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 水晶剣伝説 X 暁の脱出行


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 再び独房に戻されたレークは、ごろりと寝台に寝ころがった。
 頭の中でしだいに組み合わさってきた事柄を、今一度じっくりと考えてみる。
(まず、あの子どもだ)
(セリアス様……か。アルディの大公の血筋というのは、おそらく間違いねえな。それに今思えば、あの侍女の態度といい、自分を犠牲にしてでも坊やを助けようとしたのは、それほどに大切な人間だってことだ)
(たしかに、ガキにしちゃあ、どうも大人びたような顔をしていたし、貴族の子どもって言われりゃあ、それらしい品もあったからな)
 それに加えて、東と西に分裂しかけているという、この国の現状を考えれば……
(つまり、大公の血筋の公子さまの存在は、どちらにとっても大切だってわけだ。あの坊やが、もし東側に行ってしまったら……おそらく革命を起こそうとしているそのウィルラースとかいう貴族が、公子の存在を大義名分の旗印にして立ち上がるんだろう)
 そうであれば、ここの護民兵を含めて、西側の人間がやっきになって少年を取り戻そうとするのもうなずける。
(なるほど。そういうことか)
 これはまた、なかなか大変なことに巻き込まれたと、レークは内心で苦笑した。
(トレヴィザンの野郎め。やってくれるぜ。なにも事情を話さないまま、オレにあの坊やの護衛を押しつけたな)
 もちろん、先にそんなややこしい事情を知らされていれば、こんな任務は引き受けなかったかもしれない。その点では、トレヴィザン提督の方が一枚上手であったということだろう。
(まあいい。そうなっちまったものは、いまさら後悔はしない)
(それよりも……)
 肝心なのは、一刻も早くここを脱出することだ。あの少年の正体が分かった以上、一緒にいるクリミナの方にも危険が及びかねない気がする。
(ともかく、無事にグレスゲートに着いていればいいが)
 レークは寝台から起き上がると、無駄とは知りながらも、今一度、小窓や壁、天井など、どこかに逃げられそうな場所はないかと調べてみた。だが、小窓の頑丈な鉄の格子はどうあっても外れそうもないし、壁をあちこち叩いてみるが、どこにも壊せそうな所はない。
「あとは天井くらいだが……」
 天井は漆喰でできていて、固いもので削れば穴のひとつくらいはあけられそうである。
「よし。やってみるか」
 幸い天井はさほど高くなく、寝台を横に立てかければ、それを踏み台に手が届きそうだった。日が暮れて、見回りが来なくなる時間を見計らって、レークは作業を開始した。
 こういうときのために靴の踵に隠してあった刀子を取り出し、それでガリガリと漆喰を削ってゆく。地道な作業であったが、レークは手を休めることもなく天井を削り続けた。
 そうして、床の上には漆喰の削りカスがこんもりと積もり、刀子を握る腕がしびれてきた頃、ついに天井に拳ほどの穴があいた。
「よし」
 レークはそこに手を突っ込み、体重をかけるようにしてさらに崩していった。バラバラと漆喰の破片が床に落ちて音を立てると、レークは思わず息を殺した。だが、見回りがこの階にくる時刻はしっかりと定められているようで、誰かがやってくるような気配はまったくない。
 安心したレークは、さらに大胆に両手で天井を崩してゆき、ついに体が通れるほどの穴をこしらえた。
「ふう……」
 いったん床に降りて一休みすると、今度は毛布を刀子で細く裂いてそれを束ねてゆく。ロープ状になった毛布を腰にぐるぐると巻き付けると、いよいよ脱出にとりかかった。
「よっ、こらしょっと……」
 するりと身軽に天上穴を這い上がると、そこは上の階との隙間のような、ごく狭い空間だった。暗がりの中を勘を頼りに、頭をぶつけぬように身をかがめながら進んでゆく。
 かすかに風の流れが感じられる方向へ、足音を響かせぬようにと気をつけながらそろそろ歩いてゆく。すると、ふとどこかから声が聞こえたような気がした。
 足を止めて耳を澄ますと、それはこの真下から聞こえてくるようだ。それも、なんとなく聞き覚えのあるような声であった。
「ああ、くそったれ。ああ、くそったれ」
 床板に耳をつけてみると、はっきりとその声の主が知れた。
「金貨もみんなあの婆あにとられて、挙げ句に監獄送りとは、まったくついてねえ」
 それは、あの山賊ガレムの声に違いなかった。
「くそ、それもこれも……あの、女連れの浪剣士と関わったからだ。貴族のガキがどうしたとか、護民兵も血眼になっていやがったし、あいつらはいったい何者なんだ」
