にゃーどとドラゴン
〜魔法の鍵の物語〜


◆3◆ 旅立ちと村の祭り

 嬉しそうに 朝の光のまぶしさに、少年は目を覚ました。
「う……ん」
 鳥のさえずり聞こえる。
 それも一羽ではなく、チチチ、チチチといういくつもの鳴き声だ。頭上には青々と繁った梢の緑が、降りそぞく朝日にきらきらと輝いている。
「ここは……」
 草の上で体を起こして周りを見回す。辺りには緑に覆われた林が広がっていた。
 目の前にはゆるやかな小川が流れ、木々の上では鳥たちが楽しそうに飛び回っている。美しい川の水は、その水面を朝日に輝かせ、ときおりぽちゃんと魚が跳ねる音が聞こえてくる。
「僕は……どうして、ここへ」
 少年は信じられないような気分で、その景色を見渡した。
「ここは、あの塔ではないんだ……」
 いつもであれば、どんなに楽しい冒険や、世界を旅をする夢を見ていても、目が覚めればまた、石壁に覆われた薄暗い部屋に戻ってしまうのに。
「じゃあ僕は……本当にドラゴンに乗って、お城に行ったり、空を飛んだりしたんだ」
 では、あれは夢ではなかったのだ。
 逃げ出した塔から飛び下りて、ドラゴンの背に乗って城へ帰ったこと。そこで、叔父たちに会って、乞食と言われたことも。
 そして……偶然聞いてしまったあの話のことも。
「父様……母様」
 父も母も、もういないのだ。できれば、それだけは夢であって欲しかった。
 だが少年はぐっと涙をこらえ、もういっぺんあたりの景色を見回した。
「ここは、お城の外……」
 木々の緑の鮮やかな色も、たくさんの鳥たちの飛び回る姿も、心地よい川の流れる音も、これまで、長いこと薄暗い塔の石の部屋で過ごしてきた彼にとっては、なにもかもが新鮮だった。朝の景色がこんなに美しいものだとは、すっかり忘れていた気がする。まるで初めて世界を見ているような、そんな気分であった。
「……僕は、塔の外に出られたんだ」
 よく眠ったせいか、頭の中はずいぶんすっきりしていた。
 それに、草の香りのするベッドのなんと心地よいことだろう。朝日に照らされた地面は温かく、草木の上に腰を下ろしているだけで、なんだかとても気分がよくなってくる。
「僕は、自由なんだ……」
 ひたひたとこみ上げてくる喜びが、彼の中の悲しみを包み込んだ。
 ずっとあこがれていた外の世界。ここには、切り取られた四角い空などはない。見上げれば、大きな、大きな空が、白い雲を運んでどこまでも続いているのだ。
 こんなに開放された気持ちになったのは、生まれて初めてだった。塔を上がってくる階段の音に怯えることもなく、永遠に続くような窮屈な絶望に押しつぶされることもない。空と、緑と太陽が、彼の周りにある。それはなんと大きく、そして力強いものなのだろう。
 少年は、ゆっくりと立ち上がった。思い切り体を伸ばすと、手足の隅々にまで太陽の暖かさが行き届いてゆく、そんな気がした。
 小川に近づいて、流れる川の水を手ですくってみると、それは冷たく澄んでいて、水差しの水のようにカビの匂いなどはしない。清らかな水を飲むと、あっと言う間に喉の渇きが消えた。顔を洗うと、心も洗われたようにすっかり気分がよくなった。
 それから、少年は川べりに座ってまた空を見上げた。
 流れゆく白い雲は、ゆっくりと動いてゆく。そうして空を見ているだけで、自分が生きていることの実感がじわじわと感じられる。
(ドラゴンさん、ありがとう……)
 ここまで連れてきてくれたあのドラゴンは、自分が寝つくまでそばにいてくれた。
(王子よ。ここからは一人でゆくがいい。我はいつでもお前のもとへ飛んでゆくことができる。銀の鍵を失わぬかぎり)
 重々しくも静かに響いてきたその言葉を、少年は心に刻みつけた。
(聖なる血の王子よ、汝のさだめにそって歩いてゆくがいい。なにごとかを信ずれば、別のなにごとかが叶うときもあろう。それを忘れずにおることだ。風はいつも、汝とともにある)
 眠りに落ちる少し前に、飛び立ってゆくドラゴンの気配をかすかに感じたような気がした。そうして目覚めると、彼は一人で川辺の草の上にいたのだ。
 だがもう寂しくはなかった。手の中には銀色の鍵が光っている。これさえあれば、いつでも飛んできてくれる友達がいると思うと、それだけで彼には十分だった。
(ありがとう。ドラゴンさん)
 心の中でもう一度お礼を言う。ふと草の上を見ると、さっきまで自分が寝ていたあたりに、とても長い糸のようなものが落ちていた。拾ってみると、その糸はまるで針金のように固く、それでいてしなやかに曲がる不思議なものだった。
(これは……ドラゴンさんのおヒゲだ!)
