騎士見習いの恋  10/10 ページ

      

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 カルードはその日の夕刻、リュシアンの家を訪れていた。
 以前よりクレアからは何度かの手紙をもらっていて、それが相談事らしいことは、文面からもだいたい見当がついていた。何故だかはわからないが、どこかに憂鬱な気分を感じながら、彼はリュシアンの家の扉を叩いた。
「ああ、カルード様、どうぞお入りを。奥様がお待ちです」
 炊婦のメアリに案内され客間に入ると、すでに待っていたクレアが椅子から立ち上がった。
「わざわざお呼びだてして、ごめんなさい」
「いいえ。他ならぬリュシアンのことですから」
 二人は向かい合って腰を下ろした。
「そういえば、今日は確か家庭教師の日でしたか」
 何気なく言ったカルードの言葉に、クレアは顔を曇らせた。
「ええ……じつは、相談したいことというのは、そのこととも少し、関係があるかもしれないのですけど……」
「ほう、といいますと?」
「手紙にも少し書きましたが、リュシアンは以前よりはずっと真面目になったようです。騎士団の稽古でも一生懸命やっていると聞きますし、そのことでは私はとても喜んでおります。また、あなたのお姉様……マリーン様のお手伝いもあって、学問の方もだいぶ身につきつつあることに、お二人には大変感謝しております。もちろん、マナーや礼儀作法をお教えいただいたレスダー伯夫人にも」
 クレアの言葉に、カルードもうなずいた。
「ええ。確かに、リュシアンは前とは変わりました。稽古のときの顔つきも、今ではずいぶんと騎士らしくなりましたし、剣や乗馬の技術もずっと上がっている。言葉使いや話し方もなど、以前よりはずいぶんと大人になったと思います。これならおそらく、正騎士審査にも問題なく受かるでしょう」
「そう言っていただけると、とても嬉しく思います。そうなんです、あの子は前よりもずっと大人になった。それは本当に。ただ、あまり私とは話をしなくなりましたが」
「しかし、男の子というのはそういうものですよ」
 カルードは安心させるように笑って言った。
「大人になるにつれて経験することも増え、一人で考えたり行動する時が多くなります。確かに、親からすると心配をかけることもありましょうが、そうした時期を越えてこそ、一人前の大人の男になってゆくのですから」
「ええ……それは分かっているんですが」
 そう言ってクレアは黙りこんだ。その顔は、以前よりも少しだけやつれたように見えた。
「もしかして、他にも何か心配なことが?」
 カルードが尋ねると、
「ええ……実は」
 彼女はややためらいがちに話しだした。
 クレアの話を聞きおえて、カルードが馬に飛び乗ったのは、すでに日が沈みかけた時分であった。
(そういえば……俺も、変だと思うことがあった)
 馬を走らせながら、彼は考えた。
(あの時も……)
 あれは、ひと月ほど前のことだったか。服を泥だらけにしたリュシアンが、ひどく疲れた様子で稽古に来ことときのこと。
(そうだ。まるで一晩中、雨の中を馬を走らせていたような……)
 どうしたんだと尋ねると、リュシアンは頭を掻きながら、池で転んだなどと見え透いた言い訳をしたのだった。
(実は、前にもあったのですけど……)
 さきほどのクレアの言葉が頭によぎる。
(あの子、ここのところ、夜になっても家に戻らないことがあるんです。それも、今思うときまって家庭教師の日に……)
 それを聞いたとき、カルードは、胸がどきりとするような、奇妙な焦燥感にかられたのだった。
(問い詰めると、いつも決まって、フィッツウースくんの家に泊まっていたというのですけど……なんだか様子がおかしくて)
(すごく機嫌が良かったり、反対にそわそわしたり、その日になるといつもそうなんです。口ではなんでもないというのだけど……)
(あの子が嘘をついているとは思いたくないし、あなたや、勉強を見ていただいているお姉様にも、ご面倒をかけるのも心苦しいのですけど。でも、どうしてよいのか、誰に相談してよいかも分からなくて……)
