水晶剣伝説 V ウェルドスラーブへの出発

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 出発

 賑やかな晩餐会に彩られた夏も終わり、咲き誇っていた大輪のアミラスカもその花を落とし、都市内にガーマン山地を伝って涼やかな風が吹きはじめる頃、
 トレミリアの首都フェスーンから、武装した兵士たちの隊列が出発しようとしていた。
 銀色の鎧兜に身を包んだ、馬上した正騎士たちを先頭に、それぞれに剣や槍を携えた歩兵、弓を背負った弓兵がずらりと隊列を組み、今、彼らはフェスーンの青の砦の城門を出ようかというところだった。
 今回の出兵は、表向きは友国であるウェルドスラーブからの客人、フェーダー侯爵の護衛という名目であったが、多くの人々はこれがウェルドスーブからの派兵の要請についにトレミリアが応えたものである、ということをすでに理解していた。騎士大隊二個を含む、総勢約二千名ほどの兵士たちは、ただの護衛任務にしては皆しっかりと武装しており、なにより侯爵とはいえたった一人の客人の供にしては見た目にも大仰すぎた。
 とはいえ、国を挙げての正式な出兵とするには、ジャリアからの宣戦布告も届かぬ今ではまだ時期尚早であるから、トレミリア側としては護衛という名目でしか堂々とは派兵は行えない。出発する兵士たちを見送るため、マクスタート川を隔てた都市側の土手に集まった市民たちも、この出兵に関する事情や憶測をそれぞれに述べ合いながら、朝日に照らされて輝く銀色の兜の一団を見つめるのだった。
 通常であれば、大々的に取り行われる閲兵式での高らかならっぱも、国王による兵士たちへの演説もこの度はなく、一団はただひっそりと砦を出発した。馬蹄の響きと馬のいななきが、フェスーンの市壁の外でこだまする。
 先発の騎士の馬がゆるゆると動きだし、続いて歩兵たち、旅の食料物資を運ぶ馬車などが列をなしてゆく。よくよく見れば、トレミリアの三日月紋を付けた銀の鎧の正規の騎士姿にまじって、いかにも余った鎧を不揃いに着ている兵士たちの姿もあった。馬上の騎士たちに先導されるように、隊列の中程をゆく彼ら歩兵たちは、その歩き方からしても本職の騎士たちの整然とした様子とは異なるものだった。
 かねてより、剣技会で集められた剣士たちを傭兵としたこの一隊の存在を知るものであれば、この隊列の中の約二割ほどが、そうしたいわば寄せ集めの剣士たちであったとしても、さして驚きはしないだろう。中には鎧すら間に合わなかったのか、粗末な革の胸当てに少々錆びついた剣の鞘を腰に吊るした、いかにも「元浪剣士」といった風貌の者もいた。彼らは隊列に合わせて歩きながら、きょろきょろと辺りを見回したり、堂々と近くの者と大声で話をしたりして、時折馬上の騎士から叱責をかったりしていた。
 その、トレミリアの兵隊にしてはやや品性に欠ける者たちの中に、あの剣技会優勝者……試合では凄まじい剣の腕を見せつけ、さらには優勝したのちに間者の疑いをかけられながら、その危機をドラマティックに乗り越えた、あの兜をつけぬ剣士の姿がないかと、川を挟んで隊列を見守る市民たちは探していたかもしれない。
 しかし、彼はそこにはいなかった。
 レーク・ドップはちゃっかり馬上にあった。ややお仕着せめいた銀の鎧に身を包み、案外堂々として美しい鹿毛の馬にまたがり、白テンの毛皮が裏打ちされたマントを颯爽となびかせていた。
「やあ、気持ちのいい朝だな」
 なんだか偉そうにそうのたまう様は、まるで横柄な貴族騎士といった風だった。だが無論、彼はもと浪剣士のにわか騎士でしかない。
「あまり近くに寄るな」
「なんでさ?」
「いいから。私の傍に来るなと言っている」
 レークの馬の横の、見事な白い葦毛に跨がる騎士が、低い声で言った。
 すっぽりと兜をかぶってはいたが、そこからはみ出した艶やかな栗色の髪が、それが誰かを物語っていた。
「んなこと言ってもよう、騎士長さん」
「私に話かけるなと言っている、レーク・ドップ」
 迷惑そうにそう言った白馬の騎士は、もちろんトレミリアの宮廷騎士長、クリミナ・マルシィであった。
 白銀の鎧兜をすらりと着込み、馬上でぴんと背筋を伸ばして鋭く前方を見据えるその姿は、凛々しくも勇ましい騎士姿……おそらく遠目に見れば、誰であるとは気づくまい。
 今回のウェルドスラーブ遠征に際し、全軍の指揮権を持つレード公爵は、当初は若い宮廷騎士団の面々は伴わないことを宣言していたのだが、それに不服を唱えたクリミナは、自身でレード公に何度となく懇願し、結果、ようやく宮廷騎士団の数人がこの遠征への帯同を許されたのであった。それというのも、宮廷騎士団の一員であったはずのレーク・ドップが、何故かいきなりレード公配下の正騎士として任命され、この遠征に参加するということを聞かされて、形式上は自分の部下であるレークがそうした晴れの舞台に参加するのに、いったいどうして宮廷騎士長である自分がただそれを見送る側に立てようかと、彼女が強く憤慨を抱いたことに始まる。また同時に、彼女自身の使命感……宮廷騎士として、愛するトレミリアと友国のために己のこの身を役立てたいという、その純粋な気持ちも大きく作用した。
 馬上で前を向きながら、さかんに傍に寄ってくる元浪剣士をなるたけ見ぬようにしつつ、それでも彼女の心中はいまだ複雑であった。
「よう、騎士長どのってば。なにせ一応はさ、俺だってまだ宮廷騎士の一員なんだし……そりゃレード公に頼まれて王国の正騎士ってやつも引き受けたがよ、あっちは全然知らないやつばっかだし、つまんねえから。だからこうして宮廷騎士同志ってことでさ、一緒に馬を並べて旅した方が楽しいだろう?」
「……」
「よう、騎士長さん!クリミナさんってば」
 まっすぐに前を見て手綱を取っていたクリミナだったが、名前で呼ばれてさすがにキッと馬上でレークを振り向いた。
「……だったら、もっとお前がよく知る、後ろの傭兵たちと一緒にいた方がいいのではないか?」
「だって、あいつらは歩きだし。仮にも俺は騎士になったんだからさ、あんまり奴らと一緒にいるのも騎士としての示し……ってやつがつかねえかなって、思ったりして」