 なぜだか、少年にはすぐにそれが分かった。少年の身長ほどもあるその長い糸は、とても丈夫そうでつるつるとしている。
 それを銀の鍵の輪に通して適当な長さで縛ってみると、ドラゴンのヒゲで作った鍵のペンダントができた。首にかけるとヒゲの感触はなめらかで、なかなか悪くない。それに、こうしていると、自分がいつでもあのドラゴンの一緒にいるような気分でいられる。
 少年は嬉しそうに、首にかけた鍵のペンダントを揺らせた。
(王子よ。我はいつも共にある)
 ドラゴンの声が耳の奥で聞こえた。
(川の上流を目指すがいい。新たな仲間がお前を待っている)
 少年はうなずくと、木漏れ日の輝きを浴びながら、林に囲まれた小川のほとりを歩きだした。
 踏みしめる草の感触を味わうように、彼は歩いていった。
 木々の間にとまる鳥たちの声を聞き、きらきらと光る小川の水面を見ているだけで心が楽しく浮き立った。
 頭上には広く大きな空が広がり、世界はどこまでも続いているように感じられた。
 少年はときおり足をとめて川面を覗き込み、小さな魚やアメンボを見つけるとそれを飽くことなく眺め、また歩きだしては、頭上にゆるやかに流れてゆく雲を見上げた。
 こうやって、自分の足で土を踏みしめて歩くのは、なんと楽しいのだろう。やわらかな草の感触も心地よい。もし少し疲れたら、また足をとめて、川の水を飲んでひと休みすればよいのだから。
 木々の向こうに大きな角をした鹿が現れ、またさっと走ってゆく。鳥たちの歌声に、梢を渡る風の音が巧みに伴奏をつける。小川のせせらぎと水のにおいは、森にいるものたちに命の源のありかを常に教えてくれる。
 少年は、自分がこの世界と一体となっているような、不思議なまでの心地よさを感じていた。魚も虫も、鳥たちも、それに森の木々も、みな、同じく生きているのだと、あらためて優しく告げ知らせてくれる。ここはそんな場所に思えた。
 小川の上流を目指してなおも歩いてゆくと、やがて地面は踏み固められた道になり、川べりには水車小屋が見えた。ゆったりと回る大きな水車は、粉を引く石臼を回す原動力となるのだと、幼いころに教わったことがある。
 さらにゆくと、村の入り口らしき木柵が見えた。
 そこは周囲を森に囲まれた小さな村のようだった。石造りの塔と城壁の町しか知らない少年には、自然の中にある村というのはとても新鮮に見えた。
 村の入り口まで来ると、そこを通り掛かった一人の老人が声をかけてきた。
「やあ、ぼうや。お前さん、村のこどもではないの。どうしたのかな?道に迷いなさったかね?」
 白い髭をたくわえたその老人は、優しそうに少年を覗き込んだ。
「いえ。あの……僕」
「うん?それとも、村に知り合いでもおるのかな?」
 少年は首を振った。なんと説明したらいいものか。まさか、ドラゴンに乗ってここに来たと言っても、信じてはくれないだろう。
「おや、ぼうや。よく見ると、お前さん、とても痩せていて、顔色もあまりよくないな」
 老人は、もしゃもしゃとした髭をなでながら首をかしげた。
「それに、あまり元気もないようだ。お腹はすいているかね?」
「ええと……はい。少し」
 そういえば、昨日の朝からほとんど何も食べていないことを思い出した。いろいろなことがあったせいで、お腹がへるどころではなかったのだが、そう言われてにわかにとてもお腹がすいてきた。
「そうか、そうか。よし、ではわしの家に来るがいい」
 そう言うと、老人は少年をうながして村の中へと歩きだした。
「この村に来るのははじめてかね?」
「はい」
「そうか。では、あとで村の中を案内してあげよう。小さい村だがの、ここはなかなか良いところじゃよ」
 老人は歳のわりにはとても元気そうで、背中には薪を担いで、すたすたと歩いてゆく。少年はその後を歩きながら、見えてきた村の風景を眺めた。
 老人の言うとおり村はさほど大きくはなく、周囲を囲む木柵の内側に木でできた家がぽつぽつと建っているのが見えるくらいだ。たいていは各家の周りには小さな畑があり、そこで野菜や果物などを作っているのだろう、ときおり見かける村人は畑を耕したり、草をむしったり、あるいはこの老人のように薪を運んだりと、それぞれ忙しそうに働いている。
「村人はそう多くはないがの。しかし祭りのときなどには、近くにある他の村からもここに人が集まってきて、なかなかにぎやかになるんじゃよ」
 老人がそう話してくれるのを聞きながら、少年は簡素な木造りの家々や、畑の周りにひかれた水路、そして畑仕事に精を出す人々などを、興味深げに見回した。
(こんな森の中にも、普通に人が住んでいるんだ……)
 そんな当たり前のことに、なんだかとても感心する。木々に囲まれた自然の森の中に、少しずつ人間が集まって、こうして土地を切り開き、村をつくったのだ。
 考えてみれば、石造りの高い塔も、立派な城も、人間の手で造られたものに違いない。しかし、今まで少年にはそうしたものは、初めからそこにあるものだとばかりに思えていた。けれども、実際に木を切ったり、石を削ったりする者がいなければ、家も城も建たないのだ。それを、彼は今はじめて理解した気がした。
(人間は、すごいんだなあ……)
 そんな感動を味わうこと自体が、とても不思議な気分であった。
 さらに村の道を進んでゆくと、彼らの横を丸太をかついだ男がすれ違った。
 その男は、すれ違いざまに少年の顔をじろりと見た。口は黒い髭に覆われた、目は異様に鋭く、どこか恐ろしいふうな感じだった。じろじろとこちらを見ている男から、少年はあわてて目をそらした。
「あれは、村のはずれに住む木こりの男じゃよ」
