7/9ページ 
 

 水晶剣伝説 XI デュプロス島会議


Z

「それでは、これで本会議の大きな議題については、すべて決定をみたということになります」
 半刻ほどののち、テーブルには書記のハイケンが書き上げた羊皮紙がずらりと並べられていた。
「これらの文面になにも異存がない場合は、みなさま、どうぞ席よりお立ちいただいて、その意志を示しください」
 セイトゥの言葉を受けて、いち早くウィルラースが立ち上がる。続いて、トレミリアのレード公、ブロテが、さらにはウェルドスラーブのトレヴィザン、セルムラードのバルカス伯が立ち上がった。エルセイナの姿はまたいつのまにか消えていた。ただ、黒髪の宰相は立ち去る前に、バルカス伯になにか耳打ちをしていったので、バルカス伯の賛同表明は、エルセイナの代理と受け取れた。
 それから、いくぶん仕方なさそうな顔つきで、アナトリア騎士団のグレッグ・ダグラス、レクソン・ライアルが立ち上がった。かれらにとっては、ジャリアの北半分の統治権を認めさせたことは、大きな勝利といってよいものだったろう。なにしろリクライア大陸の歴史上初めて、ただの一騎士団が大国の実質的な支配権を握ったのだ。
 人々を見回して、最後に立ち上がろうとしたのはフサンド公王だった。だが、横に座る微動だにしないアスカの将軍に、ぎょっとしたようにまた座り直した。おそらく、立場的、身分的にも最後の最後に立ち上がって、重々しく議決を承認することが己の役目と思っていたのかもしれないが、そんな公王の思惑をよそに、ディークは腕を組んだままでぴくりとも動こうとはしなかった。
「ザース・エイザー将軍、なにか、ご不明な点でもおありでしょうか」
 おそるおそる、セイトゥが声をかける。長い会議の最後にきて、また何か面倒事が起こるのではないかと、はらはらするように。
 立ち上がった人々の視線を一身に受けながら、アスカの将軍は静かに言った。
「これは、マール・ジェイス殿下のご意向であり、すなわち帝国アスカの意志と思ってもらってけっこう」
「……」
 他に誰も声をあげるものはなかった。大国アスカの意志が、このデュプロス島会議の決定事項にどんな異論を突きつけるのか、ウィルラースも、トレヴィザン提督も、レード公も、誰もがぐっと息を飲んだ。
「ジャリアの首都、ラハインをアナトリア騎士団が統治するという件について」
 アナトリア騎士団のグレッグ・ダグラスが、いくぶん顔をこわばらせた。
「そこに、異論がおありですか」
 いまさらというような顔をしたセイトゥに、ディークの鋭いまなざしが飛んだ。
「それは置くとして、もうひとつ、これは譲れぬものがある」
「それはなんでしょう」
 人々がほっとしたのもつかの間だった。ディークの発した次の言葉に、誰もが仰天した。
「我々はアナトリア騎士団に対して、ジャリアの第一王女、シリアン・ヴァーレイの身柄の引き渡しを要求する」
 一瞬、人々はその意味が分からずに静まり返った。
「な……なんだと?」
 グレッグ・ダグラスも、言葉を失ったようにしていたが、絞り出すように言った。
「それは……どういう意味だ?」
「言葉通りの意味である。第一王女、シリアン・ヴァーレイの身柄を引き渡すことを条件に、アスカはアナトリア騎士団のラハインの統治権を認める」
 人々は、いったいどう考えていいものか分からぬように、立ったまま互いに顔を見合わせた。ここにきて、ジャリアの王女、シリアン・ヴァーレイの名前が出てくるなど、思いのよらぬことだったのだ。
「シリアン・ヴァーレイ……あの王女か?」
 グレッグは、口の中で確かめるようにつぶやいた。
