水晶剣伝説 V ウェルドスラーブへの出発

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急転

 港に戻ったクリミナとレークは、物資の陸揚げ作業を終えた騎士たちとともに、改めて集まった市民たちの前で「トレミリアから駆けつけてくれた勇士たち」とトレヴィザンによって紹介され、人々から大きな拍手と喝采を受けた。
 それから騎士たちは、丘の上の王宮内の一角にある建物に案内され、そこを当分の宿にすることとなった。
 さっそく食事と飲み物が振る舞われ、腹をすかせた騎士たちはそれを存分に味わった。レイスラーブの沖合でとれた新鮮な魚の料理や、塩味の肉入りスープ、パン、何種類もの果物など、船上では味わえなかった料理は、彼らをたいそう喜ばせた。食後に出されたウェルドスラーブ独特の飲み物、クオビーンを堪能するころには、彼らは長い旅の疲れから解放されたように、ほっとした気分に包まれていた。
「これこれ、これだよ!これが飲みたかったんだよな」
 マグに注がれた飲み物に顔を近づけながら、満足そうにレークは言った。
 クオビーンというのは、この国の特産である特殊な豆を煎じて、粉にしたものを湯で溶かしたもので、ウェルドスラーブの名物として知られている。濃い茶色をした独特の香ばしい香りのこの飲み物は、疲労回復にも優れた効果があるとして重用されている。
「ああ、この苦み……これがくせになるんだよなあ」
 湯気を立てる濃厚な味わいの飲み物を味わいながら、騎士たちは大いにくつろいだ。
 食事を終えると、騎士たちは案内された大部屋で旅装を解くと、それぞれに寝台に寝ころがった。遠征の疲れと、ついに目的地に辿り着いたという安堵からか、寝台に上がるやすぐに寝息を立てはじめる者も多かった。戦が始まっているといっても、首都にたどり着いたばかりの彼らがすぐに戦いに駆り出されるという状況ではなかったので、当座はしっかりと体を休めておくことこそが肝要なのであった。
 簡素な部屋着に着替えたレークは、クリミナに呼ばれ、彼女用にあてがわれた別の部屋に入っていった。
「休まなくていいのかい?あんたも、けっこう疲れているだろう」
「でも、その前に、いくつか話しておきたいこともあるし」
 彼女も旅装も解いて、今はふわりとした絹のチュニックにズボンという恰好である。二人はバルコニーに置かれた長椅子に並んで腰を下ろした。
 ここからは、王宮内の緑豊かな庭園が一望できる。港町特有の、潮の香りを含んだ海風が涼やかで心地よい。
「騎士たちの様子はどう?」
「ああ。まあ、みんなほっとしているようだな。メシ食って部屋に入ったとたんに、寝台に倒れ込んでぐっすりって感じだ。まあ、無理もねえ。初めて船に乗って、自分たちだけで航海をして、ようやく目的地にたどり着いたんだからな」
 そう言うレークも眠たそうなあくびをした。
「ああ……なにしろ、船の上じゃあ熟睡できやしねえ。やれマストを張れだ、風向きが変わっただ、ロープを引けだ……俺はじっさい、船乗りってやつには向きそうもないな。まったく」
「ふふ。そうね。確かに、私も海の上よりは、やっぱり陸の方が安心するかな」
 くすりと笑ってクリミナは言った。
「でも……ここは港町。このウェルドスラーブは、海洋貿易と海軍の力で大きくなった国だから。この国にいるかぎりは、もっと海というものに慣れておく必要があるかもね」
「へっ、ごめんだね。戦いがはじまってから、もし船に乗れと言われても、俺は陸の上で剣を振ってる方がいいや」
 冗談めかして言ったレークだったが、思い出したようにやや歯切れ悪く言った。
「でも、あんたは……さっきのあの、トレヴィザンとか、ああいういかにも海の男ってやつが好みなのかい?」
「好み?」
 クリミナは首をかしげた。
