バスドラハート 6
「お疲れさま。とっても、すごく良かったよ」
「サンキュー」
「ウイース」
ライブのあと、わたしはメンバーたちと一緒に楽屋にいた。
機材やら楽器などが置かれた狭い楽屋は、5人もいればけっこうきゅうくつだ。わたしはなんとなくリョウと目を合わせずらく、扉の前に立ったまま、なんとなくそわそわしとていた。
そんな空気を破るように、リアンが陽気な声でわたしに話しかけた。
「“ヴァールハイト”いい名前でしょ?」
「うん」
「とうせいが考えたんだよな」
「ええ」
リアンの横でうなずく緑川さん。激しいドラムのあとでも相変わらず涼やかな顔だ。
「……で、ソレ何て意味だっけ?」
「真実。ドイツ語ですけどね」
「思ってたんだけどさ……、何でまたドイツ語なワケ?」
三好さんが煙草に火をつけながら訊いた。
「ドイツ、それは……」
重々しい口調……皆が緑川さんに視線を注いだ。
「哀愁とロックの似合う国。悲しみと美が混在した独特のメロディ。……ジャーマンロック。僕はそれが好きです」
なんとなく言葉を失っているわたしたちをよそに、緑川さんはうっとりと目を閉じた。
「と、とうせい、お前もしかして……大学ん時ドイツ語習ってたのって、それが理由とか?……」
「そうです。もちろん」
きっぱりとうなずく緑川さん。
あきれ顔の三好さん。ぷっと吹き出すリアン。思わずわたしも笑ってしまう。その場の空気がいっきになごむ。
「まあ……でも確かにドイツのロックって、何かいいよな。アメリカンロックにはない独特の湿り気っていうかさ、叙情性があって。大御所のスコーピオンズだろ、メタルだとハロウィン、ガンマレイ、最近のだとフェアウォーニングなんかも」
三好さんの言葉に、リアンも身を乗り出した。
「そうそう、ジャーマンメタルは心の故郷だよ」
「おっ、お前、クサいメタルは嫌だとか言っておきながら」
「いーんだよ、カッコよけりゃ!だってオレが最初に聴いたのはジャーマンなんだから。やっぱ基本はハロウィンだろ。あとブラインドガーディアン、マイケルキスクも歌うまいから好き」
「かーっ。ハロウィンが基本か!若いねえ。でも、そーいやお前の歌い方ってなんとなくキスクに似てきたよな」
「マジ?オレ最近、高音を伸ばすコツつかんできた気がしてさ!そーいわれると、嬉しいなぁ」
「うむうむ、精進せいよ。ところでリョウ、お前は?」
「ああ?」
リョウはさっきから黙ったままで、壁によりかかって立っていた。
「ああ、じゃなくて。お前の好きなドイツのバンドだよ」
「ああ……、そーだな。やっぱスコーピオンズかな……。ウリ・ジョンロート」
「そーだろそーだろ。お前も最近ホントにいいメロ弾くようになって。俺は嬉しいよ」
「なんで?」
「だって、俺もこれでようやくギターに合わせたカッコいいベースラインが作れると……」
「悪かったな、今までつまらんギターに合わせてもらってて」
「まあまあ、今までは今まで。これからはこれからってことさ。な、とうせい」
「その通り。『過ぎたソロに嘆いても仕方ない』ともいいますし」
「お前が作ったんか?そのことわざ」
「ええ」
再び笑いに包まれる楽屋……めったに笑わないリョウまでもがクックッと笑いをもらす。
「……んで、お前のお気に入りのドイツのロックは何なんだ?」
「そうですねえ。メコンデルタとかネクターとか……、あとエニワンズドウターなんかが」
「プログレだろ、それ」
「プログレです」
「うえっ、マニアー!」
「マニアですよ」
音楽の話をする彼らは何て楽しそうなんだろう。気取りのない彼らの会話を聞いていると、なんだかつまらないことで悩んでいるのが、馬鹿らしくなってくる。
「でも、ドイツの哀愁じゃないが、今日のライブ出来よかったよな。特にリョウのギターが、鳴く鳴く」
「うん。リハん時は、うぇー、くせえー、って思ったけどサ、ステージで聴くと……いいんだ、コレが。オレ歌いながら泣きそうになっちったよ」
