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水晶剣伝説 ] 大地のうた


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「お兄様!」
 シリアン・ヴァーレイは、声を上げながら寝台から飛び起きた。
 薄暗い部屋の中はしんと静まり返り、不気味なほどであった。彼女は一瞬、この世界は自分を残してすべて死に絶え、たったひとりぼっちで取り残されてしまったのだという、確信めいた不安に包まれた。
 彼女は寝台を降りると、ぶるっと体を震わせた。
 部屋の薄暗さから、もう夜になったのかとも思ったが、そうでもないようだ。窓辺に近づいてみると、窓の外には曇りがかった空が広がっている。垂れ込めた灰色の空にまるで溶け込むように、眼下には王城のブルーグレーの尖り屋根が見える。
 少しずつ、これが現実であることを認識すると、ここがいつもの自分の部屋ではないこと、それに自分がどうしてここにいるのかを、ようやく思い出してきた。ここは、フォスルカット城の塔の最上階、普段は見張り番が使う、ごく狭い部屋であった。
(さっき、お兄様が……見えたわ)
 あれは夢だったのか。兄の姿が血にまみれて倒れてゆくという、そんな恐ろしい映像が見えた気がしたが。
(ああ……)
 思い出したくもないが、それでも久しぶりに夢に兄が出てきてくれたのだ。
(お兄様……)
 いくぶん胸がまだどきどきとしている。なにか、予感めいた不安がおさまらないのだ。
 それにしても、本当に静かだった。壁の向こうからも、なんの気配もしない。あたりは異常なほどに静まり返っている。それがいっそう恐ろしい感じがした。
(誰もいない……いなくなってしまった?)
 不意にまた、シリアンはさきほどの言い知れぬ不安に襲われた。
「ピーム、ピーム!」
 思わず、侍女の名を呼んでみる。だが、しばらく待っても誰も来る様子はない。いつもであれば、どんなに忙しくしていても、自分の呼びかけにはすぐに飛んでくるのだが。
「ピーム、いないの?ピーム」
 ますます不安になり、シリアンは思い切って部屋の外へ出た。
「王女殿下、いかがなさいましたか」
 扉の外には見知らぬ顔の騎士が立っていた。一見うやうやしく、シリアンの前に立ちはだかる。
「ピームを呼んできて。すぐによ」
「しかし、私の役目は、ただ王女殿下のお部屋を守ることですので」
 まるで感情のないその口調……騎士の冷たい目には、本当はひとつの敬愛の念もないことが見てとれた。シリアンは腹を立てながらも、どうしていいか分からずに黙り込んだ。
「……」
 いったい、これはどういうことなのだろう。この最上階の一室に移されてから、なにかがおかしい。塔にいるはずの侍女たちの気配が、廊下のどこにも感じられないのだ。
「お前は……アナトリア騎士団とかの騎士なのね?」
 なんとか気を落ち着けながら、シリアンは騎士に向かって訊いた。
「さようでございます」
「では、お前たちの隊長を呼んできなさい。一番えらいのは、あのヨハン・クロスフォードなのでしょう」
「副団長は、ただいま忙しく、すぐには来られません」
「いいから、呼んでこいというのよ!」
 淡々とした騎士の口調にいらいらとして、彼女は叫んだ。
 だが、いくら回廊を見渡しても、そこには何人かの見知らぬ騎士が不気味に行き交うだけで、いつもそばにいるはずの侍女たちの姿はどこにもない。
 しだいに言いようのない不安にかられ、シリアンは、ほとんど泣き出しそうになった。
「なにが……いったい、どうしたというの」
 そこにカツカツと足音を立て、回廊を歩いてくる姿があった。やってきた騎士の顔を見て、シリアンは少しだけほっとなった。
「どうかされましたかな、王女殿下」
 うやうやしくひざまずき、貴婦人への礼をすると、ヨハン・クロスフォードは、にこりと笑いかけた。
「なにか、ご不満なことがございましたでしょうか?」
 そばにいた部下にうなずきかけ、彼は丁寧に説明をした。
「この騎士は、私の代わりに、王女殿下の警護を言いつけたものでございます。本来であれば、この私が、大切な殿下の御身をお守りしたいところですが、そういうわけにもゆかず。まこと、ご不安を感じさせてしまいましたなら、このヨハン・クロスフォード、心よりお詫びをいたします」
