シンフォニックレジェンズ
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ライファンがザラセンに着いたのは日没近くになってだった。
道に残された馬車の轍をたよりに、国境都市ノークトを出発し半日。
ラダックを走らせ走らせ、ようやく西の山間に赤い太陽が沈むころ、バルサゴ王国の首都ザラセンの城壁をその視界にいれた。
ザラセンは一国の首都だけあってさすがにノークトよりはずっと立派な町で、三方を山岳地に囲まれた天然の要塞のような都市だった。
不思議なことには、日が暮れる時刻だというのに町の市門は開かれたままで、物見の塔にも見張りの姿はなかった。
ライファンの乗ったラダックは、誰にも止められることなく都市内へ入ったのである。
市内は、王宮へと続くと思われる大通りが門から真っ直ぐにのび、その両側に石造りのドーマー型の家々が並んでいる。辺りは暗く静まり返り人の姿はない。
いくら日が沈んだからといって、町の中心部にここまで人影がないのは異常であった。
ひゅうひゅうと冷たい風が吹き抜ける大通りを、ライファンは迷うことなく真っ直ぐに進んだ。
土の上には新しい馬車の轍がずっと続いていた。
他には人や馬が通った形跡はまったく見られない。
国境の町ノークト同様、ここもすでに人々が死に絶えた廃墟のようだった。

ライファンは慎重にラダックを歩ませた。
この都市に入った瞬間から、ひどく背筋がざわめきたつような、不快な気配が感じられた。
それは昨日あの谷を渡った時のような……いや、それよりもさらにあからさまな邪悪な気配に思えた。
このザラセンがこれほどに静まり返り、生のない無人の都市であることがかえって似つかわしくさえ思えるほど、それほどの異質な、嫌な空気がここには充満していた。
それはひとことでいえば「死の香り」であった。

都市内を横切ってゆくといよいよ太陽は沈みきり、あたりは暗く、完全な夜闇に包まれた。
夜になっても町の明かりは灯らない。ラダックが不安そうに鳴く。
誰もいない無人の建物が黒々とそびえ、風は冷たく吹き、王宮を囲む木々を不気味にざわざわと揺らす。
大通りを抜け、ライファンのラダックは王城へと続く橋を渡った。
ちゃぷちゃぷと堀の水が音を立てた。
それだけで、なにかそこに潜む怪しい存在をかいま見るような気さえしてしまう。
彼のラダックが跳ね橋を渡りおえると、ぎぎぎと音をたてゆっくりと橋が上がった。
誰かが自分が通るのを見ていたかのように、ひとりでに吊り上げられた橋をライファンは奇妙な目つきで振り返ったが、もう驚きもせずそのまま城内へと入った。

城門の近くでラダックから降りた。
「お前はここで待っているんだ。いいか。僕が戻らなかったら、一人でお帰り」
そういってライファンは手綱を離した。
ラダックはしばらく動かずに、自分の方をじっと見ている。
ライファンは歩きだした。

城内にも人影はなかった。
城を見上げると、三日月を背景に高い尖塔の屋根にはバルサゴ王国の旗が黒く揺れている。
塔の上方の窓がかすかに明るい気がするのが、不気味といえば不気味であった。
(誰かがいることは確かなんだ……。きっと王女様も……)
彼が追ってきた轍の跡は、城の表門のところで止まっている。
ライファンはためらいもせず扉に近づいていった。
背中の剣を腰に移し、油断なく気配を窺いながら。
なんだかさっきから、そしてこの城内に足を踏み入れてからさらに、必死に彼を止める誰かの声がどこかで響いている気がしていた。
この城に入ってはいけない。
引き返せ。
いまなら大丈夫。
引き返せ、と。
それが自分の中の警告の声なのか、それともこの都市にただよう霊や魂の声なのかは分からなかった。
さっきから首の後ろがうすら寒いような、全身の毛がそそけ立つような感覚が、それらを彼にうったえていたのだ。
しかし、戻るわけにはいかない。
不思議と、感覚的な嫌悪感は別として恐怖はなかった。
ライファンは剣を握りしめた。

両開きの大きな扉に手を掛けたときだった。
ライファンの頭の中で今度ははっきりとした大きな声が響きわたったのだ。

(よせ、ライファーン。入ってはダメだ)

ライファンはその声を確かに聞き、思わずはっとして扉にかけた手を引いた。
「なんだ……今のは」
もう一度おそるおそる扉に触れてみると、再び同じ声がした。
それは頭のなかに直接話しかけてくるような、不思議な声だった。

(やめろ。ここに入ってはダメだ。サリエルの思うつぼだぞ。ここは奴の結界内だ)

「誰だ。お前は」
それは明らかに町中でなんとなく感じていた「警告の気配」などとは異なり、自分に向けられた明確な言葉だった。
ライファンは剣に手を掛け、辺りの気配をうかがった。

