騎士見習いの恋  6/10 ページ

      

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 翌日からはまた、いつもの日々が始まった。
 夏を迎え、青々と緑の葉を繁らせた庭園の広場では、若者たちの朗々とした掛け声が響き渡る。見習いの少年たちは、トーナメントで見た騎士たちの戦いを思い出し、そこに自らの将来を重ねるようにして木剣を振った。
「ちぇ、つまんねえの」
 右腕を負傷したリュシアンは、固定された添え木が取れるまでは、しばらく稽古を休むことが許されていた。
 最初の数日間こそ、早起きして稽古に行かなくて済むことに幸せを感じたかれだったが、そこは若く、動きたがりの年頃である。一週間もしないうちに、彼はただ家でじっとしていることに苦痛を覚えはじめた。
 カルードからは、怪我がちゃんと治るまでは稽古に来るなと、固く言い渡されている。なので、リュシアンは毎日家でごろごろしたり、時々散歩に出たりする以外には何もすることがなかった。
 母親のクレアは、あの日試合から帰ってきたリュシアンの姿を見るなり、悲鳴を上げたものだった。彼女はリュシアンの右腕を見て、もう剣なんてやめるようにと涙ながらにうったえたが、付き添ってきたカルードの説明を受けて、骨は折れてはいないこと、安静にしていれば腕はひと月でもとに戻ることを知らされると、やっと胸をなで下ろしたのだった。
 だもので、数日の間は母がいつもより優しかったり、炊婦のメアリが自分の好物ばかりを作ってくれることにすっかり喜んで、リュシアンはおとなしく家の中で過ごしていたが、それもやはり長くは続かなかった。いよいよ退屈がつのってくると、彼は、時々母やメアリに見つからないように、こっそり家を抜け出したりした。
 隊長のカルードは、自分のいたらなさのためにリュシアンに怪我を負わせてしまったことを、家に来るたびにクレアに詫びた。ただその後には決まって、「騎士として強くなるためには、こうしたことも乗り越えなくてはならないのです」という熱心な演説を行わずにはいられないようだった。それに感動した母のクレアが礼を述べ、カルードに「今後ともどうぞ息子をよろしく」と言うのを、リュシアンは横であくびをしながら聞いた。
 親友が退屈しきっていると聞いたのか、フィッツウースも何度かやってきた。リュシアンは友人と林を歩きながら、溜まっていたものを吐き出すように話をした。いったんマリーンのことを打ち明けてしまったこの親友の存在は非常に大きく、リュシアンは今まで誰にも言えないでいた気持ちや、マリーンとのことなどをすべて、話して聞かせた。
 騎士隊の他の仲間たちも、リュシアンを見舞いにきた。フィッツウースとともに隊の盛り上げ役でもあったリュシアンは、彼らにとっても、なかなか愛すべき存在であったらしい。
 そして、見舞いに来たのはカルードや騎士団の連中ばかりではなかった。あるとき彼を訪れたのは、剣技会のときに紹介されたソランの従姉妹の少女……コステルだった。
 さすがに一人で来るのは恥ずかしかったのか、彼女はソランの女友達、トルーデと一緒だったが、見舞いの花と菓子を手にした二人の少女がやってくると、驚いたのは母のクレアだった。これまでにリュシアンが女の子を家に連れてきたことなどは、ただの一度もなかったので、クレアは目を丸くして華やかな少女たちを迎えると、慌てて炊婦のメアリにお茶の支度をさせ、自室にいるリュシアンを呼びに行ったのだった。
 驚いたのはリュシアンも同じであった。彼が母に呼ばれて、いつものぼさぼさ頭で下りてゆくと、そこには綺麗に着飾った金髪の少女が花を持って立っているではないか。おずおずと花を差し出したのがコステルだと分かると、彼は大慌てで部屋に戻り、メアリに手伝わせて、少しましな胴着とズボンに着替えたのである。
 リュシアンは少女たちを前にして、やや照れながら、トーナメントでの試合のことなどを話したり、彼女たちの話す、たわいないいかにも女の子らしい話題を、面白そうに聞いたりした。
 コステルはとても可愛らしい少女だった。歳はリュシアンと同じく十五才で、やはりソランの従姉妹だけあって、名家の一つに数えられるという伯爵の娘であるらしい。流行の白いサテンの胴着を着て、蜂蜜色の金髪をゆったりと肩まで垂らした彼女は、いかにも品がよく、お洒落な雰囲気だった。
