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 水晶剣伝説 X 暁の脱出行


V

 女と子どもたちを連れて石段を駆け降りると、ボードたち守備隊の騎士たちもかろうじて生き残っていた。ジャリア兵との激しい斬り合いで、その数をだいぶ減らしてはいたが、それでもまだ彼らは果敢に戦い続けていた。
「レークどの。ご無事で」
「ああ、あんたもな。城の女子どもは、助けられるだけは助けたぞ」
「ありがたし。ここにいる兵はもう残りは数十人ほどです。しかし、われらは最後まで戦いますぞ」
 全身に傷を負い、血にまみれながらボードは言った。その顔には、守備隊隊長としての気迫と誇りが感じられた。
「よし。じゃあ、なんとか西の城門までたどり着くぞ」
「了解しました」
 残った騎士たちを密集した隊形にし、女と子どもを中に入れて守りながら、彼らは西の城門を目指して動きだした。
 城内に侵入したジャリア兵の数は、まだそう多くはないようであった。それに、狭い地下道を通るからだろう、彼らはジャリア特有の強力な鎌槍は持っておらず、剣と剣での戦いであったこともこちらには幸いした。
「敵に突っ込むぞ。決して立ち止まるな」
 レークとボードを先頭に、城から脱出した女たちと子ども、それを囲む数十人の騎士たちは、その命を、夜闇の中の運命に委ねるのである。
 ジャリア兵の黒い影が前後左右から襲いかかる。剣と剣が合わさる響きに悲鳴が重なる。
「うおおっ」
「わあっ」
 怒声と絶叫。血がしぶき、剣を手にした兵士がどうと倒れ込む。
 それが味方のなのか、敵なのかも分からない。
 たとえ犠牲者が出ても、立ち止まることはできない。敵に囲まれてしまえば、そこですべては終わりなのだ。
 レークもただがむしゃらに剣を振り続けた。己が道を切り開くことでしか、後に続くものを助けられないとばかりに。
「よし。もう少しだ。西の城門を抜ければ助かるぞ!」
 味方を鼓舞するように声を張り上げる。横にいるボードともども、体中に敵の返り血を浴びてひどいありさまだったが、生き延びることに比べれば瑣末ごとであった。
「レークどの!こちらの騎士はあと十人ばかり。後方が手薄なので私が」
「よし。頼む」
 ボードは左肩に傷を負っていたが、まだまだ気丈な様子で後方の守りについた。
 前方に城門が見えた。
「よし。あとひと息だぞ!」
 あそこを抜ければ、船のあるマクスタートの支流はすぐ目の前である。
(アルーズたちは無事だといいが……)
 もし万が一、船を奪ったことが敵に知られてしまっていたら……
 だが、すぐにレークは首を振った。
(なるように、なるさ。きっとな)
 今はただ、そう信じるだけだ。
 味方の騎士たちは、すでに半数ほどになってしまっていたが、女と子どもたちは奇跡的にほとんど無事であった。敵に城を奪われても、城ごと全滅するよりはずっとましである。
(そうさ。生き残りさえすりゃ、いつかまた……)
 己に言い聞かせるようにして、レークは再び剣を振りかざしていった。
 前をふさぐジャリア兵を蹴散らすと、そこはもう城門であった。
 籠城の間は厳重に閉ざされていた城門は、このときのために密かにかんぬきを外され、城門塔に待機していた騎士が、手筈通りに跳ね橋を下ろしてくれた。
「よし。早く出ろ!」
 女、子どもを先にゆかせ、レークは残った騎士たちと最後尾に回る。
「ボード、どこだ?」
 だが、そこにボードの姿はなく、そばにいた騎士が首を振った。
「隊長は立派に戦われました……。そして、我等に、あとは頼むと」
「そうか……」
 城のため、そして家族のために、勇敢に戦ってきた守備隊長に、レークは短く祈りの言葉を捧げた。
 全員が城門を出ると同時に再び跳ね橋が吊り上げられた。これでしばらくは時間がかせげる。城門塔の小窓からロープで降りてきた仲間の騎士と合流し、彼らはマクスタート川にかかる橋に降りた。
 女たちは、黒々とした川の流れを不安そうに覗き込む。ここから船のある岩場へ飛び降りるのは、身軽なレークならばともかく、女たちには難しいかもしれない。
(アルーズたちは、うまくやってくれただろうか?)