 涙ぐんだクレアを、なんといって慰めたのか覚えていなかった。そのとき、彼の心によぎっていたのは、まったく別のこと。ありえないはずの予感……考えたくもない思いつきであった。
 そして、最後に彼は、おそるおそるクレアに尋ねたのだ。
(今日は、……今日はなんと言っていましたか?リュシアンは)
(同じです。フィッツウースくんの家に寄るから遅くなるとだけ)
 カルードは内心の動揺を隠しながな、「分かりました。ちょっと考えてみます」と言い残し、屋敷を後にしたのだった。
「……」
 手にした手綱を、彼は知らず強く握りしめていた。
 肌寒い十一月の風が頬を吹きつける。葉が落ちはじめたポプラ並木の道を、カルードの馬はなにかに急かされるように走り抜けた。

 目的の屋敷に着くと、彼は馬を降りた。
 木々の繁る広い庭園に囲まれた屋敷から、中庭をはさんだ所に離れがあり、ここが彼の教え子の少年が暮らす家だった。離れといっても、それは貴族の屋敷であるから充分に立派な家である。
 扉を叩くと、そこから見慣れた少年の顔が現れた。
「あれ?カルード。なんだいきなり」
「なんだじゃない、なんでしょう、だろう。仮にも客に向かって」
「あ、ああ……」
 フィッツウースは、突然の来訪者に驚いた様子で目をしばたいた。
「夜分にすまんな。少しいいか」
「な、なんだよ。俺はなんにもしてねえぞ?」
「今誰かいるか?」
「誰かってなんだよ」
「リュシアンだ」
「ああ?」
 少年を押しのけるように家に上がり込むと、カルードは部屋の扉を開けて室内を見回し、誰もいないと分かると、また別の部屋へと回って歩いた。
「……いないようだな」
「ああ。それがどうか……」
 言いかけて、フィッツウースははっとしたように顔をしかめた。
「やっぱり、お前もなにか知っているようだな」
「なんのことだ?俺は何も知らないぜ……」
 カルードは少年を睨むように見た。
「さっきリュシアンの母上と話をした。今日は家庭教師の日だからな。いつもはたいてい、リュシアンはお前の家に寄って、ここで夜まで過ごすのだということだが?」
「あ……ああ、いや、今日は……」
「もうとっくに授業は終わっている時間だ。リュシアンは、まだ来ないのか?」
「……」
 言葉を失ったようなフィッツウースをじろりと見て、カルードは何かを言いかけたが、ただ黙って首を振った。
「邪魔したな」
 外へ出て再び馬に乗ると、彼は自分を奮い立たせるように、「ハイッ」とひとつ声を上げ、馬腹を蹴った。ぎゅっと眉を寄せた彼の顔は、その内心の焦燥を抑えているようにも見えた。
 日が落ちる頃、レスダー伯夫人の屋敷に到着すると、馴染みの執事が彼を出迎えた。
「カルード様。お帰りなさいませ」
「母上は?」
「今日は宮廷の晩餐会にお出かけでございます」
「そうか」
 屋敷の扉をくぐると、彼は侍女の出迎えにも適当に手を振り、早足で廊下を歩いていった。
 廊下の突き当たりにある部屋の前で、彼は立ち止まった。
 そこはマリーンが、リュシアンを教えるための勉強部屋にしている部屋だった。
 カルードは扉を開けた。
 部屋には誰もいなかった。机の上には、本や羊皮紙が開かれたまま置かれ、まだインクの付いたペンが転がっていた。確かにここで、つい先程まで授業が行われていたようだ。
 カルードは部屋を出ると、玄関に戻って侍女に尋ねた。
「姉上はお出かけか?」
「さあ。存じませんが……お勉強のお部屋にはおいでになりませんでしたか。おかしいですわね。どちらにおいでなのでしょう」
 首をかしげる侍女を残して、彼は階段を上がった。
 二階の廊下の突き当たりが、マリーンの部屋である。
「姉上。おられますか。姉上」
 いくら扉をノックしても返事はなかった。
「……」
 少しためらってから、彼は思い切って扉を開けてみた。
 鍵は掛かっていなかった。廊下の壁に掛けられていた火の付いた燭台を手に、カルードは部屋に入った。
 暗い室内は静まり返り、人のいる気配はない。
「姉上もいない……。ということは」
 燭台を机に置き、しばらく考え込むようにしながら、彼は室内を歩き回った。