 リュシアンと同様、はじめのうちはもじもじとしていたコステルも、話しはじめると笑顔の絶えない明るい性格をのぞかせ、この前会った通りの印象であった。話をしているうちに、リュシアンは彼女に好感を抱いていた。上流の令嬢などとは異なり、コステルは物事をはっきりと言うし、なによりその明るい笑顔と楽しげな様子には、ついリュシアンの方もうきうきとしてくるのだった。
 帰り際には、彼女はすっかり打ち解けた様子でリュシアンに手を振った。少女たちが帰っていった後で、リュシアンは母から、「どちらの娘が好きなのか」と問われて少しいい気分になり、まんざら自分が女の子にもてなくもないのだと、にやにやしながら考えた。

 そうして、しばらくの間は、退屈ではあったがそれなりに楽しい日々が続いた。
 しかし、すぐにその数日後のこと、何日かぶりにやって来たカルードを見て、リュシアンはなにかいやな予感がした。正義感に溢れる騎士隊長が、なにやら思いついたかのように、うきうきとした顔つきでいるときにはいつもろくなことがない。
 果たして、それはリュシアンの察した通りだった。カルードは、メアリの入れたお茶と胡桃のパイが用意されたテーブルの前に座るやいなや、リュシアンとクレアを交互に見て、それをきりだした。
「家庭教師……ですか」
「そうです」
 意外な言葉に目を丸くしたクレアに向かって、カルードは力強くうなずいてみせた。
「昨日考えついたのですが、これはむしろ、考えようによっては実に良い機会です。なぜなら……」
 このあとも、延々と彼の弁舌は続いたのだが、ようするに要約すれば、怪我をして騎士の稽古に出れないリュシアンにとって、今が学問を学ぶちょうど良い機会であるということだった。
「リュシアンは三ヵ月の間、屋敷で働き、礼儀と仕事を覚えました。そして彼は変わった。今回のトーナメントに出たことも、彼が騎士の稽古に真剣に励み、実力で代表の座を勝ち取ったからなのです。試合で怪我をしたことはたしかに不運でした。しかし、さきほど申したように、これをよい方に考えるとするなら、今のうちに彼に学問させるべきだという、なんらかの啓示なのかもしれません。彼は剣士として以前よりもずっと立派になった。これから騎士として大きくなるためには、さらに学問を学んで知識を身につけ、あらゆる事態においても、冷静沈着に物事に対応してゆくことが求められるのです。そう、だから今です。今こそ学ぶべきときです。腕を吊ったまま、ひと月を無駄に過ごすことはない。彼が今できることは何か。それは学問なんです」
 相変わらずまったく見事なカルードの演説の前に、鼻くそをほじくりあくびをするという、リュシアンの抵抗は徒労に終わった。母のクレアはすっかり感動し、何度もうなずきながら、全てを任せることをカルードに告げた。それに満足したようにお茶を飲み干すと、カルードは、「さっそくよい教師を探してみます」と言い残し、リュシアンの仏頂面にはかまわずに、揚々と帰っていったのだった。
 リュシアンは母に向かって、えたいのしれない家庭教師などを家に上げるのは良くないとか、どうせひと月くらい学問をしたところで何も変わらないなどと、できうる限りの言い訳をして考えを変えさせようとしたが、それも無駄だった。ついこの間までは、「危ないからもう剣もやめて、騎士になどならなくてもよい」などというようなことを言っていた彼の母親は、「カルードの言うとおりね。立派な騎士になるためには学問も必要だわ」と、ころりと宗旨を変え、リュシアンを閉口させた。
 こうなると、それまではただつまらなかった退屈な日々だが、それがもうすぐ失われようとしていることに、リュシアンは深い悲しみを覚えた。彼は、時々家に来る親友のフィッツウースにそれを話して聞かせ、カルードの横暴さを罵り、不平を漏らしてはまたため息をついた。
 そんなこんなで、リュシアンが自宅療養を始めてから十日余りがたったある日、ついに憎っくきカルードがやって来た。
「リュシアン。リュシアン」
 母の声が聞こえたので、リュシアンはのろのろとベッドから起き上がった。カルードが来たからといって、いちいち出てゆくのも面倒くさい。しかも、どうやら今日は、前に言っていた家庭教師とやらを、とうとう決められそうな気がする。
(あーあ。もうのんびりと寝て過ごす日々は戻らないのか……)
 ため息をつきながらも、仕方なく部屋を出る。
「まったく、怪我をしているときくらい学問だのなんだのって言わなくたっていいじゃないか。カルードのくそったれ」
「リュシアン。早くいらっしゃい。家庭教師の方も一緒に来ていらっしゃるのよ」
「今行くよ」
