騎士見習いの恋  4/10 ページ

      

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「それじゃ……お世話になりました」
 頭を下げた少年の前に、レスダー伯夫人をはじめ、執事に侍女頭のミルダ、その他にも、今では見知った侍女たち、炊婦や料理人、庭師たちの顔があった。
 マリーンの姿はなかった。少年の屋敷での最後の日だというのに、彼女は朝から大学へ行ってしまっていた。
 寂しげなリュシアンの顔を見てか、執事のカストロが歩み寄ってきて肩をたたいた。
「なんだかあっというまだったなあ。せっかく屋敷の仕事にも慣れて、すっかり立派な下男になったと思っていたのに」
 残念そうな執事の様子に、リュシアンは内心では、「べつにあんたと別れるのが悲しいんじゃないさ」と思っていたが、口には出さなかった。侍女たちや料理人たちなども、「また会えるわよ」「遊びにおいで」「元気をだせよ」などと、口々に声をかけてきた。その誰もが、リュシアンの元気のなさが、ここにはいない、あるたったひとりの女性のためだなどとは、到底夢にも思わないだろう。
「ごくろうさまでした。リュシアン」
 最後に夫人が穏やかに、しかし最後まで威厳をもって、言った。
「たった三月の修行だったけど、あなたは立派に屋敷での仕事をやりとげましたよ。はじめは礼儀もなにもないただのやんちゃな不作法者でしたけど、一日ごとに少しずつ作法を覚え、仕事をこなし、今ではもう、必要な礼儀は身につけたと思っています。家に戻ってもここでの修行を思い出して、これからは自分でちゃんと、騎士として、そして宮廷人としての礼儀作法を心にふまえて、しっかり生きていくのですよ」
「はい。ありがとう……ございました」
 リュシアンの顔は心ここにあらずといったように、うつろな表情だったが、それがかえって夫人の感情を刺激したのか、いつもは冷徹な夫人にしては珍しく、彼女はリュシアンの手を取って、うなずきかけた。
「どうぞ立派な騎士におなりなさい。そうしてまた、いつでもこの屋敷に遊びにいらっしゃい。リュシアン……」
 三月もの間、同じ屋根の下で暮らし、食事の席を共にすれば、いやでも家族としての情愛も生まれてこようというもの。夫人はハンカチを取り出して目に当てた。
「……」
 無言でうなずくリュシアンの心にあったのは、マリーンのなめらかな肌の感触であり、あたたかく柔らかな乳房の手触りと、甘やかな髪の匂いだった。
 少年は最後に自分の過ごした屋敷を振り返ると、そのまま馬車に乗り込んだ。
 空は青く晴れ渡っている。
 馬車の座席からゆるやかに流れる雲を見つめる彼のその顔つきは、たしかに三月前とはまるで変わっていた。

「まあ、リュシアン。おかえりなさい」
 馬車の音を聞きつけたのか、すぐに扉が開いて母のクレアが現れた。炊婦のメアリも一緒に、こちらに駆け寄ってくる。
「まあ。帰ってきたのね、リュシアン。ああ……なんて久しぶりなのかしら」
 彼女はリュシアンを抱きしめ、その頬にキスをした。
「ずっと心配していたのよ。お前がちゃんと元気でやっているかって。ああ……本当に久しぶりだわ」
「大げさだなあ、母様……ほんの三月なのに」
 涙をにじませ自分を見つめる母に、リュシアンは笑いかけた。
「お帰りなさいまし、ぼっちゃま」
「ああ、メアリ。ただいま」
「今日はリュシアンぼっちゃまが戻られるとあって、腕によりをかけてごちそうを作りますからね」
「うん。メアリの作るいつもの肉団子のシチューが食べたくてたまらないよ」
 見慣れているはずの自分の家が、今はなんだか見知らぬ屋敷のようにに見える。以前はあれほど帰りたかったのに、こうしていざ戻ってくると、何故だか言葉にできない寂しさを感じるのだ。
(マリーン、もう会えないのかな……)
「リュシアン、あなた少し痩せたんじゃないの?」
 クレアが心配そうにリュシアンの顔を覗き込んだ。
「なんだか、前よりも体つきがすらっとしたみたい。それに背も伸びて……まあ、よく見れば、大人っぽくなったみたいだわ」