「何故だ。アスカにいったいどのような権利があって、そんな要求をする」
「そうだ。アスカは、いわばこのたびのいくさにおいては完全な部外者だろう。そのような突拍子もない要求をする権利はない」
 副長のレクソンも一緒になって、理不尽な要求に対する不平を口にした。それはおそらくもっともな言い分であった。たとえ、アナトリア騎士団が卑劣なやり方でラハインを占拠し、王女の身柄を確保したとしても、それをいくさと関わりのないはずのアスカが、あとから渡せと言う方が道理に合わない。
「それを、我々が拒否したらどうなる?」
「拒否はできない」
「何故だ!」
 グレッグは眉を吊り上げた。
「なぜなら、」
 ディークは淡々と告げた。
「シリアン・ヴァーレイは、アスカの血をひく王女であるからだ」
「な……なんだと?」
 グレッグは、ぽかんと口を開けると、今度は思わず笑いだした。
「なにを……なにを馬鹿なことを」
「アスカの血を引く王女……」
 その初めて聞く情報を、どうとらえていいものか分からずに、人々は困惑の表情で顔を見合わせた。
「そんなことは、きいたこともない」
「ジャリアのサディーム王は、生粋のジャリア人のはず。その父である、サンディーム王もそうだった。王妃のエレノアにしても、たしかジャリア国内の貴族の血筋。であれば、二人の王女、シリアン、メリアン王女もまた……」
 トレヴィザン提督も、ウィルラースも、これには首をひねるばかりだった。
「そのようなでたらめを申して、つまりは我々、アナトリア騎士団のジャリアの統治を認めぬつもりか」
 グレッグは怒りをあらわに、ディークに向かって指を突きつけた。
「いくら大国の将軍といえども、くだらぬ嘘で我らを愚弄することは許さぬぞ」
「嘘は申していない。私はただ、マール・ジェイス殿下のご意向を伝えただけ。そちらこそ、うそやでたらめと申して、我が殿下をおとしめるのなら、許すことはできぬ」
 椅子を吹き飛ばすように立ち上がったディークに、横に座っていたフサンド公王は、体をのけぞらせて席からずり落ちた。あわてて従者が走り寄って手助けする。
「ザース・エイザー閣下も、グレッグどのも、ひとつ冷静に」
 ウィルラースがとりなそうとするが、効果はなかった。
 グレッグはずいと進み出ると、
「なんなら、外に出て、剣でかたをつけてもよろしいが」
「やめておけ」
 ディークは肩をすくめて言った。
「私に勝てる人間は、この大陸にはおらぬ」
「ふん、面白い」
 にやりと獰猛な笑みを浮かべると、グレッグは腰の剣に手をかけた。
「大国の上であぐらをかいでいる将軍様に、実戦で鍛えている我々との、違いを見せてやる」

 それより少し前のデュプロス城の内郭……
 城壁に囲まれたその中庭では、会議に参加する各国の代表に帯同してきた一般クラスの騎士たちや、見習い、従者たちなどがそれぞれに食事をし、酒を飲み交わしていた。
 かれらの寝床になるようにと、囲われた城壁にそって簡易の小屋が建てられ、騎士たちはそこで夜を明かしたのである。小屋に入れなかった見習いや従者などは、藁の寝床で一晩を明かしたのだが、彼らにはそれで充分であった。冬が通りすぎるには、もうひと月以上はかかったろうが、南海のこの島は大陸よりはいくぶんは温暖であったので、風を防いでくれる城壁があれば、夜であっても凍えるような寒さではなかった。
 トレミリア、セルムラード、ウェルドスラーブなど、各国の騎士たちは、昨日の間はそれぞれの国ごとに規律よく食事をとり、時間を過ごしていたが、二日めとなる今日は、さすがに待ちつづける退屈もあって、他の国々の騎士たちと混ざり、一緒になって食事をし、酒を酌み交わして、談笑するようになっていた。
