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  水晶剣伝説 XII クリミナの旅


X

 寝台の上で、エリスはぶるっと体を震わせ、目を覚ました。
 マトラーセ川の支流に挟まれた、国境の城、スタンディノーブル城の朝は、この時期はまだずいぶんと冷える。
 川を下る北からの風が、湿り気を含んで城全体を吹き付け、冬の間は地面には霜が下りる。ウェルドスラーブ自体は、リクライア大陸でも南国に位置するので、雪などが降ることはまずないのだが、大陸の北に連なるバルデート山脈から吹き降りてくる冷たい風は、川に乗ってこのスタンディノーブルまで運ばれるて来るのである。
 薄物の下着をまとっただけで、毛布にくるまっていた彼女は、寝台から起き上がると、急いで毛皮のローブをまとい、水差しの水をひと口飲んだ。
 長い黒髪を後ろにまとめてから木窓を開けると、涼やかな風が部屋に吹き込んできて、ぼんやりとした頭をすっきりとさせてくれた。
 窓から見下ろすと、右手には青々とした流れをたたえる大河、マトラーセ川の支流が見えている。リクライア大陸一の大河と呼ばれるこの川は、大陸を北から南に分断するように流れ、このまま川を上流にさかのぼってゆけば、ウルド山地とバルテード山脈に挟まれた渓谷を越えて、ジャリアの西の国境ぞいまでたどり着く。
 窓から見下ろす城の広場では、黒い鎧姿の騎士たちが、朝の訓練をしている。打ち合わされる剣の音も、野卑な掛け声も、毎日聞いているうちにすっかり慣れてしまった。
 かつて、このマトラーセ川を船で下ってきて、スタンディノーブルの城を占拠するに至った、ジャリア軍……その残存兵力が、この城にいまだあり、城を実効支配していることは、悪い夢のようにしか思えないのであるが。
 訓練の騎士たちは百人ほどはいるだろうか、その黒い鎧のジャリア騎士たちを指導するように、広場を歩き回る青いマント姿の騎士が、彼女の目に映った。
「ジルト……ステイク」
 まるで呪われた呪文を口にするように、彼女は唇を震わせ、その名を呼んだ。
 じっと、その姿を遠く睨み据えるように見つめる。それがまるで、自分の敵であり、自分の愛人でもあるというような、恨みと執着を込めたまなざしで。
 つい一刻ほど前までは、自分の横で眠っていた男……昨日も激しく自分を抱いた男。その憎しみに満ちた愛人の姿を、彼女は今朝もこうして、窓辺から見つめているのである。
(なんていう、運命なのかしら……)
 エリスは、あらためて、我が身に下された変転を思い描いた。
 このひと月たらずのあいだ、ほとんどこの部屋から出してもらえることもなく、軟禁された愛人のように、あの男のなすがままに過ごしてきた。はじめは、何度も自害しようと考えたが、結局それもできなかった。あの男に乱暴に抱かれるのが嫌でたまらなかったが、いまではもう、ずいぶんと慣れてしまった。いや、むしろ、心のどこかでは、自分を求めてくるあの男を、受け入れてしまっているような自分もいた。ときどき、そんな自分がひどく嫌になるのだが、これはどうしようもないことだと、どこかで諦めている醒めた自分もそこにあった。
(もう、どうなっても、いいような気がする)
(オルゴは、きっともうどこにもいないのだし……)
 スタンディノーブル城からほど近い、グレイベリーの村で共に育った、婚約者のオルゴは、この城がジャリア軍の手に渡ると、黒竜王子、フェルス・ヴァーレイによって捕えられた。彼女の家族や村の仲間たちも同様に捕えられ、刃向ったものの多くがすぐに処刑されたと聞く。王子に見初められた彼女は、屈辱的に身体を奪われて、王子の愛人にされることで命をながらえたのだ。オルゴに会わせて欲しいという彼女の願いを、王子は一度だけは聞き入れ、二人はついに城の一室で再会を果たした。