「本当に。ぼっちゃんは前よりもご立派になられましたよ」
「そう……かな?」
 しげしげと見つめられて、リュシアンは頭を掻いた。
「なんだか、あの人に似てきたみたい。やっぱり息子なのだわね。あの人の。それに、顔つきもきりっとして、ずっと大人っぽくなったわ。これもレスダー伯婦人のご指導のおかげかしらね」
「……」
 彼にしてみれば、もし自分がそんな風に大人になったように見えるのだとしたら、それは修行のためだけではないのは分かっていた。
(マリーン……)
 その名前を思うとき、彼の心には震えるような高ぶりとともに、甘やかな気持ちが沸き起こってくる。
(くそ……)
 リュシアンはそれらを振り払うように、自分を見つめる母の前でぐっと口許を引き結んだ。

 家に戻ってからのリュシアンは、ほとんど寝てばかりいた。食事をするときと、用を足すときの他は、彼は自室に引きこもって過ごした。騎士団の稽古も出なかった。母のクレアは、そんなリュシアンの様子にも、きっと屋敷での仕事などの疲れのためだろうと、しばらくはそっとしておいてくれた。
 数日後、友人のフィッツウースが彼を訪れた。
「よう。どうしたい?ここんとこ稽古にも来ないじゃんか」
 二人は家の裏手にある、庭園というには少々さびれた木立の中を散策した。久しぶりに外に出たリュシアンは、青白い顔で友人に笑いかけた。
「それにお前……やせたなぁ」
「そうかな?自分じゃ、よくわかんないけど……」
「いや。それになんか雰囲気も、ちっと変わったっていうか……」
 二人は小さな池のほとりに立ち、小石を拾って水面に投げつけた。騎士団に入りたての頃から、フィッツウースとはこうしてよく一緒に遊んだものだ。
「お前……女と別れたのか?」
「な、なんだよ。いきなり」
「とぼけんなよ。その慌てよう。図星だろ」
 フィッツウースはにやりと笑った。
「見りゃわかんだよ。お前のその妙に憂いがかった顔を見れば」
「ああ。その……」
 リュシアンは迷った。ここでマリーンとのことを言うべきかどうか。
「わかった。相手としちまってから、よけい好きになったんだろ?それで屋敷を去ることになったんで、彼女との別れがつらくて、それで家に戻ってもふさぎ込んでいた。どうだ?」
「ああ……まあ」
 リュシアンは曖昧に返事をした。それは当たってなくもなかったからだ。
 はじめは単なる憧れだった。それが手を握り、口づけをし、抱きしめて、体を重ねるにつれ、マリーンという女性の存在は、徐々に大きく、現実的な対象になっていったのだった。
「おまえさ……はじめてだったんだろ?女としたの」
 じっとリュシアンを見て、フィッツウースは言った。
「ああ」
「そういうときって危ないんだよな」
「危ないって?」
「ああ……、なんつったらいいのか」
 小石をつかんで池に投げ込みながら、フィッツウースはしみじみと言った。
「最初の女ってさ。それがいい女ならなおさら、一心不乱に惚れちまうんだよな。これが運命の女だ、とか勝手に思ったりさ。そういうのがいつか、てめえの思い込みだって気づくときがあってさ。そのときってすげえつらいんだよな」
「……」
「俺にとって世界中であの女だけだ……みたいな。まあ俺にもそういうことがあったけど、考えてみれば、自分がいくらそう思ってみても、相手も同じように自分を思ってるって確証はないワケじゃん。だからさ、つい腹をたてちまうんだよな。その相手に」
 黙り込んだリュシアンをちらりと見て、友人は続けた。
「自分に腹をたてるんじゃなくて、それを相手に向けちまう。それがガキだってことなんだけどな。自分のこの思いが受け入れられてもらえなかった、相手が答えてくれなかった、っていうさ。そういう身勝手さに気づくと、後になってから徐々に自分に腹を立てはじめるって寸法さ」
 友人の言葉に答えるでもなく、リュシアンは近くにあった小石を拾い、それを池に向かって思いっきり投げつけた。水面にいくつもの波紋が広がってゆく。
