ケブネカイゼ 6/10ページ


 //シャルライン//


 通りの向こうに屋敷の青屋根が見え始めると、キルティスはため息をついた。
 一時はこのまま、レイナルドの隠れ家に住んでしまおうかとも考えたが、そういうわけにもゆかない。自分が長いこと戻らなければ、気まぐれな夫人としてある程度は放任されているとはいえ、侯爵や屋敷の者たちも不審がるだろうし、第一、髪も染められない。いまさらながら、キルティスという人間が存在するためには、侯爵夫人としての安全な隠れ蓑がなくてはかなわぬのだということを認めざるを得なかった。
「さてと……」
 とにかく、なるたけ人目につかぬように戻らなくてはならない。キルティスは屋敷の正門をぐるりと迂回して、裏門の方に歩きだした。
 すると、すぐに通りの先から、黒塗りの馬車がこちらに曲がって来たのに出くわした。
「なんとまあ。間のいいことで」
 呆れ顔でたたずむ彼女の前に、馬車はただちに止められた。案の定、そこから下りてきたのはリュプリックだった。
「これは、キルティス様。ようやくお帰りですか」
「ああ。お前こそ。馬車でお使いの帰りか?」
「とんでもない」
 慇懃に頭を下げながら、男は無表情で答えた。
「キルティス様を探しておられたのです。この三日間どちらへおいででしたので?」
 それには答えずに、キルティスは馬車席に乗り込んだ。
 そのまま馬車は屋敷の門をくぐり、邸内に入っていった。
 三日ぶりに戻ったというのに、屋敷はいたって穏やかだった。侍女たちも、下男たちも、表面上はまったく平静を装ってキルティスを出迎え、丁寧に挨拶をした。これには拍子抜けしたキルティスだったが、いろいろと騒ぎ立てられたり、問い詰められるよりはずっとマシだったので、余計なことは何も言わなかった。
 自分の部屋に戻り、お茶を持ってこさせると、しばらく一人になりたいと侍女を下がらせた。
 一口茶をすすって、彼女は自分の寝台に横になった。
 体を伸ばすと、まだ少し腰のあたりが少し痛んだ。レイナルドの隠れ家で静養したおかげで、また生きる気力が戻ってきた。
 キルティスは天井を見上げた。
 そうやって思い浮かぶのは、やはりシャルラインのこと。久しぶりに見た彼女は、リリウムの花のように華奢で、はかなげで、そしてまるで少女のように可愛らしかった。抱きしめたとき、唇が触れたときの感触……
(シャルライン……)
 そっとその名をつぶやくと、はにかんだような彼女の微笑みが脳裏に浮かぶ。
 キルティスはうっとりと目を閉じ、まるでそこにいる相手を抱きしめるようにして、両手を中空に伸ばした。
「キルティス様、侯爵閣下がお呼びでございます」
 無骨なノックの音が、甘やかな空想をさえぎった。
「……ああ、今行く」
 不機嫌な声で答えると、侍女を呼び着替えを手伝わせる。また、ケブネカイゼの時間が始まるのだ。
 部屋に入ると、立ち上がった侯爵が彼女を出迎えた。
「おお、ケブネカイゼ。戻ったか。心配したぞ。この数日何処へいっておったのだ?」
「申し訳ありません。少し体がつらくなり、知り合いの医者のもとにまいりました」
 こうしたときの言い訳は、すでに何通りも考えている。彼女はつとめて弱々しく見せるよう、白い顔をしてうっすらと微笑んだ。
「そうだったのか。そんなことなら、わしに申せばかかりつけの医者を呼んだものを。体の方はもう良いのか?」
「はい。数日の間休ませていただきましたので、だいぶよろしゅうございます」
