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これまでのあらすじ

黒竜王子フェルス・ヴァーレイが率いるジャリアの軍勢は、ロサリート草原にてトレミリア、セルムラード連合軍と激しい戦いを繰り広げていた。
決死隊を率いてジャリア軍本陣に突入するレークは、森の中でついに黒竜王子と対面、己の命をかけて、魔剣と王子に挑んだ。
一方、ヴォルス内海の海戦を制したトレヴィザン提督らは、ウェルドスラーブの首都レイスラーブを奪還する。
劣勢に立たされていた草原のトレミリア軍であったが、そこに突如現れたのはシャネイ族の群れだった。
ジャリア軍に向かって襲い掛かるシャネイたち。混乱に陥った戦いのはてに、ついにジャリア軍は敗走する。
こうして、ひとつの大きな戦いが終わり、リクライア大陸に再び、ひとときの平和が戻ったのであった。




 水晶剣伝説 XI デュプロス島会議


T

 さくり、さくり
 雪を踏んでこちらに近づいてくる、かすかな足音がした。
 アンリィは、午後の日課である薪拾いをようやく終えたところだった。これから屋敷に戻って各部屋の蝋燭をともす仕事があるのだが、まだいくらか時間が早いので、いったん部屋に戻って本でも読もうかと思っていた。
 だが、その足音に気づくと、彼女ははっとなって立ち止まった。
 このあたりは、本宮殿からは城壁をいくつも隔てた、さらに外側の、下級の女官たちが住まう地域である。一般の市民が入れる場所ではない、れっきとした宮廷の敷地内であるが、日が傾きだしたこの時間に、あたりに女官がうろうろしているわけもない。やるべき仕事は山のようにあるのだ。
 冬の終わりのこの季節、朝はまだぐっと冷えるので、午後になってもすぐに残り雪が消えることもない。もうひと月、ふた月かけて、地面を覆う雪は少しずつなくなってゆき、それとともに草木が顔を出し、ようやく緑が広がってゆくのだ。
 アスカの冬はとても長いのだが、今年はとくに長い感じもする。
 だが、アンリィは案外、冬が嫌いではなかった。自分が冬の生まれであることもそうだったが、雪に覆われた木々や白い庭園、それに、雪に化粧された城壁も好きだった。薪を拾いながらも、ときおり腰を休めてお城を見上げると、それだけでずいぶんすっきりとした気分になるのだ。
 だがいまは、それよりも、彼女の心をとらえたのは、その足音だった。
 薪の入った籠を背負ったまま、彼女はその場をじっと動かなかった。アンリィには、近づいてくるその足音が誰のものなのか、すぐに分かった。なので、今日の夕食用に上等の鹿の肉を買っておかなかったことを、ひどく後悔し始めた。
 さくり、さくり
 足音がどんどん近づいてくる。
 だが、彼女はまだ振り向かなかった。
 とうに確信しているように、その口元にはうっすらと微笑みが浮かんだ。普段はよく、年上の女官などから、愛想がないの暗いのと陰口を言われる彼女であったが、いまの彼女を見れば誰もそうは思うまい。頬をうっすらと染め、生き生きとした希望に輝くような、うら若い乙女がそこにあった。
 さくり、さく、
 もう、足音はすぐ近くだった。
 それでも彼女はこらえた。いま振り向いてしまって、万が一にも魔法が失われてしまうのを恐れるように。もし、そこに誰もいなかったら、あるいは、その人の姿がなかったら、自分はどれだけ落胆することだろう。
 さくり、さくり、
 そして、
「アン」
 ついに背後から低い声が届いた。
 自分のすべてを包み込むような、その一言だけで、すべての信頼と敬愛を捧げたくなるような、その声……
「ああ……」
 一瞬、息が止まるような心地だった。
 夢ではない。夢ではないのだ。どれだけ待ったことか。
「アン」
 その低く、どっしりとした頼もしい声が自分を呼んでくれる。なにもかもがこれでいい、世界のなにもかもが素晴らしく、そして、いとおしく感じられる。この声のために、自分のすべてを捧げられる、彼女はそう思った。
 こらえきれず、ついに彼女は振り向いた。
「ああ、ディークさま」
 花のように微笑むつもりが、その目からはどっと涙があふれた。
 両手を広げる大きな姿が、涙にぼやける。