 クリミナの横に馴れ馴れしく馬を寄せながら、そう言ってレークは後ろを振り返った。
「騎士としての示し……そんな言葉がお前から出るなんて」
 クリミナはくすりと笑った。
「あーっ、ひでえ。俺だってもうそういうことを考えたりするんだぜ。いつまでも浪剣士扱いしないでくれよ。差別だ差別!」
「いや、そういうわけではないけど……」
 クリミナは多少は声の調子をやわらげ、ちらりレークを見た。
 彼女は、あの晩餐の夜以来、それまでとは少しずつ、レークに対する態度を変えはじめていた。
 あのレード公邸での晩餐で起こった出来事がそれに大きく係わっていたが、その忌まわしい事件の記憶は、もう彼女は頭の隅に追いやっていた。とにかく、彼女は少しずつ……レーク・ドップという存在を、宮廷騎士団の一員として、そして一人の人間としても、受け入れ始めていたようであった。それは、ウェルドスラーブへの出兵が正式に決まり、宮廷騎士団でも有事の際のためにと、いよいよ真剣を使っての実戦訓練を始めた際、若い貴族たちに実戦での剣の使い方を教えるという役を、ほかならぬレークに任せたことにも表れていた。
 レークは慣れない様子で講師役を務め、これまでレイピアしか使ってこなかった少年の騎士たちに、身振り手振りで剣の実技を実践してみせた。そうしたときには、彼は普段の稽古に比べてひどく一生懸命だったし、自分が人にものを教えるという経験をあまりしてこなかったことに四苦八苦しながら、ときに額に汗をかきつつ、クリミナと共に剣術指南に励んだのである。
 そうして、ついに宮廷騎士団からもわずか数人ではあったが遠征に加わる人員が決まり、選ばれた者らははじめての出兵に緊張を高まらせつつ、こうしてその朝を迎えたのだった。もちろんクリミナ自身にしても、このような……表向きは護衛任務ではあったが……国家間の有事における正規の出兵というのはまったく初めての経験であり、これからもしかして本当の戦が始まるかもしれないのだ、という高ぶりと恐れに、人知れず身震いもした。
 しかし、いざ青の砦を出発して、粛々と隊列が移動する道中においても、まったく緊張感のないばかりか、その馬上で飄々とした笑顔さえ見せているこの浪剣士の存在は、意外にも彼女に奇妙な安堵をもたらした。この男の陽気さ、まるで遠足にでも出掛けるような気軽な面持ち、いつもと変わらぬ減らず口……これはなんなのだろうと。
 彼女に並んで馬を歩ませながら、ときおり口笛を吹き、空を見上げるその元浪剣士の若者が、今は何故だか、頼もしく思えてならなかった。馬上に上がるまでは、息苦しいような気分であった彼女の顔にも、今は不思議と穏やかな笑みも浮かんだ。もちろん、それは兜に隠れて誰にも見えなかったが。
「レーク・ドップ……」
 ややおずおずとした声で、馬上の女騎士はその名を呼んだ。
「ああ?なんだい」
「その……お前は、怖くはないんだな」
「怖く?」
 レークはきょとんとした顔で聞き返した。
「ああ、全然。だって、まだ戦ははじまってねえし」
「それはそうだろうが……」
「それにさ……空は晴れているし」
 そう言ってレークは、気持ち良さそうに、見事に晴れ上がった空を馬上から振り仰いだ。
「朝のうちから馬で遠乗りなんて、久しぶりだなあ。以前はずっと旅をしていたから、こんなのも当たり前だったが。やっぱ朝の空気ってのはいいもんだ」
「……そうだな」
 兜の中で小さくつぶやく。彼女のその口許にも、青空に似た微笑みが浮かんだ。

 隊列はゆるゆると、マクスタート川にそって下流へ伸びる街道を進んでゆく。
 今回の遠征でウェルドスーブに派遣されるのは、トレミリアの正騎士隊二個大隊に加え、先の剣技会で集められた傭兵剣士から成る、合計二千人ほどの兵士たちだった。傭兵として参加している剣士たちの中には、レークが剣技会で戦った、いわば顔見知りの剣士もおり、そうした仲間がいるということはレークにはなかなか心強かった。いくら騎士となったとはいえ、貴族たちに囲まれた上品な生活というものはまだまだ性に合わぬことも多く、レークは宮廷に住むようになってからも、こっそり傭兵剣士たちの宿舎に遊びに行って、一緒に酒を飲んだり、くだをまきあって騒いだりしていたのだった。
 今回の出兵が正式に傭兵たちに告げられたとき、彼ら傭兵たちは、己の剣で名声を上げられる実際のチャンスとばかり、大いに喜び、意気軒昂に拳を突き上げた。正騎士のように主君への忠誠心で結ばれたわけではない彼らにとっては、より実際的な報酬……つまり金と名声の契約こそがすべてである。ウェルドスラーブへの出発の日取りが決まると、彼らは己の剣をせっせと磨きはじめ、来るべき実戦に向けての備えを始めたのだった。
 今回の遠征隊の隊長をまかされたのは、オーファンド伯爵の甥にあたる若きセルディ伯爵である。彼は貴族の青年にしては、なかなか剣の方もたしなみ、その心は愛国心と正義心に強く、自身が自らウェルドスラーブ行きをレード公に強く訴えたのだともいわれる。
 そのセルディ伯のもと、レード公騎士団、マルダーナ公騎士団、ロイベルト公騎士団、スタルナー公騎士団の中から選ばれた精鋭たちが集結し、この遠征隊の主力を構成している。彼ら正騎士たちには、今回の任務が実戦をともなうかもしれぬ大変に危険なものであることも、当然告げられている。国王よりじきじきに、新たな剣を授かった騎士たちは、それぞれに高ぶりと緊張とのもと、馬上に上がったのだった。
 トレミリアの騎士たちの隊列は、だがその内に秘めた昂りを隠すように、粛々と南への街道を進んでゆく。
「全体小休止!」
 太陽が中天に差しかかるころ、隊列に号令がかかった。
 すでにフェスーンからはかなり南下し、都市外の農耕地を過ぎてからは、辺りには人家もまばらになり、今は街道の両側に青々とした森林が広がっている。ガーマン山地の山々の雲がかった斜面を見ながら、南へ、南へとひたすら下ってきたのだ。
「なんだ、もう休憩か?」
 周りの騎士たちが馬を降りるのを横目に、レークは不満げにつぶやいた。
