえだろう」
「あらそう。ならいいけど」
 頬を膨らませると、彼女はそのままつんと横を向いてしまった。
 ウェルドスラーブのトールコンから船に乗り込んだときには、夫婦を装っていたので、いかにも沿海の女性らしい服装に身を包んでいたが、今はトロスであつらえた男性ものの胴着に、くるぶしのところで止める足通しという簡素な格好であった。彼女自身、もともと派手だったり、ひらひらとした可愛らしい服というのは苦手でもあったし、なにより戦ったり馬に乗ったりする際には、スカートなどというものがいかに邪魔なものかということを、あの山賊に捕まってからの道中ですっかり思い知ったのであった。
 だがレークには、女らしい格好のクリミナがとても新鮮であったから、それが惜しいような気も少ししていた。ただ、今の彼女の男装の麗人めいた姿とて、似合っていないわけではなかったので、横を向いたクリミナをちらりと見つめては、あらためて彼女の美しさというものを密かに確かめるのであった。
「お二人はとても仲がいいんですね」
「そ、そんなことはないです」
 クリミナがすかさずアドに言葉を返す。
「でも、今日の朝の一件といい、同じ寝台で寝られるというのは、やっぱり……」
「ほう、そうだったのか」
「違います。ウィルラースさままで……そんな」
 顔を赤くしたクリミナは、ちらりと横目でレークを見た。
「まあ、仲が悪いよりはよい方がいい。なにせ大切な使命を帯びたお二人だからね」
 ウィルラースは、ぎこちなく黙った二人を見比べて、涼しげに微笑んだ。
「アド、やっぱり僕にもお茶を。それとラム酒を一滴垂らしてくれると嬉しいな」
「かしこまりました」
「さあ、あの岬を過ぎれば、もうデュプロス島が見えてきますよ。そうしたら、グレスゲートはもうすぐだ。それまでは、せいぜいのんびりしておきましょう。こうして三人でお茶を飲める機会なんて、もうないかもしれないからね」
 優雅なるアルディの革命貴族と、トレミリアの騎士たちとを乗せたガレー船は、巧みな漕ぎ手たちによる一糸乱れぬオールの動きによって、すべるように海上を進んでいった。

 グレスゲートには、ウィルラース帰還の報が伝えられていたのだろう、港の沖合にはパトロールのガレー船が何隻も行き交い、湾内にはすでに多くの船が集結していた。
 こちらのガレー船を見つけると、前方のパトロール船二隻がゆっくりと向きを変え、こちらと並走するようにして船首を並べてきた。近づくにつれ、その船上にいる騎士たちが、こちらに向かって胸に手を当て整列しているのが見える。彼らの主であるウィルラースへの敬意であろう。ガレー船のオールが一斉に立てられた。この船を両側から見守るような格好の二隻の間を抜けて、船は湾に向かって進んだ。
 湾の方から一艘のボートが近づいてくるのが見えると、ウィルラースは甲板に立ち上がった。
「さて、迎えも来たようだな」
 船長に身振りで速度を落とさせるように指示を出すと、
「私はここで降りる。君たちはこのまま、この船を使ってゆくがいいだろう。アングランドのマイエなり、あるいはその手前のパルドレールあたりで陸に上がるのもいい。それは君たちに任せる」
 ウィルラースは二人に向かって言った。
「ダーネルス海峡には近づかない方がいい。もうすでに海戦が始まっているようだから。ウェルドスラーブの海域を過ぎるまでは、なるべく沖合でやりすごすことだ。デュプロス島を迂回するルートをとるのもいい。このトロスのガレー船を攻撃してくることはないだろうが、用心に越したことはない。海上にある間は、この船は君たちが自由に指揮してかまわない。それは船長にも告げてあるからね」
「ああ、了解だ」
「君たちを陸に降ろしたあとは、この船はそのまま引き返してきてもらう。今はガレー船一隻たりともが貴重な戦力になるからね。なので、首尾よくセルムラードに入国してからは、君たちはあとはもう独自に行動することになる。なんなら、その足でトレミリアに帰国するのもいいだろう。ここに私の直筆の書簡がある。これをトレミリア王なり、レード将軍なりに見せれば、君たちのこれまでの働きぶりや、いくさの経緯についても理解してもらえるだろう。戦地であるウェルドスラーブを離れて帰国しては、国を背負う騎士としての責任放棄だとも思われかねないだろうから」
 ウィルラースはその書簡をクリミナに手渡した。先にレークに渡してあるセルムラードのフィリアン王女宛の書簡と区別するためだろう、こちらは青いリボンで綴じられていた。