「ちくしょう。このままじゃ、保釈金も払えねえ。俺様クラスの山賊じゃあ、簡単には出してはもらえねえから……このままずっとここにいて、挙げ句は縛り首か?」
 その独り言を、まさか天井の上から自分が聴いているとは思うまい。
(へへっ、かわいそうに。オレはお先に逃げさせてもらうぜ)
 くすりと笑うと、レークはそのまま足を忍ばせて歩きだそうとした。
「ああ、いやだ。こんなとこで死にたくはねえ。俺は自由が大好きなんだ。もう一度だけ俺に自由をくれ。そうしたら、なんでもする。なんでもだ!」
「……」
 別に、それを聞いて山賊が哀れになったというわけでもなかったが、
 レークはふと足を止めた。
「オレは、よっぱど人がいいのかね。奴がどうなろうと知ったこっちゃねえし、このまま放っておけばいいものを」
 苦笑しながらつぶやくと、レークは刀子を取り出した。漆喰の弱そうなところに当たりをつけると、そこをガリガリと削り始める。
「おっ、なんだ。これはなんの音だ?」
 下にいる山賊もその音に気づいたらしい。
「ネズミか?いや……それにしちゃあ激しい音だ」
「おい。静かにしていな。今ここに穴をあけっから」
「おおっ、だ、誰だ?……」
「オレだ」
「その声は……」
 山賊が驚いたように言う。
「まさか、おい……おめえ。さっきの浪剣士か」
「ああ、そうだよ」
「そんなところで、いったいなにをしているんだ?」
「はっ、なにって。オレが天井裏で夜の散歩でもしていると思ってんのか?」
「お、まさか、脱獄……」
「静かにしてろってんだよ。誰か人がきたらおしまいなんだからな」
「あ、ああ……」
 山賊は素直に口を閉じた。
 さらに削ると漆喰に穴が開いた。穴から覗くと、すぐ真下で山賊の顔がこちらを見上げている。
「よう、しばらくだな」
「おめえ、こんなことをして……いい度胸しているな」
「まあな。なにもしねえよりはいいだろう。このまま独房でずっと暮らすつもりじゃないんなら」
「ああ。まったくだ」
「さあ、どうするんだ?一緒に来るのか、来ねえのか?」
「そりゃあ……もちろん!」
 山賊は髭づらの顔ににやりと笑いを浮かべた。
「じゃあ、早く登ってきな。手くらいは貸してやる」
「すまねえ」
 寝台を踏み台にして山賊が天井の穴に手をかける。体が大きいせいで穴につっかかったが、力任せに穴を広げなから、レークの手を借りてなんとか這い上がった。
「ふう。こんなふうに脱出するのは初めてだぜ」
「そりゃよかったな。今度はもう少し痩せておくといい」
 山賊は思わず声を上げて笑いそうになったが、慌ててその口をおさえた。
「よし、じゃあ行くぜ。方向はこっちでいいのかな?」
「ああ。たぶんそっちに進めば便所がある。そこからなら外に出られるぞ」
「便所……」
「ああ、誰にも見られず外へ出るにはそこしかない」
「うう、この際、仕方ねえか」
 山賊の言う場所までゆくと、またそこに穴をあけ、二人は下に降りた。
 そこはおそらく囚人用の便所なのだろう、ごく狭い小部屋であった。二人はさっそく便座の板を剥がしにかかった。
「うっ、くせえ……」
 思わず鼻をつまみながら、板の下に現れた排泄用の穴を覗き込む。
「おい……本当にここに入るのか?なんだか、拷問される方がマシな気分になってきた」
「まあそう言うな。ここからなら確実に外に出られるんだ」
「うう……とても気が進まねえが」
 レークは毛布で作ったロープを窓の格子に固く結ぶと、その一方を穴に垂らした。
「俺が先に降りていいか?」
 穴を覗き込む山賊に、レークはうなずいた。
「ああ。行ってくれ、あんまり汚かったらオレはやめるからな」
「それじゃ、お先に」
 山賊は毛布のロープに手をかけると、ためらいなく狭い穴へと入り込んだ。
「おい、大丈夫そうか?」
 覗き込むと、山賊は案外器用に、するすると便所穴を降りてゆく。
「おお、あいつ……こうして便所から逃げるのは、まるで初めてじゃないみたいだな」
 感心しながら見ていると、やがて山賊の体は暗がりの中へ消えた。この排泄穴がどこまで続いているのかは分からなかったが、けっこうな高さであるはずだ。はたして毛布の長さが足りるのだろうかという心配もあったが、それを考えていても仕方がない。
「おい、山賊。どうだ?降りられたか?」
 穴に向かって声をかけてみるが反応がない。
「ちっ。あまり、大声を出すと気づかれちまうからな……仕方ねえ。うう」
 レークはためらいながら、毛布のロープを抱きしめるように、便所穴へと入っていった。
「うっ、うげっ」
 あまりの匂いに吐きそうになる。息を止めるようにして、人の体がなんとか通れるくらいの狭い穴を降りてゆく。なるべくなら壁に手を触れたくはなかった。汚物がびっしりとこびりついて、周りはひどいことになっていたからだ。
(ううう。地獄……地獄っ!)
