4/10ページ 
 

 水晶剣伝説 X 暁の脱出行


W

 ガレー船は朝日の輝く海上を進んでいた。
 なんとか城を脱出し、三十名ほどの女と子どもを助け出して、レークら数名の騎士を乗せた船は無事に川を下りきり、ついに海に出たのであった。
 自由国家ミレイの海域をマストに青旗を立てて慎重に通行し、船は東へと進路をとった。風に合わせて三角帆を張り、ときに漕ぎ手によって進路と速度を調節しながら。
「天気もいいし、風も順風。オレたちにも多少はつきが回ってきたかな」
 昇りきった朝日にまぶしそうに目蔭をさし、レークは甲板に立っていた。海を渡る爽やかな風が頬に心地よい。
 漕ぎ座に座る騎士たちは、さすが海の国ウェルドスラーブの男たちで、ガレー船特有の長くて大きな櫂を、慣れた動作でリズミカルに操っている。さすがに人数が足りないので、普通は四人がかりで動かす櫂を、片側に二人ずつでは大変そうではあるが、このまま海戦をするわけでもないので、そこまでスピードを出す必要はない。
「船を操らせりゃ、ウェルドスラーブとアルディ人にかなうはずなし、って言うのは本当だな」
 これならば自分が手伝うまでもないと、船尾で舵をとるアルーズにときおり話しかけたりしながら、レークはのんびりと海を見ていればよかった。
「我々は、ごく小さなころからガレー船に乗せられて、船を動かすための訓練を受けますからね。この国では、たとえ馬には乗れなくても、海に繰り出して櫂を操れれば、立派に大人の男と認められるんですよ」
 久しぶりに船に乗るというアルーズは、生き生きとした様子で言った。
「やはり海はいいですなあ。このままどこまでも旅に出て行きたいくらいだ」
「おっ、それもいいな。いっそ、このまま大陸一周でもしてみるか」
「ははは。いいですねえ」
 気楽な会話を交わしながらも、二人には今の状況と、己の立場とがよく分かっていた。そしてまた、このいくさがこれからさらに激しく、また厳しくなってゆくだろうという見通しも。

 はじめは首都のレイスラーブを目指すつもりだったが、話し合いでより近いトールコンに変更された。それは船に乗せた女、子どもたちの存在が大きかった。このままいくさが激しくなれば、最悪の場合、戦地になるかもしれない首都よりも、おそらくジャリア軍にとっては意味のない南端の小さな港町であるトールコンの方がはるかに安全である。そこで女、子どもを降ろしてやり、それから再びレイスラーブへの海路をとればよい。
 また、トールコンであれば、オールギアまでも馬で半日とはかからない距離である。そこでならオールギアに集結しているであろうトレヴィザン提督が率いる軍の状況も、おそらく知ることができるはずだ。その上でレイスラーブへゆくか、それとも陸路でオールギアへ向かうのがよいかを見定めればいい。
 行く先が決まったことを告げると、屋根のついた後部甲板に腰を下ろしている女たちは、少しは安心したようだった。スタンディノーブル城を離れ、これから自分たちはどこへゆくのかと彼女たちもとても不安だったのに違いない。
「見えました。トールコンの港です」
 太陽が中天に差しかかる頃、船は左手前方に、岩場に囲まれた港を視界にとらえた。
 トールコンの町には城壁というものはなく、町の両側を山に囲まれた天然の要塞のような地形をしている。港には首都のレイスラーブのようにいくつもの桟橋が突き出ているわけでもなく、一見して岩の間にある素朴な船着場という様子でこじんまりとしている。
 ただ現在はやはり戦時下であるから、その沖合にはいくつかの軍用船が停泊してもいたし、海上をパトロールする最新型のガレー船の姿なども見える。このトールコンは、西側からの貿易船などが、レイスラーブへの航海の途中に立ち寄る補給のための港としても使われ、そう大きな都市ではないのだが、海上を東から西へ、西から東へと行き交う船が盛んに行き来することで、港町には常に多くの船乗りたちの姿が見られる。