(お前は……誰なんだ?)
頭のなかでそう念じてみた。
すると驚いたことに、返事はすぐにあった。

(そんなことはどうでもいい。ただお前の味方だとだけいっておく)

(味方だって?僕にいったいどんな味方がいるっていうんだ?)
ライファンは周りを見回した。
静まり返った城内には誰の姿もない。
黒々と高くそびえる王城が彼をいざなうように口を開けたような、そんな錯覚があったくらいだ。

(とにかく味方だ。いいか、この城に入るのはよせ。今はまだお前では勝てない)
頭の中の声は断固とした口調でそう言った。
(何を言っているんだ。ぼくは王女様を助けるんだ)
(無理だ)
(なんだって?どうしてお前なんかにそれが分かる)
扉の前にじっと立ったまま、ライファンはその得体の知れない「誰か」と頭の中での会話を続けていた。
(まったく。君は目覚めていないんだよ。ライファーン。いやそれとも……目覚めたくないのかな。そんなにあの王女に惚れているのかい?)
(何を言っている。目覚めるのなんだのって、なんのことだ?)
くすくすと頭のなかで笑い声がした。
(やっぱり目覚めていないよ。ライファーン。だからやめておきなよ。危ないから。)
「うるさいな。僕はどうあっても行かなくてはならないんだ。それに僕はライファンだ。ライファーンじゃない。もう放っておいてくれ」
ライファンはつい声に出して言った。
(相手が巨大な魔でもかい?)
(魔ってなんだ?化け物のことか?それでも僕は行くさ)
(だって今の君ではあのサリエルには……)
(黙れ)

ライファンはしだいにこの相手との会話にいらいらしてきて、ぶんと大きく首を振った。
そして再び扉に手を掛けた。もう相手がなにを言おうが無視するつもりだった。
頭の中の声は「やれやれ」というようにため息をついた感じがした。

(……しょうがないな。それじゃひとつだけ。いいかい。たとえどんなことかあっても、スカイソードを離してはいけないよ。どんなことがあってもそれを握っているんだ。いいね。ライファーン)
(スカイソードってなんだ?それは僕の剣のことか)
(いいね。君の今の唯一の力はスカイソード。……けっして……手放しては……いけな……)
ライファンが扉を押すと、その声はしだいに遠くなってゆき、やがてなにも聞こえなくなった。
(なんだったんだ……今のは)
ライファンは首をかしげた。奇妙な気分だった。
頭のなかで聞こえた奇妙な声が、今ではなんとはなしにどこかで知っていた声のような気がしていた。
それに声が言った「魔」という言葉もちっとも恐ろしくはなかった。
この城自体は不気味な空気に包まれていることは分かったが、それでももうその中へ乗り込むことに一片の躊躇も感じなかった。
何故だか分からないが、自信と、力を感じた。
それも今手にしている愛剣を見つめると、そこから体全体に勇気や決断の力が注ぎ込まれるような、そんな不思議な感覚があった。

