3/10ページ 
 

  水晶剣伝説 XIII 北へ、


V

 小姓に案内された地下室への階段は、回廊から中庭に出たところにあった。中庭の真ん中には太陽神アヴァリスを模した、逆立つ髪に三又の槍を手にした騎士の像が立っていて、その周囲には整えられた植え込みや、ハーブを植えた花壇などが配置されている。いかにも貴族らしい洒落た中庭であった。
「こちらです」
 先に立つ小姓が、地下階段へと続く扉を開ける。
(地下か……捕らえた人間を捕まえておくには、地下室というのがお決まりよね)
 イモの詰まったかごを背負って、クリミナは、商人たちの列について階段を降り始めた。
(なんだか、ワクワクするわ)
 商人になりすまして、屋敷の地下へ潜入するなどというのは、まるでレークのような無茶なやり方であった。だが、彼はたいていこういうときにこそ、心躍らせてスリルを楽しんでいたものだ。
(私にも、彼の冒険癖が身についてしまったのかも)
 こんな際ではあったが、思わずくすりと笑いがもれる。この旅の間に、ずいぶんと豪胆になったものだと我ながら感心もする。それにかごの下のマントには、カリッフィの剣を見られぬように背負っている。これがあれば、たいていのことは乗り切れるだろう。そんな気がした。
 階段を降りるにつれ、ひんやりとした湿った空気が感じられた。だが、かび臭さやよどんだような感じもなく、地下室はそれなりに清潔に整備されているようだった。壁龕の燭台には灯りがともされ、壁や石段から水がしみ出しているようなこともない。荷物を背負った商人たちも足を取られることなく、快適に階段を下りて行った。
 地下のフロアは、広々とした大きな部屋になっていた。クリミナは辺りを素早く見回した。
 あちこちに壁龕の灯がともされているので、さほど暗さは感じない。地下室にはいくつもの柱が立っていて、壁際にはレンガが積まれたり、一方の壁際には大きなワラの山があった。よく見ると、壁には扉がいくつかあって、その先にもそれぞれの部屋があるようだった。
「ワイン樽は、その壁際に置いてもらってけっこうです」
 商人の一人がワイン樽を巧みに転がしながら、地下室の隅へ運んでゆく。
「食料部屋はこちらです」
 従者が右手にある、食料部屋とおぼしき部屋の扉を開けた。商人たちがそちらへ列をなしてゆくのに一応ついてゆくふりをして、クリミナは扉の前にイモの入ったカゴを下ろした。
 従者や商人たちが部屋の中へ入った瞬間、クリミナは足音も立てずに走り出した。そのまま、積み上げられたワラの中へ飛び込んだ。
「……」
 息を整えながら、ワラの中でじっと身をひそめていると、
「おや、まだイモのカゴが。これも運んでください」
 少しして従者の声が聞こえた。ここで、他の商人たちが怪しんで自分の存在を告げてしまえばそれまでだ。クリミナは祈るような気持ちで待った。
「それでは、これで全部ですね。上に上がってから、納品書に執事がサインします」
 扉が閉められる音、そして足音とともに人々が去ってゆく。階段を上る足音が聞こえなくなると、クリミナはそっとワラから顔を出した。部屋には誰もいなくなっていた。
(ふう……ここまでは順調だわ)
 ワラの山から出ると、ほっと息をつき、音を立てない程度に、体や髪からワラをはたき落とす。
「さて」
 地下室をあらためて見渡すと、さきほどの食料部屋の他にも二つ扉がある。クリミナは両方の扉の前に立ってみて、それぞれに耳を澄ませた。どちらからも物音はしないようだ。思い切って、左手の扉をそろそろと開けてみる。扉の向こうは通路になっていて、暗がりの向こうまで続いている。
(どうしようかしら)
 足を踏み出そうか迷っていると、その通路の奥から灯りが見えた。クリミナは急いで扉を閉める。向こうからに足音が聞こえてきた。