 こんなことなら、股裂きの拷問にでも耐えた方がマシであるとさえ思った。
 そして、穴はけっこう長かった。降りても降りても、そこは汚物のトンネルだ。いっそのこと、ロープから手を離して飛び下りたくもなる。だが、なんとかそれをこらえ、さらに降りてゆくと、下の方から冷たい風が感じられるようになった。
(おお。もう少しだぞ)
 ここを出られることがただ最後の希望とばかりに、レークは自らを叱咤し、毛布のロープをするすると伝っていった。
「ありゃ。やっぱ足りねえか」
 心配していた通り、割いた毛布を結んで作ったロープは、地面まで届いていなかった。下を見ると、排泄穴はもう少し先で終わっていて、その先は真っ暗である。
「うう、地面まであとどのくらいあるのか分からんが……ここまで来たら」
 たとえこの下がどうなっているにせよ、穴を登ってまた戻ることを考えれば、運を天にまかせて飛び降りるしかない。
「山賊の野郎の声がしないってことは……まさか奴はここから飛び下りて、地面に頭でも打って死んじまったとか」
 せめて夜中でなければ、下がどうなっているか分かるのだろうが、それを言うなら夜中でなけれは、誰にも見つからずに抜け出すことなどは不可能である。
「くそ。こうなったら……どうにでもなりやがれだ」
 レークは毛布の先、ぎりぎりまで降りると、
「そら、よっ」
 そのまま手を離した。
 だが落下の感覚は一瞬だった。
 いきなり、ざばん、と水の中に落ちた。
「うわっぷ」
 焦ってもがいたが、すぐに足が立つくらいの深さだと分かった。
 それよりも……
「うう。くっせえ」
 水自体がひどく匂った。おそらくここは、便所の汚物がそのまま、この池に落ちてたまるようになっているのだろう。
「くそったれ。本当にくそったれだ!」
 レークは悪態をつきながら、汚水の池から出た。
 慎重に辺りの気配を窺う。だが、いくら暗がりに目を凝らしても、先に降りたはずの山賊の姿が見えない。
「まさか……あいつ、本当にこの汚ねえ水の中で溺れちまったんじゃねえだろうな」
 だが、わざわざまた汚水を探す気には到底なれない。仕方なく、レークは一人で、建物の陰をぬうように歩きだした。
 深夜ということもあってか、目につく見張りの数は案外少なく、ときたま松明の灯が見えるくらいで、それを物陰でやりすごしつつ慎重に歩を進める。
「正面の門には、さすがに見張り兵が詰めているだろうからな。他に出られそうなところを探すか」
 周囲を見回しながら、レークは建物からやや離れた北側の外壁にそって歩いていった。
 しばらくゆくと、小さな門が見えてきた。慎重に近づいてみると、それは吊り上げ式の門であったが、どういうわけか半分ほど扉が吊り上げられ、開いたままになっている。
「こりゃ、どういうこった?」
 これなら難なく外に出られそうであった。だが近づいてみると、門の横にある小屋の窓には人影らしきものが見えた。
「……」
 小屋の扉も開いたままであった。これがなにかの罠でないとも限らない。レークはそっと覗き込んでみた。
 そこには、護民兵らしき男が一人、ぐったりとして壁にもたれかかっている。床には水に濡れた足跡が残っていた。レーク自身も汚水で濡れていたので、その足跡もたぶん同じようにして濡れた人間のものであるに違いない。
「あの山賊め、ここから逃げたんだな」
 おそらく、山賊はこの門の人手が薄いことをあらかじめ知っていたのだろう。そしてこの見張りの護民兵を気絶させ、自らの巻き上げ機で扉を吊り上げて逃げたのだ。
「あの野郎……こっちに礼のひと言もなしとは、礼儀知らずな山賊だ」
 礼儀を知る山賊などというものがはたしているのかはともかく、結果的に自分はその山賊の脱走の手伝いをしたわけになる。
「まあいい。こうなりゃ、オレもとっととずらかるとするか……」
 足音を忍ばせて、小屋を離れようとしたときであった。
「あっ、ああっ!」
 背後で鋭い叫びが上がった。
 振り返ると、気絶していた護民兵が目を開き、こちらを指さしていた。
「やべえっ」
 レークは慌てて走り出した。だが、遅かった。
