水晶剣伝説 U ジャリアの黒竜王子

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王子の秘密

 街道を南下する黒竜王子とジャリアの四十五人隊は、目的地のプセまであと半日というあたりで野営の準備にかかっていた。
シャネイ村を襲撃してからちょうど一日後の夜である。本来であれば一刻も早くプセに戻り、置いてきた軍の主力と合流するはずだったが、わずかな休憩のみで睡眠もとらず、丸一日進軍を続けては、さすがに屈強なジャリアの騎士たちとはいえ、疲労の色は隠せなかった。
 なにより、王子自身も疲れていた。予定外のシャネイ村への襲撃で、虐殺の光景に昂り、久しぶりの高揚を味わったが、それが冷めるととたんに疲労を感じはじめた。王子は頭の中で、くだらぬ手間をとらせた国王と、口やかましい宮廷の重臣たちに恨み言をつぶやき、街道で矢を射かけてきたシャネイたちの愚かさを心底蔑んだ。
 早く主力部隊と合流して軍を編成し直したかったが、ここで休息と睡眠をとらねば、いかに忠実なる四十五人隊といえども不平不満が生じるだろうと進言した、副隊長ノーマスの言葉に渋々うなずくと、王子は丘陵地を登り切ったところで夜営を決断した。ここからならプセまではもう目と鼻の先である。翌朝出発すれば昼過ぎには到着できるはずだった。
 街道に近い丘陵地にいくつもの天幕が張られ、馬を下りた騎士たちは、それぞれに休憩と食事、睡眠をとることを許された。
 この辺りはジャリア領内とはいっても、南の外れに近く、めったに隊商も通ることはない。山賊などの噂は耳にするが、ジャリアの正規部隊の、そのなかでももっとも勇猛な四十五人隊を襲おうなどという豪胆な者はいないだろう。騎士たちが交代で休む天幕の周りにはかがり火が焚かれ、常に見張りが巡回している。誇らしげに地面に突き立てられた長槍の先の流旗には、王子の紋章である黒竜が恐ろしげに描かれ、それを見ればどんな盗賊もただちに逃げ出すに違いない。
 その名を聞いただけで人々の心胆を寒からしめる、その黒竜王子は今、天幕にいた。
専用にしつらえられた豪奢な天幕の中は意外に広く、簡易だが整えられた清潔な寝台が置かれ、テーブルの上には塩漬け肉と白パン、果物、それに葡萄酒などが用意されていた。
決して中に入るなと、見張りの騎士と小姓に言い渡すと、王子は天幕の中で兜と鎧を脱いだ。さすがに疲労感からかひとつ息をつくと、寝台に腰掛け、久しぶりにくつろいだ。果物を手にし、それを一口かじったが、すぐに投げ捨てると、王子は寝台に横になった。
 思いの外疲れていたのだろう。重い鎧兜から解放されると体が非常に軽く感じられた。しばらくは寝台でじっと目を閉じていたが、すぐには眠れそうにもなかった。
 首都からの帰還命令が出て以来、もう数日もまともに睡眠をとってはいないはずだが、それはさほど苦には感じなかった。もとから睡眠は少ない方で、軍の中にいるときは常に神経を高ぶらせ、ほとんど眠らない夜も多い。昼の間にほんの数刻だけ仮眠をとれば、翌日はもう寝ないでいられる。とくに戦いの後などは、高揚した気分が続くので、それがおさまるまでは眠気はやってこない。
 王子は怠惰に眠ること、それにぼんやりとして時間を浪費することを極度に嫌っていた。彼にとっては、どんなときでも常に、戦いと、戦いのための作戦を思考する時間、そして、内に秘められた感情を心にのぼらせることがすべてだった。幼いころより彼はそうして生きてきた。初めて剣を握ったのがいつかは、もう覚えていない。初めて人を斬り殺したのは、たしか十五歳くらいだったろう。
 自分がどれくらいの人間を殺してきたのか。ときどき彼は考える。