「そうか、それはよかった。わしも悪かった。あの日はちと虫のいどころず悪くてな、お前を乱暴に抱いてしまったかと、あとですっかり後悔しておったのだ」
 彼女は、内心で「ウソをつけ」思いながら黙っていた。しかし侯爵は妙に優しげだった。
「もうあのように乱暴にはせん。本当だ。わしを許してくれるか?」
「はい」
「とにかく、しばらくはゆっくりと休むがよい。では、わしはまた公務に戻るのでな」
「いってらっしゃいませ」
 彼女の手に口づけをすると、侯爵はそのまま部屋から出ていった。それを見送ってから、彼女は部屋の水おけに乱暴に手を突っ込んだ。
「汚い唇を付けるな、ブタが。情けない顔で私を見やがって……、はは」
(私を殺すほどに犯し、殴り、罵っておいて、なにを言う)
 こみ上げてくる嫌悪に唇を噛みしめる。
(ああいうくそったれ男どもってのは、三日もたたぬうちにそれを忘れやがる。どうせすぐにまたあの薄汚いものを私に差し込みたがって、獣のように怒鳴りちらすのだろうさ)
(せめてあのブタが、せめて三日くらいは私を放っておいてくれることを祈っておくか)
 何度も、何度も手を洗い、彼女は舌打ちをした。
 ぼそぼそと罵りの言葉が口からもれる。やがて手の皮が冷たくなり、ひりひりとしてくるまで、彼女は手を洗いつづけた。

 侯爵が約束した通り、その後しばらくは、彼女が夜伽に呼ばれることはなかった。
 もとより侯爵自身が屋敷に戻る回数も減ったのことで、彼女は数日間ゆっくりと休み、よく眠ることで体調を取り戻すことができた。
 そうしてさらに数日静養すると、ようやく体の痛みが消えた。普通に歩けるようになり、ちゃんと食事をとるようになると、彼女は立ち上がり、またキルティスとなった。髪を染め、お気に入りのチュニックに黒いズボン姿で、彼は颯爽とサロンに出掛けていった。
 サロンへ続く広間の扉を開けるとき、キルティスはそれまでにない心の高揚を感じるようになった。はたして、「彼女」は来ているだろうか。彼女に会ったら、今日はまずはどんな挨拶を言おう。彼女とダンスを踊ったら、他の連中に邪魔されぬうちに二人で庭園に出ようか。
 音楽と人々のさんざめき、婦人たちの笑い声。色とりどりのドレスに乾杯の響き。その中で、自分が求めるたった一人の相手を見つけるときの喜び。
 だが、たいてい窓辺のテーブルに座っている彼女を見つけても、すぐにはそこに向かわない。まずは馴染みの人々に挨拶をして回らなくてはならないからだ。婦人たちと軽い時候の話題を交わし、注がれた杯を飲み交わし、もしダンスに誘われた場合、断って失礼になる相手であれば仕方なく一曲相手をし、そうでなければ微笑みかけながら丁重に断り、それらが済んでから、ようやく彼女のもとへ旅立てるのだ。
 皆の注目をなるたけ集めぬよう、キルティスはそろそろと彼女のそばにゆき、それまで考えに考えていた洒落た言葉も忘れ、「やあ、こんにちは」などと、当たり前の挨拶を交わす。彼女はもじもじとして、すぐに目をそらしたりするが、ふっとはにかんだ笑顔を見せてくれると、キルティスは安心して息をつき、それから楽しい会話が始まってゆくのだった。
 キルティスにしてみれば踊りたい気持ちもあるのだが、彼女の方は踊ることがあまり好きではないようなので、無理に誘うことはしない。彼女を庭園に連れ出して、ようやく二人になると、彼にはそれだけで至福の時間となった。庭園の木立や月桂樹の迷路を、手をつないでゆっくり歩きながら、たわいもない話で笑い合ったりすることが、この上もなく幸せだった。