「アン……」
 彼がそこにいた。
「ディークさま、ああ!」
「アン!」
 たとえ、いまこのときを誰が見ていようとも、気にもならなかった。
 彼女は飛び込むように、その男の胸へ身体を投げ出した。
「ディークさま、ディークさま!」
 世界が止まるかのような一瞬。
「帰ったよアン」
「ああ……」
 革の胸当てごしに、ごつごつとした筋肉の感触が伝わってくる。大きな、大きな胸板……自分がまるで幼子のようにも思える、頼もしく大きな体躯であった。
「お、おかえり、なさいまし」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 あとはただ、その胸に顔をこすりつけ、彼女は涙を流した。
「長い遠征だったよ。今回は」
 いくらか気が落ち着いてくると、アンリィは、切り株の上に腰を下ろした彼の横に座り、その言葉を一言も聞き逃すまいと耳を傾けた。
「まさか、三月にもなるとは思わなかった。確か、最後に会ったのは去年の秋だったか」
「ええ」
 まだ夢うつつのような心持ちだった。だか、確かに彼は目の前にいる。その存在のぬくもりが確かに感じられる。たまらなくそれが嬉しかった。
「ずいぶんと待たせてしまったな。この冬は寒さが厳しかったろう。まあ、雪がすべて溶けるにはもうひと月はかかるだろうが」
「いいえ。寒さは平気です。慣れていますから」
「そうだな」
 彼……ディーク・ザース・エイザーは、ふっとやわらかな笑みを浮かべた。戦士であり、大軍を率いる将軍である彼が、そのように安らいだ顔を浮かべるのは、彼女の前だけであった。
「お前は、強い娘だ。だから、安心して俺も任務へゆける」
「……」
 本当はそんなに強くなどない。ただ、待って、待つことに、ずいぶんと慣れたけれども、それでも決して、不安にならぬときなどはない。彼女はそう言いたかったが、その言葉をいつものように飲み込むと、ただ黙ってうなずいた。
「私は、待つことしかできません」
 彼女は、泣き濡らした目を上げ、恋人の顔をまっすぐに見つめた。
「ディークさまを待ち、与えられた仕事をして、また季節を迎え、待つだけです」 
「……」
「こうしてご無事に帰っていらして、また私のもとに来てくださることを、それだけを望みに過ごしておりました」
「アン……」
 ごつごつとした、いかにも武人らしい手が伸びてきて、彼女の頭をやさしく撫でた。とても安心できるその大きな手に、彼女はうっとりと目を閉じた。
「ディークさま」
 いくぶん、熱を帯びた囁きがその唇からもれる。慣れてもいないが、決して初めてでもない。そんな様子で、二人は互いの唇を合わせた。
「今日は、あの……」
 頬を染めたまま、アンリィはためらいがちに訊いた。あまり、はしたない女だとは思われたくはない。それに、相手は自分とは身分が違うのだ。彼女の心の中には、いつもそれがあった。ただの宮廷女官である自分と、れっきとした貴族出身の将軍騎士……それが、一般的に見ても許されぬ相手であることを。
「家でご飯を食べてゆかれますか?」
 それだけ言うのが精一杯であった。そうなれば、夜を共にすることは分かっている。彼女は顔を真っ赤にした。
「いや、」
 だが、ディークの言葉は、彼女の恥じらいとあまやかな期待とをあっさりと退けた。
「じつは、皇子殿下のご命令でな、デュプロス島へ赴かねばならん」
「そうなのですか」
「うむ。明日の朝早くに発つ」
「……」
 内心の落胆をおもてに出さぬようつとめながら、しかし、彼女は言葉を詰まらせた。ようやく、待って、待ちつづけて、いとおしい君と再会を果たしたのに、たった一晩も一緒にいられぬままに、またしても別れてしまうというのは、彼女にはつらすぎた。
「だが、今度の旅はそう長くはならないだろう」
 ディークは、彼より十五歳も年の若い、ときにまるで妹のようでもある彼女の手を、優しくとった。アンリィは今年で十八になるが、三十をとうに過ぎた彼にとってみれば、彼女はとても可愛らしく、まぶしいような少女であったのだ。それでも、ときの流れは少女をやがて、立派な女へと変える。まるでそんな感慨を抱くように、彼は、目をふせたアンリィの白い顔を見つめた。
「……」