 護民兵が小屋にある吊り上げ機を操作したのだろう。レークの目の前で、鉄の扉が音を立てて閉じられた。
「脱走だ。罪人が脱走したぞ!」
 カンカンという警鐘の音が、夜の静寂にけたたましく鳴り響いた。
 レークは外壁ぞいに走り出そうとした。だが、その前方からたくさんの松明の灯が見えた。警鐘を聞きつけた兵たちだろう。
「くそったれ!」
 辺りにはもう隠れられそうな場所はない。石造りの高い外壁を背にして、レークは追い詰められた。
「いたぞ。脱走者だ!」
「捕らえろ!」
 せめて短剣でもあれば、戦って切り抜けられたかもしれないが、こちらを取り囲むようにして続々と集まって来る護民兵の数を見れば、到底それもかなわないだろう。
「ったく……」
 苦笑いを浮かべたレークは、ふっと肩をすくめた。
「これじゃあ、山賊を逃がすために、オレが犠牲になるみてえじゃねえか」
 そうつぶやくと、じりじりと迫って来る護民兵を見回した。あとはただ、その場に立ち尽くすしかなかった。

 手に枷をはめられたレークは、護民兵たちに厳重に監視されながら再び牢に入れられた。
 今度のは別の棟の地下にある、壁も天井も石造りの、ひどく殺風景な独房である。出口のある一階には昼夜を問わず見張りの護民兵が詰めており、見回りに来る回数もずっと多いという。そこはおそらく、重度の犯罪者のための棟なのだろう。
 ここから逃げ出すことは、いかなレークでも到底不可能に思われた。
「こりゃ、まいったね」
 壊すことはまず無理そうな、巨大な南京錠がよりによってふたつもついた扉が閉まると、レークは牢の壁際に腰を下ろした。この部屋には寝台などはなく、石床の上にじかに汚れた毛布が置いてあるだけだった。空気はえらくカビ臭く、昼間であっても牢内は暗かった。
「こんなところに何年もいたら、それこそ気が変になっちまうだろうな」
 殺人や強盗などの重犯罪人は、縛り首による死刑か無期刑がほとんどで、独房の中で忘れ去られて死んでゆくものも多いという。
「うう……そんなのは、いやだねえ」
 石壁には血の跡のような黒々としたしみや、囚人が引っ掻いたらしい痛々しい爪跡などが残されていて、思わずレークは顔をしかめた。
 なんとかしてここから脱出せねばとは思うが、その機会はおそらくは、次の尋問のために牢から出されたときをおいて他にはないだろう。だが、枷のはまった手では戦いようもなければ、外に出られたとしても、この監獄都市の壁をよじ登ることはできないのだ。
(焦ってもしょうがねえ。なにもできないんじゃ、焦るのも馬鹿らしい)
 今のレークにできることはただ待つことだけだった。
 小窓から差し入れられたスープ皿に直接口をつけ、床に落ちたパンを這いつくばって犬のように食べた。屈辱よりも大きなもののため、今はただ、次の機会を待つために希望する時間であることを、彼は本能で知っていた。
 (ともかく、今は我慢するとするか……)
 汚い毛布の上に横たわる。体力を蓄えるため眠ることこそが、最大の準備なのだと。そう己に言い聞かせて。
 夜が明けたなったらしいことは、見回りが来た時間で知れた。もう一日がたったのだ。
 しかし、レークのかすかな希望をあざ笑うように、尋問のための呼び出しはいっこうにこなかった。ただ待つということのむなしさは、狭い牢内を歩き回るくらいでは消えない。あるいはこのまま、いずれ自分は忘れ去られて、このカビ臭い牢の中で歳をとってゆくのかと、そんなことをときおりふと考えては、それをまた打ち消した。
 機会はきっとある。
(そうさ……きっと、な)
 そう思わなければ、とても耐えられなかった。

 さらに一日がなにも起きぬまま過ぎた。
 その間、見回りの兵が何度か来たのと、朝と晩に小窓から食事が差し出される他には、ただ、むなしい静けさの中で過ごした。
 まだこの独房に入ってたった二日であるにも関わらず、早くもレークの内心には抑えきれぬ不安がうずまきはじめていた。これならば、むしろ呼び出されて尋問され、拷問でもされたほうがいくらかましであった。