「俺の方はまだ全然、余裕のへいちゃらだってのに、貴族騎士の方々はもうそんなにお疲れなんですかね?」
「そういうわけでもないだろうが、とくにお客人……フェーダー候がおられるのだからな。それは気を使うさ」
 そう言ってクリミナも馬から降りると、久々の長い騎乗に強張った腕を伸ばした。フェスーンを出発してから一度も外さなかった兜をようやく脱ぐと、額の汗をぬぐい、栗色の髪をかきあげて、ほっとしたように息をつく。
 トレミリアでは顔を知らぬもののない彼女が、名目上はフェーダー候の護衛任務にウェルドスラーブまで動向するというのは、どう考えてもやや不自然であるし、あるいは事実上の派兵としても宮廷騎士長自らが遠征に加わるという事態は、人々に無用な動揺を与えかねない。だから、トレミリアを出るまではなるたけ人目を避け、女騎士クリミナではなく、ただの一介の騎士としてふるまうこと。それが、彼女が遠征隊に参加することを許可された際に、レード公からも念を押された事項だった。
「フェーダー候ね。遠目にちらりと見ただけだったが、なかなか品のいいオッサンて感じだったな」
 馬から飛び降りたレークは、街道ぞいに伸びた長い隊列をあらためて見渡した。馬を降りた騎士たちはそれぞれに地面に腰を下ろし、昼食の準備にかかりはじめた食事係が周りを忙しそうに行き交う。小姓たちは主人の馬に水と飼い葉をあてがうのにおおわらわだ。
「さて、私はセルディ伯の元にゆくが……お前も来るか?」
「ああ」
 隊列の先頭付近には、比較的大きな天幕が立てられていた。入り口に立つ見張りの騎士にうなずきかけると、クリミナとレークはその中に入った。
 天幕の中は、仮の休憩場にしてはなかなか居心地が良さそうであった。おそらく客人のためのものだろう、テーブルや簡易椅子もしつらえられ、飲み物や食べ物を運ぶ姓たちが動き回っている。
「おお、これは騎士長どの」
 声をかけてきたのはセルディ伯爵だった。
「どうぞおかけを。おや、そちらは……」
 伯爵はクリミナの後ろに立っているレークに目を止めた。
「これはレーク・ドップ。一応宮廷騎士の一員です。今はレード公の騎士でもあるそうですが」
「おお、君が」
 伯爵は興味を持ったように近づいてきて、レークに握手をもとめた。
「あの剣技会で優勝して騎士になったという。いずれは会ってみたいと思っていたよ」
「はあ、どうも」
 差し出された手を仕方なく握り返しながら、レークはいい加減に挨拶をした。アレンからは、貴族や身分ある騎士に対してはちゃんと礼儀を尽くすのだぞと言われていたものの、とっさに気のきいた挨拶をして相手に気に入られることなどは、この不器用な浪剣士にはどだい無理な相談であった。
「レーク・ドップ、君の剣の腕前は噂で聞いている。よろしく頼むぞ」
 しかし、セルディ伯は横柄な態度に眉をひそめることもなく、にこにことしている。その点では貴族の中でも、彼が人のいい部類なのだと、いかにレークにも察せられた。金銀細工のほどこされた白いラシャの戦衣姿は、これから実戦を迎えるかもしれぬ遠征軍の隊長というには、どうも少々上品すぎるような様子であったが。
「すでに聞いているかもしれないが、私はオーファンド伯の甥にもあたるんだよ」
「オーファンド伯……ああ、レード公の晩餐で会ったっけな、そういや」
「ふむ。君はすでにレード公や、オライア公とも面識があるのだったね。そして、こちらの……クリミナ殿とも親しく近づきになっている。なんともうらやましいものだ」
 そう言うと、セルディ伯はふっとため息をついた。金色の巻き毛のなかなかの美男子であるこの伯爵が、宮廷騎士長クリミナ・マルシィを深く敬愛しているということは、宮廷では半ば公の事実であった。
「これはクリミナどの」
 天幕の奥にいた、すらりと背の高い痩せた貴族が近づいてきた。
「こちらはウェルドスラーブのフェーダー候。騎士長殿とは何度かお会いしているね」
「ええ、ごきげよう公爵閣下」
「ははは。堅苦しい挨拶はよしにしましょう。それより、この度はこのような見事な遠征隊を派遣していただき、我がウェルドスラーブとしては心強いかぎりです」
 知的な顔つきでうなずくフェーダー候は、ウェルドスラーブの宰相であり外交官でもある。侯爵自身、トレミリアには何度も訪れており、友国同志の会議や実務の協議に参加するなど、精力的に動いている。年齢的にはセルディ伯よりもいくつか年上であろう、落ち着いた雰囲気とやわらかな物腰は社交的な印象で、その柔和な顔つきの中に、そのグレーの目だけは、何事をも見逃さぬような聡明な光を放っている。
「こちらがレーク・ドップどのですな。よしなに。君の活躍ぶりは剣技会での試合から見させてもらっていた」
「ああ、そりゃどうも」
 フェーダー候は穏やかな笑みを浮かべ、まじまじと浪剣士を見た。
「あの剣の腕、そして度胸……とても見事なものだった。君のような剣士が味方として我が国に来てくれるとは、これはまさに百万の剣を得たようなものだな」
「いや、それほどでも……ありますがね」
「さあ、ともかくお三方、席につかれよ。この休憩時間のうちに、今後の予定の確認などをしてしまおう」
「俺もここにいていいんですかね?」
「もちろん」
 セルディ伯はうなずいた。
「実のところ、君のことは、騎士たちのリーダーくらいに扱うようにと、レード公から進言されてもいるのでね」
「はあ。そりゃ……どうも」
 四人が向かい合って席に着くと、そこにもう一人……大柄の騎士が天幕に入ってきた。
「ああ、あんたは……」
 思わずレークは立ち上がった。
 正騎士の鎧に身を包んだその騎士が、レークの顔を見てにっと笑う。
「遅れて申し訳ない。騎士たちへの指示に少々手間取ったもので」
「すでにご存じかもしれないが、今回の遠征隊の副隊長である、ブロテ騎士伯だ」
「ブロテ……あんたか」
 かつての剣技会の馬上槍試合において、槍を交えて戦った、巨漢の騎士ブロテ……その見事な体格と力強い槍さばき……あの戦いをレークは今でもはっきりと覚えていた。
「レーク殿、その節は試合にておぬしと戦えて、光栄だった」
「ああ……こっちこそ」
 二人はがっちりと握手を交わした。