「そう……そうなの」
 いくぶん気が落ち着いてきたので、シリアンはいつものようにつんとあごを持ち上げ、このハンサムな騎士を横目で見やった。
 この騎士が自分を特別に扱ってくれ、美しいと褒めてくれたりすることは、まんざら悪い気はしない。もっと言えば、すらりとした美青年である彼の外見を、好もしいと思わなくもない。年頃の少女たちが夢見るような、美しく勇敢な騎士というイメージそのものである相手が、自分の前に丁重にひざまづくことが、くすぐったいように心地よいのだ。
「ねえ、ピームはどこなの?私の侍女を呼んできてくれるかしら」
「かしこまりました。ただ、塔の侍女たちは、また別の場所に避難させましたので、少しお時間がかかりますが」
「避難……それはどういうことなの?」
「昨夜も申しましたように、」
 ヨハンの声はあくまで静かだった。
「シャネイたちの反乱が起こりまして、情報によれば、その数は数万にもなって一斉に移動を始めたということです。兵力の手数になったこのラハインですから、いかに堅牢な王城といえども、注意をしてしすぎることはないということでございますれば、この一両日の間は、窮屈でありましょうが、我々の警護のもとに従っていただきたく存じます」
「そう……分かったわ」
 懇切丁寧な説明を聞かされて、そのすべてを理解したとは言えないものの、ここはおとなしくするしかないと、シリアンは思った。それはもちろん、相手がこのヨハン・クロスフォードでもあったからだが。
「では、もうしばらく、部屋から出ない方がいいというのね」
「さようでございます。なにかご入り用のものがありますれば、なんなりと」
「そうね……」
 彼女は少し考えてから、ふと思いついた。
「じゃあ、一緒に部屋にきて、私の相手をしてちょうだい」
 それはほんの、いたずら心のつもりだったのだ。
「王女殿下のお相手、でありますか」
「そうよ。どうせ、私がどこへ行かないか見張らなくてはならないのなら、私のそばにいた方がよいでしょう」
 ヨハン・クロスフォードは、いくぶんためらうような顔をしたが、了承した。
「かしこまりました。王女殿下」
「さあ、では入ってよ。なにをして遊ぼうかしらね」
 にわかに、シリアンは楽しい気持ちになってきた。ヨハンを部屋に入れると、彼女はうきうきするように室内を歩き回った。といっても、本来の自分の部屋に比べたら、寝台と飾り棚がひとつあるだけの、いたって質素な部屋であったが。
「まずは、占いカードをやりましょ。持ってきておいてよかったわ。さ、そこに座って」
「かしこまりました」
 少し困ったような顔をしながらも、ヨハンはおとなしく王女の向かいに座った。
 カードを並べながら、シリアンはちらりとその顔を見る。なにやら照れくさいような、嬉しいような、どきどきとする、新鮮な気持ちがした。 

「五回やって、アナデマは一回しか出なかったわ。どうやら今日は、不吉なことは起こりそうもないわね」
 気付くと部屋はずいぶん薄暗くなっていた。ふだんなら、侍女がいそいそと燭台に火をつけに来てくれる時分のはずだ。
「それにしても、ピームは遅いわね」
 少し飽きてきたので、シリアンはいい加減にカードを混ぜながら、ため息をついた。もともと、飽きっぽい性格で、はじめは気分がのっていても、しだいに面倒になってくるというのが、この王女の問題のある気質ではあった。
「ねえ、どうして黙っているの」
 さっきからずっと黙り込んでいる相手に、シリアンは少しいらいらとして言った。
「それに、どうして誰も来ないの?」
 向かいに座るヨハンは下を向いたまま、腕を組んで動かない。カードに熱中しているというふうでもなかったが、そうやってじっと黙っていられると、なんだか不安になってくる。
「そろそろお茶の時間だわ。いつもなら、今日の夕食はなにか教えに来てくれるはずよ」
「……」
「それに、明日の勉強の時間も、いやだけど……それを教えにきてくれるはずだわ。ねえ、誰もこないのはどうしてなの?」
「誰もきませんよ」
 静かな声だった。それが、さっきまでのヨハン・クロスフォードのものだとは思われぬほど、冷たい響きの声だった。
「さて、王女殿下。そろそろ申し上げますが、」
「なに、なによ……」
