バスドラハート 7



 翌日は日曜日だった。
 わたしは電車に乗り、その駅の近くにあるという店を探していた。
 この駅で降りたのは、これで二度目のことだった。それは、以前えりかにバンド練習を見に来いと誘われて待ち合わせをした、あの駅だった。
(えーと、確かこの辺のはずだけど……)
 駅前を歩きながら、わたしは昨日のリョウの言葉を思い出していた。
「あの子にあげたギターは、俺が新しくギターを買い換えたときに要らなくなった古い安物でな」
 昨日の帰り際、駅のホームでリョウはポツリと言ったのだ。
「楽器屋に売ってもいくらにもなるモンじゃねえんで貰い手を探してたんだが、そのときにあの子が『どうしても欲しい』ってマジな顔でいうもんだから、俺も、ああいいよって、気軽にやっちまった。……ただそれだけのことだ」
 ただそれだけ……リョウにとっては確かにそうだったのかもしれない。だが、ギターをかついだえりかの誇らしげな顔、「好きな人からもらったんだ」と話した、あの顔は、なんて輝いていたことか。
(朝美は、かっこいいロッカーとかを彼にしたいとか思う?)
 ためらいがちに、そうわたしに尋ねたえりか。リョウからもらった古いギターを、大切そうに背負った姿が目に浮かぶ。
「いつだったか、あの子が言ってたっけ」
 帰り際、最後にリョウが言った言葉が、わたしに決心させた。
「こんな自分は嫌いだ。自分も変わりたい。ステージの上にいる俺みたいに……ってな」
 わたしは中学の卒業アルバムから、えりかの家の電話番号を探すと、さっそく今朝電話をかけて、えりかのお母さんから彼女のバイト先を聞いた。
 わたしは彼女に会いたかった。

(あ、ここだ……)
 わたしは探していたそのハンバーガーショップを見つけた。店に入るとすぐ、カウンターで注文をとるえりかの姿が見えた。
「いらっしゃいませ。こちらでお召し上がり……」
 わたしが近づいてゆくと、言いかけたえりかの目が見開かれた。
「あ……」
 微笑んでいた口元を引きつらせるえりか。
「あ……、あの」
 えりかはまるで怯えるように目を伏せた。その手が震えている。
 わたしは……
「チーズバーガーとコーヒーを下さい」
 わたし自身に微笑みかけるように、えりかに笑いかけた。

 えりかの仕事が終わるのを待って、わたしたちは駅から少し離れた喫茶店に入った。
「前にも一度来たよね。この店」
「……うん」
 えりかは店に入ってからずっと黙ったままで、わたしが言うことにただうなずくだけだった。
 今はもう10月。6時を過ぎたくらいでも窓の外は暗くなりはじめている。前に来たときはたしか、7月だったか8月だったか……。あれからもう何ヵ月もたっているなんて、時間というのはなんて早く流れてしまうのか。
 あの時にはとても明るくて、輝いているようだったえりかが、今はわたしの前にしょぼんとして座っている。わたしは……何を話せばいいんだろう。わたしは彼女に何を聞きにきたんだろう。はっきりと何かを決めてきたわけではなかったので、わたしはなにから言ったらいいものかと考えていた。
「あ、朝美は……」
 わたしがなにか言いだすより早く、えりかの方が口をひらいた。ちらりとわたしの顔に目をやって、おずおずと話しだすその様子は、予備校で再会したときの快活な表情とはまるで別人のようだった。
「あたしのことを、リョウから……色々聞いたの?」
 彼女の声はかすかに震えていた。わたしは笑顔を作りうなずいた。
「うん、まあ……ちょっとね」
「そっか……」
 えりかはひとつ息をはいた。
「ごめん……ね、朝美」
 コーヒーカップを撫でながら、彼女は消え入りそうな声で言った。
「あたし……、朝美をずっと、だましてた……」
「……」
「予備校に行ってるというのも、大検めざしてるのもウソ。バンドやってるってのも、それに、それに、リョウが彼だというのも……みんなウソ」
「……」
「あたしはずっと、朝美をだまして喜んでいたのよ。サイテーでしょ?」
「どうして……」
「ウソついてたのかって?それは……どうしてだろう。よく、わかんないけど……たぶん、リョウが好きだったから……」
 えりかはちらりとわたしを見た。つぶやくような声がその口から漏れる。
「そうよ、あたしリョウが好き。前からずっと。それに今でも。それなのに、朝美が……あんたが、リョウをとろうとするから……」