「お気遣いありがとうございます。私としてもセルムラードへ赴いたあとは、いったんトレミリアに帰り、これまでのいくさの推移を報告するのがよいかと思っておりました。その後で、あらためてウェルドスラーブへ出発するか、あるいは……」
「そう、あるいは、トレミリア国内の防衛のため、新たな兵力を編成するか、ですな」
 予言者のようにウィルラースは先を言った。
「あまり、見通しのよい話ではないですが、レイスラーブが落ちるのはもう、今となっては時間の問題かもしれない。もちろん、我々は全力を尽くして、また同盟国として、新たなアルディを友としていただくため、トレヴィザン提督と合流し、最後までジャリアと戦うつもりではいますが。しかし、それと実際の予測とは別の話。先にも話しましたが、ジャリアの次の狙いは間違いなくトレミリア、そしてセルムラードです。実際にジャリア軍はロサリイト草原にすでに軍を集結させつつある。おそらくは次の戦場は決まっている」
「ロサリイト草原、だな」
 レークは低くつぶやいた。そこで戦う自分を想像するかのように、鋭い目をして拳を握りながら。
「なら、オレたちがセルムラードへ向かうことも、まんざらいくさから逃げることになるワケでもないな。セルムラード経由でトレミリアに出れば、ロサリイト草原の西側からジャリアを迎え撃てる」
「ふむ。おそらくはもう、トレミリアにもおおよその情報は伝わっているでしょうから、もうすでに大規模な軍の編成が行われている頃でしょうな。名高い大将軍レード公爵を筆頭に、ローリング騎士伯、ヒルギス騎士伯らがそれぞれの騎士団を率いるのでしょう。そこにレークどのが加われば、強力なジャリアの軍勢にもきっと対抗できるでしょう。さらに、セルムラードの援軍があれば……」
 ウィルラースは軽く首を振った。
「ともあれ、楽観的な予測よりは、常に最悪の状況も考えておかなくてはならない。それがいくさにおける正しい指揮のありかただ。さて、ボートが来たようだ。ではレークどの、クリミナどの、くれぐれもよろしくお願いする」
 二人の手をそれぞれ握りしめて、最後に彼は静かに言った。
「また生きて会える保証はないが、もし再会するときがあったら、あらためて杯を合わせましょう。それがいくさも終わり、平和に過ごせる近い未来であったら、なお素晴らしい。そのときには新しいアルディが、新しい国の形として世界に認められていることでしょう。それこそが私の望み」
 革命の貴公子の目が、未来を見つめるように細められる。
「二人の旅の無事を、そして使命を果たされることを、祈っています」
「ウィルラースさまも、どうかご無事で」
「ありがとう。美しいクリミナ姫。では、アド行こうか」
「はい」
 船の横にボートが着けられた。ガレー船は喫水が浅く甲板が海面に近いので、ボートへ乗り移るのはそう難儀ではない。ボートの上では迎えの騎士たちが、うやうやしくこちらに頭を下げている。
「じゃあ、この船は借りるぜ。それに、たくさん路銀ももらっちまって、すまねえな」
「なあに。その程度の金は、革命の成否に比べれば微々たるもの。いずれ出世払いで返していただくとしよう」
「オレは出世ってのには、あんまり興味はないんだがな」
「そのようだね。では、もしトレミリアの騎士をクビにでもなったら、私が君を雇おう。それならいいかな?」
「よくはありません」
 口をへの字にしているのクリミナに、ウィルラースはくすりと笑った。
「ははは。冗談さ。なにせこれほどの剣の使い手だからね。そうなったらトレミリアには大きな損失なんだろう。ねえ、クリミナ姫」
「それは、まあ……」
 なんとも言えず、クリミナは口ごもった。
「では、ごきげんよう。お互い壮健な姿で、また会おう。おおそうだ、アド。レークどのにお渡しするものがあるんだろう」
「はい」
 別れ際にアドが差し出したのは、あの水晶の短剣だった。
「これを、もってゆくといい」
「こいつを……オレに?」
「じつのところ、あの監獄にいるお前を見つけることができたのは、これのおかげだ。あるいは、すでに知っているのかもしれないが、これはある種の魔力をもった短剣で、それに呼応する媒介物を身につけているもの、あるいは、この剣の魔力に根本的に関わる類のものによく反応する」
「ああ……」
 アレンの持つ短剣の力をその目で見ていたレークであるので、それはよく知っていた。
(しかし、それにしても、水晶の短剣が他にもあるなんて……)
 アドから受け取った短剣は、軽く、柄の部分には細密な銀の細工がなされている。柄の先端には紫色の水晶がはまっていて、やはり形状もアレンの短剣と瓜二つであった。
(この女は……本当はいったいなにものなんだ?)