「……そうね、トレヴィザン提督は、確かに魅力的なお人だと思うわね。海の男というものは、皆ああいう感じなのだか分からないけど、提督は逞しくて、とても男っぽくて、それに紳士だし。女性の扱いも上手いし、そう……きっと、ああいう方はどんな女性でも憧れるんではないかしら」
「ああ、そうかい」
 すぐに顔に出るのがこの元浪剣士の欠点である。あからさまに口をとがらせたレークを見て、クリミナはくすりと笑いをもらした。
「でも……まあ、トレヴィザン提督には美しい奥様がいるから。私なんかのことは、きっと、ただの小娘くらいにしか思っておられないでしょう。知っていた?提督の奥様……サーシャ夫人はあのレード公の娘なのよ」
「レード公の?」
「そう。つまりナルニアのお姉さんにあたるわね」
「へえ……そいつは初耳。そういや、あの国王のお妃も確かトレミリアの……」
「そう。ティーナ様。カーステン様の姉君よ」
「だったな。ああ……なるほど。トレミリアとウェルドスラーブのつながりは、そういう王家同志の結婚によるものだったんだな」
「ええ。だから、トレミリアはどんなことがあってもウェルドスラーブを裏切らないし、その危機に際しては互いに出来うる限りの援助をするという、昔からの不文条約があるの。ところでね……」
 クリミナは、少々いたずらそうな目をレークに向けた。
「トレヴィザン提督にサーシャが嫁ぐ前、実は……私もそのお嫁さん候補に上がったことがあるのよ」
「なんだと」
 思わずというように、レークは声を上げた。
「でもね、その時は私はまだたった十五歳だったし、父上も大変に反対したしで、すぐにお流れになったけどね」
「そりゃあ……そうだろうな」
「でも、もしそうなってたら、私は今頃は、ウェルドスラーブの提督夫人だったわけ。ふふ……そういうのもいいかもね」
 騎士たちの前では決して見せないような顔で、クリミナはまたくすくすと笑った。騎士の正装を解きそうしてくつろいでいる彼女は、年若い普通の女性となんら変わらなかった。レークは気づいていなかったが、あの夏の晩餐会の日から、彼女は少しずつこうした打ち解けた姿を、自然とレークの前で見せるようになっていた。
 バルコニーから、庭園とその向こうに見える海の方に目をやるクリミナの顔は……旅の疲れもあったせいかもしれないが、どことなく物憂げな美しさがあった。レークはその横顔を見つめて、つぶやいた。
「でも俺は……提督夫人なんかより、騎士のあんたの方が好きだね」
 すると、彼女はやや驚いたように顔を上げ、
「そう……」
 にこりと笑った。
「そうね。私も、たぶんその方が……好き」
「……」
 レークが思い描いていたのは、あのときのクリミナだった。
 ひらひらとしたスカートを揺らし、楽しそうに笑っていた……メルカートリクスでの一夜かぎりの祭り。松明に照らされながら、手を取り合って踊ったあの夜……
「……」
 あるいは、彼女もそれをふと思い出していたのだろうか。クリミナはかすかに頬を染め、目をそらした。
 潮の香りを含んだ風が南から吹きつける、この国特有の気候は、内陸のトレミリアと違い、人の気持ちを解きほぐし、おおらかにするのかもしれない。トレミリアでの二人とはやや違って、異国での互いの存在を、彼らは無言の中であらためて感じあっているようだった。
 バルコニーから見下ろす、港まで続くレイスラーブの町並みを、そうして二人はしばらく静かに見つめていた。
 白い壁の家々が連なる港町の景観、美しいセルリアンブルーの海、そして芳醇なクオビーンの香り……
 ウェルドスラーブの首都たるこのレイスラーブは、ダーネルス海峡を挟んだすぐ東側に、同じく海洋国家のアルディを見据え、巨大な湖のようなヴォルス内海の北側、自由国境地帯を抜ければ、そこはもう強国ジャリアの領土である。つまり、この三国は、ヴォルス内海を真ん中にして、北にジャリア、東にアルディ、西にウェルドスラーブという、ちょうど三角形の位置関係となる。