 母の声に返事をしつつも、気分は急激に憂鬱になってゆく。
(やっぱりそうか。この分じゃ、明日からすぐ勉強を始めるとか言われそうだな。あああ)
 うなだれながら階段を下りる。いっそのこと、ここから転げ落ちて怪我を悪化させたら、学問などせずに済むだろうかと、彼は考えた。しかし、そんなことも出来るはずはない。もうすぐ十六歳になろうという自分である。それくらいのプライドはあった。
 言い訳を何も考えつかないまま、客間の扉の前にきた。もう一度ため息をつくと、彼は諦めたように扉を開けた。
「まあ、リュシアン。なにをしていたの」
 母のクレアと向かい合って座っていたカルードが振り向いた。
「リュシアン。怪我はどうだ?」
「うん……」
 曖昧に返事をしながら、にわかに落ち着かない気分が彼をとらえた。リュシアンの目に入っていたのは、カルードの横に座るその後ろ姿。なぜだか胸がどきどきした。
「今日はな、さっそく家庭教師の先生を連れてきたぞ」
 カルードにうながされるように、立ち上がってこちらを振り向いたその相手を見たとき、リュシアンはぽかんと口を開けた。
「こんにちは。リュシアンくん」
「あ……あ」
 言葉を失った彼の前で、にこりと微笑んだのは……誰あろうマリーンであった。
「まったく、この子は、ちゃんとご挨拶もできないのかしら」
 クレアが呆れたように言う。
「どうもすみません。こんなふつつかな息子ですが、どうぞよろしくお願いします」
「いいえ、こちらこそ。家庭教師なんて、初めてのことですから、なにぶん至らぬ点もあるとは思いますが」
 微笑みながら答えるマリーンに、リュシアンは頬を紅潮させた。
(家庭教師って……じゃあ、マリーンが)
「いろいろと考えたのだがな。姉上は学問にも明るいし、お前くらいの生徒になら教えられるだろうと、そう思ったのだ」
 カルードが説明した。
「それにお前も、いきなり知らない人間に教わるよりは良かろう。仕事で金をとる家庭教師よりはずっと安く済むし、最近は貴族を狙った教師の詐欺などもいるらしいからな。その点、姉上ならなにも心配ないし」
「じゃ、じゃあ、マリーン……さんが、俺の家庭教師になるの?」
「だから、さっきからそう言っているだろう」
 笑いながらカルードがうなずく。信じられない気分のままマリーンの方を見ると、彼女は黙って微笑んでいる。
「はじめは女性の家庭教師なんてね、お前にはどうかとも思ったのだけど。でも、先程からこちらのマリーンさんのお話を聞いていて、とてもしっかりした方だと分かったの。それに、なんでもマリーンさんは王立大学の先生から学問を教わったこともあるそうよ」
「そうなんだ」
 母の言葉にうなずきながら、ちらりとまたマリーンを見る。
 黒髪を後ろで束ね、首もとまでボタンのとまった白い胴着姿のマリーンは、知的で清廉な雰囲気だった。騎士隊の礼装をまとったカルードと並んだ様子は、いかにも名家の閑雅な姉弟という風である。
 そんな二人を頼もしそうに見ながら、クレアは言った。
「しかも、マリーンさんはカルードのお姉様。ということはレスダー伯夫人のお嬢様なのだわね。こうして、いつもいつも伯爵夫人にお世話になるのもどうかと思うけれど、でもやっぱり知らない人よりは安心できると思うのよ」
「そうだね」
 リュシアンはもっともらしくうなずいた。彼はもう、マリーンが自分の家庭教師になることに、すっかり有頂天になっていた。
「それに……恥ずかしい話ですけれど、いまのうちの状態だと、高いお金を払って家庭教師の先生を雇うお金もないし。あ、いいえ、もちろんね、お月謝はちゃんとお渡ししますけど」
「お気になさらないでください。リュシアンくんには、うちの屋敷でよく働いてもらいました。それに弟のカルードも騎士団で一緒なのですから、私にとっても失礼ながら彼は身内に近いと思います。彼が立派な騎士になるために、私が教えられることでお役に立てるのなら嬉しいかぎりです」
「まあ。ありがたいお言葉。何かとふつつかな息子ですが、どうかよろしくお願いいたします。ほら、お前もちゃんとマリーンさん、いいえマリーン先生にお礼を言うのよ」
「わかってるよ。うるさいな」
 リュシアンはやや照れながらマリーンに向き直った。
「えーと、あの、マリーン……さん。よろしく、お願いします」
「こちらこそよろしくね。リュシアン」
 にっこりと微笑んだマリーンを見て、リュシアンは天にも昇る気持ちだった。これからはまた、マリーンと一緒に過ごせる時間が始まるのだ。
(ああ……マリーン!)