 レーク一行を乗せた船が、マストに青旗を掲げて港の方へ進んでゆくと、パトロールの小型ガレー船がすいと近づいてきた。港の沖合で停船が命じられ、数名の騎士が船の間に渡された帆桁を渡り、こちらにやってきた。貿易船でもない他国のガレー船が、この港に入るというのは、この時期では確かに不審に思われても仕方がない。
 だが船の甲板で震えている女や子どもたちと、傷を負った自国の騎士たちの姿を見るや、その警戒はすぐに解かれた。レークとアルーズの説明で、スタンディノーブル城から脱出してきたことを聞かされると港の騎士たちは仰天し、すぐに彼らの隊長に報告しに帰っていった。それからただちに船は入港を許され、負傷しているものには手当てを、飢えているものには水と食料が与えられた。

 船を降りたレークと騎士たちは、港にほど近い宿屋に部屋を与えられた。
 ほとんど一睡もしないままであったが、休むまもなく都市の領主の代理人やら、海軍の騎士隊長などが宿に訪れてきて、状況の説明を要求された。レークとアルーズは、スタンディノーブル城での戦いの顛末を要約して話し、自分たちの脱出の状況と、今後のジャリア軍の動きの予想などを述べた。ある程度の情報はこの町にも伝わってはいたようだが、スタンディノーブル城が陥落したという話には、さすがに彼らは驚きを隠せなかった。中にはレークがうんざりするくらいに、同じことを念を押すようにして聞き返してきては、国境の城が敵の手に落ちたということにショックを受け、つくづくと驚き、また嘆き続けるようなものもいた。
 よかったのは、町の領主の代理人との話し合いで、乗せてきた女や子どもたちは、当面この町に滞在できることとなった。家族や城を失って行き先のない彼女たちは、やはり同じ国の人間としては大変な同情に値するのだろう。
 次に宿にやってきたのは、トールコンの軍船を指揮するレディン男爵なる人物であった。
「そうですか。スタンディノーブル城が……なんてことだ。国境を守り続けてきたあの歴史ある城が、今やジャリアの手に……おお、なんということだ」
 三十半ばほどの、なかなか男前の騎士でもある男爵は、髭をたくわえたその顔を歪めて何度もかぶりを振った。拳をわなわなと震わせ、唇をかみしめるその姿は、レークにすればひどく大げさで、むしろ滑稽にすら見えるのだが、おそらくはこのような大きないくさというのはウェルドスラーブの人々はかつて経験したことがなく、自国の城が奪われたという事実はよほどの衝撃的な事なのだろう。
「まあ、しゃーないわな。済んだことだ」
「しゃ、しゃーないですと?」
 レディン男爵は、レークの言葉にカッと目を見開いた。
「二百年以上の間、西の国境を守り続けていた城が、今は敵の手に落ちたのですぞ。こっ、この一大事を、しゃーないなどと……よくも」
「ああ、すまねえ。だからさ。そりゃ、一大事だってのは分かるが。もうそうなっちまっもんはしかたねえだろう。肝心なのはこれからどうするかの方だぜ。この間にも敵は北から西から、首都を狙って攻めて来ているかもしれないんだ」
「た、確かに……そう言われてみると、これままた、なんとも大変なことに」
 レークは少々、というか、かなりこの実際的でない男爵騎士が面倒になってきた。眠気と疲労を我慢してまで会う相手かどうかというのは、案外シビアに直感で計れるものである。横にいるアルーズに目配せすると、彼も苦笑気味にうなずいた。
「では、とりあえずだいたいのことは伝えたからな。オレはちょっと休ませてもらうぜ」
「あ、そうそう。さきほど入りました報告で、今日の夕刻にはトレヴィザン閣下がこのトールコンにお着きになるそうです」
「トレヴィザン提督が、この町に来られる?」
 アルーズが聞き返した。
「ええ。どうやら、オールギアの方でもなにかの異変があったのでしょう。ある程度の軍勢をお連れになり、現在こちらに向かっているとのこと」
「なら、オレらがここに来たのも、けっこうグッドタイミングだったかもしれんな。トレヴィザンのだんなから、直接いろいろ聞けるわけだ」
「そうですね。提督が来られるなら、いくさの今後の見通しも話してくださるでしょう」
「んじゃ、オレはそれまで軽く寝てくるワ……ふああ」
 ついに我慢できなくなって大きなあくびをすると、アルーズと男爵に手を振り、レークは宿屋の階段を上っていった。