 城での晩餐に比べれば、食事はごく質素なものであったが、肉とスープ、それにワインがあれば誰も文句は言わなかった。ウィルラースをはじめとする主催側のしっかりとした用意もあって、パンが足りなくなることや、肉やチーズが行き渡らないなどということもなかった。それぞれの国へのつきない興味から、かれらは互いの国についての自慢や、いくさの武勇伝などを話して、それを肴に酒を飲み交わした。とくに、一緒に戦ったセルムラードとトレミリア、トレミリアとウェルドスラーブの騎士たちは、同じ戦場にいた同志と知ると、すぐに打ち解けて会話も弾んだのだった。
「おお、おぬしはあの、スタンディノーブル城にいたのか」
「ああ、ブロテ閣下のもとで、城の防衛を担当していた」
「あれは、大変な戦いだったなあ」
「まったく。こうして生きて国に帰れるとは思わなかった」
「いつ死んでもおかしくなかった。ジュスティニアのご加護だ」
「それに、援軍を呼んでくれたアルーズどののおかげだな」
「そうさ。アルーズどのはこの会議にも、トレヴィザン提督とともに参加されている。だからさ、俺も志願してやってきたのよ」
「俺はトレヴィザン提督と海戦を共に戦っていた。提督は見事に勝利され、ウェルドスラーブを取り戻された。あの御方についていけば間違いはない」
「そうとも。トレヴィザン提督万歳!」
「なんの。我らがブロテ騎士伯閣下だって、負けてはおらぬぞ。スタンディノーブル城から、首都のレイスラーブ、そしてロサリート草原と、まさに東奔西走のご活躍だ」
「たしかにな、あまり目立たないが、さしずめ、このたびのジャリアとの戦いの最優秀戦士ってとこじゃないか」
「ブロテ騎士伯閣下、万歳!」
「待てよ、待てよ。それなら、レーク・ドップどのもだろう」
「ああ、たしかに」
「あの方こそ、英雄と言うにふさわしい戦いぶりだった」
「まさに、あのスタンディノーブル城での城壁の戦いは、鬼神のようだったな」
「それに、草原では、決死隊を率いて、ジャリア軍に突入して、あの黒竜王子を討ったというじゃないか」
「それは、定かではないようだがな。たしかに、勇敢なお人だった」
「いや、俺は信じている。決死隊で奇跡的に生き残ったやつに聞いたんだ。レークどのがその手でジャリアの王子を倒したと」
「本当かよ?」
「本当さ。それにあの方はさ、レード公やブロテどの、それにトレヴィザン提督や、あのウィルラースどのとも親しいっていうじゃないか。すごいお人だな」
「ああ、でもさ、死んじまったんだよな」
「まだそう決まったわけじゃない。どこかで生きているかもしれないさ」
「ああ、そうだな」
「レークどの万歳!」
「勇敢なるレーク・ドップに乾杯!」
 騎士たちは杯をかかげて、口々に自分たちの崇拝する英雄たちの名を呼んだ。
「ローリング騎士伯の魂に!」
「勇敢なるガウリン騎士伯に!」
「フレアン伯に!」
「我が隊長だった、アルトリウス騎士伯に!」
 次々に杯があげられ、騎士たちはワインを飲み干した。かれらは、各国代表の護衛役として選ばれた精鋭の騎士たちであるから、そこらのごろつきのように品悪く酒盛りをするようでもなかったが、それでもずいぶん酒が回ってきたとみえ、その声を大きくして亡き英雄をたたえ、なかには涙ぐんだりするものもいた。
「女王陛下の戦士として戦い抜いた、遊撃隊隊長、リジェーネ・ガーランドに乾杯!」
 声を上げたのは、男たちの中に一人紛れ込んでいた女戦士であった。薄い金色をした長い髪に、白い肌の美女ということで、彼女の存在はここにいる百人以上の騎士や見習いたちの中でも、ひどく目立つ存在になっていた。