 彼の心は、早くもマリーンとの甘い時間を思い、激しくざわめきはじめていた。
 翌日、いつにもなく早起きしたリュシアンは、着替えを済ませ、そわそわとしながら家の中を歩き回った。
 午後の一点鐘が鳴るころに、マリーンはやってきた。
「まあ、いらっしゃい先生。さあどうぞ、上がってくださいませ」
 その声が聞こえると、リュシアンは慌ただしく階段を駆け降りた。
「まあ、この子は。そんなに慌てなくてもよいのに」
 クレアが呆れ顔で言った。
「こんにちは、リュシアン」
「あ……うん」
「今お茶を入れますからね。マリーン先生」
「どうぞ、おかまいなさらず」
 クレアが炊婦のメアリを呼びに部屋を出てゆくと、リュシアンはまじまじと目の前にいるマリーンを見つめた。
(ああ、夢じゃない。マリーンは僕の家庭教師なんだ……)
 なんともいえない幸福感と、照れくささが沸き起こってくる。
「どうしたの?立ったままで。こっちに座ったら」
「う、うん」
 向かい合って腰掛けると、リュシアンはなんとなくもじもじとして相手を見た。すぐ近くでマリーンが穏やかに微笑んでいる。昨日と同様に髪を後ろで束ね、白いサテンの胴着にスカート姿の、いたって清楚ないでたちだ。
「怪我の方はどう?」
「うん。だいぶ良くなったよ。まだちょっと痛いけど、少しなら動かせるんだ」
「そう。良かったわ。無理をせずしっかりと治さなくてはね」
「うん……」
 リュシアンがなにを話そうかと思っていると、部屋の扉が開いて、クレアとメアリがお茶を運んできた。
「さあ、ハーブのお茶をお入れしましたよ。どうぞ、先生」
「どうもありがとうございます。どうかもうおかまいなく」
「なんだよ、母様。もういいから、さっさとあっちに行ってよ」
「あら、今日は最初ですもの。どんな学問を教わるのか、私も聞いてみたいわ。よろしいでしょう先生」
「ええ。今日はいきなり授業はしませんわ。まずは、どんな形で学問を教えたらよいか、リュシアンと話をしながら決めたいと思います。お母様もご一緒にどうぞ」
 リュシアンは内心でがっかりした。てっきり二人だけで親密な時間を過ごせると思っていたのに。
「今日はいろいろと書物も持ってきました。私が昔大学でいただいたものや、先日借りてきたものもあります」
 マリーンは鞄を開けると、立派な革で綴じられた分厚い書物や、羊皮紙の束を綴じたような古めかしい本などを取り出した。
「私が大学で教わったのは主に自由七課といわれているものですけど、法学や医学は女性が学ぶことはできませんから、私はそれ以外のものをいくつか学ぶことを許されました」
 母のクレアは、ちゃっかりリュシアンの隣に座って聞いている。
「私がリュシアンに教えられるのは、その自由七課のうちでもトリヴィウムといわれる三つ、文法、修辞学、そして論理学です。それからクワドリヴィウムのうちで必要と思われる算術。これも多少は教えられると思います。よろしいでしょうか?これらはきっと、リュシアンくんが正騎士となる上で、そうした学問もいずれは必要になってくると思います。今から少しでも身につけておけば、騎士の資格を得たのちでもいろいろと応用がきくのではないでしょうか」
 訳が分かっているのかどうか、クレアは感心したようにただうなずくだけだった。またリュシアンの方も、学問のことをきびきびと話すマリーンを前に、新鮮な驚きを隠せなかった。これまで、マリーンが大学に通っていたことは知っていても、彼女がそこで何を学んだり、どんな言葉で話をするのかなどは、さほど興味もなかったし、考えたこともなかったのだ。
「それでは、また明日お願いします」
 夕刻になり、マリーンを見送るリュシアンは、なんだか当てがはずれたような気分だった。学問の話を熱心に聞いていたのは、むしろ母のクレアの方だった。
(あーあ……家庭教師っていうから、きっと二人きりになれると思ったのにさ)
 遠ざかるマリーンの馬車をぼんやりと見ながら、リュシアンはため息をついた。

 マリーンが来るのは週に三日と決まっていた。せめて明日からは誰にも邪魔されず自分の部屋で教わりたいと申し出たリュシアンの提案は、あえなく却下された。「お前の部屋にはテーブルもないし、物を置くこともできないほど散らかっているでしょ。あまりにも汚くて、先生に失礼です」という、母の言い分はもっともであった。