重い扉を開くと、彼は城のなかへ入った。
もわっと生暖かな空気がライファンを包んだ。
迷うことなく彼はまっすぐに歩き、古びた絨毯の敷きつめられた回廊の奥へ進んだ。
すると、まったく誰も居ないと思われた城内であったが、壁の燭台には蝋燭の火がともされており、ぼうっと暗がりを照らしていた。
両側に並んだ円柱に掘られた彫刻の目がしきりと自分を見つめている気がした。
燭台の蝋燭は一定の距離をとってともされ、それはまるで彼を案内するための火であるかのようだった。
剣を握りしめ、慎重に気配をうかがいながらライファンは進んだ。
たとえこれが何者かの罠であろうとかまいもしないというように。
階段を上り、また廊下を渡り、彼は導かれるように大きな扉の前まできた。
扉を開けるとそこは大広間だった。
シャンデリアにはいくつか蝋燭がともされ、廊下よりは多少は明るかった。
おそらくかつてはこの広間で貴族たちの晩餐会などが盛大に行われたのだろう。大きなコの字型をした賓客用テーブルや、楽隊のための小舞台、古びた暖炉、豪華な飾り付きの椅子や絵画、タペストリーが、薄明かりの中でいまはひどくむなしく見える。
室内に足を踏み入れると、後ろでバタンと扉が閉まった。
ライファンは振り返りもしなかった。
するどく室内を見渡して、すぐに彼ははっとなって一点を見つめた。
小舞台のある広間の、奥まったところに横たわる人影を見つけたのだ。
「王女様!」
ライファンはそう叫んで駆け寄った。
間違いなかった。
プラチナの髪を乱し、顔を横に向けて仰向けに倒れていたのは、クシュルカ王女だった。
「王女様。ご無事で」
ライファンは王女の横にひざをつき声を掛けた。王女は目を閉じたまま動かない。
「王女様。クシュルカ様……」
王女の背に手をまわし、こわれものを扱うようにゆっくりとその上体を支えながら、ライファンはその耳に囁いた。
ぴくりと王女のおとがいが動いた。
指先がかすかに震え、瞼が揺れた。
王女は目を開けた。
「クシュルカ様」
「ライ……ファン?」
王女の唇から小さないらえがあった。
ライファンは安堵のあまり泣きそうになった。
「王女様。ご無事でしたか。もう大丈夫です。僕がここにいますから」
王女の瞳がじっとライファンを見た。
ライファンがうなずきかけると王女はにっこりと微笑んだ。
その両腕がライファンの背に絡みついた。
「ああ……ライファン。来てくれたのですね。私のために」
「王女様……」
ライファンは顔を赤くしたが、王女を支える彼の左手にも思わず力がこもった。
「うれしい……。私。怖かった……」
「何があったのですか。この城でなにかひどいことをされたのですか?」
「いいえ。大丈夫でした。ずっとあなたのことを考えていました。きっと来てくれると。信じていました。ああ……ライファン!」
王女がぎゅっと抱きついてきたので、ライファンは思わず後ろに倒れかかった。右手に持った剣が邪魔だった。
「王女様。とにかく早くここを出ましょう。国王陛下もきっとご心配でおられます」
「ライファン。……私が好き?」
「な……」
王女の瞳が潤んだように彼を見つめていた。
「どうしたんです。クシュルカ様……」
「お願い。好きと言って。私……そうすれば何も怖くない。お願い……言って」
「す、好き……です」
「うれしい」
王女は真っ赤になったライファンの胸に顔をつけ、その体を押し当てた。
「私も……ずっと好きでした。あなたのことが。ずっと……」
「王女様……僕……」
「いいの。なにも言わなくて。こうして一人で私を助けに来てくれた。ライファン。あなたは強くて、やさしくて勇気のある立派な騎士です。これからもずっと私と一緒にいてくれますか?」
「はい。……クシュルカ様」
花の香りのする王女の体のやわらかさに、ライファンはくらくらとなった。
「では。そういって。ずっと私と一緒にいると。私を守ってくれると」
「はい。僕はずっと王女様と……クシュルカ様と一緒です」
「ありがとう。大好きよ。ライファン」
王女はますます強くライファンに抱きついた。
ライファンの体からだらりと力が抜けた。
その右手から剣が落ちかかる。
「クシュルカ……様、はやく……ゆかないと……」
「その前に……ちゃんと誓って欲しいの」
甘く、囁くように王女は言った。
「なにを……です?」
「あなたの身も心も私のものだと。もちろん私もあなたのもの。……だから、ね。あなたも誓って。あなたの心はすべて私のものだと」
王女の手がライファンの手を熱く握りしめる。
「さあ……」
王女は身をくねらせてライファンに迫った。
その唇がライファンの頬に当てられ、這うように動いた。暖かな息がライファンを包み込む。
「ぼ……僕は……」
目がくるめくような思いで、ライファンはつぶやいていた。
「あなたの……ものです」
「そうよ。ライファン。それでいいの。あとは……」
王女の瞳が怪しく光った。
「あとは誓いの口づけをすれば……すべては……」
ぼうっとしている頭のなかで何かが「違う」と警告している。
王女の唇が、ライファンの唇に合わさろうとした。

ライファンは飛び上がるように起き上がった。
「違う!お前は王女様ではない」
「どうしたの?ライファン」
首をかしげる王女の手を払いのけてとびすさる。
「どうしたの?ライファン」
「黙れ。黙れ。お前は王女様なんかじゃない。王女様は……クシュルカ様はこんな方ではない」
ライファンは剣を構えた。
その剣先は薄暗い室内でも、晴れた空のように青く輝いていた。
「どうしたの?ライファン」
王女は機械仕掛けの人形のようにそう繰り返した。
そしてぎこちない仕種でぎくしゃくと立ち上がると、両手を前につきだしゆらゆらと歩いてきた。
「寄るなっ、化け物」
ライファンは目を閉じ、反射的に剣を振った。
剣は王女の体を横凪にないでいた。
悲鳴の代わりにがしゃんと乾いた音をたて、床に転がったのは……
「……骸骨……」
不気味に赤いドレスをまとった、それは骸骨の上半身だった。
剣で両断された下半身も、その場に崩れ落ちた。
はあはあと息をつき、ライファンはいままで王女に見えていたその骸骨を呆然と見下ろした。