「なるほど。これであの剣技会での勇者たちが、ここに二人揃ったというわけか」
 フェーダー候の言葉通り、トレミリアでも指折りの騎士ブロテと、元は名もなき浪剣士であったレークが、こうして同じ目的を持つ遠征部隊の中で再会し、手を握り合うというのは、なんともドラマティックな光景であった。
「いやいや……なんとなれば、こちらに女騎士クリミナ殿もおられるのですから、名だたる三人の騎士ですな。これは……なんとも心強いことだ」
 フェーダー候には、物語やドラマ的なものを賛美する気質があるらしい。すっかり感動した様子でそう付け足した。
「まったく。そう考えれば、この精鋭あらばジャリア軍も恐るるに足らずと、こういうわけですな」
 つられたように言ったセルディ伯であったが、まだ対ジャリアについての言葉をおおやけに口にするのは尚早であったことに気づくと、慌てて口を閉じた。
「大丈夫。天幕の外までは聞こえてはおらんでしょう。それに、どのみちここに参加している騎士たちにも、事の成り行きと、目的とはもう薄々感じられているでしょうからな」
「ええ。ですが、やはりレード公にもくれぐれもと言われておりましたからな。トレミリア国内を出るまでは、これは極力ただの護衛部隊であって、ジャリアとの戦云々といったことは、とくに一般の兵の耳には届かぬようにしなくては。サルマの町に着く前に、騎士たちにもそれは徹底させるよう伝えておかないと」
「ですな。おそらくウェルドスラーブに入る頃には、この部隊の情報も、もう多くはジャリア側に悟られているでしょうが、少なくともそれまでは、トレミリアの出兵という事実は隠せるのならそれにこしたことはない」
 ブロテの言葉に、クリミナとセルディ伯がうなずく。
「さて、これからの予定ですが」
 セルディ伯はテーブルに周辺の地図を広げ、そこに記された街道を指でなぞりながら説明した。
「今日の夕刻までにはサルマに着けるかと思われます。そこで一泊し、翌朝にヨーラ湖から乗船してマクスタート川をくだって海に出る。船でいったんコス島に立ち寄って食料、その他必要物資を補給し、再び乗船してレイスラーブへ向かう……ということになります。数えて三日と半日ほどの行程ですな。なにかご質問は?」
「では」
「どうぞ、クリミナ殿」
「我々の人数に関しては、すでにサルマの町には連絡がいっているのでしょうから、騎士や兵士たち三千人が寝泊まりする場所についてはまあよしとして、問題は船ですが……」
「ヨーラ湖の港で、大型のガレー船を含む十隻がすでに完成したという報を受けています。
確かに、数についてははっきりとしなかったが、きっと問題はないかと」
 セルディはやや楽観的に言った。
「ではそれに乗り込むとします。ところでガレー船であるからには漕ぎ手が必要です。そしてその人員となるのは、我等騎士たちということになる。騎士の中には……あるいは大半の傭兵たちは、ガレー船の漕手の経験がないかと思われますが、そのあたりの不安はどうなのでしょうか?」
「そうだな。俺もガレー船のあの重たい櫂を持ってみたことはあるが、ちゃんと漕いだ経験はない。あれはそうとうきついぜ」
 レークの言葉に隣のブロテもうなずいた。
「確かに。なんといっても、トレミリアは内陸の国ですからな。まずガレー船に乗る経験などあまりない。ましてや、ウェルドスラーブへ行くのには、通常ならロサリイト街道を使って陸路でゆくのが最も早いわけですから」
「先日の、ロサリイト街道がジャリア軍によって封鎖されたという情報が、どうやら確かであるようなので、ウェルドスラーブへは海から行くか、そうでなければあるいは、ロサリイト街道からアラムラ街道に入るルートをとるかしかない」
 地図を指さしながらセルディ伯が言った。
「アラムラ街道は……難儀ですな。最近は山賊なども多く出ると聞きますし、道もいりくんでいて、とても大軍の行軍には向かない」
「今のところ、ヨーラ湖から船でマクスタート川を下り、レイスラーブへ……あるいは潮と風向きによってはスタンディノーブルから上陸し、そこから陸路でレイスラーブを目指すかということになる。そうなると、やはりこんなことなら、確かに早いうちから騎士たちにガレー船の訓練をさせておくべきだったとも思うが……それを今更言っても仕方ない」
 セルディ伯は地図上をなぞって、ウェルドスラーブの北端を指した。
「最新の情報では、このバーネイ付近にジャリア軍が布陣したということだ。つまり、奴らはここを押さえることで、ロサリイト街道を封鎖し、事実上、我々トレミリアとセルムラードからのウェルドスラーブへの援軍を陸路では阻むことができるわけだ」
「この際、ロサリイト草原でジャリアと一戦交える、という手もありましたがな」
 いかにも勇猛な戦士らしくブロテは言った。だが、セルディ伯は首を振った。
「これは陛下ともども、すでに会議でくだされた決定だ。戦は最終的な手段にすぎん。まずはウェルドスラーブに行き、そこでジャリア側の出方を待つ。受け身ではあるが、今の我々には他の方法はない」
 人々は黙り込んだ。こうして聞かされると、大陸の情勢の推移が、そうそう悠々閑々と構えていられるものではないと、あらためて実感せざるを得ない。
「陸路なら、即交戦。海路でウェルドスラーブに着いても、結局は交戦と……そういうことなんだろう。要は。なら俺だったら、さっさとロサリイト草原で戦いをおっぱじめたいけとね。まあ、お偉方の決めたことだ。こちとらはどうしたってそれに従うまでさな。せいぜい船の上で剣を磨いておくことにするよ」
 そう言ってレークがにやりと笑うと、
「実に頼もしい」
 フェーダー候がぱちぱちと手を叩いた。
「こういう戦士が我がウェルドスラーブにも欲しかった。どうだなレーク殿、いっそのこと我が国の騎士にならぬか。なんなら土地も名誉も地位も、そして望みの女でも、なんでも与えるぞ」
「うほっ、それはいいや」
 半ば本気の顔つきで言ったレークを、横からじろりと女騎士が睨み付ける。
「いや、冗談。冗談だってば……」
 呆れたようにセルディ伯は口をゆがめ、ブロテは笑いだした。