「えりか……」
「ずっと好きだったのよ、リョウが。好きだったの。でも……、なのにリョウはあんたを……」
 目に涙をためているえりか。
 わたしはなにも言えず、ただ静かにえりかを見つめていた。
「……ごめん。興奮して。あたし、もうあきらめたつもりだったのに……、まだだめみたい、ふふ」
 えりかは水を一口飲むと、多少落ち着いたように、ぺろっと舌を出して笑った。
「えりかは、前からあの店で働いてるの?」
「うん。でも前からっつっても、まだ半年くらいだけどね」
「えらいんだね」
「全然。前までずっとぶらぶらと遊んでたからサ……そろそろなんかやんないと、って思って」
 意外と明るい声でえりかはそう言った。
「でも、えらいよ。わたしなんかアルバイトしたことないもの」
「そうなんだ」
「うん、勉強だ、受験だって、親がうるさくって」
「へー、厳しいんだ。あたしなんて、中学卒業してからずっと遊び歩いてたなー。カラオケ、クラブ、ライブハウス、ってね」
「じゃあ、その頃リョウたちに?」
「そう……、聞いたんだ?」
 えりかの顔がちょっと曇る。
「……うん」
「まあ、ね……いま思うと、あの頃はホントに馬鹿ばっかやってたなーって思うよ」
 えりかは頬杖をつくと、窓の外に目をやった。
「中学卒業してからさ、あたし……高校全部ダメだった、ってこともあるんだけど、なんかもうみんなどうでもよくなって、ずっと親の金でぶらぶら遊んでたんだ。毎日クラブとかカラオケ行って遅くまで遊んで、次の日はずっと寝ていたりって、そんな生活だった。両親はあんまり何も言わなかった。だからあたしもいい気になってね……。友達とクラブで、男にナンパされるかどうか賭けをしたり、カッコいい男のコの気を引くために髪染めて厚化粧したり、くだらないことばっかやってた」
自嘲ぎみに笑って、ため息をつくえりか。
「ホント、どうしょうもなかった……。ちょっとかっこいい人にナンパされると嬉しくてホイホイついていった。あの時も、そう。友達と歩いてたらナンパされて、ご飯食べてカラオケ行って、そんで、ホテルに連れてかれた……。あたし本当にそんなつもりじゃなくて……、いまさらいい子ぶるつもなんてないけど、でもホントに誰とでもっていうんじゃないんだあたし。だから『そんなつもりじゃない』って言ったら相手の人……大学生だったんだけど……すごいこわい顔して『ふざけんな』って言うの。あたし怖くなって、大声上げたり暴れたりしたんだけど、夜遅かったし、周りは暗かったんで、誰もいなくて、腕つかまれて動けなくなって、もうダメかなとか思ってたら……、誰か人が通ったみたいなんで『助けて!』って言ったの。そしたらそれが、リョウだったんだ……」
「……」
「リョウに助けてもらって、家まで送ってもらった。わたし多分泣いてたから、何話したか覚えてないけど。別れ際にチケットもらったんで、翌週ライブ見に行ったの。そしたら……あたしすごくびっくりして。カッコよくって……。ステージのリョウが、なんか別人みたいで。それ以来、ちょくちょくエメスラのライブ行くようになったんだ。クラブとかいくよりも、ライブでのリョウを見るほうがずっと好きだった。あたし、普段のリョウよりライブでのリョウがずっと好きだった。カッコよくて、激しくて……頭を振りながら音を感じていると、何もかもが忘れられた。ステージでのリョウはライトに照らされて、きらきら輝いて見えた。あたしはそんなリョウが大好きだった。あたしも、そうなりたい。リョウのように格好よく変わりたいって、いつもそう思ってた……」
 降り注ぐ赤いライトの中で、悪魔のように微笑むリョウの姿が、わたしの目にも浮かんだ。
「でも、リョウはあたしの気持ちになんて気づいてくれなかった。ううん……もしかしたら気づいてたのかも知れないけど、どっちにしろあたしを好きになってはくれなかった。リョウにとってはあたしといるよりも、ギターを弾いている時のほうが大切な時間で、きっとそれは相手が誰だろうと同じなんだって思った。あたしはだんだんライブには行かなくなった。その頃、一応付き合ってた彼がいたから。リョウのことはもう忘れようって……。そんなときに朝美を見たの」
 えりかはわたしの方を見た。
