シンフォニックレジェンズ 
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     V

「ああ……、今日も勝てなかった!」
女騎士レアリーは悔しそうにひざをつき、がっくりとうなだれた。
騎士団の稽古場である庭園の広場にも、新緑がまぶしい季節がきた。
咲き始めた色とりどりの花々が、庭園のポーチや回廊の円柱の周囲を彩る。
この宮廷の美しさは、ライファンにとっても他の騎士たちにとってもうきうきと心踊るものだったにちがいない。
「お疲れさまー」
いつものように、にこにこしながら疲れた様子も見せず、ライファンが言った。
しゃがみこんだレアリーに手を差し出す。
女騎士はその手を取りながら、相手を見た。
「あんた……、また強くなってる」
「そうかなー?」
ライファンは頭をかいた。
「そうよ」
恒例の二人の試合も終わり、他の騎士たちはわらわらと稽古のかたずけを始めていた。
「あたしもけっこう強くなったつもりなのに……」
レアリーは兜を脱ぎ、汗をぬぐった。
黒髪を束ねなおしながら女騎士は相手を見た。

この一年でライファンはすっかり逞しく成長していた。
以前の少年めいた面影はそのままに、ほっそりとしていた体格は厳しい稽古と鍛練により、今では「すらりとしたしなやかな体つき」という形容が似合うようになっていた。
腕や足にはしっかりと筋肉がつき、もはや愛用の大剣を振る姿はまぎれもなく立派な剣士そのものだった。
レアリーはまんざら悔しいだけでもないという様子でため息をついた。
「あたしが強くなっても、またあんたも強くなる。……これじゃいつまでたっても勝てやしないわ。まったく」
「はあ。すいません」
「なにあやまってんの」
少年の性格にはすっかり慣れていたので、いまさら腹を立てることもなく、レアリーはふっと笑った。
そうするとこの気の強い、普段はキツネのような女騎士の顔が、とても綺麗に見えることをライファンは最近知っていた。
長い黒髪を頭の両側で束ねなおすレアリーは、たった今剣を振って戦っていたことが信じられぬくらいに女性らしく見えた。
本人は気づかずとも稽古のあとで、その上気した頬にうっすらと汗をにじませた横顔は、ときおりはっとするほどに美しかった。
「べつにあんたがどうこう、ってことじゃなくてさ。なんかこう……不思議っていうか……」
剣先を拭きながらレアリーは言った。
「不思議……ですか」
「そう。だって、いつまでたっても勝負が決まらない。この一年。あたしも稽古して強くなって、あんたも稽古して同じだけ強くなって。結局、どっちが勝つのかなんて、ぜんぜんわからないじゃない」
「はあ……」
美しく染まった夕焼けを背に、騎士たちは稽古場を後にする。レアリーとライファンも皆の後について並んで歩きはじめた。
「なんか、気持ちわるいな。そういうのって」
「そう……かな?」
「だって、どっちも勝てないんだよ?そんなのおかしいじゃない」
「ははあ……」
少年は首をかしげた。
「でも……」
ライファンはためらいがちに口をひらいた。
「なに?」
少年から何かを言おうとすることは珍しい。レアリーは聞き返した。
「でも……どうしてどっちかが勝たないといけないんだろう?」
「な……」
意外なことを言われて、女騎士は一瞬口ごもった。
「だって、べつにいいじゃない。勝てなくても。負けなくても。引き分けでも」
「なにいってんの、あんた」
心底奇妙なものを見る目つきで、レアリーは少年を見た。
この一年でライファンのことはずいぶん分かったつもりでいたのだが、それでもときどきこういうまったく自分とはかけはなれた考え方に面食らうときがあった。
「よくないでしょ」
「なんで?」
素直に疑問を口にする少年に、レアリーはむきになったように言い返した。
「だって剣の試合よ。勝つために戦うんだから、勝てなかったら悔しいでしょ」
「はあ……そういうもんか」
「騎士なのよ。国を守るために敵と戦うのよ。それが我等の務め。敵を打ち倒すために毎日稽古をしているのだから。勝つために」
「ははあ」
「あんたは、私に勝てなくても悔しくないの?」
レアリーは久しぶりにいらいらとして、思わず強い口調で尋ねた。が、……すぐに後悔した。
「うん。それほどは……」
少年の答えなどすでに知っていた。
いつだって試合に勝てなくて悔しがり、怒っていたのは自分の方だった。
そんなことはいやというほど分かっていたのに。
それでもライファンの答えに腹が立った。
あれほど真剣に、熱く剣を交え、互いの間合いに息づかいを感じ、最高の自分を出して戦ったというのに。