 食事のあとで、リュシアンはマリーンから明日までに少しは読んでおくようにと言われた修辞学の書物を、自室でぺらぺらとめくった。たいして意味も分からないし、面白いとも思えない。マリーンがいなくては、こんな学問など、何一つ意味がないように思われた。
(眠くなるだけだよ、こんなの……)
 リュシアンはあくびをしながら本を閉じ、ベッドに寝ころがった。
 その翌日、マリーンが来るのを心待ちにしながら、リュシアンはどうすれば二人きりになれるかを、ひどく真剣に考えた。
「それでは始めましょうね」
 客間のテーブルで、本を広げたマリーンが微笑んだ。
「お願いいたします。先生」
 返事をしたのは母のクレアだった。彼女は昨日と同様、お茶を運んでくるとそのままリュシアンの隣に陣取った。どうやら、今日もこのまま一緒に勉強するつもりらしい。それはリュシアンにとって、ほとんど母の嫌がらせではないかとも思えたが、かといって怒りをあらわにするわけにもゆかず、彼はただ仏頂面で座っていた。
「次のページをめくって。そこを読んでみてリュシアン」
「う、うん」
「……いいえ、そこは違うわ。そこは古い文法に従って、こうなるの。わかるかしら」
「まあ、そうだったんたですの。それは私も知りませんでしたわ。宮廷の職についていながらお恥ずかしいかぎりですが」
 てきぱきと教えるマリーンに、リュシアンはうなずいたり首を振ったりしていたが、母のクレアは横から顔を出しては彼を押しのけて質問をしたりした。それにマリーンは嫌な顔ひとつせずに説明をしたが、リュシアンはますます頬を膨らませた。そんなこんなで、彼はついに授業の終わりに、「明日からは客間ではなく庭で教わりたい」と、強く母に提案したのだった。
 翌日、リュシアンは、やってきたマリーンをさっそく庭に連れ出した。レスダー伯夫人の屋敷の庭園ほど広くはないが、庭はそれなりに小奇麗に整えられていて、芝生の上には大理石のテーブルと腰掛けがあった。
「青空の下で学問をするというのも、いいかもしれないわね」
 本や羊皮紙をテーブルに置き、マリーンは晴れ渡った空を見上げて言った。風に揺れる髪をかき上げる彼女を、リュシアンはじっと見つめた。
 母のクレアは、今日は官庁の仕事に出掛けている。
(ようやく、二人きりだ……)
「どうしたの?黙ったままで」
「うん……その」
 リュシアンは照れながら言った。
「綺麗だなって。マリーンが」
「もう、そんなことばかり。ダメでしょ。ほら、本を見て」
「ねえ、マリーン」
「なあに」
「どうして……マリーンは、僕の家庭教師になったの?」
 椅子に腰掛けて本を開きながら、リュシアンは訊きたかったことを口にした。
「やっぱりカルードに頼まれたから?」
「そうね……。カルードが私を教師にしようとしたのは、君を教えるのにちょうど良いと思ったのは本当でしょう」
「でも私は……」
 彼女は少しためらいがちに言った。
「私は……正直、君と会うことはしたくなかったわ。だって、あのときは、私の方から君を突き放したのだから」
 教師としてリュシアンの家に来るようになって以来、彼女は初めて、以前のマリーンの顔……一人の女性としての顔になっていた。
「でもね……君が試合で怪我をするのを見たとき、すごく心臓がどきどきしたわ。本当は、見にゆくつもりじゃなかったのに、行ってしまった。あのとき、医務室で寝ている君を見て、何か私にできることはないかしらと強く思ったわ」
「マリーン……」
「だからね、カルードに君の教師になるかどうかと言われたときも、少し迷ったのだけど、やってみることにしたの。私が君のために少しでもできることがあるならって」
「僕のために……」
 マリーンはうなずいた。
「そう、君が立派な騎士になるために。私は本当の先生ではないけれど、でも、見習い騎士さん相手なら、もしかしたらちょうど良いかもしれないわね」