 そのまま男が行ってしまうと、ほっとする少年に老人が言った。
「数年前からこのあたりに住んでいるようだがの、なんとも無愛想な男で、たまに会ってもろくにしゃべりもせん。まあ、ああやって丸太を運んで家を建てたり、修理をしたりするのが仕事だからの。無愛想でもあまり害はない。なに、気にしないことじゃ」
「はい」
 老人はそう言ったが、さっきの男の自分を見る目つきがあまりに怖かったので、彼は歩きながらも、何度か後ろを振り返らずにはいられなかった。
「さあ、着いた。ここがわしの家じゃよ」
 老人が立ち止まったのは、村の中央あたりにある大きな木の前だった。
 見ると、その木はいったい人間が何人輪になったら周りを囲めるのか分からないくらい、とてつもない太い幹をした巨木であった。だが、老人の言う家はどこにも見えない。
「上じゃ、上じゃ」
 ほっほっと、笑いながら老人が指さす。
「あっ」
 見上げると、少年は思わず声を上げた。
「木の上に……家がある!」
「ほっほっ、驚いたかの。あれがわしの家さ」
 上を見上げてぽかんと口を開けている少年に、老人は自慢そうに言った。
 それは、まさに木の上の家だった。それも、単なる小屋などというものではなく、ちゃんと大きな屋根と煙突もある立派な家である。
 木の上に突き出したテラスには花が飾られ、緑の蔦がからみついた柵といい、なかなかこじゃれた造りで、その家を支える太い幹の周りには、木で造られた階段が螺旋を描いて地面まで続いている。少年は、これまで見たことも聞いたこともない、巨木の上に造られたその家を、不思議そうに見上げた。
「おや、村長さん。その子どもは、お客さんですか?」
 そこへ通りかかった村人が声をかけてきた。
「うむ。村の入り口にぽつんと立っておったのでな、我が家に迎えることにした」
「そうですか。ぼうや、よかったな。村長さんがじきどきに家に招待するなんて、なかなかないことだぞ」
 村人は老人に向かってまた頭を下げ、通り過ぎていった。
「さて、ぼうや、では行くとしようか」
「は、はい」
 この老人が村の村長だったということも驚きだったが、それよりもやはり、少年にはこの木の上の家が気になってしょうがない。慣れた足取りで丸太の階段を上ってゆく老人に続き、彼もおそるおそる、高い木の上へと続く階段に足を踏み出した。
 幹を周りの階段をぐるぐると上ってゆきながら、少年は足元にどんどん小さくなってゆく地面を見下ろした。それにしても、この木の幹の太さときたら、もしかしたら彼のいた塔よりも、さらに大きかったかもしれない。
 老人はよほど足腰が強いのだろう、息も切らさずひょいひょいと階段を登ってゆく。
「こんな木の上に家を造ったのにはじつは訳があってな。もしもの時には、わしの家に村人たちが上ってきて、避難できるようにしたんじゃよ」
「もしもの時?」
 こんな高いところに逃げなくてはならないなんて、それはいったいどういう時なのだろう。洪水とか家事とか……少年にはそのくらいしか思い浮かばなかった。前をゆく老人は、ほっほっ、と笑うだけで、それ以上は言おうとしなかった。
「さあて、ほらもうすぐそこじゃよ」
 さすがに階段を上る足がつらくなりだした頃、ようやく目の前に家が見えてきた。
「我が家へようこそ。ここは湿気もなくて、夏はなかなか涼しいのが自慢での。このバルコニーにはときどき客を呼んで、宴会をしたりするのじゃ」
 少年はあらためてその家を見上げた。
「すごい……」
 太い幹のちょうど枝分かれした部分を土台に、その家は建てられていた。三角に尖った屋根の上には、天然の屋根というべき巨木の梢が青々と緑を繁らせている。木の上に張り出したバルコニーはちょっとした中庭のように整えられていて、木製のテーブルと腰掛けが置かれ、周りにはたっぷりと花が飾られていた。ここからは村中を見下せそうだった。少年はすっかり疲れも忘れ、巨木の上のバルコニーから周りを見渡した。
「さあ、ともかく中にお入り。なにか飲み物と……おお、お腹もすいているのだったな、食べ物もだの。話はそれからじゃ」
「はい。ありがとうございます」
 家の扉をくぐると、中は風通しがよいのか、とてもひんやりとしていた。木でできている上に、実際の木の上にあるのだから、それは当然かもしれなかったが。さわさわという優しい梢の音が、耳に優しく聞こえてくる。
「おや、これはこれは、かわいいお客さんだこと」
 奥の部屋から現れたのは、白い髪を結い上げた老婦だった。
「婆さんや、このぼうやに食べ物と飲み物を持ってきておくれ」
「はいはい」
「さあ、そこへおすわり。今ミルクとパンを持ってくるから」
 バルコニーを見通せるその部屋は、この老夫婦のくつろぎの場所なのだろう。ゆったりとした安楽椅子の近くには、あみかけの編み物や本などが置かれ、テーブルにはお茶のための食器が準備されていた。
「さあさ、なにもないけれどね」
 老婆は運んできた盆の上から、パンとミルクに、はちみつ、ジャムなどを少年の前に置いてくれた。
「さあお食べ。あとで婆さんの得意なパイを焼かせよう」
「はい。いただきます」
 少年はパンを手に取り、ひとつちぎって口に入れた。
 焼きたてのパンの、香ばしい香りが口いっぱいに広がった。塔の中で食べていた冷えきった固いパンとは違い、それはなんとも美味しく、ひと口食べただけで嬉しい気持ちになった。
「おいしい……」
「そうかい。よかったの」
 少年はまたパンをちぎり、それを大切そうに食べた。木のボールに入れられたミルクに口を付けると、甘いなつかしい味がした。