「リジェ姉ー!なんで、死んじゃったのおぉ!」
 それはセルムラードの現遊撃隊隊長、ガーシャであった。いくぶん、というか、もうずいぶん酒に酔っているようだ。うっすらと頬を赤くした彼女の横顔を、周りの騎士たちは惚れ惚れとするように眺めた。
「そうだ。リジェどのこそ、我がセルムラードの誇り!」
 同じセルムラード人の特権とばかりに、横にいた若い騎士が声を上げる。かれらにとって、女ばかりの遊撃隊というのは、女王に直接仕える特別な存在であったので、普段は近しく接する機会もなかったのである。セルムラードの首都、ドレーヴェでは、リジェやガーシャなどの姿を遠目に見ることはあっても、こうして直接に言葉を交わすというのは初めてだったに違いない。
「そうでしょ。リジェねえは、サイコーの戦士だった」
「優しくて、キレイで、私の憧れだったのよ……」
 そう言ってぽろぽろと涙を流すガーシャをなぐさめようと、我先にと騎士たちが声をかける。
「うむ。リジェどのはまこと残念だった」
「いまは、ガーシャどのがこうして新たな隊長となったのだから。我々は、ガーシャどのを応援するぞ」
「そうだ」
「遊撃隊万歳!セルムラード万歳!」
「女王陛下と、ガーシャどのに美しき未来あれ!」
 崇拝者たちの言葉に気をよくしたガーシャは、置かれたワインの樽から、騎士たちの杯にワインを注いでやり、各国それぞれの騎士たちと杯を重ねた。
「仲良くしましょう。もういくさはイヤ」
「そうとも。ガーシャどのの言う通り」
「我々が平和を守ってゆきましょう!」
「自分も、あらたな大陸の秩序とともに、平和と友好を守ってゆきますぞ」
「バカ、それは会議をしているお偉方の仕事だろ」
 騎士たちが笑い合う。
「まあ、いいじゃないか」
「おう、リクライア大陸の平和に!」
 トレミリアの騎士も、ウェルドスラーブの騎士も、セルムラードの騎士も、それに集まってきたトロスの騎士たちも、一緒になって杯をかかげた。
「はっ、なにが大陸の平和にだ」
 なごやかに酒を飲み交わすそんなかれらを、うろんそうに見ているものたちがいた。
「まったく、とんだ甘ちゃん連中だぜ」
 少し離れたところで集まっているその二十人あまりの騎士……それがトレミリアやセルムラード、ウェルドスラーブの騎士とは、一目で違うことは明らかであった。かれらが着ているのはそろいの革の鎧と、ライチョウを模した白い十字り紋章が入った深緋色のマントで、全員がよく鍛えられた均整のとれた体つきをしていた。なかには、ぼさぼさに伸びた髪を背中までたらしたものや、あごひげを無精に伸ばしたものなどもおり、片手に剣を、片手にワインの杯を持ちながら、いますぐにでも戦いに赴けるというような鋭い目つきで、獰猛そうな笑いを浮かべている。かれらは、アナトリア騎士団の騎士たちだった。
「おぼっちゃんの、騎士さんたちさね」
 一人が馬鹿にしたように言うと、他のものたちがげらげらと笑いだす。その様子には、明らかに貴族の騎士とは異なるもの、ありていにいって下品なところがあった。どちらかというと、それは傭兵や、浪剣士の部類に近い雰囲気であったろう。
「どうよ、べっぴんのねえさん、こっちで俺たちと一緒に飲まねえか?」
 かれらの一人がガーシャに向かって声をかけてきた。
「そんなへっぽこなやつらよりはよ、俺たちの方が、本物のオトコってやつを、教えてやれるぜえ」
「そうそう。へっへへ、勇ましい男の体をよ、たっぷり教えてやるぜ」
 下品な言葉と笑い声を、トレミリアやセルムラードの騎士たちは、なるべく関わらぬように無視していたが、酒に酔いはじめていたガーシャは我慢がならないように、きっと彼らの方を睨んだ。