 むしろ、ためらっているのは彼の方であったかもしれない。いつも、待たせるだけ待たせ、将軍という任務にあるのをいいことに、彼女を一人残して遠征や任務へと赴き、勝手に戻って会いにきてはまたすぐに去ってゆく。そんな男と一緒になるよりは、もっとよほど家庭的な、都市の貴族や金持ちとでも結婚した方が、彼女の幸せになるのではないか。そんなことを、ふとしたときについ思ってしまうのだ。
「おそらく、十日もかからぬと思う。きっとな」
 それを聞いて、いくぶん気を取り直したように、アンリィは顔を上げた。まだほんの少女とばかり思っていたその顔は、憂いと愛情をたたえた、やわらかな女の顔をしていた。
「アン…」
 なにか胸を突かれたように、ディークは再び彼女を抱き寄せた。
「ディーク、さま?」
 艶やかな黒髪のかぐわしさ、やわらかなその身体の感触が、これまで以上に愛しく感じられた。
「すまん、アンリィ」
「はい?」
 短く刈り込んだ黒髪と、戦士らしい精悍な顔つき、騎士の中の騎士とも尊敬され、この巨大帝国の軍勢を司る将軍たる男が、ひとりの少女への言葉をためらい、口ごもった。
「俺は……」
 ここですっぱりと、別れを告げるのもひとつの選択であったろうが、彼にはそれを言うことはできなかった。彼は、自分で思っていた以上に、この女を愛していたことが、はじめて分かったような気がしていた。
「俺は……」
 ためらう男の顔になにを見て取ったか、彼女はうっすらと微笑んだ。
「待っております」
「なに……」
「私は、待っております。ディークさまを。これまでもそうしてきました。これからも、そうするでしょう」
「アンリィ……」
「どうかご無事で。いえ、もちろん信じています。あなたさまには、ジュスティニアと、ゲオルグのご加護がついておりますから」
 彼は、なんといってよいか分からず、ただじっと女を見つめた。
「戻っていらしたら、」
 アンリィはくすりと笑った。
「今度こそ、私のお料理を食べていただきたく思います」
「ああ、そうだな。アンリィ」
 彼はうなずいた。そしてまぶしそうに、十年もずっと見てきた少女の……いや、恋人の、その強い微笑みと、優しさにあふれた顔を見つめた。
「戻ってくるとも。馬を飛ばしてな。お前のところに、一番にだ」
「はい」
 嬉しそうに彼女は笑った。
 彼はその身体を大切そうに引き寄せ、今度は自分から愛する女への情熱を込めて、長い口づけをした。
 ここは帝国アスカの首都、ヒルドゥス……
 黄昏に近い西の空に、大帝エードランド四世の住まう、カーマイング城砦の影がしだいに濃くなってゆく。
 
 角ばった石造りの家々が整然と並ぶ、首都ヒルドゥスの町並みを見下ろす四つの丘……そのうちのひとつ、帝王の丘の上には、大きく切り立った岩山がそそり立っている。
 岩の上に建つ王城は、二つの城門搭を含めて、七つの大きな円搭に囲まれた見事なもので、岩山から伸びる高い城壁は、人々に大きな威圧感を感じさせる。
 黒光りするような石で固められた、それは見るからに強固な城砦であった。
 実際に、この五百年の間も、幾度となく蛮族の襲来を受けながら、陥落の危機はおろか城壁にすら傷をつけられたことはない。巨大な岩山のさらに数十ドーンの城壁の上から降り注ぐ矢は、敵にとって、さながら天から落ちてくる神の裁きのようにすら思われたことだろう。
 それは広大な帝国を支配する皇帝の居城であり、難攻不落の城砦、長くアスカの歴史を見守ってきた神秘の城であった。伝説では、その地下には迷宮のように岩盤が掘られ、皇帝たちの隠した宝物や、不思議な力を持つ仕掛けとおそるべき罠、それに魔物が封印されているとも言われ、その地下迷宮の中に入ることができるのは、皇族の他には、ごくごく一部の帝国の重鎮たちだけであった。
 現皇帝である大帝エードランドは、国民に対しては比較的寛容であり、過去の権力者たちのように過剰な税の搾取もなく、不当な労働奴隷なども禁止し、貧しいものには食料を与え、子供への教育を重視して学校を増やすなど、帝国が正しく栄えるような政策をとり、多くの民たちから支持されている。皇族以外からも、優秀な人材であれば臣下に迎えたり、たとえ貴族でなくとも騎士団の長にもなれるという、これまでにない革新的な人事政策も、若者たちに将来への希望を与えていた。