 寝台に目をやると、かすかにシーツが乱れた跡があった。先程から頭の中に現れるその考えを否定するように、彼は軽く首を振った。
「そんなことはない。そんな馬鹿なことは……」
 そうつぶやいてみても、いっこうに気は晴れなかった。自分自身を納得させるように、彼はまた首を振り、独り言を繰り返した。
「俺は、なにを馬鹿なことを考えているんだ……。姉上にかぎって、そんなことが……」
 窓を開けて、冷たい空気に触れると、少し気分がよくなった。
「もう、よそう。第一、勝手に姉上の寝室に入るなど……」
 大きく息をついてつぶやく。
 燭台を手に取り部屋を出ようとしたときだった。本棚の隅にある一冊の本がふと目に入った。
 整然と本が並んだ棚の中で、それだけが素早く押し込まれたように傾いて納まっている。それが何故だか気になった。
 本棚に燭台の明かりを近づける。その本の背表紙を見ると、修辞学のための写本のようだった。
「なにも……あるわけはない」
 自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、その本を手に取る。
 ぱらぱらとめくってみると、本の中ほどになにかが挟まっているのに気がついた。それは四角くたたまれた羊皮紙だった。
「……」
 にわかに沸き上がる緊張を抑えながら、彼はそれを開いた。
 水でにじんだような、かすれた文字が目に入った。床に置いた燭台に手紙を照らし、それを読んだ。
「ああ……」
 文字を追いながら、ぶるぶると手が震えた。
「ああ」
 ため息のような呻きが彼の口から漏れ、手にしていた本がどさりと床にすべり落ちた。
「なんてことだ。なんてことを……」
 彼は目を見開き、信じられないように何度もそれを読みくだした。
「ああ……こんな、こんな……」
 顔を歪ませ、口もとを押さえる。
「ああ、ああ……」
 押し殺すような呻きを吐き出しながら、彼は震える手でその手紙を見つめ、しばらくじっと立ちつくしていた。

 翌日の朝、部屋にいたマリーンは控えめなノックの音を聞いた。
「どうぞ」
 なんとはなしに予感がしたのか、彼女は手にしていた本を閉じ、立ち上がった。
 扉を開くと、そこに立っていたのは彼女の弟、カルードだった。
「まあ、こんな時間に珍しいのね」
「少し、よろしいですか?」
「ええ。どうぞ」
 彼女は少し奇妙に想いながらも、弟を部屋に入れた。
「今、侍女にお茶でも……」
「けっこうです」
「そう。あなた……もしかして昨日からここに?」
「ええ。泊まりました。朝食は早めに済ませましたので、姉上とは会いませんでしたが」
「そう。それで、どうかしたの?。あなたが家に帰ってきて泊まっていくなんて、珍しいことね」
 椅子をすすめるマリーンに、カルードは黙って首を振った。
「実は……今日は姉上に、お聞きしたいことがあって」
「私に?それはどういう……」
 彼女はようやく、弟の様子が普通でないことに気がついた。
 普段は理知的で、穏やかな顔を決して崩さない自慢の弟であったが、今はその顔は青ざめ、まるで徹夜でもしたように目が赤かった。
「……あなた、どうしたの?なにか変だわ」
「昨日は、どちらにおいででした?」
「昨日?」
「そうです。確か昨日は、リュシアンの家庭教師の日でしたね。授業をして、その後はどちらに?」
 マリーンは眉を寄せた。
「それは、どういう質問かしら?」
「言葉どおりの」
「私がどこへゆこうと、それを、あなたにいちいち報告する義務があるのかしら」
「リュシアンが……昨日は遅くまで家に戻らなかったようですね」
 マリーンの顔が一瞬引きつるのを、彼は見逃さなかった。
「そう」
「いえ、昨日だけでなく、たびたびそういうことがあったらしいです。そう、今までも何度も」
 カルードはじっと姉の顔を見た。マリーンは視線をそらさなかった。
「リュシアンの母君の話では、そういう日は友人のフィッツウースの家に寄ったとか、泊まったとかと、彼は答えていたそうです」
「それがなにか……私に関係が?」
「昨日の夜はそれを確かめにフィッツウースの家を訪ねました。が、リュシアンはいませんでした。彼はどこへ行っていたのでしょう」