(まずいわ)
 クリミナは慌てて、今度は右手の扉を開けようとした。だが、こちらは鍵がかかっているのか開かない。
(なんてこと……どうしよう)
 足音が止まり、さっきの扉が開いた。燭台を手にした、鎧姿の男が入ってきた。
「誰かいるのか?」
 野太い男の声がした。
 (……)
 クリミナはワラの中でじっと息を殺していた。扉が開く直前に、慌ててまたワラ山へ飛び込んだのだ。
「物音がしたようだが、気のせいか」
 こつこつと、部屋を歩き回る足音……それから、がちゃがちゃと鉄の音がした。男が扉の鍵を開けたらしい。そのまま扉が閉まり、足音が遠ざかっていった。
「……」
 クリミナはおそるおそるワラから出ると、額の汗をぬぐった。
「こんなにワラに隠れたのは、子供の頃以来だわ」
 男はさきほど鍵がかかっていた扉から出て行ったようだ。耳を澄ませ、扉の向こうに人の気配はないのを確かめると、クリミナは思い切って扉を開けてみた。今度はすんなりと開いた。
「……」
 こちらも同様に狭い通路が先の方まで続いている。クリミナは迷った。このまま先へゆくべきか。それとも男がやってきた方へ戻るべきか。どちらへゆくのが正解なのか。
(こんなとき、レークならどうするかしら)
 あの陽気な浪剣士であったら……きっと危険も何も考えず、ただ自らの勘のみを信じて動いたに違いない。 
(鍵がかかっていた……ということは、)
(きっと、そちらに大事ななにかがあるということだわ)
 クリミナは心を決めた。男が去って行ったこちらの通路へ、足を踏み出した。
 背負ったカリッフィの剣をすぐに抜けるよう留め紐をゆるめ、暗がりの通路を足音を立てぬように進んでゆく。実際の距離はさほどでもないのだろうが、暗闇の中ではとても長く感じられる。
(こういう緊張感を、きっとレークは楽しんでいたのだわね)
 さすがに楽しむとまではゆかないものの、このどきどきするスリルこそが冒険の醍醐味であろうと、自分に言い聞かせて心を落ち着ける。
 しばらくゆくと、通路は右手に折れていた。クリミナは壁に手を当てながら、慎重に右に曲がり、暗く狭い通路を進んでゆく。また少し進むと、前方は下の階へと続く階段になっているのが分かった。
(地下の二階か……いかにも怪しいわね)
 たしか、トレミリアのフェスーン城も、地下の二階には囚人のための牢屋があった。戦火の及んだことのない城であるから、そこに誰かが捕らわれていたという話は聞いたことはなかったが、おそらく、どの城でも牢獄は地下と決まっている。
 にわかに緊張に包まれながら、慎重に階段を下りてゆく。ひんやりとした空気には、さっきよりずいぶん湿り気を含んでいるようにも感じられた。
「……」
 階段の下の方から、かすかに灯りがもれていた。それに、なんとなく人の気配も感じられるようだ。
 クリミナは、ますます一段一段を、足音をしのばせるようにして下りていった。
「……おい、いいかげんに」
 最後の数段を降りかけたとき、声が聞こえた。男の声と、それとは別に呻きのような声が。
「おとなしく話してしまえ。そうすれば、食事にありつけるんだぞ。両手を自由にしてやってもいい」
「……」
 クリミナは息をひそめ、階段の壁にぴたりと身を付けながら、もう一段、二段と降りると、壁際から様子を窺った。
 地下室は蝋燭の炎でうっすらと明るかった。この地下の二階は、ひとつの部屋になっているようで、いくつもの人影が、蝋燭に照らされてうごめいていた。
「なんとか言ったらどうだ!」
 男の鋭い声が上がる。おそらく、この屋敷の騎士か衛士であろう。
「お、俺は……ジャリアの残兵ではない」