少し得意気な顔をしたリョウが、こちらを見た。
リョウとわたしの目が合った。わたしは何かを言いたかった。わたしが一番に聞きたかったこと……
「あ……、あの曲、は?」
それが自然に口から出た。それで充分だった。
「べつに……、あんたに言われて、やったんじゃねえぞ」
そう言って、リョウはやや照れたように顔をそらせた。
「へーえ、そうだっけ?やりたい曲があるって、真剣な表情で言いだしたのは、確か、彼女にマズイとこ見られた翌日だったよなぁ」
「リアン、てめえ、よけいなことを」
「んーだよ。ホントのことだろー。あん時のリョウってば、マジだったよなーマジ!」
「ううう」
わたしは赤くなったリョウを見た。
では、彼も覚えていたのだ。あの時、わたしに聴かせてくれたメロディと、わたしが言った言葉を……。
「……」
ぼんやりと立っているわたしに、三好さんが声をかけてきた。
「あれ、朝美ちゃん、もしかして、聞いてないの?あの子のこと」
「あの子……って?」
わたしは目をぱちくりさせて首をかしげた。それを見て、三好さんは頭に手をやり、
「おいリョウ!お前なんにも言ってないのかよ」
「なんにも……って何を?」
うっそうとそう答えるリョウに、呆れはてたといった顔を向けた。
「あちゃー。この、バカ!」
「バカとは何だ」
「バカだからバカだ」
「何だと」
憤慨するリョウを指さして、三好さんは言った。
「お前がなんでいつも女にフラれるかが分かったぞ」
「よけいなお世話だ」
「ギター弾く以外に能がないのか、お前は」
「悪いか」
「悪い」
「まあまあ」
にらみ合う二人を横から緑川さんが制した。
「ここはひとつじっくり話をするべきでしょう。ねえ、朝美さん」
「はあ……」
よく事情を呑み込めないわたしは、ぽかんとしながら、馬鹿みたいにそう答えたのだった。
「とりあえず、リョウに任せると話がまったく進まないだろうから、俺が代わりに説明するけど……」
三好さんはそう話を切り出した。
楽屋には、リョウとわたしと三好さんの三人だけになった。緑川さんとリアンは「お前らがいると話をするのが疲れるから」と、追い出された。
「あのね、朝美ちゃん。あの子、えりかちゃんだっけ?……とリョウは別に何でもないんだよ。なあ、リョウ」
「ああ」
えりかの名前を聞いて、わたしの胸がちょっとざわめく。わたしは何てバカなんだろう。
「あの子は、けっこう前にウチのライブに来てくれてた子でね。何年まえだっけ?アレ」
「あー、2、3年てとこか」
「そうだなあ、俺らがこのバンド始めて、ちょっとずつ客がつきはじめた頃かな。そのころは俺らもギンギンのメタルでさ、ただバカっ速い曲ばっかやっててね、客の方も、曲を聴きにくるというより、ただ暴れるために来てるってカンジだったなあ」
あぐらをかいて床に座りながら、三好さんはつづけた。
「いつだったか、はっきりとは思い出せないけど……、ある時ライブの帰りにさ、俺とリョウが歩いてたんだよ。……その、ちょっといかがわしい通りをさ。ああ、いや勿論、俺らは打ち上げの帰りで、酒は飲んでたけど、別にヘンな店に入ったりとかはしなかったよ。第一そんな金もなかったし。なっ」
「ああ」
うなずいたリョウはタバコに火をつけた。
「それで、俺たちが楽器かついで歩いてると、その、いわゆるエッチホテルの前でなんか騒いでる連中がいたわけよ。もう夜もかなり遅かったし、そんな人通りの多い道じゃなかったんで、けっこう大声で言い争ってんだけど誰も集まってこないんだな。まあ、俺らは偶然通りかかったんだけどね。でもどっちみち、俺らには関係ないし、カップルのいざこざなんざ別に珍しくもないんで、とっとと通り過ぎようとしたんだよ」
三好さんは、その時のことを思い出すように話し続けた。