「私が、知るとでも?」
「ではお聞きしますが、昨夜の姉上は誰とご一緒だったのですか」
「答える必要はないわ」
 マリーンはぐっと口を引き結んだ。
「本当は、こんなことは知りたくはなかったんです」
 カルードは声の調子を落とした。その顔はつらそうに歪んでいた。
「これを……」
 彼が懐から取り出したものを見るや、マリーンははっと顔をこわばらせた。その、たたまれた羊皮紙を差し出す弟の顔を、彼女は睨むように見上げた。
「あなた……それを見たの」
「ええ……」
 マリーンは目を閉じ、大きく息を吐いた。
「こんなことは知りたくなどなかった。でも、仕方なかったんです。僕は、もしかしたら……どこかでずっと、それを疑ってもいたのかもしれません」
 マリーンは、受け取った羊皮紙を開いた。
 大切そうにそれを膝の上で開くと、もう何度も読み返した文字を、再び目で追った。

 前略
 僕の愛するマリーン
 あなたが隊長の姉上であろうと、
 伯爵の娘だろうと、僕の先生だろうと
 僕はあなたを愛しています 
 あなたの全てを
 あなたがくれた笑顔や、幸せや、つらい苦しみも、
 全てを
 僕は愛しています           
 あなたがくれたことを、僕もいつかあなたに返したい
 戻ってきたら、
 あのプラタナスの木の前で待っています
 いつまででも
 僕は待っています
 そしてあなたが来てくれたら
 僕はあなたを奪います
 今度こそ……

 それは、彼女がリュシアンから受け取った手紙だった。一晩馬を駆け通してきた彼が、あの日マリーンに贈った言葉……
 雨に濡れてところどころ文字がにじみ、汚れていたが、その言葉の一つ一つには、少年のあふれる想いが込められていた。
 手紙を見つめるマリーンの目は、優しく、かすかに潤んでいた。
 羊皮紙の下の隅には、走り書きのように後から書き足された文字があった。
 『あなたに、奪われたい……』と、それが誰の文字であるかは、おそらく彼女の弟にはすぐに分かっただろう。
「……」
 マリーンは顔を上げた。
 そこに苦しそうな顔をして立つ、自分の弟である騎士を見て、
「それで?」
 彼女は静かに言った。
「それでって……、あなたは。自分のしておられることが分かっているんですか?」
「……ええ」
 うなずくその目は、深い湖のように穏やかだった。それは、すでに何もかもを受け入れ、決意した人間のようなそんな表情だった。
「だって、彼はまだ少年ですよ?姉上といくつ違うと思っているんです。それも……それも、あなたは彼の家庭教師だ。そして、彼の隊長であるこの僕の姉なんですよ」
「そんなことは、分かっています」
「分かっておられない!」
 カルードは声を荒らげた。
「こんな、こんなとんでもないことを、世間に知られたら……それに、母上や、リュシアンの母君にも。そうだ、それにあなたの婚約者モンフェール伯にも、もし知れてしまったらどうするんです。そうなれば世間の笑い物だ。いいえ、それだけでは済まない。あなたには婚約者もいるのだから。悪くすれば、姦淫の罪で罪人になって、都市を追放されてもおかしくはない」
「分かっています……」
「それに、リュシアンだって。せっかくもうすぐ正騎士となり、貴族社会で認められようとしているのに。彼はどうなるんです?彼の母親の息子への期待は。あなたは彼を堕落させ、彼の将来を台無しにするおつもりなんですか?」
「……」
 膝の上で握りしめられたマリーンの手がぶるぶると震えた。
「いいえ、僕はなにも姉上だけのせいだとは思いません。しかし、世間はそう見ないでしょう。年若き少年をたぶらかし、淫欲を覚えさせたとして、弾劾されるのはあなたなんですよ。そうなったら、我が家の家名はもちろん、あなたの婚約者の名誉までを傷をつけることになる。それでいいんですか?」
 まるで、悲劇を目の当たりにした詩人のように、カルードはかすれた声で嘆いた。