「村で飼っている牛から今朝とれたばかりのミルクさ。美味しいかね?」
「はい。美味しいです。とっても……」
 カップにお茶を注ぎながら、老婦はにっこりと微笑んだ。
 ただのパンとミルクだけだというのに、なんと温かい食事なのだろう。少年は体の奥底から、幸せな気分が井戸の水のように、じわじわと涌いてくるのを感じた。パンにはちみつやジャムを塗り、少年はそれをいくつもたいらげた。その間、老夫婦はお茶を飲みながら並んで腰掛け、穏やかな笑顔で少年を見守っていた。
「よほどお腹がすいていたんだの」
「いいのよ。ゆっくり、好きなだけお食べ」
 優しい老夫婦の言葉は、少年にとって久しぶりに感じる、人間らしさのこもった暖かな言葉だった。
「ありがとうございます」
 冷たい石壁に囲まれた塔の部屋で、死にかけていた少年の感情が、少しずつ少しずつ、外に向かって生まれ出てゆくように……
「ありがとうございます……」
 少年は震える声でそう繰り返した。パンをちぎりながら、いつしか少年は涙ぐんでいた。
「どうした?なにか悲しいことでもあったのかね?」
「いいえ。いいえ……ただ、」
 顔を上げると、優しい老夫婦の顔がそこにあった。
「あの、嬉しくて。僕……」
 抑えようとしても、どうしてもにじみ出てくる涙を、少年はこらえられなかった。
「可哀相に。きっと今まで、たくさん我慢してきたんだね」
 隣にきた老婦が少年の背を優しく撫でた。
「おばあさん。僕……」
「いいんだよ。なにもいわずとも。泣きたいだけ泣いて、そしてすっきりしてお眠りね。明日になれば……そうさ、またきっと元気になっているさ」
「そうじゃな。今日はここに泊まってゆくがいい。いや、今日といわずとも、好きなだけそうしていきなさい」
「ありがとう。ありがとうございます」
 少年は、精一杯の感謝の気持ちを、その声に込めた。
 その夜、彼は長い間知らなかった、清潔な寝台とふかふかの毛布にくるまり、安らかな眠りに落ちた。そして翌朝、鳥たちのさえずりを聞いて目覚めると、少年は、なにもかもが快適な朝というものがあるのだと知った。
 窓から差し込む朝の光は、塔の部屋の格子窓とは比べ物にならないほど明るかった。
 やわらかな光の中で、太陽の匂いのする毛布から抜け出すと、涼やかな空気が少年の頬を撫でた。
 ここは暗い石造りの冷たい部屋ではなく、屋根裏の小さな部屋だった。木の香りに包まれた部屋は掃除が行き届いていて、むろんあのいやなカビの匂いもしない。窓辺に立つと、少年は思い切り体を伸ばし、さわやかな空気をいっぱいに吸い込んだ。
「ああ……」
 窓の外には、この家を支える巨木の、緑の繁った見事な枝たちがたくましく伸び、その周りを鳥たちが楽しそうに飛び回っている。
 世界は光に満ちていて、なにもかもが輝き、調和していた。そんなことを感じたのは、あるいは彼には生まれて初めてであったかもしれない。その間にも、下の階からは、煮込みスープのいい匂いがただよってきて、老夫婦の楽しげな声が聞こえてくる。
「おはよう。どうだね、よく眠れたかな」
 階段を降りて昨日の居間へゆくと、椅子に腰掛けてパイプをふかす老人が、ゆったりとうなずきかけてきた。
「はい。おはようございます」
「もうすぐ朝食の支度ができるからね。そこで待っていておくれ」
 台所からは老婦の声が上がる。
「はい。本当に、ありがとうございます」
 煙をくゆらせる老人が、ふぉっふぉっと笑って言った。
「なあぼうや。そんなに丁寧なお礼なんかはもういいんじゃよ。わしらは好きでこうしているんだから。おまえさんを泊めたのも、我々がおまえさんを気に入ったからなんじゃよ。だからそんなにかしこまらずとも、こどもらしく笑って、うなずけばよいよ」
「はい」
 少年はうなずき、にっこりと笑った。
 昨日まで、げっそりと青白い顔をしていた彼は、たった一晩やすらかに眠っただけで、見違えるように顔色が良くなっていた。ぎょろりとして怯えたような目は、子供らしい愛嬌をかすかに覗かせ、まだ頬は少し痩せていたが肌つやはずっと良くなっていた。なにより、その目にあった暗い絶望の色はもうすっかり消えていた。
 少年は、歳相応の可愛らしい子どもであった。いくぶんおどおどとした様子は残っていたが、それは彼の持つ元々の性質であったし、彼の礼儀正しさは、幼い頃より両親から教えられた王族としてのふるまいであった。
「おうそうじゃ、」
 老人がぽんと手を叩いて言った。
「ところで、すっかり聞くのを忘れていたが、お前さんはなんという名なんだね?」
「えっ?」
 少年はどきりとした。
「あの……僕」
 セトールという名前が、すぐ口もとまで出かかったが、少年はその名を告げるのをためらった。それが、この国の王子の名前であるなら、この村の人々も自分のことを知っているかもしれない。そうなると、親切にしてくれたこの老夫婦にも、なにか迷惑がかかるのではないか。あるいは、老人はその名を聞いたとたん、もしかしたらいきなり怖い顔になり、お城に知らせに行くなどと言いだすのではないか。
 少年の脳裏に、そういった様々な不安がよぎった。
「僕……僕は」
 心の中で老人にあやまりながら、
「ペ、ペトル」
 とっさに思いついた名前が口から出た。
「ほう。ペトルか。なるほど、可愛らしい名前じゃの」
 老人は何の疑いもなくうなずき、にっこりと笑った。
「ペトル。よし、ではこれからは、お前をペトと呼ぶことにしよう。いいかね」
「はい」
 少年は奇妙な感覚に体を震わせた。
 嘘をついたという罪悪感もあったが、それ以上になにか、不思議なものが心の奥から沸き起こるような、突然、体が軽くなったような、なにかからはじめて開放されたような、それは、そんな感覚であった。