「下郎が。女王陛下に仕える、誇り高き遊撃隊に向かって、そのような下劣な言葉をかけてよいと思うか」
「ガーシャどの、やつらとは関わらぬ方がよい」
「そうだ。あんなごろつきのような連中のことは、放っておけばよいのだ」
「おっ、へっぽこ騎士さんたちがなにか言っておられるぜ」
「へへへ、きっと、早く国に帰ってママのおっぱいでも飲みたいってんだろう」
「そりゃいいや!」
 げらげらと野卑な笑い声が上がる。
「無礼であろう。我らへの侮辱は許さんぞ」
 たまらずトレミリアの騎士が声を上げた。すると、アナトリア騎士たちがどっと湧き返る。
「へっ、どう許さんってんだ?」
「面白え。なんなら、この場でやるか」
 かれらの何人かが、立ち上がって腰の剣に手をやった。獰猛そうなゆがめた口元で、こちらを威嚇するかのように、一歩、二歩と踏み出してくる。
「我らは、主の供としてここに来た。無用ないさかいをするためではない」
 トレミリア騎士が言った。その言葉の通り、それぞれの王国の騎士たちは、主の命令がなければ戦うことは許されない。それは喧嘩まがいの戦いをする浪剣士などとは、まったく異なる立場であり、王国へ捧げる騎士としての誇りがそこにあった。
「腰抜けが」
 アナトリア騎士は見下すように言うと、ぺっと唾をはいた。かれらはまた、座り直しててんでに酒を飲み始めた。
 同じ騎士あっても、貴族として王に仕えるものと、そうではない、いわば自由人としての剣士の集団とは、根本的に生き方も価値観も違う。真の意味で両者が分かりあうということは、城の会議場でも、部下たちの酒の場でも、難しいことのように思われた。

「そろそろ、会議が終わるころかしら。ちょっと見に行ってくるわ」  
 ガーシャは杯を置いて立ち上がった。騎士たちと別れると、城の方へ歩き出す。
 日差しはもうずいぶん西に傾いていた。
 今日もここに泊まることになるのだろうか。食料や寝床はあるとしても、周りが男ばかりという環境は、普段は女だけの遊撃隊にいる彼女にとっては、さすがにあまり落ち着くとは言えないものだった。
(もうすぐ夕暮れね……)
 城の広間へ向かうつもりだったのだが、なんとなく海が見たくなった。
(ちょっと寄り道しても、かまわないわよね)
 城門から外へ出ると、ガーシャはひとり、海側へ続く歩廊を歩いていった。
 内陸の国であるセルムラードで暮らす彼女にとっては、めったに海を見る機会はない。実際に、エルセイナのお供として南海の海に出て、こんなに遠くまで船でやってきたのは初めてのことだった。もちろん、川を下る船に乗ったり、川でボートを漕いだことは何度かあったが、このように広大な海を見晴らせる島へなど、やってきたのは生まれて初めてだったのだ。
「風が気持ちいい。それに潮の匂いも」
 歩廊から見下ろす景色は素晴らしいものだった。今朝立ち込めていた白い霧はすっかり晴れて、青い海がどこまでもどこまでも広がっている。
「きれい」
 ずっと見ていると吸い込まれそうな気持ちがした。
 傾き始めたアヴァリスの陽光が、海面をきらきらと照らし、うねるような波が、まるで生き物のようにゆるやかに動いている。ざざーん、ざざーんと、並の音が上がりつづけ、ときおり白いカモメが視界の中を飛んでゆく。
「大きいなあ。すごいなあ……海って」
 ガーシャは飽くことなく、水平線まで広がる青い海原を眺め続けた。沿岸の国であるアルディのウィルラースのもとへ行ったアドも、はじめのうちはこうして、珍しそうに海を眺めていたのだろうか。
「きっとそうに違いないわね。あのクールなアド姉だって。だって、こんなにきれいなんだもの」