 だが、オルゴの様子は前とはずいぶんと変わってしまっていた。彼は家族を殺されたことや、自分が仲間を裏切ってしまったことなどを、涙ながらに話した。彼女にはよく分からなかったのだが、とにかくオルゴは、自分は取り返しのつかないことをしたのだと、うわ言のように繰り返すばかりだった。
 短い面会のあと、オルゴはそのまま地下牢に入れられた。その後も彼女は、何度となく、オルゴを助けて欲しい、オルゴに会わせて欲しいと王子に懇願したが、もう二度とはその願いを受け入れてはもらえなかった。
 それからは、夜伽の相手として、身も凍るような思いで、自分たちを征服した黒い悪魔のような男に抱かれ続けた。憎しみと怒りと、そして怖れと悲しみを、心に抱きながら。
 やがていくさの局面が進むと、王子の供として、レイスラーブに連れていかれ、母国の首都が敵軍の攻撃にさらされる光景も見せられた。その後、ふたたびスタンディノーブルに戻ってくると、今度は王子みずからが草原へと出陣してゆくことになり、彼女は城の部屋に一人残された。
 一人になってほっとしたように暮らし始めたものの、小姓や侍女を付けられて、まるで姫君のような扱いを受けるのは、なんだか奇妙な心地がした。もともとは、畑仕事もすれば炊事洗濯もする、身体を動かして働くことが好きだった自分が、いったいどうして、このような高価なドレスをまとい、城の上階で見張られながら暮らすことになったのか。
 これはすべて夢なのではないか。そんな気がした。ジャリア軍がやってきたことも、黒竜王子に抱かれたことも、すべては夢で、目が覚めれば、なにも変わらぬ村の光景がそこにあって、オルゴがいて、食事を作ったり、畑を耕したりしながら、毎日がまた忙しく過ぎてゆくのではないかと。
 だが、そうではなかった。朝起きても、次の朝また起きても、彼女は大きな寝台で目を覚まし、小姓が食事を運んできて、廊下にはジャリア兵の見張りが歩き回っている。ではこれは夢などではなく、この生活がこれからもずっと続いてゆくのだ。そう思うと、絶望的な気持ちで、寝台に倒れ込みたくなるのだった。
 だが、それでも彼女は、女性としてはずいぶん気丈な部類であった。一日ごとに諦めと倦怠とが心に広がってゆくことにあらがいながら、ジュスティニアに祈りを捧げ、なんとか未来を信じ続けた。
 そして、永遠とも思える時間が流れた。思えばそれは、ほんのひと月ほどでしかなかったのだが。
 あるとき、なじみの小姓が興奮しながらやってきて、首都のレイスラーブがウェルドスラーブ海軍のもと奪還された、ということを話してくれた。それを聞いて、彼女は飛び上がらんばかりに喜んだ。さらに、草原でのいくさは、ジャリア軍の敗北に終わったという情報が入ってくると、これでようやくこの城も解放され、このウェルドスラーブにまた平和が戻ってくるのだと、確信したのだった。
 だが、実際にはそんなふうにはならなかった。その知らせの、数日後に、青いマントをはためかせたあの男が、スタンディノーブル城に落ち延びてきたのだ。
 ただならぬ気配をまとった、恐ろしげな眼をしたその男とは、たしか以前にも会ったことがあった。たしか、あのときも王子の天幕の中で、冷酷そうで欲望に満ちた目を自分に向けていたのだ。直感的に、王子よりも恐ろしく、そして生理的に嫌悪する男だと、彼女は思った。
 その男、ジルト・ステイクは、城に来るなり部屋に押し入ってきた。抵抗もむなしく、彼女は乱暴に犯された。
 いくさは終わったというのに、平和などは戻ってこなかった。スタンディノーブル城は、いまだジャリア軍の手にあり、毒々しい欲望と、冷酷な目をした男に毎夜のように抱かれ、以前にも増して恐怖と苦痛に悶える日々を送っている。今度こそ、この悪夢に自分は気が狂うに違いないと、彼女は確かにそう思った。