「リュシアンの父君、ロワール卿はそれは立派な騎士だった。彼も彼の母親もそれを誇りにし、いずれは彼自身もと、皆が期待しているところに、このような醜聞が沸き起こったら。あなただけでなく、彼の隊長であり、あなたの弟であるこの僕も立つ瀬がありませんよ。そんな恥を感じながら騎士隊長などできるはずがない。まったく、なんということになったんです。これでは僕も、あなたも、リュシアンの将来もおしまいだ。いったいどうしてこんなことに……」
「分かっていると言っているでしょうっ!」
 マリーンは椅子から立ち上がっていた。
 両手を握りしめ、体を震わせて、彼女は叫んだ。
「そんなこと分かっているわ。何度も、何度も考えたわ!」
 その目から涙がこぼれた。
「私だって考えたわ。そんなこと。何度も彼を突き放したわ。このままでは、彼の将来がダメになるって……。私のことなんかはどうでもいい。でも彼は、リュシアンはまだ若い。私なんかが彼の道をさえぎってはいけないんだと。何度も、考えたわ……」
「姉上……」
 カルードは呆然となって、普段は決して見せない、取り乱した姉の姿を見つめていた、
「でも、ダメなのよ……」
 彼女は床に座り込んだ。その手で顔を覆う。
「何度も考えたわ。でも、でもダメなのよ」
「……」
「何度も耐えたわ。無理に彼を拒み、突き放したこともあったわ。私の方から離れなくてはと。だから婚約もした。けれど……やっぱり、ダメなの」
 はらはらと流れ落ちる涙をぬぐいもせず、マリーンは顔を上げた。
「リュシアンが欲しいの……」
 静かに囁いたその顔には、うっすらと微笑みがあった。透明な、そして悲しそうな女の微笑みが。
 沈黙に満たされた室内で、それまでの時間が壊れかけてゆくのを、なすすべもなく感じなから、
 カルードは静かに言った。
「駄目です。無理ですよ。姉上。それは……無理ですよ」
「……何故?」
 まるで、知らぬ相手を見るような目で、マリーンは弟を見た。
 彼女はのろのろと立ち上がり、椅子に腰掛けた。その手に羊皮紙を握りしめ、乱れた黒髪を直しもせずに。
「なぜ……」
 そのつぶやきに答えられるはずもなかった。
 カルードは何度も首を振り、耐えられなくなったように、そのまま部屋を出ていった。

 その日の夜、彼は母であるレスダー伯夫人の部屋を訪ね、モンフェール伯との結婚を早めるよう提案をした。理由を問われると、彼は本当のことを言いそうになるのをぐっと堪えた。
 カルードの強い提案を退ける理由は、夫人にはなかった。二十四にもなった娘がいまだに独り身のまま、老いてゆく自分と暮らしてゆくのを、一番気に懸けていたのは母親の彼女に他ならなかった。
 その翌日も二人は話し合い、結婚の日取りを今月の末と定めると、さっそく、その旨を記した手紙をモンフェール伯爵に送った。他にも持参金の計算や、都市参事会へ届け出、相手方への贈答品選びなど、やるべきことは山ほどあった。
 マリーンはしばらく自室に閉じ籠もり、出てこなかった。
 侍女が部屋に食事を運び、カルードがときどき顔を出す他には、彼女は誰とも会わず、自分の結婚の支度が着々と進められていることにも、まるで無関心のようだった。正式に結婚を承諾したわけではなかったが、かといって反対することもなく、仕立屋がやって来て、式に着るドレスの寸法を取るときなどは、彼女は素直に従った。
 カルードの説得で、次の家庭教師の日が最後となることを、彼女は了承した。彼にすれば、本当はもう二度と二人を会わせたくはなかったが、姉の気持ちを察して、別れの時間くらいはもたせてやろうという、ささやかな弟としての配慮であった。
 そうして、この一週間のうちに、何もかもが物凄い早さで決まっていった。
 モンフェール伯からの返答も、カルードと夫人を満足させるものだった。伯が記した、「持参金などの額はまったく意にとめない」との文面は、夫人を大いに喜ばせ、日取りや場所に関しては、そのいっさいを任せるという言葉は、それらの事務に奔走していたカルードをほっとさせた。
 やがて日がたつにつれ、マリーンは穏やかさを取り戻してゆくように見えた。
 ここのところ、彼女が落ち着いた顔つきで食卓につくのを見て、カルードは内心でとても安堵していた。それが受容の境地であるのか、内心に何かをひそめているのかはともかく、これですべてはうまくゆくだろうと彼は考えていた。あとはリュシアンをどう言い含めるかだけが問題だったが、これも姉と相談し、彼女が自分でそれを伝えると決めたことで半ば解決した。