「7月……だったよね。バイトの帰り、電車に乗ってると制服姿の朝美を見つけたんだ。あたし驚いて、声かけようかどうかと迷ったんだけど、あたし自分が恥ずかしかったから……高校も行かず、目的もなくブラブラしてる自分を見られたくなかった。でも、朝美と話がしたかった。あたし、中学のころから朝美みたいになりたいって思ってたから。それで……後をついていったの。朝美は予備校に入っていった。あたしも後を追って教室に行った。朝美が入った教室を確かめてから、シャープペンとノートを買いに行って、また教室に戻ってこっそりと後ろの席に座ったの。授業が終わったら朝美に声かけようと、ノートをとりながら考えていた。それから、頃合いを待って、声をかけたんだ……」
「そう……だったの」
 ではやはり、あれは偶然ではなかったのだ。そして、その後予備校でもうえりかの姿を見ることがなかったのも……。
「それだけじゃ、ないのよ……」
 えりかは告白するように話しつづけた。
「その後、電車で会ったときも、偶然じゃなくて、ずっと朝美の後をつけていたの。ライブハウスからずっと……」
「じゃあ、えりかもあのライブに来ていたの?」
「うん、それは偶然。あたし、そのころ彼とうまくいってなくて……なんかまたリョウに会いたくなって。勝手なんだけど……それでライブに行ったの。久しぶりのライブ、リョウはやっぱりカッコよくて輝いてた。最後の曲の時、前のほうで人が倒れたみたいで、ちょっと騒ぎになってた。それが朝美だったっていうのは後で知ったんだけど。ライブが終わって、楽屋に行こうかどうしようかって迷ってた。しばらく迷ってから、ちょっとのぞいて帰ることにしたの。リョウの顔を少しでも見たかったし。それで楽屋の前に行くと、ドアの中から朝美の声が聞こえたの。あたし、驚いて……ホントに驚いて、しばらくドアも開けられずにそこに立ってた。朝美がリョウや他の人達と楽しそうに話してるのを聞きながら、あたしはなんか悔しかった。頭の中で『どうして?どうしてあたしじゃないの?どうして朝美がそこにいるの?』って、そればっかり繰り返してた」
「……」
「それから……あたし、帰ろうと思って外に出たんだけど、でも、どうしても気になって、外で待ってた。そのうちにリョウと朝美が二人で出てきた。そのとき、わたし本当にいろんなこと考えて……二人はもう付き合ってるのかとか、これからどこに行くのかとか。それで、後からついてったの。しばらくして、それが駅への道だと分かってちょっとほっとした。駅に着くと、朝美は別れ際に何かリョウに言っていた。よく聞こえなかったけど、朝美は泣いていた。それから、朝美が駅の階段を登ってったんで、あたしも後を追った。あたしも朝美と同じ電車に乗ったの。別の車両に乗って、他の駅に着いたら一度降りて、それから朝美の車両に乗ったの」
 わたしは何も言えなかった。彼女がそんなことまでしていたことに驚きながらも、不思議ともう、腹は立たなかった。
「あたし、電車の中で聞きたかった。リョウとはどういう関係なのって。だから……、あたし、朝美にバンド見に来るように誘ったの。本当は、バンドなんかやってない。ギターなんか弾けないのに。でも、あたしがリョウからもらったギターをもって、カッコいいとこを朝美に見せれば、もしかして朝美もあたしにリョウを返してくれるとか考えて。ホントに馬鹿なこと……どうしょうもない、サイテーの馬鹿。でも、あたしにはそんなことしかできなかった……」
 えりかの目から涙が溢れだした。
「変わりたかったの。こんな情けない自分じゃなくて……、ステージのリョウみたいに、輝いてる自分が欲しかった。だから、あたし……朝美の前でカッコつけて、違う自分になろうとしたの。あたしにだってなれると思った。最初にステージでリョウを見てから、あたしもああなりたいってずっと思ってたから……」
 顔を覆った手のあいだから、すすり泣くような嗚咽がもれた。
「えりか……」
「あた……し、ずっと……ずっと、朝美みたいに、なんでも、スマートにできるようになりたいって、朝美みたいに、カッコよくなりたいって、ずっと思ってた……だから……だから」
「もう……いいよ、えりか。もう……」
 わたしも、泣きそうになる自分を必死に抑えていた。
 わたしの前で顔を覆って泣いているえりか。ステージの上のリョウにあこがれたえりか。