「やあ、お見事」
突然背後から声がした。
あっとライファンが振り向くと、いつの間にそこにいたのか、足を組んで椅子に腰掛けた男がこちらを向いてぱちぱちと拍手をしている。
「やあ、いらっしゃい」
にこやかに微笑む男、
ノークトの領主がそこにいた。
「あなたは……」
「またお会いしましたな。ライファンどの……でしたな」
領主はあごひげをなでつけながら、にやにやと笑っている。
「この骸骨は……」
「ああ。私が動かしていました。セリフも私の命じた通り。なかなか迫真の演技だったでしょう?あなたの方もけっこう本気になっていましたな、骸骨王女相手に。いや、実に楽しい一幕でした」
くっくっと領主はいやらしく笑ってみせた。
「では、みんなあなたのしたことだな。ノークトの城で騎士たちを石像にしたのも、骸骨を操っていたのも」
「その通り。それが私の力。ついでに泥水をワインに見せたり、谷に一夜かぎりの橋をかけたりもね」
「王女様を……どこへやった」
「あなたが今斬られましたよ」
領主は床の上に転がった骸骨を指さした。
ライファンは彼にしては珍しく、かっと眉をつり上げて相手をにらみ据えた。
「本当の王女様をどこへやったんだ」
「おおこわ……なに冗談です。むろんアダラーマ王国の第一王女殿下は私どもで手厚くお持てなしをいたしております」
「すぐに返せ。そうすればもうここには用はない」
「と、申されましても」
ライファンは剣を構えた。
「その剣ですか。スカイソード……なるほど空のように青く光っている。いや実に惜しかった。その剣さえ手から離していれば、契約の口づけをするまで正気にもどることはなかったのに。いやまったく」
首を振って残念がる領主にライファンは斬りかかった。
「おおっと」
ひらりと飛び上がった領主は、そのまま空中でぴたりと止まった。
「意外と短気なぼうやだ。やはり太陽神の血ですかな。それともあの可愛らしい王女様にそれほどぞっこんでおられるのか」
ライファンは驚かなかった。
領主が宙に浮いたまま制止しているのを見ても。その背中から黒い翼が生えているのを見ても。
「ほう。なにも驚いていない?この姿を見ても。聞きたいこともないですか。お前は何者だっ。とか、ば、化け物っ。とか。……なにも?……そうですか。それは残念」
本当に残念そうに領主は、いや、その魔物は空中で腕を組んだ。
「いたしかたなし。ならば私から名乗りましょうか」
背中の翼をばたばたとさせながら、領主はがばっと両手を広げた。
「そう。この私!地方領主とは借りの姿……その実態は強力なパワーを秘めた魔の化身、地獄の大幹部、その名もダイ……」

(この馬鹿者が……)

そのとき部屋中に響く低い声が鳴り渡った。
「ひえっ」
(やはりお前の力などあてにしたのが間違いだった。もうよいわ)

圧倒的な力を感じるような、地の底から響くような低く重い、邪悪な声。領主は震え上がった。
ライファンは体を緊張させた。
「サ、サリエル様……私とて一生懸命秘術を尽くして……」
(黙れ)
「は、は、はいっ」
領主は床に降り立つとがっくりとうなだれた。
(もはやお前ごときの手出しは無用。お前はただその少年を我の元に案内すればよい)
「か、かしこまりました」
威圧的なその声に、しゅんとした様子で領主はひざまずいた。
見るとその姿はいつの間にか真っ黒な魔物になっていた。
ライファンは顔もなにもない、翼と尻尾の生えたただ黒いだけの不気味な姿に眉を寄せたが、ひそとも声を上げることはなかった。
「ライファン殿、こちらへ。わが殿下の元へご案内いたします」
もと領主であった化け物は、声だけはさっきと変わらぬ人間のものでそう言った。
ライファンはうなずくと後に続いた。
どっちにしろもはや逃げ出すことはできない。
王女様を助けるためにはたとえこれが罠だろうとかまわなかった。
ライファンはぎゅっと剣を握りしめた。
そうすると、そこから不思議な力が身体中にみなぎるのだった。