 いつもならトールコンの港は、日暮れとともに船の往来も減り、穏やかな静けさに包まれるのが常であったが、今日の様子はまったく違っていた。
 商用の帆船に混じって、軍用のガレー船が港に次々に到着し、さして大きくないメインの桟橋の周囲には、所狭しと軍用船が停泊することとなった。それはまるで、この港が今にも大きな海戦の拠点となるかのような、そんな光景であった。
 夕刻まで軽く仮眠をとるはずが、レークはすっかり眠ってしまっていた。
 ここは主に船乗りのための宿ということで、簡素な寝台があるだけのそう広い部屋ではなかったが、元浪剣士のレークにとっては、絹やリンネルの上でないと寝られないなどということもない。藁の上だろうと、草の枕だろうと熟睡できるのが、彼のひとつの特技でもあった。
 すでにすっかり日は沈み、暗がりに包まれた宿の一室には、あまり上品ではないいびきが響いている。
 と、かすかに廊下で足音がした。
 音を忍ばせた足音は、ゆっくりとこの部屋に近づいてくる。アルーズや他の騎士たちは、今頃は隣の部屋で休んでいるはずだ。
「……」
 寝台で目を閉じたまま、レークは手元に剣を引き寄せた。
 かたんと音がして扉が開く。
 燭台の火がぼうっと部屋を照らした。
 はっとしたような息づかいを聞いた瞬間、レークは音も立てずに寝台から起き上がっていた。
「あっ」
 声があがった。
 剣を手にしたレークだったが、相手の顔を見たとたん、その場に固まった。
「おっ、なんだ。あんたか……」
「レーク。レーク・ドップ……」
 息をのむような声。
「驚いたぜ。いったいどうして、ここに」
「そ、それは……こっちも同じだわ」
 驚きと安堵が混ざった表情……
「でも、よく無事で……」
「ああ」
 少し照れながらレークはうなずいた。
「久しぶりですな。騎士長さん」
「そうね」
 そこにいたのは、まぎれもない、クリミナ・マルシィ……トレミリアの女騎士であった。
 剣をしまいあらためて相手に向かうと、不思議とやわらいだ気分が沸いてきた。彼女を残して、アルーズとともにレイスラーブを出発してから、実際にはまだ十日余りしかたってはいなかったが、まるで幾月かぶりの再会のような、そんな気がする。
「元気そうで、なにより」
「ええ。あなたも、ね」
 久しぶりの再会に胸をどきつかせているのは、どうやらどちらも同じらしい。ほのかに笑ったクリミナの頬は、蝋燭の炎のせいもあってか、いくぶん紅潮して見えた。
「しかし、よくここが分かったな」
「ええ。トレヴィザン提督と一緒に、夕刻前にこの町に入ったら、スタンディノーブル城から船で脱出してきた一行がいるという知らせが入って。私はすぐに分かった。ああ、レークだって」
「そうか。提督とね。へえ」
「なあに?変な顔して」
「いや……べつに」
 クリミナがトレヴィザン提督と一緒にいるということを聞かされてから、あまりいい気分がしなかったレークである。すぐに顔に出るたちであるから、彼女の方もなんとなくレークの思いを察したようだあった。
「提督は私によく気をつかってくださるわ。最初は、私をレイスラーブにとどまるよう説得してきたけど、私がどうしても行くというと、私のために護衛の騎士の小隊をつけてくださったり、わざわざ身の回りの世話をする侍女を同行させてくれたりと、まるで姫君のような扱いよ。私は本来、騎士として戦いに協力しにやってきたはずなのにね」
 クリミナはくすりと笑った。
「休憩のときの天幕では、提督とご一緒したけど。野営のときは、提督は私に一番上等の天幕を譲ってくださり、ご自分は普通の騎士と同じところで寝泊まりされていたわ。やっぱり、とても紳士な方だとあらためて思ったわ」
「ああ、そうかい」
 あまり面白くなさそうにレークは言った。
「オレとしては、あんたにはおとなしくレイスラーブにいて欲しかったがね……だが、状況も変わったんだな。むしろ、首都の近辺はいずれ戦場になりそうだ」
「ええ。提督もそう言っておられた。スタンディノーブル城から戻ってきたフレアン伯、セルディ伯たちとオールギアで合流したのが今日の朝。そこですぐに軍議がされて、提督はある程度の部隊を率いて、トールコンへゆくことを決めたのよ」