 にやにやとしながら頭を掻く浪剣士のその目は、しかし、どこか戦いへの昂りをかみしめるように、鋭く遠くを見据えていた。

 トレミリアの遠征隊一行は、その後も順調に街道を南下していった。
 マクスタート川に沿ったこの街道は、南へ向かってゆるやかな下り勾配が続くので、徒歩のものでもさほど体力は消耗せずにすむ。寄り集めの傭兵たちをまとめる騎士たちにとっては、彼らから不平の声が上がらないのは、それだけでも大変有り難いことだった。傭兵たちの中には、他国から参加の騎士や、そこそこ名のある地方の貴族などもいたが、基本的には一般市民や、もとは浪剣士であるような連中が大半だったから、こうした規律を重んじる行軍にどれだけの者が粛々と従うかということに、とくに全体の指揮官でもあるセルディ伯などは内心で苦慮していたのであった。
 しかし、行軍はまったく順調だった。街道を下る一行の列は綺麗なまでに整い、脱落するものもなく、やがて予定通り、夕刻にはその眼下にヨーラ湖の青い広がりを見ることになった。
 南の国境ぞいに位置するヨーラ湖は、トレミリア最大の湖である。ガーマン山地を下ってきたマクスタート川は、この青き湖を中継するように、その水量を増して南海へと流れ込む。湖の南東にはアラムラ大森林……神々の深遠な静寂を太古より守り続ける深き森が延々と広がり、美しい大自然の景観を人々に見せつけている。
 ヨーラ湖畔の都市サルマは、内陸の国家であるトレミリアにおいては最も大きな交易都市で、国内からの物産もその多くはいったんはこのサルマに集められ、船に積まれて川を下り、海路を通って西側の小都市国家地帯や、あるいは東のウェルドスラーブへと運ばれる。さらに言えば、トレミリアの東側に広大に続くロサリイト大草原を東西に横切る、ロサリイト街道の始点でもあるのも、このサルマの町であった。
 つまり、この湖畔の町は、単なるトレミリアの一都市ではなく、海路へ出るための船の出発点であり、東側へ行くための陸路の入り口でもあるという、いうなれば「世界への玄関」のような都市であるのだった。かつてレークとアレンが、フェスーンでの大剣技会の噂を聞きつけ、トレミリアに最初に足を踏み入れたのも、ここサルマであったのだ。
「おお、ヨーラ湖だ。なんだか、久しぶりに見たって感じだな」
 下りはじめた街道の先に、青々と広がるヨーラ湖と、夕日に照らされるサルマの街並みを見下ろして、レークはつぶやいた。かつてこの町にやってきた時には、まだ自分が旅の浪剣士でしかなかったことを、今は感慨深げに思い返すように、彼は、きらきらと光る湖面をまぶしそうに見つめた。
 遠征隊一行は、そのまま街道ぞいにサルマの市門をくぐるかと思いきや、街道を外れて町を迂回しはじめた。どうやら、先頭の騎士たちが先導しているらしい。
「あれ、町には入らないのか?」
「いくら大都市のサルマとはいえ、三千人ぶんの宿屋はない。それに、騎士姿の我々が大挙して押し寄せ、無用に町の人々を驚かせるのもまずいだろう。今宵は町の外で野営になるな」
 レークの横をゆくクリミナが言った。夕刻となって、遠くからでは誰とも判別できないだろうと、彼女は兜は外し、その顔をすっかりあらわにしている。
「なんだ、せっかくヨーラ湖名物のブラバスの串焼きを食えると思っていたのによ」
「なんだそれは?」
「知らないのか?旨いんだぜ。けっこうでっかい魚なんだけどよ、塩を付けた串焼きがこれまたうめえんだ。甘いタレを塗って固パンに挟んで食べるのもいいぜ。香草を忘れずに挟むとひときわ……うう」
 湯気の立つ串焼きの香ばしい香りを想像し、レークはずるりと舌なめずりをした。
「よく知っているな。さすが旅をなりわいにしていた浪剣士」
「まあな。海のもの山のもの、湖のもの。一通りは味わったぜ。これから行くウェルドスラーブだと、そうだな……魚もうまいが、クオビーンて飲み物が最高だな。知ってるか?クオビーン」
「ああ。一度飲んだことがある。苦いやつだろう」
「そう。そこにクリームとか蜂蜜を入れたりすると、これが実にうまいのよ。ああ楽しみだ。クオビーンに、甘辛い揚げパンに、魚のから揚げ。それからきっといいワインも運ばれてくるだろう。なんたって騎士待遇だしな……むふふ」
 未来の食べ物に思いを馳せるレークを横目に、馬上の女騎士はくすりと笑った。
 遠征軍一行は、サルマの町の市壁をぐるりと迂回し、そこでいったん停止した。左手にサルマの町の市壁、前方にはヨーラ湖の広がりを黄昏色の空の下に見やりながら、馬を降りた騎士たちは、それぞれに腰を下ろして、長い騎乗で疲れた体を休めていた。
 だが、それから少しもたたぬうちに、「全員騎乗、このまま出発する!」という、せわしない伝令の声が上がった。
「なんだって?たった今着いたばっかだってのに、どういうことだよ?」
 馬を降りてひと息ついていたレークは眉をひそめた。
 クリミナは辺りを見回して、通り掛かった伝令を呼び止めた。だが伝令役の騎士は、命令を隊列に伝えて回る以外には何も聞かされてはおらず、「とにかく、すぐに出立するとのことです」と繰り返すだけで、また「全員騎乗!」と叫びながら隊列の後方へ走り去って行った。
 再び騎乗した騎士たちは、不平をつぶやく傭兵隊の連中を叱咤しながら、また隊列を整えていった。
 一行は再び動きだした。向かうのは正面のヨーラ湖の方向である。沈みはじめた夕日を背にして、隊列は長い影を伸ばして進んでいった。
 ヨーラ湖畔の草原まで来ると、再び「全体停止」の触れが上がった。剣士たちは今度こそ休めるぞとばかりに、やれやれとその場に座り込んだ。
「まったく、どういうことだ?今夜はこの湖の真ん前で野営するってのかね」
 そうぼやきながらレークは馬を降りた。夕闇がおりはじめた湖畔に、騎士たちの命令の声や、傭兵たちのざわめきが、馬のいななきにに混じって上がり始め、辺りはにわかににぎやかになった。
 レークは、眼前に広がるヨーラ湖の、そのどこまでも続く青い広がりを見渡した。