 そうして瞬く間に時間がたち、別れ際になると、キルティスはそっと彼女を抱きしめる。とても華奢な彼女の体を、こわれものを扱うように引き寄せると、彼女は頬を染めて目を閉じる。ぎこちない、恋人になりたてのような口づけ。
 黄昏に色を変えてゆく空が、紫の雲を呑み込みこんでゆく。
 彼は夜を恐れた。
 キルティスである自分が終わる時間を。
 侯爵が屋敷に戻る日は、迎えの馬車がやってくる。シャルラインの手を離すとき、「また明日」と囁いて庭園を走り去り、そして夜が来て、彼はケブネカイゼ夫人になる。
 七日間の安息の後、再び侯爵は彼女を求めるようになった。
 永遠に来なければいいと思ったその時間が再び始まった。以前と変わらず荒々しく、乱暴に、侯爵は彼女を抱いた。歯を食いしばり、涙を流し、心で呪詛をつぶやきながら、彼女は苦痛に耐えた。憎しみと嫌悪だけが彼女の心を支えた。抱かれながら、彼女はまた心の中で侯爵を殺し続けた。
 ベッドの上で発狂しそうになるとき、ふと心に浮かぶのはシャルラインの顔だった。はかなげな、少女のような微笑みを瞼の裏に見ながら、彼女は、獣の声を上げる男の存在を消した。
 深夜になって部屋に戻って、汚れた体をぬぐい寝台に横たわると、さっきまでの激しい憎悪が少しやわらいでいることにふと気がついた。憎しみが全て消えたわけではなく、また枕の下から短剣を取り出して振りかざすことはあったが、しかし、これまでのように部屋を飛び出して、深夜の街路で殺すための相手を探すという、あの切迫した狂気は起きなかった。
 またシャルラインのことを考える。
 彼女に明日会える。彼女を抱きしめ、その確かなぬくもりを感じ、心の中で涙を流せたら、そうしたら自分はまたやってゆける。
 いったんは手にした短剣をしまうと、彼女は毛布をかぶった。いままでであったら、明け方までは寝つけなかったものだが。一刻もたたないうちに、彼女は寝息を立てはじめた。
 翌朝になって目が覚め、陽光の当たる窓辺に立つと、彼女は世界が美しいことを知った。
 彼女は、キルティスになり、またケブネカイゼになるという、奇妙な二重生活を、以前のような恐るべき狂気をはらむことなしに過ごせるようになっていた。殺人事件はなくなり、都市から殺人鬼の姿は消えたと、人々は噂をした。
 キルティスはシャルラインとの逢瀬を心から楽しんだ。二人はときどきサロンを離れ、野原を散歩したり、彼女を乗せて馬で遠乗りに出掛けるようになった。
 風にそよぐ木々の梢が陽光を浴びて輝いている。
 真っ青な空には流れゆく白い雲。鳥のさえずりと、さわさわと揺れる木立。川のそばには野いちごが実り、白いイベリスや薄桃色をしたリリウムの花がたくさん咲いている。草の香りと、花の香りを含んだ風が二人を包む。
 馬を降りて並んだ草原を歩きながら、キルティスはリリウムの花を一輪取って、シャルラインの髪にさした。少し疲れると、二人は並んで木陰に寝そべった。ゆったりと空を見上げ、流れゆく雲を見ながら、時間はあっと言う間に過ぎてた。
 馬で丘の上までゆくと、二人は沈みゆく夕日を眺めた。黄昏の紫へと変わる空に、燃えるい太陽が最後の残照をたたえ、ゆっくりと西の山あいに落ちてゆく。側に互いの存在を感じながら、二人は移ろいゆく空を見つめた。
