水晶剣伝説 V ウェルドスラーブへの出発

   エピローグ


「カーステンさま」
 白いビンカの花が咲くフェスーン宮廷の美しい庭園……それを窓の外に見ながら、アレイエン・ディナースは王家の姫君の名を呼んだ。
「今日はそこまでにしておきましょう」
「はい、先生」
 机の前に座っていた少女が、ほっと息をついて本を閉じる。
「どうです?論理学というのもなかなか面白いものでしょう」
「ええ」
 信頼しきったまなざしを教師である相手に向けながら、彼女……トレミリア第二王女カーステンは、やわらかに微笑んだ。
「最初は難しそうだと思っていましたけど、いろいろな例文を見て、それを少しずつまとめたりしてゆくのは、とてもためになります」
「そう。論理学というのは決して難しいものではなく、物事を要約したり、相手の真意を理解したり、それに自分の言うべきことを正確に相手に伝える上でも、非常に大切なものなのです」
「はい」
「結局、人というのは言葉によって相手とのコミニュケーションをはかり、相手の真意を察することでその理解を深めてゆく、また反対に、言葉を誤解することでときに人を憎んだりもするのです」
 すっかり教師らしくなった顔つきで、アレンは手にした本を指し示した。
「論理的な思考は洞察を深めることにもつながり、また自己を主張する際にも相手の理解を得やすくします。よろしいか。私の思うには、男性だけでなく、女性にもそれは必要であるべきだし、一国の王は勿論、王家の姫君にとってもこれは大切な学問であるのです」
「はい、先生」
「よろしい。では休憩にしましょう」
 小部屋の窓から見える空は晴れ渡り、流れゆく雲はゆったりと動いてゆく。
 世界はまだ、なんの予調も示してはいない、静かな午後のひととき。
 遠く、ウェルドスラーブで起こりつつある出来事も、ここトレミリアまではまだ届いてはこない。
「……」
 窓辺に立ったアレンは、緑の庭園と澄み渡った空を、静かに眺めていた。
 平和で穏やかな空気……庭園の木々の梢と鳥のさえずり。
 窓から見渡せるのは、そんな穏やかな景色だった。
「アレイエン先生」
 横に来たカーステンが、彼の名を呼んだ。
「なんですか、姫君」
「トレミリアはずっと平和ですわ」
「ええ……そうですね」
 カーステン姫はもう十五歳になる。ちょうど少女から大人になりかかる、今はそんな微妙な狭間にあるようだ。この年頃特有の、少し大人びたような顔つきを、彼女がときどき見せることをアレンは気づいていた。
「ウェルドスラーブは、大丈夫でしょうか?」
「……」
 アレンは気づかれぬ程度に眉を寄せた。それはいままさに、彼自身が考えていたことでもあったのだ。
「カーステン姫……」
 両手を組み合わせ、まっすぐこちらをを見上げる彼女の姿には、国の平和を願う王家の姫君としての気高さがあった。
 この美しい金髪の少女を、アレンは敬意を込めたまなざしで見つめた。
「ウェルドスラーブが、いくさに巻き込まれていることは。もう私も知っています。そして、それは決してこのトレミリアにも無関係ではないということも」
 聡明そうな青い目が不安そうに見開かれていた。
「それに、あそこにはお姉様がいますから」
「ああ……姫の姉君、ティーナ様はコルヴィーノ王のお妃でしたね」
「ええ。しばらく会っていないので、とても心配です」
「心配いいたしますな」
 王家の姫に対して無礼にならぬよう、細心の繊細さで、アレンはそっとカーステンの手をとった。優しく微笑んでうなずきかけると、彼女の頬がうっすらと染まった。
「アレイエン先生……」
「残念なことに、いくさは、始まるでしょう……」
「ええ……」
「でも、ウェルドスラーブも、そしてこのトレミリアも、きっと大丈夫です」
「そうでしょうか……そうだといいですけれど」
「ええ。きっと」
 安心させるように、アレンはゆっくりとうなずいた。
「それに、私の相棒である剣士も、遠征隊の一員としてウェルドスラーブに行きました」
「はい。存じています。レーク様でしたわね」
「そう。彼は強い剣士です。姫もご存じでしょう?彼が剣技会で優勝したことは」
「ええ」
「それに、他にもクリミナ殿や、ブロテ卿、その他、トレミリアの勇敢な騎士たちがウェルドスラーブの為に戦うのです」
「ええ。でも……どうしても怖いのです。私」
 カーステンはその声を震わせた。いくら気丈な娘とはいえ、まだたった十五歳の少女である。自分の手の届かない世界の動静や、戦争などに思いを馳せることは、やはり恐ろしいのだろう。
 アレンの手にすがりつくように、彼女はそっとその身を寄せた。
「いくさなんて……こんな平和な美しいトレミリアも、いつかはそうしたいくさに巻き込まれてゆくのでしょうか。なんだか、そんなこと……私には考えられない」
「おかわいそうに。こんなに震えて」
「先生……」
「姫……今は、そんなことは考えますな。たとえどこか遠い空の下で、いくさが始まったとしても。このトレミリアは静かで平和です。それはきっと変わらず、このままありつづけることでしょう。きっと」
 アレンは再び、その目を窓の外へ向けた。
 青い空の彼方には、黄昏の時間を示す紫色が、かすかに混じりはじめていた。
 やわらかな風が揺らす庭園の梢から、鳥が飛び立った。
 遠き、ウェルドスラーブでの物々しい喧騒は、ここにはまだ届いてこない。
「姫……そろそろ、お茶の時間ですよ」
 黄金の平穏を壊さぬように、そっとアレンが告げた。
「はい。そうですね」
 うなずくカーステンの目から、もう不安の色は消えていた。
 彼女はうきうきとテーブルにゆき、ちょうど侍女が運んできたハーブのお茶をアレンのカップに注ぎはじめた。
 やがて、大陸を揺るがすであろう戦の風は、庭園を見晴らすこの一室にはまだ吹き込んではこない。
 アレンは窓辺から離れた。
「さて、ではいただきましょうか」
「ええ、先生」
 テーブルに向かい合った二人は、やわらかなお茶の香りを楽しむように微笑み合った。
 平和な、トレミリアの午後のひとときである。



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あとがき

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