ぐるぐると塔の螺旋階段を上り、ライファンが案内されたのは城の最上階に近い一室だった。
その部屋の前に着くと、重々しく扉が内側から開いた。
五感の全てが「この部屋に入るな」と警告していた。
髪が逆立ち、首の後ろがちりちりとした。
ライファンは室内に足を踏み入れた。
冷たい、よどんだ空気が彼を包んだ。
「ようこそ」
意に反して、ライファンを迎えたのはさわやかで綺麗な響きの声だった。
「お待ちしていたよ。太陽神の血を引く少年」
すけるような淡い金髪の、秀麗な若者が立っていた。
紫色の目が興味深そうにくるめき、こちらを見ている。
「私がバルサゴ王国第一王子、サコース・デル・バルサゴス」
「アダラーマ王国近衛騎士、ライファンです」
 王子とライファンの目が合った。
ライファンは注意深く室内を見渡した。
黒い絨毯に黒のビロードばりの壁と天井。
暗い室内を照らすのは大きな窓からのぞく月明かりだけだった。
両側の壁には、まるで彫像のようにぴたりと動かない甲冑の騎士が居並んでいる。
ライファンは王子の後ろの豪奢な椅子に座っている王女の姿を見つけて一瞬目を見開いた。
「どうぞ近くへ」
王子に手招きされライファンは慎重に近づいた。
見るといつの間にか彼を案内してきた化け物は、もとの領主の姿に戻って王子の側に立っていた。
ライファンの目はどうしても椅子に座ったまま動かない王女の上に注がれた。
その様子を察してか、くすくすと笑って王子は言った。
「安心するがいい。殺してはおらぬ。殺してはな……」
「その王女様が本物だという証拠はあるのですか。それもまた骸骨だということは」
「疑り深いことだ。証拠などはないが、もはやつまらぬまやかしなどは不要。疑うのなら君自身が近づいて確かめるがよかろう」
ライファンは剣を手にしたまま、用心深い足取りで王女の椅子に近づいた。
横目で王子の動きを確認し、いつでも剣が抜き放てるように。
「そんなことはしないさ」
王子はライファンの心を読んだようにうすく笑って言った。
「もはや君はここに来た。私の結界に入った以上もう帰ることはできないのだから。急ぐこともあるまい」
ライファンは王子から目をそらした。
目の前に王女が座っている。
「王女様……」
王女は椅子にまっすぐ腰かけ、その顔は正面を向いて目は見開いたままだ。
「王女様……クシュルカ様」
ライファンの呼びかけにもぴくりとも動かない。
眠っているのとも違う。
王女の手に触れてみた。
冷たくはなかった。確かに生きている。
その瞳を覗き込むと、まばたきもせぬ目の中にかすかな光がともっている。
ライファンは息を呑んだ。間違いなく本物のクシュルカ王女だった。
そしてそれはそのまま動かぬ彫像にされたかのように、生きたまま時を止められた姿だった。
ぶるぶると震えるライファンを見下ろして王子は言った。
「どうしました?再会の感激で涙を流しておられるのかな?」
「王女様を……クシュルカ様に何をした……」
ひざまずいて王女の手を握りしめるライファンが、絞り出すような声で言った。
「ふむ。本来なら君をここにおびき寄せた段階で殺すはずだったのだが、それもまた惜しい……なにしろこの美しさ、気高さには我といえども感服するものがある」
王子はその顔に笑みを浮かべながら説明した。
「そこで我と共に生きよと永遠の命を授け、我の妃として迎えようとしたが、その頑固な娘は頑として聞かず。……いくら我々魔の者とはいえ、相手の身も心も吸収するにはその精神の許容がなくてはならぬのでな。つまりそれには誓約の言葉と行為がなされねばならん。しかし……」
王子の声が変質しはじめていた。
「王女はそれを拒んだ。我のものになることを。永遠の命を。この大陸全ての征服を我と分かち合うことを。……それで、そうしてやった」
口元ががっと開き、残忍な笑みが王子の顔を恐ろしいものにした。
「生きたまま、人形のように動けなく、言葉も発せず、相手を見ることもできない。永遠にそこに座ったまま、美しい彫刻のように我を楽しませるおきものよ。そしてこの魔法は決して解けぬ。何故なら誰であろうと我を殺すことはできぬからな」
王子はくっくっくっと笑った。
徐々にその声に低くゴロゴロとした響きが入り交じり、やがて不気味な唸りのようになった。
「たとえ、お前でもだ。太陽神のこせがれ。みたところお前の剣だけはすでに力を持ったようだが、それだけでは所詮我には勝てぬ」
「お前は……お前たちはなにものだ。太陽神とは……なんのことだ。僕はそんなものは知らない」
ライファンは変貌をはじめる王子を睨みながら、叫ぶように言った。
「フハハハハハ」と頭のなかに響きわたる笑い声がした。
(それでよい。それでこそ我の思うがまま。お前の体ごとその力を呑み込んでくれるわ)
王子の体は、まるでその内側からつき動かされているかのように、がくがくと揺れていた。
それとともに「ごごごごご」と部屋中が、そしてこの城そのものが揺れているような錯覚さえもあった。いやじっさい揺れていたのかもしれない。
いきなり天井が吹き飛んだ。
冷たい風が吹きつける。塔の最上階のこの部屋を高く登った月が照らした。
ライファンは立っていられず、床にひざをついた。
何かが沸き立つような、巨大なものが地の底から現れるかのような、すさまじい「気」が感じられる。
目の前で、ぼこっ、と王子の体が変形した。
その背中から翼のようなものが突き出た。

「ぐぐぐごごぉぉ」

雄叫びのような声が部屋中に響きわたる。
王子の頭から、なにかが生えてゆく。
「ががおおおおおぉぉ」とつんざくような叫びが上がった。
恐ろしいまでの圧迫感と、これまでに感じたこともない邪悪な「何かが」空間に立ちいでたかのような感覚を、ライファンは感じていた。
そして
振動が止んだ。

剣をついて体を支えていたライファンが顔をあげると、巨大なものがそこにいた。
青々とした鱗に覆われた……それは、
翼の生えた竜だった。
長い首、赤く光る一対の目、頭からは鋭い角が突き出し、その口が開かれると恐ろしげな牙が顔を覗かせる。背中には黒い大きな翼。先のとがった長い尾にもびっしりと鱗が光っている。
二本足で立つその様子は、竜そのものというよりは竜人という言葉に近い姿だった。両腕は人のものとさほど変わらぬ大きさで、指の先に長い爪が生えている。