 もともとじっとして、なにかを待つようなタイプではない。どちらかというとせっかちで、気が短い方であるから、ひたすら思いついた行動をしている時の方が、自分自身が輝けることも分かっていた。
(くそ……せめて、この枷さえとれればな)
 そう思って、両腕ごとガツガツと壁にぶつけてみても、手が痛むばかりである。枷についた南京錠の鍵穴に細いものを差し込もうと思っても、針金一本も持ってはいないのだ。今回は厳重な身体検査のすえ、最後に隠していた刀子も取られてしまっていた。
(くそ。ダメだ……)
 レークはごろりと床に横になった。しかし、すぐにがばっと起きては、またうろうろと牢内を歩き回る。とにかく、動いていないと気がおかしくなってしまいそうだったのだ。

 そうして、さらに二日が過ぎた。
 朝食に出されたスープとパンを、枷のついた不自由な手で器用に食べ終えると、レークは壁際に座り込んだ。もはや、じっとしている以外にはすることもない。
 だが、それから少しして、ぴくりと、左手に奇妙な感覚を覚えた。
「……ん、なんだ?」
 左手の人指し指が締めつけるような、この感覚……
「指輪か」
 これのことをすっかり忘れていた。アレンから渡されていた、くすんだ銀の指輪……おそらく価値があるように見えないので、取り上げられずに済んだものだ。
 その指輪が、今たしかに指を締めつけたような気がしたのだ。
「なんだ?」
 レークは体を起こすと指輪を覗き込んだ。しかしもう、さっきの感覚はなかった。
 それからまた少したって、見回りが階段を降りて来る足音がした。
(いつもの時間とは違うな)
「おい。面会者だ!」
「面会?」
「ああ、女だぞ。もしかしてお前の女房か?」
 鉄の扉についた覗き窓で、見回りの兵がにやりとする。
「面会はこの窓ごしに、時間は半刻までだ。いいな」
「……」
 レークは奇妙な気分で去ってゆく兵を見送った。
(面会だと?)
 いったい誰が来たのだろう。
(女……というと、まさか)
 クリミナがやってきたのだろうか。他には誰も考えられない。
 ほどなくして別の足音が聞こえてきた。扉の窓から覗いていると、やはりこちらに来るのは女性であった。マントのような黒いガウンで体を覆い、頭巾のついた帽子を深くかぶっている。
 女性は扉の前まで来ると、窓越しに立ち止まった。頭巾のせいで顔はよく見えない。
「おい、あんた……クリミナか?」
 だが相手は答えなかった。何事かを計るように、ただこちらをじっと見ている。
「おい……」
 もう一度レークが言いかけると、
「レーク・ドップだな」
 女性が口を開いた。
「密書は持っているか?」
 その声はクリミナのものではなかった。
 それでは、いったい誰だというのか。それに……クリミナでないなら、どうして自分の名前を、それにあの密書のことを知っているのか。
 驚きに目を見開き、レークは相手を見つめた。
「お前は……なにものだ?」
「私が何者だろうと、そんなことはどうでもいい」
 女は、ひどくきっぱりとした、冷たい口調で言った。
「それよりも、密書を持っているのか。どうなのか?」
「なんの、ことだ?」
「とぼけなくてもいい。私はそれを確かめに来たのだ。もし、持っているなら、それをすみやかに渡すことだ」
 レークは黙り込んだ。相手が敵なのか味方なのか、まったく判断がつかないことには、余計なことは口に出さない方がいい。
「疑っているのか?私は敵ではない。それだけは言っておく」
「だったら、」
 レークはじろりと相手を見た。
「あんたも名を名乗って、その顔を見せたらいい」
「私の名を知っても、顔を見ても仕方がない。どうせお前は知りはすまい」
「なら、どうして、あんたはオレのことを知っている?」 
「任務としての情報から」
 その淀みのない口調は、まるで主に忠誠を誓う騎士のようでもある。レークはますます相手への興味を覚えた。
「なら、密書は渡せないな」
「なに?」
「もし渡したら、あんたはオレを見捨てて、そのまま行ってしまうんだろう?」
 トレヴィザン提督から託された密書は、すでにクリミナに渡していたが、レークはそれをとぼけることにした。
「たしかに……密書を手に入れることが私の第一の任務。だが、」