 にわかに強い不安を感じて、シリアンは目の前の男を見つめた。
「この王城はすでに、我々の支配下にあるのですよ」
 いったい、彼がなにを言っているのか、シリアンにはまったく分からなかった。
「つまり、あなたはもう我々の虜だ。これからはそう思っていただきたい」
「なにを……言っているの?あなたは、なにを」
「言った通りですよ。この城は落ちた。じつに簡単にね。あなたが寝ている間にすべては終わっていたのですよ」
冷酷なまでに静かな声だった。少し前までのうやうやしさも、紳士めいた優しさも、いまの彼からはまったく消えていた。
「王城はもう我らの手にある。つまりは、我々はラハインを押さえた。ジャリアの首都は、我々、アナトリア騎士団のものとなったのだ」
「な……なにを」
 男の言葉を聞きながら、シリアンは、ただ頭の中が真っ白になってゆく心地がした。
 いったい、それはどういうことなのか。そして、何故、そのようなことが起こるというのか。彼女にはまったく理解できなかったし、また、理解したいとも思われなかった。
「シリアン王女殿下……」
 おもむろに、ヨハン・クロスフォードがすっと立ち上がった。
「な、なに……」
「あなたはもう、我らのものなのですよ」
 男の顔には、恐ろしいもの、冷酷なものが浮かんでいた。それは、獲物を前にした凶暴な野獣の目であり、力のないものを見下すようにつり上がった口元であった。
「来ないで……出ていって」
 シリアンは恐ろしさにあとずさった。
「出ていって!出ていってよ!」
「叫んでも無駄ですよ」
 ちらばったカードを踏みつけ、男はシリアンに近寄った。
「ああっ、」
 強く腕をつかまれると、それだけで気が遠くなりそうだった。このような扱いは、生まれてから誰からもされたことがない。
「いや、いやよ……」
 乱暴に寝台に放り出されると、彼女はすすり泣いた。
「いや……いやあ」
「いずれは、こうなる運命だったのです。王女殿下」
 そのまま男の体が覆いかぶさってくる。必死に暴れようとするが、鍛えられた騎士に力ではかなうはずもない。
「いやだ。いやあっ!」
 彼女にはもう、ただ叫ぶことしかできなかった。
 男の手が服を乱暴にはぎ取ってゆく。その粗野な行為がひどく恐ろしい。
「いやあああ……助けて、助けて」
「お兄様、お兄様あああ!」
 こんなことが起こるはずはない。これはきっと、夢なのだ。そうに違いない。
 すすり泣き、叫びながら、彼女は思った。
 早く夢から醒めたい。
 目を開けたら、また朝が来て、扉が開くと、そこに優しい兄の姿が現れるはずなのだ。自分の名を呼ぶ兄の姿が……
 彼女はただ、それを願った。
  


 いったいなにが起こったというのか。はじめは誰にも分からなかった。
「なっ、なんだ……」
「これは、なんだ?」
 森で戦うジャリア兵たちが、次々に驚きの叫びを上げていた。
 敵の小部隊による大胆な襲撃により、いったんは混乱したものの、そこは数と戦力の差から、しだいに敵を追い詰め、いまや勝利までは目前という段になっていたはずだった。
 ここにきて、なにが起こったというのか。説明できるものはそこにいなかった。
 それは「異変」というしかない、予想もしなかったものであり、もっというなら、それはまったく異常な現象であった。
 はじめ、森の奥の方から、なにかの気配が起こると、やがて、わあん、わあんという、動物の鳴き声ともつかぬものが聞こえだした。そして、それはどんどんと大きくなっていった。
 まるで、たくさんの動物が地面を駆けるような振動とともに、その「わあん、わあん」という奇妙な声の響きが辺りを揺るがし、
 木々の向こうから、それが現れたのだ。
「ああっ」
「うわあっ」
 それに気付いた最初のジャリア兵が声を上げた。
 異変はすぐに大きくなった。木々の間からいくつもの影が飛び出してきたと思うと、それが、目にも止まらぬ素早さで突進してきたのだ。続々と現れる「それ」は、人間ではなかった。いや、厳密にいうなら、それは、人の形をした獣というべきものであった。
「シャネイ!」
 ジャリア兵の一人が叫んだ。
 森の奥から続々と飛び出してくる、その動物のような人の姿は、またたくまに増えてゆく。その数は数百、そして数千にも思えた。
「うわああっ」
「シャネイだ!」
「シャネイが……うわっ」