 この三国は、この数十年間はとりあえずの友好を保ちながら、国家間の貿易もそれなりに盛んだった。巨大なヴォルス内海の存在もあって、三国はこれまで互いの領土、領海を侵犯することなく上手くやってきたのだが、やはり最初の摩擦となったきっかけは、ジャリアの大陸間相互援助会議の脱退だった。それに続き、ジャリアとは古くからの同盟を結んでいたアルディが、同様に相互援助会議から脱退し、西側国家との事実上の断絶を表明すると、そこに残ったウェルドスラーブの立場は非常に微妙なものとなった。
 この三国の中でもウェルドスラーブという国は、これまでずっと西側の諸国……トレミリアやセルムラードとも親しく交易を重ねてきており、中でもトレミリアとの友好関係は、互いの王家の婚姻の交わりもあって、歴史的にも非常に強いもので結ばれていたし、つい二年前に、現ウェルドスーブ王がトレミリアからティーナ妃を迎えたことで、両国の絆はいっそう深まっていた。
 ジャリアがついにウェルドスラーブへの侵攻を開始した背景には、客観的に見れば、明らかに西側国家へ対する宣戦布告の意図があり、もっといえば対トレミリアへの威嚇であると言ってもよかったろう。ウェルドスラーブの危機となれば、当然トレミリアも黙ってはいられなくなる。ジャリア側の思惑には、ウェルドスラーブをつつくことで、むしろトレミリアを戦争に引きずり込むという目的もあったのだ。
 そして、それらすべての事情を見据えてさえも、やはりウェルドスラーブとしては、どうあってもトレミリアやセルムラードからの援軍を頼む他にはなかった。海軍の強力さでは世界一を誇るウェルドスラーブであったが、陸兵においては、パイクと呼ばれる長槍兵で知られる強力なジャリア軍に及ぶはずもない。緊迫した事態の中で少しずつ軍備を整えていたウェルドスラーブ軍であったが、あっけなく北端の国境都市バーネイが陥落したことで、戦力への不安は現実的なものとなった。それだけに、トレミリアから到着するはずの二千の兵は、ウェルドスラーブにとってはその数以上に貴重な戦力であったのだ。
「それにしても……気になるな」
「なんのこと?」
「ああ、サルマで別れた遠征隊の本隊さ。俺たちはなんだかんだで、コス島からこのレイスラーブまで三日近くも時間を使った。陸路であれば、どうのろのろ進んでもサルマからレイスラーブまでは三日とはかからないはずだ。そうだろ?」
「そうね。確かに」
 レークの言ったことは、彼女もここに来てからずっと考えていたことだった。
「トレヴィザン提督の話だと、本隊がスタンディノーブル城に着いたことは確かだそうだけど……」
「スタンディノーブルはウェルドスラーブ西端の国境都市だ。当然、国境警備のちゃんとした砦もあるな。そこからレイスラーブまでなら、普通に行軍しても二日はかからないはず。森も山もない平地の道のりだからな。てえことは……だ」
 レークは腕を組み、考えるように言った。
「なんだかは知らねえが、つまり、スタンディノーブルから出れない訳でもあるってことじゃねえか?」
「わけ……って?」
「さあな。ここにアレンでもいりゃあ、いろいろ情報を集めたり、分析ってやつをしてみて、なんか答えを出すんだろうけど。あいにく、俺は細かいことをあれこれと考えるのは苦手なんでな」
「それに、あれこれ考えたところで、それは、いずれ分かる事実の前には何の意味もなくなる」
 クリミナの言葉に、レークは感心してうなずいた。 
「へえ。さすが、肝が座ってますな。騎士長どのは」
「剣技会でのあの事件から、私も色々と教わったからね。思い込みや考えすぎは、自分の行動を鈍らせたり、ときに勇気もなくしてしまう。あのときのアレンや……レークの行動力、それに勇気には、貴族にはない自由な思考があったものね」
「はは。そりゃ、どうも……」
 彼女の口から、意外にも自分を褒める言葉を聞き、レークは照れたように頭を掻いた。
「ふふ。でもやっぱり……」
 彼女はこれまでほとんど見せたことのないような、いたずらそうな口調で付け加えた。
「金髪のアレンの、あのスマートな活躍ぶりの方が素敵だったかな」