 夜の向こうへ続いてゆくような暗い川面を見つめ、レークはしばし待った。
 ただ、もしも……
 たとえここで追い詰められたとしても、やるだけのことはやったのだ。
 あとは運命を信じるだけだ。
 そう心の中でつぶやくと、レークは生き残った十名ほどの騎士たちを振り返った。
「よし。最後まで戦おうぜ。守るべきもののためにな」
「はいっ」
 誰もが激しい戦いの跡をその鎧に残していた。敵の返り血、剣によるへこみ、擦り傷、中には体に深い傷を負い、かろうじて立っているだけのものもいた。しかし、誰一人として、その手から剣を離すものはいない。
「ああっ、見ろ。城門が!」
 彼らが脱出してきた城の城門……その跳ね橋が、ゆっくりと動き始めていた。
「敵が出てくるぞ。いいか、みんな。女、子どもたちを守るんだ」
 レークが指示するまでもなく、騎士たちは己を犠牲にしてでも、城の女たち、家族たちを守る決意であった。彼らは剣を構えて、まっすぐに進み出た。
 下ろされてゆく跳ね橋の向こうには、ジャリア兵たちの黒い鎧が重なるように控えている。こちらの人数では、まともに戦えばおそらく勝てる見込みはない。
 背後で女たちの悲鳴が上がった。誰もが追い詰められたという、絶望にうちひしがれていた。
 ついに跳ね橋が降りた。
 ジャリア兵の一団が、ざっ、ざっ、と、その恐ろしい鎧の音とともに、こちらに足を踏み出してくる。
 剣を握りしめたレークは、ひとつ息を吸い込んだ。
 敵に向かって、決死の戦いに飛び込もうとした、そのとき。
「飛び下りろ!」
 そう声がした。
 誰もがはっとなった。
「ああっ!」
 川を覗き込んだ誰かが声を上げた。
 そこに、大きな三角帆が見え、
「おお、船だ!船が橋の真下に」
「来たか!」
 「待っていた」とばかりに、レークは川面を見やった。 
 月明かりから現れるように、橋の真下に大きなガレー船がいた。
「飛び下りるんだ!」
 船上からこちらを見上げているのはアルーズだった。甲板の上に三角帆を広げている。
「よし。女たち。一人ずつ船に向かって飛び下りろ!」
 レークは叫んだ。
「生きるか死ぬかの瀬戸際だ。さっきみたいに、橋になってくれたガルスの上を渡るような気持ちで。さあ、できるはずだ!」
 女たちは迷わなかった。生きる道はそれしかないのだと、誰もが知っていた。
「おい、騎士たちよ。オレたちは最後までここを守るぞ。敵をこっちに近づけるな。生き残ったら船で会おうぜ!」
「おおっ」
 剣を構える騎士たち。その後ろで、女たちが一人ずつ船に向かって飛び下りてゆく。広げたマストをクッションに、アルーズらがそれを受け止める。一人、また一人と、子連れのものは子どもを抱えながら、年老いたものは祈るような格好で、生きるために、すべての勇気を振りしぼって、飛び下りてゆく。
 ジャリア兵たちが一斉に剣を抜き放った。こちらを逃がすまいと襲いかかる構えだ。
「こっちは人数が少ない。固まって戦え!」
 先頭でレークが指示を出す。
「傷らを負ったものはすぐに船に飛び下りろよ」
 ジャリア兵の数は、ゆうに四、五十人はいるだろう。こちらは怪我人を除けば十人にも満たない。
(まともに斬り合えば、勝ち目はないな)
 レークはちらりと背後を見た。橋に残っている女たち、その全員が船に降りるまでは、どうあってもここを動けない。騎士たちはみな覚悟を決めた顔つきで剣を握りしめている。
(できれば、こいつら全員を助けてやりたいが、いくらオレでも一人で五十人は相手にできねえ)
「いいか、お前ら。こちらからは斬りかかるな。ぎりぎりまで引きつけて、まずは持ちこたえることを考えるんだ」