 短剣を手にして、レークはこの謎めいた銀髪の美女を見つめた。彼女は変わらぬ涼しげな目で、その視線を受け止めた。
「お前のその指輪だな。この剣に反応したのは」
 レークの指にある銀の指輪を見て、アドはふと眉を寄せた。
「なるほど。どうやら、お前と、その相棒という男は、ただの浪剣士ではないようだな」
「エルセイナさまなら、あるいは、もうすべてをご存じかもしれない」
 小さく囁かれた言葉を、レークが聞き返す間もなかった。
 銀の髪をなびかせて、彼女はさっと歩きだしていた。ボートからの渡し板を軽やかに渡ると、ウィルラースを助けるようにその手を引く。
「また会おう」
 ボートの上から美貌の貴公子がにこりと微笑んだ。
 これから命賭けの戦いに赴く人間にしては、あまりに優雅なその笑顔を、レークとクリミナはガレー船の甲板から見つめていた。
 船は離れてゆく。
 互いに与えられた使命と、その運命とに向かうように。
 ウィルラースの乗るボートが、グレスゲートの湾に集結する艦隊の中に消えてゆくのを見送ると、ガレー船は再び動きだした。
「船長のモーガンです。ウィルラースさまのご指示により、これよりお二人をセルムラードまで、あるいは、そこにゆくために近い陸地まで、お運びいたします」
 口髭をはやした、なかなか体格のいい壮年の船長は、いかにもトロスの人間らしい流暢さで二人に告げた。
「なにかご希望や、ご指示などありましたら、なんなりと申し出ていただけますよう。他国との戦闘への関与以外のことであれば、ご指示に従いますが。いかがいたしましょう。ウィルラースさまもおっしゃっていた通り、ここはサンバーラーンからの監視の網を逃れるためにも、いったんデュプロス島を南に迂回して、アルディ、ウェルドスラーブに近い海域を抜けるまでは、沖合を航行するというルートをとるのでは」
「ああ、そうだな」
 レークもクリミナも、船に関しては素人同然であったから、話し合うまでもなく、ここは船長の言う通りにした方がよいだろうとうなずき合った。
「では、そういうカンジで頼むよ」
「はあ。そういう感じ、ですか」
 レークは船長の肩をぽんと叩いた。
「なにしろ世界最強の都市国家、トロスのガレー船だからな。オレたちも大船に乗ったつもりでいられるってことさ」
「それはもちろん。しっかりとお二人をセルムラードへとお送りいたします!」
 使命感にいくぶん頬を紅潮させながら、船長は胸を張った。まずは褒めて人の気をよくさせるというやり方も、レークはこれまででずいぶんと学んでいたのだった。
 ガレー船は、右手にデュプロス島を見るようにして、ゆるやかに進路を南へとった。



「王子殿下がご到着されました!」
 報告を受けたジルト・ステイクは、炎と煙のたちこめる、レイスラーブの城壁を見上げると、即座に部下に命じた。
「よし。いったん投石と火矢を休止。その間にアーバレストの準備に入れ」
「はっ、了解しました!」
 ジャリア軍の遠征隊長であるジルトは、普段は青白いその細面の顔を、今はやや興奮気味に紅潮させていた。バーネイ、ディナブーリと、この数日の立て続けの連戦で、肉体的な疲労はあったが、ついにウェルドスラーブの首都を包囲したという高揚感が、それに勝っていた。
「殿下の天幕へ案内しろ。ご報告にゆく」
 彼は馬にまたがると、部下の数名の騎士とともにオールギアへと続いてゆく方角へ、街道を駆けだした。
 常に黒づくめの王子とは異なり、金銀の細工を随所に凝らした精巧な鎧をまとい、青いビロードのマントをなびかせたその姿は、見た目は雅びな貴族騎士のようであった。ただ、兜の中に光る目の冷たく酷薄な気配には、「血染めのジルト」として恐れられる彼の、獰猛な性分を覗かせていた。
 レイスラーブを半包囲するジャリア軍の陣営から、馬を走らせてしばらくの街道ぞいに、スタンディノーブル城から到着したばかりの王子一行の軍が陣を張っていた。数にして数百人程度の小部隊であったが、もとより王子は大軍よりも身軽な人数で移動するのを好む。