 カルードは、しばらく休んでいた騎士団の稽古に復帰した。普段どおりに騎士たち、見習いたちを指導し、とくにリュシアンやフィッツウースに対しては、何一つ変わらぬ態度で接した。
 ついに家庭教師の日が来ると、一番そわそわしていたのは、実はカルードだった。その日の稽古を副隊長に任せて休みにした彼は、屋敷でリュシアンを待つあいだ、マリーンと最後の相談をした。そして、彼女に何度も念を押すと、万が一にも、二人が手を取って逃げ出したりしないようにと、別の部屋に待機して、少年がやって来るのをじっと待った。
 昼を少し過ぎたころ、リュシアンがやって来た。
 少年は慣れた様子で屋敷に上がり、いつものように侍女に上着を渡し、軽やかに廊下を歩いて、突き当たりのその部屋にやってきた。隣の部屋では、息をひそめたカルードがじっと耳をすませているのを知らず、口笛を吹きながらリュシアンは扉を開けた。
「いらっしゃい。リュシアン」
 普段と変わらぬ笑顔のマリーンが、彼を出迎えた。
 だが、なにか奇妙な違和感に、ふとリュシアンは眉をひそめた。
「マリーン。なんだか今日は……」
「なあに?」
 テーブルの向こうで首をかしげる彼女は、なにも変わらない。穏やかな微笑みと、優しいまなざしと。
「いや。なんでもないけどさ……」
 どこか腑に落ちないものが、彼をとらえていた。しかし、それはいったいなんなのだろう。
「……」
 部屋を見回しながら椅子に座ると、向かい合ったマリーンが口を開いた。
「今日は……」
 静かな、淡々とした口調で、彼女は言った。
「勉強の前に……、君に、言わなくてはならないことがあるの」
「なにを?」
 聞き返すリュシアンから目をそらし、彼女は机の上の本を無意識に引き寄せた。
 それから息を吸い込み、
「モンフェール伯と、結婚します」
 彼にそう告げた。
 リュシアンは、一瞬なにを言われたか分からぬ様子で、ぽかんと口を開いたままマリーンを見た。
「な……」
「なに……いってんの?」
「だから……今日で家庭教師は、最後になります」
 感情を押し殺した抑揚のない声。
「う……嘘だろ?」
 突然の話に、リュシアンは呆然となっていた。その顔を引きつらせ、口元をわなわなと震わせて。
「嘘だ」
 マリーンはゆっくり首を振った。静かにリュシアンを見つめて。
「そんな……馬鹿な……」
 椅子から立ち上がった彼は、信じられないというような顔でマリーンを見た。
「なんでさ?なんで……いきなり、そんな」
「ごめんなさい、リュシアン。いきなりこんな話を……でもね」
「いやだ」
 リュシアンは、机の上の本を床に叩きつけた。
「なんでだよ。なんで、いきなりそんなことになるんだよ。だって、この間まで俺たち……」
 少年は言いかけ、すぐにはっとなった。
「もしかして……ねえ、マリーン。何かあったの?誰かに何か言われたんじゃ……」
「……」
「そうじゃなきゃ、こんなのおかしいよ。あの伯爵と結婚なんて。だって、俺たち……俺たち一緒になろうって、言っていたじゃないか。それを、いまさらどうして……」
「わたしたち……ね、みつかったちゃったのよ」
 マリーンは笑うように口元をゆがめ、それを口にした。
「見つかったって、誰に?」
「……」
「もしかして、カルード?」
 うなずくマリーンに、リュシアンは唇を噛みしめた。
「そうか……。それで……それでか、ちくしょう。カルードの野郎。それで俺たちを引き離そうと、マリーンに結婚を……そんなの、そんなのは、卑怯だ!」
 がつんと拳で机を殴りつける。
「そんなのは……ダメだ。ちくしょう……」
 リュシアンは、ぐるぐると部屋の中を歩き回りはじめた。その口から、ときおり苦しげなつぶやきが漏れる。
「くそ……ちくしょう」
「……」
 マリーンは、黙って座ったまま、少年の様子を見つめていた。
「ねえ……逃げようよ、マリーン」
 思いついたようにリュシアンが言った。