この一年でいったい何度試合をしたことか。
死ぬほど悔しがり、時には涙をにじませ、次の日の稽古に必死に取り組んだ自分。騎士の誇りに頬を熱くし、手に血がにじむまで剣を振りつづけた自分。
それらをすべて笑い飛ばされたような気がしたのだ。
女騎士は唇をかんだ。
少年に悪気がないことは分かっている。彼は素直に思ったことを口にしているだけで、それに勝手に腹を立てているのは自分の方なのだと、心では分かっていたが。
「お前は……ほんとうの騎士ではない。私の気持ちなどは分からない」
怒りを抑えながら、レアリーは静かにつぶやいた。
「ごめん」
少年は素直に頭を下げた。
「……」
レアリーにはその言葉が、「僕にはあなたの気持ちは分からない」と言っているかのようにも聞こえていた。
夕暮れの空に浮かぶような、城と尖塔の影。
自分が何をこんなに怒っているのかも分からず、レアリーは少年から離れた。
そのあとでまた後悔するのも自分の方だと、知ってもいたのだろうが。




 
五月祭の季節だ。
この時期になると、人々はみなうきうきとしはじめ、宮廷内はもちろん町中がいっせいに慌ただしくなる。
毎年のイベント。デッラ・ルーナの神を祝う緑の祭り。そしてもう一つあった。
クシュルカ王女の誕生日祝いである。
市民にとってこれはじっさい楽しい行事だった。
王国随一の美姫、国民の間で絶大な人気をもつクシュルカ姫の誕生日は、五月祭の期間中ということもあいまって、毎年盛大に行われるのが常だった。
今年は特に姫の十八歳の誕生日ということで、その特別な日を祝おうと国中の街道、大通り、あるいは小路地にいたるまで、アダラーマ王国の青地に白い鳥を描いた国旗が所狭しと並び、立てられた。
街路の店先には、色とりどりの花とともに王女の美しい肖像画が飾られ、大通りや広場には数多くの露店が立てられた。
いたるところでごちそうの煙が上がった。
楽隊が祝福の曲を奏で、リュートの音色や吟遊詩人の歌声が町のそこここで響いていた。
王宮の正門前には祝いに集まった人々による花や供物が山のように積まれ、人々は口々に国王万歳、王女殿下万歳を唱え合った。
ときおり城壁の上に国王と王女の姿が現れて手を振ると、人々は熱狂し手を叩き、声を枯らして祝辞を述べるのだった。

いっぽう王城内の大広間では、盛大な祝典の準備がすっかり整えられていた。
侍女や下男たちはひっきりなしに料理を運び、花瓶を動かし山のような花を飾りつけ、赤い絨毯を敷き直し、ワインの樽を運びと忙しそうに動き回っている。
広間にはすでに何百人もの着飾った貴族や貴婦人たちがグラスを片手に談笑し合っていた。
特別にしつらえられた前面の席には、国王ケンディス二世と王妃が座り、その横には国の重鎮たちがずらりと正装して居並んでいる。普段は厳しい顔つきの国王も、今日ばかりは柔和な笑顔を浮かべて皆にうなずきかけていた。
巨大なホールの全てのテーブルに料理とワインがゆきとどき、姫のために用意された席の前に青と白のアイリスが飾られた大きな花瓶が置かれると、演奏係が生誕の祝い曲をおごそかに奏ではじめた。
シャンデリアに灯された数百本のろうそくが煌々と光り、人々は祝福の歌を唱和した。