 黒竜の描かれた流旗をなびかせる、すぐにそれと分かる四十五人隊の旗本隊が守るのが王子の天幕である。馬を降りたジルトがそちらに近づいてゆくと、たとえどんなものでも例外はないというように、槍を手にした近衛兵が行く手をさえぎった。身につけた武器をいったん預けると、ジルトは王子の天幕の前に立った。
「王子殿下、ジルトであります」
「入れ」
 天幕の中から王子の声が聞こえた。
「失礼いたします」
 中に入ると、薄暗い天幕の中は、香がたかれているのか、ほのかに異国的な香りがした。兜をとったジルトが「おや」と眉をひそめたのは、そこに王子以外の人間の気配があったからだった。
「ご苦労。バーネイで別れて以来だな」
「は」
 頭を下げたジルトは、上目でちらりと天幕の奥に目をやった。
「あれから二十日あまりか。数日のズレはあったが、首都のレイスラーブまでおおむね予定通りの進攻だな」
 愛剣を立てかけた道具入れの上にゆったりと腰を下ろしたフェルス王子は、いくぶん愉快そうな様子であった。その手には銀の杯をもっている。酒を飲まないはずの王子であったが、
「これは、ハーブの冷茶だ。精神を落ち着かせる作用があるという。お前も飲むか」
「いえ。けっこうです」
 ジルトの目は、さっきから天幕の奥にひっそりと立っている女の方に向けられていた。黒髪を後ろでたばね、女官のような飾り気のないグレーのローブをまとっている。うつむいた顔は、なかなかの美人であったが、見かけない女だった。
「では現状を報告しろ」
「はっ。お借りしました五千の兵をもちまして、我が部隊はバーネイからディナブーリへ進軍、敵の意表を突く形で三日あまりでディナブーリを占拠いたしました。母国からの援軍到着を待ちまして、予定通りレイスラーブを目指して進軍を開始。最初の軍議の取り決め通り、王子殿下のおられるスタンディノーブル城の占拠の報を受けましてから、その一日後に進軍再開しました。その間、何度かの敵軍との小競り合いはありましたが、それらをすべて突破し、首都のレイスラーブへ敵を追い込みました。ここまでで、我が兵の損失は千人ほど。対してウェルドスラーブ軍には少なくとも三千以上の損害を与えたはずです」
「ふむ」
 王子がゆったりと銀の杯をかかげると、背後に控えた女がそっと寄ってきて、それに静かに茶を注いだ。
「……」
 ジルトはその様子を見ながら、報告を続けた。
「スタンディノーブルからのボンドス公の軍勢が、オールギアのウェルドスラーブ軍を押し込み、レイスラーブまで敗走させるのを待ちまして、我等も首都への攻撃を開始いたしました。こうして今日で三日目となりますが、現在、火矢と投石により、城壁の何カ所かを大きく破損させ、城門の一カ所を占拠しつつあります。またアルディ海軍の方はヴォルス内海にて、ウェルドスラーブ海軍との海戦に突入したようです」
「よかろう」
 王子はまた一口茶をすすると、満足げにうなずいた。
「ではこれより首都レイスラーブの包囲作戦に入るわけだな。海側と陸側から真綿で首を締めるようにして追い詰めてゆくことだ。敵兵が首都から逃げるようならそうさせてやれ。肝心なのはウェルドスラーブの首都を手中にすることだ。一緒にマクルーノを連れてきた。作戦参謀として使うがいい」
「了解しました」
「俺は作戦の開始を見届けたのちに、またスタンディノーブルへ戻る。五千ほどの予備兵をオールギアの近くに残しておくから、それらは自由に使うがいい」
「は。では、首都の陥落ののちは、殿下はすぐにロサリイト草原へ向かわれますか?」
「そうなるだろう」
 王子はにやりと笑った。
「捕虜や反乱の恐れのある敵の残兵の数次第で、レイスラーブに駐留する我が軍の数を決めることになるだろうが、その他の兵力はすべて、スタンディノーブル経由で草原に向かわせる」
「了解です。そうなると、いよいよですな」
 ジルトはそのつり上がった目の奥に、きらりと狡猾な光を覗かせた。
「ウェルドスラーブの首都を落とすとなると、私めの功績も、少しは歴史に名が残るということですな。レイスラーブの統治はどういたしますか?」
「好きにするがいい。ここまでの進軍の成果は、お前の率いる隊があってのもの。ボンドス公にもそう言っておくが、首都陥落ののちは、レイスラーブの統治はお前に一任する」