 赤いライトと鋭い目つき、つり上げられた口元……つくりものの笑顔。その仮面を好きになったえりか。可哀相なえりか。
「ごめんね……朝美、ごめん、ホントに……バカで。あたし……」
 肩を震わせて泣いているえりかに、わたしは何も言えなかった。
 わたしには、えりかをなぐさめる資格などなかった。
 わたしたちは同じだった。わたしも、そしてリョウも……。
 わたしたちはみんな、「もう一人の自分」という仮面を使って自分を変えようとしていた。ステージの上のリョウ、学校でのわたし。そしてえりかも、わたしの前で快活で希望に輝いている自分を演じていたかった。
 奇妙な多重人格者。仮面が嫌いだったわたし。仮面に気づかなかったリョウ。仮面にあこがれたえりか。
 それぞれの違いはあっても、結局、わたしたちは「ほんとうの自分」を探しつづけるさまよい人なのだった。
 本当の自分を探しながらも、現実の生活に適応するために、知らず知らずのうちに「仮面」をかぶることを覚えていったわたし。リョウもそうだ。それは人に傷つけられること、人を傷つけることを恐れるあまり、本当のコミュニケーションをやめて仮面の表情の上から相手を見ることなのに。わたしも、そしておそらくはリョウも、そのような鎧をまとうことでしか、自分の弱さ、自信の無さを隠していけなかったのだと思う。
 どうしてえりかを責められるだろう。なりたいと思ったその理想が、ステージ上のリョウのその仮面の笑顔だったというだけで……。
 わたしの前で子供のようにすすり泣くえりかの顔は、中学時代の彼女の、あのおとなしい笑顔をわたしに思い出させた。

 店を出たわたしたちは、すっかり暗くなった通りを駅に向かって歩いていた。
 えりかはひとしきり泣いてすっきりしたのか、目はまだ赤いけれど、その顔にはかすかな微笑を浮かべていた。
「あたしね……」
 ためらいがちに、彼女は小さな声で言った。
「いまさら、言うのもヘンだけど、音大目指してるっていうのは本当なんだ」
「そうなんだ」
「うん。あの時は予備校通ってるとかウソ言ったけど、本当にそうしたいなとは思ってたのよ」
「そっか。えりかはやっぱり……」
「え?なに」
「わたしよりえらいよ」
「そんなこと……」
「ううん。だってちゃんとこうなりたいっていう自分を持ってるじゃない」
「でも、あたし朝美みたいに頭よくないし」
「あのね、えりか。わたしまだ言ってなかったけど」
 今のわたしには言える。その言葉を。
「わたし、学校の勉強ってつまらないと思うし、そんなもの出来ても全然えらくないと思うんだ」
 えりかは目をまるくしてわたしを見ていた。
「だからわたし、そんな今までの自分が嫌いなの。でも……これからの自分を好きになれるようにがんばれば、それでいいんだって、そう思う。ある人が、わたしにそう教えてくれたから……」
「……」
 えりかは立ち止まった。
「ある人……って、リョウ?」
 わたしはうなずいた。
「朝美は……」
 えりかの震える声。
「朝美は、リョウが……好きなの?」
「……」
 わたしは……わたしはもう、ごまかしたりしない。べつに……と無表情の仮面でとりつくろったりはしない。
「うん……わたしはリョウが好き」
 わたしの素直な言葉。
 一瞬の沈黙……
「そう……なんだ」
「うん」
「分かった……」
 えりかはいったん下を向いた。それからまた顔を上げ、
「……ありがとう。はっきり言ってくれて」
 えりかは笑ってみせた。
 わたしたちはそれから駅に着くまで、何も話さなかった。

 駅のホームにはそれほど人は多くなかった。日曜日なので、通勤客のいないせいだろう。
「電車、来たよ」
「浅美は反対方向だっけ?」
「うん」
 電車に乗り込んだえりかを、わたしはドアの前で見送った。
「朝美」
 電車内からえりかがわたしに言った。
「あの時、あたしが楽屋でリョウと抱き合ってたのは……、あたしがまだリョウのことを好きだって言って……でもリョウは、あたしを彼女にはできないって言ったから……だから、」
 そのとき発車を告げる音楽がホームに響き始める。
「あたし泣きながらリョウに抱きついて、どうしてって聞いたの」
 えりかの声は音にかき消されながらも、わたしの耳に届いてきた。
「リョウは言ったよ。『俺には自分の本当のギターを聞いて欲しい相手がいる』って」