「じゃあ、セルディ伯やブロテは一緒じゃあないのか」
「ええ。陸戦の戦力になる騎士たちは、首都のレイスラーブの防衛に回ることになるでしょう。詳しいことは、提督から直接聞いて。夜のうちに進めたい計画があるのですって」
 意味ありげな言葉にレークは眉をひそめたが、目の前にいるクリミナの顔を見ていると、心の中で己のなすべきことがしだいに分かってくるような、そんな気がするのだった。
(そうか)
(オレは……あんたを守りたい)
 それは、ごく自然に沸き起こる気持ちであった。
「できりゃあ再会を祝して、一杯やりたいところだが……どうやら、そうのんびりもしていられないようだ。次はどこへゆくことになるのかな」
「私はもう、待つのはいやだわ」
 クリミナはレークを見てきっぱりと言った。
「スタンディノーブル城が落ちたと聞かされて、どれだけはらはらしたか。心配も……」
「すまねえ……」
 レークは頭を掻き、そっと手を差し出した。
 それを握るやわらかな手。
「……無事で、よかった」
 それを、かすかに引き寄せる。
 二人は軽い抱擁を交わした。 
「レークどの、トレヴィザン提督が到着されたとか……あ」
 扉を開けて入ってきたのはアルーズだった。
「これは、クリミナどの。ああ、もしや提督からのお使いで?」
「ええ。すぐに提督がお二人に会いたいそうです」
 やや顔を赤らめてクリミナはレークから離れた。
「提督はすでに、この港で海軍の編成にあたっておられます」
「了解しました。すぐにまいりましょう。ねえ、レークどの」
「ああ!」
 レークにじろりと睨まれ、アルーズは首をかしげた。
「どうかしましたか?レークどの」
「なんでもねえよ。じゃあ行くとするか。トレヴィザンのだんなに会いによ」

 夜だというのにトールコンの港は、なにやらせわしない空気に包まれていた。
 桟橋にずらりと並んだ軍用ガレー船の周りには、樽や木箱を運ぶ人足たちが忙しく行き交い、指示にあたる騎士たちの声や、漕ぎ手として集められた人々のざわめきがまじり、暗がりの港に響いている。おそらく、この港町にこれほどの軍用船が集まることなどはかつてなかったであろう。辺りはひどく緊迫した、張りつめたいくさの空気に包まれていた。
「こりゃまるで、今夜のうちにでも船団で繰り出そうっていう雰囲気だな」
「まさか。そこまで状況が切迫しているとは思いたくないですが」
 たくさんの松明が焚かれた港にひしめく人々を見回しながら、レークとアルーズ、クリミナの三人は桟橋を歩いていった。
「提督。トレヴィザン提督!」
 一隻のガレー船……おそらく旗艦なのだろう、その見事な大型船の前で指示を出しているトレヴィザン提督を見つけて、アルーズが駆け寄った。
「おおアルーズか。それにレークどのも。これは、ご無事でなにより」
 振り返った提督は二人とそれぞれに握手を交わした。その顔にはやや疲れの色はあったが、船を前にした姿はさすがは海の男というべきか、その目には強い意志の光が宿り、己の責務をまっとうするという誇りを、全身にみなぎらせていた。
「とくにレークどの。貴殿にはなんとお礼を述べてよいか分からぬ。フレアン伯とセルディ伯から、今朝になってスタンディノーブル城での戦いの報告を受けたが、レークどのの活躍がなければ、おそらく城の陥落はもっと早かったという。それに、城の女たち、子どもたちを救い、このトールコンに運んでくれた。貴殿の勇気と決断、その行動力には感服するとともに、あらためてわが国を代表するものとしてお礼を申し上げたい」
「なあに、オレはただ、生き延びるためにしただけだ」
 頭を下げるトレヴィザン提督を前に、レークはやや照れながら言った。
「それに、結局はジャリア軍に城を奪われちまったし、助けた女たちにしたって、ほんの数十人だけだ。それが悔しい」
「なにを言われる。ご自分の命をかけて、誰かを助けようとすることなど、そう誰にでもできることではない。それに城が落ちたのは貴殿の責任ではない。むしろ、報告によるとどうやら内通者がいたに違いないということだが」