 若いうちから己の将来をイメージして、剣や馬術を磨いたり、学問に励んだりする若者が年々増えていることは、帝国を活気づけることになる。商売人や職人たちも、真面目に働けばいずれは店を持ち、妻をめとり、家族を養うことができると、大いに働いた。
 リクライア大陸における東の超大国であるアスカは、この数十年でさらにその国力を伸ばし、いまや千年の繁栄を実現しようとしていた。
 帝国の首都を見渡すようにそびえたつカーマイング城の内郭には、大帝の住まう天空城砦の他に、二つの塔があり、ひとつは皇后宮と呼ばれる搭、こちらは優美な尖り屋根をもつ美しい塔であるが、もうひとつが、皇子宮と呼ばれる搭である。もっとも岩盤に近い、斜面を見下ろすように立つこの塔は、帝国の宰相にして皇子である、マール・ジェイスの住まう塔であった。
 いま、三人の男が、その皇子宮の螺旋状の階段を粛々と上っていた。
 それは、どうにも奇妙な取り合わせの三人であった。
 というのは、先頭をゆくのは、簡易鎧を着込んで腰には剣を吊り下げた騎士で、それはよいのだが、その後ろをゆくのは、いかにも汚らしいすり切れた革の胴着を着た男で、野卑な山賊か、よくても木こりのように見えた。さらにその後をゆくのは、これは、どこからどう見てもただの市民であった。それも貧しすぎず、綺麗すぎない麻のローブを着た、まったくもって無個性な一般市民であった。
 この似ても似つかない三人の取り合わせは、いったいなにを意味しているのか。もしもその場にいあわせたものならば、そう首をひねることだろう。
 かれらの共通点といえば、背格好が同じくらいであることくらい。あるいは、先頭をゆく騎士が、あとの二人を連行していると考えれば納得はいくものの、どうもそうではない様子である。むしろ後ろをゆく市民などは、皇子宮の搭を上るにしてはじつに堂々とした様子で、まるで慣れ親しんだ自分の仕事場の階段を上るかのようであった。ときおり階段を降りてくる見回りの騎士も、三人の姿にはほとんど無反応で、すれ違いざまにちらりと目をやって、ただ道を空けるだけである。
 そうして、三人の男は塔の最上階とおぼしきフロアまで来ると、ひとつの扉の前でさっと整列した。彼らが来たことは、とうに知らされていたのだろうか、すぐに「入れ」という涼やかな声が上がった。そして、音もなく目の前の扉が開いた。
 彼らは無言でその部屋に入っていった。
 そこは、塔の最上部であるから、さほど広い空間ではなかったが、おそろしく整然とした印象の部屋だった。
 まず目に入るのは、天井に届くほどの巨大な本棚で、それは部屋の両側にあって、そのおかげで、この部屋にあるのはほとんどが本だけであるようにすら思われた。部屋の奥には窓がひとつだけあり、沈みゆこうとするアヴァリスの残照が赤々と差し込んでいる。その窓を背にして、四角いテーブルが置かれていたが、そこにも、読みかけの本がたくさん積まれていた。
 その本の山に隠れていた人物が、すいと顔を上げた。
 きらりと鋭い目を、入ってきた三人の男に向けるのは、黒髪を額で切り揃えた、中性的な印象の青年だった。日に焼けていない白い肌はとてもなめらかで、唇の赤さといい、女性的にも思えるが、それでいて、きっぱりとした男性的な意志の強さも感じさせる、そんな雰囲気の若者である。
 部屋に入った三人は、その場に並んだまま微動だにしない。騎士も、山賊か木こりも、市民も、三人が同じように直立不動の姿勢をとっているのが、妙に違和感があった。まるで、命令があるまでは、動いても言葉を発してもならないという、そんなふうである。
 青年は読みかけの本をとじると、静かに立ち上がった。それから、三人の方に向かうかと思われたがそうはせず、反対に窓の方へ歩み寄った。
 奇妙なことに、彼は三人に背を向けたままの姿勢で、懐からなにかを取り出し、それを顔の前に持っていった。それは、鞘に入った小さな短剣であった。短剣の柄の部分には、宝石のような石が埋め込まれており、窓から差し込む夕日を受けて、妖しく光を放っている。
 すると、これまでまったく動かなかった三人の男が、おかしなポーズをとった。