「二人で逃げよう。ここから逃げて、どこか遠くの町に行って、そこで二人で暮らすんだ」
 その顔にかすかな希望の色を浮かべて、彼は続けた。
「そうさ。ああ、もっと早くそうすればよかった。前にも言っていたじゃないか。誰も知らない町で、二人で暮らせたら楽しいだろうって。今こそそうするときだよ。ねえ、マリーン。そうしようよ。今夜にでもさ、俺、家を抜け出してくるから……」
「リュシアン」
 マリーンが顔を上げた。
「ねえ。そうしよう」
「それは……できないわ」
「な、なんでさ?」
「それは……私も、君も、都市貴族の人間だからよ」
 マリーンは悲しそうに微笑んだ。
「なんだよ。そんなもの……」
「たぶん……私も君も、町で生きる人々のように、自分たちだけで生活することはできない」
 驚いたように、リュシアンは顔を引きつらせた。
「それは、マリーンは貧乏ができないっていうこと?」
「私も。そしてたぶん、君も」
「じゃあ、それじゃあ、マリーンはお金のために、あいつと、あの伯爵と一緒になるの?僕を捨てて!」
「そうじゃないわ」
 マリーンの口調はひどく穏やかだった。
「ただ、君はこれから騎士になる身なのだし。私は、君よりもずっと年上で、世間から見たら釣り合わない間なのよ」
「そんなことは、前から分かっていたじゃないか。それでもいいって、俺たちこうなったんじゃないか。それなのに……カルードにばれたからって、いまさら……」
「いいえ、カルードだけじゃないわ。このまま同じことをしていれば、いずれは君のお母様にも、他の騎士たち、貴族たちにも知れてしまう。そうなったら、もう遅いのよ」
「遅いって……そんな、世間とか、他の連中とかになんと思われようといいじゃないか。お金も地位もなくたって、二人でいれば、俺、なんだってできるよ。マリーンのためなら、なんだって……」
 少年は床に膝をついて、マリーンの膝に顔を寄せた。本能的に彼女はその頭をそっと撫でたが、すぐに手を引っ込めた。
「お願いだから、分かって。リュシアン」
「いやだ……いやだよ」
「あなたのこと、私のこと、それに私の母や君のお母様……色々なことを考えて、こうするのがいいと考えたのよ」
「マリーン……」
 顔を上げたリュシアンの目に、涙が光っていた。。
「マリーンは……それでいいの?あの伯爵と結婚して、それで、それでいいっていうの?」
「楽しかったわ。本当に。君と過ごした時間は……忘れない。君に会って良かったって、本当にそう思ってるから」
 少年の手をとり、彼女は優しく言った。
「マ……リーン」
「だから、私の気持ちは変わらない。たとえ私が結婚しても。……それが分かったから、私はこうしようと思ったのよ」
 その決意が、いったいどれほどの想いであったのか、少年には分からなかった。
「……そんな」
 リュシアンはただ、マリーンを見上げ、力なげに首を振った。
「いやだ。そんなの……」
「さあ、リュシアン。立って」
 彼女は最後まで穏やかで、涙ひとつを見せなかった。
 それを彼は、なにか恐ろしいものをでも見るように見上げた。
「最後の授業を、始めましょう」
 静かな終焉を告げるその言葉……
「……」
 彼はのろのろと立ち上がると、青ざめた顔で席に着いた。
 なにも変わらぬ様子で本を開き、読みはじめたマリーンを机の向こうに見ながら、彼は放心したように動けなかった。

 すっかり寒さを増した十一月の下旬、
 リュシアンは家にいて、いつもの朝と変わるふうでもなく、メアリの作った豆のスープに固パンをひたして食べていた。
「今日は、騎士団の稽古はないのね」
 母親に顔も向けず、リュシアンはパンを口に放り込んだ。
「ああ……、カルードもいないし」
「そう。お前は、行かなくてもいいの?結婚式に」
 彼女がそう尋ねると、少年はパンをちぎる手を止めた。
「ああ……」
 口許をぬぐい、
「いいんだ。別に……」
 彼は、それだけ言った。
 そのとき、鐘の音が響いてきた。
 それは正午を告げる鐘だったが、彼にはそれが、まるで婚礼の鐘のように聞こえたのだろうか。
「……」
 リュシアンはしばらくじっと、その鐘の音を聞いていた。