 そう言ってにこりと笑う彼女を見て、リュシアンは微妙な心境だった。いったいマリーンは、自分とのことをどう思っているのだろうか。彼女が教師を引き受けたのは、自分と会いたかったからではなかったのか。
「……」
 向かい合って座るマリーンが、なぜだか無性に遠く感じられた。
「マリーン……、そっちに行ってもいい?」
 リュシアンの気持ちを察したのか、マリーンは黙って首を振った。
「なんでさ……」
「だめよ。君は学問をするために、こうして座っているのだから」
「なんで……」
「私は君の教師になったのよ。それは君のためだけど、同時に君のお母様や、それにカルードに対しても責任をもつことなのだわ」
「そんなこと……」
「さあ、本を開いて、リュシアン」
 静かに、だが厳然とした声でマリーンは言った。
 リュシアンは首を振った。
「本を、開いて」
「……」
「リュシアン」
 マリーンの声は変わらず、静かで、そして穏やかだった。
 唇を噛みしめ、彼は本を開いた。

 それからの日々は、リュシアンが思い描いていたものとは全く違った。
 マリーンは時間通りにやって来て、てきぱきと学問を教え、時間が来ると帰っていった。母のクレアが家にいる日も、そうでない日も、なにも変わらなかった。
 二人の甘やかな時間を想像していたリュシアンは、まったく当てがはずれたことにがっかりした。マリーンの完璧な家庭教師ぶりは、彼に少しの立ち入る隙すらも与えなかった。一度だけ強引にマリーンを抱きしめようとしたことがあったが、彼女は鋭くこちらを睨むと、「席に戻りなさい」と、ただ冷たく告げた。リュシアンは悲しいのと悔しいのとで、本や羽ペンを地面に放り投げた。
 逆らっても無駄だと知ったリュシアンは、仕方なくマリーンの講義に耳を傾けるようになった。修辞学、論理学、文法、それに算術。そのどれもが面倒で、彼には苦痛であるのに変わりなかったが、マリーンの声がそばで聞けることを思いそれに耐えた。
 リュシアンが真面目にしているかぎり、マリーンは優しかった。勉強の合間にときどき笑いかけてくれたり、彼女が怪我を気づかってくれるときには、リュシアンは暖かな気持ちに満たされた。それに勉学に集中するときは、マリーンへの欲求や妄想も少しは治まった。やがて彼のいらいらも消えた。ただ夜になると、マリーンを抱いたときの感触思い出して、体を熱くすることが時々はあったが。
 そうして、二週間、三週間が過ぎた。
 リュシアンの右腕もだいぶよくなり、添え木を外してもひどく痛むことはなくなった。医者によれば、もうすぐ元通りに動かしてもよいということであった。
 マリーンがリュシアンの家庭教師になったと知ってから、フィッツウースが何度か遊びに来た。騎士団の稽古が終わるころ、彼は稽古着のまま勝手に庭に入ってきて、勉強中の二人の隣に腰掛けると、その日稽古であった面白い話などを話しだした。社交性に富むフィッツウースはすぐにマリーンとも打ち解けた。二人はときに勉強の手を止めて、愉快な来訪者の話す、馬鹿げた冗談に吹き出した。
 責任感の塊である騎士隊長カルードも、リュシアンの怪我の具合とマリーンの教師ぶりを確かめに、十日に一度くらいは訪れた。彼は、着々と学問を身につけつつあるリュシアンに感動した様子で、姉の横で一人目を潤ませるのだった。
 家庭教師のない日に、コステルが二度目の見舞いに現れた。前のときは友達のトルーデを連れていたが、今回は彼女一人だった。
 母のクレアは、このリュシアンのガールフレンドを大いに歓迎した。メアリの入れてくれたお茶を飲みながら、二人は楽しく会話を交わした。明るく可愛らしいこの娘が、リュシアンは前よりも好きになっていた。それはマリーンへの、あのせつないような、ひどく苦しいような気持ちとは違い、なにか心地よくて、安心できるものだった。帰り際にコステルは、「腕が治ったら、わたしとダンスを踊ってね」と、リュシアンの耳元にそっと囁いた。

 八月になり、リュシアンの腕から包帯がとれる日が来た。
 ようやく剣が振れることに、彼は心から喜んだ。かつては、平気で稽古をさぼり続けていたこの騎士見習いは、そんな不真面目な時代が自分にあったことなどはすっかり忘れたかのように、さっそく自分の木剣を磨きはじめるのだった。