 そうは言っても、数に勝る敵兵が押し寄せてくれば、そういつまでも耐えきれるものでもない。ただともかく、ほんの少しの時間でもいい。そうすれば生き残れる可能性はある。
 そろそろ夜明けが近いのか、あたりを包む夜闇はいったん濃密さを増したように思えた。その中に溶け込むような黒々とした敵の鎧姿は、まさに闇から生まれた兵士のような、不気味な威圧感を感じさせた。
「来るぞ!」
 訓練された動作で横四列に並んだジャリア兵が、一斉に斬りかかってくる。
 レークは最初の敵の剣を受け止めざま、相手の首筋に剣を打ち下ろした。
「ぐわっ」
 ジャリア兵の叫び声が上がる。
 だが、一人が倒れても、敵は恐れを知らぬかのように次々に迫ってくる。辺りはすぐに激しい戦場と化した。
 剣と剣が合わさり、騎士たちの掛け声が橋の上に響きわたる。
 それはもう、戦いというよりは、守るべきもののために踏みとどまる、城の男たちの決死の自己犠牲のようですらあった。
「あとを……頼む。家族を……」
 敵の剣に倒れる騎士が最期にそう言い残す。その言葉にうなずき、仲間の騎士がまた敵に向かってゆく。だが、彼もまたジャリア兵の剣によって、思いを残したまま倒れてゆく。
 一人、また一人と。愛する妻か、子どもか、恋人か、誰かのために、騎士はその命を捧げてゆく。
「ちくしょう……」
 レークはじりじりと下がった。
 さすがにこの人数を相手では限界がある。生き残っているのは他にはもう、五人か、六人か。
(もし、誰かのために死ぬのだとしたら……)
 返り血で濡れた剣を握りながら、レークは思った。
(オレは……)
 はたして誰のために死ぬだろう。
 アレンか、あるいは……栗色の髪をした女騎士か、
「へへっ」
 レークは口元をゆがめた。
 戦いの中で、そのような想像をしている自分など、これまでありはしなかった。誰かのために命をかけるなど。
(だが、まあ。それも悪くはねえかな……)
 目の前で死んでゆく城の騎士たちの姿は、とても勇敢で、またそれだけでなく、どこか美しかった。それは何故なのか。
(オレは、これまではただ、自分だけのために生き、自分だけのために死ぬもんだと……人ってのはそういうもんだと思っていたが)
(そうじゃない勇気ってのも、ときにはあるんだな)
 それならば。
 ふっと口元に笑みを浮かべ、
「オレはまだ、ここで死ぬわけにゃあいかねえな」
 剣を握りしめ、レークはつぶやいた。
(守るべきものを守らないうちに……)  
「死ぬわけにゃあいかねえ」
 目の前のジャリア兵を睨みすえ、再び打ちかかってゆく。
 暁を間近に控えた空のもと、
 スタンディノーブルの城壁が見下ろす橋の上で、生と死をかけた攻防が、その命運を賭けるものたちによる天秤のかたむきで、ゆるやかに決しようとしていた。
「レークどの!」
 橋の下からアルーズの声が届いた。
「これで女たち全員を乗せ終えました。あとは……早く、こちらへ!」
「おお……」
 レークは周囲を見渡し、仲間に呼びかけた。
「おい、残っているやつは、早く船に飛び下りろ」
 だが、誰のいらえもなかった。
 周りにはジャリア兵と仲間の騎士たちが、重なるようにして倒れており、自分の他に立っている味方の姿はもういなかった。
「オレだけか……」
 激しく戦い続けた疲労で、視界が朦朧としてくるようだ。前方からは、城門から出てくる新たなジャリア兵たちが次々に橋を渡ってくる。もう、これ以上は戦えそうもない。
「すまねえ……お前ら。せめて、お前らの妻や子どもたちは、守るからな」