 三人ともが、自分の右手を持ち上げて、手を頬に当てるような仕種をとったのだ。そのまま、彼らは動かなくなった。
 よくよく見ると、その三人の右手のひと差し指には、銀の指輪がはめられていた。その指輪を頬に当てているようにも見えるが、いったいそれでどうしようというのか。
 窓辺に立つ黒髪の青年も、こちらに背を向けたまま微動だにしない。
 青年がまとう、うっすらと青色に染められた大きめのローブには金糸の刺繍が豪華になされ、白テンの毛皮が襟と袖に織り込んである。すらりとした足首がローブのすそから覗き、金のサンダルを履いて立つ彼の後ろ姿は、優雅な貴公子然としていた。
「なるほど」
 しばらくあってから、ぴんとした涼やかな声が上がった。
「次、報告せよ」
 感情の薄い淡々とした声だが、命じることに慣れた、生まれながらの支配者の響きがあった。
 並んだ三人のうちの騎士の男が、まず仕事を終えたというように一歩下がると、今度は木こりか山賊の男が、直立不動に体を緊張させた。
「……」
 だが、報告というにはまったく誰も声を発しない。ただ、指輪のはまった右手を顔に付けているだけであった。
 それでもおかしなことに、窓辺の青年は満足そうに、ときどきうなずくような仕種を見せる。あるいは、彼にだけは、なにかの言葉が聞こえてでもいるのだろうか。手にした短剣の宝石がまた妖しくきらめいた。
「よし、分かった。あとは、ジャリアの残党の方だな。報告を」
 命じられると、今度は市民の格好をした男が、さっと顔を緊張させた。男はときおり目を閉じながら、指輪のはまった右手を顔に付けて、なにかを念じるようにしている。
「ほう、面白いな」 
 またしても、声のない報告を受けたかのように、青年は反応した。何度かうなずくと、こちらを向いてにやりと笑う。
「残党兵に、そのようなものが混じっていたか」
 顔の前の短剣を下ろすと、彼はゆっくりと部屋の中を歩き出した。そのあいだも、三人の男は無言で居並んでいる。かれらの額はそれぞれじっとりと汗ばんでいた。
 なにごとかを考えていた青年は、立ち止まって再びこちらに向き直った。
「他に報告のあるものは?」
「は、あとはデュプロス島の件ですが、噂では……」
「声に出すな」
「も、申し訳ございません」
 騎士姿の男は、慌ててまた、右手を顔に付けるポーズをとった。しばらくはまた、無言の静寂が部屋を包み込んだ。
「……ああ、分かった。それはだいたい予想はついていたことだ」
 そう言ってうなずくと、青年は短剣を大切そうに懐にしまった。
「今日の報告は以上だな。では行ってよし」
「失礼いたします」
 言葉のない奇妙な報告を終えた三人の男は、うやうやしく礼をすると、ただちに部屋を出ていった。
 一人になると、青年はまた机に向かった。羽ペンにインクを浸し、なにかのメモをとるように、すらすらと走り書きをする。
「アリッセ」
「はい」
 すぐに奥の部屋から小姓が現れた。黒い髪を肩の上で切り揃えた、少女のような可愛らしい少年であった。黒い小姓の服が、とてもよく似合っている。
「はい、ジェイス殿下」
「マールでいい」
 おそらく他の誰にも見せぬような顔で、彼はにこりと笑った。
 マール・ジェイス……帝国アスカの第一皇子。その名を聞くだけで、すべての国民がひれ伏し、絶対の敬意を表すだろう。帝国の絶対的なシンボルというべき存在である。
 額の上で切りそろえた髪に軽く手をやり、常に満足いくように清潔にさせている己の居室をひと眺めしてから、彼はその灰色がかった瞳を、気に入りの小姓であるアリッセにまた向けた。
「ディーク将軍がもうすぐここに来るだろうが、それまでに私が戻らなかったら、お茶でも差し上げて、引き留めておいておくれ」
「かしこまりました」
 心地よい鈴のような返事に、皇子は満足そうにまた微笑んだ。
「私は地下に降りる」
「いってらっしゃいませ」
 うやうやしく頭を下げる小姓に一瞥をやると、皇子は火のついた燭台を手にとった。
 小姓が出てきたのとは反対側の壁にある扉を開け、足を踏み入れる。
 そこは皇子にしか入れぬ秘密の部屋であった。