 今までに殺してきた、人間、そしてシャネイたちのこと……それを思うことは恐ろしくもなければ、不気味でもない。むしろ彼にとっては、それは心地よい追想の時間であった。
 自分を睨んでいる敵の顔、恨みと憎悪のこもったまなざし、痛切な断末魔の叫び、返り血の暖かさと確かに肉をえぐった手応え……
 自分の行ってきた行為について思いを馳せ、そのときの高揚感を反芻し、陶酔に浸る。ときには残虐な光景を思って身悶えし、あるいは苦しむことすらでも、彼にとっては快楽だった。
 そのようにして、歪んだ追体験をする時間は、人々から残虐王子とあだ名されるこの王子が、氷のような無表情の仮面を外すひとときであった。彼は自らの奥深い感情をさらけ出すように、笑い、そして、ときに泣いた。 
 王子は寝台にじっと横たわりながら、つい一日前に滅ぼしたシャネイ村のことを考えていた。騎士に追われ逃げまどう女たち、首を落とされた少年の見開いた灰色の目、悲鳴の中で飛び散る血と、燃え上がる村の光景……それらを思い描くと、再び自分の中でじわりと昂ってくるものがあった。
 何度も寝返りをうち、心の中のもやもやとした感情を解放させる。背中がじんと痺れるような心地よさ……口の端に笑みを浮かべて、額にはじっとりと汗をかきながら。
 不意に、なにかが切り替わったように、王子は寝台から立ち上がった。
 その顔にはなんの表情も浮かんでいない。さっきまでの陶酔しきった笑いも、苦しみも、
すべては幻であったというように。
 自分の頭に手をやり、乱れた髪を乱暴に掻きむしる。それから、急激に空腹を覚えたのか、テーブルにあった塩漬け肉を手にして、それを貪るように食べた。喉が渇くと葡萄酒の瓶に口をつけた。普段はまったく酒を飲まない王子であるが、戦いの後で高揚しているときや、ひどく疲れているときは別であった。
 口許から赤い葡萄酒をたらし、時にむせながらもそれを飲み干すと、王子は声を上げた。
「ザージーン、ザージーンを呼べ」
天幕の外にいた二人の見張りは、王子の声に飛び上がった。
 一人が慌てて天幕に入ろうとしたが、もう一人がそれをかろうじて止めた。その騎士は知っていたのだ。勝手に天幕に入ったせいで、その場で王子に斬り殺された小姓がいることを。
「こちらにお連れしますか?」
「いや。外で待たせろ。それと俺の馬を。早くしろ」
「はっ、かしこまりました!」
 王子の命令に、二人の騎士はすぐさま駆けだした。
「お呼びでございますか」
 王子の護衛役である褐色の肌の巨漢のシャネイ……ザージーンが天幕の前にやってくると、馬上から王子はうなずきかけた。
「ついてこい。ザージーン」
 兜の中に光るその目には、有無を言わさぬものがあった。
「お眠りになりませんので?」
「真夜中の遠乗りも気持ちがよいものだぞ」
 そう言うと王子は馬腹をけった。ザージーンも用意された馬にまたがると、そのあとを追った。

 ごつごつした岩のころがる丘陵地帯を、王子は巧みに手綱を取りながら、どんどん上ってゆく。月明かりを頼りに、木々の間を駆け抜け、突き出した岩をよけながら、王子と従者の馬は丘を登っていった。
 小高い丘の頂上で王子は馬を下りた。抜いた兜を放り投げて高台に近づく。
 夜明けを前に、黒々とした闇が辺りを包んでいる。その眼下に広がる暗い森と山陰を、王子はゆっくりと見渡した。ザージーンはその横にひかえる。
「風が、気持ち良いな」
 いったんは雲に隠れていた月が再び顔を覗かせた。
 吹きつける風が、王子の髪を揺らせ、
「王子……」
 ザージーンが声を出した。
 浅黒く日に焼けた、精悍な王子の横顔……
 その髪の間から現れた、長い耳、
 月明かりが、その金色のうぶ毛を照らす。