(ペトル……僕はペトル)
 自分自身にそう言い聞かせると、本当に自分がペトルという名を持った少年であるような気がしてくる。すると、あの暗く恐ろしい塔も、父も母もいないあの城も、しだいに遠い場所に感じられ、すうっと気が楽になるのだ。
「ペトや」
「はい」
 優しい老人の声に顔を上げると、まるで自分が生まれ変わったような心地になった。
「さあ、食事にしよう」
「はい」
 少年は笑顔でうなずいた。
 テーブルの前に座ると、絞りたてのミルクと香ばしいパンが、彼を出迎えてくれる。
「ペトや、たくさん食べて元気におなり」
「お前さえよければ、何日だってここにいていいんだよ」
 心地よい木の匂い、清浄な水と空気、窓から見える緑の梢と、大きな青い空。それに心をかけてくれる優しい老夫婦。それ以上、彼になにが必要だったろう。それは、毎日、暗い部屋に一人起きては、楽しい夢からさめたことにガッカリとしていた、昨日までからは考えられない穏やかで心安らぐ生活だった。
(僕はペトル。ペトルなんだ)
 少年は、明日が来ることへの希望を感じながら、その日もまた眠りについた。
 心地よく、幸せな木の家での生活と、ゆるやかなときの流れは、少年の心の傷をゆっくりと少しずつ、しかし確かに癒していった。
 そうして三日もたつ頃には、少年はすっかり見違えるように元気になった。
 たくさん食べ、よく眠ったおかげで、痩せていた頬は今ではつややかに膨らみ、大きな目には子供らしい輝きがあふれ出した。そして彼は笑うことが多くなった。
 老夫婦ともすっかり打ち解け、今では老人についていって森で薪拾いを手伝ったり、老婦と一緒に、小川へ水汲みにも出掛けるようになった。育ち盛りのこどもには、よく食べてよく眠り、体を動かすことは、なによりも必要なことだったのだ。青白かった肌には血の気がさし、ひょろ長く細かった手足にもしっかりと肉がついてきて、あれほど大変だった巨木の階段の上り下りにも、今ではすっかり慣れた足取りで、老人を追い越したりした。
 木の上の家での生活は、行き届いた城の豪勢さとも、暗く冷たい塔の上とも違う、自然のぬくもりとやすらぎ、そして生活の体力を、少年に優しく教えてくれたのだった。
「ペトや、明日は村のお祭りがあるよ」
 あるとき、安楽椅子でパイプをふかしながら老人が言った。
「お祭り?」
 バルコニーの花に水をやっていた少年は、目を輝かせて振り返った。すっかり健康を取り戻したそのなめらかな頬を上気させ、彼は聞き返した。
「そうだよ。まあ祭りといっても、今度のはごく小さなものだがの。その翌日から肉を絶つ一週間が始まるから、その前に好きなだけ食べたり飲んだりして騒ぐのさ。それに、吟遊詩人や旅芸人なんかも来るだろうから、この家のすぐ前の広場には、村の連中が集まってきて、歌ったり踊ったりと、それはにぎやかになるじゃろう」
「へえ。楽しそう」
「いつもは静かな村だがの、祭りの日ばかりは誰もが仕事を忘れて楽しむのだよ。ペトや、お前さんもすっかり元気になったから、明日は一緒に歌ったり、踊ったりして楽しむといい。うちの婆さんときたら、明日のために、今日は料理やお菓子の仕込みにかかりきりだわい」
 そういえば台所からは、今朝からひっきりなしに、焼いたり切ったりする物音が聞こえている。コトコト、ジュージュー、という音を聞きながら、少年は明日はいったいどんなものが食べられるのかと、楽しみに胸を膨らませた。
(お祭りか……)
 その日はなかなか寝られなかった。
 思い出すのは、やはり五月祭での風景だ。
 父や母、それに城の人々と一緒に、森で過ごした華やかなひととき。あのときの、焼きたての肉や、料理長が腕を振るったお菓子は、本当に美味しかった。
(久しぶりだなあ……お祭りなんて)
 人々の楽しい笑い声に、音楽、手拍子と踊り……記憶の中にあるなつかしい思い出が、次々と頭に浮かんでは消え、少年をなかなか眠らせてくれなかった。
 翌朝、彼を起こしたのはいつもの鳥のさえずりではなく、誰かの楽しげな歌声だった。
 窓の外から聞こえてくるその歌声は、吟遊詩人のものだろうか。竪琴の音色に乗って歌はゆるやかに続いている。
「夜の夢、狩の夢、空をゆく鷹と冒険、さあ旅の始まりだ。大空と雲を見上げて、ともに旅立とう。やー」
 それは、今まで彼が聞いたこともないような歌だった。なんとも生き生きとしていて、とても楽しいメロディに溢れている。
 ペトルはすぐさま窓辺に近寄って耳をすませた。
「たわいない冒険にも、意味はある。変わらない勇気に導かれ、僕は進む、僕は登る。火の山へ。僕は進む、僕は越える。あの森を」
 歌声は朗々と響き、いよいよクライマックスに差しかかろうというように、竪琴の音色も高まってゆく。屋根裏部屋の窓からでは、巨木の枝に隠れてしまい、下の様子はよく見えない。少年はもどかしくなり、顔を洗うのも忘れてあわただしく階段を駆け下りた。
「おや、ペトおはよう」
「おはようございます、おじいさん。ちょっと僕……下へ」
「ああ、あの歌かね。いいよ見ておいで」
 老人の言葉にうなずくと、ペトルは大急ぎで外へ飛び出した。
 歌はまだ続いていた。
「たび重なる、冒険と、戦いに。ときに勝ち、ときに負け、泣き笑い。そして、たどり着いたのは、緑の丘。そこから見えた、我が町よ、おおお」
 巨木の階段を下りてゆくと、広場にはもうけっこうな人だかりができているのが見えた。
(きっとおじいさんの言っていた、吟遊詩人が来ているんだ!)