 夕方になると、彼のもとにフィッツウースがやってきた。
「よう、リュシアン。元気だったか。寂しくはなかったか?」
「うるせえよ」
 普段はあまり見ない騎士の正装姿のフィッツウースがにやりと笑うと、リュシアンはふてくされたように口元を曲げて見せた。
「綺麗だったぜ。マリーン」
 二人はいつものように、家の裏手の林を歩きながら話をした。
「こう、真っ白な絹のドレスを着てさ、大理石の床をしずしずと歩いてくるところなんか、もう……お前でなくてもたまらん感じで」
「ばーか。それで、なんとか伯って奴は?」
「ああ、モンフェール伯爵ね。お前が言ってたほどおっさんて感じでもなかったぜ。立派な髭を見せびらかすみたいに、あごをくいって上げるところなんは、いかにも金持ちの貴族って感じだったけど。まあ、服もばっちりきめてたし、見た目にはけっこう立派そうな奴だったよ」
 案外元気そうなリュシアンに安心したのか、フィッツウースは調子に乗って、婚礼の様子をいちいち身振り手振りで話して聞かせた。
「で、指輪の交換てやつでさ。ジマルリングっていうの?三つに分かれる銀の指輪を、夫婦になる二人と証人とがそれぞれもらって、そのあとが誓いの言葉になるわけよ。健やかなときも、病めるときも、死に至るまで互いのもとにとどまることを誓うか……ってやつ。それから贈り物の交換があって、んで最後に二人が寄り添って、皆の前で口づけを……こう」
「もう、いいよ」
 リュシアンは話をさえぎった。石を拾い、それを池に向かって思い切り投げつける。
「ああ、悪りいな……つい調子に乗っちまって。悪かったよ」
 フィッツウースはすまなそうに頭をかいた。
「ああ……もういいよ」
 二人は、それ以上はその話題を口にしなかった。慰めの言葉も言うのも、聞くのも、彼らには耐えがたかったのに違いない。
 マリーンからの手紙が届いたのは、婚礼の日からちょうど一週間ほどが過ぎたころだった。
 自室に閉じ籠もると、リュシアンはその手紙をじっと眺め、それから、丸められた羊皮紙を縛る紐を解いた。
 紙を広げるとふわりといい香りがした。香料のふりかけられた綺麗な薄緑色の羊皮紙に、マリーンの文字が綴られていた。

 前略、リュシアン様
 お元気で過ごしておられるでしょうか。
 知ってのとおり、私は伯爵と結婚しました。
 悲しみも、後ろめたさも、いまはもうありません。
 あなたと過ごした時間は、私にとっては忘れえぬ日々でした。
 二人で馬車に乗ったこと。あの並木道で、プルヌスの花を一緒に眺めたこと。
 庭園のプラタナスの木の下で、心踊らせて待ち合わせたこと。
 あなたのトーナメントでの活躍。
 日に日に、騎士らしくたくましくなってゆくあなた。
 それから、家庭教師として過ごした時間も、私にとってはとても貴重なひとときでした。
 そして、あなたが一晩馬を駆り、雨の中駆けつけてくれたあの朝のこと。
 私は、それらのすべてを、今でも鮮明に思い返すことがあります。
 前にも言いましたが、
 私の心は変わることはありません。
 たとえ、季節が変わっても、
 私が結婚し、名ばかりは伯爵夫人と呼ばれようが、
 歳を重ねて老婆になろうが、
 この気持ちは永遠に一つです。
 ありがとう。たくさんの愛を。
 数えきれない喜びを。
 私は忘れません。
 最後になりましたが、
 どんなときでも、
 私はあなたに心よりの幸福を祈っています。
                        マリーン

 手紙を読みおえたリュシアンは、寝台に腰を下ろしたまま、しばらくじっと動かなかった。
 それから羊皮紙を丸めて、また大切そうにしまうと、彼は立ち上がった。
 稽古へゆく支度をしなくてはならない。
 もらったばかりの正騎士用の剣を手すると、そのずしりとした重さが、確かな誇りを呼び覚ますようだった。
 彼は家を出た。
 肌寒い十二月の空気が、吐く息を白くする。
 冬晴れの空のもと、流れる巻雲を見上げて、
 リュシアンは歩きだした。
    









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