 ウェルドスラーブの援軍はいったいいつになったらやってくるのか。それとも、この城はもう、見捨てられてしまったのか。絶望し、ときに気が狂いそうになりながら、自分の上に乗っている男の、その荒々しい動きに、苦しげな呻きを上げながら耐え続けた。
 そうして、さらにひと月ほどがたった。
(ああ……もう、どうなっても、いいけれど……)
 窓辺に立つエリスは、己自身を憫笑するように、ふっとため息をついた。、
 人というのは、どのような耐えがたい境遇においても、慣れとささやかな安息を、なんとかして見つけてゆくものなのかもしれない。恐怖とともに黒竜王子に抱かれ、いまはその副官であったジルト・ステイクの愛人としてみじめに生かされながら、自分はまだこうして正気を保っている。依然として援軍がやってくるような気配も噂もなく、城内にはジャリア兵たちの黒い鎧姿が今日も我がもの顔に歩き回っている。だが、怯えと諦めの日々の中にあっても、ときおり自分がふっと、心落ち着くような静かな気持ちにもなることを彼女は知った。
 それは、こうして朝の涼やかな空気を感じながら、窓辺からマトラーセ川の滔々とした流れを見つめるひとときであり、川に挟まれた中洲に広がる森の艶やかな緑の美しさを楽しむ時間であった。窓から見下ろす広場に、けたたましく剣を響かせる黒い鎧姿があったとしても、これが絶望に包まれた悪夢だとは、いつしかもう思わなくなっていた。
(私はきっと、まだ信じているのかもしれない……)
 いったいなにを、信じているというのか。愛していたオルゴが戻ってくることをか。それとも、いずれ援軍がやってきてこの城を解放してくれることをか。自分自身でも、それがはっきりとなんなのかは、分からなかった。
 ただ、ひとつ確かなのは、時はやがて流れてゆくのだ。
(そうなんだわ……)
 なにも変わらないように見えても、ときは流れてゆく。そしてゆるやかに、少しずつものごとを変えてゆく。たとえ、何度となく悪夢がやってきたとしても、次はきっと、これまでとは違うなにかがあるのだと、そんな希望を抱くことができるのも、それはきっと、とどまることなく、ときが流れてゆくからこそであった。
(私は、きっと信じている……そう、信じなくては)
 たとえ、すでにオルゴが地下牢の中で朽ち果てていたとしても。たとえ、この城を救う援軍などは、もうやって来ることがないのだとしても。
(信じること……いまはそれだけ)
 彼女は強く、そして充分にまだ美しかった。
 艶やかな黒髪をぎゅっと束ね直し、昇りゆくアヴァリスに照らされるこの世界を、静かに希望をもって見つめ続ける。それが彼女にできるただ一つの戦いであった。

 激しく剣がぶつかる音が響いた。
 容赦ない鋭い強打に、剣を取り落した騎士が、その場にうずくまる。
「次、かかってこい」
 これで、三人、四人目だろうか。疲れた様子も見せない、青ビロードのマントをひるがえして、騎士が再び剣を振り上げる。
 金銀の細工を随所に凝らした精巧な鎧をまとい、面頬を上げた兜から覗くその顔には、恐ろしげな笑みが浮かんでいる。たとえ稽古であろうとも、戦うこと、剣を相手に向けて打ち下ろすこと、そのものに喜びを感じてでもいるかのような。
「次だ」
 いまや、「血染めのジルト」として、味方の部下たちからも恐れられる存在……彼こそが、このスタンディノーブル城のジャリア軍を統率する、ジルト・ステイクその人であった。
「どうした、もう終わりか。他にこの俺に向かってくるものはいないのか」
 兜を脱ぎ捨てて、部下たちを鋭く見回す。
 もともとが、神経質そうな青白い顔につり上がった眉とが、ひどく冷たい印象を与える顔立ちであったが、いまでは口元に無精ひげをはやし、その頬には剣による傷跡が生々しくついている。まるで戦場から帰ったばかりの狂戦士のような、いっそう荒々しく、そして酷薄な様相である。
「どうした、かかってこい」