 息を切らせながらペトルは巨木の階段を降りた。広場の前に来ると、ちょうど歌は最後の場面に差しかかるところだった。
「お帰り、長い旅と冒険の日々。迎えた笑顔に、僕は言う。ただいま、なつかしい人々よ。僕は帰る。約束どおりこの町へ。今、帰る。君のもとへ。空は晴れ、雲は流れ、そして、僕はここにいる」
 竪琴のさいごの一音がつまびかれ、曲が終わると、集まった人々から拍手喝采が上がった。
「いいぞう」
「ブラボー」
「ありがとう、ありがとう皆さん。聞いていただいたのは、冒険と旅の序曲。作詩作曲はこの私、銀の竪琴を弾き鳴らす旅の吟遊詩人、レファルドです」
 拍手と歓声に包まれた人々の輪の中で、詩人が帽子をとって挨拶するのが見えた。
「とりあえず、今朝はここまで。あとは夕方のお祭りで、またお聴かせします」
 通りのよい澄んだ声は、さすがに歌をなりわいにする吟遊詩人のものだった。集まった人々からも、口々に「いい声だ」、「上手いぞ」と賛辞が上がる。
 地面に置かれた帽子に、チャリンチャリンと、銀貨や銅貨が投げ入れられる。慣れた様子でそれを拾って革袋に入れると、詩人は尖った三角帽をかぶり直し、背中に竪琴をかついだ。
「では、みなさん。また夕方にお会いしましょう」
 もう一度詩人が頭を下げた。広場に集まった人々が散ってゆく中、少年はしばらく、目の前にいるその詩人を珍しそうに見つめていた。
 やや派手な緑色のチュニックに革のチョッキを着て、肩にかかるくらいのブラウンの髪。まだ若そうなその詩人は、その声と同じになかなか綺麗な顔をしていた。
「おや、ぼうや。どうしたい?歌はいったん終わりだよ」
 少年に気づいて、詩人が声をかけてきた。
「あ、あの……」
 ペトルは照れたように顔を赤くしながら、おずおずと言った。
「さっきの歌、良かったです」
「そうかい。それはありがとう。ぼうやのような小さな子に、そう言ってもらえると嬉しいな」
 詩人はそう言ってにっこりと笑った。
「オレはレファルド。見てのとおり、旅のミンストレルさ」
「僕は……ペ、ペトル」
「そうか。よろしくなペトル」
 詩人が手を差し出した。
「よろしく」
 ほっそりとした詩人の手をにぎりながら、ペトルは、相手を見上げた。
 吟遊詩人という種類の人間は、昔城にいた頃にも何人か見たことがあった。たいていはみな、汚らしい恰好をして、髭だらけの顔に黄色い歯を見せて、げらげらと笑うような者ばかりだった。なので、このように若くて綺麗な詩人も世の中にはいるのだと、彼はとても驚いたのだった。
「また夕方にこの場所で歌うから、よかったら聴きにきてくれな。なに、こどもからは金はとらないさ。あと若くて綺麗な娘からもね。オレたちの使命は、冒険や神話や伝説を歌にして、人々に聴かせること。とくに女性には優しく、こどもにもまあまあ優しく、その次に老人にもそこそこ優しく……ってのが、オレのモットーなのさ」
 詩人はそう言って、ひょうきんそうに片目をつぶって見せた。
「それにさっきのは竪琴だったけど、他にもリュートの曲もあるし、縦笛も吹けるんだ」
「縦笛って……僕、聴いたことない」
「そうだな、じゃあちょっと、特別に聴かせてやるよ」
 詩人はポケットから小さな笛を取り出し、少年の前で軽やかに吹きはじめた。愉快だがどこかなつかしいような、やわらかなメロディが響きわたる。巧みに動くその細く長い指先に、ペトルはうっとりと見とれた。
「……とまあ、こんな感じ。どうだい?なかなかだろう。オレは歌だけでなくて、笛も竪琴にも自信があるんだ。たいていの吟遊詩人は、歌はいいが演奏はだめだったり、その逆に演奏はなかなかだが歌がいまいちだったりと、そういうのが多いんだけど、オレはどっちも上等なのさ。だから、今までもいろんな町や村へ行ったけど、どんな所でもみんな喜んで喝采して、褒めてくれるんだ」
 自慢げに言いながら、詩人は笛をポケットにしまった。
「さてと、夕方までまたあるから、ちょっとひと休みするかな。なにしろ、ついさっき着いたばかりだから、ハラもすいているし。そうだ、ぼうや……ええとペトルか。村長の家ってのは近くにあるのかい?」
「え、ええ。この木の上がそうだけど」
 ペトルが背後の木を指さすと、詩人はそれを見上げて「おお」と声を上げた。
「なんと、これはすごいな。この木の幹の太さときたら。南の樹海にだってこんな巨木は見たことない!」
 詩人は感心したようにうなずき、言った。
「この村は小さいが、なかなか面白い村のようだな。さて、とりあえず、祭りに出るときの決まりだからな、村長には一度挨拶しておかないと。そういえばペトル、さっきこの家から降りてきたようだったが、もしかしてあんたはこの家の子なのかい?」
「あ、ええ。でも、……えーと」
 なんと言おうかと少し困ったが、今の自分はこの家に住むただのペトルなのだと思い直してうなずいた。
「そのう……そうです」
「そうか。そりゃちょうどいい。じゃあ、案内してくれないか」
「は、はい」
 少年は詩人を連れて、木の上へ続く階段を上りだした。
「それにしてもさ、ペトル」
「はい」
「あんたは、こどもにしてはずいぶんと礼儀正しいんだな。なんというか、ただの村の子供というよりは、まるで……そうだな、どこかの王子様みたいだ」