「内通者か……確かに、いきなり敵が城内に現れるなんてことは考えられないからな。あの地下通路を通って……まてよ」
(そういや、オルゴのやつが、いつか一人であそこにいるのを見たことがあったな)
(それに敵の弩砲を燃やした作戦のあと、いつのまにかオルゴの姿が消えていた……)
(だが、まさかな……)
 レークは首を振った。
「どうされた?レークどの」
「いや、なんでもねえ」
「ともかく、貴殿の働きぶりはもうすでに国家勲章ものであると言っていい」
「はっ。そりゃ、大げさだぜ」
「それから、フレアン伯ら城からの脱出部隊がオールギアに到着したとき、トレミリア騎士たちの中に貴殿の姿がないことを、クリミナどのは大変心配をしておいでだった」
「まあ、提督」
「あのときの姫は、普段の女騎士どのではなく、まるで失った恋人を嘆く伝説の美姫、エウリーケのようでしたよ」
 クリミナはさっと顔を赤らめた。
「そんな、ことはありません」
「いやいや、ともかく。こうして無事に再会できてよかった。ときにレークどの、こちらのアルーズは足手まといではありませんでしたかな?」
「とんでもねえ。いや、実に有能なやつだぜ。騎士としても、相棒としても申し分ない。勇気もあるし、腕もいい。お前がいてくれてよかったよ」
「恐れ入ります」
 アルーズは嬉しそうにうなずいた。
「それはよかった。そう言っていただけると私も嬉しい。さて、では詳しいことは船の中で話しましょう」
 トレヴィザン提督に先導され、三人はガレー船に乗り込んだ。甲板の上にはすでに多くの騎士たちがおり、櫂や装具の点検に忙しそうだった。彼らは上がってきた提督の姿を見るや、さっと一列に並んで道を開けた。胸に手を当て礼をする騎士たちにうなずきかけ、提督は歩廊を歩いてゆく。その後ろで、レークは感心したようにその様子を見回していた。
「よく訓練されてるなあ。さすが提督の乗る旗艦だ」
「この最新のガレアッツァは、三本のマストがある大型のガレー船で、百四十名の漕ぎ手と帆の推進力で、海上においては最速の船といえます」
 提督は誇らしげに言った。甲板の幅は外から見るよりもずっと広く、両側にはベンチ状の漕ぎ座があり、中央の歩廊を通って船首から後部甲板までを行き来できるようになっている。この船はレークらがスタンディノーブル城から乗ってきた船よりもさらに一回り大きい、とても見事なガレー船であった。
 一段高く作られている後部甲板のドアを開けると、そこが艦長室のようだった。
「さあ、どうぞ」
 レーク、クリミナ、アルーズが部屋に入る。あまり広くはないが、立派な机や棚があり、
そこには書物や丸められた羊皮紙の束、地図などがぎっしりと置かれていた。
「あまり時間がないので、要点だけお話しする」
 提督は卓上に地図を広げると、さっそく話しだした。
「夜明けには、我が船団はこの港を出帆します。行き先はレイスラーブ」
「つまり、提督は首都の近辺で海戦があるとお考えですか?」
「おそらくは」
 アルーズの言葉に提督はうなずいた。
「ヴォルス内海での戦いも、今回のいくさの大きなポイントになるだろう」
「つまり、アルディの海軍との戦いですね」
「まずは順を追ってお話しする。じつのところ、最初にレイスラーブから出発したときには、ただスタンディノーブル城の援護へ向かうという意味しかなかったのだが、オールギアに到着するや、北の国境から別のジャリア軍がディナブーリを攻めているという報が飛び込んできた。つまり、敵は西のスタンディノーブル城を攻めると見せかけて、北からも侵攻してくるという陽動作戦をとったのだと気づいた。このまま全軍をスタンディノーブルへ向けてしまっては、それこそ敵の思うつぼ。そこで我々は、オールギアで双方の状況を確かめてから、兵を動かすことになった。そのせいで、スタンディノーブルへの救援が遅れたことは、今思えば城の犠牲者を増やすことになってしまったかもしれない」
「それがジャリアの黒竜王子の戦略ってわけだな」
 レークは、図らずも天幕で出会った王子の姿を思い出すように言った。