 すると騎士たちの中から一人が、前に出て来て剣を構えた。
「貴様、名は?」
 ジルトが尋ねると、その騎士ははっきりとした声で名乗った。
「ゴランと申します」
「なかなかいい名だ。フェルス王子の直属だったものか」
 なかなか体格のよい、その大柄な騎士に、ジルトは珍しく興味を持ったようだった。
「はい。殿下の四十五人隊にも志願しておりました。次期隊員の予備員には合格しております」
 その答えに満足したように、ジルトはうなずいた。
 このひと月の間、毎日のように城の兵たちと剣をまじえ、見どころのあるものを己の直属に選んできた。それらの騎士たちを徹底的に鍛え上げ、フェルス王子の四十五人隊のように、主のためには命を落とすこともいとわない、忠実なる精鋭部隊を作り上げようと考えていたのである。
「よし。こい」
「はっ」
 ゴランという騎士が、ジルトに向かって剣を打ち込んでゆく。
 ガシン、と剣がぶつかる重い音が響き、それが二度、三度と続いてゆく。
 さすがに、四十五人隊の予備隊員に選ばれるだけのことはある。素早く、そして重い攻撃であった。
「いいぞ」
 にやりと笑いながら、ゴランの剣を受け止め、それをはじき返してゆく。実戦で鍛え上げたジルトの剣技は、フェルス王子にもひけをとらない。むしろ、どんな手を使ってでも相手の息の根を止めるという狡猾な残忍さにおいては、黒竜王子をも上回ると言われるほどだった。
「よし、そこまで」
 いくぶん息の上がったゴランを見ながら、ジルトは剣を収めて告げた。
「では、ゴランには明日からは上級騎士としての待遇を与える」
「はっ、ありがたく拝命します」
 大柄の騎士はうやうやしく膝をついた。役立たずには厳しいが、有能な部下になりそうなものは大事にしてやり、好待遇を与える。それがジルトのやり方だった。
「今日はここまでだ。解散」
 居並んだジャリア騎士たちが、ほっとしたように緊張を解く。
「では、トラビス、それに……ゴランもついてこい」
「はっ」
 新たに結成する新鋭部隊の中でも、筆頭格の一人であるトラビスと、今日の収穫であったゴランの二人が、歩き出したジルトの後をさっとついてゆく。
 曇り空にアヴァリスは見えないが、そろそろ太陽神も中天から傾き始める頃だろう。城内にいても、とくにすることもないので、午前中から午後にかけては、こうして剣の稽古をするか、城の周囲を散策するのが、ジルトの日課のようなものだった。
「トラビス、今日の報告は」
「はっ」
 まだ二十歳そこそこの、すらりとした若い騎士が、ジルトの横を歩きながら答える。
「今日も、とくに動きはありません。オールギア方面の斥候からも、いっさい敵兵などの存在は見当たらぬとのこと。その他、城内における問題もこれといってございません。数日前の反乱兵たちも、地下牢に幽閉させたまま、こちらもとくに騒ぎは報告されていません」
「そうか」
 すでに、ジルトの側近として、毎日の報告義務のようなものを請け負っているのだろう、若きトラビスは、いくぶん緊張気味に頬を紅潮させる。
「食料は?」
「は、グレイベリーの村からの、毎週の穀物の徴収量がここのところ減ってきております。小麦やワインなどは、まだしばらく持ちますが、チーズや肉、果物などはすでに底をつき始めています」
「そうか。春までなんとかしのがねばらんな」
 食料と酒は、とくに切実な問題であった。それが足りなければ、どんな忠実な部下でもいずれは離れてゆく。城を取り仕切る立場になってみて、初めて知った支配者としての苦労であった。
 草地を或る気ながら、ジルトは考えに沈んだ。
(たった、二千人が……)
 兵力としては、大したことのない人数だが、日々、食べてゆくためにどれだけの物資が必要になるのかなど、これまで考えたこともなかった。
