ケブネカイゼ 4/10ページ


 //ケブネカイゼ//


 夕鐘が六回の音を鳴りおえる前に、キルティスは門の外で待っていた馬車に乗り込んでいた。
「急いでくれ」
 日が沈みゆき、暗さを増してゆく西の空を窓から見ながら、馬車は大通りを進んだ。
 左手に王城の影を見ながらゆるやかな丘をのぼると、このあたりは貴族の中でも相当地位のある権力者たちの屋敷が点在する高台である。しばらくゆくと、見事な青屋根と石造りの白壁をもつ三階建ての屋敷が見えた。馬車は、その屋敷の正面の扉の前を通りすぎ、緑の芝が広がる広大な庭園をぐるりと周った。
「もうここでいい」
 御者に命じると、馬車は屋敷の裏門の前に静かに止まった。
 キルティスは馬車から飛び下りた。大股で石段を上り、屋敷の裏口の扉の前に立つと、いきなり二度、扉を乱暴に蹴り付けた。
 しばらくして、ガチャンと内側から錠が外れる音がした。彼は扉を開け、屋敷に入った。
「お帰りなさいませ」
「ふん。馬車までよこしておいて。今日もずっと見張っていたのだろうな」
 彼を迎えた背の高い無表情の男……無言で頭を下げるその男、リュプリックに一瞥をやり、キルティスは大股で歩きだした。
「旦那様がお待ちでございます」
「分かっている。とっとと部屋に侍女をよこせ」
 吐き捨てるように言い残し、彼は絨毯が敷きつめられた長い廊下を歩いていった。
 宝石のちりばめられた巨大なシャンデリアがつり下がる玄関ホールを抜け、階段を上る。二階の廊下の壁にも様々な絵画や、置物、それに銀製の燭台などがずらりと飾られて、花の形の飾り窓、絨毯の模様ひとつとっても、すべてに繊細な意匠が凝らされている。
 彼は、その見事な絨毯の敷かれた廊下を強く踏みつけるようにしながら、大股で歩いていった。飾られた絵画や彫刻などには一瞬でも関心をしめす気配もなく、廊下の端まで来ると、乱暴に扉を押し開いた。
 そこは、高貴な貴婦人の住まうような一室だった。
 見事なひじ掛け椅子に金細工が施された飾り棚、天蓋付きの見事なベッドが置かれ、壁には神話をモチーフにした美しいタペストリが飾られている。
 金銀細工が散りばめられた長持ちの上に乱暴に上着を放ると、彼はそのままベッドに大の字になった。足を振ってブーツを脱ぎ捨てる。
 しばらくぼんやりと天井を見つめていると、扉がノックされた。彼は舌打ちすると、面倒くさそうに起き上がった。
「ちょっとお待ち」
 後ろに束ねた髪をほどきながら扉を開けると、若い侍女が立っていた。
「失礼いたします」
「お入り」
「お、お帰りなさいませ。ケブネカイゼさま」
 その瞬間、彼は強く相手の頬を打った。悲鳴を上げる侍女を睨み付ける。
「僕はまだ、キルティスだ。間違えるな」
「は、はい。もうしわけ……ありません」
 侍女は怯えたように頭を下げた。
「はやく扉をしめて」
「は、はい」
「お前は、まだ新入りのようだね」
「あ、はい。今日で二週めになります」
「そう。まあいい。少し待っていて。これが終わってから、着替えを手伝ってもらうから」
「かしこまりました」
 乱暴に髪をかき上げ、キルティスは鏡台の前に座った。一つ息を吸い込むと、ぐっと唇を結び、鏡を覗き込む。
「……」
 そばに侍女がいることも忘れ、しばらく鏡の中の自分を食い入るように見つめる。それから、鏡台の引き出しから櫛を取り出すと、そばに置かれた小さな瓶から、とろりとした透明な液体を櫛に振りかけた。つんとした、少しきつい匂いが部屋に漂う。それに顔をしかめながら、彼は髪をとかし始めた。
 少したつと、その効果が現れた。侍女がはっと息を呑む。
 キルティスはまた液体を櫛につけると、髪をとかし続けた。茶色だった髪から、徐々に色が落ちてゆく。丁寧に髪をくしけずり、そのたびに櫛に液体を含ませるのを繰り返す。