「ありがたき幸せ。では、これより三日でレイスラーブを落としてご覧にいれます」
 丁寧に一礼したジルトは、最後にやはり訊かずにはおれないというふうに、遠慮がちに尋ねた。
「ところで……殿下、そちらの女は、見慣れぬ顔ですが」
「ああ。これはスタンディノーブルで捕虜にした女だ。なかなか気に入ったので俺付きにしたのだが。それがどうかしたか」
「いえ。ただ、王子が気に入られる女とは。珍しいですな」
 またちらりと見ると、一瞬だけ女と目が合った。女はさっと顔を伏せたが、なかなか気性の座った女らしい。その顔には凛としたものがあり、こちらを恐れるような様子はない。
「なるほど、確かに……なかなかいい女のようですな」
「どうした。貴様も女が欲しいのなら、己で壊滅させた町にいくらでもいたろうに」
「そうですがね。今回は時間が第一でしたから、町での略奪はほとんどしていませんよ。それだけに兵たちもストレスがたまっています。せめて首都のレイスラーブでは二日間の略奪はお許しください」
「いいだろう。……エリス」
「はい」
 名を呼ばれた女は、王子にうながされて、ジルトのもとに杯を持ってきた。
「王子。私はハーブティーなどは飲みませんよ」
「そうだろう。しかし、それを受け取るがいい」
 女の手から銀の杯を手渡されたジルトは、それを見て思わず目を見開いた。
「王子…これは」
 杯の中にあったのは酒でも茶でもなく、そこにはワインのような濃密な色のルビー、それにサファイアなどの宝石がたっぷりと入っていた。
「どうだ。お前ならば飲みたくなるだろう」
「たしかに……」
「俺は宝石などには興味はない。スタンディノーブル城の宝物庫のものは、みな部下たちに配ってやった」
「さすが殿下。器がお広いですな」
 ジルトは、そばにきたエリスというその女を見た。黒髪をまっすぐに背に垂らし、うつむき加減で立っている姿には、さすがに占領された城の捕虜という境遇からか、悲しみのような翳りがあったが、それでも、おそらくもともとは気丈な女なのだろう。その瞳には絶望や怯えの光はなく、ただ静かに耐えているという風に見えた。
「王子殿下。もし……たとえば、この私めが、この女を所望いたしたら、褒美にいただけるのでしょうか?」
「……ふむ」
 王子はふと眉を寄せた。
「お前の真意が分からぬが。一目見ただけで、それほどこの女を気に入ったのか?」
「そうですな。そう申してよいかと」
「……」
 王子とジルトの視線が合わさった。
「この女、とても私好みであります。なかなか気も確かなようで、心根もしっかりしていそうですからな。それに、少し気が強いくらいの女が、私にはちょうどいい」
 いくぶん声を震わせ、ジルトは言った。王子の逆鱗に触れることは、死と同等であることをジャリアの騎士であれば、誰もが知っている。
 張りつめたような空気のあと、
「……なるほど。そうかもしれんな」
 つぶやいた王子の言葉に、女がはっとして顔を上げる。そこには恐怖と、かすかな嫌悪とが混じっていることを、ジルトは見て取った。しかし、それすらも心地よい。
「では、その女を……」
「だが、少し待て」
 王子はその顔に、今度は別の笑みを浮かべた。
「褒美というからには、貴様はそれだけの働きをしなくてはならぬ。そうだな」
 それは支配する側の笑み、命令を下し、相手を掌握する、高みにいるものの笑みであった。ジルトはかすかに眉を寄せた。
「まずはレイスラーブを陥落し、この国を我が統治下におくこと。そののちに、この都市の統治者として女を妻にするなり、愛人にするなり、正式に迎えるがよかろう。それまでこの女への興味が続けばだがな。だが貴様も、もうただの盗賊のように、略奪して女を犯すだけの立場ではなくなるのだから。それはよく覚えておくがいい」
「は。それはもう」
 うやうやしく頭を下げたジルトであったが、その唇はきつく結ばれていた。
(妻……だと)
(どこの馬の骨とも分からぬ女を、正式に妻に……だと?)
 心の声とともに、睨むような目で王子の足元を見つめる。
(この俺が、妻にしようとしているのは、たた一人……)
(それは……!)