 苦痛をともなった男の声がした。だが、それはハインのものではなかった。
「ウソをつけ!」
 騎士の怒声が地下室に響く。
 クリミナは思い切って、そろそろと壁から顔を半分を出して覗き見た。
 蝋燭の炎がゆらぐ地下室に、何人かの男が後ろ手に縛られて立っていた。ぼさぼさの髪にひげ面の、見るからに浪剣士か、ならずものめいた男や、ぼろぼろになった胴着をまとった乞食のような男……そして、
 クリミナは思わず、声を上げてしまいそうになるのをこらえた。
(ハイン……)
 その中にいた一人が、彼であることをクリミナは見て取った。ここからでは横顔しか分からなかったが、着ているものなどから、それがハインであることは間違いない。クリミナはぐっと唇を引き結んだ。
(落ち着いて……冷静になるのよ)
 拘束されているのはハインを含めて四人であった。地下室には、彼らを追及する騎士らしき男と従者らしき男が一人、それにテーブルの前に座り何事かを書き記す男がいた。
(あれは、書記のようね)
 ということは、ここに捕らわれた男たちの自白を書き写してでもいるのだろう。かれらは、おそらく、ジャリア人か浪剣士かと疑われ、捕らわれてきたのに違いない。よく見れば、全員が浅黒い肌に黒髪の男たちであった。ハインもまたそうである。
「主の厳命があるので拷問はできないが、次は軽くムチでも当ててやろうか」
 騎士はいらいらしたように言い、あたりを歩き回りはじめた。クリミナは慌てて階段の壁に身を隠した。
「お前はどうだ?」
 足音が止まり、騎士が別の男に尋問した。
「港の市門に入った時から、どうもジャリア人らしいということで、探りを入れていたのだが、そろそろ口を割ったらどうだ。丸一日飲まず食わずで、さぞかし腹も減っているだろう」
「……」
「調べでは、女と一緒だったという。その女はどこにいる?」
「……」
 クリミナは、またそろそろと壁際からそちらを覗いた。やはり尋問されているのはハインだった。
「なんとか言ったらどうだ。お前は口がきけないのか」
「知らぬ」
 ハインは低くつぶやいた。後ろ手に縛られ、立たされたまま、飲まず食わずでさらされていたのだろう。その顔はぐったりとうなだれている。
(なんとか、助けないと……)
 このまま出てゆくべきかどうか、クリミナは考えた。剣を持っているのは騎士一人だけである。このカリッフィの剣があれば、戦って勝つことはできる。
(でも……面倒なことになるかもしれない)
 ここで大騒ぎをするよりも、いったん戻って行って、ハインを助けるやり方をあらためて考える方がよい気もする。ともかく、ハインのいる場所は分かったのだから。
 考えていると、また頭がズキズキと痛んできた。
(こんなときに……)
 体調はずいぶん回復したように思えたが、まだ完全ではないようだ。急に走ったり隠れたりと、緊張の中に身を置いたせいもあってか、少し身体に疲れを感じる。
(やはり戦うのは、やめた方がいいかも……)
 体調が万全ではないと、どうしても心弱くなってくる。しばらくは剣の練習もできなかったので、久しぶりに実戦を戦えるのかどうかも不安であった。
(いったん戻って、どこかで休みながらまた考えましょう)
 この様子ならば、ハインの身にいますぐ命の危害が及ぶようなこともなさそうである。
(なんとか、我慢して。ハイン……)
そう思いながら、クリミナは足を忍ばせて階段を上がり始めた。
 だが、
 少しも上らないうちにすぐに足を止めた。
(誰か……来る)
 階段の上から通路を歩いてくる足音が聞こえた。こちらに近づいてくる。
(まずい……)
 上から降りてこられては、もう逃げ場はない。
 聞き耳を立てると、悪いことに足音は一人のものではなかった。
(二人……いや、三人か)
(どうする?)