 音楽がやんだ。発車のアナウンスが響き……
「それが朝美だったら。あたしは……悲しくない!」
 扉が閉まり、電車が動き出した。
(ありがと。えりか……)
 しだいにスピードを上げてゆく電車を見送りながら、わたしはつぶやいた。リョウの弾くギターの、そのやさしい音色が、わたしの頭の中にはいつまでも鳴り響いていた。



 それから何日かが過ぎた頃……
 わたしは奈津子と並んで駅への道を歩いていた。
「ふーん。そっか、そんなことがあったんだ」
 いつもの道、いつもの風景。何一つ変わらないわたしの日常。ただ、季節だけがゆっくりと、すこしづつ街の色彩を変えてゆく。
「藤村さん、音大行けるといいね」
「うん」
 わたしは、それなりに真面目に受験勉強にはげんでいる。今日もこれから予備校だ。
 相変わらず学校の授業は退屈だし、予備校の空気は静まり返っていて冷たい。しかし、それでもわたしは勉強している。
 わたしはいつも、ここから抜け出したいとそればかり考えていた。だけど、わたしにはここを抜け出してからの自分の行きたい場所、行くべき場所が、まだはっきりと分かっていない。
 やりたいようにやるためには、まずやりたいことを見つけなくてはダメだ。わたしにとってのそれが何なのか、わたしにはまずそのための考える時間が欲しい。だから、わたしは勉強している。
 大学へ行くことは、もしかしたらレールの上の次の駅へ行くことでしかないかもしれない。今までの高校という名の檻が変わるだけかもしれない。
 それでも、わたしは大学に行こうと思う。それはわたしが嫌いながらも諦めていた、レールの上の人生に身をやつすためではない。わたしは、わたし自身のために、努力する時間が欲しい。今までの大嫌いな自分、真面目印の仮面をかぶり、無意味にシニカルにつとめていた自分をもう一度見つめ直してみたい。自分は本当はどうしたいのかを、素直に行動で表せる新しい自分を見つけるために。
 いままでのわたしは、周りの環境を勝手につまらないと決めつけて、それをただしぶしぶ受け入れるだけだった。どうすれば良くなるのかということは考えず、ただそれらを面倒くさいもの、関わらずに済ませたいものとして扱っていた。学校の授業、校則、生徒会、クラスメート、そして両親……わたしはそれらを、どうせどうにもならない自分を縛る鎖なのだと、鎖が伸びる範囲の自由に満足しながら、世界はつまらないと勝手に口をとがらせていた。
 わたしはなにもしなかった。それらを少しでも楽しくする努力も、スムーズにするためにもがくことすらも、わたしはしなかった。
 そうなのだ。おそらく、何もかもをつまらなくしていたのは、私自身。プリクラやメールにはしゃぐクラスの女子を、心の中で馬鹿にしていた私も。先生が手書きで作ったテストをいいかげんにこなした私も。そして、駅で汗をかきながらティッシュを配る長髪のロッカーたちを、自分には関係のないものと、さげすんだ私も。
 それはみんな「私」。仮面を付けていようが、自分を偽っていようがわたし自身であったことに変わりはない。
 わたしは、そんな私を変えたい。少なくとも、まずは自分に素直になれる「わたし」になること。
 明日からすぐに自分を変えることは無理かもしれない。でも、少しずつ、一つの会話、一つの行動から、自分を見つけていくことは出来るはずだ。
 そう……とりあえず一度、リョウと一緒にプリクラでもやってみようかな。……おそらく彼は嫌がるだろうけれど。
 わたしはその光景を想像して、くすっと笑った。
「藤村さんってさ、朝美のことが好きだったんだよねぇ」
 通りを歩きながら、ふと奈津子が言った。
「え?なに……それ」
「アレ?知らなかったの朝美」
「何を?」
「あの子、中学のころ朝美が好きだったんだよ。あ、ヘンな意味じゃなくてね。憧れてるっていうか、なんかそんなカンジ」
「どうして……」
「見てればわかるよぉ。なんかあの子、朝美のことを見る目が違ったモン。それに、あたしなんかとはあんま話さなかったし、みんなは『藤村さん』って呼んでたけど、朝美だけは名前で呼んでたじゃない」
「そ、そういえば……」
(えりかって呼んでいいよ、鮎乃さん)
(そう?じゃあわたしのことも朝美でいいよ)
(ホント?じゃ、朝美)
(なに?)