「んで、近くまで行くとはっきりと声が聞こえてきてさ、女の方はえらく若い声で、若いっつーよりガキみたいだったな。そんで『いやだー』とか、『そんなつもりじゃない』だとか叫んでるのよ。んでオトコの方は、こりゃもう見るからにスケコマシの大学生ってカンジの奴でね、その女の子の手をつかんでひっぱってんの。俺とリョウは顔見合わせてさ、どーするー?ってなもんで……。なんせどう見ても、髪茶色にしたり化粧したりしてっけど、中学生くらいのトシなのよ、その子。まー、今時の中校生は進んでっから、オレらがとやかく言う筋合いでもないんだろうけどサ、なんかそれにしちゃあ様子が普通じゃなかったっていうか、しまいにゃ泣きだして、俺らが通りすぎると後ろから『助けてー』とか叫ぶもんだから、しょうがねえ、って感じで俺らも……なあ」
「ああ」
「んで、助けてみると……ああ、別に野郎を殴ったりはしなかったぜ。俺とリョウが睨み付けただけでソイツどっかいっちまったし。そんで、話を聞いてみると、その子まだ15才だって言うのよ。世も末だと思ったね。15の女の子が夜の12時にホテルの前で男と言い争いをしてんだから。俺らの頃はそんなことはまったく……まあ、それはいいとして。とにかく、その子すっかり動転してて、泣きながら『もう死にたい』とか言いだすもんでさ、何とか落ちつかせようとファミレスでメシ食わせて、その後家まで送ったワケだ」
「あの……、まさか、それがえりか?」
わたしはちょっと信じられなかった。まさか、あの真面目だったえりかがそんなことを……。
「うんそう。ああ、そういえば、朝美ちゃんは彼女の知り合いだったんだってね。この前初めて知ったけど」
「ええ……。中学のときの」
「ふーん。んで、話の続きだけど……」
「はい」
「それから、一応なんとか落ちついた彼女を家まで送ってったんだけど……終電終わってたからタクシーでね。その間ずーっとしょんぼりと黙ったままでさ、だから俺らもあんま細かいことは聞かないようにしてさ。言いたくないことを言わせてもしょうがないしね。んで、とりあえず俺らのライブでも見て元気を出すようにと次のライブのチケット渡して別れたんよ」
三好さんは、リョウとわたしの顔を交互に見て続けた。
「でも、まあ今考えるとそのころの俺らのライブって、かなり激しいモンがあったからね。剛速球メタル……みたいな。15の女の子が聴く音楽じゃないよなァって後で思ったんだけど。でも……驚いたことに、来たのよ、その子が。えーと、あれはどこのライブハウスだっけ……。吉祥寺だったか?」
「ああ、多分」
「そのころはね、今ほどは客も付いてなかったんで、いろんなちっちゃなライブハウスを点々としてたんだ、俺ら。それで、ライブ終わって客がばらばらと帰って、がらがらのフロアに女の子が一人立ってるもんだから、声かけてみると、なんとその子でさ。でもけっこう元気そうなんで俺らも安心してね。なっ、リョウ」
「ああ、まあ」
「なんか、俺らのライブ見て元気が出てきた、とか嬉しいこと言ってくれてね。それで、それからはちょくちょくライブ来てくれるようにになって……なあ、リョウ」
「まあ」
「まあ、じゃねえだろコイツ」
「んーだよ」
「そのうちに彼女、すっかりリョウのファンになっちゃってさ。なっ」
三好さんはリョウの肩を叩いた。タバコの煙にむせるリョウ。
「ライブん時なんかは、いつもリョウの真ん前が指定席だったし、演奏の間もリョウの方ばっかじっと見てるんで、曲を聴きに来てるってよりはリョウを見に来てるってカンジだったよなあ。あと打ち上げとかにもひょこひょこついてきて、ちゃっかりリョウの隣に座ったり……それはもう、相当ななつきようだったね!あれは」
「そうだったか?」