 女の口調がやや変わった。
「そちらがそう言うのなら、ここを出るための手助けをしてもいい。第二の任務としてはそれも入っている」
「へえ……ここを出るための手助け、だと?」
 レークはにやりと笑った。
「あんたに、それが出来るというのかい?」
「望みとあらば」
 女性は髪に手をやると、そこから一本のピンを抜いた。
「枷の錠をこちらに向けろ」
「……」
 半信半疑ながらも、レークは言われた通りに両手を窓越しに差し出した。すかさず、女性が錠の鍵穴にピンを差し入れる。
 あっと言う間のことだった。カチリと音がして錠が外れた。
「おお……なんてこった。あんたは、いったいなにものなんだ」
 数日ぶりに手から枷が外れた。思い切り腕を伸ばすと、手の先まで血が通う、心地よい感覚があった。
「あまり時間がない」
 目を丸くするレークの前で、女性はいきなり身につけていたガウンを脱ぎ始めた。
「お、おい……」
 だが、奇妙なことに、するりと脱いだガウンの下には、まったく同じ黒のガウンがあった。さらに女性は、懐からかぶっている頭巾と同じものを取り出すと、ガウンと一緒にそれを丸めて窓から押し込んできた。
「早く受け取れ」
「あ、ああ……」
 レークにもやっと分かってきた。ガウンと頭巾を受け取ると、女にうなずいて見せる。
「そういうことか」
「西の門の外に馬がつないである。うまくいったらまた会おう」
「あ、ちょっと待て」
 すみやかに歩きだそうとする相手を引き止める。
「あんたの、名前は?それくらいは聞いてもいいだろう」
「……」
 振り返った女性は少しためらってから、
「アド」
 そう短く名を告げ、そのまま去っていった。


 牢内から聞こえてくる女のすすり泣きに、見回りをしていた兵は立ち止まった。扉の覗き窓を開けると、そこには見知らぬガウン姿の女がうずくまっていた。
 これはいったいどういうことなのだろう?ついさっきまでは、ここには黒髪の粗暴な浪剣士が枷をはめられて捕らわれていたはずだ。だが、今、牢内には頭巾をかぶった女が、両手で顔を覆ってすすり泣いている。
「おい……おい、女」
 護民兵は窓ごしに声をかけた。だが、女はただすすり泣くばかりで、振り向きもしない。
「いったいどうしたのだ。さっきまでここにいた、あの男はどうした?」
「逃げ……逃げましてございます」
 泣き枯らしたような女の声が答える。
「なんだと。逃げた?そんな……馬鹿な」
 見回りの兵は顔を引きつらせた。男が逃げた?だがいったい、どうやって?
「なんということだ。なんという……」
 自らの責任を問われてしまうと、兵は慌てて腰の鍵を取り出した。
 扉を開けると、女に向かって言う。
「おい、女。こっちに来い」
「は、はい」
「もっと詳しく話を……」
 だが、言い終える前に、彼はかっと目を見開いていた。
 信じられないスピードで相手に襲いかかった女が、強烈な当て身と手刀を見舞っていた。
「……」
 兵がその場に崩れ落ちる。それを見下ろし、女は……いや、長いガウンをまとったレークは、にやりと笑った。
「まったく。女装して逃げるってのは、人生で初めてだぜ」
 鍵の開けられた牢の扉を出ると、レークはまた深く頭巾をかぶり直し、そろそろと階段を上がった。一階の出口にも見張りが立っていて、その前を通り抜けるのはひやひやものだったが、女の姿をしたレークを面会の帰りだと思ったのだろう、見張り兵はじろりとこっちを見ただけでなにも言わなかった。
「ふいーっ、やっと外に出られたぜ」
 久しぶりの青空と、まぶしい日差しがとても心地よい。すぐにもこの帽子とガウンを脱いで走り出したかったが、ともかく門を抜けるまではと自制する。慎重に周囲を気にしながら、ローブ姿のレークは静々と歩きだした。
 西の門を抜けるときに、やはり見張りの護民兵に声をかけられたが、それに深々と一礼してみせると、兵はうなずいて通してくれた。
 吊り上げ式の扉がゆっくりと開かれた。


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