「水を」
「は、はいっ」
 命じられて、侍女は部屋の隅にある水瓶を急いで持ってきた。櫛を水で洗い、それで馴染ませるようにまた髪をとかす。やがて、たらいの水は茶色の染料で濁っていった。
 ほとんど半刻以上もかかって、ようやくキルティスは櫛を置いた。侍女に髪を拭かせると、そこには、見紛うばかりの……輝くような金髪があった。侍女に髪にカールを巻き付けさせながら、今度は引き出しから化粧道具を取り出す。顔に白粉を塗り、頬紅をさし、繊細な手つきでアイシャドウをしてゆくうちに、だんだんと彼の顔から表情が消えていった。
「まあ、こんなものでいいかな」    
 しばらくののち、鏡に映っていたのは、もはや男性のそれではなかった。それは亜麻色がかった金髪の、妖艶な美女の姿であった。
「よし。それでは着替えを」
「はい」
 顔はすでに美しい貴婦人のものだったが、彼が着ていたのは、男物のチュニックにズボンであった。なんともアンバランスで滑稽ではあったが、その様子にはどこか倒錯的な妖しさがあった。キルティスがおもむろに服を脱ぎ捨てると、そこにあったのは女性が使うコルセットの様な下着だった。それを胸元までぐるぐると巻かれた布で、きつく覆っている。
「後ろのボタンをはずして。コルセットも全部とってくれる」
「かしこまりました」
 コルセットが足元に落ち、彼は一糸まとわぬ姿になった。侍女がかすかなため息を上げる。
 白い裸体……ふくよかに突き出した乳房に、引き締まったウエスト、丸い尻の線……それは見事なプロポーションをした、女性の肉体に違いなかった。
「寒いから。早く下着をおよこし」
「は、はい。申し訳ありません」
 侍女はいそいそと、手にしていた真新しいシュミーズを、その体に着せていった。
「ペティコートもした方がいいのかな?」
「そうですね。でも、あの、もしこのままお寝床に入られるのなら、なしでもよろしいかと」
 それにうなずき、胴着を着ると、彼……いや、彼女は、大きな長持ちを開け、いくつかの女性もののローブを取り出した。
「さて、どれがいいかな」
 色とりどりの豪奢な服を、テーブルの上に放り投げてゆく。高価なケルメス染めのサテンのドレス、金糸を縫い込んだダマスク織りの胴着や、ビロードの長スカート、真珠の縫い込まれた絹のドレスや、今流行の模様の入った黒ビロードのローブなど、およそ高級婦人の着そうな衣装がすべて揃っていた。
「どうせすぐに脱いでしまうんだから。着るのに楽なのがいいんだけど。お前……名前はなんていうのだっけ?」
「はい。メリサです」
「よし。じゃあメリサ。今日の衣装はお前に任せるから、適当に選んで着せてくれる?なるべく面倒じゃないやつを」
「はい。かしこまりました」
 侍女はさっそく服を選び始めた。
「では、これでよろしゅうございますか?」
「うん。いいよ。苦しくもないし」
 そうして、鏡の前に立っていたのは、豪奢な衣装に身をまとった美貌の貴婦人だった。
「よくお似合いです」
「ふん。べつに似合わなくてもかまいはしないのだけど」
 侍女が選んだ薄い紫色の胴着にワイン色のローブは、まばゆいほどの金髪によく似合った。ほんの少し前まで、キルティスと呼ばれていた男性の姿は、すでにどこにもなかった。
「あの……ケ、ケブネカイゼ様」
 おそるおそる侍女が声をかける。
「ああ、ありがとう。メリサ」
 紅の塗られた唇で薄く微笑む、「彼女」の顔は驚くほど穏やかだった。侍女は、はっと打たれたように立ちすくんだ。
「いい仕立てだね。この色の合わせも気に入ったよ。また次も……お前に頼めるかな?」
「は、はい」
 少しして、部屋の扉が叩かれ、「旦那様がお待ちでおられます」と、無機質な声が告げた。彼女の顔から笑みが消えた。
「すぐにゆきます、とお伝えを」