 トレミリアで最大の湖、そしてリクライア大陸全体でも最大の部類に入るこの湖は、その湖畔に立つと、ほとんど海とみまごうばかりの巨大さだった。対岸は遠くかすんで見えず、風が水面を騒がせると、それがまるで波のようにも見える。全体的にひっそりとした静かな感じなのは、すでに夕暮れになり湖面に見える船の数も少ないからだろう。これが朝になれば、マクスタート川を伝って南海へ下る漁船や、逆にサルマに物資を運んでくる他国からの貿易船などが、その白い帆を競うようにして行き交う光景が見られるはずである。
「ああ、やっぱ空気がうまいや。この前ここに来たのは、もう五ヵ月も前だったか」
 湖畔に立って、レークは気持ち良さそうに息を吸い込んだ。
 ヨーラ湖を渡ってくる涼やかな風を感じながらここに立っていると、たった数カ月まえであるが、もうだいぶ昔のことのように思える事々……このサルマの町で剣技会の噂を知ったこと、そしてアレンと共に首都フェスーンへ赴き、様々な陰謀や暗躍の果てに剣技会で優勝したこと……それらがあらためて思い返される。それが今では、こうしてトレミリアの騎士となり、ウェルドスラーブへ向かう遠征軍の一員として再びこの湖を見ることになるとは。その変遷を感慨深げに思いながら、レークは暗くなりゆく湖面を眺めていた。
「なるほど。風が心地よいな」
 そばに来たクリミナが、心地よさそうに髪をかきあげる。
「このサルマは、フェスーンよりもずっと海に近い。マクスタート川の流れとヨーラ湖の恵み、それに、アラムラ大森林の豊かな緑……、のんびりと暮らすには、ここはなかなかいい土地だろうな」
 自らが守る王国の一都市を誇らしげに見渡し、彼女は言った。その横顔はいつになく美しく、湖畔の緑の背景にその白い騎士姿はよく映えた。
「ふむ。風景がいいと、女も綺麗に見えるもんだ」
「ほう、では殺風景な場所では、私も醜く見えるということか?」
「そ、そんなことは言ってねえよ」
 レークはややぶっきらぼうに首を振った。
「そうか。ならいいが」
 くすりと笑ったクリミナは、普段の彼女よりはずっと楽しげだった。心地よい風と空気、緑の森林と青い湖の美しい景観がしばし行軍の緊張を忘れさせるのだろうか、その微笑は柔らかで、ゆるやかに風になびく栗色の髪に手をやる様子は、とても女性らしく見えた。
「……」
 レークはその女騎士の横顔を、まるで一幅の絵画をでも見るように、しばらくうっとりと見つめていた。

「問題が起こった」
 集められた主立った隊長クラスの者たちを前にして、セルディ伯が苦々しく言った。
「船が足りない」
 眉間に皺を寄せた伯は、いかにも苦渋の決断を迫られている指揮官然とした様子だった。そこにいたレークにブロテ、クリミナらも思わず顔を見合わせる。
「予定していた、ガレー船十隻、帆船五隻のうち、すぐに出せるのはガレー船五隻に帆船が三隻だけということなのだ。これでは三千人の兵を乗せてゆくことはまずできない。町の連中はあと三日待ってくれれば、ガレー船の方は残り五隻も完成するというのだが、帆船の方は分からないという。そこでこの際、漁船を借りることも考えたが、百人単位で乗り込めそうな船はどこにも見当たらない。つまり……我々は、さらに数日ここに留まるか、あるいは別のルートでウェルドスラーブまでゆくかの、そのどちらかを選択しなくてはならない」
 人々を見渡して、セルディ伯は嘆息まじりにそう計画の変更を告げた。
「しかし、この町に留まるといっても、フェスーンから持参した食料には限りがありますし、数日とはいえ三千人の食料となると、サルマの町には大変な負担になりますな」
 騎士ブロテの言葉に、セルディ伯もうなずく。
「それに、先程フェーダー侯ともお話ししたが、ここで数日も待っていられる余裕は我々にはない。ロサリイト草原にやらせていた斥候からの報告では、やはりジャリア軍はすでにウェルドスラーブの北端のバーネイに軍を進め始めているということだ。最悪、このままでは数日中には戦闘が始まりそうな情勢にもなってきた」
 戦闘という言葉に、居並んだ騎士たちの顔が引き締まる。
「そこでだ、」
 セルディ伯の声が響いた。
「我々は海路を断念し、このままロサリイト街道を進み、途中アラムラ街道に入り、陸路にてスタンディノーブルを目指すことにする」
 一瞬、騎士たちからどよめきが起こるが、そこはみな隊長クラスの者たちであるので、余計に騒ぎ立てることもない。彼らを見回してセルディ伯は言葉を続けた。
「どうやら方策はこれしかない。このサルマで数日の時を無為に過ごすよりは、一日二日は海路よりも余計にかかるとはいえ、ロサリイト街道を経由し、アラムラ街道を通ってスタンディノーブル、そして首都のレイスラーブへと向かうのが得策と思う。異論、疑問のある者はいるか?」
 進み出たのはクリミナだった。
「宮廷騎士長どの、なにか?」
「はい、では……当初の予定では、このヨーラ湖から船で海上へ出てコス島に立ち寄り、そこで食料、物資の補給をするはずでしたが、もし陸路でアラムラ森林を越えるとなると、それもできません。兵たちの食料は無論、レイスラーブへ運ぶはずだった援助物資などはあきらめるということなのでしょうか」
「それだ。肝心なのは」
 セルディ伯は大きくうなずいた。
「兵たちの食料に関しては、あと数日くらいはもつだろう。明日の朝すぐに出立すれば、翌々日の夕刻にはスタンディノーブルに着けるはず。それよりも重要なのは、我らがレイスラーブに入城して後のことだ。万が一籠城戦にでもなれば、兵たちを支える膨大な食料が必要になる。かえってトレミリアが援軍をやったことが、ウェルドスラーブの穀物を食い荒らしてしまうことにもなりかねない。そうならぬためにこそ、コス島で充分な糧食を積み、それと共にウェルドスラーブへ入りたい。その方針は今は変わらぬし、変えるつもりもない。だが、このとおり、ここには兵士たち全員を乗せてゆける船はないという。あるいは、この隊を海路と陸路の二つに分けるという方法も考えたが、それはやはり得策ではない。もしどちらかの合流が遅れた場合、万一すでに敵と交戦状態になっていたときには半数では心もとない。戦力をわざわざ分断するのは危険が大きすぎる。そこでだ……」
 セルディ伯はいったん言葉をきって、人々を見渡すと、ひとつの提案を口にした。