 レークは地面に横たわる仲間たちに言うと、血にまみれた剣をほうり捨てた。倒れ込むように橋の下を見下ろすと、船の上からアルーズが手を振っている。
「高いとこから飛び下りるのは、好きじゃねえんだがな……」
 川の流れを見つめるように息を吸い込むと、
 レークは飛んだ。
 頬に当たる空気が冷たい。水音が近づいて来る。
 軽い衝撃とともに、自分の体が布の上で跳ねるのが分かった。
「出せ。船を出すんだ!」
 暗がりの中で、アルーズの声が聞こえる。 
「漕ぎ座に付け。誰でもいい、漕げるものは櫂をとれ!」
「ジャリア軍が矢を射かけてきます!」
 甲板を走るせわしない足音と、響きわたる騎士たちの声をぼんやりと聞きながら、
 レークは眠るようにして意識を失った。

 目が覚めたとき、東の空はもうだいぶ白み始めていた。
「気がつかれましたか、レークどの」
「ああ、アルーズ……か」
 眠っていたのはそう長い間でもなかったようだ。意識もはっきりしている。
 体を起こすと、そばにいたアルーズが革袋を差し出した。
「気つけの酒です」
「すまねえな」
 それを一口飲むと、かっと喉が熱くなった。
「こりゃ、いい酒だな」
「ええ。城を出る前に、とっておきの蒸留酒をいただいておいたので」
「そいつはいい」
 体の中の血が再びめぐりだすような感覚で、生き返った気分になった。
「眠っておられたのは、ほんの半刻ほどですよ」
「そうか。すまねえな。ちょっと気が張ってたようだ」
「そうでしょう。ずっと戦いっぱなしでしたから。もうだいぶ川を下り、スタンディノーブルからはずいぶんと離れました。もうジャリア軍も追ってはこないでしょう」
「そうか」
 周りを見回すと、ガレー船の甲板の上には、毛布にくるまった女たちが呆然と座り込んでいる。レークや騎士たちが、命懸けで城から連れ出したものたちだ。
 彼女たちは、しくしくと泣いているものや、疲れ果てたように横たわっているもの、そしてまだ呆然として震えているものなど、この脱出行の難儀を、まだ受け止めかねているようだったが、それも無理はなかった。これまではずっと城の中でそれなりに裕福な暮らしをしていたものもいるだろうし、このようないくさに巻き込まれて、夫や恋人と別れて城を追われることになるとは、想像したこともなかったろう。運良く子どもと一緒に脱出できたものはまだしも、大切なものたちと別れ別れになってしまって、ただ絶望にうちひしがれているものもいただろう。それでも、命があるだけでも、ずいぶんと幸運であったというべきだろう。
「結局、助けられたのはこれだけか……城の騎士たちもずいぶんと犠牲になったな」
「ええ。騎士で残っているのは、結局、最初に船に乗りこんだ五人だけです」
 アルーズもやや沈痛な面持ちでいた。
 城を助けるために援軍を連れてきたはずが、結局はジャリア軍の侵入を許し、城を奪われた。いくさのために同国の人間がこんなにもたくさん死ぬという経験は、当たり前ながら彼にとっても初めてのことだったのだ。
「ですが……それでも、こうして助けられるだけはなんとか助けられた。全滅するよりははるかにましです」
「ああ、そうだな」
 レークもうなずいた。
 あのガルスや、ボード、コンローをはじめ、多くの騎士たち、兵士たちの犠牲のもとに、自分たちは生き延びることができたのだ。せめて、死んでいった彼らの家族や恋人を、何十人かでも助けられたことには、大きな意味があるはずだ。せめてそう思いたかった。
「ともかく、このまま海に出ましょうか」