扉が開かれた。
まず二人の白い衣装を着た可愛らしい少年少女が現れた。
そしてその後ろから、クシュルカ姫が入ってきた。
広間の人々は一斉に「おお」と声を上げた。
花をあしらった見事な飾りのついた純白のドレスに身を包み、そのプラチナの髪を結い上げたクシュルカ姫が、しずしずと広間の中央に進み出た。
演奏がやんだ。
姫はまず父である国王に向かい両手を組み合わせた。続いて王妃へ。
そして人々に向き直り貴婦人の礼をした。
「王女殿下万歳!」
「お誕生日おめでとうございます!」
人々から口々に祝いの言葉が飛んだ。
姫が顔を上げた。微笑みを浮かべ、少しはにかんでそのバラ色の頬に手を当てて。
「ありがとう。皆様。私のためにお集まりいただいて」
クシュルカ姫は眩しいほどに美しかった。
今日彼女は十八歳になり、少女から本当に大人の女性へと、大輪の花が開くように、その扉をゆっくりと開いたようだった。
ほっそりとしていた体は自然と女性らしい丸みをおび、うっすらと化粧をしたその顔は、もはや背伸びした少女のものではなかった。
大人っぽく結われた髪も、唇に塗られた紅も違和感はなく、もともとあった彼女の気品と高貴で凛然とした顔つきをいっそう引き立たせていた。
人々に向けられた笑顔はまさに女神の微笑みで、どんな相手をも魅了せずにはおかない自然体でやさしさに満ちたものだった。
少女のころからすでにこうした人の上に立つ者の資質を備えていた彼女は、大人の女性となった今、それを完璧な形で身につけていた。
集 まった人々、大臣たち、貴族たちは皆、彼女の表情、微笑み一つに胸をどきどきとさせ、その言葉に聞き入り、その視線の先に入りたいと願っていたことだろう。
「本日は五月祭の最終日。そのついでにこうして私の記念を祝っていただけて、心よりお礼申し上げます。ささやかな御馳走ですけれど、今日は心ゆくまで宴をお楽しみくださいませ」
盛大な拍手。乾杯が交わされた。
楽隊が再び曲を奏ではじめる。
人々は立ち上がって客席へ降りてきた姫を取り囲み、それぞれに祝辞を述べ立て、花を送り、ダンスを申し込んだ。
優雅で盛大な宴は今宵いっぱい続くのだろう。

ライファンは一人外へ出た。
黒の騎士服に正装した彼も、広間の給仕を手伝い、姫の登場に見入って、しばらくはそこにいたのだが、山のような御馳走も、着飾った貴婦人たちも、彼を引き止める理由にはならなかった。
中庭に出ると夕方の風が涼しく頬をなでた。
彼は何故だか、大広間で人々とともに姫の誕生日を祝い、杯を上げる気分にはなれなかった。
むろん、それは別に姫が嫌いになったとか妬ましいとかそういうことではまったくなかった。
むしろ逆だった。
さっき見た、クシュルカ姫の純白のドレス姿が思い浮かぶ。
そのあまりの美しさ、気高さに、彼はうちのめされていた。
(僕は……なんて馬鹿だったんだろう)
中庭や庭園でも、置かれたテーブルの周りに人々が集い、談笑しながら食事をしたり、音楽に合わせてポルカを踊ったりと楽しそうに時をすごしている。
ライファンはそんな人達を横目に見ながら一人、庭園を歩いていった。
(クシュルカ様は……王女様なんだ)
いまさらのようにそんな思いが頭によぎる。
(いくら僕に話しかけてくれたり、微笑みかけてくれても、クシュルカ様は王女様で、いつかは国の王妃におなりになる御方……)
(なんて僕は馬鹿なのだろう)
(身分も地位もない僕は……たとえ騎士として認められたからといって、あそこにいる貴族たちのようには気軽に姫に近づいてよい人間じゃないんだ……)
(姫に拾われて、お話をしたり、そばにいるうちに、僕はいい気になっていたのだ)
(僕なんか……)
しだいに遠くなる楽隊の演奏にぼんやり耳をかたむけながら、ライファンは暮れてゆく城壁の向こうの黄昏に目をやった。