 日没の時刻をとうに過ぎた、暗がりのヨーラ湖から一隻の帆船がひっそりと出帆した。
 このような時間に船を出すなど、普通はあまりないことである。朝一番の漁に出るにしてはあまりに早すぎるし、貿易船であるにしてもせめてサルマで一泊してから翌朝に出帆するのが普通だろう。
 漁を終えて船着場に戻ってくる船乗りたちには、すれ違うように港を出てゆくこの帆船は奇妙に映ったかもしれないが、夜を徹してでも運ばねばならない積み荷を積んだ貿易船か、あるいは酔狂にも夜釣りにでも出掛ける船なのだろうと、おそらくはそう気にもとめなかったことだろう。このサルマの町では何をするにも自由であり、船乗りギルドの規制もさほどは厳しくない。
 比較的新しい……というか造船されて間もないようなその大型帆船は、夜闇が完全に辺りを包まぬうちにマクスタート川に出てしまおうというように、大きく帆を張って南西の方角へと進んでいった。
 マクスタート川へと続く湖の出口に差しかかると、するすると帆がたたまれ、船は大河の流れに乗るようにしてその速度を速める。
「やれやれ、帆はたたみおわったぜ」
 器用に縄ばしごを伝ってマストから甲板に降り立ったのは、レーク・ドップと数名の騎士たちである。
「あとは、川の流れにそってゆけば、数刻のうちに海に出る。そうしたらまた帆を張るんだろ。面倒だけど……」
 クリミナから受け取った水筒に口を付け、レークはにやりと笑った。
「甲板の仕事を別にすりゃ、なかなか楽しいもんさな。船旅ってのも」
「お前はいつも気楽でいいな」
 くすりと笑ったクリミナは、船上から川の周囲を見渡した。
「すっかり暗くなったな。この分だとコス島に着くのは明日の朝になるかもしれない」
この船に乗り込んだのは、レークとクリミナをはじめ、十五名ほどの騎士たちとそれにサルマで雇った本場の船乗りであった。
 セルディ伯の提案した案……兵士全員を運べる船がない以上、遠征隊一行はロサリイト街道から、アラムラ森林街道へと入る陸路にてウェルドスラーブを目指すのだが、その一方で、ウェルドスラーブにおいての兵たちの糧食、物資を確保することも不可欠である。そこで、船でコス島へ向かい食料と物資をウェルドスラーブまで運搬するための小隊を編成する。陸路の本隊はスタンディノーブルを経由してレイスラーブヘ、物資を運搬する小隊は海上ルートで直接レイスラーブへ向かい、現地にて合流する。あるいはスタンディノーブルで合流するという案も出されたが、大量の物資や糧食を船から陸に上げ運搬する時間と手間を考えると、海上ルート組は首都であるレイスラーブへ直接ゆく方が合理的であろうということになった。
 問題は、コス島へ向かう小隊の人員をどうやって選ぶかということだったが、人々の前で宮廷騎士長クリミナが自らそれに名乗りを上げた。セルディ伯は、それにフェミニストらしく「女性にそのような危険な任務を与えるなど……」と渋ったが、結局は、コス島へは一度行ったことがあるというクリミナの言葉に押し切られ、その任を任せることに同意した。そうなると、宮廷騎士団から参加している数名の騎士たち……それに当然レークも彼女と共にゆくことに決まったようなものだった。
 こうして、本来はすべての兵を運ぶために造船された真新しいカラベル船に、彼ら十数名が乗り込むことになった。桟橋で船を見送るセルディ伯は、クリミナとの別れ際に固くその手を握り、くれぐれも無事にと目を潤ませた。伯が宮廷騎士長を思慕……というのか敬愛というのか、ともかくそうした思いを持っていることは、宮廷内では周知のことだったので、それにややむっとした顔をしたのは、そばで見ていたレークだけだったろうが。ともかく、クリミナは任務の遂行を固く伯に誓うと、騎士たちとともに船に乗り込んだ。
 船員となったのは、レークとクリミナの他に、宮廷騎士団から参加の三名、さらにはセルディ伯配下の騎士五名とレード公騎士団からの騎士五名の総勢十五名ほど。通常なら三百名以上を乗せられる大型のカラベル船であるが、なるべく兵力を分断したくないというセルディ伯の意向から、たったこれだけの小隊に物資の運搬任務が任された。当然ながら、船の運行に関してはトレミリアの騎士たちは誰もが素人同然であったので、本職であるサルマの船乗りたちを雇い、船の舵取りは彼らに一任した。できれば、今夜のうちにコス島にたどり着くことが目標であった。そうすれば、その二日後には首都、レイスラーブへ物資とともに到着できるという計算である。
 ヨーラ湖から南へ続く、マクスタート川の流れはおおむね穏やかだった。こうした大型の船が悠々と行き交えるほどに川幅は広く、喫水の深い大型船でも十分に安全なくらいの水深もある。そのおかげで通常なら海から相当に離れた内陸の国であるトレミリアにも、他国からの貿易船がマクスタート川のゆるやかな流れを上って、ヨーラ湖まではやってくることができる。そうして栄えた湖畔の町サルマは、今やトレミリアと海側の諸国とをつなぐ玄関口であるといってもよい。
 年々拡大されるサルマの船着場には、毎日多数の貿易船がやってきては荷物を下ろし、荷物を積み、また川を下ってゆく。他国からもたらされる珍しい食料やワイン、高価な衣料や染料、宝石、絹織物、革や羊毛、あるいは武具の道具となる銅や青銅など。これの多くは水揚げされた後、首都であるフェスーンへと運ばれ、食料や酒などはそれぞれのギルドに分配され、買い付けに来た商人たちに分けられ、それぞれの店頭に並ぶ。革や毛皮、織布、青銅などは職人ギルドの競り市からそれぞれの職人たちの手に渡り、衣服や身の回りの道具、あるいは剣や鎧などに加工され、店で売られたり、あるいはさらにそれらの商品が再び外国に輸出されたりするのである。
 トレミリアが貿易国として今でも成長を続けていられるのは、もちろん優秀な職人や目端のきく商人たちの存在も大きいが、おおもととなるのはこの湖の町サルマに集まる物資のおかげであり、ここにやってきて、またここから出てゆく数々の船が、この国に経済価値をもたらしているといっても過言ではなかったろう。