「かしこまりました」
「リュプリック」
 扉を開け、早足で去って行く後ろ姿へ声をかける。廊下の先で男が振り返った。
「なんでしょう?ケブネカイゼ様」
「いや……なんでもない。侯爵閣下によしなにと」
 それにうなずくでもなく、無表情のまま男はまた早足で歩きだした。
 侍女のメリサに礼をいい、彼女も部屋を出た。三階へ上がり、その部屋の扉をノックする。
「失礼いたします」
 扉を開けると、そこは広く豪勢な部屋だった。
 彫刻の入った大きなテーブルと、ゆったりとしたひじ掛け椅子がいくつか置かれ、壁際には高価そうなタペストリや彫刻、裸婦を描いた絵画などが、惜しげもなく飾られている。部屋の奥には、大きな天蓋付きの寝台が陣取り、この広大かつ絢爛たる部屋が、ただの一個人の寝室であることを誇らかに物語っていた。
「どうしたのだ?そんなところで突っ立って。こちらにおいで、ケブネカイゼよ」
 ひじ掛け椅子から男が立ち上がった。
 背が高く、がっしりとした体格。年齢は四十を過ぎたあたりだろう。たっぷりと黒い髭をたくわえた、精悍な顔つきで、全身から威圧感を放つような傲慢な空気が漂う。これが彼女の夫、ロイベルト侯爵であった。
 うながされると、彼女はローブの裾をひきずりながら、のろのろと部屋に入った。
「待ちかねたぞ。ケブネカイゼ」
「申し訳、ありません」
 侯爵は刺すような目つきで、あたかもおのれの持ち物を品評するようにこちらを見て、満足そうに笑うと、金の杯にワインを注ぎ足した。
「うむ。いつもながら美しいな。いや、今日はとくにだ。今宵は、久しぶりに夫婦のいとなみを交わそうぞ」
 こみ上げてくる嫌悪感に耐えながら、彼女はなすすべもなくそこに立っていた。
「脱げ」
 侯爵は、引きずるようにして彼女を寝台に投げ出し、命じた。
「……」
 一瞬唇を噛みしめたが、彼女は素直に従った。ローブをすべりおとし、侍女が丁寧に着せてくれた胴着を脱いでいる間、侯爵は息荒く自分の服を脱ぎ捨てた。
「早くしろ。久しぶりに抱いてやろうというのだぞ。わしを待たせるな」
 彼女が下着姿になると、侯爵はいきなり覆いかぶさってきた。重たい体にのしかかられ、無意識に抵抗をしたが、それが相手をよけいに興奮させたのか、侯爵は太い腕で手首を押さえつけると、強引に唇を重ねてきた。
「う……」
 強い酒の匂いに思わず呻く。そのまま乱暴に下着をはぎ取ると、侯爵はまだなにも整わない体に乱暴に押し入ってきた。
「いいぞ、ケブネカイゼ……」
 寝台の上で動物のような荒い息が上がり、押し殺した悲鳴にも似た喘ぎが、それにまじる。
 侯爵が強く腰を打ちつける度に、彼女は苦痛の悲鳴を上げた。
「く……」
 自分に突き入れられる男のものも、のしかかってくる毛深い体も、その匂いも、すべては彼女にとっては死ぬほどの憎悪をもたらす対象だった。男のうめき声に耳を塞ぎたくなり、唇に口づけをされると、耐えがたい吐き気をもよおす。
 この地獄の時間が早く過ぎること、彼女にとっての望みはただそれだけだった。
 一段と男が大きく呻く。それに合わせて色めいた声を上げてやれば、侯爵が早く果てることを彼女は知っていた。
 男が体をのけぞらせる。叫ぶような呻き声を上げ、体の上に倒れこんでくる。その男の頭を抱えるようにしながら、彼女の目はまるで氷のようだった。
 蔑みに満ちたまなざしで相手を見やり、赤く塗られた唇を広げて微笑む。それが彼女の唯一のなぐさめだった。
 激しい性交の後、侯爵は寝台に大の字になり、耳障りな寝息をたてはじめる。暗がりにつつまれた部屋には、男のいびき声だけが聞こえていた。
 むくりと、彼女は寝台で起き上がった。寝ている男の顔を真上から見下ろす。
「はは、ふ、ふふ……」
 その口から、苦痛の喘ぎとも、高ぶりの笑いともつかぬ声がもれる。