(我はサリエル)

明らかに知性のある言葉で、竜は低く唸るように言った。
その声はライファンの頭の中に直接聞こえてきた。

(神の力を持つもの)

大きさは人の二三倍ほどだろうか。
青黒い体に黒い翼を生やした竜人がライファンを見下ろして立っている。

「神……だって?」
(そう。我は月と闇夜の魔力を持つもの。つまり太陽のかけらたるお前とは正反対の存在よ)
ライファンは竜人を見上げた。
「太陽神とか太陽のかけらとか、そんなものは知らないが、ようするにお前たちは最初から王女様ではなく、僕が狙いだったということなのか?」
(その通りよ。この王女はただの下界の女にすぎん。たとえ魂がいかに高貴で美しかろうとな。そんなものは我等にとっては従属させる対象物でしかないのだ。このバルサゴの国のようにな)
低い笑い声が部屋中に響いた。
(人間などじつにたわいもない。この国の全ての人間の魂を呑み込み、支配するまでにほんの数刻もかからなかったわ。それもすべてはお前をここに来させるためだけにしたことだ。つまりお前のためにこのバルサゴは滅び、こうして王子は我の仮の体として殻だけの存在となった。国王もその他全ての騎士たちも今では皆骸骨よ。すべてが我の意のままに動く人形となった。お前のせいでな。そしてまたここに座る王女も……)
竜人の言葉を聞いたライファンの顔が、苦悶に歪んだ。
「僕のせいで……僕一人のために……王女様も……この国もみな……」
(どうした?自責の念に苛まれたか?ならばもはや他に犠牲を出すいわれもあるまい。今ここでお前が我に従属を誓い、その体も心も我に与えると誓うなら、我もこれ以上人間を殺すまい。この大陸から手を引いてもよいぞ)
ぶるぶるとライファンは震えていた。
(どうした。早く我の前にひざまずき、自分は身も心もあなたのものだと言え。全てをこのサリエルに与えると、言うのだ!)
魔神サリエルの言葉など聞こえていないように、ライファンは頭を抱えたままぶるぶると震えていた。
「僕が……僕が……皆を……王女様を……僕のせいで……僕が、僕が!」
ライファンはやにわに絶叫した。
「わああああっ!」
そして剣を振り上げ、竜人に斬りかかっていた。
「うわあああああっ」
飛び上がり、剣を叩き下ろした。
竜人はよけもせず剣を受けた。
固い鱗に剣が当たり火花が散った。
ライファンはかまわず狂ったように剣を振り下ろし続けた。
ガッ、ガガッと鈍い響きが何度も上がった。
しかし竜人の体はびくともしない。
その鱗に剣先はすべてはじかれ、ライファンは何度も吹っ飛ばされた。

(愚か者が……。いくらスカイソードであろうと、そこに宿る力をお前が信じなくてはただのなまくらにすぎぬ。しかも……いまは夜)
竜人が動いた。
起き上がり再び撃ちかかってくるライファンを、その長い尾を振り軽々とはじき飛ばした。
「ぐっ」
壁に叩きつけられ、思わずライファンは呻いた。
(今は夜。そして月は我が力の源。お前は我に勝てぬ。太陽の子よ)
竜人の頭上に青白い月が光っている。
天井の抜けた室内に、冷たい風が吹き抜ける。
「さすがはサリエル様。太陽神のこせがれなど敵ではありませんな」
パチパチと領主……魔物ダイモンが横で手を叩いた。
(お前はどうあっても我には勝てぬ。あきらめろ。お前さえ我のものになるというのならこの王女の命だけは助けてやる。それに……これを見るがいい)
突如空中に浮かび上がった映像を、ライファンは痛みに呻きながら見つめた。
「これは……」
「空の目ですよ」
ダイモンが解説した。
そこに映し出されたのは、まぎれもなくアダラーマ王国の、それもライファンにも見覚えのある王宮の光景だった。
しかしその映像に映っていたのは、夜だというのに王宮の周りで赤々と燃えている火だった。
そしてその画面が徐々に映像を拡大してゆくにつれ、その惨状が明らかになった。
「これは……アダラーマが……燃えている」