 右手の方に目を向けると、海の向こうにうっすらと陸地が広がっているのが見える。このデュプロス島は、位置的にはアルディの南東にあるのだ。
「ということは、アルディの方からも、この島を眺めることができるのね。ステキ……」
 ガーシャは、幼いころからセルムラードで育ち、騎士見習いをしながら剣の腕を磨いてきた。これまで首都のドレーヴェを離れることなどは、ほとんどなかった生活であったので、異国の地で暮らすというのがどういうことなのか、ふと想像してみる。
(こういう、いつも海が見えるような国で過ごすというのは、どんな気持ちなのかしら)
 潮の香りを感じながら目を覚まし、海に沈んでゆくアヴァリスをのんびりと見つめ、波の音を聴きながら眠りにつく。それは、とてもロマンティックな生き方に思われた。実際には、そんなに優雅に過ごせるはずはないとしても、ときどきこうして海を見ているだけで、穏やかで大きな気持ちになってゆくのは確かな気がする。
「いいなあ……」
 心地よい海風に髪をなびかせながら、セルムラードの女戦士は、しばらく楽しい空想にひたった。こうしていると、リジェが死んだ悲しみも、少しはやわらいでゆくようだった。
「私も、頑張らないとね。リジェ姉にも、アド姉にも、負けないように」
 大きく息を吸い込むと、それとともにまた、己の中に力が湧いてくる気がした。
(そろそろ戻ろうかな)
城に向かう歩廊を歩きだしたときだった。前方から歩いてくる人影があった。
「……」
 相手の姿が近づくと、ガーシャは本能的に表情を引き締めた。
 狭い歩廊の真ん中を、こちらを邪魔するように歩いてくるその男が、ただ海を見に来たのではないことは明白だった。振り返ると、どこから回り込んだのか、後ろからも歩いてくる男の姿が見えた。そちらもアナトリアの騎士であることは賭けてもよかった。
「よう、べっぴんの女戦士さん」
 すぐ目の前まできた男が、そう言って、にやにやと笑いを浮かべた。ぼさぼさに黒髪を伸ばした背の高い男だった。さきほどのアナトリア騎士団の連中に、この顔がいたことをガーシャはすぐに思い出した。
「城に戻りたいの。そこをどいてくれる」
「いいじゃねえか。まだよう」
 ガーシャの言葉に、相手はいっそういやらしい笑いを浮かべた。
 明らかに後をつけてきたのだ。軽く振り返ると、後ろから近づいてくるもう一人は、髪を剃り上げた巨漢の男だった。こいつも見覚えがある。
「……」
 ガーシャは剣を抜くかどうか迷った。ここで、自分から相手に斬りかかれば間違いなくこの場は逃れられる。だが、命令も受けないまま他国の騎士と戦ってしまっては、セルムラードの代表としての立場から、バルカス伯やエルセイナを困らせることになろう。
(剣なしで、やれるか……)
 前にいる相手は、ほんの数ドーンの距離だ。剣の間合いぎりぎりで立ち止まったのは、さすが実戦経験のある騎士なのだろう。
「へへへ」
 男はぺろりと唇をなめ、身構えるガーシャの体にいやらしい視線を注いでいる。
(はさまれる前に……突破するしか)
「こんな美人が、剣士やってるのはもったいねえなあ」
「それは、どうも」
 おそらく、こちらが剣を抜いても、この距離ならかわせる自信があるのだろう。 
「やめときな。俺たち、アナトリアの騎士を二人相手にしちゃ、いくらアンタが強くても無理だ」
 男は、じりっと一歩、間を寄せてきた。後ろからは、もう一人が近づいている。
「そこを通してよ。私は会議にゆかなくてはならないの」
 無駄だと知りつつ、語調を強めて言う。だが、男はにやにやとしながら首を振った。
「もうちょっと、ここにいようぜ。なあ、俺たちと一緒によ」