「王子」
「気にするな」
 そう言って、王子は丘の上に吹く風を楽しむかのように、あごをもち上げ、
「誰も見ていない。お前以外はな……」
 にやりと笑い、髪をかきあげた。
 そこに現れた、先のとがった、長い耳を見せて、「お前だけだ」と、そう繰り返した。
「知っているのは、お前だけだ」
 風が吹く。
 夜の丘の上で、風に吹かれる王子は、これまでになく楽しそうだった。
「気持ちのよい風だ。本当にな……」
 朝になれば、またしばらくは兜をかぶり続けなくてはならない。
「だから……」
 夏は一番嫌いなのだよ、と王子はつぶやいた。
 ザージーンはその傍らに、ただ無言で立っている。
「俺が憎かろうな。お前のその耳をそぎ落とし、俺の側近にしたのは、もう……五年も前だったか」
 心地よいくらいの冷気を含んだ夜風が、いつもより王子を雄弁にしているようだった。
 そうでなくとも、王子は夜が好きだった。何も見えぬ暗がりが、雄弁なまでに濃密な闇が……心を安らがせてくれる。
「昨日もまた一つ、シャネイの村を滅ぼした。なあ……俺が憎いか?」
 王子の声はとても穏やかだった。
「かまわぬぞ。誰かに教えるか。俺がな、実はシャネイの子だと」
「……」
「いや正確には違うな。あいのこか。あのいまいましい国王が、どこぞのシャネイの女に生ませた、人とシャネイの落とし子だとな」
 くくく、とその口から笑い声がもれた。
「今のところそれを知るものはお前だけだ。あとは当の国王か。一応は俺の父だがな」
 ゆっくりと深呼吸をして、「いつか殺すよ」と、王子は言った。
「いつか……必ず、な。殺すよ」
「そうすれば、あとは本当にお前だけだよ。このことを知るものは。どうだ、すごいだろう?秘密を知っているのがお前だけになるなんて……そのあとは、どうしような?」
 王子は耳に風が当たるのを面白がるように、そのとがった耳をぴくぴくと動かした。
「ときどきこうしないと、疲れていかん。兜の中ではできんからな。お前もそうだろう?……ああそうか、お前の耳は切り取られて、その有り様だったな。はははは。ぎざぎざだ。俺が切ったのだったか、それともジルトだったか……まあ、いい。だが、その方がさっぱりしていていいぞ。俺も本当なら切ってしまいたいのだが、こんなものは」
 よく見ると、王子の耳は生粋のシャネイ族のものよりはいくらか短いようだった。普段は特別な整髪剤で髪を固めて隠していたが、風のある野外にいるときは、念のため兜をつけていなければならない。王子にとっては、こうして深夜の遠乗りに出るときだけが、緊張から解放される、唯一のくつろぎの時間なのであった。
「まあ、この肌の方はな、お前みたいに濃い褐色でもないし、浅黒い肌ということでそう目立つことはないが。しかし、背中の毛は俺にも生えているぞ。これは見せたことがなかったな。見たいか?」
「いいえ」
「お前のは首の上の方までたくさん生えているな。馬のたてがみみたいに。それに透けるような金髪だ。俺のは父親の影響か、黒っぽいのだがな……」
 また、王子は楽しそうにくすくすと笑った。
「いつか殺す。ああ。いつか、殺すよ。あの国王をな。それから、シャネイどもも皆殺しだ。さあどうだ?ザージーン。何か言いたいか?」
「……いいえ」
「シャネイの女どもを騎士たちに犯させたときにも、お前はそうして平然としていたが」
「そういえば……お前には妹がいたのだったな」
 残忍そうな薄笑いを浮かべ、王子は言った。
「お前にとって唯一のまだ生きている家族だったな。だが、もし、あの中に……騎士たちが凌辱し、殺したあの中に、お前の妹がいたとしたら、どうする?それでもまだ、お前はそうして無言でいられるのかな。俺はそれが知りたい」