 ここにいても、すぐに見つかってしまうだろう。戦って切り抜けるにしても、階段で挟み撃ちにされては勝ち目は薄い。
(イモの入ったカゴでも持っていれば、従者のふりでもできたのに……)
 そんなことを思ってもいまはもう仕方がなかった。階段を下りる足音は、どんどん大きくなってくる。
 そして、ついに暗がりの中から、騎士らしき人影がぬっと現れた。
「おや、そこに誰かいるのか?」
「……」
 こうなってはいたしかたなしと、クリミナは隠れるのをあきらめた。すたすたと階段を降りると、ハインのいる地下室に進み出た。
「何者だ、お前は」
 階段を降りてきた騎士たちが、鋭く声を上げる。地下室にいた騎士もこちらに気づいて振り返った。
「どうした?なんだそいつは」
「小姓か……いや、女のようだ」
 クリミナは背筋を伸ばし、堂々とそこに立っていた。顔を上げたハインがこちらを見ている。クリミナはそれに黙ってうなずいた。
「私は……そこにいる彼の供のものだ」
「なんだと?」
 ハインを指さし、クリミナは繰り返した。 
「彼は、怪しいものではない。トレミリアの騎士だ。彼を放してもらいたい」
「なにを言っている。トレミリアの騎士だと?」
「仲間の女ってのは、こいつのことか」
「いったいどこから入ってきやがった。忍び込んだのか」
 騎士たちは、クリミナを女だと安心したように剣を抜くことはせず、いくぶん面白がるように薄笑いを浮かべていた。茶色の口ひげを生やしたり、長い縮れ毛を肩まで垂らした、まだ若そうな騎士たちである。
「ついでに、この女も尋問したらどうだ。すぐに吐きそうだぞ」
「男のために忍び込んでくるってのは、よっぽど惚れてるのかね」
「だったら、この女をちょっと痛めつければ、男の方が降参するんじゃないか」
「なるほど、試してみるか」
 騎士たちはクリミナを取り囲むと、じわりと距離を狭めてきた。
「やめろ」
 後ろ手に縛られたハインが、こちらに向かって来ようとした。だが、すぐに騎士に押さえつけられて床に倒れこむ。
「ハイン!」
 気を取られた一瞬に、クリミナは後ろから腕をつかまれた。
「おとなしくしろ、この女め」
「くっ、手を離せ。無礼者が!」
 騎士の腕を振り払うと、クリミナはカリッフィの剣を抜き放った。
「こいつ、剣を持っているぞ。気を付けろ」
「女の分際で歯向かうか」
「だまれ。私に触れるのは、世界にただ一人だけだ!」
 怒りのまなざしで鋭く騎士たちを睨みつける。その目つきは、すでに誇り高き宮廷騎士のそれであった。
「下がれ、下郎!」
 その凛とした声に、騎士たちはいくぶん気圧されたようだった。
「なんた、この女……頭がおかしいのか」 
「従者か、騎士見習いか知らぬが、我々に歯向かえると思うのか」
「私は、トレミリアの騎士……」
 クリミナは、自分がなにを言おうとしているのか分からなかった。湧き起こる怒りと、そして誇りに、彼女はぶるぶると震えていた。
「私は、トレミリア宰相、オライア公爵の娘にして、宮廷騎士団長、クリミナ・マルシイなるぞ!」
 柳眉をつりあげて、わななく唇がその名を告げた。
 まるで空気が凍り付いたように、地下室は静まり返った。騎士たちは、なんと言ってよいか分からぬように、その顔を見合わせる。
「なんだと……」
「こ、こいつは、なにを言ってるんだ」
「ハインを、離せ……」
 頭がずきずきと痛んだ。剣を持つ手が、ひどく重たく感じられる。
「ハインを……」
 ぐらりと足元が揺らいだ。
 そのまま、倒れこむようにして、クリミナは意識を失った。

 どこからか、優雅な音楽が聞こえてくる。
(ここは……)
 花の香りのする寝台で、クリミナは目を覚ました。
 優雅なチェンバロか、あるいはフィドルのような音色が聞こえる。曲は……ワルツのような、ポルカのような。これは自分の頭の中で聞こえているのか。それとも、ただの気のせいだろうか。
(ああ、消えてしまう)
 その音楽は唐突にふっと消えた。
 慣れ親しんだ清潔なリネンの香り、やわらかな寝台には花の香水が振りかけられているのか。久しく忘れていた貴族めいた空気。
(もしかして、ここはトレミリアなのかしら)
 ぼんやりとした頭では、まだ夢を見ているような感じがあった。