「そうだな。それからレイスラーブまで戻るか、あるいはオールギアでトレヴィザン提督と合流するか、どっちにしても、まずは海へ……だな」
 そのとき、東の空に一筋の光がさした。
「夜明けか」
 長い夜だった。飢えと籠城……城で戦い続けた十日あまりの、長い夜。
 いくさの激しさ、残酷さを、たくさんの犠牲によって教えられ、その中で、ジャリアの王子との邂逅や、魔剣ともいうべき剣の存在を知った。
「これが……いくさってやつなんだな」
 重い口調でつぶやいた、レークのその感慨は、おそらくアルーズにも同じだったろう。そして、これから続いてゆくだろう戦いの運命に思いを馳せることもまた。
 甲板にいる女たちも、それぞれにある悲しみや、戸惑い、かすかな希望……それらの思いを込めように、暁の空に目をやっていた。
 厳しいいくさを生き延びて疲れ切ったものたちを乗せたガレー船は、明けゆく空のもと、マクスタート川のゆるやかな流れをすべるようにして下ってゆく。


「王子殿下」
 スタンディノーブル城の大広間……城にいたほとんどの人間は、殺されるか捕らわれるか、あるいは逃げ延びるかしていなくなった、がらんと寒々しい広間に、征服者である黒い王子はいた。
 広間に入ってきた四十五人隊副隊長、ノーマス・ハインは、城主の席に足を組んで座る王子に一礼すると、簡潔に報告した。
「この城の城主らしき男を、塔の上の部屋にて発見いたしました」
「そうか」
 王子はその報告にさして興味もなさそうに、卓上の地図に見入っている。
「マーコット伯と名乗る貴族ですが、なにぶんひどく酒に酔っておりまして、ワインの樽を運びこませて、どうやらいくさの間中ずっと酒を飲んでいたような様子です。こちらに引っ立てようとしましたが、わけのわからぬことをわめき、暴れるばかりで手のつけようがありません。いかが、いたしましょうか?」
「ふん、ここに連れてくるまでもない。酒の匂いは好かぬ」
「かと思いまして。では、地下牢にでも閉じ込めておきますか?」
「そうしろ。抵抗するなら殺せ」
 王子は冷酷に言い放った。
 それでも、普段の王子よりはよほど機嫌がよいようだと、ノーマス・ハインは思ったことだろう。いくさの昂りがそうさせているのか、地図を見下ろす王子は、その顔にときおり薄く笑いを浮かべさえしていた。
「それから、このものであります。例の地下道の場所を知らせたこの城の騎士は」
「ほう」
 今度はいくぶんの興味を持ったふうに、王子はノーマス・ハインの後ろにひざまずく男の方に顔を向けた。
「お前か。名はなんという?」
「は、オルゴと申します」
 顔を上げたのはまだ若い騎士であった。その顔をいくぶん緊張させている。
「どうか、お約束通り、私の父と母、それに妹の命はお助けください。それと……あの、エリスという女も」
「約束だと?そんなものは知らんな。ノーマス、知っているか?」
「はっ、じつはこの者が城の情報を密告する際、家族の命を助けるということを条件にいたしております」
「そうか、ならば助けてやれ……ただし」
 王子はいかにも瑣末ごとというように、冷たく言った。
「まだ生きておるのならな。城内に残っているもので、抵抗するものがいたらただちに殺せと命じてある。お前の家族がどこにいるのかは知らんが、我が兵がとっくに剣の錆にしているかもしれんぞ」
「そ、そんな……」
 青ざめた顔で、オルゴは呆然とつぶやいた。
「では、では……自分は、いったいなんのために、城を……みなを裏切ったのか。なんのために……」
「ふん。仲間を裏切った密告者が、いまさら自責の念にとらわれるか。これもなかなか面白い光景だな」
 そう言って王子はあざ笑った。