 突き出した両手を、眠っている男の首もとに近づける。その額には汗がつたい、血走った目を恐ろしいほどに見開いて。
「殺した……はは」
 ひどくしわがれた、まるで別人のような声が、その唇からもれた。
「また、殺した……ふふ。くくく……」
 大きく息を吐き、両手をだらりと下ろすと、寝息を立てる男の顔に目をやり、彼女は囁いた。
「お前は知るまいな。こうして、お前に抱かれるたびに、その後で、私が心の中で、千回もお前を殺していることを……」
 何かの衝動に動かされるように、彼女は寝台から下り、床に落ちたローブを羽織ると、暗がりの中でも夜目がきくような確かな足取りで部屋を出た。
 廊下は暗く、静まり返っていた。侍女も下男たちも、とうに寝静まっている時刻だろう。ローブを引きずる音に起きてくる者はいない。
 自室に戻ると、彼女は扉に鍵をかけた。ローブを脱ぎ捨て寝台に上がると、そこにあった枕をじっと睨み付けた。まるで、それが侯爵の顔であるかのように思えるまで。
 やがて、彼女の目は見開かれ、その口から荒い息が漏れだした。枕の下に手を入れて、そこから取り出したものを両手にかざす。
 それは鋭く尖った短剣だった。それを握りしめると、全ての憎悪をこめるように、彼女は枕の上に突き刺した。短剣がぐさりと刺さり、布が破れ、中の羽毛がこぼれた。
「ふっ……」
 彼女は笑みを浮かべ、つづけざまに二度、三度と短剣を振り下ろす。声も出さず、彼女はそうして自分の枕を殺し続けた。誰かに聞かれてはならない。声を押し殺し憎しみを吐き出すやり方を、彼女は長い年月をかけて訓練していた。
「くっ……くくく、ふ」
 息をつきながら、彼女はかすれた声で笑った。押し殺したその笑いは、いつまでも暗い室内に響いていた。
「キルティス様、旦那様がお待ちです」
 屋敷の裏口を開けると、執事のリュプリックが無表情で立っていた。サロンから戻るなりそう告げられることは珍しいことではなかったが、彼は不満げに相手を睨み付けた。
「なんだって?つい三日前に呼ばれたばかりだぞ」
「はい。今宵も部屋にお越しになるようとのことです」
「くそっ、なんだってんだ。だって以前は多くても月に一度だったろうに」
 吐き捨てるような口調で言い、唇を噛みしめる。そんなキルティスを前に、男は石のようなまなざしで、まったく表情を変えることもなく言った。
「一刻ほどの後にお部屋に呼びにうかがいますが、お食事はとられますか」
「あたりまえだ」
「では後ほど」
 丁重に礼をして回廊を去ってゆく背中を睨み付けながら、キルティスは舌打ちをした。床を踏みならし、いらいらとして頭をかきむしった。
 食事のあと、部屋に侍女のメリサを呼び、化粧と着替えを手伝わせる間も、キルティスは普段よりもいっそう不機嫌な顔をしていた。そんな主人の様子を察してか、侍女はよけいなことは何も言わず、髪をくしけずるのを黙々と手伝い、すみやかに服を選んでいった。
 出来上がった美貌の貴婦人を、侍女はうっとりと見つめていたが、当の本人はただ、むっつりと口を引き結んだままだった。
「じゃあ行ってくるが、部屋はこのまま片づけなくてもいい。それから屋敷の裏口の鍵は開けておくよう頼んでおいてもらえるかな」
「裏口ですか?はい。分かりました」
 少しして執事が扉を叩いた。
「私が逃げ出さないようにということか?」
 前に立って廊下を歩きながら、リュプリックは、「めっそうもない」と一言だけ言った。
 侯爵の寝室をノックすると、「早く入れ」と、いらだったような声がした。彼女はぎゅっと眉を寄せ、まるでこれから拷問にさらされる魔女のように、自虐的な笑みを浮かべた。
 今日の侯爵はひどく機嫌が悪かった。