(ああ、もしかしたら)
 これまでのことすべては夢で、自分はまだフェスーンの宮廷にいて、いまようやく長い夢から覚めたところなのだろうか。
 あの地下室での一幕も、ハインのことも。それにコス島の老人や、山賊のことも、あのすべては、夢だったのだろうか。なにもかもが……そんな気がする。 
(それならいっそ、)
 そうだ。コルヴィーノ王が暗殺されたことも夢ならばいい。レークがいなくなってしまったことも。ならば、草原のいくさそのものも……すべて夢であればいい。
 クリミナはそう考えながら、それでは、いま自分がいるのはどこで、どこまでが夢であって、どこからが現実だったのだろうと、またぼんやりと考えた。
(馬鹿ね……なんて都合のいい考えかしら)
 時間とともに、冷静な覚醒がやってくる。だが、それでいて、心の中ではまだ、つらかったことのすべてが夢であったならと、かすかに願う気持ちも残っていた。
「……よいしょ」
 寝台の上で体を起こしてみる。まだ少し頭痛がするようだ。それがかえって、ここにいる自分の存在を、確かな現実として知らされるような気分だった。 
 明かりが降り注ぐ室内には、他に誰もいない。寝台の横のテーブルには、上品に花の描かれた水差しが置かれている。
 クリミナは手を伸ばし、水差しから水を飲んだ。いくぶん頭がはっきりしてくる。
「……」
 あらためて室内を見回すと、壁際には見事な暖炉があり、その横には金細工が施された立派な長持ちが置かれている。そこには、洒落た部屋着や胴着などがたっぷりと入っているのに違いない。東方風の模様が描かれた絨毯は、位の高い貴族の屋敷にあるような品物で、もしトレミリアであったら、宮廷に住まう大貴族の屋敷でなくてはお目にかかれないだろう。天井は高く、明かり取り窓からは過不足ない光が差し込んでいる。掃除が行き届き、いかにも上品に整えられた、ここは貴族の客室であった。
(でも、ここはトレミリア……ではないわね)
 すでに、さきほどの地下室でのこともはっきりと思い出されていた。ここはアルディの大貴族が住まう山の手の屋敷なのだ。
(ハインは、どうしているのかしら)
 それが気になって仕方がない。なんとか寝台から立ち上がろうとしていると、ノックとともに扉が開かれた。
「あら、起きていらっしゃいましたか」
 部屋に入ってきたのは、若い女官だった。結いあげたブラウンの髪をリボンでまとめ、肩の膨らんだ黒の胴着に黒の長スカート、レースのエプロンをかけた可愛らしい姿である。
「あ、そのままにしていてください。ゆっくりとお休みになられますよう」
 花のような笑顔がまぶしかった。
「ありがとう。でも、もう大丈夫よ」
「いけませんわ」
 女官は寝台のそばまで来て、「失礼します」と、クリミナの額に手を当てた。やわらかな香水の香りがした。美しいレースのエプロンが目の前にあり、クリミナはいくぶん気恥ずかしくなった。自分はといえば、薄汚れた胴着に、男物の足通しという、とても女性とは思えぬ姿である。
(髪もぼさぼさだし、きっと肌も……荒れ放題だわね)
 この部屋には鏡台もあるようだが、そういえば鏡などはしばらく見ていない。
「お熱はもう、ほとんどないようですわね。でもご無理なさらないでくださいね。よろしければ、温かい飲み物でもお持ちいたしましょうか」
「あの……それよりも」
 クリミナは、まだ相手を信用してはならぬと、慎重に尋ねた。
「ここはどこなのかしら?それとハインは……私の連れはどこに」
「ここは、元大公さまのお屋敷です。いまは、主さまの別邸として使われています」
「主さま……」
 それが誰なのかと問うても、きっと答えないだろう。見かけは可愛らしいが、言葉遣いも物腰も、しっかりと訓練された女官のそれである。それになかなか頭もよさそうだ。
「お連れ様に関しても、私の口から申し上げることはできません」
「そう」
「申し訳ございません。でも、少しご気分がよくなられたら、主様のもとへご案内するように言われておりますので、すぐにお分かりになるでしょう」
「それなら、すぐに案内してください。いろいろ訊きたいので」
「いえあの、主様はいまはこの屋敷にはおられません。戻ってこられるのはきっと午後の二点鐘の頃かと」
「そうなの」