「……」
 声には出さぬジルトのその思いを、王子はもうとっくに見透かしているのだろうか。王子の顔には、かすかな冷笑ともとれるアルカイックな笑いが、うっすらと浮かんでいた。

 その後、ボンドス公以下の各小隊長、それに民兵軍師のマクルーノをまじえた会議が行われ、すみやかに作戦が決定された。これから、本格的な包囲作戦が始まるのだ。
(くそ……この俺を、ウェルドスラーブごときの餌で操ろうというのか)
 馬から降りたジルト・ステイクは、腹の煮えるような気分で前線に戻ってきた。青いマントをなびかせて大股でゆく、その姿をみると、周りの兵たちはさっと道を開け、胸に手を当て敬礼する。
 黒竜王子として名を馳せるフェルス・ヴァーレイとともに、その副官であるジルトもまた、敵からはもちろんのこと、味方の部下たちからもひどく恐れられる存在であった。
 今回の遠征において、バーネイ、そしてディナブーリと町を攻めるときも、常に自らが前線に立ち、城門を打ち破り、先頭に立って突入していったのだ。次々に敵兵と斬り結び、体中に返り血を浴びながら、その口元には笑みさえも浮かべて、ただ目の前の相手を殺戮してゆく。その姿は、味方であるジャリアの兵たちも、その心胆をぞっと震えさせるものだった。いつしか兵たちの間では「血染めのジルト」という呼び名が囁かれるようになり、血に濡れてすっかり黒みを帯びた青いマントを見るだけで、彼らは背筋を伸ばして緊張するのだった。
(たしかに……ウェルドスラーブをもらうのは悪くない)
 自分用の天幕に戻ってきたジルトは、小姓にワインを持って来るようにいいつけると、立ったまま腕を組み、その場をつかつかと歩きだした。
(なにしろ、今回の戦いで、もっとも手柄を立てているのは誰でもない、この俺だ。王子が国境の古城をもたもたと奪う間に、こっちはふたつの主要都市を攻め落とし、一番乗りでこのレイスラーブに攻め入った。首都を奪うのは時間の問題だが、それからどうする)
(もし俺がここを離れて、たとえばボンドス公あたりが新たな領主として、ここにとどまるというのは、それはどうも腹に据えかねる)
(だったら、いっそ俺がここにとどまり、あの……エリスという女をもらい、この土地の新たな支配者となる方が……)
(だが、しかし)
 己の中に密かに描いているもの、別の高い野望があることを、ジルトは分かっていた。まだおぼろげではあったが、自分はたしかに、心の奥底でそれを求めている。
(シリアン王女……)
 ジャリアの第一王女にしてフェルス王子の妹である、シリアン・ヴァーレイ……あの姫をいつか妻に娶る。それはジャリアの王位を半分引き継ぐことに他ならない。もし、シリアンとの間に男児をもうけ。その子が次期国王として即位すれば、それはすなわち国王の父親として、王国そのものを影から支配する立場になることを意味している。
 そんな大それた野望を想像しながら、見かけは王子の従順な部下としてこれまでずっと振る舞ってきた。だが、そんな自分を、王子がときおりうさん臭げに見ていたことも、またよく分かっている。
(まだ、そのときではない。まだ逆らうときでは)
 その思いは胸の奥にしまったまま、まだ働かなくてはならない。
(そうなのだ。これからが、今ここからが俺の分岐点となる。ウェルドスラーブをとるか。それとも……)
「失礼いたします」
 おずおずと天幕に入ってきた小姓から、ワインの壺をひったくると、ジルトは杯にも注がずにそれに直接口をつけた。ごくごくと喉を鳴らして飲み干してゆく。口元からは濃密なワインがしたたり落ちた。
(ウェルドスラーブをとるか、それとも……)
 唇をぺろりと舌でぬぐうと、兜を被りなおし、彼は天幕の外に出た。
 そして部下たちに向かって叫ぶ。
「攻撃開始だ!」 
 そこに整列していた隊長クラスの騎士たちが、命令を受けて一斉に散ってゆく。
 ほどなくして、投石機と火矢による攻撃が再開された。激しい攻撃がレイスラーブの城壁を削りとり、物見の塔をまた炎上させてゆく。
 次々に放たれる千の矢と、宙を舞って城壁へ飛んでゆく石を見上げながら、ジルトは、さっきの女……エリスの顔を思い浮かべた。
(まあ、それも、悪くはないが……)
 ひとつ口元を歪めると、戦いの向こうに見えるものへと踏み出すように、彼は兵たちに命じた。
「全軍前進!城壁へ」


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