 その生き物は、到底人間とは思えぬスピードで、次々に飛び出してきては、黒い鎧めがけて襲いかかってくる。
「なんだ、こいつらは」
「うわっ」
 ああーん、あーん、という甲高い叫びのような声が、一帯に広がってゆき、それは森の中でこだまし、四方へ響き渡った。
「シャネイ……」
「シャネイの大群だ!」
 この予想もしなかった出来事に、ジャリア兵たちは、あっけにとられたように、ただ周囲を見回すだけだった。その間にも、続々と数を増してゆく、人ならぬ人の姿は、まるでこの森中を埋めつくすかのようだった。
 森の外の草原で戦ってた兵士たちも、やがてその異変に気付いた。
 すでに勝利を確信しつつあったジャリア軍は、最終的な掃討を始めるべく、トレミリア軍を囲むようにして包囲隊形をとりつつあるところだった。
 そこへ、森の中からぱらぱらと、いくつもの影が現れた。
「なんだ、あれは?」
「森からなにかが出てきます」
 それははじめ、逃げ出してきた動物の群れのように見えていたのだが、またたくまにその数が増えてゆく。それが尋常でない事象だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「こ、これは……」
「なんだ、あれは……」
 ジャリア兵たちが見る前で、数百の獣……いや、人間にも似た姿が、続々と森から現れてくる。それが、一斉にこちらに向かって飛び込んできた。
「うわあっ」
「敵か……あれは敵だ!」
「落ち着け!隊列を乱すな」
 突進してきた獣のような姿が、最初にジャリア兵に飛び掛かると、それを合図としたかのように、それは次々に襲いかかってきた。
「うわあっ、こいつら、シャネイ、シャネイだああ!」
 その叫びは、またたく間に、全軍へ広がった。
「シャネイが襲ってきた!」
「いったいどうして、こんなに……」
 ジャリアの人間であれば、シャネイについて知らぬものはほとんどいない。
 シャネイ族は、いまから二百年ほど前に、ジャリアの北東にそびえる天山、クレシルドの麓で発見された。それまで川べりの小さな共同体で生活していたかれらは、ジャリア人に捕らえられ、次々に町に連れてこられた。手足が長く、褐色の肌に長い耳を持ち、灰色の目をしたかれらは、蔑みを込めて「シャネイ」と名付けられた。
 シャネイ族は、人間とは異なる、非常に鋭敏な感覚を持っていた。視覚、聴覚は野性動物のように優れ、肉体的にはいつまでも若さを保つ、その寿命は百五十年近くもあるとされた。ジャリア人たちは、人に似て人とは異なるかれらを知るにつれて、ある種の神秘性とともに、言葉にはしがたい異質なものへの恐れを抱くようになる。
 とある事件をきっかけにして、それは嫌悪へと変わっていった。町に住むシャネイの女が、都市貴族の子供を宿したのである。それを機に、人々の中にあった違和感は、排他的な方向へと向かいだした。当時のジャリア国王、ランディーム二世が、シャネイの女と交わることを禁ずるという法令を布告すると、それからは、町のいたるところでシャネイの女の取り調べが行われるようになり、妊娠したシャネイが見つかると、ただちに留置所へと送られた。各地ではシャネイへの理不尽な襲撃が頻発し、シャネイたちは次々に捕らえられ、法令に逆らった罪として処刑された。
 この頃には、シャネイに対するさらに厳しい権利の規制がなされるようになり、かれらはほとんど奴隷のように扱われるようになっていた。シャネイが村を作るのを許されるのは、ごく一部の土地に限られ、農作物などは三分の一以上が税として徴集された。ときにシャネイの女が暴行され、あるいは殺され、村からは少年や少女のシャネイが連れ去られるといった事が何度となく起きた。ジャリア人は、町での労働力に不足すると、シャネイの村から少年を拉致して連れ出し、都市貴族や領主の慰み物として少女たちをさらったのだった。作物が不足だった年や、厳しい冬の時期などには、その腹いせにシャネイの村が襲われ、食料が奪われた。抵抗したものたちは殺され、村は容赦なく焼かれた。
 本来は温厚で、争いを好まぬシャネイたちも、あるときついに立ち上がり、反乱を起こした。各地で蜂起したシャネイたちが集結し、首都ラハインを目指すという事件が起きたのだ。ジャリア王は、即座に騎士隊を配備し、かれらを迎え撃ったが、それは実際には戦いにもならなかった。武器を持つことを禁じられ、棒切れやクワなどの農器具しか持たぬシャネイたちは、訓練されたジャリア騎士たちの前に、次々に倒れていった。