それは大規模な戦いだった。
彼もよく知る王国の甲冑を着た騎士たちが、ぞろぞろと押し寄せてくる敵軍と激しく戦っている。
その敵軍の兵士がすべて骸骨であることをライファンは知った。
「ちなみに、この映像は今現在の実にタイムリィなものですよ。このサリエル様が空の目を飛ばして、それをじかにここに映しているんですから」
得意そうにダイモンが答えた。
しかしライファンにはそれどころではなかった。
画面をずっと見ていると、アダラーマの騎士たちは大変な苦戦をしいられ、今や敵軍は都市内を占拠し、さらに王宮を取り囲みつつあることが見て取れた。
王宮内には市民たちが逃げ込んでいて、大写しにされた映像には泣き叫ぶ女たちや子供たち、そしてそれを守ろうと壁をつくり、敵骸骨兵に向かってゆく騎士たちの必死の表情さえも映し出されていた。
それは絶望的な戦いに見えた。
骸骨の兵たちは、斬られても斬られても機械仕掛けの人形のように恐怖することなく前進し続けている。
そして王宮を守っている騎士たちはいくら叩き伏せ切り捨てても、のろのろとしかし確実に押し寄せる波のような敵兵に対して、しだいにその防衛の輪を狭めさせられていた。
今や最後の砦は小高い丘の上にある王宮の城壁のみだった。
市街地はすでに骸骨たちに埋めつくされ、火をかけられ燃え上がっている。
そして今、骸骨兵たちは王宮の城壁すべてに取り付き、門を破りかけ、城内になだれ込もうとしていたのだ。
ライファンは空中から映されたその城壁内で戦う騎士たちの映像のなかに、それと分かる彼の友人の女騎士の姿を見つけると思わず声を上げた。
「レアリー!」
城門や穴の開いた城壁からわらわらと進入してくる骸骨たちを、騎士たちは手分けして中に入れるまいと戦っていた。レアリーもその一人だった。
剣をとり、いさましく敵兵士に斬りかかってゆく。傷のついた兜の中で必死に歯を食いしばり剣を振り上げる彼女の姿に、ライファンは拳を握りしめた。
無論レアリーだけではなく、その中には彼の知る騎士隊の面々が何人もいた。皆怪我を負い、体のどこかから血を流しながらも、押し寄せてくる骸骨兵たちに勇ましく立ち向かっていた。
「……」
ライファンは歯を食いしばった。
今離れたところで映像を見ている自分には何もできないのだ。
唐突に、はたと映像が消えた。
しばらくすると竜人の目に光が戻った。

(……どうだ?これを見てもまだ我に立ち向かおうというのか)
「空の目」といわれる力は相当なエネルギーを使用するのだろう。サリエルの体はするすると小さくなり、竜人からもとの王子の姿に戻っていた。
しかし背中からは黒い翼が生えたままで、王子の頭はどことなくとんがり、その口からは牙がのぞいていた。
「ふむ。力を休めるときはこの体の方が都合がよい。どちらにしろ、お前のその様子ではもう我に逆らおうという気は失せたようだしな」
王子は言った。相手を見下したような、いくぶん優しげな響きで。
「どうだ、ライファン。いや……太陽神の力をもつものライファーンよ。このサリエルに全てを委ねると誓うか?今ならまだ間に合おう。この王女の命も、あの王国もお前の返事次第で助けてやる。お前さえ手に入れればあのようなちっぽけな国にはもう用はない」
ライファンはじっとうなだれていた。
その手がかすかに震え、手にしていた剣が床にあたりかちかちと鳴った。
「……本当に、僕のせいなのか。僕さえ言うことを聞くなら、他の皆は……王女様も、レアリーも、アダラーマの国も助かるというのか」
「その通りだ。約束しよう」