「ノーマス」
「はっ」
「探してやれ。このものの家族と、それにエリスという女か」
「了解しました。すでに捕らえた捕虜の中にいるかもしれませんので、確認いたします」
「あ、ありがとうございます!」
一瞬、オルゴは希望に顔を輝かせたが、それも束の間だった。
「その女を見つけたら連れてこい。ふむ、恋人か。なら女の見る前で、お前を処刑する」
「なっ……」
 オルゴは言葉を失った。
「そんな……そん、な。どうして」
「なにを驚く?お前の家族と女を助けると約束はしたようだが、お前自身を助けるとは言ってはおらぬぞ」
「し、しかし……そんな」
「密告者などという裏切り者は、俺は好かん。己の利己のために仲間を裏切るなど。もし俺の部下にいるのなら、その場で処刑だ。当然だろう」
 ぶるぶると震えるオルゴを面白そうに見ながら、王子は言った。
「この城はもらっておく。裏切り者がくれた城としてな。お前の死体は森にでも丁重に埋めてやろう。恨みがあったら夜な夜な墓から出てきて、俺を楽しませてくれるがよい」
「……そんな。ああ……ああ」
「連れてゆけ。家族が見つかったら……そうだな、ひと目くらいは会わせてやれ。父と母に、お前の息子は立派に城を売り渡した裏切り者だ、とな」
 ははは、という乾いた笑いとともに王子は立ち上がった。
 苦悶に顔を歪めるオルゴが、ジャリア騎士に連れられてゆくのには、もうなんの興味もなくなった様子であった。その顔にはすでに、次のいくさへの計画と作戦を思い描くような、静かなる冷徹さが戻っていた。

「では、しばらくはこの城を拠点として、レイスラーブを攻めるということですかな」
 広間に集められた主だった部下たちを前に、王子は鷹揚にうなずいた。
 城内に隠れていた兵や、女、老人たちはすべて捕らわれ、少しでも抵抗するものはその場で処刑し、使えそうな職人や料理人、それに城の侍女などは絶対服従を条件にそのまま仕事につかせた。食料や武器の確保、その他部屋の割り当てや、王子のための寝所なども定められ、スタンディノーブルの城はにわかにジャリア軍の手によって管理、支配されていった。
「北から攻めるジルトの軍勢が予定どおりに動くのなら、我々は状況を見ながらここから増援の兵を送るだけでよいだろう。国境に近いこの城であれば、大陸の西側……すなわち、トレミリア方面の動きも同時に探れよう」
「ですな。この城ならば、ロサリイト草原に集める軍とも連絡がとりやすい」
 部隊の隊長を務めるボンドス公が感心したように言った。
「つまり、王子はすでに草原戦への展開をお読みなさっているわけですな」
「当然だ。ウェルドスラーブなどは、本来はそう……どうでもよい。首都のレイスラーブはジルトにでもくれてやる。ただ、ここを抑えることで海側からの驚異もなくなる」
 王子は卓上の地図を指でなぞった。
「今後はロサリイト草原が最大のいくさ場となろう。そのつもりでいろ。そして、最終的には、トレミリア、セルムラードを陸と海から追い詰める」
「さすがですな。川を下ってこの城を奇襲した作戦といい、すべてが先、先を読んでおられる」 
「これも、すべてはそなたの計算よの。マクルーノ」
「はい」
 王子の視線の先でうなずいたのは、一人のほっそりとした若者だった。いや、それは若者というにはあまりにも老成した印象の人間であった。ずっとそこにいながら、いままで人々に存在を感じさせなかったほど、とても静かで落ち着きはらった、まるで空気のような穏やかな若者。それは、ある意味では普通ではなかった。
「私のたてさせていただいた計画が、運良く運びましたことを、ジェスティニアとゲオルグに感謝いたします」