「……」
 思わず少年はどきりとしたが、それを顔には出さないよう気をつけた。
「たぶん、よほど育ちがいいんだろうな。それとも親の教育がよかったのか。顔もけっこう綺麗だし、うまくすれば貴族のぼっちゃんでも通りそうだぜ」
 ペトルは小さく笑っただけでなにも言わなかった。竪琴を背負う詩人の方は、階段を上るにつれて息を荒くしはじめ、もう無駄な話はしなくなった。
 木の上の家に着くと、ペトルは村長である老人にレファルドを紹介した。詩人が得意の歌を一曲披露すると、老人は大いに喜び、祭りへの参加を認めるとともに、宿が決まっていないという詩人に一晩の部屋を貸すことを申し出た。それにはペトルも大喜びだった。詩人は老人に丁重に礼を述べると、少年には笛と竪琴を教えることを約束してくれた。
(楽しみだなあ。詩人さんの歌)
 部屋に戻ったペトルは、早く夕方にならないかと、わくわくと胸を踊らせた。
 その間にも老婦による料理の準備は着々と進み、しだいに下からはとてつもなくよい匂いが漂ってきた。詩人の部屋からは、祭りでの演奏の練習だろう、優雅な竪琴の音色が聞こえてくる。
 日暮れが近づくにつれ、村の広場には少しずつ人々が集まりだしていた。
 城壁都市の大広場に比べれば、村の広場はたいして大きくはなかったが、それでも広場の中央には旅芸人や吟遊詩人のための簡素なステージが造られ、その周りには、食べ物や飲み物を売る屋台が次々に立てられた。その日の仕事を終えた村の大人たちが集まってくると、広場はがやがやとしたにぎわいに包まれ始めた。
 食べ物の屋台からは、肉の焼けるじゅうじゅうという音や、香ばしいパンケーキの香りがただよい、祭りを楽しみにしていた子供たちは、さっそく親の手を引いて目当ての屋台に殺到した。大人たちは、この日ばかりはと、日頃は我慢していた葡萄酒やビールをちびりちびりと飲みながら、知り合いの顔を見つけると、寄っていってゴブレットを片手に談笑を始めた。村長夫人の手による煮込み料理と焼き菓子も、集まった人々に配られ、貧しいものにも老人にも子供にも、みな同じように食べ物が行き渡っていた。
 西の森の向こうに夕日が沈みだすと、広場に置かれた松明や、燭台の蝋燭にいっせいに火が灯された。いつもは夜がくれば眠るだけだった村の生活も、この日だけは夜更かしも許されるとあって、人々は皆、祭りへの興奮と期待に顔を火照らせていた。
 広場に集った人々のざわめきが最高潮に達するころ、木の上の家から村長夫妻が下りてきた。いつもより少しだけ派手なローブに身を包んだ村長とその夫人、その後ろから可愛らしい小年と竪琴をかついだ詩人が下りてくると、人々は拍手で彼らを迎えた。
「こんばんは、村のみんな。今日は共に、愉快な祭りをすごそうじゃないか」
 ステージの上に立った村長が、白い髭の間から口をにっかりと開けて人々に告げた。
「今日ばかりは、日頃の仕事も忘れて、好きなだけ食べ、飲んで、騒ごう。旅芸人の曲芸を見て、吟遊詩人の歌を聴き、一緒に歌い、踊り、楽しもう」
 広場に集った人々からやんやの拍手が起きる。続いて、旅芸人や吟遊詩人たちが順番に舞台へ上がってゆく。
 まず最初に、リュートやフィドルなどを手にした楽団が、軽快な音楽を奏ではじめると、人々はさっそく周りのものを誘って踊り始めた。村中の人間が集まっても百人もいなかったろうが、それでもこんなにこの村がにぎやかな空気に包まれることは、めったにないことだった。祭りの楽しさは、自然に人々の顔を火照らせ、子供も大人も、若者も老人も、誰もが生き生きとして見えた。
 ひと通り踊った後は、旅芸人の見せ物が始まった。人々は屋台で買った食べ物屋や飲み物を片手に、舞台の上の芸人たちの、飛び跳ねたり、空中で回転したり、頭の上に人を乗せたりする曲芸に目を輝かせ、大いに笑い、手を叩き、楽しんだ。
 ステージの隅に座るペトルは、どきどきとしながら順番を待っていた。
「おい、あまり緊張するなよ」
 横から詩人のレファルドが声をかけてきた。
「さっき教えたたとおり、簡単な音だけでいいんだからな」
「う、うん」
 詩人から借りた縦笛を手にして、ペトルは指を動かす練習をそっと繰り返した。
 夕暮れまでのごく短い間に、簡単な笛の音の出し方を習ったのであるが、詩人のレファルドは、一曲だけ自分の竪琴に合わせてやってみようと言いだしたのだった。まさか、祭りの本番の舞台に自分が立つことになるとは思いも寄らず、少年は笛を手にしながら緊張にその指を震わせた。
「なあに、大丈夫だって。ちょっとくらい間違えたってさ。オレの歌でカバーしてやるから」
 レファルドは気軽にそう言うが、こんなに大勢の前で演奏するなど、もちろんペトルには経験がない。人々に馬鹿にされたり、下手くそと文句を言われないかという心配で、彼ははらはらどきどきであった。
「おっ、前の芸人が終わったみたいだぞ。次はオレたちだ」
 いよいよ順番が来た。こうなったらもうやるしかないと、ペトルはぎゅっと笛を握りしめた。
 ステージの中央に出たレファルドは、慣れた様子で人々に向かって帽子をとり、軽やかに挨拶をした。ペトルも舞台のやや後ろの方で頭を下げる。
「この度は、この村のお祭りに参加を許されました。旅の吟遊詩人レファルドです」
「よっ、いいぞ」