 彼女が部屋に入るなり、一言も発せず着ている服を引き裂かんばかりにして脱がせると、乱暴に乳房に歯を立ててきた。それを少しでも嫌がると、容赦なく顔を平手で殴られ、太い指で首を締めつけられた。凶暴そうにぎらついた侯爵の目つきは、「お前はわしの妻なのだからな。わしの言うとおりにすればいいのだ」と、言ってでもいるようだった。
「どうした?悲鳴は上げないのか。少しくらい声を上げた方が、わしは嬉しいのだがな」
 体ごとのしかかるようにして、侯爵は言った。
「ここのところ他の妻にも少々飽きてきてな。またしばらくはお前の方を可愛がりたくなった。いままでは月に何度かしか抱いてやれなかったが、今日はたっぷりとしてやるからな」
 その言葉に従順そうにうなずいてみせるが、内心ではまったくありがたくなどなかった。むしろ嫌悪感に失神しそうなほどであった。
(くそったれ。なんてことだ。いままでは月にいっぺんの災厄だと思って我慢していたのに。この地獄が何度も訪れるくらいなら、いっそ死んだほうがマシだな)
 男が欲望をみなぎらせた顔つきで押し入ってくると、彼女は苦痛の喘ぎをもらした。
「うっ……く」
(私に……触るな)
 苦痛と嫌悪感とに耐えながら、彼女は心の中で叫びつづけた。
(触るな。離れろ……失せろ。この、ブタめ)
(このっ、ブタめ!)
 その目から涙が溢れた。
 侯爵の責めのような行為は、果てしがないほど続いた。押し殺した悲鳴を彼女がもらすたび、怒鳴り声とともに頬を打たれ、そして涙が飛び散った。
「ふう……うっ、う……」
(死ね……このブタ。死んでしまえ)
 気が遠くなるほどの苦痛に包まれながら、彼女をかろうじて保たせていたものは、自分を犯すその男に対する強烈な憎悪だった。
(そうやって、お前は私の中の女を殺しつづければいい)
 自分の上で獣のように腰を振るその男の顔を、心に沸き起こる憎しみと屈辱の中で、彼女はは見つめていた。
(お前は……そうやって私を、殺しつづける)
(お前が殺したのだ……私の中には、もう……女などいない)
 頭の中が痺れるほどの憎悪。
(女など……どこにもいない!)
 肉体の苦痛すらも忘れたように、彼女は口の端をつり上げていた。
(ははは……お前は知るまいな)
(私の中に……これほどの憎悪と狂気とがひそんでいることを)
 快楽に酔いしれる侯爵の、その醜く歪んだ顔を見ながら、彼女はアルカイックな笑いを浮かべた。それは、静かな、何かを突き抜けた、最後の憎しみの形だった。
(あのとき……そうだ。あのときも)
(まだ十二歳だった私を、お前は……お前は……!)
 その決して忘れえぬ記憶を脳裏によぎらせるとき、侯爵に抱かれる間に必ず訪れる、そのときが、彼女の憎悪が肉体に勝利する一瞬であった。
(もうそのときから、私のなかの女は死んでいる)
(それを知らぬままで、お前はそうしてまだ私を抱くのか。この……人でなしめ)
(はは、は……)
 狂うほどの憎悪に、彼女の体が震える。
「ああ、またいくぞ、ケブネカイゼ」
「……ああ、あなた」
 男が強く体を押しつけてきたのを感じ、彼女は仮面の表情を浮かべて甘く囁いてやる。
(さっさと終われ……)
 獣のような叫びをとともに、侯爵の体が反り返った。何度かびくんびくんと体を震わせ、毛むくじゃらの重い体が彼女の上にのしかかった。
(うえ……気色悪い)
 すぐにでも体を洗いたくてしかたがないが、侯爵が寝息を立てはじめるまで待たなくてはならない。これ以上殴られたら、今日はさすがに体が持ちそうにない。
(ちくしょう。今日は年に一度の最低の日だ)
 廊下を這うようにして自室にたどり着き、寝台に倒れ込むと、彼女は苦痛に顔をしかめた。
「いつ……いたた。くそ……こんなにしやがって、くそ」
 下腹部がずきずきと痛んだ。これではしばらくはまともに歩けそうもない。
「ちくしょう……ああ。ちくしょう」