 その事件以後、現在にいたるまで、第一王子、フェルス・ヴァーレイの手により、シャネイへの迫害は、ますます凄惨をきわめてゆくことになる。シャネイたちは、その一方的な人間の側からの圧力に、甘んじて耐え続けてきた。
 いま、そのかれらが、じつに数十年ぶりに、ジャリア兵たちに襲いかかったのであった。
「ぎゃっ」
「こいつら、武器を……」
 黒い鎧のジャリア兵をめがけて、素早く飛び掛かってくるシャネイたちは、ほとんどのものが裸足で、布製の服の上に鎧ともいえぬ、簡素な革の胴着を身に着けているだけだった。その手には、木の枝を削ったような小さな槍を持ち、身軽な体躯を活かして飛び上がると、ジャリア兵の兜の面頬の隙間に、その槍を突き刺した。
 重い鎧のジャリア兵たちは、素早く飛び込んできて、槍を突き刺してはまた離れるという、かれらの俊敏さに対応できなかった。かれらは、腰の袋にその小さな槍を入れていて、一人を刺しては、また次の相手へと向かってゆく……つまり、運の悪いジャリア兵は、何度も別のシャネイの槍を突き刺されることになった。
「ぎゃあっ、目が!」
「ちくしょう、鎧の隙間に槍が……」
 致命傷とはならずとも、それはジャリア兵の混乱を大いにまねいた。しかも、シャネイの数は減るどころか、まだ続々と森の方から現れてくるのだ。その数はすでに、数千にも達していただろう。
「おお、これは……なんということだ」
 この驚くべき第三勢力の出現に、驚いていたのはトレミリア側も同じであった。
 はじめは、ジャリア兵と同様に、その異変に呆然とし、飛び掛かってくるシャネイたちから逃げようとしていたのだが、騎士たちはすぐにその違いに気付いた。
「かれらは、ジャリア兵だけを襲っているようです!」
 その通り、シャネイたちが飛び掛かってゆくのはジャリア兵ばかりに思えた。はじめ、それは偶然かと思われたのだが、そうではなかった。シャネイたちは、確かに黒い鎧だけを狙って襲いかかっていたのだ。
「間違いありません。あのものたち……シャネイたちは、ジャリア兵のみを狙っているようです」
「なんと、かれらには、そうした知能があるというのか」
 報告を受けたブロテが驚くようにつぶやいた。
 それも無理はない。トレミリアの人間にとって、シャネイなどという存在は、遠く噂話に聞いただけのもので、実際に見たものはほとんどいない。
 かれらが人間とは違う、そしてまた獣とも違うという、奇妙な存在であることは知っていても、それが自分たちと同じように知性や感情を持っているということなどは、まったく知らなかったし、このように素早く動くということも含めて、実感としてのかれらの存在は、今日まで知るはずもなかった。
 謎めいた、神秘なる存在……それが、いま森から現れ、ジャリア軍と戦い始めたのだ。
「信じられん……」
 だが、ブロテにも分かった。目の前に現れたシャネイたちの、その動きをよくよく見ると、かれらはただやみくもに襲ってくるのではなく、群れになって同じ方向に動きながら、その素早い動きの中で、かれらは明確にジャリア兵とトレミリア兵を区別していることが。シャネイたちは、銀色の鎧のトレミリア兵にはかまわず、その近くに黒い鎧姿を見つけると、そちらへ向かって飛び掛かってゆくのだった。
「これは……味方といってもよいものなのだろうな」
 少しの間、驚きとともにその場に立ち尽くしていたブロテだったが、すぐに決断した。いったん後方のレード公へ指示を仰ぐべきかとも考えたが、それはやめた。この機を逃してしまうことは、いくさそのものの大きな結果に関わると、そう考えたのだ。
「よし、全軍に伝えろ。シャネイたちと戦うな」
「はっ、はい」
 周りの部下たちは、驚きながらもうなずいた。
「よいな。かれらは我らの味方だ。いや、むしろ、かれらと共闘してジャリア兵を討つのだ。これは絶好の好機だ!」
 ブロテの指示は、すぐに他の隊長騎士たちの耳にも伝えられた。打つ手もなく追い詰められつつあったトレミリア軍にとって、これが挽回の機会となるのなら、たとえそれがシャネイという未知数の存在であっても、賭けてみる価値はあった。