「ともかく、敵は北と南の両方から攻めてくる。我がウェルドスラーブはご存じの通り、陸の上の戦力には強くはなく、数の上で少なくとも敵と互角の配置にしなくては到底勝ち目は薄い。なので、しばらく、オールギアにて状況を見定めようとした。しかし、ジャリア軍の勢いは予想以上だった。昨日の夜、ディナブーリが陥落したという報を受けた」
「なんと。ディナブーリが!」
 アルーズが声を上げた。
「こんなに早く……では、敵はもう首都までたった数日南下すれば、たどり着いてしまいますぞ」
「そうだ。今頃は首都に残されたすべての陸兵は北側の防備にあたっているだろう。トーメインの駐留兵にも急ぎ増援に向かわせるよう連絡を送った。さらに、このタイミングでアルディの海軍が動きだしたという知らせも届いた。おそらく、ジャリア軍と連携しての動きだろう」
「なんということだ。こんなにも急激に……」
「今日の昼に、フレアン伯、セルディ伯らがオールギアに到着するのを待って、私は海戦に適した人材を連れてこのトールコンに向けて出発した。昨日のうちに、首都からガレー船団をよこすよう指示を出しておいた。陸戦の方はフレアン伯を大将にすえ、セルディ伯らトレミリアの兵力も加わっていただくことになった。いよいよ、我々は王国の命運をかけた戦いへ挑むことになる」
 トレヴィザン提督はそこまで言うと、ひとつ間を置いて続けた。
「じつのところ、このままでは我が国に勝ち目は薄いと私は思っている」
「提督……それは」
「冷静に分析すれば、西の国境をまず押さえられたことで、トレミリアやセルムラードからの救援は望めなくなった。北からは強力なジャリアの歩兵が、東の海からはアルディの海軍が攻めてくるとしたら、首都レイスラーブは数日のうちに包囲されることになる」
「確かに……」
 アルーズは言葉を失ったように呻いた。
「無論、私とてウェルドスラーブの軍事の全権を任せられた身だ。最後まで戦う。ただ、せめて勝機となる要素を、その手だてを、できる限りつかんでおくことが今は重要になる。あとになって後悔しないようにな」
 やや意味ありげに言うと、提督はレークを見た。
「このトールコンに入る直前、レークどのの船が、同じくこの港に到着したという報告を受け、私は驚き、そして同時に海神アルヴィーゼに感謝した。これは天のくれたチャンスだと思った」
「どういうこった?」
「あなたに、アルディへ行ってもらいたい」
「なんだって?」
 提督の言葉に、レークは思わず目を見張った。
「アルディが現在、西側と東側で対立していることはご存じかな?」
「ああ、そんな噂をアレンから聞いたことはあるが、それがどう関係するんだ?」
「アルディには、ジャリアからの圧力に甘んじている現体制に不満を持つものが集った勢力が、ここ数年でどんどん大きくなってきている。とくに革命貴族と呼ばれるウィルラース卿が現れてからは、求心力というべきその存在に多くの地方貴族が賛同し、今や体制をおびやかすほどの力を持つようになった」
 トレヴィザン提督は、アルディのおおまかな変遷を語って聞かせた。
 アルディはもともとは、ウェルドスラーブ同様に、西側とも多くの交易を持ち、大陸間相互会議に加盟していた国であったが、古き公国としての名残りからか、先進的な西側の関税貿易システムにはあまり協力的ではなかった。そこにきて、北の大国ジャリアからの同盟要請を受諾したことで、西側との亀裂は決定的になった。ジャリアとともに大陸間相互会議を脱退したアルディの、西側との交流は事実上断裂した。
 今回、ジャリア軍がヴォルス内海北側の、自由国境ルートを通過するのをアルディは黙認し、さらにはバーネイからマトラーセ川を下るための船を提供したことで、アルディは事実上このいくさへの間接的な参加を表明したことになった。そして、ついに海軍が動きだしたとなれば、直接の戦いとなるのはまず避けられないだろう。
「ウィルラース卿によるその新たな勢力は、西側との通商を積極的に行おうという革新的な国家を目指していると聞く。私は彼には一度だけ会ったことがあるが、外見は美貌の貴族だが、じつに考えの深い興味ある人物だと感じた。本来は、私が直接に出向いて、ウィルラース卿の勢力に働きかけたいところだが、海軍を指揮する身としてはそうもいかない。このトールコンに着くまでの間に、それを誰をやらせるか考え続けていたのだが。はからずも貴殿がここにいると聞いて、これはと思ったのだ」