 せめて濡れた布で体を拭こうと、なんとか立ち上がる。鏡の前に来ると、そこに映る自分を見て、思わず笑いがこみ上げた。
「はは……なんてザマだ」
 髪はぼさぼざで、殴られた頬は赤く腫れ上がり、目には涙の跡。破られてぼろぼろの服をかろうじてまとっている、その自分の姿を前にして、また泣きたくなってくる。
「うう……いつつ……、それにしてもひどくやりやがってあの大ザルめ。豚野郎め」
 水瓶に布をひたし、それを頬に当てる。それから体を拭くと多少でも楽になった。しかし下腹部には激しい行為を示すように、血がにじんでいた。
「今日はね……これから、ちょっと大変かもしれないぞ」
 自分の中で黒い憎悪の炎が沸き上がってくるのを、彼女はまるで快感のように感じていた。
 枕の下に隠した短剣を取り出し、
「体はきついけどね。でもやらなきゃどうにも気が済まないな、今夜はどうしても……」
 その剣先をじっと眺めながら、彼女は静かにつぶやいた。

 夜半をとうに過ぎた、人通りのほとんどない石畳の道を、彼女……ケブネカイゼはよろよろと歩いていた。そこにちょうど一台の馬車が通り掛かった。
「ああ、大丈夫ですか?あなた」
 道端に倒れこむ彼女を見て、馬車から降りてきた男が心配そうに駆け寄った。
「しっかりしなさい」
「ああ……すみません。私……」
 彼女は薄く目を開け、男を見た。彼女を抱きかかえていたのは、品のよいグレーの外套に身を包んだ若い男だった。
「大丈夫ですか?こんな時間にどうしました」
「あの……少し胸が苦しくて」
 起き上がろうとして男にしなだれかかり、うまいぐあいに相手の首筋に吐息をもらす。亜麻色がかった金髪が男の顔をくすぐると、相手の目つきに欲望の色が灯るのが分かった。
「ああ、すみません。私……」
 彼女は、男を見上げてそっと微笑んだ。
「こんな夜に、あなたのような方が一人で……なにか訳でもおありですか?」
「はい。実は……私、屋敷を追い出されて来たのです」
 彼女は殴られて赤くなったままの頬を押さえて見せた。
「それは、大変な。お父上か誰かに、叱られたのですか?」
「ええ。そうなんです。義父はいつも私にひどく当たるのです。それで行くところがなくて……、こうして道を彷徨っていました」
 ていのいい嘘にも、男は気の毒そうにうなずいた。
「ああ。それではとにかく私の屋敷にゆきましょう。ここにいては凍えてしまう」
 うっすらと微笑んで、彼女は男の胸に身を投げた。
(今日はこいつにするか……)
 馬車に乗せられると、彼女は男に寄り掛かりながら薄く目を開け、懐の短剣に手を置いた。

 ぴしゅっ、と音をたて、男の首から鮮血が吹き出した。ケブネカイゼは、ふっと息をついた。
「ま、多少はすっきりしたな」
 屋敷に着いて部屋に案内されるとすぐに、男は彼女に抱きついてきた。無論そうなるように誘ったのだが、侯爵によってさんざん責め苛まれた後だけに、これはいつもよりも肉体的につらいものになった。彼女は、水壺をとるふりをして起き上がり、隠し持った短剣で男の胸を突き、さらに片手で口を押さえて喉元を掻き切ったのだった。
「はっ、やはりどいつもこいつも男は同じだな。女と寝てしまえば、あとはすっきりとしたまぬけづらでいびきをかきはじめる。馬鹿だねぇ」
 どこの誰とも知れぬ男の死に顔を見下ろし、彼女は残忍に微笑んだ。血まみれの男の体はまだびくびくと震えている。
「さて……うっつ……。さすがに無茶したかな」
 痺れるような下腹部の痛みに顔をしかめながら、彼女は寝台から降りようとしかけた。
 そのとたんに腕をつかまれた。
「うわっ」
 思わず悲鳴を上げて振り向くと、血にまみれた男が上体を起こし、腕にしがみついていた。
「な……、まだ死んでないのか。は、離せ」
