//エピローグ//


 暖炉の前に座っていたサーモンド公爵は、いったん羊皮紙から目をそらすと、己の気を落ち着かせるようにワインを一口飲んだ。
 長い手紙の、その最後の一枚を前にして、老公爵はその白くなった髭を幾度もなでつけた。
「馬鹿者が……」
 低い声でつぶやいた。その目には光るものがあった。
 テーブルの上には、今日受け取ったばかりの手紙の他に、数日前に執事から手渡された羊皮紙の束があった。細かな文字や印章の押されたその書類をちらりと見ると、公爵は再び手紙を手に取った。
 眉間を押さえながら、公爵はその最後の一枚を読みくだしていった。

「……そうして、私にとっての最後の仮面が割れたのです。
 血の着いた短剣を放り投げ、私は外に飛び出しました。彼女の待つ所へと。
 親愛なるサーモンド公爵閣下。これが、私の行った罪のすべてです。
 ああ、手が震えます。あなたがこれらを読み、どうお感じ、なにをお考えになるのか。とても恐ろしい。もう私には、あなたのもとに膝をつき、あなたのお言葉を聴くことも、あなたの叱咤を得ることもできません。
 今日も、昼のあいだは馬を走らせ続けました。私の手が震え、文字が歪んでいるのは、手のしびれのせいだけではありません。私は恐ろしいのです。それは私のしてきた罪を後悔するためではなく……、いえ、後悔などもはやできますまい。私にとっての愛すべき人々が、私のこの告白を知って、どんなことを考えるか。それを想像するからです。
 ああ、でも私にとっては、何が本当で、何が嘘だったのかなど、いまさらどうでもよいことのように思えます。今確かなのは、馬上で私の腰に手を回した彼女のぬくもりと、森をそよぐ風の音、馬のいななき、ただそれだけです。
 私は、私自身をついに見つけたのだと思います。おそらく、それは幸せなことで、この世界ではそれ以上に価値あることなどはないという気がしています。
 私の犯した罪が、許されるべきものではないことは分かっています。それでもなお、心弱い私はこうして罪を懺悔いたします。
 私の言葉に耳をかたむけてくださるような相手を、あなたの他には知りません。この、ほとんど私の独白のような文面に、あなたは眉をしかめ、あるいは罵りのつぶやきをもらしておられることでしょうか。それでもいい。
 私は申します。わたしは、私になったのだと。私の仮面を壊すための十五年は、無駄ではなかったのだと。
 それから、少し前にあなた宛に預けておいたあの証書についても、事情がお分かりいただけたかと存じます。まことに勝手きわまる言いぐさになりますが、ある貧しい家族のために、どうか良きお計らいがありますことを信じています。
 ああ、横で眠っているフローラが目を覚ましそうです。これから、まずこの手紙を彼女に見せなくては。一晩かけて綴ったこの僕の告白を、愛する人にも知らせなくては。
 公爵閣下には、もう二度とお目に掛かることはないでしょう。本当ならば私の行い、私の罪を、直接あなたに叱ってほしかった。そうしたら私はもしかしたら……父親に許しを得ることができた子供のように、のびやかに笑うこともできたかもしれません。
 いいえ、でもそのような身勝手な望みはもう忘れましょう。ただ、こうして貴方にだけは、すべての真実をお話しすることが、私の義務のような気がしたのです。
 最後になりましたが、かつて貴方は、私のことを「息子」と呼んでくださいましたね。ですから、私からも一度だけこう呼ぶ無礼をお許しください。
 いつまでも、ご壮健であられることを。遠く馬上からお祈りいたしております
 親愛を込めて。我が父。クイル・フォン・サーモンドへ」

 一つ息をつくと、老公爵は手紙を置いて立ち上がった。
 窓辺に立った公爵の顔つきは、息子に置いていかれた父親のように、どこか寂しげだった。
「馬鹿者が……」
 小さくそうつぶやき、眼下に広がる屋敷の庭園を見下ろす。
 光さす昼下がり。庭園の向こうには緑の森が続き、彼方にはゆるやかな山間が連なる。群青色の空に行雲が流れてゆく。
 公爵は目をこらした。
 そうすれば、彼らの姿が、森の向こうに見えるかもしれないというように。
 どこかの草原か、国はずれの街道か、それとも風の吹く丘の上か、
 そのどこかを駆けているだろう、彼らの姿が、見えるかもしれないというように。
「願わくば、汝らの上に……」
 ゆっくりと公爵はつぶやいた。
「穏やかな幸が訪れんことを……我は祈ろう」
 公爵は目を細めた。
 皺の深くなった口元に穏やかな笑みを浮かべて。
 風をきる馬蹄の響き、
 微笑み合う馬上の恋人たち
 その二人の姿を、目の奥に確かに見ているように。


                              

                      





    あとがき