 キルティスは、そっとシャルラインを引き寄せた。この黄金の時間が過ぎてしまうことを恐れるように、静かに二人は抱き合い、いつまでも動かなかった。
 キルティスは、日常の中で、シャルラインとの逢瀬を待ちながら過ごすようになっていた。サロンに行っても彼女に会えなかった日などは、婦人たちとの会話もおぼつかず、彼はただぼんやりとシャルラインのことばかりを考えた。ダンスを申し込んで来る婦人たちにも、彼は適当な返事でそれを断った。上の空で話を聞き流し、周りの婦人たちに呆れ顔をさせたかと思えば、翌日になって、シャルラインがサロンに顔を見せたときなどは、彼は見た目にもうきうきとして、喜びを隠しきれない様子になった。背筋を伸ばし、きびきびと立ち回って、彼は婦人たちの話題の中心となり、洒落た台詞で皆を笑わせるのだった。
 それは、キルティスにとっては、今までに感じたこともない、心浮き立つ日々だった。週に何日かの侯爵が屋敷に帰る日は、これまでと同じく憂鬱なことに違いはなかったが、ケブネカイゼにならなくてはならない日でも、彼女はもう前のようには憤怒と絶望とにさらされ続けることはなかった。

 いつものようにキルティスはサロンを早めに辞し、迎えの馬車に乗って屋敷へ帰った。侯爵が戻る日は、こうして夕刻前に戻っておいて、食事をとってから部屋に呼ばれるのが常だった。
 部屋に戻ると、侍女に手伝わせてさっそく着替えと化粧をし、髪を染めた。
 しかし、ケブネカイゼの姿になっても、今日はいつまでたってもお呼びがこない。少しいらいらしながら鏡台の前に座ってじっと待っていると、ようやくノックの音がした。
 扉を開けるとリュプリックが、いつもの無表情で淡々と告げた。
「侯爵閣下は、今宵はお戻りになりませぬ。侯爵夫人におかれましては、本日はゆっくりとお休みになられるように、とのことでございます」
「……そう。わかった」
「それでは失礼いたします。良い夜を」
 丁寧に礼をして男が下がっていった。彼女はしばらく扉の前に立っていたが、力が抜けたように、鏡台の椅子に腰掛けた。
「なんだ……、来ないなら来ないでありがたいものだが」
 緊張が抜けてほっと息をつく。
「まったく。だったらもっと早く言いにくればいいだろう。リュプリックの奴め。よい夜を、だと?ハッ、そりゃ確かに良い夜だろうとも。あの獣と交尾をせずにすむのだからな。ありがたくて涙が出るほどだ。まったく。無駄な手間をかけて化粧なんてしなけりゃよかった!」
 鏡に映った自分を睨み付け、彼女はいまいましそうにつぶやいた。
 燭台の火に光る亜麻色がかった長い金髪。赤い紅が塗られた唇を結んだ白い顔。それは誰がどう見ても、艶麗な貴婦人の姿であった。
「……ふ」
 鏡の中で、赤く塗られた唇がゆるやかにつり上がった。
(この……顔!)
 己の顔を、まるで他人のものでもあるように、醒めた目で見やる。
(まったく。傑作だな。にせものの女の、にせものの仮面か)
 自嘲と嫌悪が入り交じり、じわじわと黒いものが心の中に広がってゆく。やがてその顔からは女の表情が消えた。
(君は……、君はいったいどう思うだろう?こんな私の姿を見たら……)
「……シャルライン」
 つぶやきが自分の口から漏れるのに気づいて、彼女は口許をゆがめた。
(フ……)
(フフ……まさか、本気で惚れたのか?)
 ケブネカイゼの顔をした自分に問い掛けるように、鏡を見つめる。
(この……私が、あんな娘を?)
(そうなの?)