「ああ……。もう……分かるでしょ、朝美ちゃん。コイツがこーゆーヤツだから。はたから見たら彼女がコイツに気があんのははっきりとして、それはもう分かりやすかったんだけど……。コイツは相変わらずぶっきらぼうだし、彼女のアタックにうんともすんとも言わないしで、そんなこんなのうちに、彼女の方もきっと熱が冷めたのかどうかは知らないけど、以前ほどちょくちょくは来なくなったんだなライブに。惜しいことしたなリョウ」
「ほっとけ」
「ま、だいたいそんなとこだな、俺が知ってんのは。でもまあ、最近でもたまーに客席に彼女がいたりする時もあるみたいだけどね……。でも多分、コイツのことだからそれ以上のことはなんもないと思うぜ。なー、リョーウ?」
三好さんはそういうと立ち上がった。
「さて、あとはお前が話しな。あの日、またなんで彼女が来ていたのかをな」
リョウの肩をポンと叩くと、わたしたちを残して、三好さんは部屋から出ていった。
「……」
薄暗くなった狭い楽屋に、わたしたちは二人きりになった。
にわかに心臓がどきついた。この状況ではいくらわたしでもちょっと……。しかも、つい先日わたしは自分がリョウを好きなことに気付いたばかりで……、
ああもう、どうすればいいの……。
リョウの方に顔を向けることもできない。首が動かない。
リョウはさっきからずっと、椅子に座ったまま、黙ってタバコ吸っている。
聞きたい……。あの時どうしてえりかと楽屋にいたのか。
何を話していたのか……。えりかのことをどう思っているのか。
それと……、それと……、
わたしが勇気をふりしぼり、言葉を出そうと息を吸い込んだ時。
「あの子は……」
何の前置きもなく、リョウはぶっきらぼうに言った。
「あの子とは、別になんでもない」
わたしはリョウの方を向いた。よかった……首が動いた。
「あんたの友達だったとは知らなかったけどな」
「……」
わたしは、何を言えばいいのだろう
えりかの顔……えりかの言葉が、わたしの頭によぎる。
(カッコイイよ。背高くて、足長くて、バンドやってんの)
(あたしの好きな人にもらったんだ)
えりかの笑顔。誇らしげにわたしに見せたそのギターと“エメラルド・スラッシュ”のロゴ。
「でも、」
わたしは何を言おうとしてるの?
よけいな、そう、よけいなことだ。わたしはいつだってよけいなこと、面倒なことは口に出さなかったのに……。
「でも、えりかはまだリョウのこと好きみたいよ」
わたしには、なぜか言わずにはいられなかった。
リョウがわたしを見る。わたしもリョウを見た。
「さあ、どうかな」
つまらなそうに答えるその言葉に、わたしはつい眉を寄せた。
「どうかなって、何なの、それ?」
「ああ?」
「あの子の気持ちなんて、どうでもいいってこと?」
「なにムキになってんだ?」
「だって、あの子は本当に、あんたが好きだったのよ?」
「なんでそんなことが分かんだよ?」
「分かるわよ」
そう、わたしには分かる。今ならはっきりと。
「分かるわよ」
「あんた……」
驚いたようにわたしを見るリョウ。
「リョウは……」
自分でも驚くのだが、
「リョウは、あの子のことをどう思ってるの?」
わたしは時々勇敢になる。
「どうって……べつに」
「べつにって?」
「あーうるせーな、べつに何とも思ってねえってことだよ」
「じゃあ、どうして」
わたしは思わず立ち上がり、正面からリョウに向かった。
「じゃあどうして、えりかにギターをあげたりしたの。どうして、えりかがあの時楽屋にいたの」
あの時といっしょだ……
ライブの帰りにリョウに送ってもらった駅で……
あの時のように、わたしの口からは次々と言葉が溢れてゆく……
「どうして、えりかは泣いていたの!どうして……」
堰をきったように、何かが爆発したように……、わたしはリョウに自分の思いをぶつけていた。
どうしてだろう……
どうしてリョウに対しては、わたしはこんなにも、いつもなら決して口にしないようなこと……、本当にら面倒でよけいなことのすべてを、言わずにはいられないのだろう?