「いやよ」
 もはやこれまでと、ガーシャは男を突き飛ばして駆け抜けることに決めた。
「やっ!」
 剣を抜くフリをして相手を驚かせ、その隙に横をすり抜けるつもりだった。だが、男は、動きにつられることなく、走り出そうとしたガーシャの胴に腕を回した。
「あっ」
 身じろいで男の手をもぎはなすと、ガーシャは仕方なく剣を抜いた。
「やめておけ。後ろからも来てるぜ」
 男の言う通り、すぐ背後には、巨漢の男が両手を広げていた。
「へへへ。逃げられないぜ、おじょうさんよ」
「くっ」
 男はガーシャよりも頭ひとつも大きい。力ではかないそうもない。
 相手が一人であれば、剣では負けるはずもない。たとえ斬らずとも相手に戦意を喪失させるくらいはできる。だが、手練の騎士が二人相手では、手加減などはできない。どちらかが、命をかける戦いになってしまう。
「いいのかい。こんなところで戦っちまってよ。女王陛下から怒られちまうじゃないのかい?」
「おとなしくしていりゃよ、ちっと可愛がってやるだけで済むんだぜ」
 欲望によどんだ目つきで、二人の男はガーシャの体に視線を落とした。細すぎるほどに細いアドとは違って、彼女には女性らしいふくよかさが備わっている。決まった恋人はいないが、処女ではなかった。国に戻ればは好きな男もいる。
(こんなやつらに……) 
 弄ばれるくらいなら、戦って死んだ方がマシだと思った。だが、遊撃隊の隊長として、エルセイナのお供として、ここにやってきた自身の立場が、まだ彼女に抑制をかけていた。
「なあ、あんただってよ、俺たちみたいな逞しい男に抱かれたいだろう」
「ごめんだね。私にだって、好みってのがあるんだから」
 威勢のいいガーシャの言葉に、男たちはむしろ嬉しそうに笑みを浮かべる。
「そりゃつれないねえ」
「そこをおどき。いますぐに通せば、なにもなかったことにするよ」
 剣を構えたまま、できるかぎりの凄味をきかせて男を睨む。こうしたとき、リジェであったらきっと、もっと強い意志の力で相手をひるませたかもしれない。
(まだまだ、だな、私は……)
 ふっと息をはいた。そのとき、男が飛び込んできた。
 剣を振り下ろすかどうか、ガーシャは一瞬だけ迷った。
 それがいけなかった。
「あっ」
 背後から両腕をつかまれていた。
「くそっ」
「ようし、いいぞ!」
 もぎはなそうとするが、巨漢の男の腕力は相当なものだった。 
「う……」
 ひねるように強くつかまれ、しだいに腕の力がなくなってゆく。握っていた剣がぽりと落ちた。
「おとなしくしてな。ねえさん。すぐにいい気持ちにさせてやるからよ」
「やめろ……」
 男たちの息が首もとにかかると、ガーシャは嫌悪に震え、身じろいだ。
「あきらめな。前から後ろから、よくしてやるからよ」
 ローブを脱がそうと、男の手がガーシャの体をまさぐる。
「おや、懐になにか入っているな……」
 男がローブの中から引き抜いたのは、紐で縛られた羊皮紙だった。
「こいつは……」
「やめろ。それを返せ……それは陛下からの」
 ガーシャはあわてて口を閉じた。男はにやりと笑った。
「ほう。セルムラードのフィリアン女王の書簡か、そいつはすげえ」
「返せ。それを……」
 必死にもがくガーシャの前で、男は紐を解き羊皮紙を広げた。
「どれどれ……モノによっちゃあ、大手柄だぜ。どんな機密文書なのか」
「やめろ。やめろお!」  
 それは、女王から直々に、くれぐれもウィルラースに直接届けるようにと頼まれたものだった。己の命にかけても、その使命をまっとうしなくてはならない、大切なものだった。
「読むな……やめろ」
「なになに……はん、なんだコリゃ?」