 フィッツウースは、そんな彼の肩をぽんと叩いた。
「だからまあ、気にすんなってこと。初めての恋なんて、誰だってそんなもんよ。それに、会いたくなったらまた会いにいきゃあいいんだし」
「……会えないよ」
 リュシアンはぽつりとつぶやいた。
「なんでだよ?」
「会えないんだ……」
 リュシアンの目から、大粒の涙が溢れだしていた。
「おい……、おまえ」
 声をあげることもなく、どこかを見つめるように、少年はただ泣いていた。
「大丈夫か?……」
 あわてたように、フィッツウースは付け加えた。
「ああ……。悪かったよ。俺がつまんねえこと言っちまったから。なんだよ、そんなに好きなら……いいじゃん。会えば」
 リュシアンは首を振った。それから、二人はしばらく、どちらも何も言わなかった。
 ぐいと乱暴に涙を拭くと、リュシアンは照れながら友人に向き直った。
「悪いな。みっともないとこ見せてさ」
「いいや」
 青ざめていたリュシアンの頬に少し血の気が戻ったのを見て、フィッツウースは安心したように笑った。
「それで?教えてくれるんだろ?俺には。お前のその意中の姫君のことを」
「ああ」
 リュシアンはうなずいた。
 そろそろ日が沈みはじめる時刻だ。西日に照らされ、赤く輝く水面を見つめながら、二人は並んで腰を下ろしていた。
 薄いチュニック一枚で出てきたので、リュシアンは少し肌寒そうに体をまるめた。
「な……るほどね。そんなことになっていたのかよ」
 話を聞いて、フィッツウースは驚きに目を丸くして言った。
「まさか、相手がカルードの姉さんだったとはな。お前の様子からして、ただの侍女じゃないらしいとは思っていたが……いや、まさかまさかだな。そりゃ。八つ年上か?」
「ああ」
 リュシアンはうなずいた。すっかり話してしまったという安堵感から、ほっと息をつく。
「たしかにそりゃあ、あれだな。カルードやその、マリーンさん、のおっ母さんにばれたら、ただじゃ済そうにねえよなあ」
 はじめはただ驚いていたフィッツウースだったが、いったん事情をのみこむと、落ち着いた口調で、あれこれと事のしだいを訊きはじめた。リュシアンの方も、口に出してしまったからにはもう何もかも話してしまおうと、マリーンと会ったいきさつから、これまでにあったことを包み隠さずに友人に話した。
「そうか。お前がなぁ……八つも年上のそんないい女と。ううむ。そりゃ大変だ」
 フィッツウースは腕を組ながら、しきりと感心したり、うなずいたりしていたが、
「ううむ……ようするに、だ」
 頭の中で整理がついたのか、重々しくそう切り出した。
「お前は、まだそのマリーンさんのことが好きなんだろ?」
「そりゃ、まあ……」
 照れながら、リュシアンはそれを認めた。
「でもって、最後のマリーンさんの言葉からするとだ、お前の騎士としての勉強や稽古の妨げになってはいけないから、だから別れようと、そういうことなんだよな」
「ああ……口ではそう言ってたけど、じっさいはどうだか……」
「まあ待て」
 フィッツウースは軽く手を上げ、リュシアンを見てにやりと笑った。
「それを確かめるのは簡単だ」
「本当か?」
「ああ。つまり、お前が立派に騎士として強くなり、勉強もし、カルードにも認められ、そんでもって、もう一度彼女に好きだと言えばいい。そんときマリーンがどうするかですべてがわかるさ」
「そんな……面倒くさい」
 唇を尖らせるリュシアンを、フィッツウースが指さした。
「それだ。お前がそういうふうに根性がなく、いいかげんでガキっぽいからいかんのだ」
「なんだよ。まるでカルードみたいに」
「いいか。リュシアン。女ってのはなあ、いつだって自分の好きな男に対しては強くいて欲しいんだよ。女にでれでれしてるだけでなく、他になんかこう、真剣に向かってゆくような姿が必要なんだなあ。俺も何度か言われたし……ああ、いやそれはいいとして」
 フィッツウースは、まるで雄々しい騎士であるかのようにすっくと立ち上がった。