 クリミナはがっかりとした顔で女官を見た。だが、女官は愛らしい笑顔を崩さない。
「まだ午後になったばかりですから、もう少し、この部屋でお待ちくださいね。なにかお持ちするものはありますか?」
「いえ、いいわ……」
 そう言いかけて、クリミナは言い直した。どうせなら、この際、ずうずうしく世話になってしまおうとばかりに、
「あの、できたら、騎士が着るような胴着と足通しをいただけないかしら?」
「かしこまりました。でも、よかったら部屋にある服に着替えてはいかがでしょう。そちらの物持ちに入っている服なら、どれでもお使いになってかまいませんので。きっとお似合いですわ」
「そ、そう……」
 それから女官は、てきぱきと水差しの水を替えにゆき、クリミナが頼んだ騎士用の胴着と足通し、ついでに肌着も持ってきてくれた。
「なにかありましたら、そちらのベルを鳴らしてくださいね」
「ありがとう」
 そういえば、カリッフィの剣が見当たらなかったが、きっと尋ねてみても答えてはくれないだろう。いずれ、その主さまとやらに会った時に訊いてみればいい。
 女官が出てゆくと、クリミナは部屋に一人になった。部屋に鍵はかけられていないようだったが、きっと廊下には見張りの騎士がいるに違いない。武器もないし、ハインも人質にとられた格好では、無理をして脱出しようとするのは諦めた方がよかった。 
「仕方がないわね」
 クリミナは開き直ると、女官が用意してくれた新しい胴着と足通しに着替えることにした。胴着を広げてみると、金糸の刺繍がされた貴族めいた柄で、足通しも最新の流行を取り入れた、たっぷりとしたデザインで、足首のところできゅっと締まっている。これにブーツでも履けばきっと、アルディやウェルドスラーブ風のお洒落な騎士で通るだろう。
「なんとなく、私には似合いそうもないけど」
 その胴着に着替えるのを少しためらうと、クリミナは部屋にある大きな長持ちを開けてみることにした。腰掛にも使える衣装タンスであるが、庶民が使うものよりもずっと大きく、表面には宝石が埋め込まれ、豪勢に金細工があしらわれている。
「わあ、すごい……」
 開けてみると、そこには、若い貴族の女性が好みそうな色とりどりの胴着や、綺麗な柄の長スカートなどがたくさん重ねられていた。絹の白地に金糸で花柄を描いたような美しい胴着や、ケルメス染のビロードの長スカート、さらには真珠が散りばめられたサテンの胴着などなど。胸元が大きく開いた薄紅のローブを手に、クリミナは、自分がそれを着たところを想像して一人で赤くなった。
「トレミリアでは、こういうのも見慣れていたけれど、旅をしているうちにすっかり忘れてしまっていたわ。まあ、どれもなんて無駄に豪華で派手なのかしら」 
 それらのきらびやかな服を、とても着てみる気にはなれなかったが、そこはクリミナとて一人の若い女性である。
 薄紅のローブを手にすると、おそるおそる鏡台の前でそれを体にあててみる。
「そうね……まったく似合わないということはないわ。それに、思っていたよりも肌も汚れていないようだし」
 久しぶりに覗く鏡台に顔を近づけてみる。旅の間、水で顔を洗うくらいしかしていなかったが、二十歳の若い肌には、さして痛痒も与えぬらしい。フェスーンにいるときよりはいくぶん日焼けはしたものの、なめらかな肌をちゃんと保っている。
 鏡台にあった櫛で髪をくしけずり、もう一度そのローブを自分に当ててみると、案外そう悪くはない気がした。以前に山賊ガレムのアジトで見たような、略奪品のドレスやローブに比べても、ここにあるのはさらに上質で、品の良い感じのものばかりである。
「……」
 クリミナはずいぶんためらってから、身に着けていた胴着を脱ぎ始めた。長持ちの中にあった薄手のブラウスに袖を通し、その上にこの薄紅のローブを羽織ってみる。さすがに、足通しまで脱ぐのはなんとなくはばかれたので、本来は長スカートを重ねて履くところを、下は男ものの足通し姿のままでローブを身に付ける。
 鏡の前に映ったのは、華やいだ品のいいローブに身を包んだ、美しい女性であった。もっと髪が長ければ、結い上げたりしてさらに淑女めいた雰囲気になったであろうが、それは仕方がない。
「悪くないわね。ブラウスの生地もいいし、着心地がいいわ」