「ライファン」
びくっとして彼は飛び起きた。
宴のさんざめきも届かないひっそりとした庭園の奥で一人、木によりかかってうとうとしていたのだが。
気がつくと彼の目の前にクシュルカ姫が立っていた。
これは夢だろうか。ライファンは目をまるくした。
「ひどいわ。ライファン。一人で出ていったりして」
「ひ、姫……あ、いやクシュルカ様……」
「私、あなたと踊ろうと思っていたのよ」
純白のドレス姿そのままのクシュルカ姫は、腰に手を当てて唇をとがらせた。
そうすると、かつて彼を奴隷市で拾ったときのような可愛らしい少女の面影がかいま見えた。
「あ……どうして……ここが」
「わかるわ。それくらい。だって……」
王女は少し恥ずかしそうに唇に手を当てて言った。
「よくここでお話したでしょう。あなたの剣の稽古の後で」
「あ……はい」
あれはいつごろだったか。
ライファンの脳裏にも、王女が自分の額に唇をあてたあのときのことがよみがえった。
王女はそのときのようにライファンの横に腰を下ろした。
「……」
二人はしばらく黙ったまま、互いの肩が付くくらいに並んで座っていた。
風がさわさわと木々を揺らす。
「どうして……出ていったりしたの?」
王女は頬にまとわりついた遅れ毛をかきあげ、囁くように言った。
「はい……それは」
「それは?」
ライファンは頭をかいた。
「あの……僕の勝手な思い込みで……」
「どんな?」
姫が顔を寄せてきた。
その透き通った水色の瞳が彼を間近く見つめていた。
ライファンは真っ赤になった。
「あの……その、つまり……その、姫は……クシュルカ様は王女様だし……、その……僕はただの拾われた奴隷で、今は騎士の栄誉をいただきましたが……でも結局はただの身分なき剣士ですし。……ですから……その、今までみたいに姫とお話ししたり……こうしてお近づきになったりするのはもう……いけないことだと……」
「ライファン」
王女はゆっくりと彼の言葉をさえぎった。
そして、静かに……ほとんどやさしい口調で……言ったのだった。
「私ね……お見合いするのよ」
「……」
ライファンはびくっと体を震わせただけで何も言わなかった。
「少し前から決まっていたの。お父様に言われて。相手はバルサゴ王国のサコース王子ですって……」
「そう……ですか」
「十八になったら、って約束だったの。ずっと、嫌だったけど、ついに来てしまったわ。この時が」
王女はふっと悲しそうに微笑んだ。
「でも仕方ないわね。私はこの国の王女だし。バルサゴ王国は力のある大国。友好関係を結べばこの国の平和も約束される」
ライファンは何といってよいものかわからず、王女の顔を見て、またそらした。
「ライファン……」
「……」
王女は首を傾けて少年を見た。
「あなたは、どう思う?」
「僕には……僕なんかには……なにも……」
そうだろう。いくら自分が嫌だ、そんな結婚などやめてください、と願ったところで仕方がない。
すべては王女の、そして王国の運命であり、この国の人々の平和と繁栄を背負っている王家の娘、それが彼女なのだから、自分には何も言えるはずがない。
少年はうつむいて首を振った。
「そう……」
しだいに深くなる夕闇のなかで、二人は近くに寄り添いながら、互いの存在をとても遠く感じていた。
王女の手が、おそるおそる地面に置かれたライファンの手に重なった。それが精一杯の王女の勇気だった。
そしてライファンは、それを握り返せなかった。
夕闇が二人の顔をかくした。
王女はすっと立ち上がった。
「もう戻らないと……」
「はい」
最後まで、引き止めて欲しいかのように、王女はしばらくじっと待った。そしてドレスの裾を持つと、そのまま小走りに去っていった。
王城の広間からもれる明かりは、ライファンにはとても眩しく思えた。
クシュルカ姫は一度も振り返らなかった。