 ロサリート草原の戦いのあと、敗走したジャリア軍のうちの五百名ほどは、このスタンディノーブル城へ逃げ帰ってきた。残りの敗走兵たちは、ジャリアの南部の自由国境地帯に潜伏したとの情報を得たが、それ以上の詳細はいまだ届かない。ジルトをはじめ、レイスラーブから逃げ落ちてきた五百名と、予備兵力として城に常駐していた千名を合わせて、現在スタンディノーブルにあるのは、二千人ほどの兵員であった。この兵力では、なんとか城を守ってゆくのがやっとで、とてもではないが、再びレイスラーブへ攻め上ったりすることなどはできない。だが一方では、これ以上の人員がいたらいたで、間違いなく食料や水不足に陥ることになっていただろう。そのようなジレンマを考えると、いつも歯がゆい思いになる。
(たった、二千人……)
 それでも、自らが自由に動かせる大事な兵力であるには違いない。
 かつてはフェルス王子の副官として働いていたころは、常に王子の命令に従い、王子の意向によってのみ動いていた。それでも、ジャリア軍がウェルドスラーブを支配下に置いてからは、首都のレイスラーブを含めた統治権限を与えられ、ゆくゆくは己自身がウェルドスラーブ総督の地位につくものだと、そう考えることでじっと我慢していたのだ。
 だが、その夢はあっさりと消え失せた。蜂起した市民たちと、海戦に勝利したトレヴィザン提督率いる騎士たちによってレイスラーブは奪還され、ジャリア軍はただ逃げ落ちるしかなかった。
 その屈辱を思い出すたびに、目の前にいる人間を誰でもいいから切り殺したくなる。実際に、スタンディノーブル城に駆け込んでから、自分に刃向う何人かの騎士を処刑した。そして女を抱き、城の人間を支配し、逆らうものは容赦なく投獄した。
 こうして、己の城といってもよい居城と、二千人の部下を手に入れた。気に入りの女もいれば、いまのところ酒も食料にも困らない。
 だが、一方では、このまま時がたつままに、のうのうとこの城で過ごしてゆくことはできないということも分かっていた。
(だが、どうする……)
 考えはいつもここで行き詰まる。
 たった二千の兵力で、城を離れてどう戦えばいいというのか。
 再びレイスラーブへ攻め入ることなどは到底できない。情報では、ウェルドスラーブは新アルディとの同盟が成り、首都のレイスラーブと、ヴォルス内海の防備は、これまで以上に強固になったという。
 かといって、ジャリア国内へ戻ることも容易ではないだろう。
 ラハインがアナトリア騎士団に占拠されたという情報には、さすがのジルトも驚嘆した。国王や王妃は処刑され、王女たちは幽閉の身になったと聞き、ただちに全兵をラハインに向かわせようとも考えたのだが、実際には行動には起こせなかった。それは、せっかく手にしたこの城をみすみす明け渡すことへのためらいもあったし、なにより、ここからジャリア国内へ入るには、どうあってもウェルドスラーブ北端の砦、バーネイを経由しなくてはならなかった。情報では、レイスラーブ同様にバーネイの防備も日増しに強化されており、そこで一戦をまじえたとしたら、なんとか突破できたとしても相当の犠牲を払うことになるだろう。そのような無謀な戦いを、いまはするべきではないということを、戦略の専門家ではないジルトでも理解できた。
 そうして、決断できぬまま、一日、また一日と時間が流れていったのであった。
(せめて、四千の兵があれば……)
 二千を城の防備に残し、二千の兵をもって出撃できるのだが。しかし、そのような仮定はなんの意味もなさない。いまできることは、日々、騎士たちの腕を磨き、せめて精鋭部隊といえる集団を作り上げることだった。
「ジルト閣下……」
 物思いに入り込んでいたところを、部下の声が引き戻した。若きトラビスが、おそるおそる尋ねてくる。
「いかがいたしましょうか」
「ああ、食料の件は、城の貯蔵係にグレイベリーの村長と相談するよう伝えておけ。略奪まではしたくないと、軽く脅すのがいいだろう」
