バスドラハート エピローグ



 ……そして、時は流れ、季節はめぐる。
 冬がすぎて春が訪れ……再び夏がやってくる。
 わたしは大学生になった。
 希望を変更して文学部に入ったのは、自分が文章を学ぶことがけっこう好きであることに気づいたからだ。今では、できれば将来は、文章にたずさわる仕事に就きたいと考えたりしている。そうだ、そのうちに、わたしとリョウやバンドのことを、文章にしてみるのもいいかも。
 まあ、それはいいとして……、
 わたしがかつて考えていた、何もかもがつまらないという思いは、わたし自身の視野が変われば自然に変化していくものなのだ、ということが分かってきた。最近分かったことは、たとえば何か一つのことを見て、たとえそれがつまらなく思えたとしても、その後ろにあるもの全部までを否定するのは馬鹿げている、ということだ。
 つまり、それはCDの一曲目がつまらなければ、他の全ての曲もつまらないと判断するようなものだ。一度話をしただけの相手を、それだけでつまらない人間と判断したり、たまたまTVで外国人の犯罪のニュースを見て、外国人はすべて凶暴だと思い込むのと、それは同じくらいに馬鹿げている。
 まして、物事や人の中身をその外見だけで決めつけることは、わたしにとってはもはや全くナンセンスな価値観だ。一見おっかない、ひげのギタリストがわたしの傍らにいる時には、なおさらそれを感じる。わたしはもう、汚いジーンズをはいた道端のロッカーたちにさげすむような眼差しを向けることはないだろう。
 わたしは大学生になったのだ。そして、それはわたしが決めたこと。これから自分自身を好きになることができるか、あるいはできないかは、すべてがわたしの責任なのだ。
 わたしにとっての自分を縛る鎖とは、結局のところ、いままで自分が持っていたある種の偏見と、自分で行動することをせずに決められたことのみを消化して満足しようとしていた、ストレス入りの達成感でしかなかったのだ。私が苦痛に感じていたものは、実はそのような身勝手な不自由さともいうべきもので、それは言い換えれば、選ばされた行動に対しての責任の無さに他ならなかったのだ。
 もちろん、わたしはまだ本当の自分を見いだして、大いなる目標に向かって努力しているとはいいきれない。しかし、それらはこれからの行動しだいでいずれはっきりと見えてくるはずだ。
 すべてには遅すぎるということはない。いつだって、今から始めればいいだけなのだ。だから、わたしは大学で勉強し、友達と話したり、自分を考えたり、言うべきことを言いつつ、そしてしたいことをしようと思っている。それでいいのだと思う。
 そうそう、奈津子の奴は大学ではなく、専門学校へ進んだ。
 驚いたことに、彼女は通訳の仕事を目指して外語学校へ入ったというのだ。なんというか……ただ者ではない。わたしなんかよりよっぽどしっかりしているではないか。最近はしばらく会ってないが、もしかして今度会ったらきりっとした姿になってるのかも。まあ、たぶん、あんまり変わってるとは思えないが……。
 えりかは、定時制の学校に入ったらしい。一度手紙をもらったが、アルバイトをしてピアノを習いながら、学校で勉強し、音大を目指すのだという。目的があるなら、きっとそこにたどり着けるだろうと思う。中学時代のえりかがピアノを弾く姿を、わたしは想像した。
 エメラルド・スラッシュ改め、ヴァールハイトの連中は、相変わらずバイトのかたわら練習や、ライブをする日々を送っている。近々、マイナーレコード会社の協力でCDをリリースすることが本決まりになったそうだ。儲けはほとんど見越してないということだが、最近の彼らのライブでの人気ぶりを見ると、そこそこいけそうな気がわたしはするのだが。 
 リョウは何も言わない。ただいつものように自然に、楽しげにギターを弾いているだけだ。それは今日のライブでも同じに。
 今日は7月20日。
 わたしとリョウにとっては大切な日。
 ちょうど一年前の今日、わたしはリョウに初めて出会ったのだ。