 低く、ぼそぼそとした声。頬のこけた細い面持ちに、目だけは澄んだ強い光を放っている。まったく目立たないその存在感のなさと同時に、よくよく見れば、それはひどく印象的でもあるという不思議な容貌であった。
「マクルーノ、ここまではすべてお前の計画通りだ。つまりは、この城を奪い、敵はオールギアへ集結する。そして、近いうちにレイスラーブも陥ちる。そういうわけだな」
「はい。ジルト様率いる北からの進軍が、否応なくウェルドスラーブの前線部隊を、首都レイスラーブに追いやることになるでしょう。そうなれば、東のヴォルス内海からはアルディ海軍が、北からはジルト様の軍が、そして西からは、この城を拠点とした軍が、効果的に攻めることで、首都の包囲は完成されます」
 よどみなく答える若き軍師に、ボンドス公をはじめ、卓を囲む騎士たちは感嘆の声を上げた。
「まるで、予言者のごとき明察ぶり。なんとも頼もしきことだ」
「いえ。私はただ、平民の出でありながら、このような大きな役割に登用してくださった王子殿下のため、懸命に知恵を絞るだけでございます」
 少年軍師マクルーノは、骨ばった頬をかすかに紅潮させた。
「では、さっそく、これからの我らの動き方を確認しておく。これも敵の出方によって随時変えてゆくことになるが、基本的にはレイスラーブへ向かわせる部隊の編成と、ロサリイト草原戦への軍備を整えること、この二点が中心となる」
 フェルス王子の軍議は迅速さが特徴である。無用な予測や、非論理的な迷信などはいっさい信じない。部下たちもそうした王子の性格はよく知っているので、決して無駄な口出しはしない。
「マクルーノ、お前の考えた配置を言ってみろ」
「はい。それでは僣越ながら」
 立ち上がった少年軍師が地図を睨みすえる。まるで、彼自身が戦いの行く末を見下ろす神でもあるかのように。

「失礼いたします。エリスと名乗る女を捕らえてまいりました」
 軍議が終わると、さすがに勇猛なジャリアの騎士たちも、長い夜に疲労の色を隠しきれず、それぞれに仮眠をとることを許された。広間には王子と、彼の信頼する四十五人隊の騎士たちが残っていたが、そこに連れられてきたのは、黒髪をさんばらに乱したとても気の強そうな女であった。
「……」
 女は両側から二人の騎士に押さえつけられながらも、恐れも服従の色もなく、その目に強い光を宿し、するどく王子を睨み付けた。
「ほう、それが例のオルゴとやらの女か」
「オルゴ……オルゴはどこ?オルゴに会わせて!」
「なるほど。なかなか気の強そうな女だな」
「オルゴはどこ?」
 きっとなってこちらを睨む女の顔を、王子は正面から見た。その氷のような冷たい目に、女はさすがに少しひるんだようだった。
「そのうち会わせてやる。ただ、その後は……ふふ」
「オルゴを、彼をどうするつもりなの?」
「この俺を前にして、まるで恐れの色もないとは。なかなか気に入ったぞ、女」
 そう言って王子は薄く笑った。
「彼を……彼を殺したら、ただではおかないわ」
「ふふ、はははは。ただではおかない……か。俺に向かってそんな言葉を言うのは、お前が初めてだ」
 王子は愉快そうに笑うと、部下に命じた。
「離してやれ」
「はっ」
 騎士が女を自由にすると、王子は近づいていって女の前に立った。
「どうする?俺が憎いのだろう、この城を奪った俺が」
「……」
 女はぐっと唇を引き結び王子を睨んでいた。
「ふむ。なかなかかしこいようだな。今俺になにかすれば、お前も、お前の恋人も、ただではすまぬということを分かっているようだ」