「了解しました」
 城の西側であるごつごつとした岩場まで来ると、川から吹き付ける冷たい風が心地よく感じられる。眼下には、雄大なマクスタート川の西の支流が、滔々と彼方まで続いてゆく。川の向こうに広がるのは、アラムラの大森林だ。
 ジルトはここから眺める景色がいたく気に入っていた。振り返れば、いくつもの物見の塔を備え、赤茶けてくすんだ石造りの壁が支える重厚なスタンディノーブル城が、南へ流れてゆくマクスタート川の二本の支流を見下ろすようにそびえている。
 川の上流に目をやると、城の西門から続く石造りの橋が、マクスタートの支流を征服するようにして向こう岸まで伸びている。そこは、かつて城を落ち延びたレークらが橋から飛び降りて、船での脱出を図った場所であり、また、フェルス王子の率いる軍勢が草原への出陣していったのもこの橋からであった。 
 現在では、橋のこちら側には見張り騎士の常駐する小屋が増築され、川向うから侵入してくる敵に、絶えず備えている。城をより堅固な城塞にするのであれば、いっそこの橋を打ち壊しておくべきかとも考えたが、それも決断しかねた。反対方向のレイスラーブから敵が攻め上がってきた場合、逃げ道となるのはこの橋であったし、この橋を越えて、草原へ出てゆく機会も絶対にないとは言えなかったからだ。
 ただ、現在はそんな問題よりも、はるかに気になる具体的な報告がもたらされていた。
「例の方面の動きはどうだ」
 マクスタート川の上流に目を凝らしながら、ジルトは部下に尋ねた。
「はっ、斥候の報告によると、この数日も同じように、馬車や人員の動きが見られました」
「場所は同じか」
「はい。ここから上流へ二十エルドーンほどのところです」
「ふむ」
 考え込むようにジルトは腕を組んだ。二十エルドーンも先の光景は、ここからではとても見えはしないが、その冷徹なまなざしをじっと川の流れの彼方へ向ける。
 はじめに報告があったのは五日ほど前だった。
 マクスタート川にそって北へと向かう、バーネイへ至る街道上に、荷物を積んだ大型馬車が頻繁に目撃されるようになった。最初はただの物資の移動だろうと思っていたのだが、どうもそうではないようだと、この数日ではっきりと分かってきた。何度めかの報告では、それは明らかに一般の商隊などではなく、騎士らしき部隊に統率された一団であるということが判明した。それ以来、毎日のようにそちらに斥候をやり、動きを注目していたのだ。
「トラビス、どう思う」
「はっ、騎士が帯同しているということは、軍事的な任務を帯びているものと思います。おそらくは、バーネイへと至る街道の防備の強化を目的としているのではないかと」
「ふむ。ゴランはどうだ」
「は」
 大柄の騎士は、少し考えながら慎重に言葉を発した。
「おそらくは、バーネイを守るための防備という点では間違いがないでしょう。ただ」
「ただ、なんだ」
「は、大型の荷車に積まれたものがなんなのか、それが武器の類なのか、あるいは食料やその他のものなのか、それによっては別のことも考えられます」
「というと」
「はい、つまり、武器だけでなく、食料などの生活物資であれば、長い期間、騎士たちがそこにとどまるためのものでしょうから、もしかしたら、そこに検問所のような施設を置くための準備ということもありえるでしょう」
 それは実際には、デュプロス島の会議において、ウィルラースが提案した、このスタンディノーブル城を見張るための砦の建設のための動きであったのだが、ゴランの意見はそれに限りなく近い予測であった。
「なるほど」
 うなずいたジルトは、勇猛な見かけによらず案外に頭の方も働くゴランを見て、にやりと笑いかけた。
「ゴラン、お前はいくつになる」
「はい、二十五になります」
「そうか。よし、ではお前を、今日から、我が親衛隊の副隊長に任命する」
「はっ、ありがたき幸せ」