「おい、落ちつけ」
リョウの言葉とは裏腹に、わたしは自分の体がカッと熱くなり、何かがこみ上げてくる感覚を抑えられなかった。
「なによ、あんたなんかそんなすましたまま『べつに』とか言うだけで、えりかの気持ちも、わたしの気持ちもどうでもいいようなこといって……」
自然に涙が溢れた。
「えりかにギターをあげたりしたくせに。えりかと抱き合ってたくせに。なんで……なんでわたしの学校までわざわざ来て、チケット渡したりしたの!」
言葉は止まらない。いつの間にか、わたしは拳を握りしめ、泣き叫んでいた。……ヒステリーだ。
違う。こんなの私じゃない。
「私」はもっと冷静でスマートで、物事を客観的に処理できて、決して無駄なことはしなかったはずだ。
こんなのはわたしじゃない……。
でも……だったら、本当のわたしってなんなの?
学校での真面目で堅物の生徒の鑑?
……違う。
それじゃあ、今ここで長髪のロッカーの前で、こうして馬鹿みたいに泣きわめいている姿?
……分からない。
分からない。分からない。分からない。
わたしは、今ここにいるのが本当にわたしなのか、それともそうではない別の「私」であるのかが、自分でも分からないのだ。
今の「わたし」は、込み上げる自分の思いに突き動かされながら、まるで子供のようにリョウに叫び続けている。
「おい、落ちつけって。外まで聞こえるだろ」
リョウがわたしの肩を押さえつけようとする。
「放してよ。放して!わたしもう帰るんだから……こんなとこ来るんじゃなかった。もう二度と会わないから」
わたしは泣きながら叫んだ。
「えりかが好きなら、はっきりとそう言えばいいでしょう!ギターあげたり、楽屋で抱き合ってたり、そんなのを見てわたしが何も感じないと思ってたの?どうせあんたから見れば、わたしはただの真面目な堅物のひねくれものの女子高生よ。目的もなくただ勉強して、大学行ってOLになるだけのつまらない女でしょうよ!。だからもう、あんたたちと一緒にいる資格はわたしには無いの」
「おい、落ち着けって」
「もう帰ります!わたしが馬鹿だった。えりかは目的もってがんばって生きてるから、きっとお似合いだわ。わたしなんかよりずっと。もう二度とライブに来たりしないから。わたしもう……うっ」
わたしは、最後まで全部言うことができなかった。
(あ……)
肩を押さえるリョウの手が、痛いほど強くわたしを引き寄せていた……。
(あ……、ああ……)
リョウの鼻がわたしの鼻にぶつかり、その長い髪がわたしの頬にかかる。
「ん……」
わたしは目を見開いたまま、リョウの顔を見ていた。わたしの顔に被さったリョウの顔を……
目を閉じたリョウの長い睫毛。ざらついたひげの感触。
やわらかくふれた唇から、リョウの息が熱く感じられる。
わたしは、
わたしは目を閉じた……。
静まり返った薄暗い楽屋で、わたしたちはしばらく、そうしたまま動かなかった。
「ほらよ、コーヒー」
「あ、ありが……と」
わたしとリョウは、ライブハウス近くの、小さな公園のベンチに並んで腰掛けていた。
あたりはすっかり暗くなり、街灯の明かりだけがうっすらとわたしたちを照らしている。わたしたちは、しばらく無言でそこに座っていた。
「あの……」
先に口を開いたのはリョウだった。
「さっきは悪かったな。あんな……」
「う、ううん……」
(さ、さっき……)
リョウとのキスを思い出して、わたしは顔を真っ赤にさせた。外が暗くてよかった。
「わ、わたしこそ……ごめんなさい。なんか、馬鹿みたいに叫んじゃって……」
「ああ、ちょっと驚いた。あんたがあんな風になんの、はじめて見たよ」
「……」
わたしはコーヒーを一口飲んだ。……熱い。
リョウがわたしのことをじっと見ている。
「……やっぱ、あんたって面白いな」
「え?」
「いや、ああいう風に熱くなってても、言うことにいちいちスジが通ってるっつーか、面白いっつーか」
「……」
お、思い出すだけで恥ずかしい。あれは本当にわたしだったのだろうか……?