「ああ、そうですかい。どうせオレはスマートではございませんさ」
 二人は顔を見合わせると、声を上げて笑いだした。
 それからほどなくして、部屋の扉がノックされた。
「失礼いたします。トレヴィザン閣下からのご伝言で、これより軍部首脳による軍議が行われますので、トレミリア宮廷騎士長、クリミナ殿にも、ぜひご参加いただきたいとのことです」
「承知した。すぐに向かいます」
 どうやら休息は終わったらしい。二人はさっと表情を引き締めた。
 立ち上がり、身支度を整え始めたクリミナの目はもう、いつもの女騎士のものに戻っていた。
「お前も……来るか」
「ああ!」

 案内された部屋に入ると、そこは臨時の会議室のようだった。大きな円卓を囲んで十数人の人間が座っており、彼らはウェルドスラーブの首脳陣だろう、なにやらさかんに議論をしているところだった。
 円卓上には地図が広げられ、それを指し示しながら人々に説明をしているのは、トレヴィザン提督だった。
「おお、いらしたか」
 提督は二人の姿を見るとうなずきかけ、空いている席へ着くように言った。
「皆様、こちらは、トレミリアからの援軍……貴重な物資を運んで来ていただいた、勇気ある部隊を指揮する友人たちだ。クリミナ・マルシィ殿、そして騎士レーク・ドップ殿。ここに居並ぶのが我がウェルドスラーブの重鎮たちであります。フェーダー侯こそおられぬが、この国の主立った顔ぶれです。お二人には見知りおきを」
 トレヴィザンの紹介を受け、二人はそれぞれに胸に手を当て、諸公たちに向かって騎士の礼をした。
「お久しぶりですな、クリミナ殿」
「マルカス公、御無沙汰しております」
 ここにいる何人かの貴族は、すでにクリミナとは面識があるらしい。それぞれ挨拶を交わして、また席に着いてゆく。
「さて、あまり時間がない。お二人のためにも、今後の行動の概要を、かいつまんでもう一度お話する」
 トレヴィザン提督が説明をはじめた。
「ジャリア軍一万五千がバーネィを陥落、町を占拠ののち、すでに軍勢は南下を始めている。斥候の情報によれば、その数はおよそ一万。残りの五千はバーネィに残したか、あるいは別行動をとっているかは定かではないが、ともかく、我が国の北の国境が突破され、ジャリア軍が現在も着実にこのレイスラーブに接近していることは確かである」
 提督の様子は、さきほど船上で会ったときよりも明らかにせわしなく、日に何度か入ってくる斥候からの最新の情報がそうさせているのだろうが、その表情はとても険しかった。
「現在のところ、考えられるジャリア軍の侵攻ルートとしては二つ。ひとつはヴォルス内海から船で直接このレイスラーブに接近するルート。ふたつめ、陸路の場合は最短だとディナブーリを突破して来るルートがある。だが、このどちらもいかにジャリア軍とてそう簡単にはいくまい。ヴォルス内海には、我がウェルドカラーブの誇るガレー船団が目を光らせている。またディナブーリは我が国では最も堅固な城砦都市。首都レイスラーブを守る要として兵員の増強にも怠りない」
「ならば、いかなジャリア軍とて、無用に恐れるには足りずというわけですな、提督」
 円卓を囲む面々の中では、まだ若そうな騎士らしき一人が声を上げた。
「まあ、今のところはそう言ってもよかろう。しかし、フレアン伯。油断は禁物。なにせ相手はあのジャリアの黒竜王子だからな。いったいどんな手で攻めて来るか知れたものではない。噂では、あの王子はただのいくさ馬鹿ではなく、それなりの策略を弄する知将でもあるらしいそうだ」
 トレヴィザンの言葉に神妙にうなずきながらも、フレアン伯は意気盛んな様子で拳を握りしめた。
「王子自ら侵略軍に加わるとは、いい度胸ですな。では、私が彼を倒して、この暴挙ともいうべき侵略行為の愚かさを大陸中に知らしめてやりましょうぞ」
「頼もしきかな」
 ぱちぱちと手を叩いたトレヴィザンは、若き騎士伯の勇敢さを称賛しつつ、すぐに冷静な顔つきに戻るとまた説明を続けた。