 ゴランは直立すると、岩場の上にひざまずいた。胸に手を当てる忠誠の礼をした部下の肩に、ジルトは軽く剣先を当てた。
 自らのために命を懸けて働く有能な部下、ジルトがいまもっとも欲しいのがそれであった。やはり、毎日の稽古は無駄ではない。百人単位で見て回り、少しずつ優秀な騎士を発掘してゆくこと。それがひいては、己の野望のための最大の武器となる。
「我が騎士となれ、ゴランよ。俺とともに戦い、俺とともに城を奪い、ともに国を奪おう」
「はっ、ジャリアのために。ジルトさまのために」
「ジャリアか……そうだな」
 ジルトはかすかに自嘲の笑みを浮かべた。
 結局のところ、どちらにしても己が簒奪者であることは、よく理解していた。草原の戦いで、たとえジャリアが敗れていなかったとしても、いずれは王座を狙うための反逆を起こしたに違いない。首都のラハインが占拠され、王女たちが幽閉の身となり、一方ではフェスル王子の行方が分からず、あるいは戦死したかもしれぬという報告が入ったこと……いまとなっては、この状態はむしろ、自分にとっては都合がよいのかもしれぬと、そうジルトは思っていた。つまり、首都ラハインを奪還すること、王女を奪還すること、そのものが、ジャリアを手に入れる大義名分として自分に味方することになる。
(奪いさえすれば、あとはどうとでもなる)
 なにもかもを己のものとして、王国すべてを統治できる、そのための機会がやってきたと思えば、どんな労力もかけられよう。実際、そう思い始めてからは、一日一日を無駄にすることなく、どんな些細なことでも、そのための準備となるようなことは惜しまずにこなせるようになった。
(手に入れる……必ず。なにもかもをな)
 結局のところ、こうしてスタンディノーブル城も自分のものとなったのだ。城を奪えたものを、国を奪えぬはずはない。兵力はたった二千人だが、やり方次第では決定的な動きを起こせるはずだ。
 それには、時期と機会を慎重に見定めねばならない。綿密な準備と確かな情報がもっと必要だった。ここにマクルーノでもいれば、より効果的な戦略を考えてくれたかもしれないが、いないものを嘆いたところで仕方がない。あるいは、草原から敗走し、ジャリア南部に潜伏しているという友軍と合流できれば、より心強いのだが。考えられるやり方はいくつもあった。
(もう少し、もう少し時間をかけ、もっともよい動き方を見定めねばなるまい)
 いまのところ、ウェルドスラーブ軍がこの城に向かって攻め込んでくる気配はないが、時間がたてばたつほど、その可能性は増してゆくだろう。そう考えれば、あとひと月、ふた月くらいの間にはすべての準備を整えておきたい。
「もちろん、これはジャリアを奪い返すための戦いだ」
 二人の部下に向かって、ジルトは告げた。
「フェルス王子が、もしご存命なら同じように言うだろう。たとえ、己が最後の一兵になろうとも、王国のために命をかけようと」
「おお」
「まさに」
 ゴランとトラビスは互いにうなずき、胸に手を当てた。
「私も、ジャリアのために、命をかけて戦います」
「私もむろん」
 感動して涙ぐむ部下たちにうなずきかけると、ジルトまた川の向こうに目をやった。
(シリアン王女を、ジャリアを奪い、)
(次にはウェルドスラーブを、そしてトレミリアも……)
(そして、そのときにもし、王子が生きていたならば、)
(その胸にも、この剣を突き刺してやるとも)
 冷徹な憎しみを抱いたような灰色の目が、マクスタート川の上流、その先にあるバーネイと、さらに山脈を越えた先にある、ジャリアの国土を己の視界に征服するかのようにくるめいた。そして、その口元に浮かぶ酷薄な笑みは、まるで復讐すべきすべての対象へと贈られる、死刑執行への静かな烙印にも思われた。


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