町は祭りの喧騒に包まれていた。
アタラーマの城下町は、どこもかしこも祝いに繰り出した人々で賑わい、夜になってからも町は静まることはなかった。
大通りはずらりと並んだ露店と行き交う人々や、店店から立ちのぼる食べ物の湯気、それに店から上がる客引きの声などが一緒になり、どこも騒がしくひしめいていた。
ライファンはいつの間にか自分が王宮の門を出て、その混雑した町の街路を歩いていることに気づいた。
顔を赤くし、酒によった人々が「国王陛下万歳」「王女殿下万歳」を唱えるのを、何度耳にしたことだろう。
貴族たちによる王宮でのお祝いよりは、ずっと下世話で活気ある祭りの熱気が町を包んでいる。
食べ物の店、酒の店の他にも、歌や演奏、見せ物の店や旗や王女の肖像画を売る店も繁盛していた。
町の中心部の大広場には巨大な小屋が立てられ、そこでは吟遊詩人による歌や手品、それに軽業師の舞や剣士による模擬試合までも行われているようだった。
人々は酒を飲み、屋台で買った食物をかじりながら、見せ物に興じたり、剣士の戦いに気前良く掛け金をつんだ。
ライファンはそれらの屋台や見せ物などにはあまり興味もない様子で、ぼんやりと人波の中を歩き、大広場を横切ろうとしていた。
そのときだ。
「なんだ。それでも男なの?なさけない」
楽器の音色やひしめき合う人々の間で、ふと聴き覚えのある声が耳に入った。
少し離れた場所だったが、なぜかはっとするような、ぴんと凛々しい女性の声だ。
ライファンはつい聞き耳を立てた。
「ほら。次。なに?もう誰もいないの?」
再び声がした。続いて人々の歓声と拍手が上がる。
辺りを見回すと、目に入ったのは大広場の中央に立てられた見せ物小屋。大勢の観客が取り囲む、高くなった舞台のような場所では今、剣士による模擬試合が行われているようだった。
ライファンは人込みをぬって小屋に近づいた。
舞台の上では、たった今試合が終わったのか、二人の剣士が立っていた。
一人は剣を落としてひざをつき、敗北の様を窺わせた。もう一人は……
ライファンの視線がその剣士の姿にとまる。
勝ち名乗りをあげて天に剣を振り上げた剣士。
祭りの余興なのか、その剣士は七色の派手な房飾りをつけた兜をかぶり、これも目立つ赤い鎧、剣の柄にはしゃらしゃらと色とりどりのガラス玉の宝石が垂れ下がっている。
「他にはいないのか?この私に挑戦する勇気ある者は!」
その派手派手しい恰好の剣士の口から再び声が上がった。さっきの声はこの剣士のものだ。
周りの観客は一斉に口笛をふき、この派手な姿の女剣士をはやし立てている。
「いいぞー」
「戦の女神ミネイヴァみたいだ!」
「いいや地獄の女剣士ヘカーテさ!」
人々の間からどっと笑いがもれる。
「なにいってんの。私はティアルナよ。純潔の月の女神さ」
女剣士が剣を振り上げ人々に言い返す。
やんややんやの喝采に、見せ物は大盛況のようだ。
「さあ、次の対戦者はいないのかい?今なら掛け金十倍だよ。十倍!」
舞台端の進行係とおぼしき道化が威勢よく手を叩く。
ライファンは観衆をかきわけ、客席の最前列まで来た。
彼にはもうその女剣士が何者なのか、兜の下を見ずとも分かっていた。
「レアリー」

彼が名を呼ぶと、舞台の上の剣士ははっとしたように、客席を見回した。
そして目の前のライファンの姿を見つけたのか、女剣士は一瞬言葉を忘れたように固まった。
が、すぐに気を取り直したのか、つかつかと彼の方に近寄ってきた。
「あんた……」
「やあ。レアリー」
「なんでこんなとこにいるのよ?」
女剣士……レアリーは舞台の上からかがみこむようにして、ライファンに囁いた。
「いや……なんとなく歩いていたらさ。声が聞こえて」
「すぐ私だと分かったの?」
「そりゃあね……」
女剣士の兜の奥の目が、ライファンをじっと見ていた。
「あんた……王女様のパーティじゃ……」
「うん……。でも……出てきちゃった」
「……」
少し寂しそうに笑うライファンを見て、女剣士は何を思ったのか。
いきなり彼の手を取ると、そのまま舞台の上に引きずりあげた。
「レ、レアリー。なにを……」
「しっ」
女剣士はライファンを舞台に上げると、観客に向かって手を挙げた。
「たった今、この若者から挑戦を受けました。彼は我がアダラーマ王国の近衛騎士であるそうです」
観客から一斉に拍手が上がる。
「おお、本物の騎士か」
「それはいい。これは見物だぞ」
レアリーが進行役の道化にうなずきかける。
「さあさあ、皆様。はったはった。賭率は十対一ですぞ。この若者に賭ける方は?」
人々は我先にと銀貨を取り出し、道化の帽子に投げ込んだ。
「レアリー……副隊長……、これはいったい」
「しっ。今は名前で呼ばないで。顔隠してるんだから」
女騎士は小声でライファンを制した。
「それより。剣は?」
「ああ……ええと、今日は置いてきました」
「まったくもう。オートン、長剣を一本持ってきて」
「はい」
舞台の端にいた道具係らしい少年に剣を持ってこさせ、レアリーはそれをライファンに渡した。
「ついでにこの鎧も着なさい。一応真剣試合なんだから」
「真剣って……そんな」
「いいから。早く」
手を叩き試合を要求する観客たちを見て、ライファンは仕方なく鎧を着て派手な房飾りつきの兜をかぶった。
「派手すぎるなあ」
「お祭り用なんだから。目立っていいでしょ」
女剣士はライファンの兜をぽんと叩いた。
「さあ皆様お立ち会い。これより最強の女剣士アダラナと我が王国の栄えある正規近衛騎士との真剣勝負が始まります。どうぞ皆様お見のがしなきよう」
こちらもど派手な格好をした道化の進行役が舞台中央で口上を述べた。
「いい?いくわよ」
剣を構える女剣士。ライファンはきょとんと、借りた長剣を持って立っている。
「試合開始!」
ジャーンとシンバルが打ち鳴らされた。
女剣士がライファンに打ちかかる。
わああっ、と歓声が上がる。
勝負は、一瞬でついた。