 そうして、不思議な共同戦線が始まった。
 シャネイたちが襲いかかり動きの止まったジャリア兵に向かって、今度はトレミリア兵が剣を振り下ろしてゆく。
「よし、混乱した敵を狙え!」
「シャネイたちの動きに合わせろ!」
 しだいに、素早いシャネイたちが敵陣をかき回し、トレミリアの騎士たちが止めを刺してゆくという、共同作戦のようなものが、暗黙のうちに成り立った。もちろん、素早いかれらの速さにぴたりと合わせることはできないが、隊列を組んだトレミリア兵は、シャネイたちが進む方へ合わせて突進することで、混乱に陥ったジャリア兵たちを次々に倒していった。
「いいぞ、動きの止まった敵を狙え!」
 いったんは劣勢に立たされ、悲痛な決意で命を捨てる覚悟すらしていたトレミリアの騎士たちは、ここにきて生き返ったように勇躍した。かれらは、ここが最後の戦いと、すべての力を絞り出し、敵に向かい、剣を降り続けた。
 しだいに、形勢は逆転しつつあった。
 二倍近くも数で勝るジャリア軍であったが、いったん大きな混乱に陥ると、全体の統率が困難であることを露呈した。それは実のところ、黒竜王子が指揮から離れていたことも大きかったのだが、もちろん、トレミリア側はそんなこととは知らない。ともかく、この機を逃してはならぬと、ただ目の前の敵兵を必死に倒し続けたのだ。
 あたりには、「ああー、ああーん」という、シャネイたちの甲高い声が響きわたり、それがトレミリア兵たちの掛け声とまじわり、異様な喧騒に包まれていた。剣と鎧がぶつかる響き、斬られたものの絶叫、怒声とが飛び交う……これが大陸の命運を定める大きな戦いの、終幕へと向かうその黄昏なのだと、もしも、空から見下ろすものがいたならば、そう感じたことだろう。
 シャネイたちの高い声が、まるでこの大地そのものの歌声のように、草原に響きわたってゆく。
 果てしがないかに思われたロサリート草原戦……十日以上も続いたこのいくさが、ゆるやかに傾きゆくアヴァリスとともに、ついに、その終わりを迎えようとしていた。

 そして、
「く、そ……が」
 口からごぼっと血を吹き出し、レークは凄絶に笑った。
 しびれるような熱さが、じんじんと体全体に広がってゆく。
 身体を貫いた剣が背中を貫通していた。
 その剣が光っていた。
 懐の水晶の短剣と、王子の魔剣が触れ合ったのだろうか、まるで、剣それ自体が喜んででもいるように、妖しく、光り輝いていた。
 その光は、剣を握る王子の体へと伝わってゆく。
「……」
 王子はびくりと体を震わせると、やにわに剣を引き抜いた。
 その一瞬が、チャンスだった。
 朦朧となりながら、レークは右手を振り上げ、
 最後の力とともに、振り下ろした。
 カリッフィの剣……鍛えられたその鋼の剣が、きらめくように舞った。
「おおおっ!」
 血がしぶいた。
 低く、王子の叫びが聞こえた。
 カリッフィの剣は、王子の右腕を……その魔剣ごと切断していた。
「か……は」
 レークは呻いた。魔剣が抜け落ちると自分の体から、すべての力が流れ出すように思えた。
 もはや立っている気力もない。
(おお……)
 遠のく意識の中で、レークは見た。
 そこに現れたものたちを。
 はたして、これが幻でないのかどうか、それすらも分からぬまま、
 自分の腕を拾おうというように、よろめいた王子のもとに、次々に飛び掛かってゆくものたちを。
(これは……)
 話でしか聞いたことがなかった、神秘的な長耳の種族。
(シャネイ……)
 その呼び名が、不思議とすぐに浮かんできた。
 そのシャネイたちが、倒れ込んだ王子に飛び掛かり、重なるようにして次々にのしかかってゆくのだ。
(これは、夢か?)
 王子の体は、すぐに彼らに埋もれ、見えなくなった。
(クリミナ……、オレは)
 自分自身がゆっくりと、地面に崩れてゆくのを感じる。
 吸い込まれるように意識が暗闇に包まれてゆく。
(すまねえ、アレン……)
 目の前の水晶剣を拾えぬもどかしさ……
 親友であり兄弟である、アレンにそれを伝えられぬ無念、
 それを思いながら、
 レークは、己が大地と一体となるかのような、そんな不思議な安らぎを感じていた。 



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