(そうなのか?……)
「クッ……」
 いきなり彼女は頭に手をやった。
「クックック……はっ」
 しわがれた笑い声。
「ハッ、ハハハハ……」
「なんだって?なんだって?」
「この私が?あの娘を、だって?そうなのか?そうなのか?」
 椅子から立ち上がった彼女は、まるで狂ったように部屋中を歩き回りはじめた。
「ハハハ……ハハハハ……ハ!」
 おかしく、苦しそうな奇妙な笑いを、彼女は笑った。
 壁を殴りつけ、寝台のシーツを掻きむしる。何度も激しく首を振り、ついに床に突っ伏して頭を抱えた。荒い息をつきながら、彼女はじっと動かなくなった。
「な……んだって」
 つぶやきのような、かすれた声がもれた。
「なんだって、こんな!……」
 黒ビロードのドレスの裾をきつく握りしめ、彼女は叫んだ。
「この私が!」
「なんだって……う」
 その声は、やがて呻きへと変わり、顔を覆った両手の間から、すすり泣きがもれた。
「ううう、う……」
 耐えがたいものに翻弄されるように、彼女は嗚咽した。
 何度も髪を掻きむしり、また嗚咽し、苦しそうに息をつくと、彼女は唐突に立ち上がった。ふらふらと鏡台の前に立つと、そこに映った己の顔を正面から見つめる。
 ぼさぼさに乱れた髪の向こうで、その目が狂気に光っていた。
「お前が嫌いだ」
 鏡の中のその女に向かって、低くつぶやく。
「お前が嫌いだ」
「お前が嫌いだ……」
 永劫の悲しみが閉じ込められたその声は、鏡にはねかえり、彼女自身を突き刺し続けた。

 その翌日、いつものように二人でサロンを抜け出して庭園歩いていると、小径に差しかかったときに、シャルラインがふとこちらの手を引いた。
「ちょっと、こっちにいらしてください」
「なんだい?君から誘うなんて珍しいね。なにかあるのかい?」
「いいから、早く」
 子供のようにはしゃぐ彼女を見て、キルティスもつられて笑顔になった。
「はいはい。姫君の仰せとあれば、私は何処へなりともまいりましょう」
 二人は木立の間を通って、林の奥へと入っていった。ひっそりとした木々が取り囲む庭園の奥まで来ると、シャルラインは立ち止まった。
「ほら、これ見てください」
 彼女は誇らしげに地面を指さした。
「ああ……」
 キルティスも声を上げた。目の前には、花々の小国が広がっていた。
「ほら、ここにある花は、みな自然に咲いたものなんですよ」
「うん。すごいね」
 赤や白、桃色や紫の小さな花たちが、周りを木々に囲まれたこの場所に、ひっそりと集まっていた。ベリスやバーベナ、アルメリアの花々が咲いたこの一画は、木立に隠れた天然の花壇であった。
「きっと、以前に誰かがこの場所に種をまいたのでしょうね。今朝散歩していて、偶然見つけたんです」
 まるで黄金の宝物をでも見つけたかのように、彼女は顔を輝かせた。
「君は……これを見せるために僕をここへ?」
「ええ。……だって」
 彼女は恥ずかしそうに言い、
「一人で見るよりも楽しいでしょう?」
 花を踏まないように、そっとしゃがむとバーベナの花びらに触れた。そんな彼女の横顔を、キルティスは感動したように見つめていた。
「君は……不思議な人だね、シャルライン」
「私が、ですか?」
 驚いたように、彼女は顔を上げた。
「だって君は、サロンにいるときよりも、こうして外に出て、花を見ている時の方が、ずっと生き生きとしているよ。綺麗なドレスとか宝石とか、高価なお菓子やお酒なんかには、まるで興味がないみたいに。普通、貴族の令嬢なんてものは、そういうものが好きな連中だとばかり思っていたけど。君は、僕の知っている婦人たちとは全然違うようだよ」
「……」
「きみは……もしかして」
 言いかけてキルティスは首を振った。自分でも何を言おうとしているのか分からない。
「いや、なんでもない。君は、君だものね」
「バーベナの花言葉、知ってますか?」
 地面に膝を付いて、赤と白の小さな花をそっと両手で包みながら、シャルラインが訊いた。
「いいや」
「バーベナの花言葉は、『優しい愛』です」
 彼女はうっすらと頬を染めた。
「ふうん。でも君には、こっちの白いベリスの花が似合うけどな。可憐で、小さくて」
 キルティスは、白いベリスの花をひとつ摘んで、差し出した。
「ベリスの花言葉はなんていうの?」
 シャルラインは、少しの間黙っていたが、かすかに悲しそうな笑いを浮かべて言った。
「いいえ。私にはベリスは似つかわしくないですわ」
「どうしたの?僕はなにか、何か悪いことでも言ったかな」
「いいえ」
 立ち上がって微笑んだ彼女からは、たった今の悲しげな色は消えていた。ベリスの花を髪にさしてやると、シャルラインは嬉しそうにした。