夜もだいぶ更けた。
さすがにこの時間になると街路沿いの屋台も店を閉めはじめ、通りをゆく人の姿もぐっと少なくなる。
もちろん、酒場や宿屋の食堂などには、いまだこうこうと明かりが灯り、祭りの最後の夜を味わい尽くそうとする人々が集っていたが。
広場の屋台や、見せ物小屋も半分以上はたたまれ、夕方までは石畳も見えぬほどにひしめいていた群衆も、それぞれのすみかに戻っていったのか、中央広場はがらんとだだっ広く見えた。
また明日からは通常の日々が始まってゆく。
いつものように朝市が開かれ、人々は食料や生活用具、ときには奴隷を買いにこの広場へやってくるのだろう。祭りの終わりは一種の寂寥とともに、あらたなる日常の朝への転換を思わせる。
そんな静まり返った広場の噴水のへりに、二人は腰掛けていた。
すでに剣試合が行われた舞台と小屋は片付けられ、残っている人間は商人や店を持つ男たちくらいのものだった。
今日の稼ぎの勘定を終えた彼らには、これからようやく酒場に繰り出そうという時刻である。
ライファンとレアリーは、すっかり閑散とした広場と街路を眺め、噴水の音を聴きながら並んで腰掛けていた。

「まったく……。なんなの?さっきの試合は」
「だってさ……」
「だってもなにもなーい。あんなに簡単に負けて。お客も怒ってたじゃない」
「ごめん」
レアリーの一撃で剣を取り落とし、つんのめって倒れたライファンだった。彼は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「でも……わざとじゃないよ」
「わかってる。それくらい」
レアリーは頬を膨らませた。
「わざとだったらぶってるわよ」
ライファンはくすりと笑った。
横目でレアリーを見る。
兜と鎧を脱いだ彼女は、その下には一応お祭りらしく、緑色の綺麗な胴着を着ていた。
下は騎士のズボンにブーツだったが、それでもいつも見る騎士姿のレアリーよりはずっと普通の少女っぽく見えた。
「なによ。なにがおかしいの?」
「うん。……いや、そのきれいな胴着、女の子らしくていいな、と」
「そう?」
レアリーは少しうれしそうに自分の服に手を置いた。
「いつもは騎士の正装か鎧姿しか見てなかったから」
「そういえば、そう……ね」
「でも、驚いたな。副隊長が、こんなところで大道芸をやっているなんて」
「バイトよ。ただの。隊長には内緒ね」
レアリーは照れながらそう言った。
「バイト……って?」
「私ん家、親父がいないからね。母さんと弟に妹。騎士のお給料だけじゃ大変なの」
「そうなの……」
今までそんなことまったく知らなかったライファンは、なんと言ってよいものか分からずもぐもぐと押し黙ってしまった。
レアリーは笑ってみせた。
「なに深刻な顔してるの。別に死ぬほど大変なわけじゃないし。あんたなんか、両親はおろか、一人でここに買われてきたんでしょう。それに比べたらぜんぜん……」
「いや。……僕なんかは」
ライファンは首を振った。
 王女様に買われた、ただの運のいい奴隷だよ……」
噴水の水に映った三日月に目を落とすその様子は、とても寂しそうに見えた。
「なにか、あったの?」
レアリーが尋ねた。
「……いや。なんでも……」
「言ってみなさいよ。馬鹿ね」
「うん……。あの……」
何故だかライファンは、レアリーと会えたことがとても嬉しかった。
いままで、騎士団の稽古以外ではほとんど会うことも話をする機会もなかったが、彼にとってこの女騎士は、宮廷の中で気兼ねない言葉を交わせる数少ない相手だったのかもしれない。
「そう……。王女様が、お見合いをね……」
「うん。でも別にそれがいやだとかそんなんじゃないんだ。ただ……」
「ただ?」