「いやー、すでにあの時からただ者じゃないとは思ってはいたが」
「あ、あの時……って?」
「いつだったかの帰りに、駅で俺にいろいろ言ったじゃん。覚えてるだろ」
「う、うん……」
「あん時は、いきなり呼び止めて、俺に向かってずけずけ言うもんだから、びっくりして、何だコイツ変な女ー、とか思ったけどさ」
(……うう、そんな風に思われてたなんて……)
「でも、後であんたの言ったことをよく思い出してみると……なんか、俺も考え込んじまって……」
「何を?」
「あんた、あの時言ったよな。ステージでの俺は不自然で怖かったって……」
「……」
「あんたにそう言われるまでは、俺はずっと思ってたんだ。ステージの上では、激しく頭を振ったり鋭い目つきをしたりすることがカッコいいことなんだと。いや、俺もたまに思わんでもなかったんだけど……。こうやってワザとらしく表情作ったり、客を睨み付けて笑ってみせたりすることが、本当に俺のやりたいことなんだろうかってさ……。でもまあ、俺らはメタルバンドだし、客も喜んでるし、これでいいんだろう、とそれ程深く考えなかったんだな」
リョウはちょっと照れたように笑った。
「んで、あんたにはっきりそういわれたとき、じっさいびっくりしてさ。不自然?ああ、やっぱそう思うヤツもいたんだって思って。……で、あの曲だけど」
「ああ、“ヴァールハイト”?」
「ああ……。あんたがライブで倒れて、楽屋で寝てるあいだずっと弾いてた。けっこう前からすこしづつ作ってたんだけどね……。でもウチらのバンドでやる曲じゃねえよなあ、とずっと思ってた。あんたに言われるまでは」
「今日、やったね……」
「ああ、あんたに聞いてほしくて」
リョウはわたしを見た。その目は、いままで見たことがないような、優しい目だった。
「ホント……。うれしかったな。あんたがあの曲を好きだって言ってくれた時。それじゃあ、この曲……俺の作った、このとてもメタルとはいえねえこの曲を、ライブでやるのもいいのかな、とか思ってね。んで、そう思うと、今までハードロックだメタルだと肩肘はって、ステージで馬鹿みてえにカッコつけて、流し目くれて女にキャーキャーいわれてた俺が、ホント恥ずかしくて最低のバカに思えてきて……。もうつまんねえ演技せずに、弾きたいように弾いて、笑いたいときにだけ笑えばいいやって思いはじめたら、なんかすごく楽になってな……。曲とかアレンジとかどんどんアイデア浮かんできて……ああ、俺はよっぽど今まで、てめえで気付かないうちに、くだらねえ決まり事に縛られてたんだな、とつくづく思ったね」
「……」
リョウの言葉を聞きながら、わたしは驚いていた。
いつもは「ああ」とか、「うん」とかしか言わないリョウが、こんなに話すのを、わたしは初めて聞いた気がしていた。
そうなんだ……わたしはやっと気が付いた。リョウは別に、決して無口なわけでもいいかげんなわけでもなく、ただ言いたいことを「言うべき時」にだけ言っていた、というだけだったのだ。何も言うべきでない時に何も言わないでいること、それはとても難しいけれど、とても大切なことだったのだ。
リョウはそういう人だった。今までも、今もずっと。
(ああ、わたしは……)
「おい……なに泣いてんだ」
今度はリョウが驚いた目でわたしを見た。
「わ、わたし……やっぱり、リョウといっしょにいる資格ない」
わたしの目からぼろぼろと涙がこぼれた。さっきのとは違い、これは自分に対しての、自分の情けなさへの涙……
「わたしなんか……馬鹿だし、やな奴だし、えりかに嫉妬したり、リョウに八つ当たりしたり……、ホントにダメな奴なの……」
「なに言ってんだ?あんた」
「本当は、そんなんじゃないのに、真面目なフリして、いつもつんとすましてたり、リョウは知らないかもしれないけど……、学校でのわたしはすごくいやな奴なの。時々、こんなの自分じゃない、とか思うのに、やっぱり周りの目とか先生とか、両親とかのことを気にして、そうやって真面目な自分を演じ続けてるの」
「……」