「……、……わかった」
顔を上げライファンは言った。
「ただ一つだけ教えてくれ。……僕は、僕はいったい何者なんだ。お前たちがそれほどまでに僕を……太陽神の力というのを欲しがるのは何故だ」
「いいだろう」
王子はにやりと笑った。
「その前にお前の持っているスカイソードを離せ。こちらに投げ捨てろ」
ライファンは従った。
一瞬、城に入るときに聞こえたあの「声」が言った(スカイソードをけっして手放してはいけない……)という言葉が頭によぎったが仕方がなかった。
ライファンは剣を床に投げた。
王子はそれを後ろに蹴飛ばした。
やがて青く輝いていた剣から光が消えた。
「これでよい。スカイソードなどはどうでもよい。重要なのはお前自身の力のほうなのだからな、ライファーン」
もはや恐れるに足らずといった足取りでつかつかとライファンに近づき、王子はまっすぐその顔を近づけた。
「お前は太陽神の息子。いや正確には太陽神の父たる天帝の後継者、というべきかな」
「天帝……」
王子はうなずいた。
「天帝とは、人間どものいう神たる存在よ。この大陸の人間どもの名ではデッラ・ルーナと呼ばれ、我々はユピテルと呼ぶもの。しかしそれはシンフォニアのみならず、この惑星全てを司る神だ。天帝は、十二の星座と三十六の精霊を治め、それぞれの部署に個別の神を置き、時と事象を運用する。太陽神もその一人だ。そしてお前はその太陽神の力を受け継いだ者」
「ぼ、僕が?」
「私が知っているのは、お前が名義上の父たる太陽神に背き、その罪により記憶と力を封印され地上に落とされたということだ。そして奴隷として人間に買われ、その罪をつぐなうことを定められた。お前が今投げ捨てた剣は、お前が太陽神によって地上に落とされる際、天帝が密かにその力を込めて与えた剣。天帝の剣スカイソードだ」
「スカイ……ソード」
「さよう。そしてそのおかげで、我はお前の存在をこの地上で発見することができた。いくら力を失い、人間にまじっていても、その剣の一瞬の輝きはどこにいても我にはいまいましくまぶしく見えるのでな。つまり天帝の下した仁恕の結果が、皮肉にもこの我をしてお前を手中にする機会を得たわけだな」
王子は愉快そうに低い笑いをもらした。
「そして我はサリエル。もとは天帝に仕えたもの。しかし今は……奴の治めるこの地上を逆に支配してやることに決めた。復讐だ」
「復讐……」
「そう。もとはれっきとした月神たるこの我をおしのけ、天帝は自分の快楽のため女神をその位につけた。そしてこのサリエルをヘリコンから追い出したのだ。怒りと復讐にかりたてられ、我は魔神となり地上に降りた」
王子の目が赤紫に爛々と光った。
「月と夜の魔力を持つ我。足りないのは陽の力。お前を呑み込めばそれが手に入る。そうして我は天帝と戦う力を得る。ついにこの時がきた……」
王子の体からすさまじい邪気が吹き上がった。
思わずライファンは後ずさりしたが、王子はライファンの肩をつかむと強引に引き寄せた。
「さあ、物語は終わりだ。誓え、ライファーン。我のものになると」
恐るべき妖気を前にライファンはくらくらとなった。
王子の双眸が彼を捕まえ、開かれたその口には暗黒の夜空が広がっているように見えた。
ライファンには抵抗のしようもなかった。
たとえ自分がなんであろうと、たとえこの魔物の言うとおり自分には太陽神の力があり、この怪物がそれを呑み込んで強大になろうとしていたとしても、彼にはどうでもよかった。
王女様が助かるのなら、レアリーが、アダラーマの人々が助かるのであれば、それでよかった。
「誓え。ライファーン。お前は我のものか?」
「……誓う……お前の……ものだ」
ライファンはぼんやりとした意識の中でつぶやいた。
これでよいのだ。これで。
「よかろう。では誓約の儀式だ。お前の魂をいただく」
王子の口がかっと開かれ、鋭い牙がのぞいた。その口をライファンの喉元にあてた。
(王女様……レアリー……みんな……)
ライファンはあきらめた。
そして目を閉じた。
王子の牙がのどに食い込む。
そのとき

(……ファン)

声がした。

(だめ。ライファン!)

ぴかりと、一条の光のように、暗黒のなかで、
その声が響いた。

そしてすさまじい絶叫。

「ぬぐああああああ」

苦悶に叫んでいたのは王子だった。
その背に、
光り輝く剣がつきたっていた。
王子は振り返り、信じられぬものでも見るかのように赤い目を見開いた。
ライファンもそれを見た。
王子の背中に突き刺さっているのは
スカイソード。
彼が投げ捨て、床に転がっていたはずの剣。そしてその青く輝く剣を握っていたのは
「クシュルカ様!」
「馬鹿な……」
王女だった。
王女は右手に握りしめた剣を、魔物の背に突き刺していた。
「動けるはずはない。我の魔力が解けるはずが……」
王女の表情は凍りついて動かず、その口も閉じられたままで瞳に光りはなかった。
まるで人形がかろうじて一瞬だけ動いたかのように、王女は魔物の背中に剣を突き刺したまま固まっていた。
そして今、まったく感情もなく彫刻のように動かないその王女の目から、ひとすじの涙が流れ落ちるのをライファンは見た。
「王女様!」
「離せ。この人形が!」
王子は腕を振ると乱暴に王女を突き飛ばした。
王女の体はそのままはねとばされて床に転がった。
「なんということだ。何故動いたのだ。くそ……抜けん。剣が抜けんぞ。ダイモン、何をしているさっさとこの背中の剣を抜け!」
「ははっ」
「あ……」
ライファンの口から低い呻きがこぼれた。
「まったく……たかが下等な人間風情がこの我に傷をつけるとは……」
「ああ……あ」
両拳を握りしめたライファン。その目からとめどなく涙が溢れ出す。
「あ……ああああ……あ」
「どうした……なにが……ぐぐっ」
魔物が再び苦痛の呻きを上げた。
「ああああ、あああああ……」
ライファンは激しく唸り続けた。
その形相は凄まじく、血が出るほどに握られたこぶしは震えながら高く上がってゆく。
「なんだ?……ぐううう……背中の剣が……めり込む。ダイモン!早く剣を……」
「サリエル様。抜けません。いやそれどころか剣が……」
あああああああ!
ライファンの唸りはいよいよ大きくなり、いまやそれは叫びのように強く、辺りにこだましはじめていた。
そして、
その体が光を放ち始めた!



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