 リュシアンが稽古に復帰したその日の午後、騎士隊長のカルードは、リュシアンの復帰祝いにと、隊の騎士見習いたちをレスダー伯夫人の屋敷に招待した。
「それでは、我が騎士隊一のやかましや、もとい未来の名剣士、リュシアンくんの怪我からの復活を祝って、乾杯」
「乾杯!」
 カルードの乾杯の音頭で、庭園に集まった少年たちは、今日ばかりはと許されたワインのグラスをかかげた。
 色とりどりの花に囲まれた芝生の中庭には、いくつものテーブルが置かれ、たくさんの菓子や果物、飲み物など並べられている。屋敷の侍女たちや、マリーンの姿もあった。
 フィッツウースに背中を押され、リュシアンは照れながら前にでた。この屋敷で働いていた時間は、今ではとても昔のことのように思われた。厳しかった執事や顔見知りの侍女たちと、リュシアンは一人一人握手をした。レスダー伯夫人の姿はなかった。カルードが言うには、夫人には夏の日差しがつらいらしい。
 しばらくして、屋敷の前に馬車が到着した。そこからドレス姿の少女たちが降りてくると、少年たちは歓声を上げて喜んだ。ソランのガールフレンドのトルーデや、コステルの姿もあった。屋敷の庭園は、にわかに華やいだ空気と、少女たちの嬌声に包まれた。
 楽隊が音楽を始めると、ダンスパーティが始まった。
 うぶな少年たちがもじもじしていると、カルードは自ら手本を見せるように少女の一人にダンスを申し込んだ。少年たちもようやく意を決したように、身近な少女の手をおずおずととるのだった。
 リュシアンが探す相手はただ一人だった。
(マリーン。マリーンはどこさ)
 見ると、マリーンはまだテーブルの前に腰掛けていた。リュシアンがそちらに駆け寄ろうとすると、横から背の高い少年が現れ、彼女に手を差し出した。フィッツウースだった。
(あっ、あのやろ……)
 リュシアンに気がついたのか、フィッツウースはこちら見てぺろりと舌を出した。
「フィッツ、てめえ……」
 腹を立てたリュシアンが、そちらに歩きだそうとしたとき、
 ぽんと背中を叩かれた。
「なんだ……よ」
 振り向くと、可愛らしい空色のドレスに小さなビロードの帽子をかぶったコステルが立っていた。
「あ……」
「リュシアン……すごい顔してる」
「え?ああ、なんでもない……」
「あの、私と踊るのはいや?」
 頬を染めたコステルが言った。
「約束……したよね。腕が治ったら踊ってって」
「う、うん」
 ちらりと見ると、マリーンはフィッツウースと踊り始めていた。
 リュシアンの顔がこわばる。
「……踊ろうか」
 手を差し出すと、コステルの顔がぱっと輝いた。
 曲は楽しげなポルカになった。二人は手を取り、リズムに合わせて踊りはじめた。
 くるりと回ったり、ぴたりとリュシアンに寄り添ったりと、彼女はなかなか巧みに踊った。その笑顔につられ、リュシアンも笑みを浮かべた。治りたての右腕にはまだ少し違和感があったが、痛みはなかった。
 一曲踊り終えると、リュシアンは息をついた。ただのダンスとはいえ、こうした運動は実に久しぶりだった。
「大丈夫?」
 心配そうにコステルが訊いた。
「ああ……平気だよ」
「ごめんなさい。早く踊ってしまって。すごく楽しかったから」
「うん。僕も楽しかった」
「本当?良かった」
 コステルは嬉しそうににっこりと笑った。
「腕はなんともない?」
「ああ。全然、へっちゃらだよ」
 そう言いながら、またなんとなくマリーンの姿を目で探す。
「じゃあ、もう一回踊ろ」
「えっ」
 にこにこと無邪気に笑っているコステルを見て、リュシアンは返答に困った。
「あ、えーと……その、でもやっぱり、ちょっと痛くなってきたなあ、腕が……あいたた」
 リュシアンは右腕を押さえた。
「もう、嘘ばっかり」
「いや、本当に。僕は向こうでちょっと休んでいるからさ、君は他の奴と踊ってきなよ」
 そう言って顔をしかめて見せると、コステルは心配そうな顔になった。
「大丈夫?私も付いていようか」
「い、いや……平気。君はほら、踊ってきた方がいいよ。男より女の子の方が少ないんだから、他の奴が踊れなくて可哀相だし」