「なんだか、やっぱり僕は、たとえこの国に来て騎士になったからといって、ただの……そうただの身分なしの情けない奴なんだということが、分かった……というのかな」
レアリーは黙って、隣に座る少年の横顔を見つめていた。
「あ……ごめんなさい。副隊長にこんなつまらない話をしてしまって……」
「いいわ。それに今は副隊長もなにもないし。私はバイトの女剣士アダラナよ」
剣の柄に手をやる仕種をして見せるレアリー。
二人は笑い合った。
「でも……分かる気がするな」
しばらくしてから、レアリーはふと静かに言った。
「え?なにが?」
「ライファン。あんた……」
「うん?」
「王女様が……クシュルカ様が好きなのね」
「えっ」
「違うの?」
覗き込むようにレアリーはライファンを見た。少年は赤くなった。
「い、いや。だって……王女様は……王女様で。僕はただの奴隷で……いや今は騎士だけど……一応。それに、身分もないただの……」
「そんなの関係ないでしょう」
「でも……」
「大事なのは好きか、そうでないか、よ。どうなの?」
追求されて、ライファンは唸った。
しかし今更嘘をついたり、ごまかしたりするのもレアリーにはしたくなかった。
「……す、好き。だけどそれは……」
「……いいのよ。それだけで。それでいいの」
レアリーの声は優しかった。
「そう……なの?」
女騎士はその手をちゃぽん、と噴水に入れた。水に映った月がゆらゆらと揺れる。
「気持ちはどうしようもないでしょう。それがあるのなら。変えたり、捨てたりはできない」
「う、うん……」
うなずいたライファンを見てくすっと笑い、 レアリーは突然するりと頭の両側で束ねていた髪をほどいた。
ふわっと長い長い黒髪が肩にかかる。
「どう?女剣士アダラナは。こうした方が女らしく見える?」
「うん」
ライファンは驚いたように何度か目をしばたかせた。
いつも見せる鎧兜に厳しい眼光、つり上がった眉と引き結んだ口の近衛騎士隊副隊長、レアリー・マスカールはここにはいないようだった。
目の前にいるレアリーはとても美しい一人の女性だった。
「でも……、いつかは結婚してしまうのよ。王女様はね……」
「うん……」
月を見上げる二人。
町の広場から見える王城の明かりは遠く、その中の絢爛な催しの空気までは伝えてはこない。

「もし……」
レアリーが低く尋ねた。
「もし、王女様が結婚して、どこかへ行ってしまわれたら……どうする?」
「さあ……」
ライファンは首をかしげた。
「でも、僕は王女様に拾われて来たんだから……、王女様が……クシュルカ様がいないのなら……、この国にいても仕方ないよね……」
「そんな……こと」
「たぶん……僕なんか、もともとそんなに必要だったわけじゃないし。ただの……お情けで、王女様が買ってくれただけだから」
にこりと笑うライファンに、レアリーは思わず首を振った。
「違う。あんたは……あんたで……、誰がどこにいなくなったって……あんたなんだから……だから」
「……ありがとう。レアリー」
驚いたようにライファンは女剣士を見た。
その目に光る涙に、レアリーもはっとなった。
「わ、私を見て。ライファン……」
思わず、彼女は言った。
噴水の水音が静寂の中に響き。
「私を……王女様だと思って……私を見て」
月光が二人を照らす。
じっと見つめ合う二人。
「違うよ。……君は……レアリーだ」
「そうよ。でも、目を閉じれば……わからない」
挑むように、そうレアリーは言った。
時が止まった。
引き寄せ合うように、互いの顔を寄せ。二人の、
その唇が重なる。
月明かりのもと、石畳の上に噴水と、二人の影が、
静かに重なったまま動かなかった。



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