「いろんなことがあったね……」
「ああ……」
 小さな公園のベンチに腰掛け、わたしたちは過ぎていった時間を思い出していた。
 遠くに見える街の灯、公園の外灯と夜空のかすかな星たち。
 わたしとリョウは、それらの光を静かにながめながら、それぞれに過去の光景を思い描いていた。
「前にもこの公園で、こうして二人で座ったことあったよね……。覚えてる?」
「ああ。お前が泣いたとき」
「もう」
「泣いたろ、楽屋で」
「そうだけど……。あれはだってリョウが……」
「なんだよ」
「リョウがはっきりしなかったし……、えりかのこととか思い出したり、自分が情けなかったりで……つい、ね」
「すげえヒステリーだったよな」
「ああもう、言わないでよー」
「そういや、あの時が……」
「えっ?」
「ああ……、いや……」
「あ……」
 わたしは赤くなった。
「あれが……、ファーストキスだったんだから」
「ああ……」
「ああって、なによ」
「いや、ああやっぱりって……」
「もう!馬鹿」
「なにが?」
「無理やりしたくせに」
「なにを人聞きの悪い」
「だってそうじゃない」
「お前が黙んなかったからだろ」
「黙んなかったら誰にでもキスするの?」
「んーなこと言ってねーだろ」
「どうだか」
「あーもう……」
「うるせー、でしょ?」
「……」
 リョウはプッと吹き出した。
 わたしもくすっと笑う。
 お互いの間が合うというのだろうか。リョウとわたしの間に流れる空気は、時々揺れることはあっても、決して凍りついてしまうことはない。
 それはきっと、わたしたちがお互いに、もう自分を偽ったり格好つけたりせずに、言うべきときに思ったことを言っているからなのだと思う。だから言いたいこと、言うべきことがないときは、わたしたちは何時間でも黙っているだろう。それは苦痛ではなく、とても自然な時間なのだ。
「でも今思うとさ……」
「なに?」
「俺たちがこうしてるのも、なんか不思議だよな」
「不思議……って?」
「ああ……。だから、本当はなんも関係ないはずの俺たち……高校生だったあんたとバンドやってる俺が、今では何故かこうして、ライブ帰りの公園で一緒にベンチに座ってるんだから」
「そうだね」
「考えてみれば、あの時あんたがライブで倒れなければ……いや違うな、リアンがティッシュ入りのチケットをあんたに渡さなければ……俺たちはここにこうしてはいなかったんだろうな」
「そうだけど……それを言ったら」
 わたしは面白そうにうけあった。
「リョウたちがあの駅で仕事しなかったら……、わたしがあの高校に行かなかったら……、リョウがバンドやってなかったら……、わたしが、わたしでなかったら……って、なにもかもが偶然のせいになっちゃうじゃない」
「ま、そりゃそうだ」
「わたし思うんだけど……偶然っていうのは、そりゃたまには本当にバッタリっていうのもあるだろうけど、たいていはわたしたちが自分で選んだ結果なんじゃないかしら。リョウが今バンドやってるのも、わたしがあの日ライブに行ったのも、結局は自分で決めたことなわけでしょ。だから……」
 わたしはリョウを見た。わたしの言いかったことを、きっとリョウも理解している。
「だから、わたしがここに……リョウのとなりにこうしていることも、きっとわたし自身が決めたことなんだよ」
「……」
「リョウも……そう?」
 そう尋ねるわたしに、ゆっくりリョウは顔を近づけ……
「ああ……そうだ」
 わたしは目を閉じる。
 リョウの唇がやさしくわたしの唇に重なる。
 ひげの感触にはもう慣れた。
(わたしは今、ここにいる……)
 なぜだか、そんな不思議な感慨が沸いてくる。
 時が流れて、季節が過ぎていっても、わたしはこの一年のことを忘れないだろうと思う。
 わたしたちはしばらくそうして、誰もいない夜の公園でよりそっていた。

「やっぱ行くのか?」
「行った方がいいと思うけど」
 車のライトがまぶしい大通りの歩道を、わたしとリョウは並んで歩いている。行き交う人の数は、この時間になるとさすがにそう多くはないが、それでもカップルや宴会帰りのサラリーマンの姿などが、ちらほら見える。
「でも、今から行くとうるさいぜー、きっとアイツらが」
「うーん、ちょうどいい感じに盛り上がってる頃かもね」
 わたしたちは居酒屋の座敷で、メンバーや顔なじみの客たちが楽しそうに騒いでいる光景を思い浮かべた。
「二人で入っていったら、なにを言われるかわからんぞ」
「でも、三好さんも、とりあえず顔出せよって言ってたし……」
「うーむ」
 リョウは立ち止まって腕を組んだ。
「まず、リアンだよなあ」
「え?」
「アイツ酒が入ると、いっそう凶暴になるだろ」
「そ、そうね」
「俺たちが入ってくと、真っ先にヤツが大声出してはやし立てるぜ。絶対」
「リアンの声よく通るからね……」
「んで、次はとうせいだ。また例によって自分で作ったことわざかなんかをさらっと言って、いくら飲んでも顔色変えねえくせに、言うことだけはだんだん過激になるからな。それで周りは大爆笑。俺らはそれから一時間は酒の肴にされるわけだ」
「で、でも三好さんが止めて……くれないか」
「ああ、コウの奴はさらにたちが悪い。酔っぱらうと泣き上戸の上、演説上戸になるからな。隣にいるヤツを誰それかまわずにつかまえて、マジな顔でロックがどうの、最近の若者がどうのと語りはじめて止まらない。自分の世界に入っちまって、周りのことなんぞ目に入らない。それでもバンマスかお前は、って様子だからな」
「コ、コワイなあ……」
「どうする?やっぱやめるか」
 わたしはちょっと考えてから、しかし首を振った。
「でもね。それでも、わたし嫌いじゃないから……みんなといる、あの空気が」
 気のおけない仲間たち。自然な笑顔と何気ない会話……そうだ。あそこはわたしが、ただの「わたし」でいられることを教えてくれた、最初の場所なのだから。
「まあ、俺も別にかまわんけど。あいつらにはやし立てられるのはもう慣れた」
「ウソ」
「なんだよ」
「すぐ赤くなってそっぽ向くくせに」
「悪いか」
「悪くないよ」
 わたしはくすりと笑い、
「じゃあ、行こ」
「ああ……」
 リョウがギターを背負い直す。その腕に手を滑り込ませるわたし。
 車のライトや店店の派手な電飾が渦巻く夜の街を、わたしたちは歩いていった。
 大きな背中に揺れるギターケース。
 これからもそれを見るたびに、わたしは思い出すだろう。
 この夜のことを。そして、ひげのギタリストとの出会い、わたしが自分を見つけたあの日々のことを。
 “ヴァールハイト”のギターフレーズを口ずさみながら、わたしたちはまだ蒸し暑い夜の通りを歩いていった。  



                                            (完)
 
                Ending BGM "Heaven can wait"
                        by GAMMA RAY



あとがき

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