「そう?別に私はそんなのどうでもいいんだけど。……でも、まあいいわ。勝手に来ちゃったんだし、他の子が踊りたいっていうんなら、そうした方がいいかしらね」
「そうさ。ほら、あのへんの連中とか、君を見てもじもじしてる」
 近くにいた少年たちの方を適当に指さす。
「仕方ないわね。それじゃ行ってくるけど、後でまた踊ってねリュシアン。腕が痛くなくなったら」
「ああ、もちろん」
 ドレスをひらひらさせ歩いてゆくコステルを見送り、リュシアンはほっと息をついた。
(さあて、マリーンと。今度こそ……)
 再びマリーンを探すと、彼女は向こうのテーブルの前にいた。何人もの少年たちに囲まれ、次々にダンスを申し込まれているようだ。
(ローリーにマーカス、それにソランの奴までいるじゃないか。あいつ、ガールフレンドがいるくせに、なんて奴だ。まったく)
 眉をつり上げたリュシアンは、のしのしとそちらへ歩いて行った。
「まあ、待て」
 にゅっと横から現れたのはフィッツウースだった。
「フィッツ、てめえ!」
「おっ、なんだよ、怖い顔して。せっかくのパーティだってのに」
「お前、よくも俺の前でマリーンと……」
「べつにいいじゃんかよ。彼女はお前のもんじゃないんだし」
「マリーンは俺の……」
「まあ抑えろ。分かってるって。別にお前を怒らせようとしてるわけじゃねえよ。ただな、こういう場はみんなで楽しくわいわいやるのがいいってことさ」
 彼は近くのテーブルからグラスをとり、うまそうに飲み干した。
「おお、さすがカルードのおっ母さんの屋敷。このシャンパンも高級品だぜ。ガキが飲むにはもったいねえな」
 いかにも飲みなれた様子で、フィッツウースは舌を鳴らした。
「それによ、カルードとか他の連中もいる前で、お前があからさまな態度だとまずいだろ?」
「あからさまって、なんだよ」
「ったく、バレバレなんだよ。お前のツラは。俺から見ると、さっきからずっと誰を見てるのかがな」
 友人の言葉に、リュシアンは唇を尖らせた。
「そう、それ。その顔……ふてくされたガキの顔だぜ」
「なんだと、てめえっ」
「まあ、落ち着けって」
 フィッツウースは、親友らしくリュシアンの肩に手を回して、小声で言った。
「お前が、マリーンさんのことを本当に好きなのは分かってる。だからこそ、だ。いいか、もうちっと大人になんな。なぜつて、お前の好きな女は、普通じゃ許してもらえない相手なんだから」
「分かってるよ。そんなこと……」
「そうか。ならいい」
 片目をつぶって彼は言った。
「そいじゃ、ダンスをしたいなら皆の後にするんだな。あいつらも、一目でマリーンさんに憧れちまったみたいだからな。でもコステルってあの娘もさ、なかなかいい子じゃねえか。可愛いし、ドレスの趣味もいいし、それに明るい。唯一の欠点は、お前に気があるってことくらいだな」
「俺は……」
 首を振ったリュシアンに、相棒はうなずいた。
「ああ。分かってるよ。でもやっぱマリーンなんだろ?……ほら、見ろ。愛しのマリーンは今はローリーと踊っているぜ。次はソランかな、マーカスかな?彼女の相手は順番待ちで一杯だ。元彼としては悔しいだろうがな。ここはぐっと我慢しな。そらよ飲め」
「……」
 差し出されたワインのグラスを受け取ると、リュシアンはそれを一気に飲み干した。
「おお、その意気だ。酒で思いをまぎらわせられれば、もう立派な大人さ。もうガキじゃない。あ、マリーンとはしたんだったな。ならお互いに女は経験済みで、もうガキは卒業ってわけだ。お前の怪我も治ってめでたいし。そういうわけで、まあ今日は楽しもうや」
 フィッツウースは陽気に言った。
 すでに酔いが回っているのか、彼はそばを通った少女の手をとって引き寄せると、いきなりその頬にキスをした。少女は小さく悲鳴を上げたが、フィッツウースが優雅な仕種でダンスを申し込むと、頬を染めて手を差し出した。
 明るいポルカのリズム……
 庭園に響く少年、少女たちの楽しげな笑い声。
 ちらりと見えた、誰かと踊るマリーンの姿……
 その笑顔が、何故だかリュシアンを少し寂しくさせた。



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