「歌の上手いお兄さん!」
 今朝すでに、彼の歌を聞いていたものだろう、客席から待ちかねたような拍手と声が上がる。
「どうも、どうもありがとう。盛大な拍手を受けて、詩人として光栄の極み。世界を旅しながら、国々の物語や伝説、悲喜こもごもの歌を歌い、神話を語る。このレファルドの歌に聞き入れば、知らない世界の山と海、野原と川とお城と姫君、王子と竜と小鳥の姿が目に浮かぶ。聴いてらっしゃい、詩人の歌を。愛と涙と冒険の歌を」
 仰々しい口上を述べながら、竪琴の弦を調律すると、彼はさっそく歌いはじめた。
「大空を飛ぶ鳥に魅せられた、王子様の哀歌」
 ロマンティックなメロディに乗せて、詩人の歌が始まると、人々はすぐにうっとりと聴き入った。
 高く澄んだレファルドの声は、まるで悲劇の王子の叫びのようで、流れるような指さばきから生まれる音は、そのひとつひとつが美しく、雅びな宮廷の白亜の柱や、大理石の床、そこにいる華やかな姫君たちの姿を、まるで目の前に見るようだった。悲しくも美しいその歌は、集まった人々の胸をうった。歌が終わると、拍手と一緒にすすり泣きの声すらも聞こえたほどだった。
「さあ、次はお祭りにふさわしい楽しい歌を!」
 詩人はリュートを取り出すと、うってかわって、今度は軽快なテンポで歌いだした。
「踊る、踊るよ、祭りの夜だ。僕の娘はあの子かな。踊る踊るよ、祭りだ酒だ。今日のあの子は優しいぞ」
 三拍子の愉快な曲につられ、人々も立ち上がり、踊りだした。自然と手拍子も始まってゆく。
「夜は続くよ、この夜は、燃える焚き火と星の空。きっと続くよ、明日の夜も、旅に別れにまた笑顔」
 朗々とした詩人の声と、人々の手拍子と掛け声とが、広場中に響きわたる。心から楽しそうに歌う詩人の顔を見ていると、人々もなにもかもを忘れて、ついつい笑顔で踊りだしたくなるのだった。
「さあ、ありがとう。何曲か披露したけど、まだまだこれからだよ。次はなんと、ここにいる可愛い少年が笛を吹くよ。僕の竪琴と歌に合わせてね。さあ、聴いておくれ。旅だちのとき」
 レファルドがこちらを振り向き、軽くウインクした。
 出だしを間違えないように。それだけを考えて、少年は笛を吹きはじめた。
 人々の歓声と手拍子を聴いている余裕は、ペトルにはなかった。ただレファルドの竪琴のリズムに合わせて、教わったメロディを吹き続けるだけだ。
「……ときがきて、僕は旅立つ。さらば、僕の町よ。さらば妹よ。城壁を越えて、荒野をさまよい、日が暮れて、ただ僕はひとり」
 詩人の声が、しっとりと情感を込めて歌い始めると、人々の手拍子が大きくなる。少年のパートは、最初とサビの部分だけであるから、途中でたっぷりと息継ぎをして、次にそなえる。
「さあ、帰る道なく、あの船に乗れば、僕は戻れない。夜の星に向かい、願うのはひとつ。平和に、幸せに、過ごしてほしい」
 途中、曲に入り損ねてあせったが、レファルドの歌のおかげで、誰も気づきはしなかった。なんとかまたもとのメロディに戻れたときには、少年はほっとして、さっきよりも少しだけ楽しく吹けるようになっていた。
「太陽が輝く、どの町でも。日は上り、また沈むだけ。明日がきて、明日が過ぎても、僕はただ生きる。いつか帰れる日がくれば。また会える笑顔もあるさ」
 詩人の歌声は、いよいよ広場にいる人々を包み込むように、高まってゆく。
「町に朝が来る。僕はここにいる。そして、また今日がはじまる」
 最後のメロディをつまびき終えて、詩人が指をとめた。ペトルもほっとして、笛から口を離した。
 次の瞬間、人々の拍手が鳴り響いた。
「いいぞう!」
「すごく良かったぞ」
「すてきよ」
「よくやったぞ、ぼうや」
 拍手と喝采、人々の歓声に包まれて、ペトルは顔を真っ赤にしてステージに立っていた。
「素敵な笛の音色をありがとう。みなさんペトル少年に拍手を!」
 詩人がそう紹介すると、客席の人々からはまた、大きな拍手が上がった。
「あ、ありがとう」
 少年は人々に向かって頭を下げ、頬を火照らせながらステージを下りた。
 体がジーンとして、頬が熱かった。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
「よくやったぞ。ペト」
 客席の一番前にいた老夫婦が、少年を出迎えた。
「ありがとう。おじいさん、おばあさん」
うなずく老人の横で、老婦の方は何故だか涙ぐんでいた。
「どうしたの?おばあさん」
「いいや。よくやったよペト。ただ、ただね……」
 老婦の顔が悲しげに笑っていた。
「あの子も……セシリーも、音楽が好きだったから。思い出してしまって……あの子は、歌がそれはそれは好きだったのよ」
「セシリー?」
「婆さん。そのことはもう言うな。ここにいるのはセシリーではなく、ペトなんだから」
 さっきまで笑っていた老人も、顔をくしゃくしゃにして、笑うのだか泣くのだかわからない表情になっていた。
「おじいさん?」
「ほんとうに、ほんとうによかったよペト。お前さんの演奏が聴けて。今日はそれだけでも、本当によかったわい」
 老人はそう言って、ただ何度もうなずくのだった。


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