「本当の自分て何なのか、そういつも考えてた。きっと自分になれる時はいっぱいあったのに……。わたしは言うべきときには何も言わなかった。誰かと言い争ったり、面倒くさくなるのがいやで、わたしはいつもウソを選んでいた……。真面目なふりをしてるほうが楽だったから。皆が『そういう人』だと思って見てくれるから、わたしはただ、その通りに振る舞えばいいだけだった……」
自分のすべてを告白するように、わたしは話し続けた。リョウはそれを黙って聴いていた。
「わたしは……そんな自分が大嫌い。そんな自分でいなくてはならない学校が、大嫌いだった……。リョウがいつかわたしに聞いたでしょ?学校面白いか、って」
「ああ……」
「わたし本当はその時、心の中で『つまらない、つまらない!』って叫んでた。でも口には出せなかった。わたしはそういう人間なの。見栄っ張りでウソつきのいやな奴。何もかもつまらないって心の中で思いながら、すらすらと先生の質問に答えるような。リョウのことを不自然だなんて言っておきながら、本当はわたし自身が不自然な、情けない奴だったの」
「……」
「……だから、わたしが今日のライブでリョウを見て泣いたのは、きっと自分が本当にダメなウソつきのバカだということがつくづく分かったんで、リョウの自然な姿がとても眩しかったからなんだと思う。こんなわたしがリョウやみんなといる資格なんて……」
「……」
リョウはうつむいているわたしの頭に黙って手をのせ、それから言った。
「あんた、バカじゃねーの?」
「え……?」
「だから、バカだっつーの」
「そ、そうよ。だから、わたしはバカで……」
「あー……、じゃなくて!」
「……?」
わたしは涙でぐしゃぐしゃな顔を上げた。お化粧してなくてよかった。
「あのなあ、さっきからあんた、資格がないとか、どーのとか言ってっけどさ」
リョウはポケットからティッシュを出して、わたしに差し出した。
「そんなこと言ったら、俺だってギター弾く資格ないぜもう」
「な……、なんで?」
ティッシュで涙を拭くわたし。
「だってそーだろ。俺だって今まで、ステージの上でずっとウソをやってきたんだぜ。こうやればカッコいいだろ、こうすれば客が喜ぶだろって、あんたの言うウソの自分てやつを演じてたんだから」
「あ……」
「あんたが学校で人の目を気にしながらやってたみたいに、俺もステージでは客の目を気にしながらギター弾いてた、ってわけで……。俺たちゃ同じだぜ。いや、金払って見に来た客をだましてたんだから、むしろ俺のーがずっと悪いのかもな」
「で……でも」
「ようするにさ……」
リョウはわたしに向かい、軽く笑ってみせた。
「大事なのは、その後……だろ?」
「その後……?」
「ああ。俺はいままで人の目を気にして、カッコつけたり、ただ上手く見せようとしたりと最低の馬鹿だった。自分がなんで今、このメロディを弾くのかなんてことは考えもせずに、決まり事に縛られている自分にも気づかず、俺はただやみくもに音を出すだけだった。俺は自分でやりたいことをやってるんだと思いながら、本当はしなくてはならないことにただ縛られていたんだ」
「……」
「でも俺は、やっとそれに気づいた。今までいろいろ馬鹿をやってきたし、思い出すと恥ずかしいこともあるが、それでも……それでもきっと遅すぎたってことはないはずだ。と思う。俺はやっと自分の弾きたいギターが何なのか考えはじめたし、今自分が弾いたこの一音にはどんな意味があるのか……とかさ、いろいろ考えたりするようになったわけよ」
リョウはまた笑った。力強く。
「俺は、それでいいんだと思う。確かに今までの自分てやつがいやんなることはあるけど、だからってこれからの自分まで嫌いになることはねーんじゃねえの?」
「……」
わたしは驚いて……本当に驚いて何も言えなかった。
わたしの中にあった、もやもやとした霧が晴れてゆく。リョウの言葉で……。