「さて、現状で我々にできることは、各主要都市の兵員の増強と、ジャリア軍の動きを見極めて、できればその先手をうつことだが。知ってのとおり、陸軍に人数をかけすぎると、逆にヴォルス内海側からの水路での侵攻を許すことにもつながりかねない。そういう意味では、やはりアルディの今後の動きも気になるところではある。あの国は完全にジャリアと手を結び、我々……そして西側諸国と事を構えるつもりなのか。あるいは、今のところは単にどちらにもつかず傍観者でいるつもりなのか。そこがどうもいま一つはっきりしない。まあ、アルディにも最近はなにかと内部のゴタゴタがあるようだからな。ともかく、重要なのは兵力の分散をなるたけ避けることだ。相手が一万か、一万五千か、どちらにしろ、正面からジャリア軍を受け止められる程度の兵力は、レイスラーブと、ディナブーリには置いておきたい」
「すると、両都市に三万ずつ……いや、むしろディナブーリに五万、レイスラーブには一万でもいいくらいですな」
 小太りの貴族が手を挙げて意見を述べた。
「どのみちディナブーリを突破されれば、このレイスラーブは背後に海を背負っていて逃げ道はない。最悪、籠城した場合には、三万の兵では十日と食料が持たないでしょう」
 提督はうなずいた。
「ラバエフ侯のおっしゃる通りですな。このレイスラーブはジャリア軍と正面きって戦う場所ではない。できうることなら、なんとかディナブーリまでの間で決着をつけてしまいたい。あるいはこのレイスラーブを守りつつ海戦に持ち込めれば、我々の勝機はさらに高まるでしょう。なので、ガレー船団の方は数を減らさないまま、ヴォルス内海に集結させましょう。陸の方はディナブーリを拠点として兵を集め、ジャリア軍の動きを見ながらそこから前線となる所に兵を投入する、という方向でいかがかと」
「それがよいですな」
「私も賛成です」
 諸公からの賛同の声を受け、トレヴィザンはまたうなずくと、今度はクリミナとレークに向き直った。
「という感じです。現在のところは。トレミリアの方々としてはいかがですかな?」
「異存はありません」
 女騎士クリミナがすっと立ち上がると、人々は一斉に彼女に注目した。
「というよりも、現在のところ、私はトレミリア遠征軍から離れ、十数名の小隊を率いて補給物資を届けるという任務を与えられた身です。遠征隊の隊長であるセルディ伯こそが、トレミリア軍としての指針を決定するお立場ですから、その指揮下にある私はトレヴィザン提督の方針に口出しする立場にはありません。そして、もちろん、私個人としても、提督のお考えには賛同いたしたいところです」
 その堂々とした態度に、諸公たちから拍手が上がる。
 クリミナは一礼して席に着いた。
「ご丁寧なお言葉をちょうだいし、痛み入ります。それでは、少なくともトレミリアの遠征部隊と合流するまでは、ウェルドスラーブ軍としては、現在決まった方針で動きたいと思いますが……」
 そこまで言って、トレヴィザンは言葉を切った。
「……」
「どうかされましたか、提督」
 提督は、何かに気づいたというようにぎゅっと眉を寄せ、その口元を引き結んでいた。
「いや、どうも騒がしいようだ。なにか……」
 扉の方を振り返って、そこまで言いかけたとき、
 慌ただしい気配とともに、いきなりどんと扉が開かれた。
 そこに転がり込むようにして、一人の騎士が部屋に入ってきた。
「何事だ!重要な会議中であるぞ」
 列席の諸公からの叱責に、騎士は床にひれ伏した。
「は、はっ……申し訳、ありませぬ。只今、緊急のご報告がスタンディノーブルより……」
「なんだと!」
 提督の声が変わった。
「スタンディノーブルへの斥候は行方知れずとなっていたと思ったが……」
 よほど急いで馬を駆らせてきたのだろう、騎士はひどく疲れ切った様子で、その顔といい鎧といい泥だらけであった。
「……ご報告、よろしいでしょうか」
「よし。かまわぬ。スタンディノーブルで何があったのか、報告せよ」