「とにかく、これでお前も男になったんだ。それだけでも良かったじゃんか。たとえそのマリーンに振られようとも、強い騎士になってきりっとしてりゃ、そのうち他の女がいくらでも寄ってくるさ」
 リュシアンは苦笑した。
 フィッツの言葉は的を得ているようでいて、ひどく無茶苦茶な部分もあったが、それでもすっかり話したことで、いくらか気が晴れたのも確かだった。
「そうかもな」
 沈みゆく夕日を見ながら、友人と肩を叩き合う。明日から稽古に出てみるか。彼はそう思った。

「よーし。そうだ。いいぞリュシアン」
 騎士たちの集う広場に、隊長のカルードの声が響いていた。カシーン、カシーンと、木剣を打ち合わせる音が続けざまに上がる。
「そうだ。そこで後退しながら腰を落として構えろ。そうだ」
 リュシアンが稽古に復帰してから数日、彼はほとんど毎日のように模擬試合を志願した。はじめは心配していたカルードも、いつにない彼のその真剣な顔つきを見て、それを許した。
 リュシアンは、今までとは別人のように熱心に剣を振った。
 以前に比べれば、悪友とじゃれあって叱られることも減り、顔つきそのものも、かつてのへらへらとした悪戯小僧のようではなくなった。とくに試合のときの彼は、真一文字に唇をかみしめ、眉をつり上げた形相で剣を振り、相手に挑みかかった。
 他の仲間たちは、その彼の変貌ぶりには驚くばかりだったが、リュシアンはそんな周の視線を気にすることもなく、黙々と剣を振りつづけた。まるで、自分の中の何かを吹っ切るかのように。
「それまでっ。それまでだ、リュシアン」
 試合相手の木剣をたたき落としても、リュシアンは剣を振りかざしたままだった。カルードが止めに入らなかったら、そのまま相手の頭上に剣を振り下ろしかねない様子で。
「お前の勝ちだリュシアン。今日はここまで。いいな」
「ひゅう……すごいじゃねえか。お前、いつの間にそんなに強くなったんだよ」
 そばにきた親友の顔をみて、リュシアンはようやくふっと笑顔を見せた。
「さあね」
「稽古に戻ってきていきなり模擬試合は驚いたけど、それより驚いたのは最初の日に負けてからは、その後は三日つづけて勝ちだぜ。おい、しかも今日は剣技会への代表候補レオンに勝ったんだぜ。こりゃ、来月の剣技会の代表はお前になるかもな。いや、きっとそうなるぜ。カルードだって褒めてたし、間違いねえよ」
 フィッツウースの賛辞にも、リュシアンはとくに嬉くもなさそうに、少しはにかんだだけだった。
 そうして彼は、毎日、思う存分に剣を振った。汗が目に入り、手がしびれようとも。そうすることでしか、失ったものを心の中から追い出せないのだと、そう自らにいい聞かせてでもいるように……
 母のクレアも、この息子の変わりようには、少々面食らっていたようだった。
 家に戻ってしばらくは、ほとんど自室に閉じこもっていたリュシアンであったが、いったん稽古に出るようになってからは、逆に剣に入れ込みすぎるくらいに打ち込んでいた。これまでは堂々と遅刻していた彼が、今では朝は二点鐘が鳴り終わる前には、着替えを済ませて食事をとり、悠々と家を出るのである。
 こんなことが三日も続くわけはないと、クレアも、炊婦のメアリも内心では考えていたが、五日たっても十日たっても、リュシアンは早起きをして定時に稽古に出かけ、帰ったら剣と鎧をみがき、あろうことか、ときどき裏庭で馬車を磨きはじめることさえあった。その様子には、二人は顔を見合わせて不気味がったものだが、最近になってからようやく、リュシアンは変わったのであり、それがレスダー伯夫人の屋敷での修行の賜物なのだと、認めることにした。
 クレアはさっそく、伯爵夫人宛に盛大な感謝の言葉を連ねた手紙を書き、炊婦のメアリは、洗濯ものの量が減ったことや屋敷の掃除が多少楽になったことなどを神に感謝した。
 そのように、リュシアンの変化は、彼の身近な人々を少しだけ幸福にした。そういう点では、彼が以前よりもいささか無口になったり、時々きつい顔をしたりしても、あるいは夜になっても彼の部屋から剣を振る物音がしたとしても、それらはおおむね許されるものだった。