 窓のない小部屋はとても暗かったが、皇子は慣れた足どりで、部屋の中央あたりへゆくと、そこで立ち止まった。
 よく見ると、そこは鉄の柱のようなものが四本、床から天井に向かって伸びている。皇子はちょうど、その鉄の格子に囲まれた場所に立っていた。
 それから、彼は奇妙なことをした。その鉄柱のひとつにつり下がっていた小さな棒を手にすると、それでカンカンと鉄柱を叩いたのである。
「……」
 カンカンという、鉄が鳴り響く音が消えるか消えないかのうちに、今度はどこかから、別にカンカンという響きが聞こえてきた。
 と思うと、今度こそ驚くべきことが起きた。
 ギギギ、という石か鉄かがこすれるような音がして、がくんという振動とともに、皇子の体が床に沈み始めた。
 いや、よく見れば立っている床石ごと一緒に沈んでゆくようだった。
 がしゃん、がしゃんという、鉄の鎖が鳴り響く音が続き、それとともにどんどんと床と皇子が沈んでゆく。
 やがて皇子の体は完全に見えなくなり、部屋の床にはぽっかりと四角い穴だけが残された。
 それは、おそらくこの時代の人間が見ていたならば、とてつもなく異様な光景であったろう。人間が床に沈んでゆくなどということは、リクライア大陸のどんな文明国であっても、理解しがたいはずの出来事である。だがそれがもしも、塔を螺旋階段で延々と降りるよりも、はるかに早い移動手段であることを知ったなら、このアスカの……というより、この城の隠された装置の革新性に、誰であれ驚き、そして感銘を受けるに違いない。
 鉄の鎖がじゃらじゃらと鳴る音は続いていた。おそらくは、皇子の合図を受けた人間が、何人かかがりで鎖を引いてでもいるのだろう。当の皇子にとっては、己の足を使わずに自動的に塔を上り降りできるのであるから、これほど便利なものはない。
 その己が発案し、設計して作らせた昇降機に乗りながら、皇子は静かに目を閉じていた。体がどんどんと降りてゆく、その感覚の不思議な心地よさをでも感じているのだろうか。
 そうして、どれだけ降りたことだろうか。
 やがて空気がひんやりと冷たくなった。あたりはずっと暗くなり、もしも燭台の火がなければなにも見えなかっただろう。それまでは、塔の中の壁やそれぞれのフロアの様子が見えていたのだが、いまはこの昇降機の周りは、ただ黒々とした岩肌に囲まれていた。この城が、岩山の上に建てられていることを考えれば、この昇降機械は岩を堀り下げて沈んでゆくことになるだろう。
 さらにしばらく降りると、下降の速度が少しずつゆっくりになった。と思うと、かつんという音がして唐突に昇降機は止まった。さほどの衝撃もなかったので、鎖の長さで下降の距離が定められているのだろう。 
「……」
 皇子が昇降機から降りると、足元には確かに石の床があった。
 周囲は岩に囲まれていたが、ぽっかりと四角い穴がひとつあいていた。それは岩をくり抜いて作られた二ドーン四方ほどの通路のようであった。燭台の火を照らすと、通路はずっと奥まで続いている。
 皇子はためらわず、その地下の通路へと入っていった。ひんやりとした湿った空気に、カツカツと石を踏む音が響きわたる。
 少しゆくと、その先は石壁にはばまれた行き止まりのようであった。いや、よくよく見ると、そうではなく、壁には人がくぐれるほどの小さな扉があった。ここから先は、特別な人間でなければ入ることは許されぬのだろう。
 皇子は取り出した鍵で扉を開けると、ゆっくりと扉をくぐった。
 その先は、左右に通路が分かれていたが、皇子は迷いのない足取りで右手へ進んだ。
 ここはまるで、岩の中をくり抜いて作られた、地下の迷宮であった。
 そして不思議なことに、あたりは燭台の火が届かない先でも、うっすらと見通せるくらいには明るかった。厳密には明るいのではなく、かなり薄暗いのだが、まったく光源がないはずなのに暗闇でないのがどうにも奇妙であった。
 しばらくゆくと、通路は左に曲がっていた。
 途中、左右の壁にはいくつか扉もあったが、皇子は目もくれない。ただ通路にそって進んでゆく。
 さらに進むと、また通路は左に折れた。
 ごくわずかであったが通路には傾斜がつけられていて、進むごとに下ってゆくような感じがあった。途中の左手の壁には、また扉があったが、やはり皇子は目もくれずに通りすぎた。