「はっ」
 最後の力を振り絞るかのように、騎士はよろよろと立ち上がった。
 円卓を囲む諸公たちが固唾を飲んで見守る。その中で、かすれた声が室内に響いた。
「スタンディノーブルは……只今、現在ジャリア軍五千の包囲を受け、城は攻防戦のさなかにあります!」
「なっ……」
 一瞬、その場の人々は言葉を失った。
「なんだと!」
「ジャリア軍……五千!」
 諸公たちから一斉に声が上がる。
 思わず立ち上がるもの、卓をたたくもの、室内はにわかに騒然とした空気に包まれた。
「そんな……馬鹿な!」
「そんなことが、いったい……」
「方々、まずは落ち着かれるがよかろう」
 人々の動揺が広がる中を、あえて激昂を抑えるような低い声で、トレヴィザンが言った。
「それはまことであるのか」
「はっ。事実であります……」
 騎士は泥だらけの顔を提督に向けて、その声を震わせた。
「私は……斥候隊の使命を受け、現地にゆき、この目でしかと確かめましてございます。ジャリア軍はスタンディノーブル城を完全包囲。おそらくトレミリアの遠征隊とフェーダー侯も、スタンディノーブル城から出るに出られぬ状況かと思われます。なんとか城に近づこうと試みましたが、ジャリア軍の包囲は厳しく、断念いたしました……。帰還の最中にジャリア兵に発見され、斥候隊は……私を残して全滅。かろうじて、こうして私一人が帰参した次第でございます」
 そこまで話すと、騎士はぐったりと両手を床につき、苦しそうに咳き込んだ。
「……」
 トレヴィザンも、その場にいたウェルドスラーブの諸公たちも、誰もが皆、声を失ったように静まり返っていた。
「なんと……」
 決して物事に動じないトレヴィザン提督が、眉間に皺を寄せ、しばらく無言のままその顔を引きつらせていた。だがそれも無理はない。バーネイ陥落の報からほんの一日もたたないうちに、次は西の国境都市スタンディノーブルがジャリア軍に包囲され、攻撃を受けているというのだ。それは信じがたいまでの展開の早さだった。
「バーネイから、スタンディノーブルまで……どう急いで行軍しても丸一日はかかるはず。どう考えても早すぎる。いったい……どうやって」
 つぶやきながら、トレヴィザンは卓上に広げられた地図に目を落とした。そしてすぐに何かに気づいたように、その目がはっと見開かれる。
「マトレーセ川か……」
 提督の口から出た言葉に、人々から「ああ」というため息にも似た声が上がる。
 ウェルドスラーブ北端の都市バーネィから、南に向かって西側の国境沿いに流れるマトラーセ川……その流れを使えば、確かにスタンディノーブルまでは半日とかからないだろう。
「しかし、提督。五千もの兵を乗せてゆくには、数十隻の船がいるはずです。ジャリアにはそんなに多くの船はないはず」
 フレアン伯の言葉にもトレヴィザンは重たく首を振った。
「マトレーセ川は、ヴォルス内海とつながっている。もしヴォルス内海にアルディの船団が用意されていたとしたら?」
「しかし……ということは、アルディは明確にジャリアと手を組んだということですか?もしそうなら……なんてことだ」
「いや、まだわからん。それに、たとえそうだとしても、アルディ側としてはあくまでジャリア軍に押し切られて船を提供したにすぎないと、事後の責任を回避する恰好をとるだろう。しかし、ともかくも事態は我々の予想を越えて進んでいる。それは確かだ。ここは、早急にスタンディノーブルへの派兵をするべきだろうな。ラパエフ侯はいかが思われる?」
 提督に名を呼ばれて、小太りの貴族が立ち上がった。
「私もここは一刻も早く、スタンディノーブルへ援軍をやるべきと思います。しかし、残念ながら遅すぎるくらいですな。これから、兵を編成したとして、いかに早くとも出立は明朝となりましょう。そうなると、スタンディノーブルまでの距離を考えて、早くても兵が向こうに着くのは明後日。ジャリア軍の攻撃がどの程度かは分かりませんが、あの城は国境の砦とはいいながら、バーネィよりもさらに古い城ですから、何日耐えられるか……」