 クレアも、それにカルードも思っていたのだろう。リュシアンは大人になったのだ、そして、騎士としての責任と自覚とについに目覚めはじめたのだと。
 誰も知るものはなかった。
 秘密を打ち明けられた、親友のフィッツウースでさえも。
 リュシアンはマリーンを忘れられずにいた。
 彼が夜中に飛び起きて、いてもたってもいられず、剣を振って気を紛らわせようとしていたのは、一度や二度ではない。
 あるとき、彼は稽古の帰り道に、こっそりとレスダー伯夫人の屋敷を訪れた。だが今の彼には、堂々と屋敷の扉を叩く勇気はなく、庭の茂みからそっと、マリーンの部屋の窓を見上げることしかできなかった。もし、マリーンに会ったら、彼女はなんと言うだろう。蔑むような顔をして、冷たく「帰りなさい」と言われたら……彼にはそれが恐ろしくてならなかった。
 プルヌスの並木道は、すっかり変わってしまっていた。
 あのとき満開に咲いていた花々はすっかり散ってしまい、地面に残った花びらが、風に飛ばされて足元で舞い上がっていた。
 ふと目を閉じると、馬車に揺られながら過ごした、マリーンとの楽しい時間がよみがえってくる。リュシアンは知らず、自分が泣いているのに気づいた。
 自分は騎士になるのだ。もっと強くなってやるんだ。心の中でそう突っ張ってみても、それもすべてはマリーンのため……彼女を見返し、彼女を再び抱きたいからなのだ。そう、どこかで知っている嫌な自分がいる。
 一度知ってしまった、愛する女の体のぬくもり……それを思い出すだけで、いつも彼は気が狂いそうになった。
 リュシアンは、プルヌスの木の太い幹を思い切り殴りつけた。拳がしびれ、痛みとともに血が流れた。
 捨てようとしても出来ない、まとわりつく想い……
 そのどうしようもない想いを、少年はその胸にいつまでも焦がしつづけていた。

 七月の半ばになり、初夏を迎えた庭園の広場に、集まった騎士たちが整列していた。
「それでは、間近に迫った恒例の剣技会トーナメントの代表者をこれから発表する」
 隊長のカルードの声に、居並んだ騎士たち、見習いたちは、さっとその顔に緊張の色を浮かべた。
「まずは、一般騎士の部の代表だが、今回も異存がなければ私と副隊長のバラックでいきたいと思う」
 騎士たちは手を叩いた。副隊長のバラックが、カルードに次ぐ、この中隊きっての使い手であることは誰もが認めていた。
「では、次に見習い騎士の部だが」
 今度は、列の後方に並ぶ少年たちの顔が、一斉にひきしまった。
「一人目は……リュシアン」
 「おおっ」と声を上げる。名を呼ばれたリュシアンは、隊長のカルードからじきじきに試合用の剣を渡された。ここのところの彼の熱心さは、皆の知るところであったし、模擬試合の成績も良かったので、この選出に文句を言うものはいなかった。
「さて、二人目だが……」
 カルードの声に、再び少年騎士たちに緊張が走る。見習い騎士の部の試合では、本物の長剣ではなく剣先をつぶした小剣が使用されるとはいえ、本気で戦うのだから打たれれば相当痛いし、怪我を負うこともある。日頃は木剣での稽古しか知らない、見習いの少年たちが怖じ気づくのも、無理はなかった。
「フィッツウース」
「あ?」
 頓狂な声を上げた当の本人をじろりと見やって、隊長は言った。
「フィッツ、お前はもう十六歳だな。今年が騎士の資格試験の年だ。本来十六になった年のはじめには試験に申し込み、そののちすぐに正騎士となるのが通例なのだが」
「俺?」
 フィッツウースはあからさまに嫌な顔をした。他の見習いたちから、安堵の声と笑いがもれる。
「そうだ。トーナメントに出て、いい試合をすれば、審査員たちから資格試験の一次免除がもらえる。そうすれば、後は書面審査のみで正騎士になれるんだ。お前もそろそろ腹をくくるときだろう」
 フィッツウースは顔をしかめたが、何も言い返せなかった。
「どうした。早く前に出ろ。フィッツウース!」
「うう……」