「貴方への思いを込めて……ここにあのときの約束を、」
「私の心は、いっときも変わることなく、マージェリのともす炎のように……こりゃ、まるで、恋文みたいだな」
「面白え。もっと読んでくれよ。女王さまの恋文をよ」
 げらげらと二人の男が笑い声を上げた。
「く、そっ!」
 男の力が一瞬ゆるんだとみて、ガーシャは体を思い切りよじると、男の腕をもぎはなした。そのまま、前にいる男に体当たりをする。
「うおっ」
 男がたまらずよろめいた。
 ガーシャはすかさず剣を拾うと、男の手から羊皮紙を取り返そうとした。だが、そうするまでもなく、男は羊皮紙を放り出し、剣を引き抜いた。
 ふわりと風に乗って、羊皮紙は崖の下へ舞い落ちた。
「ああっ」
 ガーシャは、歩廊の壁に飛び上がった。下を見ると、羊皮紙は風に舞いながら、ひらひらと海に向かって落ちてゆき、やがて見えなくなった。
「ああ……陛下の手紙が」
 港からも離れた岩場であるから、あそこまで降りてゆくことはとてもできない。
 ガーシャは呆然と、眼下の断崖を見下ろした。
「おい、ねえさん。いいじゃねえか。そんな手紙なんかさ。それより、俺たちと」
「黙れ!」
 ガーシャは炎のような目で男たちを睨み付け、歩廊に飛び下りた。
「おっ、やるってのか……」
 最後まで言わせる前に、ガーシャは飛び込んでいた。
 ガシーン、と剣が合わさる音が響き、またたくまに、男の手から剣が吹き飛んでいた。
「う……」
「まだ、やるか?」
 ガーシャのすさまじい気迫は、男たちにも伝わったようだった。もとより、まともに相手をすれば剣の腕では負けようもない。
「こいつあ、ヤバいねえちゃんだぜ」
 アナトリアの騎士たちも、ガーシャの力を思い知ったようだった。剣を拾い上げると、二人はじりじりと後退した。
 そのとき声が上がった。城の方向から何人かの騎士が走り寄ってきた。
「ガーシャどの!」
「ちっ、行くぞ」
 男たちは剣をおさめ、歩廊を反対側へ逃げていった。
「大丈夫ですか?」
 駆け寄ってきたのは、セルムラードの騎士たちであった。さきほど一緒に杯を交わした二人の若い騎士である。
「アナトリアの連中が、ガーシャどのの後に城門を出ていったのを見て、心配したのですが、あいつらやはり……」
「お怪我はありませんか?」
「大丈夫。ありがとう。平気です」
 ガーシャはいくぶん上の空で答えた。
「あいつら、許せません。ガーシャどのに乱暴を」
「……」
 もう男たちのことはどうでもよかった。それよりも、女王の書簡のことだった。
 ガーシャは羊皮紙の落ちていった断崖を、もう一度見下ろした。激しく波が打ちつけて、白く泡立った海面には、当たり前だがなにも見えなかった。
「どうしよう……」
 大切な、大切な書簡……フィリアン女王から、直接に頼まれた使命だったのに。
「ガーシャどの?どうされました」
「なんでも、ありません」
 この騎士たちに話しても仕方がない。ガーシャは、動揺を見せないよう笑顔でうなずいた。
(そうだわ。とりあえず、エルセイナさまには報告しないと……)
「あの、ところで、会議はもう終わったのでしょうか。エルセイナさまは、まだ広間におられるのかしら」
「さあ、ずっと外にいた自分たちには分かりませんが」
 騎士の一人が思い出したように言った。
「そういえば、少し前ですが、北東の塔へ続く城壁の上に、エルセイナさまの姿が見えた気がします」
「北東の塔への城壁ね」
「はい。たぶん、城にいる女性で、あのように長い黒髪の方はいないと思うので」
「ありがとう」
 ガーシャは騎士に礼を言うと、急いで歩廊を戻りだした。


次ページへ