「おいおい、そんな重要な任務をオレにやれってのかい?」
 レークは慌てて首を振った。
「オレは交渉やら、働きかけやらって、そういうのはまったく不得手なんだぜ」
「そう難しいことは言わない。この書状を、ウィルラース卿に届けてくれるだけでいい」
 そう言うと、トレヴィザン提督は引き出しから丸めた羊皮紙を取り出した。
「ここに、すべてのことが書いてある。あとは、ウィルラース卿がこれを読んでどう判断されるかだ。あるいは、この書簡は意味をなさないかもしれない。あるいはなすかもしれない。それは、今考えても仕方がないこと。要は、手を打って失敗する方が、手を打たずに後悔するよりもずっとましだということだ」
「それは分かるがね……しかし、アルディの海域へ入るのに、軍用のガレー船では無理だろう」
「そうだ。だから、今夜のうちに出発してもらいたい」
「おいおい、また急な話だぜ」
「幸い、この港には商用の帆船が停泊している。それに乗り込み、ただの旅行者としてアルディに入国するのだ。この任務を果たせるのは、レークどののように、勇気と迅速な行動力がある人間でなくてはならない。スタンディノーブル城へ単身乗り込み、敵と戦い、そして脱出してきた。その見事な才覚。危険を嗅ぎ分ける能力は、天才的と言ってもいい」
「そんなに褒めてもらっちゃあ……照れちまうね」
 まんざらでもなさそうにレークは頭を掻いた。
「どうか、お願いしたい。我が王国の命運がかかっているのだ。レークどの」
「……」
 トレヴィザンの真剣な目がじっとレークを見た。
「……ああ、分かったよ。トレヴィザン提督にそこまで頼まれちゃ、男として引き受けねえわけにもいかねえな」
「ありがたい」
 提督はレークの手を握りしめると、密書を筒に入れて差し出した。
「どうかこの密書をウィルラース卿に。すでに船の手配はしてある。旅に必要な路銀と通行手形も用意させた。二人にはそう、ミレイから旅をしてきた夫婦だと装ってもらう」
「二人……夫婦だと?なんのことだ」
「すでに、クリミナどのにはこの任務の承諾をもらった」
「なんだとう?」
 レークは目をしばたいた。
「クリミナ……いや、騎士長が一緒に?」
「さよう。男一人の旅人では怪しまれるだろうが、男女の夫婦としてならば自然だし、入国しやすいだろう」
「夫婦……って、おい」
「ミレイからの旅の夫婦という設定なら説得力もあると、私から提督に提案しました」
 横にいるクリミナがおずおずと言った。
「クリミナどのをこのような危険な任務につかせることは、とても心苦しいのですが。しかし他に適任者がいない。また、レークどのであればこの偽装も自然にこなせようかと」
「自然にって……」
 なんと言ったものかとレークが口ごもる間に、トレヴィザン提督はすべての段取りはつけてあるとばかりに大きくうなずいた。 
「船の出航までもう時間がない。ともかく、急いで準備をしていただきたい。夜のうちに西アルディの領海を超えられるよう。そのあとの手筈はクリミナどのにお話ししてある。さあ、どうかよろしく。このトレヴィザン、お二人にはまことに感謝いたします」

 というわけで、慌ただしく旅立ちの準備をさせられた二人は、夜の港から商船に乗り込もうとしていた。
「どうかご無事で。レークどの」
「お前もな、アルーズ」
 レークは見送りにきたアルーズと固く手を握り合った。スタンディノーブル城での戦いを共にしたことで、二人の間には友情のような絆が芽生えていた。
「きっとまた、どこかで会おうぜ」
「ええ」
 アルーズはかすかにその目に涙を浮かべていた。これが最後の別れではないにしろ、これからはそれぞれの使命に向かって、また命懸けの戦いが始まってゆくのだ。