 彼はのろのろと進み出て、カルードの顔ををうらめしそうに見ながら剣を受け取った。
「我が隊の代表として恥ずかしくない戦いをしろよ。トーナメントまであと二週間。代表に選ばれたものも、そうでない者も気合を入れて稽古に励むように」
 隊長の言葉に皆が直立する中、隊列に戻ったフィッツウースは、リュシアンに向かって囁いた。
「よう。明日から痛くない剣の受け方を教えてくれよ」

 競技場全体に、大会の開始を告げる高らかなトランペットの音が鳴り響いた。頭上には晴れ渡った夏空が青く広がっている。
 宮廷騎士隊対抗のトーナメントは、年に一度の大きなイベントであり、都市に住まう数多くの貴族たちが見物にやってくる。競技場を見渡す客席には、華やかな衣装に着飾った貴族たち、貴婦人たちが、羽つきの扇を片手に談笑する姿があちこちに見える。
 トランペットが吹き鳴らされる中を、出場者する騎士たちが並んで現れた。客席からは一斉に拍手が起こり、楽隊が七月の月神を讃える曲を演奏すると、人々は立ち上がって賛美歌を唱和した。整列した騎士たち、見習い騎士たちは、戦の神ゲオルグへ公正と勇気の誓いを立てる。
「ああ、なんだか妙に腹が痛くなってきたぞ」
 開会の儀式が済み、いったん待合所に戻ってきた出場者たちの中で、出場者の一人であるフィッツウースは弱々しく言った。
「しっかりしろ。お前の試合はまだずっとあとだろう。今から緊張してどうする」
 隊長のカルードが笑って彼の肩を叩いた。
「しかし、隊長。俺なんかよりも、よっぽど肝の座った奴もいたろうに。なんでまた……あいたた。は、腹が。……うう、やっぱちょっと出すもん出してくるわ」
「仕方がないやつめ」
 部屋を出てゆくフィッツウースを呆れ顔で見送る。
「どうだ、リュシアン。お前は大丈夫か?トーナメント表ではお前の試合の方が早いんだが」
「うん。たぶんね」
 落ち着いたリュシアンの様子を見て、カルードは少し感心したようにうなずいた。
「さて、そろそろ始まるぞ。みな、剣と鎧の用意はいいか」
 フィッツウースが戻るのを待って、騎士たちは待合室を出た。
 試合場に出ると、青い空とまぶしい太陽が彼らを出迎えた。観客のざわめきと歓声に包まれて、トランペットが鳴らされた。最初の試合が始まるのだ。
 ガシッ、ガシーン、と剣と剣がぶつかり合う鈍い音が響いた。観客席からは、大きなどよめきと拍手が沸き起こる。
「それまでっ。勝者、東第一大隊騎士ロッド!」
 右手に実戦用の長剣を、左腕には盾を持ち、正騎士の鎧兜に身を包んだ騎士は、大歓声に包まれ、誇らしげに手を上げた。
 カイトシールドと呼ばれる細長い盾は、馬上にいるとき足を切り付けられるのを防ぐもので、騎士たるものはこの重い盾を自在に操れなくては、決して一人前と認められない。一方の、見習い騎士たちの試合では楯は用いられず、剣も試合用のもので、簡易な革の鎧のみの身軽な姿で試合をする。しかし、たとえ試合用の剣であっても、まともに切られれば重い打撲を負い、時には骨が折れることもあるだろう。試合を待つ見習い騎士たちは、それぞれに緊張した面持ちで、目の前で繰り広げられる戦いを息をのんで見つめていた。
「そこまで。勝者、西第一大隊見習い騎士、コート!」
 試合が進み、勝利の度にトランペットが吹き鳴らされる。名を呼ばれた勝者は、客席に向かって手を挙げるのが礼儀である。
「おい。リュシアン。次はお前の試合だぜ」
「え?ああ……そうか」
 リュシアンはうなずき、立ち上がった。
 去年までは客席から観客として声援を送るだけだった自分が、これから初めて大勢の人々の前で戦うのだ。競技場を包み込むような大きな歓声と拍手が起こるたびに、まるで地面が揺れるような気がする。
「東第二中隊見習い騎士リュシアン。西第二大隊見習い騎士デレク。両者とも試合場へ」
 審判に名を告げられると、リュシアンはぎくしゃくと歩きだした。身につけた鎧がとても重く感じられる。
「頑張れよ、リュシアン」
 フィッツウースの声も耳を素通りした。試合場へ上がると、周囲からの歓声が、いっそう大きくなったように感じられた。