「どうすればいいの?」
 かすれた声で女が尋ねる。振り乱した髪が頬にまとわりつき、うっすらと額に汗をかいている。眉を吊り上げて相手を睨むその顔は、きりりとしてなかなか美しい。
「ふむ……そうだな」
 王子は女のあごを持ち上げた。女の目をまっすぐに覗き込む。
「……」
「俺はこれから少し休む。お前はあとで部屋にこい」
 彼女に選択の余地はなかった。
 王子が広間から出てゆくと、呼ばれた侍女たちが彼女の身なりを整え始めた。

 王子の居室に定められた天守の一室……
 豪奢な絨毯や毛皮が敷かれ、壁には精巧な絵画などが飾られたこの部屋は、もとは城主であるマーコット伯の寝室であった。今はマーコット伯とその妻は捕らえられ、伯の娘は女に飢えたジャリア兵たちに与えられ、手ひどく連れ回されているだろう。
 このスタンディノーブル城は、国境の古城といえども西側のトレミリアなどへ通じる街道もあり、西側の雅びやかな衣服や調度品などがここには貿易品として多く運ばれてくる。それだけに城主の贅沢な生活ぶりは、たとえ一国の王子といえども無骨なジャリア人であるフェルスには奇異にも映っただろう。今は部屋を飾っていた派手なタペストリーはすべて剥がされ、天蓋つきのベッドのレース飾りは取り払われていた。
 そのベッドから起き上がったのは、裸体の半身をさらした女……エリスだった。
 部屋の明かり取り窓からは、朝の光がたっぷりと部屋に差し込み、征服された夜の悪夢を一瞬だけ忘れさせるような、すがすがしい空気が流れ込んでくる。
 だが、窓辺に立っている浅黒い男の背中を見つけると、彼女はにわかにその目に憎しみの光をたたえた。
「……」
 征服者たる敵の王子に抱かれたことが悔しくもあったが、またどうしようもない女としての己の無力さが憎かった。
 うっすらと、まるでたてがみのような毛が生えた、王子の背中を睨むようにして見つめていると、その視線に気づいたのか、王子がゆっくりと振り返った。
 女は……思わず息をのんだ。
「ほう……驚かんか」
 刺すようなまなざしを向けながら、王子はにやりと笑った。
 その尖った耳に手を触れてみせる。
「これを見て、もし声を上げようものなら、この場で斬り殺したところだが」
「……」
 だが女は、ただ黙ったまま、あるいは魅せられたように、王子の顔を……見つめていた。
「なるほど。たしかに、お前はただの女ではないようだ」
「あ、あなたは……」
 女は、言いかけた言葉を飲み込んだ。声がかすれ、喉が震えた。
「よかろう」
 王子は冷酷な微笑を浮かべた。
「会わせてやる」
「え?」
 女は、一瞬なにを言われたのか分からぬ様子で聞き返した。
「お前の恋人にな」
「オルゴに……」
 女の顔にかすかな笑みが浮かぶ。だが、それは輝くような笑顔ではなく、どこか困惑にも似た笑いであった。
「ただし……」
 振り下ろす剣のように、王子の言葉は冷徹であった。
「お前はもう、俺の女だ」
 光さす、天守の一室……
 彼女にとって、昨日まではたしかに、ここは家族や仲間、恋人のいる城だった。
 だが今は、
 ジャリアの黒竜王子のものとなり、なにもかも、ここにいる人間も物も、なにもかもが支配され、その生殺与奪を残酷なまでに握られている。
(ああ……なんて)
(なんてことなのかしら)
 寝台の上で毛布を引き寄せたエリスは……目まいがするような気分で、目の前に立つ黒い竜のような王子を、ただ不安そうに見つめることしかできなかった。


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