 やはり、もともとが高貴な姫君として生まれた身であるから、シルクやサテンなどの肌触りに慣れ親しんできたし、騎士の修業を始める前の少女時代までは、女性らしい恰好でいたのも事実である。それに、騎士になってからも、ごくたまに……宮廷の晩さん会などでは、仕方なくだがドレスに身を包んだこともあった。あのときは、人々の視線が気になって、とても嫌な気持ちがしたものだが、こうして着てみるとさほどのことはない。
(不思議だわ。昔ほどはいやな気がしない)
 男にまじって騎士として生きてきて、女らしいことはすべて捨て去ってきたと思っていたはずが、トレミリアを出て一人旅をしているうちに、逆に女性らしさへの嫌悪というものも薄れてきたのだろうか。それとも、はじめて男性を愛するという気持ちを知ったからだろうか。
(ふふ、この姿をレークが見たら、なんというかしらね)
 げらげらと笑うか、それとも照れながらでも褒めてくれるのか、なんとなくそれを知りたい気がした。
(やっぱり、胸がもう少しあればいいのにな)
 四角く胸元が空いたローブであるから、どうしてもそこに目が行ってしまう。痩せすぎというほどではないが、無駄な肉があまりないほっそりとした体形のクリミナである。
(剣を振るう筋肉はけっこうあるのよね)
 胸元や腕を自分で触ってみながら、鏡の前で体をひねったりしてポーズをとる。そうしているところは、騎士を志してきた彼女とてやはり、女としての花盛りを迎えようとする二十歳の娘であるのだった。
「失礼いたします」
 ノックとともに扉が開かれると、クリミナはあたふたと鏡の前から離れた。
「いかがでございますか……あら」
 さきほどの可愛らしい女官が、クリミナを見るやいなや、その手を組み合わせた。
「素敵でございます。とてもよくお似合いでございます」
「そ、そう……」
 人に見られる前に脱いでしまおうと思っていたのだが、薄紅のローブをまとった彼女は、内心の照れを隠そうとばかりに、優雅に微笑んでみせた。
「まあ、なんてお似合いなのでしょう。どこから見ても高貴な姫君のようですわ」
「あの……」
 すぐに着替えたいので出て行って欲しいとも言えない。
「それに、まあっ」
 困っているクリミナを見つめながら、女官はこちらに歩み寄って、さらに驚きの声を上げた。
「なんてすてきなんでしょう。斬新ですわ」
 上から下までクリミナの姿を見て、感嘆したように言う。
「男性ものの足通しを下に履いたまま、その上からローブを羽織るなんて。そんなファッションは考えもしませんでした」
 それはそうだろうと、クリミナは内心で思った。女性もののローブというのは、長スカートのように足元までふわりと広がっているのだが、その前の部分は開いていて、普通はそこから下に履いたスカートが見えるようになっているのだが、いまのクリミナの場合はそこから足通しが見えているので、まるで男装の麗人というか、男性と女性の中間のような不思議な恰好になっていたのである。
「こんな着こなしをなさる方というのは、いままで見たこともございません」
 心の底から驚いたというような女官に、クリミナは苦笑いしながら言った。
「着こなしって……ただ、足通しを脱ぐのが面倒だったから……」
「ああ、素晴らしいです。お美しいし、それに凛々しいし」
 困り果てるクリミナなどにはかまわず、女官は続けて賛辞を述べた。こんなことに感銘を受け、頬を染めつつ両手を組み合わせる様子は、まるで夢見る少女のようである。実際にもクリミナよりも年下の、十代の少女なのだろうが。
「あの……もう、いいかな。そろそろ脱ぎたいのですけれど」
「ええっ」
 残念そうに声を上げた女官に、クリミナは言い訳じみて言った。
「持ってきていただいた胴着が、少し……派手だったので。こちらを試してみたのだけれど、やっぱり私には似合わないと思うので」
「そんなことございませんわ。誰がなんと言おうと、とてもお似合いです!」
 大きく首を振る女官の剣幕に、クリミナは少し辟易して後ずさった。
「そ、それはどうも……」
「ああ、申し訳ありません。つい興奮してしまいまして」
 クリミナは苦笑しつつ思い返した。そういえばフェスーン宮廷では、こういう若い女官から、よく過度に敬愛の情を示されたものだ。