 優しく引き寄せて、やわらかな口づけ……彼女の目から白い涙が伝った。
「どうかしたの?」
 シャルラインは首をふった。その目が彼を見上げ、また伏せられた。
「私……私、あの……」
「いいんだよ。なにも言わなくても」
「キルティスさま……」
 濡れた瞳で自分を見上げる少女を、キルティスは心の底からいとしく感じていた。
「たとえ君がどこの誰であろうとも」
 シャルラインを見つめて、彼は静かに告げた。
「君が、こうして僕をここに連れてきて、この花を見せたくれたように。今ここにいる僕と君が、こうして同じ花の香りをかいでいるように。僕は君を信じている」

 その数日後のこと、
 サロンから帰ったキルティスは、突然の侯爵の呼び出しを受けた。
 今日は屋敷には帰らない日のはずだがと、奇妙に思いながらも、仕方なく着替えをすませ、彼女は部屋の扉を叩いた。
「おお我が妻よ。今日も一段と美しい。さあ入れ。まあ座れ。ワインはどうだ?うん?」
 久しぶりに見る侯爵は、ひどく機嫌が良さそうだった。いそいそと、二つのゴブレットにワインを注ぐ名義上の夫を見つめながら、彼女は椅子に腰を下ろした。
「なにか、お話があるということですが?」
「うむ。……まあ、その前に、ほれ一杯どうだ」
 並々とワインの注がれた金の杯を受け取り、彼女は仕方なくそれに口をつけた。侯爵は一息に飲み干して杯を置くと、そわそわとした落ち着かなげな様子で口を開いた。
「そうだな。うむ。まあ、話というのは、そう、たいしたことでもないのだが」
 ならばとっとと言えばよかろうと、彼女は内心で舌打ちした。
「その……実はな。わしはその、つまり、ある不幸な女に、屋敷を与えようと思うのだ」
 いつもの無骨で横柄な物言いとはうって変わり、侯爵はどもりながら言うと、妻の顔を伺った。彼女は何も言わず、やわらかな微笑みを浮かべた。
「そのことを、一応、お前にも報告しておこうと思ってな」
「つまり……」
 ひどく穏やかに、彼女は口をひらいた。
「四番目の妻をおもうけになる、と。そういうことですか?」
「う、うむ。まあ、そういうことになるのかな」
「それは……おめでとうございます」
「うむ。……うむ」
 侯爵はしきりと頭を掻き、顎髭をなでつけた。
「して、今度は、どんな方なのでしょう」
 ブタの愛人などにはなんの興味も沸かなかったが、彼女は礼儀上尋ねてみた。侯爵は妻の許しを得たことで、すっかり上機嫌になったらしく、油ぎった顔をにやけさせてうなずいた。
「うむ。そうだな、そのうちそちにも紹介しよう」
「はい。ぜひにも」
 婉然とした微笑みを作り、ケブネカイゼは答えた。その内心では密かに、「もう四十になろうというのに、この好き者が。この大豚の妻になどなろうというのは、いったい何処の馬鹿女だろうな」と考えながら。
 それから、侯爵はひとつ咳払いをして、いかにも真面目な顔つきで言った。
「しかし、お前にはちゃんと言っておくが。正式な侯爵夫人、つまり正妻の座は、もちろんお前一人のものだよ。他の女などはいわば妾にすぎんのだから。これまでもそうだったろう?ただ手続き上は、妾といえども宮廷からの保証金が入るし、新たな土地の所有も認められるというだけだ」
 それにケブネカイゼは微笑んだままだった。侯爵は、「聞き分けの良い妻をもって実に幸せだ」と付け加えて、彼女の機嫌をとった。
「そういうわけなのだ。分かってくれるな?ケブネカイゼ。我が愛する妻よ」
「もちろんですわ。あなた」
 艶めいた口調で彼女は答えた。単純な侯爵は、まったくもって晴々とした顔になり、ワインのせいもあってか、その火照らせた顔をだらしなくほころばせた。
「それでは、私はこれで」
 杯をおいて立ち上がった彼女を、侯爵は引き止めたそうにしたが、さすがに新しい妻を持つという報告をしたばかりで気が引けたのだろうか、今日ばかりは彼女を強引に寝台に引きずり込むことはしなかった。
「今日は疲れておりますので、これで失礼いたします」
「のう、ケブネカイゼ」
 部屋を出ようとする彼女を、侯爵はもう一度呼び止めた。
「さっきも言ったが。正妻の座はお前のものだよ。よいな」
 それに振り返らずに、足を止めた彼女の眉がつり上がった。
「……ありがとうございます」
 声を震わせ、そう絞り出すように言うと彼女は部屋を出た。
 後ろ手に扉をしめた瞬間、その口元がつり上がった。
「はっ……、はは……」
 かすれた声がもれた。こみ上げてくる怒りのため、両拳がわなわなと震える。
(正妻の座、だと?)