「両者、騎士の精神にのっとり正々堂々戦われよ。構え」
 リュシアンは手にした剣を両手に構えた。顔を覆う兜の中で、滴り落ちる汗が頬を伝ってゆくのが分かる。
「始めっ」
 審判の合図とともにラッパが吹き鳴らされた。同時に相手の騎士が飛び出してきた。
「くっ」
 リュシアンは、ほとんど無意識の動きで相手の剣を受け止めた。ゴーントレッドをはめた手がじんと痺れる。
(落ち着け。練習した通りにやればいいんだ)
 心の中で、リュシアンは自分に囁いた。
 いったん相手から離れると、剣を構え直して改めて相手を見る。
 大隊に所属の騎士見習いだけあって、リュシアンより体が大きく、力もありそうな様子だった。
 リュシアンは慎重に足場を異動しながら、相手の動きに注意をはらった。相手は少しづつ、こちらを追い込むようにしてじりじりと近寄ってきた。リュシアンは、試合場の隅に追い詰められる形となった。
「どうしたリュシアン!逃げてるだけじゃ勝てんぞ」
 客席の歓声に混じってカルードのものらしい声が聞こえた。
(分かってるよ……)
 リュシアンは剣を両手で握り直した。じりじりと相手が近づいてくる相手との間合いを見計らって、一気に相手に打ちかかる。
「よしっ」
 相手が剣を受けようとした瞬間、リュシアンはいきなりぱっと横に飛びすさった。そして、そのまま剣を横凪に振る。
 ガシッ、と鈍い音が上がった。
「うわっ」
 リュシアンの剣が相手の鎧の胸当てを叩いた。相手がひるんだすきに、踏み込んで続けざまに剣を振り下ろす。
 ガン、ガン、ガン、と鉄を叩く鈍い音が上がる。後退する相手に返す暇を与えず、リュシアンは練習で習った通りに、剣を右、左、と斜めに振り込んでゆく
 鋭い目で相手を睨みすえ、掛け声とともに剣を打ち込んでゆく彼は、さっきまで緊張に立ちすくんでいた少年とは、まるで別人のようだった。
(俺は……勝つんだ!)
 そして、大きな掛け声とともに放ったリュシアンの一撃が、相手の剣を叩き落とした。
「それまで。勝者、東第二中隊、見習い騎士リュシアン!」
 高らかなラッパの音を、彼はその耳で聞いていた。肩で息をしながら顔を上げると、頭上から観客の拍手が降り注いだ。
(か、勝った……!)
 沸き上がってくる勝利の高ぶり。震える手を高々と突き上げると、客席からの拍手はいっそう大きくなった。
(勝った。俺、勝ったよ。母さん。カルード、……マリーン)
 心に浮かんだその名前に、彼はふと客席を見上げた。もしかして、今どこかで、あの人が自分を見ていないだろうかと思ったのだ。
「よう。すげえじゃねえか。大隊の奴に勝つなんて」
 試合場から下りてきたリュシアンのもとに、さっそくフィッツウースが駆け寄ってきた。親友は、まるで自分が勝ったかのように興奮に顔を紅潮させている。
「まさか勝つなんて思わなかったぜ。いや、たとえお前の腕がいくら上がったと分かってたってさ。何しろ相手は大隊のやつなんだからよ。奴らは普段からほとんど実戦みたいに、鉄の剣を使って稽古してるっていうし。俺ら中隊の代表が大隊に勝つなんてこと、めったにあるもんじゃねえ。そうだろ」
「そうだな……」
 兜を脱いで額の汗を拭くと、リュシアンはにこりと笑った。
「でも、俺は勝ったよ」
「お前、なんか……こう、変わったよな」
 フィッツウースは奇妙な顔つきで言った。
「なにが?」
「いや。なんかこう……だよ。うまく言えんが。なんか、根性座ったってのかな」
「なんだよ。俺だって根性座るときがあるよ。じゃないとやってられないぜ。そりゃ最初は緊張してたけど。お前も試合場に立てば分かるよ。練習なんかとはぜんぜん違うから」
「ああ……いや、そういうんじゃなくてさ。なんていうか……」
「なにさ?」
 フィッツウースは不思議そうに腕を組み、穏やかに笑う少年の顔をじっと見つめていた。


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