「……」
「シャネイどもをしらみつぶしに殺していけば、いずれはきっと、お前の妹だってそんな目にあうのだぞ?そのときお前はどうする?」
 だが、巨漢のシャネイはそれに答えなかった。ただ無言のまま、頭を下げる。
「それとも……」
 少し強く風が吹いた。
「ここで決着をつけるか?」
王子は笑った。
 その手を愛用の剣にすべらせる。
「その覚悟があるのならいつでも受けるぞ。この場ですべてを清算するもよかろう」
 おもむろに、
 ザージーンがすらりと腰の剣を抜いた。王子の護衛役として、シャネイであっても特別に剣を持つのを許されている。また、その実力は四十五人隊の誰にもひけをとらない。
それを見て、王子はにやりと口の端をつり上げた。
「……」
 二人の視線が合わさった。
 振り上げられる剣が、どちらかの血を吸い込むかと思われた。
 一瞬だけ、巨漢のシャネイのその灰色の目に、なにかの光が宿った。
 が、それはすぐに消えた。
 ザージーンは剣先を自分に向けると、うやうやしくひざまずいた。
 それは、相手に忠誠を誓うという意味の行為であった。
 王子は相手を見下ろし、何かを言いかけて首を振ると、肩をすくめた。
「しかし……お前のその無感情ぶりには、俺でさえかなわぬな」
「……」
「何故そこまで感情を殺せるものか。同族がこれほどひどい仕打ちを受けたというのに。これほどよい機会はないだろう。当の元凶であるこの俺が、こうして目の前に立っているのだぞ。分からぬな。まったく分からぬ……」
「王子には……」
 ごつごつとした岩のような、そのシャネイの顔には、なんの感情も浮かんではいなかった。ただ、その低く、押し殺したような声にある、静かな悲しみともいうべきものに、なんらかの感慨を抱かずおられる人間はいなかったろう。
「分かっておいでです。王子には」
「……」
 まるで奇妙なものを見るように、王子はしばらく、その巨漢のシャネイを見つめていた。
 もう夜明けは近いはずだ。
 太陽が顔を出す前には、天幕に戻らなくてはならない。
「帰るぞ、ザージーン」
 明日のプセ入りを前に、考えることはまだいくつもあった。本隊の編成も事前に決めておかなくてはならない。主力と合流してからは、迅速に軍を動かすつもりだった。作戦は常にいくつも頭のなかにあった。
 王子は馬の方へ歩きかけたが、なにを思ったかふと立ち止まった。
 もう一度、丘の上から見下す風景に目をやる。
 かすかに、東の空が白みはじめていた。
 丘の下には、彼の忠実なる部下が休む、夜営のかがり火が輝いている。そろそろ騎士たちも動きだし、自分の命令を待つため、騎乗の支度を始める頃だろう。
 フェルスは、丘の下の街道に目を凝らした。
 この続いてゆく道は、一本の線として彼方に伸び、それはプセへ、そして、その先のアンマイン、ヴォルス内海へと続く道だった。
 この道をゆけば、戦いが始まってゆくだろう。
 それも、自分が起こす戦いだ。
 王子は微笑んだ。
 腰に吊るした愛用の長剣に手をやる。紫色の宝石のはめ込まれた、不思議な剣。
 その力に導かれるように、何かの予感が心をざわめかせる。
 風はどこへ吹くのか。
 いずれにせよ
 じきに夜は終わる。
 もう耳は、隠さなくてはならない。
 静かにたたずむザージーンを見る。
 王子は、自分の両耳に手をやり、ゆっくりと息を吸いこむと、
「ゆくぞ」
 草の上から兜を拾い上げた。
 彼はもう振り返らなかった。
 




          水晶剣伝説U 「ジャリアの黒竜王子」(完)



あとがき

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