 男は血を吐きながら、何かを叫ぶようにごぼごぼと口を開けていた。
「くそっ。さっさと死ね!」
 手にしていた短剣で男を切りつけるが、血にすべってなかなか刺さらない。
「ご……う、ごああ」
 男は断末魔の声を上げ、どさりと寝台にくずれ落ちた。あっけにとられてその場に居すくんでいた彼女は、動かなくなった男の手をもぎ離した。
「まったく……驚かせやがって」
 どきどきする心臓を抑えながら、急いで服を着る。短剣の血をシーツで拭うと、死体の残った部屋から出ようとした。そのとき、扉の外から声がした。
「どうかされましたか?オラフ様。お声が聞こえたようですが」
 そして強いノックの音。
「オラフ様。なにかあったのでございますか?開けますよ。よろしいですね」
 あわてて扉から離れると、彼女は部屋を見回した。窓に駆け寄り下を見下ろす。ここは二階であった。一瞬ためらったのちに、彼女は窓枠を乗り越え、そこから飛び下りた。
 幸い、降りたところは芝生の上だったが、足と腰がひどく痛んだ。
「う……」
 後ろを見上げると、さっきの部屋には明かりが灯されていた。
「誰か……誰か!オラフ様が……ああっ」
 侍女らしき女の悲鳴。その叫びを聞きつけ、屋敷の他の部屋にも次々に明かりが灯ってゆく。にわかに、慌ただしい気配が広がってゆくのが分かった。
 足を引きずるように、彼女は歩きだした。下半身の痛みは思ったよりもひどく、一歩進むごとに激痛に眉をしかめる。一刻も早くこの場を逃げなくてはならない。歯を食いしばり、額に汗をかきながら、彼女はよろよろと歩きつづけた。
「くそ……今日は、本当にひどい日だな」
 自嘲気味につぶやく。痛みのせいで頭がぼうっとしてくる。
 門の手前まで来て、とうとう彼女は膝をついた。後ろを振り返ると、いくつも松明の明かりが見えた。ここにいてはすぐに見つかってしまうだろう。なんとか痛みを堪えて立ち上がり、再び歩きだそうとよろめいた。
「待て。そこの者、何者だ」
 背後から呼び止められた。屋敷の人間だろう。松明の明かりがこちらに向かって来る。こんなことなら庭園の木立にでも隠れるのだったかと、彼女は後悔した。
「くそ……」
 走ろうとしても、もう体がいうことをきかない。おそらく捕まれば、ただちに尋問され、調べられ、自分が何者であるかなどすぐに知れてしまうだろう。そして、キルティスのことも。その正体がロイベルト侯爵夫人ケブネカイゼであることも。
(ふふ……そうなると、市中引回しか、絞首刑でさらし者になるか……)
(まあ……それもいいか。もう、こんなこともしなくてすむ)
 麻痺してくるような頭のなかで、彼女は破滅について考えた。
(いっそ、もうお終いにしてやろうかな……)
 おぼつかない足取りで門の外まで出たものの、これ以上は歩けそうもない。足腰はもう感覚を失い、下腹部の痛みは耐えがたかった。背後からは、松明を手にした男たちが近づいてくる。
(さて……、これで終わりだ。何もかも)
 ふっと微笑むと、彼女は目を閉じてその場に崩れ込んだ。 
 そのとき、だった。
「おい、しっかりしろ!」
 誰かの声が、馬蹄の音とともに聞こえた。
「こっちだ。つかまれ!」
 馬上から差し出された手が、闇のなかに浮かんだ。
 これはなんだろう。ぼんやりとした頭で彼女は考えた。
「何をしている。おい、早くしろ!」
(ああ……わかったよ。うるさいな)
 仕方なく手を伸ばすと、がっしりとした手が自分の腕を引き寄せた。
 掛け声とともに馬がいなないた。
 自分を抱き上げたのは誰なのか。彼女にはもうそれもどうでもよかった。 
 追手の怒鳴り声や、うごめく松明の火が、しだいに小さくなり、やがて消えた。





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