(そんなものに……掃き溜めのくずほどの価値もあるか!)
 大声で叫び、扉を蹴飛ばして、そのまま走り去りたいような気分だったが、廊下の向こうからやってくる侍女の姿が見えると、彼女は敢然と貴婦人の微笑みを浮かべた。
「くだらぬ!なにもかも」
 聞こぬように心の叫び声をつぶやいて、すれ違った侍女に爽やかに笑いかる。
 そして、優雅な足取りで廊下を歩きだした。つりあがった眉と、ゆがんだ口許はどうしようもなかったが。

「キルティスさま、なんだかお顔の色が悪いようですわ」
 いつものサロンで、オードレリン伯夫人が声をかけてきたが、当のキルティスはぼんやりとして、ただそちらに目を向けただけだった。
「ああ……」
 力なく笑いかけたキルティスを、夫人は心配そうに見つめた。
「目がお赤いようですけど」
「ああ、昨日はほとんど眠れなくてね」
「まあ。なにかお考えごとでも?」
「うん、そう」
 適当に返事をすると、彼はまた広間中を見回した。
 しかし何べん見ても、彼の探す相手はまだやって来てはおらぬようだった。落胆したようにため息をつく。
 いつの間にか、エルメガルド伯夫人とクリセンテも、二人の近くに寄って来た。婦人たちは、今まで見たこともない彼の様子を見て、心配したように両手を組み合わせながら、かといって、話しかけることもできぬ雰囲気に、ただ黙って見守っているしかなかった。
 ここ最近では、頻繁に起こっていた恐ろしい殺人の噂もまったく聞かなくなり、サロンでの人々の話題も。もうそのことはほとんどのぼらなくなっていた。
 人々は事件のことなどはもう遠い昔に追いやったかのように、また楽しく酒を飲み交わし、目当ての婦人にダンスを申し込み、談笑し、その日その日を優雅で無益に暮らすという、彼らの日常を過ごしはじめていた。
 こうした人々は、常に新たな話題や噂の種をなにかにつけ探していた。なので、サロンに集う婦人たちの間では、近頃のキルティスについての話題が、ここのところよく持ち上がっていた。この素性の分からない美青年が、このごろはいったいどうしたことか、彼に似合わぬような憂鬱な空気をまとっていて、もしや詰まらぬ恋にでも落ちたのではないか、というようなことが、一部の婦人たち、多くは彼の崇拝者の間で広まっていた。
 常にお洒落で、女性に対してはやわらかな物腰とユーモアを忘れない。どんなにその口で愛を語り、ロマンチックな言葉の後で甘やかなキスを交わそうと、彼は最後の部分ではきっぱりと一線を引いて、悪くいえばのらりくらりと女性たちを渡り歩いていたようなところがあったのだ。それこそが彼の魅力でもあり、決して誰か一人の婦人にとらわれたり、熱を上げすぎて恋の醜態をさらすということがなかったからこそ、彼はこれまでの間、ずっとサロンの婦人たちの共通の憧憬の対象として君臨していたのである。
 そんな彼が変わりつつある。婦人たちは密かにそう囁き合った。
 しかも、彼が想うその相手というのは、ついふた月たらず前に突然サロンに現れた、得体の知れぬ小娘であるらしいと。貴婦人らしい優雅さや、華やかさのかけらもないそんな娘が、いったいどうして彼の愛を得たのだろうかと、婦人たち歯噛みした。彼に近しい夫人たち、オードレリン伯夫人やマルガレーテなどは、彼にかぎってたった一人の相手、それもまだ色気も艶もない田舎娘などに、まさか本心から恋心を寄せることなどはないだろうと、信じていたようであった。たしかに、今日までは。