 トレヴィザン提督は朝まで全軍の出帆準備に追われ、船の見送りには来られなかったが、その分たっぷりと旅のための装備を用意してくれた。革袋にぎっしりつまった金貨、真新しい短剣、丈夫なサンダル、それにミレイ風のしゃれたローブとマントなど。それに着替えたレークは、元々が旅の剣士であったこともあり、見た目には、西からきたちょっとハンサムな旅人という様相であった。
「クリミナどのも、どうぞお気をつけて」
「ありがとう」
 クリミナの方も普段の騎士服から、薄紅色の胴着に白いゆったりとしたミレイ風のローブスカートという姿になっていた。どこから見ても沿海国の女性という雰囲気である。
「そろそろ船が出るようだぜ」
「それじゃあ。アルーズさん、提督にもどうかよろしくと」
「はい。お二人とも、どうかお元気で」
 見送るアルーズに手を振り、レークとクリミナは艀を渡って船の甲板にあがった。
「さって、新たなる旅立ちってわけだ」
 錨が上げられると、ほどなくして船は夜の港を出帆した。
 甲板の上から、後方に遠ざかってゆく港を見ながら、クリミナがつぶやく。
「また、みんなと無事に会えるといいけど」
「そりゃ、そうさ。そうでなくちゃ、セルディ伯あたりから恨まれちまう。あんたを守れなかったら」
「ふふ。でも、私も足手まといにはならないつもりだわ。目立つから身にはつけられないけど、荷物袋にはちゃんと短剣も入っているし」
「さすがは騎士長どの。おみそれいたしました」
 騎士の礼をしてみせるレークに、彼女は笑って言った。
「よしなさい。旅の間は……私たちは仮にも、夫婦ということなんだから」
「ああ、そう……そうだったっけな」
 夫婦という言葉に照れながら、レークは頭を掻いた。
 だがこの旅が、そう気楽なものではないこともまた、二人はよく理解していた。トレヴィザン提督より授かった書簡をアルディの革命貴族ウィルラース卿に届けるという、いわば密使のような役割であるから、あるいはそこに、このいくさを大きく動かすような重大な要素が含まれているかもしれない。そう考えると、たった二人での旅とはいえ、多くのものたちの命運をこの封書が握っているのだという、強い使命感が沸き起こってくる。
「さて、船室に入って軽く一休みしようぜ。休めるときに休んでおかないとな。なにか起きたときのためにさ」
 二人は後部ハッチから船内へと入った。
 ガレー船とは違い船内には多くの部屋があり、そこは商船であるから商用の荷物が置かれた部屋も多かったが、いくつかの部屋は旅行者のためのものもあった。トレヴィザン提督から船長へ直々に通達されていたおかげで、二人にはもっとも上等の部屋が用意されていた。とはいっても、アルディの領海を通っても怪しまれないようにと選ばれた古びた商船であるから、貴族のように快適な部屋とはいかなかったが。
「まあ、休めるだけありがたいもんだ。明日の昼前にはグレスゲートに着くんだし。それまでは、このボロ船でもなんとか我慢できるだろう」
「平気だわ。たとえ粗末な黒パンだけの食事だろうと、体が汚れボロホロの粗末な服になろうと、いまはいくさなのだし。私たちの使命のためなら……どんなことだって」
「まあ、そう最初から張り切りすぎると、疲れちまうぜ。気楽に行こう」
 背負っていた荷物を置くと、レークは寝心地を確かめるようにハンモックに上がった。
「おっ、案外悪くないな。あんたも、少し休んだらどうだい」
「私は……いいわ。眠くない」
 クリミナは椅子に座った。あるいは、隣のハンモックで眠るのが恥ずかしかったのかもしれない。
「でもなんだか、変な気分だわ」
「どうした。船酔いか?」
「違うわ。こうして……二人で船に乗っているというのが。なんだか、変」
「そうかい」
「それに、夫婦ですって。たしかに、その方が怪しまれないのだろうけど、私たちが夫婦、なんて……笑っちゃう」
 彼女はくすりと笑うと、ハンモックに寝そべるレークを見つめた。
「……」
 かつて、トレミリアの剣技会で剣を交えたあの日は、もう海の向こうに遠い。
 ずいぶんともう……遠いのだ。
 そんな感慨を抱いていたのだろうか、彼女は使命をおびた仲間としてか、あるいは頼りになる剣の使い手としてか、奇妙な旅の道連れとなった元浪剣士を、ただ不思議に見つめていた。


次ページへ