 しかし今、サルマの港を出帆し、マクスタート川を下ってゆくこの一隻のカラベル船については、そうしたものとは無縁の船であり、一見したところただの商船か、大型の荷物船にしか見えない外観をしているが、乗っているのは剣を携えた騎士たちである。さらに言えば、彼らはこれまでろくに船に乗ったこともないような連中であった。運良く雇うことができたサルマの船乗りたちの舵のもと、彼らは慣れぬ足取りで揺れる甲板を歩き、恐る恐る縄ばしごを伝ってマストを上り、戦闘楼の高みから暗くなって視界の狭まった周囲をこわごわと見渡すのだった。
 しかし、川の流れはまったく緩やかだった。さしずめ重要なのは、川べりに船が近づきすぎないように、まっすぐに舵をとることくらいのもので、それ以外はとくに素人船乗りたちにとっても難敵はなく、帆をたたんだままでも船はすべるように川を進んでいった。
「川下りも慣れちまえば全然へっちゃらだなあ」
 もうすることもなくなったとばかりに、レークは舷側の手すりにつかまり、暗い川の流れを眺めていた。船が川面の水を切る音と、耳元で鳴る涼やかな風の音が、目を閉じると心地よく混ざり合って響くのが耳に心地よい。
 このままゆけば、夜半には海に出られるだろう。舵をとるサルマの船乗りと、戦闘楼で見張りをする騎士以外は、行軍の疲れをとるためもう船内に入っていた。
「お前は休まないのか?」
 振り向くと、そこにクリミナが立っていた。
 彼女はレークの横に来ると、同じように手すりに手を置いて川面に目をやった。
「あんたこそ、休まなくていいのかい?フェスーン出てから、馬の上でずっと鎧兜を着込んでいたんだろうに」
「心配してくれるのか」
「まあ、そりゃあ、な
「私が女だから?」
 そう言ってクリミナはふっと笑った。今は騎士の鎧を脱ぎ、袖がふくらんだブラウスにズボンという普段着姿である。そんな彼女は、レークにはひどく華奢に見えた。
「別に、そういうわけじゃねえがよ。あんたはその……案外痩せてるんだし、晩餐でのドレス姿を見ても思ったけどさ。騎士の恰好はやっぱ疲れるだろう。それに、だいたいこういう遠征に出るのは初めてなんじゃねえのかな、とか」
「……」
 クリミナは、少し驚いたような顔をしてレークを見た。
「まあ……そうかもね。トレミリアはこれまでずっと平和な国だったし。こんな風に遠征に出ることなんて、たしかに私は初めてかな」
「だろう」 
 レークはちらりと彼女を横目で見た。
 栗色の髪をやわらかに風になびかせるその横顔は、騎士の鎧姿とはまるで違い、女性らしく、ほっそりとしたおとがいは美しい曲線を描いている。今のクリミナは、勇ましく剣を振るう女騎士とはまるで別人のようだった。
(こういう風にしてりゃあ、綺麗な……ほんとに綺麗なお嬢さんなんだよなあ)
 かつての自分に対するときの刺々しい言葉や蔑みの目つき、嫌悪の表情は、少しずつ彼女から消えつつあった。それがどういう心境の変化なのかはレークにはよくは分からなかったが、良い兆しであることは確かだった。
(もしかして、ちっとは、このオレのことを憎からずと思ってくれるようになったのかね。このお姫さんは)
 あるいは、彼女がこの遠征に参加を強く直訴したのは、自分がいるためなのではないか、とも考えたこともあったレークであったが。
(それはまあ、うぬぼれすぎってやつかな)
 内心で苦笑しながら、また引き寄せられるように、月明かりのもとで見るクリミナの横顔に視線を向ける。
「……きれいだな」
「え?」
 こちらを振り向いた彼女に、慌ててレークは付け足した。
「いや……月明かりでさ、川が時々きらきら光って」
「ああ……そうね」
 クリミナはまた水面に目を向けた。一瞬、その頬がかすかに赤らんだようにも見えた。
「でも、なんだか……不思議な気がする。これまでもマクスタート川を船で下ったことはあるけれど、こんな夜に川を船で下るのは初めて。それに……騎士としての任務。これから戦とか、そういう大変なものを控えているというのに」
 そう言って、彼女はそっと自分の胸に手を当てた。
「なんだか……なんだか怖さとか、そういうのがなくて。とても……そう、とても穏やかな気分。というか……不思議な、不思議な気分」
「……」
「何故かしらね。何故だろう……」
 囁くように言うクリミナの横顔を、レークはじっと見つめた。
 夜風が甲板を吹き抜ける。一瞬の魔法が二人の間を包む。
 視線に気づくと、彼女は不安そうにレークを見た。
「な、なに?」
「いや、綺麗だなと思って……」
 とたんにクリミナの頬がぱっと染まる。
「な、なにを……」
「あんたは……」
 レークの手がそっと肩に触れても、彼女は逃げなかった。
「……」
 かすかな震えを感じ取り、レークは戸惑った。
 クリミナは何も言えないように、ただ黙ってこちらを見つめている。
「あ、あんたは、オレが……」
 互いに、無言で目を見交わす。
 二人の間に、たしかに同じ揺らぎが生まれていた。 
「いや……オレは、」
 言葉を探しながら、
「オレはきっと……」
 なにかをレークが言いかけたとき、
「クリミナ様。騎士長どの」
 背後から声がした。
 とたんに魔法は解けた。
 船内から出てきた騎士が、こちらを見つけて近づいてきた。
「あ、こちらでしたか」
 それは、宮廷騎士団から参加している若き騎士だった。クリミナは慌てたようにレークから一歩離れたが、騎士は二人がいることに特に不審に思った様子でもなかった。
「お夜食の用意ができましたので、船内にどうぞ。今からは私が代わりに甲板の見張りに立ちますので」
「あ、ああ……そう。わかった」
 騎士にうなずきかけると、クリミナはそのまま船内へのハッチに歩いていった。
 残ったレークはじろりと騎士を見た。
「あの、なにか?」
「いいや。なんでもねえよ」
 むっつりした顔で言う。
「さあて、じゃあメシにすっか。もうじき海に出るんだろう。海に出たら、また帆を張ったりマスト登りやら、いろいろあるんだろうからな。せいぜい体力つけとかねえとな」


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