「これからの自分がどうなるかは、いまからでもぜんぜん遅くねえんだし、これから自分が好きになれるかどうかは、全部これからどうするかで決まるわけだろ。俺は……だから俺は、ギターを弾きたい。自分の好きなギターを。自然に、自分でカッコいいと思える音楽を。人が見てカッコいいと思うかどうかじゃなく、自分のやりたいこと、自分が好きになれる音を……俺は作りたい……」
そう言って、リョウはまた照れたようににやっと笑った。
「だから、あんたが資格がないのどうのというんなら、俺もギターを弾く資格がなくなっちまう。あんたは、俺にギターやめさせたいのか?」
わたしは首を振った。
「それに、俺にそう気づかせたのはあんたなんだぜ。あんたがあの時、駅で俺に言ってくれたから。俺はこうして自由にギターが弾けるようになったんだ。あんたがあの曲を好きだと言ってくれたから。……だから、俺がこうしてこれからのことを考えられるのは、きっとみんなあんたのおかげなんだ」
「そんな……、わたしなんか……」
「さっきあんたは、自分は真面目なふりをしてるウソつきだって言ってたが、俺はそんなことは知らない。だって、俺の前ではあんた、さっきだって、あのときの駅でだって、いいたいこと言ってたじゃん。思ってたこと言ってたじゃん。そうだろ?」
そう……そうなんだ。わたしは何故かいつだって、リョウの前では思ってることを全部口に出してしまう。言いたいことが、まるであとからあとから涌き出てくるように。
もしかしたら……それはリョウの中に、わたしと同じ何かを感じたからだったのだろうか。本当は、いつも好きなように、思ったとおりにやりたいのに、自分で決まり事に縛られることを望んでしまっていた。わたしとリョウはお互いにそういう「もう一人」の自分を持っていて、でもそれがとても嫌いで……。本当の自分をいつも探していた。
わたしたちをこうして不思議に引き合わせ、わたしがリョウの前ではどうしようもなく感情をあらわにしてしまうのは、きっとわたしたちが、そうした似た部分を互いに持ち合わせていたから……。そして、わたしがリョウに惹かれたのは、リョウを……好きになったのは、彼が本当の自分を見つけはじめて、楽しそうにギターを弾いている姿を見たときからだったと思う。
わたしは……
リョウを好きでいてもいいの?
「だから、あんたは……」
つぶくようにリョウが言った。
「俺をだましたことはなかったし、ウソをついてもいないんだ。あんたが来た最初のライブ、あのとき俺はたぶん、ステージの上で、あんたを、そして観客をだましていた……。だから、本当に資格がないのは俺のほうさ。俺にはあんたといる資格はないんだよ」
「そんな……」
リョウは顔を伏せると、そのまま黙ってしまった。
「で……でも、リョウはもう、本当に弾きたいギターを弾きはじめたんだし、もう誰もだましてないでしょ。バンドも人気出てきたし、お客さん増えたし、みんなちゃんと曲を聴いてるし。それに……、それに、わたしもリョウの弾くギター好きだし、これからも聴きたいし、もちろんライブだって見たい……し」
あれ……わたしなに言ってんの?これじゃ何だか、わたしがリョウをなぐさめてるみたい……
「……」
ぷっとリョウが吹き出した。
「え?」
きょとんとするわたしの横で、彼は顔に手をやって「クックッ」と笑いだした。
「そう。そーこなくちゃ。それでいいんだよ」
その時のリョウの笑顔は……とても陽気で、自然で、
そして……わたしのつまらない見栄やプライドなどを、すべて溶かしてしまうような……、そんな笑顔だった。
「これからでさ。いーんじゃない?すべてはこれから。だから次のライブも来てくれよ。あんまくよくよ考えずに、好きなら聴くし、見たいなら来るで、いいと思うぜ俺は」
「……そう、かな」
「ああ。あんた言ってくれたよな、俺の作ったあの曲が好きだって。だったら聴きにきてくれよ、これからも。俺のギター、俺の曲を。それが嫌いになるまでは」
「……うん」
わたしたちは、それからしばらくは、何も言わずただ並んで座っていた。リョウもわたしも、それ以上はもう言うべきことはなかったから……
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