 軍略の専門家であるラパエフ侯の言葉に、人々は一様に落胆の表情を浮かべた。
「なんてことだ。もし、スタンディノーブルが陥落したら……」
「そうだ。そうなったら西側の国境ラインはすべて、ジャリア軍に落ちたことになる。そうなると、今後のトレミリアやセルムラードからの援軍は、こちら側にたどり着けず……我々は孤立してしまう!」
「そうなったらもはや勝ち目はないですぞ!」
 諸公たちは、それぞれに考えられる最悪の事態を言い、口角泡を飛ばし合った。
「しかし、このまま手をこまねいているよりは、少数でもいいから即座に増援部隊を派遣すべきだろう」
「いや、そんな小隊をやったところで、結局ジャリア軍に蹂躪されるのみだ。むしろ、ここは大部隊を完璧に編成してだな……」
「そんな時間はない。スタンディノーブルを見捨てる気か!あそこにはトレミリアの遠征軍や、フェーダー侯もおられるのだぞ」
「それはまだはっきりとはしていないだろう。むしろ、トレミリアの遠征軍の行方をつきとめて、そちらと合流することを考えた方が得策だ」
「そんな悠長なことはしていられない!スタンディノーブルが落ちたら、次はジャリア軍はこのレイスラーブを目指してくるのだぞ」
 人々は声高に己の意見を主張し合い、この状況に対する何か最善の策がないかと考え続けた。しかし、そんなうまい作戦が突然降って湧いてくるはずもなく、結局のところは、小部隊でもいいからすぐに派兵するか、それともじっくりと大部隊を編成するかの、二つの意見が大勢を占めた。
 トレヴィザン提督は腕組みをしたまま、じっと諸公たちの意見を聴いていたが、一見冷静に見える提督とて、同様に焦りの色をにじませていた。その額には血管が浮きだし、眉間に皺を寄せたその表情はひどく険しかった。
 もう時間がないのは明白だった。
 こうしている間にも、ジャリア軍はスタンディノーブル城を包囲し、攻撃を開始しようとしているのだ。城には常駐の兵がいるにしろ、その数は千人がいいところである。時間がたてばたつほど、こちらには不利になるばかりであった。
 もはや一刻の猶予もない。そんな空気のなかで、トレヴィザンが口を開いた。
「ともかく。兵は出さねばなるまい。それも早急にだ」
 諸公たちはそれに賛同を示すようにうなずいた。
「ジャリア軍が五千というなら、最低でもこちらも同数の兵を出す必要がある。これから陛下に報告して、すぐにその命令を下すことになろう。異論のある者はいるか?」
 誰も声を上げるものはいなかった。
「よし、それではすぐに部隊の編成にかかるとしよう。では……フレアン伯」
「はっ」
「伯を今回の部隊長に任ずる」
「有り難き幸せ!」
 勇んで立ち上がった若き騎士伯に、諸公たちから拍手が上がる。
「お集まりの方々、それでよろしいようなら……」
「ちょっと待った!」
 拍手を遮る別の声が上がった。
「これは、レーク殿……でしたかな。なにか?」
 フレアン伯がそちらに目を向ける。
 クリミナの隣に座って、これまでおとなしく人々の話し合いに耳を傾けていたレークは、軽く手を挙げながら立ち上がっていた。
「ああ、すまねえな。ずっと座ってて疲れちまったい」
 緊急の事態に際しているとは思えぬ呑気な様子で、彼はこきこきと首を鳴らした。
 一人のよそ者騎士が、これからいったいなにを言い出すのかと、人々はざわめいた。
 その視線を一身に受けながら、
「しょうがねえな」
 レークは円卓の諸公をぐるりと見回した。
「なら、俺が行く」
 彼はそうひと言……はっきりと部屋中に聞こえる声で、言った。
 横で立ち上がりかけたクリミナと、口許を引き結んだままじっと黙っているトレヴィザン提督。
 その二人の顔を見やり、レーク・ドップはにやりと、不敵に笑ってみせた。


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