(ふふっ、なんでもなーい)
 中学生のえりかが……わたしに笑いかけた。
(えりか……)
 わたしたちは、本当にお互いに不器用で……相手の気持ちを考えることに苦労しながら、悲しんだり、喜んだりしている。
 わたしとえりか、それにわたしとリョウ。不器用で、見栄っ張りで、本当の自分に自信のなかったわたしたち。
 でも、きっと……、わたしたちはそうやって相手を傷つけ、自分も傷つき、そして何かを捨てたりつかんだりしながら前に進んで行くのに違いない。
 リョウがわたしに教えてくれた。素直に自分のギターを弾くことの自然な姿、そしてそのあたたかさを……。
「朝美ぃ、アレ見てよ、アレ!」
 奈津子がいつかのように、駅のほうを見て指を差した。
(あ……)
 わたしの目には、なんだかそれは、とてもなつかしいものでもあるかのように映った。
 長髪のロッカーたち……リョウにリアン、三好さんに緑川さん。エメスラの……いやヴァールハイトのメンバーが、駅前でティッシュを配っている。あの時のように。
 わたしたちに気づいたのか、彼らが手を振っていた。わたしと奈津子は顔を見合わせ、それから走り出した。

「いやーどうも、お元気そうで」
 わたしたちが近づいていくと、三好さんが笑って迎えてくれた。
「あ、あの……」
 わたしはリョウの方をちらっと見た。
「また、ここで仕事始めたんですか?」
「そうなんだよ。なっ、リョウ」
「なんで俺にふるんだ」
 そばでリアンも緑川さんもにやにやとしている。
「だーって、なあ」
「なあって何だ?」
 リョウは照れているようだ。
「ここだけの話……」
 三好さんがわたしたちに向かい、小声で言った。小声といっても、他のメンバーには充分聞こえるくらいに。
「リョウの奴が、ここで働けば毎日朝美ちゃんの顔が見れるからってきかなくてさ」
「えっ?」
 わたしは思わず赤くなって、ちらりとリョウを見た。
「あのなー、俺がいつ、んなこと言ったよ」
「あれ、いわなかったっけ?」
「いってねーよ」
「じゃ、思ったことは?」
「んーなこと……」
「ない、とは言わせんぜ。お前、もうカッコつけてウソつくのやめたんだろ?」
「……」
「おら、なんか言えよ」
「……うう」
 リョウは唸った。
「ったく、しょうがねえな。ホレた女になにも言えねえのかよ」
 三好さんはあきれ顔で首を振った。
「ホント。ギターだけはよくしゃべるようになったのにな」
「指がよく動く分、口はすっかり退化したようですねえ」
 笑っているリアン。腕を組む緑川さん。
「……」
 わたしはリョウを見た。
 そっぽを向いていた彼も、ちらりとわたしに目をやる。
(わたしは、変われるだろうか?)
 わたしはくすっと笑った。
リョウもにやっと笑いをもらす。
(無理に変わろうとしなくても……)
(ただ、こうして素直に笑えれば……)
(それでいい……)
 リョウの笑顔を見ながら、わたしはそう思った。
 言葉はなかったけれど、たぶん……わたしとリョウは、そのとき何かを共有したのだと思う。
 わたしの日常に、長髪でひげのギタリストが入り込んだ。
 その日は、きっとそんな日だった。
                              


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