(そうそう、オードレイは元気にしているかしら)
 自分を慕ってくれた、可愛らしい女官の姿が、なんとなく目の前の女官と重なる。
「ああ、そんなお姿で見つめられたら……私」
 勘違いした女官がうっとりとして、クリミナを見つめ返す。
「あの、よかったら、お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「ク、クリアナです」
「素敵なお名前。クリアナさま……。わたくしはレナと申します」
「そ、そう。レナ……よろ、しく」
「ああ、その凛々しいお姿で名を呼ばれると、とても、とてもおかしな気持ちになってしまいます」
(これは、まずいわね……)
 クリミナの方は、こういう娘への対応はそれなりに慣れてもいたので、かつてを思い出すように、少しだけ男性めいた口調で切り返した。
「それでレナ。訊いてもいいかな」
「は、はい」
「私はいつまでここにいればいいのかな」
「ああそうでした」
 女官はいくぶん気を取り直したように、従順に答えた。
「じつは、主さまがお屋敷にお入りになったので、私はそれをお伝えに来たのでした」
「そうなの。それは思ったよりも早くてよかった」
「はい。では、さっそくまいりましょう。ご案内します」
「いや、ちょっと待って。この服を脱ぎたいのだけど」
「どうしてでございますか?よろしいではございませんか」
 女官がまたにじり寄ってきた。
「いや、恥ずかしいから……」
「いいえ。そんなことはございません。とても素敵でございます」
「でも……」
 まさか、この恰好で屋敷の主と会うなどとは、心の準備もしていない。
「やっぱり、騎士の胴着に着替えないと、失礼にあたるのでは」
「クリアナさまは女性でいらっしゃいますでしょう。そのお姿がぴったりとお似合いですし、もっと言えば、足通しを履いていらして、騎士らしい一面もさりげなく覗かせておられる。そのお姿こそ、主さまにお見せするべきかと」
「ええと……」
 クリミナは本格的に困ったように女官を見ると、また自分の姿を見下ろして、口元をゆがめた。笑いたくなるほど困ったというのは、いったいいつ以来だろう。
「さあ、ゆきましょう」
 女官が手をとって引っ張ろうとする。なんという積極的な娘だろうと、クリミナは思った。オードレイだってここまでではなかった。
「ご案内いたしますわ」
「わ、分かったから。手を放して」
 クリミナは諦めたように言った。考えようによっては、多少は女らしい恰好をして屋敷の主に会えば、あるいはハインのことも含めて、寛容な扱いを受けられるかもしれない。
(もう、なるようになれ)
 半ば観念して、女官について回廊を歩き出す。大理石の床は掃除がゆきとどき、ぴかぴかに磨かれていた。ときおり、他の女官や小姓らとすれ違うと、クリミナは恥ずかしそうにうつむいた。こういう恰好をして人前を歩くなど、騎士となってからはめったにないことであった。
 廊下の壁には、アルディの港の風景や貴族らしき人物などが描かれた絵画が飾られていて、窓からは潮の香りを含んだ風とともに、青々とした海の色が目に飛び込んでくる。屋敷の階段を上がると、途中にある踊り場の窓からは、赤茶色の屋根をした塔がすぐ近くに見えていた。この屋敷に来るときにも見えた、歴史を感じさせる見事な尖塔だ。
(たしか、あそこに元大公妃が軟禁されているとか)
 そのとき、開いた窓から、ふと楽器の音色が聞こえてきた。夢心地で聴いたあの優雅な音色だ。
「クリアナさま、さあこちらです」
 足を止めたクリミナに、振り向いた女官が手招きする。
 三階に上がり、また廊下を歩いてゆく。このフロアに来てからは、騎士の数が少し増えたように思えた。その主様という者の護衛なのだろう。
「こちらのお部屋です」
 奥まった突き当りの扉の前に、剣を吊り下げた見張り騎士がいかめしく立っていた。騎士はクリミナをじろりと見たが、それきりなにも言わなかった。
「お客人をお連れいたしました」
 女官が扉越しにそう告げると、ややあって中からいらえがあったようだ。女官はしごく丁重に扉を開けると、クリミナをうながした。
「どうぞお入りになってください」



次ページへ