 じつに不思議なことであったが、進むごとに徐々に、ほんの徐々にではあったが、なんとなくあたりが明るくなるようであった。それに、黒々としていた石の壁が、いくぶん青みがかっているようにも思えた。
 岩をくり抜いた地下道をまたしばらく進むと、前方はまた左右に分かれていた。
 当たり前のように皇子は右へと曲がった。だが、今度はすぐに行き止まりになってしまった。
 前方の壁には扉などはどこにもない。だが、皇子は引き返すことなど考えぬように、その壁に近づいた。
「……」
 壁の前に立つと、なにを思ったか皇子は燭台を床に置いた。それから懐から小さな短剣を取り出すと、それを壁に押しつけるようにした。よく見ると、壁の左隅に小さなくぼみがあり、短剣はそこにぴたりとはまったのだった。
 すると、短剣の宝石がきらりと妖しく光った。
 皇子の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。
 いったいどんな魔法があったのか。
 目の前の壁が……石の壁が動きだした。
 ず、ずず、ず、と、
 音にすればそのような感じだったろう。やがて、壁の右側に人が一人通れるくらいの隙間ができた。
 壁のくぼみから……それが鍵であったのだろう、短剣を取り出すと、皇子は開いた壁の隙間から体を滑りこませた。
 そこは、これまでの整えられた通路とは違っていた。ごつごつとした岩肌が突き出した、洞窟のような場所である。そして、不思議に明るい……そう、まるで岩そのものが光を放っているかのようだった。
 もはや燭台は無用とばかりに、皇子は燭台の火を吹き消し、まるで洞窟の奥へと進むような、でこぼことした岩の上を歩いていった。
 その奥には、さらに光に満ちていた。皇子が近づいてゆくと、岩肌がきらきらとして、いっそう光を放つかのようだった。
 それはただの岩ではなかった。
 水晶……
 おお、信じられないような、大きな水晶の結晶。それが、びっしりと岩肌にまじっているのだ。
 それらの水晶は、通路の奥へゆくほど純度を増しているようだった。
 白く光を放つ水晶の洞窟……そんなものが、この城の地下に存在するなど、誰が想像できただろう。それほど、ここは幻想的で、この世の場所とは思えぬ、魔法じみた世界であった。
 皇子は、もっとも奥まった、洞窟の行き止まりまで歩いていった。
 そちらはずいぶん狭くなっており、行き止まりになっているあたりは、ほとんど人一人がかろうじて入れるくらいのスペースしかなかった。そこは、足元も、天井も、左右の壁も、すべてが白く輝く水晶に覆われている。
 突き出した水晶の結晶に手を触れると、皇子は、普段は誰にも見せぬような、心からの安らぎを得たという表情で、白く輝く鉱石たちを愛しそうに撫でた。
 あるいは、かのエルセイナ・クリスティンがここにいたならば、純度の高い水晶の結晶から、水晶の短剣を通して、じっさいに身体にエネルギーが注がれるような、なんともいえぬ心地よさなのだと、説明したかもしれない。
 まるで水晶の輝きを取り込むように、皇子はうっとりとして、しばらくそこを動かなかったが、やがて充分満足したというように手を離した。それから、洞窟の再奥部に頭を向けて横になった。
 そこはちょうど、皇子の身体を包み込むような形で、水晶をくり抜いたような作りになっている。いうなれば、まさに、水晶の寝台であった。
 横たわった皇子は、短剣を胸の上に置いて目を閉じた。
 ぶつぶつとなにかの呪文を唱えると、短剣の水晶がまたきらきらと輝き出した。それはすぐに、皇子を包み込む水晶の寝台にも広がり、あたりは白い輝きに満ちていった。
 次の瞬間であった。
 皇子の顔から、ふっと精気が抜けた。
 まるで意識を失ったように、もうその身体はぴくりとも動かなくなった。
 意識体を飛ばしたあとの人間は、仮死状態と同じようなものだと、エルセイナであればまた説明したことだろう。
 きらきらと輝ける白い光の中に、皇子の身体は、静かに埋もれてゆくようだった。


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