 広間の扉が開き、当の噂の本人であるシャルラインの姿が見えると、サロンの婦人たちは誰もがさっと振り返った。
「あの、みなさん……ごきげんよう」
 なにも知らぬ彼女が、刺々しい空気に気押された様子でおどおどと挨拶をし、広間に入ってくると、それに気づいたキルティスがいきなり立ち上がった。
 周りの婦人たちが固唾を呑んで見守るなか、彼はそんな視線などにはおかまいなしで、大股でシャルラインの方に歩いていった。楽隊のワルツと人々のざわめきをよそに、彼はシャルラインの手を取った。
「こっちに来て」
 キルティスは半ば強引に、来たばかりの彼女を広間の外に連れ出した。揃って二人が出ていくと、広間にいた婦人たちは今の一幕について、一斉にこそこそと囁き合うのだった。

 庭園の奥にある月桂樹の迷路に入るやいなや、キルティスは彼女の腕を掴んだまま、心に決めたことを言った。シャルラインは驚きの声を上げた。
「どう?」
「でも……そんな」
 困ったように目をそらしたシャルラインの手を握りしめ、キルティスは顔を近づけた。
「君は、僕が嫌い?僕とじゃいやかい?」
「あの……いいえ、嫌などでは。でも……」
 なんと答えたらよいのか、おそらく分からなかったのだろう。そのまま黙ってしまった彼女を見て、キルティスは少し声をやわらげた。
「そりゃ、こんなこと、突然だし、驚くのは分かってる。でも……僕はもう決めたんだ」
「キルティス様……」
 シャルラインは困ったように、思い詰めた目の彼を見上げた。
「ねえ、シャルライン。もう一度言って。僕のことが少しでも、好き?」
 こくりと、小さくうなずく。
「それなら……それなら、僕と一緒に来てくれるだろう?」
 彼女は下を向き、ほとんど泣きだしそうな顔をした。キルティスは黙ったまま返事を待った。
 緊張に引きつったキルティスの顔を、そっと見上げ、やがて、彼女はまた小さくうなずいた。
「そうか。よかった!」
 まるで恋人からプロポーズを承諾してもらったように、彼はぱっと顔を輝かせた。
「うれしいよ。ああ……よかった」
 キルティスは子供のように喜びながら、シャルラインの両手を取って振り回した。
「ああ、それじゃあね……、本当はいますぐにでも行きたいんだけど、そうもいかないだろうし、君にだってさ、いろいろと準備があるだろうからね。そうだな……それじゃ、明後日。明後日の午後、待ち合わせよう。いいかい?場所は、そう、君がこの前連れていってくれた、あの秘密の花畑でどう?」
「……はい」
「よし、決まった。それじゃ、明後日!」
 彼女の手に何度もキスをし、うきうきとしてキルティスは言った。
「ああ……でも君が分かってくれて本当に良かった。もし、そうでなかったら僕は……」
 キルティスは、こみ上げてきた思いにはちきれんばかりの笑顔で、シャルラインを抱き寄せていた。
「うれしいよ。シャルライン。君と二人で行けるなんて。よかった。ああ……もういいんだ。もう、なにもかも……これで、いいんだ」
 生きる希望に満ちあふれるように目を輝かせ、彼は恋人をしっかりとその手に抱きしめた。シャルラインは、そんなキルティスの背中に、そっと手を回した。




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